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4章 文学
4.1 文学と思想
 文学、特に小説においては思想的内容の色濃いものがある。多くの文学研究者はそのことを自明の前提としてきた。従って芸術論を語る場合には推理小説のようにエンターテインメントの性格が強いものを相手にしなかった。そこで考えられたのが純文学という概念である。純文学とはエンターテインメント性がなく、人間の生き方を探求するものとでも要約すればよいのだろう。純文学以外の文学は芸術に属さないとでも言いたいのである。これは文学の堕落である。

 人間の生き方を追求するための文学などというものは本来存在しないのである。文学の本質は文字によるエンターテインメントである。それが手段のひとつとして人間の生き方を追求することもある。だがそれは1手段に過ぎない。このような見方をすれば人々が純文学と呼んでいるものは広義の意味をこめて思想文学とでも呼べばよい1分野である。

 文学の見方に対する混乱は他の分野が視覚、聴覚という直接的感覚に訴えるので直裁に思えるのに対して、文字という論理をも表現できるものを使っていることによる。あたかも思想書のように、イデオロギーを内容とすることも可能である。二葉亭四迷は当時のロシア文学を評して、革命の爆弾に匹敵する思想上の強い威力を発揮すると言った。

 彼が文学を志したのはそのゆえである。だから日本ではそのような文学は存在しえないと悟ったとき、文学に絶望した。文学は男子一生の仕事に非ずと言ったのは比喩ではない。従って彼の生活を心配する知人に無理に書かされた「平凡」はやけくそであった。

 エンターテインメントに徹した「その於面影」はやっと小説の体をなしたが、結局恋愛の末の自己破壊がテーマであった。あげくに、小説を書くことを捨てて大まじめでロシアの軍事情勢を探査するために出発したが、病で倒れた。


 文学は文字を使用するために思想表現も可能である。だがそれが芸術作品であるためには論理ではなくて情感で読者に訴えるものでなければならない。論理ではなく情感に訴えて人間の意識を変えることができるために、場合によっては二葉亭四迷の言う革命の爆弾に等しい威力を持つこともあるのである。
文学による思想表現には危険性がある。優れた文学は論理を介さずに読者を説得する可能性があるために、思想の中身が正しくないものでも読者に正しいと思いこますことができる。

 文学としての善し悪しと思想の当否には関係がないのである。プロレタリア文学は共産主義を根底に置いている。しかし、共産主義は結果的に非人道的で日効率的な体制しか作らないことが現在では判明している。だからといってプロレタリア文学の全てが劣った作品であると断定することはできない。プロレタリア文学に優れたものもあるために逆に共産主義に未だに執着する者もいかねない。これは芸術の危険性を証明している例である。

 従って、現代でも小説家は知的職業として政治や思想上の意見を求められることが多い。だが小説家であることが即、政治や思想について正しいあるいは深い見識を持っているとは限らない。それは他の分野の作家と同じく個人の資質による。ただ、小説家は作品に政治や思想上の意見を表現する機会があるためにその修練をしている場合があったり、見識の高低を判断する材料がある場合があるだけである。

4.2 文学はなぜ思想を語る
 文学は他の芸術に比べて、思想を語ることがあるという点で特異である。特に小説には多い。人によっては無思想な小説、思想を語らない小説というものは無価値であると考える人すらいる。これは小説が哲学や思想の書物と同じく文字という媒体を使っているからだと、単純に考えるべきである。思想の有無は価値判断の基準とはならない。

 思想が優れたものか否かも価値判断の基準とはならない。優れた思想が含まれた作品は必ず優れた作品であると一義的には言えないということである。なぜなら優れた思想書であっても思想書は芸術ではないからである。このことは、思想が読者に与える情感によってその作品が優れた芸術であると判断することを排除するものではない。

 小説は知的だとの誤解によって多くの作品が迷惑を被っている。街にあふれる多くの娯楽小説が、はなから芸術と呼ばれることから排除されているからである。逆に娯楽小説を書いている小説家が、小説家というだけで見識のある人間と自動的にみなされて、政治や思想について意見を求められる場合がある。彼は見識があるか実際には分からないのである。

 ところが小説家の方でも心得ていて、何か立派なことをいわなければならないと考えて、空疎な内容を流行の言葉で飾ってコメントする。迷惑なのはそんないい加減な意見を立派なものとして聞かされ、惑わされる世人である。救われるのは、素直に聞いているかに見える世人は結局の所実務的な判断には初めからそんな意見は念頭にないのが常である。

