純粋芸術論
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 この芸術論に「純粋芸術」なるものを信奉するものは期待しないでいただきたい。私はいわゆる、芸術のための芸術、l'art pour l'art なるものの存在自体を否定する者だからである。


                                                 

 私はなぜこれを書くか。それは多くの人が芸術という言葉に幻惑されているからである。単に幻惑されるばかりではない。芸術という誤った観念が流布することによって、芸術のために生きるという、ありもしないことに惑わされて「芸術家」を志し、多くの若者が、あたら有意義であるべき人生を浪費することがあるからである。

 芸術という言葉は美しい。それゆえに糊口をしのぐだけの仕事に就くよりは、芸術のために一生を過ごしたいと思うのである。だが彼らの言う芸術とは本当にあるのだろうか。それを書きたいと思う。

 二葉亭四迷は小説「平凡」で「文学の毒にあてられた者は必ず終に自分も文学に染めねば止まぬ。」と書いた。多くの若者は純粋芸術の毒にあてられた。そして人生を棒にふった。何を隠そう私自身も二十歳頃までは純粋芸術論者であった。それを打ち壊してくれたのが、オーブリー・ビアズリー、竹久夢二、そして廃刊となった平凡パンチの表紙をかざった大橋歩さんだった。

 彼らは世俗で大衆に好評を博した。しかし美術史には登場し得ないのである。それは彼らが純粋芸術の理念とはほど遠く、世俗のニーズに迎合したからである。私の評価は逆転した。世俗のニーズこそが芸術の力の源泉ではないかと。そして芸大を出て日展の「先生」となる者は何者かと。

 素直に見るが良い。日展の絵画のどこが面白いのか。なぜ彼等は何百時間も労力を費やしてあのようなつまらぬ物を描くのか。それは日展という権威にすがるからである。権威を否定する者が最も権威にすがるのである。私は単に自分に素直になったのに過ぎない。

 漱石は言った。
最後の権威は自己にあり、と。評価は自らするものである。そのためには自らの評価の眼力を高めねばならない。だからこの言葉は傲慢なのではない。自己に厳しいのだ。しかし眼力が低かろうと評価は自らしか成しえない。どうあがいても評価の権威は自分にしかない。現代の芸術の評価は大衆が行う。CDが売れる、映画の興行が記録を作る。全ての評価は大衆がする。そんな世俗を軽蔑して日展の選考委員にこびるものは芸術の毒にあてられた者である。あたら貴重な青春を浪費するがよい。

 私はビアズリー、竹久夢二、大橋歩さんで覚醒したといった。三人に共通しているのは、一世を風靡した芸術家であるにもかかわらず、美術史には登場しないということである。そして三人とも画家と呼ばれずに、イラストレーターと呼ばれたことである。せいぜい挿絵画家と呼ばれたことである。

 私は日展をはじめとする、国内の有名な展覧会を見た。三人と異なるのは何か。日展の画家は日展にしかいない。しかしかの三人は世間にいる。大衆の中にいる。日展の画家は選考委員の審査によって選ばれる。選考委員の中にしかいない。三人はいかに技量を誉められようと、大衆の好みに合わなければ放逐される。

 実際にどちらが面白いか。かく素直に考えたときにどうしても疑問が止まなかったのである。展覧会のために描く絵に何の価値があるのだろうか。聞けば無名の画家では、日展の当選回数と画の大きさ、つまり何号かで、市場価格が決まるという。権威が価格を決めるのである。

 私の知人に日展の小先生がいる。小先生は大先生についていって日展に入選する。大先生は年寄りだからまもなく死んでしまう。する小先生は日展に落選する。だから人の忠告に従って、別の大先生につくと入選する。これは芸術家が最も嫌っているはずの権威主義である。

 浮世絵を想ってみよう。浮世絵は今でこそ美術館や展覧会でしか見ることができない。だが彼等は美術館や展覧会に飾られるために描いたのではない。日展の小先生が最初から展覧会を目的にしていたのとは異なるのである。浮世絵は大衆社会の中に存在した。それは三人の作品とおなじである。

 ビアズリーは印刷技術の進展に追いつく前に若死にした。カラー印刷とグラデーション印刷の技術が鑑賞にたえるようになる前に死んだ。竹久夢二と大橋歩さんは様式化の極限を追及したために、様式の進化に失敗して最後には大衆に敗北した。大橋歩さんの場合はハンドメイドのイラストレーションの全盛を生きた幸せな最後の一人であろう。

 林静一や宇野彰といった、今でも、浮世絵もどきを演じて細々と生きている者より幸せだったのであろう。何よりも大衆に敗北したのは芸術家としてはいたしかたない。近代芸術の評価を決めるのはそれ以前の時代と異なり、ひとにぎりの粋人ではなく大衆だからである。

 浮世絵は洋画を導入したために、本来の大衆美術という原点を忘れたために、ライバルの写真や印刷技術の登場する前に滅びた。浮世絵は絵画を学問と同じ普遍文化と誤解して西洋から導入した純粋芸術という観念に滅ぼされたのである。美術史に入れてもらえない竹久夢二やビアズリーといった人たちから、私は芸術とは何かと考えさせられたのである。

