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3章 絵画
3.1 絵画の原点
 物事は平凡である。絵画の原点は見たものを忠実に再現することにある。これは写真が発明された動機と同じである。人が見たものを忠実に再現して記録することの必要性は二つある。第一はある風景など眼前の映像に感動したなどの動機で、これを記録保存したいという個人的なものである。第二はある画像を記録して、その画像を見たことのない人にも同じ画像を認識させる必要性がある場合である。

 前者は個人的な趣味の領域である。後者は人にも同じものを見せたいという前者と同じく個人的に純粋な欲求の場合と、社会的必要性があって同じものを表現したいという場合がある。社会的動機の場合にも背後に、個人的欲求が隠されていることもある。

 これら全てに共通するのは見たものをできるだけ忠実に再現するということである。絵画は見たこともないものあるいは実際に眼前の光景ではなく、いくつかの光景を組み合わせたもの、あるいは全くないものの画像などがある。


 だが絵画の素朴な出発点は見たものの再現にある。絵画の発達はそれに止まらず見ることのできないものを映像かするばかりでなく、抽象画のようにありえないもの、或いは肉眼で見た画像と何ら関係ないものまで生み出すに至った。
それでも絵画は見たものの再現であり、抽象画といえどもその延長で人間の思考から生まれたものである。抽象画といえども人間が映像から得る視覚的刺激を基礎にしたもの以外ではありえないからである。

3.2 絵画の技法と表現
 絵画の技法とは油彩、水彩、日本画等の区分である。現代の絵画にとって技法は表現の手段に過ぎない。ある画家が油彩にこだわる必要はない。表現の対象を的確に描くために適切な技法を選べばよい。勿論、ある画家の得意な技法があって、それに合わせた対象を選択するということもある。これは現代のわれわれの自由な立場である。

 しかしつい最近まで世界中がそうではなかった。18世紀を考えてみよう。日本では水墨画、狩野派のような日本画あるいは浮世絵である。これには立場により選択肢はない。自由な個人の立場からは宮本武蔵が描いたように、水墨画しかない。大名に出入りするお抱え絵師には狩野派風の日本画しかない。一般大衆を相手に絵画を販売しようと思ったら浮世絵しかない。

 西洋では油彩かリトグラフかといった選択肢しかない。王侯貴族のお抱え絵師ならなおさら油彩しかない。この時代には選択肢がないのである。選択肢がないのは皮肉ではなく本当は画家にとって幸せである。いや絵画にとっても幸せな時代だったから選択肢がないのである。選択肢がないのはお仕着せではない。自分たちの押し付けられた選択肢は自分たちの唯一絶対の権威であった。

 権威に安心してすがれる者は幸せであると言っているのである。当時絵画にとって絵画は絶対的権威であった。これにとってかわるものはなかったからである。西洋人はそれに飽き足らなかった。抽象観念好きの性格から印象派だとかいう流派を生み出して絵画の技法に意味づけをしはじめた。これは後世から見れば遊びである。しかし単なる遊びではない。科学技術が自らを脅かすかもしれないという漠然とした不安がそうさせたのである。

 不安は容易には現実とはならなかったために科学技術の発展とともに画家は何々派を発明しては遊び続けた。にほんではそのような恐れがないために、西欧の絵画技術が入ってくるまで単なる技巧の深化だけを続けた。そして西欧絵画の紹介とともに日本の技法は一挙に崩壊した。

 さて現代に帰ろう。現代の画家は描く目的によって技法を選択する自由を得た。表現の結果として得るものをイメージして技法を選択する自由を得た。不自由が幸せであるということは、自由とは不幸せである。絵画に安定した社会的地位が大きく失われたから、画家は自己の存在価値を何とか見出さなければならない。そのためには「自由に」技法を選択して存在を社会にアピールしなければならない。

 例えば写真から肖像画を作るという商売がある。客は重厚さ肖像画らしさを求めるから油彩でなければならない。雑誌や本の装丁には軽快さが求められるから、コラージュや水彩などの軽快な技法が求められる。画家は狭い市場の中から活路を見出すために、技法を活用して彷徨しなければならない。技法の選択の自由は絵画のあわれな現在を象徴している。

 私はこんなことだけ言いたいのではなかった。もっと客観的なことも言いたいのだった。例えば油彩と水彩とアクリル絵具の3つの素材がある。これらの素材による絵画は各々表現の結果が異なる。アクリル絵具ならば限りなく油彩に近づくけれども、やはり油彩ではない。水彩と油彩では表現の結果が明らかに異なる。また作品を仕上げる時間の長短にも相違がある。

 これはコストの問題である。時間がかかれば単価は上がる。安い単価を客先から要求されれば、コストのかかる油彩は選択しにくい。無理に油彩を選択すれば雑になる。雑になれば高くは売れない。悪循環である。日展の画家は権威で画を売る。権威で押し売りするから高く売れる。これはもはや芸術ではない。芸術家たる画家は安いコストと狭い市場に呻吟しなければならない。

 芸術家には存命中に権威はない。権威は後付けである。芸術家は権威で商売はできない。実力で商売しなければならない。現代の芸術家にもし権威があるとすれば、与えてくれるのは大衆の人気である。展覧会の審査員ではない。しかし現代絵画に大衆の人気が集まろうはずがない。芸術に対する大衆人気による権威も危険である。

 演歌歌手の北島三郎は大衆の人気により権威を得た。しかし権威の持続は堕落をもたらす。人気があるということでテレビには出られる。ところがヒット曲がなくてもテレビに出られる。これは大衆の権威がテレビ局ディレクターに対する権威にすり替わったのである。そして人気歌手に采配をふるえるという別な権威を身に付けると、その権威は確固たるものになるが、それはもはや大衆人気による権威ではない。

