「寝台急行銀河号」最後の旅立ち2008/3/16日公開)

 2008314日夜、「寝台急行銀河号」の最後の旅立ちを見送る為に東京駅へ行ってきた。残念ながら最終「銀河号」に乗る願いは叶わなかった。

 

 

 「銀河号」最終出発日の314日(金)と、その翌日の315日(土)について記す事にする。

主なテーマは、

指定券を求めて…

東京駅で最後の見送り 

 

 

 

2008314日(金)…「寝台急行銀河号」最後の旅立ち

 314日(金)は絶対に定時に仕事を切り上げられるように先週から周囲と調整していた。

 この日は定時に仕事を終え、職場の最寄のJR駅のみどりの窓口へ向かった。ここへはキャンセル待ちをお願いしていたが、キャンセル待ちの期間中もこの日も最終「銀河号」のきっぷを入手できなかった。

 発車当日の空席を手に入れるには、縁と運とタイミングである。何らかの事情で乗車できなくなった人が指定券を手放す可能性があるのだ。最終日の「あさかぜ号」や「出雲号」でさえも当日に空席が出たそうな。

 次に、近所の旅行会社へ行ってみた。申込用紙に「寝台急行 銀河」と書き込むのもこの日が最後となる。「「銀河」も今夜で最終ですね。」と言われた。ここでもきっぷを入手できなかった。

 その次に、近所のいつもの旅行会社へ行ってみた。新人さんは「銀河号」に乗りたかったらしいが、先日私から聞くまで「銀河号」が廃止になるとは知らなかったようである。今夜見に行こうかな…、などという話も出てきた。ここでもきっぷを入手できなかった。帰り際、「銀河号」について長年お世話になった美人の○○さんにもお礼を言っておいた。彼女も今朝からずっと私の為に「銀河号」を検索してくれていたらしい。

 この夜は単に「銀河号」を見送りたいだけではない。できれば乗りたいのだ。そのようなわけで、一度帰宅してシャワーも浴びて出発できる荷物を整えてから出かける事にしたのである。なお、東京駅では激しく動き回る事が予測できたので、荷物は通勤鞄に収まる程度に留めておいた。

 

 2140分頃の新宿駅でもきっぷを入手できなかった。

 22時頃に東京駅に着いた。中央線ホームから見えた9番線10番線ホームは、一目でわかる程の賑わいであった。 この時は横須賀線に遅延が発生する程度の激しい雨であったが、「銀河号」目当てに多くの人が集まっていた。警備員も多くいた。

 東京駅で再度窓口へ向かったが、やはりここでもきっぷを入手できなかった。

 

 

  「銀河号」が入線する2223分までの間も、人々は思い思いに過ごしていた。

プラットホーム階段下にて 「寝台急行 2300 銀河 大阪 8両」 の表示に群がる人々

 

プラットホームにて 「寝台急行 2300 銀河 大阪 8両」 の表示に群がる人々

 

 

 報道関係者も多く、今夜乗車する乗客へのインタビューもやっていた。

 なお、記念グッズは夕方5時で売り切れたそうだ。

 

 

 いよいよ2223分、品川方面から「寝台急行列車 銀河号」の入線である。ちょうどこの頃、大阪駅では2222分に最終の「寝台急行列車 銀河号 9102レ」が発車する。

 9101列車入線との業務放送が入った。

 

「一体、何の騒ぎなのだろう?」といった表情で新橋方面を振り向く東北新幹線の乗客達

 

 EF65-1114を先頭に青い車列がやってきた。編成は、特殊な装飾は無く、いつもどおりのきれいなブルートレインであった。

 

 先頭に立つ機関車は、EF65-1114…この車両は、今回の「銀河号」廃止に伴って廃車対象となる。

 カニ24-11(テープ帯)オロネ24-102(白帯)、オハネフ25-133(テープ帯)、オハネ25-158(ステンレス帯)、オハネ25-196(テープ帯)オハネ25-251(テープ帯)、オハネフ25-131(テープ帯)オハネ25-160(テープ帯)、オハネフ25-132(テープ帯)

 

 列車の先頭近くは近寄れないほどの人だかりであった。カニ24-11のところでは激しい怒号罵声が飛び交っていたが、事故は起こらなかったようである。

 

 「銀河 大阪」の表示は大人気であった。この写真に写りこんでいる手は、若い女性である。老若男女関係無く、多くの人々が最終の「銀河号」を見送る為に集まっていたのだ。

 

 この日のトレインマークの撮影は困難を極めた。前述のとおり、カニ24には近づけなかったし、最後尾のオハネフ25といえども、どんなにがんばってもこれ以上近づく事はできなかった。

 

 発車10分前との案内が入った。転売目的で指定券を買い込んだ連中が指定券を手放しているかもしれないので、もう一度窓口へと向かった。やはり「銀河号」に乗る事はできなかった。

 

2300分 寝台急行列車銀河号…東京駅発車

 いよいよ発車の段になり、歓声と拍手が沸き起こった。私はその瞬間をオロネ24-102の側で見守った。思い出の車両であるオロネ24-102にもう一度だけ触れておこうかと思ったのだが、その時にはすでに物理的に困難な状況にあった。私の足元には人がいるし、私と車両の間には警備員さんがいる。オロネ24-102と私との距離は1mも無いわけだが、「銀河号」はすでに手が届かないところにあるのである。

 「長笛一声」・・・歓声と拍手がひときわ大きくなった。・・・・・・目の前がかすんできた。

 「寝台急行銀河号」は万雷の拍手と歓声の中、東京駅10番線を後にした。

 

EF65が定期運用に就く旅客列車よ、さようなら。

東京駅に発着する24系定期旅客列車よ、さようなら。

「寝台急行列車 銀河号」よ、さようなら。

 

