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7章 コンピュータグラフィック
.1 コンピュータグラフィック
 絵画も写真もアニメーションも越えるものとしてコンピュータグラフィック(CG)が登場した。CGは新しい技術の常として様々な難点を持っているが解決されるのにはまだ時間がかかる。以下に問題点も併せて説明するが、どれも当面の問題であって永久に付随するものは少ないだろう。

 CGは原則としてパソコン画面で再現することを前提としているのが、単なる絵画と異なる。絵画や写真は複製芸術であっても印刷物などにすることを前提としている。しかしCGの場合には、映画に使用される場合を除けば、ブラウン管ないし液晶画面で再生するのが本来の姿である。従って色や形などのあらゆる要素は液晶画面等に再生したときを想定して決定される。

 そして液晶やブラウン管画面で再生することから、動画に容易に発展する。現在のCGの最大の難点は、データ作成に多大の労力を要するということであろう。それも人物、樹木などのパーツを一度作れば容易に展開して姿を変えて使用できる。当面、労力の問題は需要の大きさで解決するしかない。つまり労力がかかっても、需要があってそれなりの対価が期待されれば何の問題もないのである。

 CGはゲームソフト用としても直接使用されるが、これは芸術の範疇かどうか不分明である。過去の建造物の再現や完成予想のパースなども広く使われているが、これも論理性が最重要なので芸術の範疇に属さない。芸術の範疇に属するのはCGの人物をあたかも人格を持った人間のようにアイドルを作っているものやCGアニメ、映画などに使われるものであろう。

 またテレビのタイトルバックにも動画として使用されている。他には春画と同様なものがマニアの間で作られている様子があることである。これはいずれアニメーションのそれに取って代わる。平成5年の時点ではCGは一種のデザインとして使用されていたが、容量と処理能力の向上により細密な表現が可能になり人物のCGが発達した。

 CGは十九世紀の絵画に相当するシェアをしめることはないであろうが、多様な用途があることから芸術の重要な一角を占めることは間違いない。

 CGは通常の絵画のセンスの他にパソコンを扱うという特殊能力を必要とすることから特別視するかもしれないが、新しい技術を駆使するにはそれなりの新しい能力を必要とするのは当然である。

 その代わり作家は筆という重石から解放される。CGは印刷とは異なる手段によるものだが、複製芸術のひとつである。


7.2 コンピュータグラフィックが視覚芸術の主流となる条件
 コンピュータグラフィックの未来は、当然ながらそのニーズにある。それではコンピュータグラフィックの存在価値とは何か。現在のコンピュータグラフィックは急激にリアリティーをましている。作家もリアリティーを追及しているように思われる。するとそれは限りなく写真に近づいている。

 するとコンピュータグラフィックの存在価値のひとつは、写真では再現できない画像の作成ということとなる。すなわち現在存在しないものの画像の作成である。すでに存在しない過去のもの、過去に写真が撮られていないものである。また未来に生まれるあるいは作られると予想されるもののリアル感のある画像である。現在の時点のものでは架空の人物や生物、建造物などであろう。


 現在作成されているCGを見てみよう。過去とはピラミッドなどの過去の有名な建造物、軍用機など現在存在しない軍事関係のもの、歴史的映像、あるいは既に滅びた恐竜などである。未来は将来の人類の発達、人類が滅びた後の未来の生物の映像なども作られている。現在の架空のものとは架空のキャラクターや建物の完成後の三次元パースである。

 このような必要性が存在する限りCGは存在できる。しかしものごとはそう単純ではない。CGの基となる三次元のデータが作成できればそれは容易に動画となる。むしろ動画として使用しなければ、データ作成の労力はもったいないくらいなものである。するとCGは画像に止まらなくなる。

 絵画が一枚の画の労力を省略することによって、多数の画の組み合わせで漫画やアニメとなったより、容易に動画に転換できる。データがあれば省略することなく動画にできる。ただしコンピュータの記憶容量があればであるが。


 このようにして技術の進歩により世間の隅に追いやられた絵画は、コンピュータ技術の進化により拡大して蘇生したのである。
CGは絵画である。しかし絵画の蘇生はそれだけでは充分ではない。CGの場合は自然風景の場合は写真にはかなうまい。かなう分野は宇宙の風景といった特殊な場面であろう。

 
一般的には、建造物や機械といった人造物あるいは人間といったキャラクターであろう。前述のようにデータ作成に非常な労力を必要とするという、現在のCGの最大の欠点を緩和できるのは動画による映画である。これについては後述する。

 現在
CGアイドルが喧伝されている。これが映画以外の希望のひとつである。今のところこの希望の綱は見る限り細い。音楽のようにメジャーな存在となることは少ないと思われる。しかし何が起こるか分からない。特異な才能がCGをメジャーな存在とすることもなきとはいえない。

7.3 コンピュータグラフィックと油彩の相似性
 ここではCGと油彩を比較するために、CGを静止画だけに限定して論ずることにする。油彩のひとつの機能は何か。例えばダビンチの「最後の晩餐」である。この作品が実際の光景をスケッチして描いたものではないことはもちろんである。聖書の一節から想像により描いたものである。