3.3 デッサン
(1)デッサンは見たままの再現ではない
 デッサンは対象の形状を正確に表現することが主眼であって、見たとおりに描くのではない。言葉の遊びではない。デッサンの初歩に使われる三角錐の石膏を例に取る。教科書はまず学生に対象が三角錐であることを確認させ、陰影を使って円形の断面であることがわかるように描くことを要求する。実際に光の当て方によってそのように見える場合もあるに違いないが、極めて希である。学生は現実に見ていない円錐を空想で補って立体感をつけなければならない。

 円筒形はごく単純なので分かりにくいかもしれない。富士山を例に取る。富士山の基本は円錐形である。これを表すのに西洋画はデッサンを基礎とするのであくまでも円錐形の立体感があるような形状を基礎として、これに詳細な凹凸をつける。北斎の富岳三十六景の富士山はほぼ完全な平面である。毎日富士山を見ていた私が言う。西洋画の富士山はグロテスクである。浮世絵の富士山の方が見たままに近い素直な表現である。

 実際は円筒形であってもそのようには見えていない。夕方旅客機が羽田に着陸する直前に逆光の中に富士山を見た。かなり小さかったが、周りの景色の中に突然紙を三角に切り抜いたような富士山が見えたのである。日本画の表現力がなぜすたれたか。これは西洋画を知ったからである。西洋画は対象の形を立体感をつけて正確に表現する。これを見たままと誤解したのである。

 そこで日本画は見たままを描いているということを忘れて、平面的に描くものだと誤解した。そういう無理な意識が日本画の表現力を低下させたのも一因である。日本画は見たままで、西洋画は無理に立体感をつけているという表現は必ずしも正しくはない。西洋の景色、人の顔をより正確に表現するためにはデッサンの基礎が有効である。日本のそれは浮世絵その他の日本の伝統的な絵画の手法が有効なのである。

 雪舟の伝説を
想起するとよい。雪舟が折檻されて足で書いたという鼠は本物そっくりで、今にも逃げ出しそうで皆を驚かせたという。当時の日本画の理想は写実であることを立証している。現在の日本人が雪舟の日本画に風雅を求めるのは、少なくとも同時代人にとっては見当違いである。いずれにしてもデッサンは見たままではない。

 西洋画を成り立たせるための1手法である。西洋人は科学技術を発展させたのと同じ論理的手法でデッサンというあたかも普遍的であるように誤解されるデッサンと呼ぶ手法を開発した。


(2)デッサンとデフォルメ
 絵画は全て見たままではない。それは絵画が道具を使った間接的な表現である以上対象と違ったものになる。一種の誇張となる。それが対象から離れるような誇張ではまずいので、より対象を的確に表現する方が良いのである。この誇張をデフォルメと呼ぶことにする。その意味では通常のデフォルメの概念と少し違う。

 デッサンを徹底的に修練した者はデッサンを基礎としたデフォルメの影響から逃れられない。その典型が油彩の教科書的技法を持つとされる小島●●である。小島の人物画は日本人を描いても西洋人風になっていることがわかる。(図●)
これではデッサンが対象の形状を正確に捉えるということからも離れてしまっている。

 ベーター佐藤の人物イラストレーション(図●)も同様な傾向がある。草刈正雄のようなハーフの顔になってしまうのである。恐らく本人たちはそれが目に慣れてしまって気が付いていない。
デッサンは正確に形状を捉えるといいながら、実際には西洋人の顔、西洋の風景を西洋人が見たままと感じられるように表現するのに適したデフォルメをなされているのがデッサンである。

(3)日本画にデッサンはいらない
 そう考えると日本画にデッサンは不要であるどころか悪影響を与えることになる。小島の描いたのは油彩である。従ってことは複雑である。油彩はもともと西洋で絵画に適した技法として用いられた。だからこれをそのまま日本に適用すること自体に問題があるのであってデッサン以前の問題である。いやデッサンは油彩の基礎として適したものなのである。

3.4 絵画と技術の発達
 前述のように芸術一般に技術が強く影響を与えたのは当然、技術の発達が絵画にも大きく影響を与えた。絵画の道具としてのエアブラシと印刷技術及び絵画に取って代わった写真である。写真については複製芸術論の項で述べることにする。

(1)エアブラシ
 エアブラシが絵画に用いられるようになった主な動機は必ずしも簡単に綺麗な絵画が制作できるからではない。芸術表現以前の塗りつぶすというだけならともかく、芸術の道具として用いるためには高度な技術を必要とする。絵筆のように直接的に表現できないので、使用した結果を予測して手順を踏むという習熟が必要である。

 それでもエアブラシが使用されるのは写真の影響である。筆跡を残さないグラデーションが比較的容易に得られるので、写真のようにリアルな絵画が制作できるのではないかという期待から使用され始めた。
だが使用機材が違う限り同一の結果は得られない。エアブラシはあたかもリアルであるという錯覚を抱かせる道具として、しかも筆とは異なる独自の特性の表現ができるものとして使用されている。

 エアブラシは筆を駆逐しはしない。だが筆にはない新しい表現ができる。現在では絵画の写真にない唯一最大の利点はありもしないもの映像を表現できるということである。例えば生きた恐竜を表現するのは絵画にしかできない。写真の場合、リアルな模型を作って撮影するという間接的な手段をとらなければならない。
 
 多数の写真を継続的にとるか動画に使用するのならともかく、数枚の写真の撮影では模型制作はひきあわない。このとき写真に匹敵する絵画を制作するのならエアブラシは最適な道具である。