 

 

 「寝台急行銀河号」を見送った後、私は品川駅を経由して帰宅した。品川駅において「銀河」の表示を記録したかったからである。品川駅ではすでにダイヤ改正後の時刻表が掲示されており、当然ながら「銀河」の文字を見つける事はできなかった。「本当に終わったんだなぁ」という思いがさらに強くなった。

 

 

 

 

乗車体験記をここで紹介

 乗車体験記をここに抜粋しておこう。なお、乗車体験記に限らず鉄道雑感のコーナーなどでも「銀河号」についての熱い思いを語ってきた。

 

  A寝台車

オロネ24-103 上段 (20034月乗車) 

…「銀河号」の歴史について軽く触れている。

オロネ24-102 下段 (200412月乗車)

オロネ24-6 上段 (20078月乗車)

 

  B寝台車

オハネ25上段(20044月乗車)

オハネ25下段(20045月乗車)2004/5/5公開)

オハネ25下段(200612月乗車)2007/1/20公開)

新幹線に乗り遅れて「寝台急行銀河号」に乗車 (200710月乗車)

…「新幹線に乗り遅れて」という表現は故意に行った。この頃はまだ「銀河号」の廃止が発表されておらず、「銀河号」を実用列車として必要としている乗客がいるという事を世に知らしめたいという意図があったのだ。

廃止が発表された後の乗車 (20081月乗車)

…これが最後の乗車になってしまった。

 

 上記に公開している以外にも乗っているのだが、公開している乗車記録だけ並べておく。

 

 

 

2008315日(土)

 

★★報道★★

 7時前に目覚めた。先週の土日は休日出勤だったので、目覚まし時計の土曜日の設定を解除していなかったのだ。この時間、9102レはすでに東京に到着しているが、前夜見送った9101レは京阪間を走行中である。パソコンを起動させ、テレビを点けた。ここ数日、なぜか巨大掲示板が見られなくてリアルタイムの情報を得る事ができなかった。

 テレビでは複数の局が「銀河号」の特集をやっているではないか。それらによると前夜の東京駅には「銀河号」目当ての人々が約2,000人も集まったらしい。金曜の深夜で集まりやすかったという理由があるにせよ、20052月末の「あさかぜ号」・「さくら号」最終日の約1,000人をも大幅に上回る盛り上がりだったようである。 

 それにしても、2005年の「寝台特急あさかぜ号」の廃止と、今般の「寝台急行銀河号」の廃止は、多くの一般人にも知れ渡るぐらい大きく報じられた。このダイヤ改正では「寝台特急あかつき号」・「寝台特急なは号」も姿を消し、関西発着の九州ブルートレインが全廃されるという大きな出来事もあったわけだが、ここが東京だからなのかは知れないが、両寝台特急の事よりも「急行銀河号」の事ばかりが報じられていた。さすがに「寝台急行銀河号」は日本経済の中心である東海道メガロポリスを約60年間の長きにわたって走り続けてきた伝統の名列車という事もあり、その存在感は絶大なのだろう。ちなみに、「銀河号」は最も長く続いた列車名称でもあるのだ。

 

 

★★「銀河号」についての思いを追記★★

 

 世の中には“ハレ”と“ケ”という発想がある。言葉の細かい定義に立ち入る気は無いが、判りやすく言うと前者が“日常を超越した特別”であり、後者が“普通程度”と言ったところだ。私にとっては東京-大阪間の移動にも“ハレ”と“ケ”があり、「寝台急行銀河号」は一貫して“ハレ”であり続けた。大人になってからでも乗る前には緊張したものであった。また、中学生の頃は、「新幹線のグリーン車」には乗れても「寝台急行銀河号のA寝台車」は畏れ多くて乗る事ができなかったぐらいであった。A寝台料金は東京-新大阪間の新幹線グリーン料金の2倍の水準なので、中学生の私にはかなりの覚悟を要したのであった。

 「快速ムーンライトながら号」は青春18きっぷで何度も乗っているし、特に列車としておもしろいわけでもない。また、新幹線は普通車であれグリーン車であれ、もはや子供の頃のようなときめきが感じられるものではない。「寝台急行銀河号」が無くなった今、東海道が一気につまらなくなった。「寝台急行銀河号」はお金と時間がかかる故に、東京-大阪間における本当の意味での心理的物理的距離を実感できたと私は思う。それがいい事なのか悪い事なのかは、賛否両論であろう。ところで、過去の乗車記録を見てみた。東京-大阪間の移動手段としては、「ひかり号」に次いで「銀河号」には相当数乗っている。「寝台急行銀河号」の利用頻度に対する後悔のような念はほとんど無い。

 

 

 かつて、「寝台特急」が「ブルートレイン」と呼ばれ、「寝台車付きの急行」が「ブルーエキスプレス」と呼ばれた時代があった。その当時、ほとんどの夜行急行の寝台車は10系であったが、「銀河号」のように特急のお古の20系を使っていた列車は「ブルーエキスプレス」の中でもエリートとされた。やがて時は行き過ぎ、10系も20系も運用を離脱すると、寝台客車といえば特急用として誕生した14系と24系だけになった。また、夜行の急行自体も少なくなり、「ブルーエキスプレス」という言葉は見られなくなった。「銀河号」は急行列車としては常に格上の車両で運転されてきたのである。私は198712月に初めて「寝台急行銀河号」に乗車したが、この頃にはすでに24系になっていた。私にとっては、EF65-1000が牽引する24系こそが「銀河号」の姿なのである。最後まで24系であり続けてくれた事がうれしかった。

 

 

 

 さようなら東海道の巨星、名列車「寝台急行銀河号」。

 

 

 

トップページ 鉄道雑感 メール