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1章 総論

 1.1 純粋芸術の淵源

 純粋芸術つまりArt for Artという観念は如何にして生まれたのであろうか。純粋芸術は哲学の産物ではない。画家も音楽家も中世西欧社会においてはパトロンの存在なしには語れない。画家も音楽家も市民社会のない中世社会においてはパトロンなしには裕福な生活はできなかった。これは芸能や芸術というものの宿命であろう。日本では芸人は河原乞食と呼ばれたの対し、狩野派の絵師たちは幕府お抱えの高給取りであった。

 これはまさにパトロンに依存して権威主義的な優雅な生活を送る者と、貧しかった市民社会に享楽を与えて実力で報酬を得ていた者との隔絶した人生の象徴である。浮世絵師たちがそれなりの地位を得ていたのは、江戸時代に市民社会が育ち、大量に印刷される浮世絵を購入する層が育っていたからである。一枚当たり単価の高い狩野派はパトロンに雇われなければ存在できず、薄利多売の浮世絵は市民層の購入力に依存することができたのである。


 私はパトロンに抱えられた狩野派やヨーロッパの芸術家を非難しているのではない。パトロンに抱えられることで芸術の健全な目的意識が生じ、まともな芸術家の人生を歩んだことは、大衆のために芸能活動したために、河原乞食と呼ばれた人たちにひけを取るものではない。芸術の価値は生活の貧富にも人格の善悪にも関係がない。ただ作品だけが証明する。ヨーロッパでは中世の王侯貴族の社会が崩壊した。すると多くの画家と音楽家は世間の寒風に放擲された。音楽は元々世俗のものである。歌謡を、民謡を歌わない民俗大衆はいない。音楽家は大衆に埋もれることができたのである。

 巨大な富がいるオーケストラを維持できる財力は与えてもらえなくても、芸術ひとりひとりが歌を歌い、楽器を奏でる程度の事であれば、とぼしい市民の財力はあてにできた。こうして王侯貴族に準じたベートーベンやバッハなどの生活はなくなった。しかし大衆に根ざした音楽はなくならない。しかも近代以降はレコードやテープ、CDの販売といった複製芸術としての媒体が、音楽家が名まで演奏したり歌ったりしなくても、自動的に収入を得るという奇跡を生んだ。技術が芸術に味方したのである。

 この奇跡を日本では江戸時代に、浮世絵という複製芸術ですでに実現していたのは、それ以上の奇跡であった。しかし西欧の画家にはその奇跡は起きなかった。パトロンを喪失した画家たちは一枚一枚の画を生活のために描かなければならなくなった。その道は困難である。モジリアニは生涯一枚の画も売れていない。素人でプロの歌手よりうまい者は世の中にいくらでもいる。それでも彼らはアマチュアと呼ばれる。モジリアニはアマチュアである、素人である。

 素人のモジリアニの絵画に何億という価値を生み出したのは偶然である。価値のないものに大衆が1セントの金を払わないのは大衆の見識であり、芸術の本質を知るものである。変わった画を発見した者にとっては、古代の化石の発見と同じである。骨董的価値である。こうして人気が出ると株式投資と同じで、値が上がると更に値がつく。このようにして投資物件としてのモジリアニの価値が上がったのに過ぎない。


 画家は生活に窮した。しかしまだ写真は存在しない。ニューヨークのメトロポリタン美術館のレンブラントの自画像をみるがよい。実際にレンブラントに似ているかどうかはわからないにしても、自画像が手をふれればぬくもりが感じられるのではないかと思われるのは事実である。現代の写真はそれ以上のものがある。しかし写真はまだない。当時の人々にとってそのような技量を持つ、少数の画家の技術は奇跡である。現実の生活における画家は生活における無能力者である。しかし依然として得意な能力を持つ不可解な存在である。

 画家はこの間隙をついて画家は自己の存在の正当化のために、純粋芸術という観念を発明した。現実の画家は生活能力もなく、存在価値の少ない存在である。だが彼らは「芸術」のために生きている。貧しい人生をこのように正当化したのである。これは時代により「印象派」やその他の流行として結実する。

 観念が一人歩きしたのである。彼らは嘘をつくつもりはなかったのである。だが彼らの真面目な嘘に本人も大衆も騙された。こうして純粋芸術という観念は成長する。運よく評価を獲得した画家は、たった一枚の画で何ヶ月かの生活費を稼げるようになった。


 そのような画家は多くはないにしても、生活の基盤ができる可能性はできたのである。このような傾向は西洋人の抽象的思考の好み、純粋な数学の研究などと並行した存在であったために、あたかも確固とした地位を獲得した。純粋な学問に対する純粋な芸術というわけである。

 この傾向は音楽などの他の芸術分野に伝播しないわけはない。こうして絵画から発生した純粋芸術は確固とした地位を獲得して、哲学者は多くの芸術論を著し不動のものとなる。日本人は明治の西欧文明の導入とともにこの観念も導入する。純粋芸術の観念は芸術に堕落をもたらす存在でしかない。