(2)写真が絵画を滅ぼした
  画家にとって写真と絵画を比較されるのはいやなことであろう。あまりに低俗な行為だと見なされるだろう。だが事実として絵画の存在価値を圧倒的に低下させたのは写真である。写真以前は映像を保存する手段は写真と彫刻しかなかった。比較的手軽で風景まで表現できるのは絵画だけしかない。

 だから一面において写真は絵画の理想である。
肖像画にしても風景にしてもリアルな表現に近づくためには高度な技術を必要とする。レンブラントの人物画などは実物と本当に似ているかどうかは確証がないにしても、皮膚感が感じられるほどリアルである。

 それほどの高度な表現をするには膨大な工数を必要とする。それを支払うことができるのは王侯貴族だけである。それでも代替手段がない以上、仕方なかった。ところが写真の表現としての自由度が増えると絵画にとって代わることが可能となった
それでも絵画と写真とは比較すべきではないと主張する者に聞く。

 なぜ二十世紀になって絵画が凋落したのか。絵画がイラストレーションという片隅に追いやられたのをどう説明できるのか。
私は絵画と写真が同じだと言っているのではない。写真は絵画の持っている重要な機能の多くを代替できるため、多くの分野から絵画を駆逐してしまったという事実を言っているだけである。
 
 そればかりではない。写真は絵画より総合的に優れているとさえいえる。同じ程度の表現をするのに写真の方がはるかに労力を要しないということである。いや正確にはテクノロジーは過去の労力のかかる表現手段を簡単にして、常に発展させ続けたとさえ言える。

 古代の筆の発明、紙の発明、絵の具の発明、油絵具の発明、エアブラシの発明などは当時の人間にとって画期的なものだったはずである。後世の人がそれをわずかな進歩にしか過ぎないというのは、同時代の状況に対する想像力の欠如に過ぎない。

 現代における絵画が写真より優れている唯一最大の点とは、現実にないものを描けるということである。
現実にないというのは、単に存在し得ないばかりではなく、過去の写真がなかった時代の映像も再現できるということでもある。更に最近ではカラー写真のない時代をカラーで再現できるということもある。

 これらの点を最大限に生かしているのがプラスチックモデルの箱絵である。箱絵は中身の商品のイメージの宣伝である。従って中身よりも箱絵に惹かれて買ってしまうということがあるほど重要なものである。そこで一流会社は箱絵の作家に高級を支払う。

 プラスチックモデルは大部分が飛行機、戦車、艦船であるが現実に存在しないものである。写真すら存在しないものもあり、写真があってもカラーではない。従って多くの場合、写真では代替できない。そこで箱絵の存在価値がある。まれに模型の写真や実物の写真が使われるが、箱絵が定着した結果写真はかえって商品イメージをそこなう結果となって、箱絵が主流である。

 だが箱絵の絵画としての最大の問題は、箱絵自体オリジナル写真からスケッチしたものがほとんどだということである。それは実物が写真や図面などの形で正確にイメージできるため通常の絵画に比べ自由度が少ないためである。それでも箱絵の方がオリジナル写真より商品のイメージに貢献するので、価値があるのである。
 
 このように写真の登場によって絵画は限定的に使用される様になった。そして商品として扱われるために古典的絵画の油絵に比べ労力のかからない技法が使われている。優れた風景写真のように精密さとリアルさと深みのある写真は、恐らく古典作家のいかに労力をかけた絵画よりも優れた表現になっている上に、安価である。

 絵画の持つ独特の雰囲気というのはもうすでに、写真の優れた作品に凌駕されている。
絵画が写真により多くの場所で駆逐されたために、昔日なら画家となったであろう、優秀な素質を持つものは画家という職業にたずさわらなくなった。現代絵画がどうひいき目にみても凋落して、優れた芸術作品をほとんど生み出さないのはそのためである。

(3)写真の影響による絵画の表現の広がり
 写真は絵画を駆逐したばかりではない。写真に新しい表現を教えた。写真は肉眼で見たままでは必ずしもない。写真は魚眼レンズなどのデフォルメも可能だし、肉眼ではあり得ない光の模様が表れる。例えば太陽光線が物体をかする写真をとるとき美しい模様が表れる(図●)。

 このような写真ができて初めて人間が知った映像を絵画に取り入れると、普段写真になれた我々は不思議なことにそれをリアルだと感じたり、面白い表現だとして受け入れることができるのである。無理な話だがもし写真がなければ写真特有のこのような表現は理解されなかったであろう。

(4)浮世絵は高度な印刷技術
 浮世絵には肉筆と版画によるものがあるが、質量共に版画によるものが大勢を占めるので、ここでは浮世絵といえば版画によるものを言うこととする。浮世絵における木版は現在の木版とは意味が違う。現在の木版は浮世絵とは異なり、筆にはない印刷の際の偶然性にも面白みを求めたものである。

 刷り方によって一枚一枚異なったものができることすら、あたかも手書きであるかのように歓迎される。
版さえできれば、手書きより手間がかからないことも利点である。このような点は浮世絵も同様であるとみなす現代人が多い。

 だが、浮世絵の発達と利用の経緯からすればこの類推は間違いだとわかるはずである。浮世絵の木版は当時の最新の印刷技術である。従って刷り上がりの一枚一枚が極力同一になることを追求した。現在の版画と異なり、浮世絵はこのような偶然性を極力排除したものであることを理解しなければならない。

 現在の印刷よりも工数がかかるだけ高いがそれでも肉筆の絵画よりははるかに安く、大量にすることによってコストダウンを実現し大衆に普及した。浮世絵の木版は当時のハイテクの印刷技術だったのである。

 多くの人が誤解しているがハイテクは常に手間のかかるものである。ロケットの製造には驚くほど職人仕事が使われている。自動車が大量に自動製造されているのは自動車がすでにハイテク機械ではなく普通の技術になったからである。その証拠にハイテク機器は高価である。