 例えば多くの文学者が社会主義を信じ、意見を言ってきた。だが日本ではソ連崩壊まで社会主義政党に大衆の投票は政権を与えなかった。小説家は高度に知的なものとは限らない。小説家自身が小説家であることによって見識を持っていると誤解するのは、人格者を演じている俳優が自分自身も人格者であると誤解しやすいことに似ている。だが私は小説化に見識があることはあり得ないとか、俳優に人格者はいないという馬鹿げたことを言っているのではない。

4.3 文学を滅ぼしたもの
 日本の文学は、明治から昭和の半ばまでの知識人の教養としては滅びたに等しい。すなわち過去の遺産としては残っているものの、新規の制作が壊滅的に行われていないことである。制作したとしても、読者は読まない。いわゆる純文学は滅びたのである。

 考えてみれば純文学の歴史は明治の初めから百年位しかもたなかったのである。現在の主力は推理小説のような娯楽性の強いものである。それでも膨大な書籍が刊行されているにも拘わらず、文学という分野自体低調であると言わざるを得ない。


 それは文学に代わる表現手段が台頭してきたからである。最初は映画であった。映画は物語が映像化されている。読むという労力と想像力を働かすという力が必要ない手軽なものである。初期には無彩色でしかも無声であったが、技術の発達で全て克服された。現実にはないSFの世界まで映像化した。
人は楽な方に流れる。

 文学と映画は異なる表現であるから各々の特色はある。それでも一部が代替することができるというだけで文学のシェアの多くを奪った。映画がテレビに主力の座を奪われると手軽さは一層増える。


 次は漫画である。漫画も初期は子供相手であったが、次第に高度な文学的表現も可能になった。ここで漫画も芸術となったのである。漫画も元はと言えば手軽さが普及の原因である。漫画も映画も技術の発達がもたらしたものである。
小説の一部は映画やテレビの原作本にまで落ちぶれているものがある。テレビや映画で作品がヒットすると原作本がわざわざ書かれたり、そうでなくても売れていなかったものが原作本として売れるようになるという倒錯すら珍しくない。

 文学の凋落は文学から優れた芸術作品を生む可能性が著しく減らした。売れないものにしがみつくものは減る。才能あるものは先覚的表現を求める。従って凋落した文学に執着する者は減る。それがこのような結果をもたらすのである。一体価値観の確立された表現手法に固執する者は創造的表現能力の高い者は少ない。多くの者が過去の確立された表現手段に飛びつくのは、自ら価値を発見したのではなく、みんながいいと言うから盲目的に安心してよりかかるのである。

 歌舞伎に例をとろう。現代人にとって歌舞伎は表現手段としては適切ではない。苦痛ですらある。だが歌舞伎を一生懸命に鑑賞したり演じるのは既に確立されて誰もが価値があると認めてくれているからである。よく考えれば阿國歌舞伎の頃は歌舞伎は軽蔑されていたのである。真に才能があるのはその軽蔑されていた時代にあえて自己に適切な表現手段として歌舞伎を選択したものである。文学にしても同じである。明治の初期には小説家は低俗なものとして軽蔑されていた。

 だから漱石が一高東大の先生を辞して小説家となったとき世間は驚いたのである。この頃を契機として文学も権威への道を歩み堕落していく。漱石は小説家になるときに朝日新聞社に給与など詳細な条件をつけるほど不安定な職業であった。鴎外は事情があるとはいえ文学は余暇で過ごし、二葉亭は職業を転々として辛酸をなめた。

 私は和歌や歌舞伎のような古典的芸術を軽蔑しているのではない。歌舞伎などは時系列表現の芸術であるために保存するためには音楽のように演ずることによって再現するしかない。従って歌舞伎を演ずるのは芸術の保存のための貴重な仕事である。現在とは異なる表現手段である歌舞伎を完全に鑑賞するのも高度な審美眼を必要とする。

 ただ、歌舞伎や和歌は時代に合わせて表現の形式を対応させることが出来なくなってしまったために現在新作を制作するには適した表現手段ではなくなってしまったといっているのである。このことはあらゆる芸術の分野に起こりうる危険である。