1.2 芸術の定義
 芸術について論ずる場合に最も障害となるのは、人によって言葉の定義が異なることである。用語の定義は全ての議論で重要であるが、特に芸術について論ずる場合は更に重要である。だいいち、芸術という言葉自体がすでに多義に用いられている。ある場合には美術、音楽などいくつかの表現の手法の総称として用いられる。

 他にはその分野に属する個々の作品自体を言う場合がある。更には上記の分野の作品のなかでも特に優れた作品のことを芸術と称することもある。人生は芸術であるなどと比喩的に用いられることすらまれではない。だが芸術の定義などということができるのであろうか。それはどうしてもしなければならないのである。

小学館の新選国語辞典第六版によれば「芸術」は次のように書かれている。

 特別の材料・様式・技巧などを使って美をつくりだし、表現する、人間の精神的・身体的活動。また、その産物。文学・音楽・絵画・彫刻・演劇などの総称。

 ある概念の定義とは何か。ものごとを定義した場合、ある事物が定義に合致しているか検証した場合、検証が可能であれば定義は有効であるといえ、そうでなければ定義としては意味をなさない。すると上記の定義はほとんど意味をなさないほど茫漠としたものであることが分かるだろう。美を作り出す活動というのだから。

 例えば落語は芸術か、とこの定義で自問したら、落語はお笑いだから美を作り出してはいない。美と言うのは単純に美しいと考えるべきであろう。笑いは美しくはないのである。するとこの定義からは芸術ではない、と言う答えが出る。しかし多くの人はこの答えに納得はしまい。ここに例示されたものの多くの分野の大部分は美しくないものが多いのである。このように辞書の定義は実は誰も納得できるものはない。

 この定義が意味をなすとすれば、ここに例示された分野を人は一般的に芸術と呼んでいる、と言う事だけである。それならば、ここに例示された以外の分野が芸術かどうか判定するのには、落語の例で示したように、この定義は役に立たないのである。多くの芸術論で芸術の定義を有効になしえたものを寡聞にして私は知らない。私は傲慢にも芸術を定義してみようと思う。実はそれができたのなら、本稿はほとんど出来上がったのに等しい。


 ここで芸術を定義しよう。

 芸術とは、人間の五感のいずれかを利用した表現物で、五感を通じて人間にある情感を生起させることだけにより社会的目的を達成する事によって、対価を得る事を目的とする成果物である。

 これでは抽象的で意味が分かりにくいだろうから、ここの言葉を説明して、定義を理解できるようにしようと思う。

 芸術とは社会的に実在する目的を達成するためのひとつの手段により作られた個々の作品を言う。ここで言う社会とは世間一般の幅広い社会でなくても良い。特定の集団に限定されても良い。というのはクラシック音楽は多数の大衆の社会のためのものではなく、特定の王侯貴族が自分たちの限定された社会の中で、いい音楽の趣味を有することを自慢する目的で作られたものである。しかしそれ故に芸術たるひとつの資格を満足している。

 この社会的目的を達成するために、論理などの理性にうったえるのではなく、人間の五感のいずれかを通じて人間にある感情を発生させるものである。五感であるから、一般の芸術のように視覚と聴覚ばかりではなく、味覚による芸術もあり得る。情感とは美ばかりではない、笑いや怒り、恐怖や同情、悲しみなど様々なものがある。漱石はこの感情を「美眞善壮」と言った。これが全てではないが、おおまかにはカバーしていると考えている。

 そして機能を持たないという条件も重要である。ここで重要なのは社会的に目的があるということと、五感を通じて人間に情感を発生させるということと、それ以外に機能がないということの3点である。社会的に目的があるということは後述するように純粋芸術の存在を否定する。純粋芸術とは芸術のための芸術、すなわち芸術に奉仕する以外に社会的目的を持たないとされているからである。それでは社会的目的とは何か。

 映画は一般には娯楽の一分野であるとされる。映画を楽しむために観客は来る。楽しむという言葉を広義に考えれば、映画は観客を楽しませるために作られている。それがより達成できる映画はより多くの人が見に来る。それによって興行収入が得られる。これが映画の社会的存在価値である。換言すれば映画の社会的目的とは観客を楽しませる事によって収入を得る、ということである。


 ではどうやって観客を楽しませるか。映画は音声と動画という手段で視覚と聴覚という感覚を通じて人間の笑い、恐れ、美的感情、勇気、あわれみその他の人間の情感を時系列的に呼び覚ますことによって観客を楽しませるのである。ニュース映画はこれとは異なり機能を有するために芸術ではない。ニュース映画は同じ手段で視覚と聴覚を通じてではあるが、人間の情感ではなく理性に訴えて現実に起きた事実を客観的に伝達する機能を有する。