 高価な原因は製造に手仕事が多く手間がかかるからである。
木版を考えてみよう。現在素人が木版画を作ろうと思えば容易に作れるが、浮世絵の時代ではハイテクであったので容易には作れない。それはなぜか。市販の安い専用の版木がないから材料を買ってきて自ら加工しなければならない。

 工具や絵の具、紙などあらゆるものが同じ事である。それは当時木版画がハイテクであり現在はローテクになったからである。このような勘違いは多数ある。例えば蒸気機関車は現在では懐古趣味でのんびりした交通機関の見本にされているが明治初期には現在の飛行機以上のハイテク交通機関である。

 技術の位置づけを考えるときにはその時代背景も考えなければならない。
浮世絵は写真の機能も果たしたということは意外ではない。当然であろう、当時写真はなかったのである。現代でも江戸時代の町並みを説明するのに、浮世絵が使われる。これは他に記録がなかったためばかりではない。浮世絵が当時でも風景を正確に描写することにも重点が置かれていたからである。

 まだ見ぬ東海道の風景をみたい、贔屓の役者や評判の美人の姿を手元に置きたいというのは現代でも同じである。別項でも述べるが、現代人には同じように見える浮世絵の美人の顔の相違を当時の大衆は識別でき、実物との対照ができたはずなのである。現代人にそれができないのは浮世絵の使っている「言語」を理解できないからである。

 写真との類似はそれに止まらない。現代の写真発明当時とは異なり、いわゆる「芸術性」を求めるものが多い。単に正確に眼前の映像を再現するばかりではない。これも浮世絵が発達するとともに起きた現象である。北斎の富岳三十六景には色や形ばかりではなく、構図の奇抜ささえ追求している。


 明治以降浮世絵が衰退するのは当然である。写真技術が発達すると簡便に画像を再現できるという最大の利点の他に、自由な表現ができるということさえ付加され、更に印刷技術の発達によって写真を大量に複製でき、両者によって浮世絵の利点は極めて限定されていった。同時に油彩の導入が科学技術の導入とともに、浮世絵の原点は忘れられて油絵は浮世絵より、より真実を写すものであると考えられた。その結果、日本画にも浮世絵にも無防備に洋画の技術が取り入れられて崩壊した。

 カラー写真がない時代ですら着色したカラー写真という奇妙なものが作られて、絵はがきなどとして案外普及していたのは、写真や浮世絵に大衆が何を求めていたかを明瞭に示している。
浮世絵のニーズが失われると、印刷技術としての高度な版画技術は失われていく。技術を維持するのに必要な高い経費に見合った収入が得られなくなるからである。

 絵師、彫り師、刷り師その他の分業は維持できない。
すると全ての工程を個人で行う現代版画しか残らない。それは作家の生計を維持できるだけの収入を得ることのできる浮世絵のような「仕事」とは異なり、趣味の領域に過ぎない。

(5)浮世絵の天才
 浮世絵という発明の天才的なところは、絵画を大量印刷することにより、廉価で大衆に販売することにより、生活の糧を得ることを可能にしたことである。糧を得たのは絵師ばかりではない。刷り師、彫り師、版本などである。製造から販売までのシステムが確立していたのである。組織の広がりの大きさとシステマチックな点は同時期のヨーロッパ絵画の比ではない。ヨーロッパの絵画の多くは一枚しかないから大衆に大量販売する、ということはできない。それまでの日本の絵画も同様である。

 18世紀末に発明され、19世紀にヨーロッパに広まったリトグラフも大量印刷の可能性はあったが、絵画としては結局はそのような道を歩むことがなく、限定生産に止まった。いや、大量印刷販売の可能性はあったのだが、希少価値がなくなるとして敢えて限定印刷として、版を破棄した。つまりリトグラフは手描き絵画の延長である。

 当時の洋画は既に没落していた。元々ヨーロッパの絵画は王侯貴族などのパトロンで存在していた。王侯貴族が没落すると既に存在する理由はない。だから多くの絵画の才能ある者は自己に没頭した。芸術至上主義と言う観念にである。江戸時代の日本でも狩野派のように、幕府や藩などをパトロンとしたグループがあった。浮世絵とはそれとは別個の存在である。洋画のさらなる敗北は写真の登場である。だが既に西洋絵画は写真が芸術と呼べる段階以前に没落していた

写真の芸術としての台頭が絵画を駆逐したのではない。作家が制作にかける労力に相当する収入を得る道は既になかったのである。ゴッホを見よ。たった一枚しか売れない素人である。だからゴッホは元々別に本職を持っていたのであって、制作に没頭するようになってからは、弟に寄生していた。

考えても見よ。AKB48より上手く歌える素人はいくらでもいる。しかし、それでもAKBは歌で生業をたてることができるプロの歌手である。AKBよりはるかに上手い素人は、歌で生業をたてることができない故に、誰も歌手とは言わない。それをゴッホに適用してみれば、小生の言わんとしていることは全く突飛な事ではない。

ゴッホの作品の評価は死の前から高まっていたと言う。だがそんなことは何の意味もなさない。それでもゴッホの作品を大枚をはたいて買うものは現れなかったのである。それでは現在ゴッホの作品が何億もするのは何故であろうか。投機的価値である。ゴッホの作品が欲しくて何億も金を出す、というのは単に投機的動機を、芸術という観念で糊塗しているのである。そもそも書いた本人が受け取ることができない大金は、制作のインセンティブにはならない。芸術の洗練は制作のインセンティブがもたらすものである。それがないから、芸術や個人の内面的信条と言った、鑑賞者に理解不能なものに逃げ込むのである。