4.4 二葉亭四迷の場合
 二葉亭四迷の「文学は男子一生の仕事に非ず」という一句は有名である。と同時に示唆的である。また今日の日本文学の状況を表しているように思われる。二葉亭がかく語ったのは比喩ではなく、直裁に思ったことを行ったのに過ぎない。二葉亭は多くの同時代人と同様に、明治維新の勤皇の志士のように天下国家のために働きたいと考えていた。

 それが男子一生の仕事である。そもそも二葉亭がロシア文学を志したのは、将来の日本の宿敵はロシアであるからロシア語を習得しなければならないと考えたのであった。そして革命運動にとってロシア文学は、大衆を革命に扇動するという効果において、ひとつふたつの爆弾よりもはるかに優れた役割を持つものと認識された。

 夏目漱石が英文学を志したのも、英語を習得し英文学により日本ここにあり、とのアピールをして日本のために役に立ちたいという二葉亭と同様な大志を抱いたのであった。漱石が英文学とはそのようなものではないと悟ったように、二葉亭も日本における文学とは、天下国家のためになるものではないと幻滅したのである。文学に対する幻滅が露骨に語られているのが「平凡」である。

 ところが日本文学を侮蔑したはずの平凡は当時の文学界で好評を博し、全体として釣り合いの取れ完成度の高い恋愛小説の「其面影」が不評であったというから、文学界というものの堕落が分かるし、だからこそ二葉亭が日本文学に幻滅した一因がある。文学界が平凡を称揚したのは、当時主流だった私小説と勘違いしたからであった。二葉亭の窮乏を見かねた友人たちが無理に入れた朝日新聞社で、給料の代わりにノルマにされた連載小説として不本意に書かされたのが平凡である。

 だから二葉亭は文学の馬鹿らしさ、下らなさを吐露するしか書くテーマを持たなかったから書いたのに過ぎない。のっけから正直に、平凡を書くのは妻子のために内職代わりをするのだと白状している。「題は何としやう?・・・・平凡!平凡に、限る。平凡なものが平凡な筆で平凡な人生を序するに、・・・」などと題すら不真面目を告白している。

 「ファウストが何程のものだ?・・・果たしてどれほどの価値がある?・・・どうせ人間の作ったものだ、左程の物でもあるまいに、それを此様な読方をして、難有がって、偶之を読まぬ者を何程劣等の人間かのように見下し・・・私も私だ。心ある人から観たら、撫ぞ苦々しく思はれたらう。」と告白する。これが文学崇拝への侮蔑でなくて何であろう。

 二葉亭は自身の作品が後世にどう評価されるかなどということは興味がなかったのである。それどころか作品が全て灰燼に帰しても悔いることなく、むしろロシア偵察がうまくいくことの方を望んだのである。

 閑話休題、二葉亭の言うとおり文学は男子一生の仕事ではないのであった。これを解するに二つの道がある。二葉亭はロシアでは文学は男子一生の仕事であった。しかしそれは文学の本質的な役目であろうか。文学が爆弾以上の役割を果たしたのは革命ロシアの特殊事情であった。芸術が人間の情緒に訴えて力を発揮するのは本論で芸術の定義をした通りであった。

 しかしその力は種々の方面に活用される。その一面が革命の原動力というわけである。二葉亭はその力の大きさに幻惑されて「文学の毒に」あてられて、一時期文学にのめりこもうとした。その心の動きはむしろ間接的に「平凡」に表現されている。それが正直なだけ私小説好きな当時の自然主義の文壇に受けたが、見当違いという他はない。二葉亭は文学に溺れかけた自分を呪詛したのである。その意味で平凡のみならず、二葉亭は日本における文学を否定したのである。

 しかしこれは正しかったのであろうか。そもそも文学、あるいは芸術というものは男子一生の仕事たるを得ぬものである。それが本来の文学のありようであるというのが第二の道である。芸術は他の職業と同様に「男子一生の」などといえるものではない。少なくとも維新の志士のように生命をかけて行うものではない。二葉亭が男子一生の仕事を求めて露探の道を選んだのは、判断としては正しかった。

 文学は男子一生の仕事に非ずと言われて怒るのは、文学、あるいは芸術を神秘的な何かのように持ち上げて喜ぶ異常心理に過ぎない。現代の大衆小説、SFなどを「純文学」などと比較して軽蔑するのは同様の心理である。純文学などというものはそもそもないのである。
 