 ときにはニュースと称しながら理性ではなく、感情に訴えて事実とは異なった情報の伝達を使用とする映画もあるこれはニュースではなく、プロパガンダである。その意味でプロパガンダニュースは皮肉な事に芸術と呼ばれる資格がある。ただしプロパガンダに多く事実が含まれており、理性に訴える部分が多ければ芸術と呼ばれる資格はない。

 これはあくまでも程度の問題であり芸術になったり、そうでなかったりすることもある。二葉亭四迷は革命前のロシア文学を爆弾を超える威力を持つといった。彼が文学を志したのは一面その故であるが、文学が人を扇動して革命に導く威力があるというのである。これは一種のプロパガンダであるが芸術である例である。


 機能について説明しよう。機能とは自動車が人を運搬する機能を持つ、建築は人が生活できるという機能を持つということである。従っていかに美しい自動車や建築もそれらの機能を持つことが最大の目的である以上芸術ではない。俳句は短い言葉であるが機能がないので芸術であり得るが、看板に書かれた「危険ですから入らないで下さい」という看板は危険防止という機能があり、かつ特定の感情を発生させることではなく、論理に訴えるのでどんなに「芸術的な」言葉を用いていようとも芸術ではない。

 工事現場で頭を下げていてご迷惑をかけます、という看板の絵は、謝っていると言う論理的判断により、謝罪の意味を伝達する機能を持っているので、芸術ではない。芸術が役に立たないが故に尊いという誤解をさせるのは、機能を持たない、即ち役に立たない、という事実のためである。現実的な機能を持たないが、芸術は社会的に広い意味での目的がなければならないのである。

 機能を持たないために芸術の誤解がひとつ生まれている。機能を持たないから、役に立たない。役に立たなくても美しいから芸術は尊い、という誤解である。機能を持たないが芸術は社会的に存在する目的があるのだ。つまり役には立つのである。純粋芸術は社会的にも目的を持たない作品を作っている人たちが、自分たちの徒労を合理化するために発明した観念である。と同時にそれを受け入れる一般の人たちにとっても、機能を持たないから役に立たない、純粋芸術と言う観念を受け入れるという間違いの元でもある。

 断定しよう。展覧会に出されるために制作される絵は芸術ではない。それは製作者だけのグループという特殊な社会の評価だけのために作られるからである。目的がその社会だけのためだからである。芸術の定義で言う社会とは製作者とその関係者以外の人間で構成される社会である。展覧会も一般大衆は見る。しかし出品者は展覧会の評価委員に評価されることを目的としているから、一般大衆のいる社会は関係がないのである。

 私のこの定義は低俗だとして認められないだろう。しかし芸術の定義として有効だと言う事実は変えられないのである。

(1)純粋芸術は存在しない
 純粋芸術という言葉は魔物である。多くの人が純粋芸術という言葉に魅せられて人生を棒にふった。芸術のための芸術、人に媚びることなく欲におぼれることのない芸術。そんなものは存在しえない。どこにそんなものがあるのか現物を見せてほしい。シェークスピアの戯曲、ベートーベンの音楽、レンブラントの絵画などを人は例にあげる。

 実はこれらのものは現世の欲望とも社会とも無縁ではない。シェークスピアの戯曲は文字どおり演劇の台本である。当時盛んであった演劇の台本のひとつに過ぎない。ベートーベンの音楽は当時貴族たちが音楽家のパトロンとなって有能な作曲家を雇って、貴族社会に子飼いの音楽家を自慢するたねであった。レンブラントも同様である。

 写真のない当時にあって人間の内面まで描くとされた絵画は依頼者にとって自慢の種で高額の依頼で取引されていた。すなわち現在純粋芸術とされているものは、当時の社会にあっては世俗の欲望の対象そのものであった。


 現在それが純粋芸術として扱われる原因は二つある。ひとつは当時の作家の直接の制作の動機が世俗的であれ、人間として当たり前のことであるが、内面の純粋性は人間の誇りとして残していて、彼らの言動や文章がそのようなものを多く残していた。場合によっては裏面では世俗的な依頼者を軽蔑していてさえいたのである。

 また西欧の人の常として物事を捨象して抽象化する癖があり、自らの作品の世俗的な部分を捨象した抽象的な議論を展開してみせる場合すらあった。このことによって後世には純粋な芸術というと言うものが実在していたかのような誤解を抱かせた。余計なことだが現在の作家、例えば純粋小説と呼ばれるものの作家であっても世俗的な動機以外に、人生の多くを尽くしている以上純粋な意気も存在することは当然である。

 多くの普通の職業人にしても単に生活のために働いているだけとは思ってはいない。もうひとつはこれらの時代が既に遠い過去となったことである。過去は全て世俗的な背景を洗い流す。つまり当時の世俗的な時代背景を現代人は実感として理解し得ないのである。それゆえ彼らの作品を抽象的に解釈する。そこで純粋芸術という抽象的な観念が発生するというわけである。