 芸術の価値というものは、作品が作られたとき取引された価格である。だから浮世絵の価値も現在のような高価なものではなく、大衆が入手することができる程度の価値である。それを可能にしたのは木版による大量印刷である。その形式を基に、いかにしたら大衆に売れるかということがインセンティブとなって作品を洗練させていった。北斎も晩年は画狂老人と称して、売れない不可解な肉筆絵画を描き始めた。洋の東西を問わず、社会的地位が低い絵描きにとって芸術と言う観念は、陥りやすい陥穽である。

(6)何故浮世絵の美人は同じ顔なのか

 長い間、浮世絵について疑問に思っていたのは、同じ絵師だと、美人画の顔がほとんど同じである、ということである。例えば街の美人を描いた浮世絵は、当時の有名な美人で名が知れた者を何人描いてもほとんど同じで、見る者はヘアスタイルや、衣装などでしか区別できないのである。

 これについて、こういう仮説を立てた。同じように見えても、浮世絵を見慣れた同時代人は、目が慣れているから、区別がつくのだ、と。つまり現代人は浮世絵の表現に目が慣れていないからだ、というのである。これも客観的に考えればかなり無理のある仮説だった。明らかに同じ角度から描かれた、同じ絵師が書く女性の顔は、目鼻の造作や顔の輪郭などが、類型的に同じように描かれているのである。そこで仮説はずっと頓挫したままだった。

 ある時秋葉原の街を歩いていて答えは見つかった。一枚の絵にアニメやコミックの女の子のキャラクターが何人か描かれているポスターがある。すると、そこに描かれた全ての人物は別人を表現しているはずである。ところが、当たり前の話だが、一人ひとりを区別しているのは、ヘアスタイルと衣装だけなのである。体型ですら似ている

 秋葉原あたりに氾濫している、大抵の女性の漫画のキャラクターは、体型はともかく、顔は大人というより少女に近い。同じ漫画家が描く少女は顔の輪郭、目口鼻耳といった造作は基本的に同じである。今は不思議な時代で、戦車と漫画のキャラクターを組み合わせた、ギャルパンツァーなるものが流行っている。無理して流行らせているようにも見えるのだが。

 だから小生が買ったミリタリー系の雑誌にも女性のキャラクターをメインにした漫画がある掲載されている。同じコーナーに表紙にフィギュアの原型のような漫画の女の子が書かれた、雑誌があったので中を見てみると、戦史関連のものだったのには驚いた。一人の漫画家が描けば、同じ年代を想定した女性の顔は類型的に同じである。今手元にある戦史雑誌にも漫画があり、二人の女性が描かれているが、顔の造作と体型は同じで、同じ飛行服を着ているから、区別ができるのは、髪の毛だけなのである。それでも見慣れれば違和感は感じない。

 なぜこうなるのかは、正確には分析できていない。だが根本は、線描という簡素に省略された表現手段が持つ、描き分けの限界ではないかと思うのである。油絵の場合、写真と似たように、リアルに描くことが出来れば、個人の顔の特徴をリアルに反映できるから、一人一人の顔を違って描ける。線描故に、それが困難なばかりではなく、無理して特徴を捉えようとすると絵画としての面白さが失われるのではなかろうか。このあたりは漫画家自身が良く承知しているであろう。

 だから年代が同じで、可愛らしい美人、という設定をして、同じ漫画家が描くと同じ顔になってしまう。それどころか、秋葉原のポスターなどに描かれた漫画の女性は、漫画家が違っても類型的によく似たものが多いと思われるのである。これは単に真似しているのではなく、同じように見えることによって、同時代の流行を故意に作っているか、流行に乗ろうとしているようにも思われる。

 これは浮世絵にも言えることで、時代が近ければ、絵師が違っても顔の描き方や体型も似ているはずである。一方で、女性ではないが、写楽の歌舞伎役者の浮世絵は、役者の特徴を捉えていて、一人づつモデルとなった役者と似ているはずである。はずである、と言ったのは写真などの客観的資料がないから断言できないからである。しかし、違う役者は違う顔の造作や輪郭をしていることは明白である。

 役者絵がこのようなことができるのは、役者の特徴を誇張して描くことが、絵としての面白さを失わせるどころか、増幅するからである。役者の顔立ちには癖があり、役によって化粧も違う。その癖を誇張し、化粧をきちんと描くと、役者毎の区別がつくし、それによる面白みも増す。

 もし役者絵を同じ年代の、癖の少ない典型的な二枚目の男の役者の舞台化粧をしない素顔を描く、という条件を設定してしまうと美人画と同じく、絵師が同じならば、同じような顔になってしまう、ということになるはずである。はずである、と言ったのは、そのような設定の役者絵は存在しないから、実証的に証明できないからである。浮世絵の美人画の顔が同じなのは技法と絵師の都合と時代によるものである。


3.5 意識せざる詐欺師ピカソ
(1)ピカソに対する盲信
 ピカソに有名なゲルニカという作品がある。これはドイツ空軍がゲルニカという町を無差別爆撃したことに抗議して描いた物だと言う。それが事実だとしたら、この作品は明らかに失敗である。下の図版の「ゲルニカ」を素直に見るがよい。

 これをどう見たら空襲に対する怒りや残酷さを感じることができるというのか。
人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。そう思えるのはそのように解説されるからで、素直に見た結果ではない。ヒットラーに抗議するならば大衆にアピールしなければなるまい。



        図−ピカソのゲルニカ


 だがどう見ても大衆には分からない。誰にも分からない。この裏には大衆には芸術は分からないというピカソの傲慢がある。しかもこの作品には社会的要請がないという欠陥がある。もちろん政治的抗議というのは社会的要請の範疇に入る。しかしそれは作家だけが勝手に作ったものではだめなのだ。