 それをはっきりさせるというのもひとつの理由である。以上に述べたことは動機の半分以下に過ぎない。本当は絵画を呪詛しているのだ。何ゆえに絵画を呪詛するかここには充分書き得ない。もちろん私は伎癢を感じているのではない。そもそも伎癢というのは技芸を持っている者の弁だからだ。

 本当のことを少しく言おう。私は女性の絵画に純愛を抱いたのである。つまり絵画こそが女性の美を捕まえることができると思い込んだのである。純愛とは矛盾である。純愛は男女の欲望を忌避する。純愛は男女の関係の対極にある。しかし純愛の存在は実は普通の男女の関係が一方に存在することが必要である。忌避するものの存在が対極にあってこそ純愛は存在する。だから矛盾するというのだ。

 いわば純愛は恋愛の変態である。変態は変質者の意ではない。変態を変質者と間違えるとは教養のお里が知れるというものだ。たしかに絵画が女性の美を捕まえることができるというのは、私にとっての女性の美はそのようなもののはずであった。美を獲得する唯一の手段が絵画であると思い込んだのである。

 美しい女性を描くことができれば私は女性の美を自らの手で獲得することができると思い込んだのであった。女性の美に強い関心を持つ男は珍しくはない。しかし、それが絵画で獲得できると考えた者は尋常ではない。
だがそれは事実ではなかった。確かにかつては絵画は女性の美を手に入れる唯一の手段だった。しかし写真の登場と技術的進歩によって事態は一変した。奇妙に思うかも知れないが事実である。

 写真の発達は絵画をその座から駆逐したのである。現代の悲しい現実は写真こそが女性の美を手にすることができる手段であるということだった。しかも絵画は写真によって映像芸術の主力の座を駆逐されているという、現在の芸術の状況の現実があった。それを悟ったとき私の絵画に対する純愛は崩壊した。私は絵画に幻想を抱き続けていたのに過ぎない。だから私は絵画を呪詛する。だから芸術論を書きたいと思う。



目次

1章 総論
1.1 純粋芸術の淵源
1.2 芸術の定義
(1)純粋芸術は存在しない
(2)芸術の制作コスト
(3)レンブラントの衝撃
(4)ドリアン・グレーの肖像
(5)芸術と猥褻
(6)芸術大学とは何か
 (7) 芸術は目的に基づく分野であって結果ではない

1.3 優れた芸術とは結果に過ぎない
1.4 芸術分野
(1)絵画
(2)文学
(3)小説
(4)音楽
(5)写真
(6)芸術分野の盛衰

1.5 作家
(1)小説家
(2)画家
(3)作家のピーク
(4)作家は職業である

1.6 芸術と社会的要請
 (1) 芸術と社会的要請
 (2) 伝統芸能の保護
 (3) 伝統継承のふたつの意味

1.7 芸術と技術
(1)技術の進歩と芸術
(2)表現の自由度と技術の進歩


1.8 芸術と形式
(1)作家の目標は表現の形式を作ることである
(2)芸術作品と形式

1.9 建築の芸術性
(1)建築と芸術
(2)建築は芸術か
  
2章 複製芸術論

2.1 複製芸術
2.2 2種類の複製芸術
2.3  何が本物か
2.4 ビアズリーの場合

3章 絵画
3.1 絵画の原点
3.2 絵画の技法と表現
3.3 デッサン
(1)デッサンは見たままの再現ではない
(2)デッサンとデフォルメ
(3)日本画にデッサンはいらない


3.4 絵画と技術の発達
(1)エアブラシ
(2)写真が絵画を滅ぼした
(3)写真の影響による絵画の表現の広がり
(4)浮世絵は高度な印刷技術

(5)浮世絵の天才
(6)
何故浮世絵の美人は同じ顔なのか

3.5 意識せざる詐欺師ピカソ
(1)ピカソに対する盲信
(2)ピカソの具象画

3.6 展覧会絵画の愚

3.7 仏教美術

3.8 絵画は自己完結しない芸術

3.9 写真と絵画
(1)絵画は写真より劣る
(2)写真家にも得意分野はある

3.10 絵画にも言語がある

3.11 絵画の価値と投資価値

4章 文学
4.1 文学と思想

4.2 文学はなぜ思想を語る

4.3 文学を滅ぼしたものがある

4.4 二葉亭四迷の場合

4.5 文学と翻訳

4.6 文学の現代的存在
(1)文学賞とは
(2)ヒットしない文学
(3)文学賞とは2

5章 音楽
5.1 音楽は幸せである
5.2 音楽における作家は誰か
 5.3 音楽の逸脱

6章 漫画あるいはアニメあるいはフィギュア
6.1 漫画とアニメ
6.2 フィギュア

7章 コンピュータグラフィック
7.1 コンピュータグラフィック

7.2 コンピュータグラフィックが視覚芸術の主流となる条件

7.3 コンピュータグラフィックと油彩の相似性

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