(2)芸術の製作コスト
 芸術的作品はコストがかかって当然だと言うのは間違いである。芸術的作品であっても社会的ニーズに見合った程度のコストであることが要求される。何億という値段の絵画の価格はそのものの価値とは無関係であるばかりではなく、単に投機の結果である。この意味で芸術作品特に絵画の価格は2重性がある。

 つまり製作された当時の取引価格と後世に絵画市場に出回って取引された場合の価格である。もちろん投機の対象になって高価になるのはごく一部の作品である。作品が投機の対象となるのは一個の物体だからである。物体として保存が可能だからである。オーケストラによる演奏は物体でなく音響だから保存が不可能だから取引の対象ではないから投機の対象とはならない。投機の際に払われる価格は作品の評価と無関係であることはいうまでもない。

 つまり作品が優れていなくても、買っておけば将来価格が上がると判断されれば高い取引価格がつく。投機をする人に必要な資質は作品の優劣を判断する能力ではなく、作品が売れるか否かである。売れるか否かはあたかも優れた作品だから売れるというカモフラージュがなされる。

 究極の判定は売れるか否かであって決して優れているか否かではない。モジリアニの例を取る。モジリアニの絵は生前売れなかった。社会的に無用なものを執拗に描き続けたからである。ところが死後誰かがこれはいい画だと言った。するとそれに価格がつく。買う者はいい画だから買うのでは必ずしもない。

 誰それがいい画だと言ったから、これは将来値がつくと踏んだのである。それが繰り返されてモジリアニの画は何億もの値がつく。すると画商の判定すべきことは、画の優劣ではなく、本物のモジリアニの作品かどうかである。画の優劣ではなく真贋の判定能力である。多くの画商はこのように真贋の判定能力に類稀な才能を持つ。それは必要から生まれた能力である。モジリアニの本物と判定されればあとは何号かで価格が決まるのである。

 東山魁夷の例を挙げる。別項でも述べるように東山魁夷の画は晩年に質が明らかに落ちる。それは年齢から来る眼力の衰えや筆力の衰えなど年齢から来る劣化が、技術の円熟を超えてしまったのであろう。それならば質が落ちた作品の価格は市場で下がるはずである。しかし東山魁夷だから買う者が居る限り、質が下がった作品だからといって市場価格が下がることはないのである。

 芸術の本来の価格はこのような投機的価値ではない。作品を必要とした社会的必要性に基づいて作家に払える金額のことを言う。私には分からない。純粋芸術を信奉する者にとってこそ芸術作品が投機の対象となるのは、芸術に対する冒涜と考えるべきなのではないか。

(3)レンブラントの衝撃
 ニューヨークのメトロポリタン美術館でレンブラントの自画像を見た。そのためにハーレムを見る機会を失ったが、良い機会も得た。レンブラントの自画像は皮膚の感覚があるようで、皮膚の下に本当の血管があるかのように素晴らしいものであった。実際にレンブラントと似ているかどうかは定かではないが、平凡だが生きているような絵というのはこのようなものをいうのだろう。

 当時このような表現ができるのは絵画しかなかった。だからこの絵に当時の人がレンブラントの魂が宿っている神秘を感じたとしても不思議ではない。絵画の精神性への追求はこのようにして始まる。常人ではなしえないことを画家はなしとげることができるのである。こうして芸術に精神性を求めることが始まると、芸術の精神性への追求が独立した観念として一人歩きする。

 その後写真が発明されるが、初期の写真はようやく姿を捉えるだけで芸術として独立はできなかった。だが現在の写真の実情はそうではない。レンブラントがなしとげた表現を「容易に」なしとげることができる。実は容易にではない。写真技術が改良されるには永い年月と多勢の技術者によるたゆまぬ努力が費やされて現在がある。これはある意味で絵画に画家が投入する努力に匹敵する。絵画を制作するには比較的簡単な道具だが、画家は個人で多大な労力を費やして作品を完成する。

 写真はカメラなどの写真機材を開発製造するのに多大な労力を費やす代わりに、写真家は比較的少ない労力で作品を完成させることができる。つまりバックグラウンドと作家の労力の比率が逆転しただけと言えないこともない。しかも画家にはある程度の才能が必要なように、写真家にも固有の才能が必要である。すでに多くが認めているように、写真は誰がとっても同じなのではない。

 写真は誰にでも撮ることができるが、あるレベルの作品を撮るにはそれなりの技術が必要である。だが絵画のような個人の労力の依存が減少したことにより、絵画に比べれば多くの人が比較的優れた作品を作ることができるようになったのも事実である。絵画における愚かさは前述の精神性が独立したために、写真が総合的に絵画より優位に立ったにもかかわらず、よりどころを精神性に求めるようになったことである。