 作品の依頼者がいて、依頼者の指示が政治的抗議でなければならない。何よりも効果がなければならない。ゲルニカを見てドイツの無差別爆撃に対する抗議を感じるのは嘘つきである。

 あるいは裸の王様である。人々は裸の王様という言葉を知っていても、裸の王様という言葉の意味を知らない。ゲルニカ
はピカソのひとりよがりである。ひとりよがりはピカソが売れると勝手に動き出した。ゲルニカは無差別爆撃に対する抗議だということがお前には理解できないのか。王様は裸ではない。美しい衣装を着ていると。

 二葉亭四迷は文学は男子一生の仕事にあらずと言って文学を放棄した。これは二葉亭にとっても比喩ではない。
二葉亭はロシア文学により文学に目覚めた。革命前夜のロシアにおいて文学は「爆裂弾である」というのが二葉亭の意識であった。小説の読者が革命の必要性に賛同することによって革命の可能性が高まる。従って文学は爆弾に等しい効果があると言うのだ。

 そう思ったが日本で振り返ればそのような必要性が感じられないし、そのような存在でもない。西欧から輸入した文学と言う観念を振りかざして文壇というサークルを作って自己満足をしている。そのような状況でしかない日本において、社会的必要性のある仕事を希求していた二葉亭にとって文字通り文学は男子一生の仕事ではなかった。だが社会的必要性を希求して作られた彼の作品には優れた芸術作品がある。戦時中藤田嗣司は新聞社などの依頼で戦意昂揚絵画を描いて戦後非難された。

 しかしこれはピカソの場合と異なり、社会的要請に基づくものであった点でピカソの場合とは異なる。藤田は社会人として社会の要請に従い、自らの信念に基づき戦争映画を描いたのである。芸術家に道徳的批判と作品の評価とは関係ないから、藤田の作品を汚すものではない。


 また本人の信念という意味においても、道徳的に藤田が戦争協力をしたことは誉められるべきことである。単に戦後の価値観の転換により非難する人物こそ、道徳的にはいやしむべきである。藤田の作品は政治的価値観とは関係なく評価すべきはもちろんである。


(2)ピカソの具象画
 ピカソ展でも見られるのが、ピカソの若かりし日の具象画である。具象画ではあるが後年のピカソらしい癖はある。ところが多くの評価はこのようなものである。ピカソもあのような具象画を描く能力はあったのだ、とか具象画を描く能力があったから抽象画を描くことができたのだ、というものである。

 つまり具象画を描くことができた、という色眼鏡でピカソの抽象画を評価するのである。これは実に奇妙である。それは広重が西洋風のデッサンを描くことができたから浮世絵が描けたと主張するようなものである。

 彼らは実は心底で具象画を尊敬し、抽象画を軽蔑しているのに違いないのである。ピカソの抽象画は作品自体で評価すればよいのである。それはあらゆる芸術の評価の基本のはずである。

3.6 展覧会絵画の愚
 絵画の流通市場では絵画の価格は余程名の通った作家ではない限り、入選した展覧会のランクと入選回数と絵の種類と大きさによって値段が決まると言う。従っていわゆる絵かきで生活するためには、展覧会に出し続けなければならない。展覧会に出展するのは自由だが、展覧会の関係者の先生の弟子にならないと入選できない。

 先生は大抵高齢である。死んでしまう。すると入選できない。そこでまた別の先生につく。また死ぬ。別の先生につく。日展の彫金の部門でこうした実例を知っている。


 二科展で下手なタレントの作品がよく受かるのはこうしたシステムによる。世の中にはこうしたシステムを知らない真面目な青年も多い。従ってまともに出品する。そして落ちる。年をとって才能のなさを嘆いてあきらめる。これは人生の浪費である。才能の無駄である。マスコミもこうした内幕を知っている。

 だが先生がタレントから賄賂を貰っているのではないから非難はできない。うまい下手の客観基準はないからである。合法的賄賂はある。先生に支払う授業料である。有名なタレントを弟子にしていることによる一般の弟子の増加と言うメリットである。だが裏では過大な授業料が支払われているのかもしれない。マスコミはこれが公になると芸術会の堕落と一斉に批判するだろう。


 だが展覧会のためにだけ製作される作品とは何か。審査員に受けるためである。そこには何等他の目的を持たない。彼らは精神性や芸術性を求めるという。心を描くのだと言う。本当だろうか。何等切実な目的を持たない作品は堕落する。単に作者の恣意に任せられるからである。展覧会のための作品は趣味の世界である。プラモデルを製作する職業はいない。

 製作にかかった時間を製作費に換算するととてつもなく高価な作品になる。
高価過ぎて売れない。根本的には製作することが楽しみだから完成品を買うことは意味をなさない。模型雑誌に製作記事を掲載するライターと称する連中は本業が別にある。これだってかかった時間と原稿料は釣り合わない。
 趣味だから展覧会がある。

 いわゆるPPCと言うやつである。PPCは日展より堕落をまぬかれる。実物に似て見えるという究極の目的がはっきりしているからである。もちろん芸術性を標榜するものもいる。製作者の個性ということも言われる。
それは似ていることを目標としても絶対に実物と同じには見えないからである。

 その誤差の範囲内に製作者の個性が存在しうる。いずれにしても芸術性のために実物に似ていることは絶対に犠牲にできないからである。これが堕落を免れている唯一の原因である。


 従って実物に似せるためには材料や技法に制限はない。金属や布、紙といったあらゆるものを使う。制限があるとすれば何々社の製品を使うことといったこと位だろう。芸術の展覧会とは有害無益なものである。それによってしか絵画市場が成り立たないとしたら、絵画市場とは無用のものである。絵画市場に出回る多くの作品は家庭や会社の社長室を飾る装飾品にすぎない。そのために多くの作者が苦しみ絶望していく。あるべきでないゆがんだ姿である。