4.5 文学と翻訳
 文学の場合まず悩まされるのは翻訳の位置づけである。翻訳は芸術か。あるいは翻訳とは誰の作品かという疑問である。第一の疑問に対する答えは簡単である。1章で述べた芸術の定義により判断すればよい。すると文学の翻訳はほとんどが芸術である。第二の疑問はやっかいである。これは文学が翻訳可能かという問題に帰着する。翻訳が可能かということの意味するものは、翻訳したものと原文が読者に同じ情感を与えることができるか否かということである。

 言語が全く相違する以上、完全な同一性はあり得ない。それは単に日本語と英語の単語が同一の概念を表すものではあり得ないとか、日本語の動詞的表現が名詞的表現で表されることがある、などという言語自身によるものの他に、言語の持つ文化的歴史的背景の相違がある。しかし後者については民族性の相違ということでもあり乗り越えがたいものでもあるように思われる。

 しかしろくに理解できない原文を読むよりは、できのよい翻訳を読むほうが原文の情感をより理解できるものと考えられる。それを否定してしまえばネイティブでない限り、原文で読んでも理解不能であるという極論と同じことである。ここではよい翻訳の一方には限りなく原文の情感を伝えられる可能性があると考えられる。

 つまり翻訳は原文の作者の作品であり得るということである。もう一方では優れた翻訳者である以上に優れた小説家であった二葉亭四迷や芥川龍之介の翻訳の場合である。これらの翻訳には原文に加え、余りに翻訳者の個性が現れすぎている。二葉亭四迷の場合には自らの翻訳について、句読点や音声の区切りまで原文に近くするように努力したなどと大真面目に語っている。しかし二葉亭の翻訳はあまりに彼自身の個性が反映され過ぎているように思われる。

 私にはロシア語はわからないが、二葉亭の翻訳とロシア文学翻訳の定番である、米川正雄の翻訳と比べるとわかる。すなわち二葉亭や芥川の翻訳は翻訳者の作品と言う他ない。すなわち翻訳の場合には作者は原文の作者であって翻訳者は単なる翻訳技能者に過ぎないと言うことができる場合と、翻訳者自身が作者となる場合がある。前者は必ずしも翻訳者を貶める解釈ではない。音楽の演奏家が音楽の再現に不可欠であるのと同様に、文学の翻訳は多くの読者にとって必要不可欠なものだからである。

4.6 文学の現代的存在

(1)文学賞とは

 私には現代の文学の存在には疑問がある。確かに小説など文学と呼ばれるものの数は多い。文学が教養の対象として絶頂期にあった、大正、昭和の時期に比べて出版される量は圧倒的に多い。毎年芥川賞や直木賞といった賞が発表されるとそれなりに注目される。

 だがレコード大賞や有線大賞とこれら文学賞は決定的に異なる。音楽賞はレコードの売り上げや有線放送で流された回数など、大衆に受けたことが受賞の根本的理由である。つまり人気がなければ受賞できない。多くの人はこの曲はレコード大賞を取るに違いないと予測さえできるのである。

 これに対して文学賞を取る作品では賞が発表されてもその小説を知るものは極めて少ない。だが作品は既に出版されているはずなのである。文学賞は小説家や文芸評論家といった一部のプロだけが決める。理由はすなおに考えれば分かる。音楽はいつも何らかのヒット曲が出ている。そのことを大衆は承知している。ところが小説にヒット小説というのは極めて少ない。少なくとも毎年多数の小説がヒットするということはあり得ない。

 いっとき村上龍の作品が売れたがこれは例外である。だから人気をバロメーターにはできないのである。音楽賞は永年人気を積み重ねたヒット曲を歌った歌手がとるのであって、いくら売れても新人がいきなり大賞をとるというのは稀である。

 ようするにベテランに箔をつけるのだ。だが文学賞は逆で新人の登竜門と呼ばれる。新人を売り出すための道具である。これから売れそうな者を予測するのである。だから多くのベテラン作家は若い頃何かの文学賞をとっている。

 だが文学賞は資格審査でもない。有名作家で文学賞に縁がない人もいるからだ。文学賞が絵画の賞と似たようなあり方であるのは偶然ではない。ともに共通なのは音楽と異なり、現代では社会的存在感が希薄であることである。

