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5章 音楽
5.1 音楽は幸せである

 音楽は絵画より幸せである。絵画は技術の進歩により写真に駆逐されて、芸術の分野の片隅に追いやられた。写真より手間がかかるために高価で、そのくせ正確な表現ができない。しかも写真は技術の進歩により作家の意図を表せる表現手段となった。絵画は写真では表せないもの、現実にはないものにしか社会的存在価値を見出せなくなってしまった。

 現実にないものを描くという写真にはできない残った分野ですら、コンピュータグラフィックに駆逐されつつある。CGは写真と補完関係になることが可能であるため、お互いの領域を侵しあうというよりは、互いに高めあうことが可能である。ところが絵画は両者から一方的に侵されるだけである。

 これに対して音楽は技術の進歩に侵されることはなかった。少なくとも現在高度な技術をもってしても作曲をできるマシンは存在しない。コンピュータが作曲の補助をすることはできるようだが、肝心のキーフレーズを創作するという機能は人間の頭脳しかできない不可侵の領域である。それどころか技術の進歩はかえって音楽の範囲を広げた。絵画において技術の進歩が絵画の可能性を広げたのはエアブラシの発明までである。

 ところが音楽においては、技術は楽器の進歩として音楽を高めた。最初はギターや琴、笛といった単純なものからピアノやら高度な楽器が次々と生み出されていった。そして電気の発明はエレキギターや電気ギターというように、量にも質にも進歩をもたらした。電気ギターはマイクロフォンと同じく音量の拡大であるが、エレキギターはギターとは似て非なるものである。

 マイクロフォンの発明は肉声による発音の量を補ってしまうという点で一方では堕落であるといわれる。しかしマイクロフォンの集音機能の正確化はむしろ歌手がうまく使えば微妙な表現ができるようになり、単に拡声という機能を超えつつあるように私には思える。技術は音楽に対して楽器に対しても声楽に対しても可能性を広げることはあっても、駆逐することはないのである。

 さらに新しい技術による楽器は旧来の楽器を一般的には駆逐することはなかった。一般的にはといったのは古来の楽器で時代とももに消え去ったものがないわけではないからである。それにしても琴やバイオリン、三味線といった伝統ある楽器は駆逐することなく安住の場所を見出しているように思われる。声楽の分野においてもマイクロフォンやカセット、CDといった機材はカラオケという大衆芸能の新しいジャンルを生み出したようにさえ思える。

 録音再生機材の進歩もそうである。レコード以前は音楽は自ら歌うものか、生で聞くものであった。レコードの発明は外国の有名な音楽家の演奏、声楽を自宅で比較的安価に聴くことができる。レコードという新市場は音楽家自身の生活をも支えることになった。音楽家はパトロンに飼われなくても大衆の市場で生きることが、生演奏の時代よりもはるかに容易になったのである。

 レコード発明以後の録音再生技術の進歩はもういうまでもなかろう。オープンリールテープ、カセットテープ、CD、DVDなどなど。唯一進歩が遅いのがスピーカーである。録音機材は電子化によりどこまでも素材と録音手段、すなわち溝による振動、磁気による記録、光による記録というように、物理的特性の優れたものに換えることにより、精密にできるのに対して、スピーカーという再生の最終段階にいる機材は膜の振動による空気振動という原理ははじめから変わっていないのである。

 レコードが溝による振動を検知していたのをテープは磁気の変化に物理量を置き換えて、周波数特性を飛躍的に改善した。ところがスピーカーは膜による空気振動という原理を一歩も超えていない。おそらくCDのなかった30年前の優れたスピーカーを超えるものは、飛躍的にレコードより進歩したCDの時代でもそれをたいして超えてはいないのだと思われる。音声である以上は最終的に空気振動に変換しなければならない。

 空気振動を発生させる新たな素材の発見がなければならない。もっと安易な道は空気振動ではなく、人間の頭脳に直接耳を介さずに音声の信号を与えるというドラスティックな方法であるかもしれない。閑話休題。いずれにしても技術の進歩は演奏においても声楽においても音楽の可能性を広げた。しかも人間による作曲あるいは声楽という聖域を少しでも侵してはいない。音楽は幸せであるという意味をこれでわかっていただけたと思う。

5.2 音楽における作家は誰か
 音楽が歌われるあるいは演奏するという過程は単純ではない。まず作曲家がいる。声楽であれば作詞家がいる。そして実際に音楽を演奏する場合には楽器奏者がいるが多くの場合一人ではない。更に一般には編曲家がいて、場合によっては指揮者がいる。最低限度を考えても2人いる。いや演奏家自身が作曲すれば1人で済むということにはなるのだが。だが音楽が作曲されて演奏されるには通常は複数の人間がかかわる。

 こうなってくると、なぜ私は芸術における作家を問うているのかという疑問に立ち返らざるを得ない。その答えは芸術における感性の表現は誰が行うかという、表現者は誰かを問うているのだ。そうすると音楽においては、作曲から演奏に至るまでの過程でかかわる多くの人たちの意志が反映されているといえる。大雑把にいえば全てが芸術の作家であると言える。しかしその意志の反映の大きさは各自大きく異なる。

 すなわち圧倒的に作曲家の感性が反映される。しかしその他の音楽に参加する者たちも単に音楽を実現するための道具ではなく、個々人の感性が大きく影響を与えることは間違いない。私には理解できない世界だが、同じ作曲家でありオーケストラであっても、カラヤンの指揮と小澤征爾の指揮では大きく異なるとはよく人のいうところである。これは事実なのであろう。

5.3 音楽の逸脱
 前項で同じ条件でクラシックを演奏しても、指揮者の個性が大きく反映されると言った。しかしこれには限界を考えるべきではないかと思わざるを得ない。例えばかのアンドレ・リューである。有名なバイオリニストだが、クラシックから軽音楽までオーケストラをバックに派手に演奏する。

 しかしその基本はクラシックスタイルである。アンドレ・リューにかかるとどんな楽曲でも独自の演奏がなされる。だがものによっては原曲からあまり離れていると言わざるを得ないものがある。

 原曲が作曲されてから時代を経ると、演奏環境が変わる。ヨーロッパのクラシックなどは激変といってよい。作曲家やオーケストラを雇っていた、パトロンたる王侯貴族はいなくなった。
クラシック音楽を再生するには、どうしても金のかかるオーケストラが必要である。だから多くは公営となった。変化はそれに止まらない。視聴者のニーズが異なる。視聴者は大衆となった。

 現代の芸術家は大衆を相手にすると言った。その結果アンドレ・リューが登場した。しかし彼の演奏の多くを占めるクラシックは、元来大衆ではなく王侯貴族を相手にするものであった。王侯貴族の感性を相手にして作られた音楽は、あくまでもその感性の範囲で演奏すべきである。

 
日本人がクラシックに入るときの困難のひとつは、その感性があくまでも西欧人の感性で創られているということである。それと同じようなハードルが現代西洋人がクラシックを演奏、指揮するときにもあるはずである。

 前項で述べたように、演奏家や指揮者は個人の感性を発揮することができる。しかし、それには自ずと限度があるはずである。軽音楽を本格的なオーケストラで演奏するのは、あたかも軽音楽の格を上げたような錯覚に陥り聞くものにプライドを持たせる。


 しかしそれは軽音楽の「軽い」という良さを壊す「重い」ものであってはならない。自からのオーケストラで演奏することを前提としたポール・モーリアの軽音楽は、その点でマッチングが良いと言える。全てとは言わないが、アンドレ・リューの音楽には逸脱があるように思えてならない。


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