3.7 仏教美術
 日本には仏教美術という分野がある。多くは仏像である。これは芸術なのだろうか。全盛期の仏教美術の目的は仏教の普及であった。仏像は目に見えない仏様や阿弥陀様などの仏典に登場するものを具体的に再現して、信仰の具体的な対照を提供したり、宗教的雰囲気を喚起するものといったらよいだろう。
この手段として彫刻の持つ視覚により人間の情感に直截に訴えるという機能が利用される。

 教典は哲学であるから論理的に理性に訴えるのとは異なる。すると社会的な目的の存在と人間の感覚を通して情感にうったえるという2条件を満たしているから、仏像に代表される仏教美術は芸術である。
しかし現在の日本の仏教は葬式仏教と揶揄されるように、形式に陥って形骸化し先に述べたような仏教美術の必要性は現在存在しない。芸術分野としての仏教美術はかつて存在し、その作品は現在残されている。

 現代ではどうか。新興宗教で宗教的崇高な観念を具象化して信者を集めるために偶像や絵画を利用するということはありうる。するとこれは芸術の定義に合致する。つまり仏教美術に限定しなくても宗教美術というものはありうる。もちろんできの良し悪しはどうでもよい。


3.8 絵画は自己完結しない芸術
 音楽、文学、漫画、映画など他の芸術分野と比較すると、最大の特色は時間に無関係であるということである。つまり他の芸術分野の作品は時間が経過することにより作品を鑑賞できるが、絵画だけは時間と関係なく鑑賞できる。時間の経過と関連ないとは言いきれないが必然性はない。見ているうちに印象が変化するということはありうるが、これはある音楽を2度聴くと2度目は最初と印象が異なるということと等しく、時間の経過が鑑賞に必要だということではない。

 だがこのことは絵画が独立して存在するのではなく、他の芸術やものごとに従属するひとつの原因となっているようにも思える。時間に依存しないものは芸術として自己完結性もないのではないか。私にはその点について現在確信はない。第一は、絵画は現在では挿絵、イラストレーションとして存在する。かつては宮廷美術などのような存在であった。

 挿絵などは小説に付随する補完的な存在である。これに比べ、音楽にしても小説にしてもそれ自身で完結する。宮廷美術は周りの風景やふすまなどの調度の一部として機能する。鑑賞する際にも独立した存在ではない。特に現在のように、絵画が写真に圧迫されて少数派の存在になるにつれてこの性格が強まっているように思われる。


 第二は、作家は制作の際に周囲の環境を考慮して行わなければならないという制約を課せられる。だが音楽は周囲の音と調和する必要はない。周囲の音はあってはならないのである。小説を読む際に周囲が騒がしければ印象が変わるであろうがこのようなことは好ましくない。周囲と孤立した状態で鑑賞することが理想である。


3.9 写真と絵画
(1)絵画は写真より劣る
 絵画は写真より基本的に劣るこういったら多くの人は不見識を笑うであろうか。馬鹿にするなと怒るだろうか。いかに笑おうと怒ろうと事実は事実である。絵画の投書の目的は対象物を忠実に写生し記録することであった。そして現在に至るまで量と質において大多数の絵画がこのために描かれている。この範疇で考えれば間違いなく絵画は写真に劣る。

 はるかに少ない労力で作品を完成できる。はるかに精密かつ正確な描写が可能である。なるほどレンブラントの描く人物は血管に血が流れているかのごとくいきいきとした人物を描く。しかしそれにはどれだけの労力が費やされたことか。それに比べれば気の利いた写真家なら、それより生き生きした写真を瞬時にして写し撮る。エロ雑誌の写真家すらレンブラントなみである。

 動いているものをそのまま写し撮る。これは絵画にはできない芸当である。動きあるものの絵画による写生は半分想像である。時間がかかるから瞬時を写し取るなど絵画には不可能なのである。いや現在の絵描きなどは写真で撮られた場面を参考にして画を描いてさえいる。これは絵画の写真に対する屈従である。広角写真による特殊表現や木漏れ日の写真の絵画による模倣など、現代絵画が写真から盗んだものはいくらでもある。

 さらに写真技術が発展した現代では、写真家は自分独特の個性的な表現すら自在にできる。写真は素人なら単に機械的にあったものをそのまま記録するだけなのだが、写真家は自己の表現手段にすらしている。絵描きは個性的表現という聖地にすら、写真家に踏み込まれてしまったのである。

 最後の砦は現実にないものを再現するという特技である。しかしこの特技すらコストという制限に苦しめられる。芸術は社会のニーズに見合った作品を生産するものでなければならない。とすればそれだけの高いコストを支払っても見合う分野がなければならない。

 ライバルたる写真のない時代には、いくらコストを払っても必要とする分野はいくらでもあった。宗教画もそのひとつである。教会の権威も薄れ、偶像をいましめる現在にそのニーズはない。現実にないものを描くという唯一の特技すらコストに見合った社会的存在、つまり商品として多量に生産して売れるという分野は限定されている。絵画は写真の隙間を縫って細々と生きるしかない。それは芸術としての絵画が写真に劣るという現実を反映したものである。

(2)写真家にも得意分野がある
 絵画と写真の類似点は見たものを写すという基本ばかりではない。逆に見たものを写すのが基本のはずの写真ですら、写真家の得意不得意の分野があるということである。写真を単にシャッターを切れば良いという考え方で写真を見た場合、このようなことは理解不能なことであろう。だが著名な写真家には必ず特異分野があると言うのはむしろ世間一般の常識である。