 多くの絵画展に行くと作品の批評には必ず、何らかの精神訓らしきものが述べられている。本当は絵画でも写真でも何ら精神的意味はないのである。だがそうなっては多くの展覧会絵画に存在価値はなくなる。展覧会絵画に出すことしか絵画制作の動機を見出せないのでは情けない。何のためにこの作品を書きましたかと聞かれても、事実は日展に入選するためですという即物的なことを言ってはならないのである。

 写真と油彩を比較するのにもうひとつの視点がある。写真は発明当時簡単に見たものを再現できるハイテクであった。油彩はどうだったのか。これも発明当時、自在に画が描けるハイテクであったのである。そういう視点が必要なのである。そして写真が出現するまでは自在に見たものを表現できる最新技術であったのである。

 例えば馬車である。今ではスピードも遅く不便な乗り物である。しかし自動車などが発明されるまでは、歩いたり走ったりせずに人間が移動でき、重い荷物を運搬できるハイテクだったのであるが今ではクラシックで優雅な乗り物である。当時の状況を考えるには当時の油彩の役割を考えなければならない。多くの人々はこのような視点を忘れるから芸術の評価を過つ。

(4)ドリアン・グレーの肖像

 オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレーの肖像」は芸術に対する人間の幻想を見事に具体化している。美しい青年グレーの肖像は青年の代わりに年をとるばかりではない。青年の魂を具現化し、婚約した女優に平然と別れを告げると、肖像は残酷な表情となる。絵画が本人より本人を表現しているというのである。

 写真が一般に普及するまではこのような観念は一般的であった。すなわちすぐれた絵画は対象の外見を表すばかりではなく、作者の内面あるいは対象の内面をも表すことができるというものである。


 当時のひとたちがこのような観念を抱くのには無理からぬものがある。ニューヨークのメトロポリタン美術館にレンブラントの自画像がある。レンブラントの顔の皮膚は生きているようで、血液が流れていると思わせる見事な表現である。現代人はもちろん、当時の人でさえ実際にレンブラントを知らない人にとっては、この画が本当にレンブラントそっくりかどうかわからない。しかしこの画の人物はあたかも生きているように見える。

 このような作品の画ける者は少ない。だから多くの人が絵画に単なる似せ絵を越えた魂の表現として抽象化したとしても無理はない。こうして芸術を内面の表現としてとらえる特殊な観念は生まれた。だが事態は写真が発達すると一変した。現代の写真の高度な技術を使えば、より多くの人がレンブラントに負けないような表現が可能になった。もちろん誰にでもできるというのは間違いである。

 しかし写真の普及は圧倒的に多くの人に高度な表現を可能にした。しかも油彩に比べればはるかに少ない労力しか要しない。絵画が貴重であったのは絵画しか目で見たものを保存するという技術が他に存在しなかったからである。それゆえオスカー・ワイルドの時代にはドリアン・グレーの肖像は真実味があったのである。その間違いを写真が客観的に間違いであると証明したのにもかかわらず、観念だけが生き残った。

 写真が珍しかったころ、迷信深い人たちは写真をとられると魂が奪われると恐れたという。姿を忠実にとらえた写真に魂が移ると考えたのであろう。この発想は優れた絵画に魂が宿るという考えと根底で同じである。つまり芸術に作者の精神の発現を見るのは写真が魂を奪うという同次元の発想である。

(5)芸術と猥褻
@チャタレー裁判
 芸術と猥褻で思い出されるのは、伊藤整のいわゆるチャタレー裁判である。伊藤が翻訳出版した「チャタレー婦人の恋人」が芸術か猥褻かを法廷で争ったものである。内容の如何にかかわらず芸術なら猥褻ではないから、合法であり発効禁止にならないが、猥褻なら公序良俗を乱すので違法であるというのである。このような愚劣な論理を真面目に法廷で争ったのである。

 芸術だから猥褻ではないと主張した伊藤もどうにかしている。素直に考えるとこの判断基準は馬鹿げていることがわかる。芸術か否かというのを、丸か四角かという形状に喩えれば、猥褻か否かというのは赤か青かという色の相違に喩えられる。


 つまりこの裁判は、丸いものなら必ず青色であり、四角なものなら必ず赤いということを前提にしたに等しい没論理である。猥褻とは広辞苑によれば、男女の性に関する事柄を健全な社会風俗に反する態度方法で取り扱うこと、だそうである。換言すれば、それを鑑賞した場合に著しく性的興奮を喚起するものであり、社会に公然とさらすことの不適当なものの形容であろう。

 浮世絵の春画はどうみても猥褻である。猥褻でなければ春画とは呼ばない。だが同時に秘めやかにではあるが社会的要請があって制作されたものであるという点において芸術である。ミロのビーナスは確かに美術館で展示することが認められているが、少年少女ならば内心公然と見ることを恥ずかしく思う人たちもいるだろうし、地域や時代によっては猥褻と感じる場合もあるはずである。