 それは文学賞の発生の理由でも分かる。文学賞はかつて文学が権威ある存在だった頃の作家の名前を使っている。その権威がいかにも現在でも存在するかのように文学自身に箔をつけるのだ。芥川龍之介と言えば当時の売れっ子作家でかつ教養人としての権威があった。

 芥川賞を授けることによって芥川龍之介の再来が来たかのように世間が文学界が注目されることを狙っている。音楽賞が健全なのは何故か。歌手は賞などもらわなくてもヒット曲が出れば収入は増える。だが人間歳をとると名誉も欲しがる。叙勲と同じである。音楽賞は名誉を与えるという賞の本来の機能を果たしているから健全なのである。

 文学賞は絵画の賞ほど不健全ではない。それは日展などの絵画の賞は絵画そのものの存在を支えようとしている異常性があるからである。いくらヒットが少ないとはいえ小説などの文学は膨大な数が売れている。文学は文学賞に依存する必要は必ずしもないのだ。

(2)ヒットしない文学
 だが大衆の注目をあびるということが少ないのも事実である。石原慎太郎の太陽の季節のヒットが同名の映画を作らせた。しかし今の文学にこのような能力は少ない。それでは現代の視覚藝術のヒットは何により生み出されるか。圧倒的に多いのが少年雑誌に連載される漫画である。

 ヒットは漫画により生み出される。そして漫画のヒットはTVドラマ化される。「医龍」がTVドラマ化されたようなものである。次はTVドラマ自身である。TVドラマのヒットが映画の原作になる。漫画が直接映画となることもある。

 だが映画がもとでヒット作品が生まれることは少なかった。特に日本映画は。しかし最近日本映画の隆盛に伴いこの状況に変化が生じた。映画にも力が復活してきたのである。逆に最近の小説に白い巨塔のようにヒットにより映画化されるなどという現象は少ない。

 しかし多くの映画の場合、原作本というのは既に出版され流布されている。だが小説に流行を作る能力はないから映画に頼る。いや映画の作者は映画にしたらヒットしそうな小説はどこかにないか実は探しているのである。そして映画がヒットすると逆に原作本も売れるといった倒錯が期待される。

 TVドラマにも似たような効果がある。日本映画が一時マイナーな存在となったとき、多くこの機能をTVドラマが果たした。TVアニメがこの機能を果たしにくいのは画の質が漫画に比べて劣るからである。TVドラマの多くも実は既存の有名ではない小説からとられることも多い。

 こうして見ると大衆商業社会である現代では、社会的存在の大きさは大衆の注目度であるといえる。大衆の注目度すなわちヒットは作家に多くの収入をもたらす。多くの収入は作品に多くのエネルギーを注入することを可能にするから、芸術の質を向上する。そればかりではない。

 大衆の注目度の大きい分野は多数の才能ある若者をひきつける。軽薄と言えば軽薄であろう。だが事実である。だから注目度の大きい分野は作家の質の向上をも伴い優れた作品を生み出す。漫画や映画が小説よりメジャーな存在になったのは明らかに直接視覚に訴えることができるからである。

 そして現在ではこのことを活字離れとして批判する。その批判自体は正当であるにしても、さきのことは事実である。そして小説のマイナー化により作家の質の低下をもたらし、注入エネルギーの減少もあいまって芸術の質の低下、すなわち優れた芸術を生み出すことの確率が低下していく。

 だから読む価値の少ないものを読まないという意味であるから、活字離れはしかたない。唯一活字離れがもたらす弊害は、かつて残された優れた文学を理解することがだんだん困難になっていることである。旧仮名使いや漢字の正字で戦前の小説を読むといった簡単なことすら困難になりつつある。

 だがこのようなことは明治以来のテクノロジーの進歩などによる弊害である。例えば鴎外漱石の時代は漢詩漢文の読解ばかりではなく、平仄まで合った漢詩の制作ができた。これは完全な理解といえる。芥川龍之介や永井荷風の時代は読解までで創作は困難である。創作が困難ということは実は読海にも多少の支障がでているということに違いない。

 だがこのような時代の変遷には、あらがうとともに甘受すべきであろう。我々は常に新しいテクノロジーを受け入れて芸術を創作した。浮世絵は当時の最新テクノロジーであるといった。それにより得たものは多い。しかし失ったものも多いはずである。一面からいえば安易に絵画が大量生産されたのである。