 これは写真が芸術であることの証拠でもある。写真はごく初期の低レベルの技術でしかなかった時期にはこのようなことはあり得なかった。表現の自由度が少なすぎて写真の撮影者の感性や意図を反映できなかった。だが技術が高度になって撮影者の意図を反映できるようになると芸術としての地位を確保する。

 すると作家にも風景、人物などの得意分野に分化する。
分化する原因は技術の向上によるものばかりではない。実は社会的必要性、要請から発生するというのが第一義的原因である。例えばアイドルの写真という分野がある。
 これは写真集ばかりではなく漫画雑誌に使われるという確立されたニーズがあるするとそれに特化した写真家が現れる。漫画雑誌等で美人に見えるアイドルがテレビなどの比較的自然な映像では全く異なって見えるという極端な例がある。


 これは写真家の技術のなせる技である.並みの女性を美人に見るという写真の技術は実際にあるのである。人物画が客の要望でハンサムやら貫禄があると言った実態とは異なる映像に仕上げるということは古今東西普通に行われていることである。ところが以外にも写真にもそのようなことは充分に可能である。

 風景の分野でも旅行のパンフレットなどの写真などでは、実際の風景より余程よく見えるということは珍しくない。だからパンフレットには必ず小さな時で、イメージ写真です、と断っている。実物と異なると文句が来かねないからである。観光地の写真は公用の季節や積雪などの、一番良いタイミングが選ばれているために実物よりよく見えるばかりが原因ではない。

 現に松山の道後温泉の有名な風呂屋の観光写真を見るがよい。いい景色だと思って実物を見ると現地は地味な建物である。しかし細部の形状を写真と実物を比較してもインチキはない。間違いなく同じ建物であることは客観的に分かる。修正がされているわけではない。これは写真家の技術なせる結果である。しかしこのような技術を持つのは多くの場合、特異な分野においてである。

 道後温泉をよく見せる技術は風景など観光写真を得意とする写真家が持つものである。無論写真家ならアイドル写真を得意とする写真家でも素人よりは遥かにましなのだろうが、観光写真の写真家には到底かなわない。だから得意分野があるというのである。繰り返すがこのような得意分野への分化は、まず社会的必要性から発生する。アイドルをどのように見せるとか風景をどのように見せるかということは、顧客が要請するのであって写真家が判断するものでない。
 もちろん大家と呼ばれる写真家になると、写真家側の選択ということもあるが一部の例外に過ぎない。ほとんどの場合は顧客の要望にあわせる。芸術に社会的要請が重要なことはこの点にもある。要請があるからそれに向けて技術を向上する努力目標が発生する。ひとりよがりであっては意味がないのである。だが人が好みで職業を選択するように人物好みの人が人物写真を志すという選択はある。

3.10 絵画にも言語がある
 絵画には大きく誤解されている点がある。絵画は誰でも見ることができるために誰でも理解できるという誤解である。誤解も甚だしい。例えば私は富士山のふもとで育ち、毎日富士山の姿を見て18まで育った。足元が富士山の傾斜の一部でとにかく坂を上の方向に歩くと富士山の山頂の方向となるのだからこれは誇張ではない。その私がいつも見ていた方向から富士山を見ると、他の地方の人より色々なものが見える。

 従って風景より受ける感慨も人とは異なる。深く感じることができるといってもおかしくはない。これと同様なことが絵画にも言える。あるいは絵画ばかりではなく、音楽などあらゆる芸術に共通な事象である。それにはふたつの意味がある。現代日本人が受ける浮世絵の感銘と江戸時代の人々の受ける感銘とは異なるはずである。

 当時の人々は浮世絵の景色のちょっとした小物の意味を理解できても、私たちには理解できないということもあろう。すなわち浮世絵に使われている言葉への理解度が当時の人々は深いのである。

 西欧のキリスト教美術も同様である。聖書を理解しているものとそうでないものの理解度は異なるのである。そこまで極端な例ではなくてもあらゆる芸術には、時代や地域による共通性と非共通性から各自の理解度は異なる。

 もうひとつは個性の問題である。漱石は芸術は個性の表現だから、優れた芸術は作者自身にしか理解できないという意味のことを言った。これは極論ではないのかもしれない。それどころか作者自身すら時間の経過とともに理解できなくなるかも知れないのである。すなわち個人でも個性は変わる。

 以上のように作品に対しては理解の幅の狭さから広さまでがある。それをどう理解すべきか私には永久に分からないと思う。ただひとついえるのは、絵画だからといって誰にでも同じように理解できるというものではなく、言語のように経験と学習が必要である。確かに訓練によって眼識というものは向上する。そのことを安易に考えてはいけないと思うのである。

3.11 絵画の価値と投資価値

 絵画の価値とは何か。古典的絵画に関しては残念ながらマルクス経済学の方が正しいと思われる。古典的とは必ずしも古いという意味ではなく、とりあえず画家が死没して評価が定まった絵画ということにする。例えばピカソの画やゴーギャンの画が何億もの価格で取引される。これはまともな話しではない。

 それでは絵画の価格とは何か。マルクス経済学流に言う。絵画の価値とは画家の生活を支えるために必要な価格である。画家が一年生活するのに五百万円必要としたとする。そして画を一年で百枚描くものとする。すると一枚の単価は5万円ということになるのだが、材料費その他の経費がかかるのでこれをその五割増しして7万5千円ということにする。これがこの画家の画の価格である。

 しからばピカソの現在の価格はどうか。何億もするというこれはもはや画の価値を現してはいない。画を投機の対象としてこれならば儲かるという価格である。これは画の価値でもなければ、マルクス経済で言う価格でもない。先物取引における大豆価格などと変わることはない。画がばくちの対象となったのである。

 だから五億の画より十億の画より芸術としての価値が高いと言うものではない。芸術の価値はたいしたものではないのである。投機による価値に惑わされることはない。

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