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6章 漫画あるいはアニメあるいはフィギュア

6.1 漫画とアニメ
 アニメとはアニメーション、つまり動画の略称である。漫画は複数の画で構成した物語を語るものである。物語はストーリーであり4コマ漫画のようなものから長編まで含まれる。シリアスな劇画と呼ばれるものからコミックと呼ばれるものも全て漫画の範疇であることとする。

 一般に映画が小説の可視化であると考えられるのに対して、漫画はオリジナルの物語が基本であると考えられる。映画が小説の可視化であるといったのは、映画は小説を映像化したものしかないという意味ではない。

 映画は小説の表す物語をよりリアルな形、文字を映像にしようとしたものであるということである。漫画でも小説の漫画化したものはあるが、実在のスポーツヒーロー物語の漫画化と同様に例外である。

 必ずしも漫画が物語の可視化ではないのは、絵画という手法が写真技術よりはるかに古く、文字以前からあるであるためでもあろう。漫画の画の手法は日本では比較的単純な線描が主流であり、多くの場合普通の絵画を多数並べたものではない。絵画とは画の形式が異なるともいえる。しかし西欧の漫画はアニメも含めて、線描ではあるものの西欧絵画のデッサンに似ているものが多いという特徴がある。

 一方アニメーションは間違いなく漫画の動画化、すなわち動く漫画がルーツである。そこでアニメは漫画以上に画を描く労力が減るように簡素化した形式となっている。多くの場合は原作の漫画を動くようにしたものであるにもかかわらず、オリジナルの漫画とは若干異なるキャラクター表現となっている。これは多数の人数による共同作業であるために、漫画のオリジナリティーが失われるためである。

 動くことの他に漫画とアニメの違いと言えば、アニメがカラーを原則とするのに対して、印刷コストの関係から漫画は未だに白黒が原則である。漫画とアニメはこのように動くことを除けば未だに相似である。

 そこでまとめて漫画で構成を説明する。漫画は画と物語で構成される。従ってその質の良否は画と物語の両方の良し悪しで評価される。実際には一人で両方を造るのではなく、画の作家と物語の作家が分業化しているものすらある。漫画が良質であるあるいは人気がある、といった場合には必ずしも両方が優れているとは限らない。

 ゴルゴ13のようにシリアスなものの場合には物語が良質であることが絶対条件で、画の質は表情や武器の表現がリアルであるといった条件さえ満たせば、画は波程度の水準であれば良いという場合が多い。これに対してコミックでは画で見せるキャラクターが重視されるためにストーリーはありさえすればよい、といった極端なものにさえ人気が集まるものがある。

 結論を言おう。漫画とアニメは芸術であるか。漫画で芸術といえないものは、きわめて例外である。例外を発見することすら困難である。それは漫画はボタニカルアートのような識別機能、建築のような居住機能といった機能性を持ち得ないからである。

 多くの知識人は小説より漫画を軽蔑する。それは小説の方が抽象的で知的であると考えられているからである。漫画ばかり読んで本を読まないと馬鹿になるという評価もある。いい年をして電車の中で漫画を広げているのはみっともないということも言われる。社会的評価を考えた場合にこれらの指摘の多くは当たっているのであろう。

 しかし芸術としての評価は別である。第一に芸術の分野として小説と漫画に高低の差はない。比較し得ないのである。だが作品の良否となると別である。小説が全盛であった時代はいざ知らず、現代日本においては小説で良質なものは数の上で例外であり、漫画の方が良質なものが多いとさえ言えるのである。

6.2 フィギュア
 フィギュアとはプラスチックなどを素材とした人形である。一部は現実のアイドルを立体化したものもあるが、ほとんどが漫画なりアニメのキャラクターを立体化したものである。漫画から分化したものがアニメとフィギュアである。この項にフィギュアを持ってきたのはそのためである。

 アイドルを実体化したフィギュアが主流とならないのは作品に精彩がないという明白な理由からである。これに対してアニメのフィギュアは、架空のものであるにもかかわらず「リアル」で良質なものがある。これが人気がある理由である。

 これは一見不思議なことである。実際に存在するもののフィギュアにリアリティーがなく、架空のアニメのキャラクターにリアリティーがある。しかしこれは事実である。少なくとも当分日本ではこのような状況が続くと考えられる。アニメのキャラクターにリアリティーがあるのはデフォルメのためであろう。あらゆる視覚芸術は何らかのデフォルメがある。おかしいと思われるだろうが、写真にもデフォルメはある。デフォルメは作品に精彩を与える。

 アイドルのフィギュアのデフォルメは限界が厳しい。これに対してアニメのキャラクターはそもそも実際の人間のデフォルメの産物である。同じフィギュアである以上並列に並べられる。精彩のないほうに人気がないのは当然である。もう一つの理由はアニメのキャラクターに実物がないことである。アニメのキャラクターは映像しか存在しない。ところがフィギュアはそれを実体化した唯一のものである。
 人気があるのは当然である。人気はニーズを生む。ニーズがあれば才能ある作家が集まる。才能ある作家が集まれば良い作品が生まれる確率が高くなる。良い作品は人気を博す。こうしてフィギュア市場は活気を呈するのである。アニメの本場日本でフィギュアが隆盛であるのは当然である。

 欧米におけるフィギュアの歴史は知られないほど古いが、日本におけるフィギュアの歴史は、少なくとも表の世界に出たのは30年ほどのないと思われる。これは日本のアニメがメジャーになり始めたのと、アニメのキャラクターにフィギュアに適したものが登場したことが原因である。私の知る限り初期のアニメキャラクターでフィギュアに適したのは、「うる星やつら」の「ラムちゃん」だろう。

 いわゆるオタクは普通男である。男である以上人気アニメのキャラクターは女である。フィギュアが登場したのは人気アニメの魅力ある、特に容姿が魅力ある、女性キャラクターが登場したからである。アニメもフィギュアも日展の絵画より健全である。

 日展の絵画は展覧会の委員にしか求められていない。アニメもフィギュアも大衆に自然に求められている。従って健全である。平成18年の秋、上野の日展に行った。開会直後の土曜だというのに人だかりで見るに困るということはなかった。

 同日同じ東京都美術館のエルミタージュ美術館展は入場制限がされていた。秋葉原のラジオ会館のフィギュア売り場は盛況である。芸術に関する限り大衆は正しい。フィギュアの最大かつ重大な欠点は、制作方法と制作の労力すなわち価格と作り手の問題であろう。簡便なものは量産のフィギュアを購入することである。

 これは労力がかかっていないだけ質が悪い。キットを作るとなれば手間がかかり、品質は購入者自身の技量による。購入者自身も作家の列に加わる。優れた作家の完成品は数もなく高いから、一般に流通しにくい。

 それでも最近は量産品が流通するようになった。この量産された完成品は一体1万円近くする高価なものだが、品質も向上している。印刷による芸術や音楽に比べると、このようなハンディキャップがある。フィギュアが特殊世界であるひとつの原因である。ここまでくればフィギュアが芸術かという議論はしなくてもいいだろう。


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