 だがミロのビーナスは一般には優れた芸術とみなされているのは間違いない。浮世絵の春画でさえ一部の作品は優れた芸術と評価されているものさえある。ここで芸術と猥褻という表現を取上げたのは、芸術、特に優れた芸術は高貴なものであり、鑑賞者に不純な感情を与えるものではないという誤解が一般には存在するからである。

 特に日本人にはその傾向が強いように思われる。だがあえて言う。芸術は高貴なものもあればそうでないものもある。優れた芸術であっても同様である。高貴か否かということは扱うテーマや作家の作風によって至る結果でしかない。テーマが猥褻であれば、芸術も猥褻となる。それだけのことである。


A春画考
 春画とはすばり男女の性交渉の場面を描いたものである。特に浮世絵による春画は世界的にも有名である。見返り美人で知られる、初期の浮世絵の地位を築いたとされる、菱川師宣の浮世絵は春画の方が多いとされる。かつて日本では春画は修正した上でなければ公表されなかった。たが現在では美術書に堂々と公表されている。これはどういうことだろう。一方では現在でも写真による性交渉の場面は修正されている。無修正のものは裏本と呼ばれて、違法出版物である。

 一方では露骨に性交渉の場面を表現した春画は堂々と公表されている。線描であるだけに丁寧に分かりやすく描かれている。しかも春画について妙齢の女性評論家までが批評する。このようなことは裏本にはあるまい。春画が芸術として批評されても、裏本は芸術として批評されることはない。暗闇の存在である。だが同時代の人たちにとっては、裏本も春画も他人の性交渉の場面せい交渉場面を見ることが出来るという点において、その価値には変わりはないのである。

 江戸時代の人たちには、単に写真という表現手段がなかったために、春画で性交渉の場面を再現するしかなかったのである。つまり当時の春画は性交渉の場面をリアルに再現し、多くの人たちが見ることのできる唯一の手段だったのである。江戸時代の人々は猥褻だからこそ、春画を見たのである。春画は現代人がそのことを忘れているのは、浮世絵全般が芸術として高貴な価値を認められたからである。

 だから卑猥な心で春画を見ているのではない、芸術を見ているというわけである。だが「チャタレー裁判」の項で述べたように、芸術だから猥褻ではないというのは、三角だから赤くないというようなもので、論理が破綻している。猥褻な芸術というものの存在を証明している。現代人が春画を猥褻と感じない原因はもうひとつある。写真というよりリアルな表現手段があるために、春画による性交渉場面などは、現代人にとって性的刺激が低いものになっているのである。


 だが江戸時代の春画作者も大衆もそのような気持はなかった。現代人が卑猥な心で裏本を見るごとく春画を見ていたのである。歌麿などの浮世絵師は現実に男女が性交渉するところを見てスケッチして春画を制作しているのである。そうでなければ、デフォルメはあるものの、あれほどリアルな性交渉の光景は描けない。春画は単に裏本と同等なのではない。もし春画を描いた歌麿が現代に生きていたなら、裏本が単なる写真であることに満足しない。実際の性交渉で男女が動き、声が出るものを求める。すなわちアダルトビデオである。さらに無修正の裏ビデオである。

 もうひとつ奇妙な現象がある。コミックの同人雑誌である。コミックの同人雑誌は関係者以外に公表されないために、露骨な性表現が許されている。絵画の一種である点で春画と似ている。だが世間では単なる卑猥な出版物ということで「芸術」としては扱われない。だから公開も許されない。確かに同人雑誌は素人が多数むらがっているために、絵画としてのレベルは低い。が本稿でいう芸術の定義からすればこれは不当である。芸術の名称は質の高低を保証するものではないからである。

(6)芸術大学とは何か
 日本にも芸術大学なるものがある。大学は学問を研究すると同時に学問を学生に教授するところである。だが技芸としての芸術は学問ではない。すると芸術大学は語義矛盾である。東京芸大は当初、東京美術学校といった。学校とは学問以外に料理学校などの技芸を教える場所もあるからこれは正しい。大学は別に存在したのである。ちなみに当時の日本語の「美術」とは今で言う芸術の意味であった。なぜ芸術大学を取り上げたか。それは芸術大学そのものが、権威付けの場所と化してしまったからである。芸大を出たものとそうでないものに差別を作る道具と化してしまったからである。芸術は最も権威から遠いものではなかったか。

 東京藝術大学の美術学部には、日本画専攻と言うのがある。その入試には実技として、素描、と言う必須科目がある。素描とは単なるスケッチ、と言う意味があるが、ここではデッサンの意味である。デッサンには例外的に浮世絵からの影響を受けた、線描のものがあるそうだが、ここでは洋画のデッサンである。洋画のデッサンは、基本的に物の形を鉛筆等の無彩色で立体的に表現する方法である。例えば円錐形のものがあれば、陰影によって円錐形である事が分かるようにする事が基本である。その事は一見、物を見たままに正確に表現する事のようである。しかし実際は微妙に違うのである。