 つまり油彩にはかつてあったものをリアルに再現するという機能がある。これは写真にはない機能である。
一般には写実画は実物を模したとされている。しかし実物を模したのと写生したのとは必ずしも同一とは限らない。

 過去にあったできごとや光景、あるいは神話の一光景を再現するために、モデルによる写生を合成するという手法が使われる。CGにも類似の手法が使われる。例えばCGのアイドルなるものが合成されている。これは単なる作者の空想の産物ではない。


 多数のモデルの顔写真を参照してデータを作成し、架空のアイドルのCGを合成して創造する。衣服も同様で実物の写真を参照する。漫画が作家の持つ過去のイメージから空想することが多く、実際の風景や人物を参照することをあまりせずに描いていくのとはやや異なる。これはCGや油彩が漫画に比べて細密であるため、詳細なデータを必要とすることによる。CGは機能ばかりではなく、製作過程にも類似性がある。

もうひとつの類似性は細密さである。油彩は重ね塗りの隠蔽効果が強く、削り取ることができるため、修正が容易であるため細密な表現が可能である。修正が容易で細密な表現が可能であるという点はCGも同じである。これらの類似性はCGも油彩も制作に労力がかかるという共通性も生み出す。

 
相違点はCGがデータ保存が可能であるため、いくらでも複写できるという有利な特性を持つことである。水彩などの他の描画法に対する油彩の特徴をも持つCGは、コンピュータを利用するという特徴を付加していることによって大きな可能性がある。CGの未来はこの可能性にある。

7.4 CGアニメの未来
 現在の映画では全てCGという作品もあるが、実写とされる映画の場合でもCGが一部で使用されていることが増えている。CGではなくても実写の写真を画像処理しているケースは多い。一部にCGを使う場合には実物を入手できない、恐竜などの部分に使われる場合がある。
 
これはかつて着ぐるみや模型などで行っていた特殊撮影の代用である。以上のケースは全てCGが現実にないものを再現でき、写真のようにリアル感があるという静止画のCGと同じ特性を活かしたものだが、CGアニメと同様に一度労力をかけたデータを繰り返し使えると言う点でCGの最大の欠点を緩和している。

 また実写に一部アニメもどきのキャラクターを入れる場合がある。もうひとつは全面的にCGによるCGアニメである。特にCGアニメの場合はデータの作成に多大な労力がかかるという欠点がある程度克服されている。そもそもアニメは動画を作るため多数の動画をトレースする必要があるから多くの手間がかかったのである。

 しかしCGアニメの困難は単にデータ作成にあるのではない。CGアニメの「画風」の問題である。現在の手書きアニメの老舗は圧倒的に日本である。日本のアニメの特徴は平面的な表現と線描である。元来アニメーションの初期はほとんどそのようなものであった。それは動画にする過程での技術的な問題によるものであった。

 複雑な表現をアニメにする技術もその労力に対する対価を支払うだけのニーズがなかったのである。アニメが映画の一分野として定着し、技術も向上すると複雑な表現が可能になる。西欧のアニメと日本のアニメを比較すると明瞭な違いは、西欧のアニメはたとえ線描を基本としても、洋画のデッサンを基礎とする立体的な表現であることである。

 
日本のアニメは劇画と呼ばれる比較的立体的な画像を使用したものでも、西洋のものに比べればかなり平面的である。日本製の西洋アニメ風な作品は一部である。だがこのような日本の主流のアニメはCGに向かないのである。宮崎駿のアニメをCGにはできないのである。

 西欧のCGアニメは線描ではない。しかも立体を基本としている。これならば最初に三次元のデータを入力しておけば、これを自由に動かせるからアニメができるのである。だが、世界では日本のアニメが主流であるように、このようなアニメは、はっきりいって魅力がない。

 CG
アニメの未来はこのような条件で魅力的な画像を作ることができるか否かにかかっている。あるいは日本の主流のアニメでCGを使えるようにできるかである。この困難を克服するのは日本のアニメ業界の仕事のように思われる。

 脱線するが日本のアニメ自体の問題に移る。宮崎駿のような一部の漫画家の作品の場合を除き、原作の漫画とアニメでは人物等は明らかに異なる。つまり漫画のアニメ化は元の漫画を忠実に動くようにしたものではない。元の漫画の画風が良いから期待するとがっかりすることが多い。

 
これはDVDなどのパッケージを見れば分かるのだが。これも対価の問題であり、漫画家がアニメの原画をほとんど描かないという問題ではないようである。つまり宮崎駿のように売れっ子で継続的にヒット作品を出す漫画家の場合、宮崎駿もどきの原画を書ける専属の漫画家がいるのだろう。

 だがほとんどの場合そのようなことはできないから、どこかのアニメーション会社が雇った漫画家が画風の違う何人もの漫画家のアニメの原画を描くのであろう。それで子供向けアニメや美少女ものあるいは劇画、SFなどのジャンル別に似たようなアニメができて個性がない。まだアニメは漫画に比べて漫画家の魅力的な個性を活かしたものは少ない。

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