 現代の最新テクノロジーによる芸術も視覚的に安易だから、文字情報から失うものも多いにしても、得るものも必ず多いはずである。文明は進んで止まない性格がある。もし進むのを止めた文明は多分滅びる。芸術も進むのをやめたら滅びる。文学の衰退が事実だとしたら、それは仕方ないのである。

(3)文学賞とは2
 石原千秋早稲田大学教授が平成28424日の産経新聞に、興味深いことを書いている。文学界新人賞の円城塔が「万人を圧倒する小説を目指す人はそれでよいが、小説の傾きを自覚する人は、選考委員の顔ぶれをあらかじめ見て、最低限対策するくらいのことをしてもバチは当たらないのではないか・・・」と書いているのに対して「僕を意識して書けば、推してあげるからね」ということか。何様だと思っているのだろうか、と揶揄する。

 石原氏も、「選考委員対策をして受賞したら自分の書きたいように書くぐらいのしたたかさがあってもいい」と言う趣旨のことを書いたが、しかし、それを選考委員自身が書くものだろうか、として、これは円城塔の人格の問題だけではすまされない、とまでいう。

 さらに選考委員たる作家は選考委員としてはストライクゾーンは広くしておくべきだが、作家はそれが出来ないのだろう。それなら複数の文学賞を一人の審査員が掛け持ちすれば、どの賞に応募しても、同じ基準で選ばれたらたまったものではないから、掛け持ちしないか、させないことである。ところが、現に掛け持ちしている何人かの作家がいるから「この人たちには社会人としての節度を求めたい」と辛辣である。

 石原氏の指摘は、「賞」の選考の一般論として正しいと思われる。だが、これが芸術に適用されていることに、奇異を感じる。作家はなぜ小説を書くのだろうか。なんだかんだ言っても、小説はどんなジャンルにしても、広い意味でエンターティンメントである。読者を楽しませるのである。ノンフィクションのように、真実を追求するのではない。

 小説家が相手にすべきは、評論家でも文学賞の選考委員でもない。読者であるはずである。小説家が文学賞を欲しがるのはなぜか。ベテランならば名誉であろう。新人ならば、名声により今後の作品を売り出しやすくすることであろう。石原氏のいうのは、内容からして、対象となる作家は、ベテランではなく、新人だとか無名の作家のことだろう。

 だから彼等は、出版社に採用されるチャンスを欲しくて賞が欲しいのである。石原氏の言う通りだと、作家は作品は選考委員の好みに合わせて書き、選考側は受賞のチャンスを広げてやることが必要である、というのである。結局、次代のニーズだとか読者の好みと言うのは反映されなくなる。

 小生は小説が時代のニーズを反映して、面白いエンターティンメントになるのは、結局読者の購買意欲による淘汰だと思っている。しからば文学賞の選考委員と言うのは何者か。既に何らかの権威を持っている者である。権威を持っている者は、小説家であろうと文学の評価基準が保守的になっていると思うのである。

 つまり時代のニーズに鈍感な人物である、というのが一般的であろう。そこで皆が皆、文学賞を目指して小説を書いているのでは、面白い小説と言うのは減る。だが、現実には、はなから文学賞など諦めて、売れることに徹する作家も多いのであろう。そうならば、小説もすたることはない、と思うのである。

 ところが、小説の世界では戦前にはなかった現象がある。小説をテレビドラマの原作にすることである。昔から有名な小説を映画化する、ということはあった。近年の風潮は、作品が有名であろうと、なかろうとテレビドラマ化したら面白いだろう、という作品を選ぶのである。

 最近、池井戸潤氏の作品がテレビドラマ化されて当たっている。するとテレビドラマで人気が出た、という事でドラマの主人公の写真入りの本が書店に並ぶ、といったいわゆるコラボができる。池井戸氏は有名だが、コミックで大して有名でないものが、ドラマやアニメ化される、ということも珍しくない。つまり、小説やコミックがテレビドラマの原作の供給源ともなっている。

 文学賞の選考委員の多くが、権威ある作家である、というのは不可解に思う。鑑賞眼の良し悪しには関係なく、小説の売れ行きを決めるのは読者のはずである。いくら賞を受けようと、読者の好みでなければ、いずれ売れなくなる。それなら最近話題になった、書店員が売りたくなる「本屋大賞」の方が余程ましではないか。売って読者に面白かった、と言われそうなものを選ぶからである。土台、文学賞などというものは、肝心の読者にはどうでもいい存在になりつつあるのではないか。



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