 飛行機で羽田に着陸する前に富士山を何回か見た事がある。富士山は周囲から際立って高く、昔東京空襲の爆撃機が、富士山を目標にして、そこから東京に向かったという意味が実感できた。ある時の富士山は、切り絵で三角に切りぬいたような形だった。富士山の形は実際には、円錐の頂点をカットしたような形である。しかしその時は立体的ではなく、三角の頂点を少しだけカットしたような台形の平面的な形に見えたのである。デッサンの場合には、たとえ目にはどのように見えようと、円錐形であるのが事実なら、そのように描かなければ不合格である。私は長い間富士山を見て暮した事がある。だから富士山がどのように見えるかは脳裏に焼き付いている。ところがよく見る油絵の富士山の絵のほとんどには違和感がある。

 違和感があるのはデッサンの技法を基礎にして描かれた絵である。それよりは、よほど浮世絵の平面的な絵の方が違和感がない。私は今まででたった一度だけ赤富士をみたことがあるが、北斎の赤富士はその時の印象を適切に表しているように見える。古来の日本の絵画の技法は見たように表す事を基本としているように思われる。 絵画の技法は普段のトレーニングの影響を受ける。デッサンのトレーニングをすれば、人はその影響を受ける。伝統的な日本画は洋画のデッサンとは対極にある。例えば、もし北斎がデッサンのトレーニングを受けていれば、あのような絵は描けなかったのである。つまり日本人が皆田さんを必須としていれば、浮世絵は生まれていなかったとさえ言える。それならば日本画専攻の者にも、芸大でデッサンの技術の習得を必須としている事は、そのような可能性の芽を摘んでいるとも言えるのだ。

 私は日本画に対するデッサンの良い影響の可能性を否定するものではない。伝統的な日本画からの別な可能性の発見があるからである。しかし全員にデッサンの技術の習得を要求する事には疑問がある。デッサンの技術を習得できないが才能がある者、あるいはデッサンの技術の習得が、本来の才能をつぶす者もいるはずである。私の疑問はその事にある。藝術大学、と言うのは明治の西洋文明の習得の一環として設立された。その根本には科学技術は、西洋以外の文明圏にも、普遍的に適用可能なものであると言う発想が根底にある。例えば科学技術は自然現象をうまく説明し、それにより蒸気機関などの文明の利器を作る事ができる、という考えである。たしかにそれは一面の真実であろう。

 同様な発想で明治の日本では洋画を導入した。遠近法も陰影のない平面的な日本の絵画は、明治の日本人には、いかにも非科学的で貧相に見えたのである。しかし日本の絵画の技法は日本の風景や人物を適切に表現するために生まれたものである。必ずしも間違っているものではない、という発想ができなかったのに違いない。民間でも洋画の技法を取り入れるのと並行して官立の美術学校が作られた。そけが芸大の前身である。しかし芸大は日本人のニーズから設立されたものではない。だから芸大を出ても仕事はない。そこで画壇なるものが構成された。つまり芸大などを出た人たちの活躍の場である。それはやがて院展などとして展覧会画壇に発展する。ここで展覧会のために存在する、という奇妙な絵画の世界が発生した。展覧会の藝術に対する悪影響は別に述べる。

(7) 芸術は目的に基づく分野であって結果ではない
 
ファッションイラストレーションは芸術であろうか。否である。本来のファッションイラストレーションの目的は、ファッションデザイナーが衣服の製作者に衣服の基本構想を伝えるための概念図である。いわば設計図である。確かにデザイナーは、イラストレーションが持つ視覚的効果により発生する情感を利用する側面もある。しかしそれは自分が構想している衣服の概念を正確に伝えようとするための手段に過ぎない。

これに良く似たものがカーデザイナーが描くカーイラストレーションがある。これもカーデザイナーが、自分の基本構想を実際の車のボディーの設計者に伝達する手段である。もちろん実際に製作する車の形を正確に描くのではなく、イメージを伝えるためのデフォルメがなされている。だからこの二種類のイラストレーションは、基本構想の伝達手段である、という点において科学論文と同様である。科学論文は科学者の発見を伝達する手段であると言う点において文学ではない。

つまり目的が作品の分野(ジャンル)を生み、分野によって芸術か否かが区別される。結果が「芸術的」印象をもたらしたか否かは関係が無いのである。繰り返すが、ファッションイラストレーションは、デザイナーの意図を伝達すると言う機能を果たす目的と、その目的を達成する分野に属するものである、と言う点で芸術ではない。ただしファッションイラストレーションの技法を用いた絵画には芸術に属するものがあることを付記する。


1.3 優れた芸術とは結果にすぎない
 本稿では芸術のうちで一定水準を超えてすぐれたものを「優れた芸術」と呼ぼう。例えば従来の言葉で、この絵は「芸術」である、という表現で優秀なものであると評価されたものを言うとも考えてよい。ただし本論ではどのようなものが優れた芸術かという、評価基準には言及しない。その意味で本論は通常の芸術論でもなく、美学でもない。

 ここであえて優れた芸術といったのは、一般に芸術という言葉を使う際には優れているものということを暗示していることが多いからである。例えばある小説が劣った作品である場合にはこの作品は芸術ではない、と否定してしまうためにも使われる。しかし1.2項で述べたように本稿ではそのような立場をとらない。

 芸術にも明らかに優劣がある。しかも優れた作家の作品にも優劣がある。ただし優れた芸術は人を普遍的に感動させる何かがあると言われる。私にはその真偽を知らない。しかしそれを否定することもできないのである。

 優れた芸術作品を作ることは芸術作品制作の目的だと大部分の人が誤解している。展覧会に応募する画家の多くが、優れた芸術作品を制作することを目的としている。だがそれは結果なのだからそんな事を目的とすること自体が空虚である。芸術の制作の目的とはあくまでも芸術に対する社会的要請に応えることである。

 えげつなく言おう。現代の演歌はステージやショーで歌い客を楽しませ、CDを売ることができるというのが社会的要請である。そこで人を感動する歌をうまく歌うことが必要となる。そうでなければ売れないからである。その結果売れる演歌は優れた芸術である確立が高くなる。しかしそれは結果のもたらすものであって目的ではない。

1.4 芸術分野
 芸術分野とは例えば絵画のように視覚による芸術のうちの特定の表現手段によるものの総体を言う。芸術の表現の手段によっていくつかの芸術分野に区分される。芸術分野は単に芸術の所属する分野であって、ここにも価値判断は含まない。例えば絵画全盛で写真が揺籃期のころの写真は芸術とはみなされなかった。この点は本論も同様である。

 しかし、一般には初期の写真が絵画より低級であるとみなされていたために芸術とは言われなかったのに対して、本論では初期の写真は技術的に未熟であったため、作家の表現手段として不完全であり、人間の感覚を通じて情感にうったえる手段とはなりえなかったためと考えるものである。


 写真が低級であるゆえに芸術ではないとすれば何故、現在写真にも芸術と呼ばれるものがあるのかの説明はできない。写真がカメラという機械を用いて「一見容易に」見たものをそのまま映像に定着できるように思われるという点ではあまり変化がないのである。だが厳密に言えば現在でも全ての写真を芸術とは呼べない。

 芸術と呼べるのは先の芸術の定義を満たす写真を芸術と呼ぶ。単なる記録のための写真というものは数から言えばはるかに多く存在するが、これはさきの定義からして芸術ではない。以下に簡単に各芸術分野について述べる。


(1)絵画
 絵画は芸術分野のひとつである。視覚による芸術のうち、平面上に構成され、単体で成り立つことのできるもの。アニメーションのような動画は含まないのはもちろんである。一般には芸術分野としての絵画と、他にも絵画と同様に平面上に構成する表現があるが芸術の定義に合致しないものもある。本稿では便宜上後者を絵として絵画と区別する。

 美術学校の学生の描く絵は習作であって絵画ではない。道路標識も絵に属する。道路標識は人間の情感ではなく理性に訴える。理性によって右折車線だとか進入禁止という客観的情報を与えるためにある。ただ標識や信号のような情報伝達手段であっても人間の情感に反しないように安全は青、危険は赤という配慮がなされるのはもちろんである。しかし目的が情報の機械的伝達であるから芸術ではない。


(2)文学
 視覚による芸術の分野のひとつ。文字による芸術。文学は表現の形式により詩や小説などに分類される。俳句は更に詩の一形式である。文学は形式的には視覚による表現手段であっても、言語が元来音声をともなうものであるために視覚的に人間に認識されるが人間の内部では音声に変換されて鑑賞されると考えられる。

 和歌は朗詠されるつまり、音声だけによって伝達することも多く、起源から言えば文字の表現は単に記録の手段であった時期もあることから、文学の一極端は聴覚による表現である。その一方で音声の効果ばかりではなく、記録された文字の視覚的美しさをも利用する場合もあるので聴覚と視覚の複合芸術でもある。

 前述のように文学は現在では視覚により伝達される芸術である。しかし伝承文学は文字のない時代に始まっていると考えられる。その意味では聴覚の裏打ちがあるというべきである。しかし一方で明治文学は旧かな使いで書かれている。そして明らかに旧かなと現代かなで印刷されたものには味わいの差異がある。つまり視覚表現が定着した結果、視覚芸術という側面は単に表面的なものに止まっているとは言えないのである。

(3)小説
 文学の1分野である。筋をたどることを主体とした文学。シェークスピアの戯曲はあくまでも演劇の台本であって厳密には文学ではないというべきであろう。つまり音楽の楽譜に相当すると考えられる。ところが楽譜と異なり文章で表現されるために、あたかも小説であるかのように鑑賞できることにより誤解が生ずる。

 小説は広義のエンターティンメントである。つまり娯楽である。娯楽と言っても、ただ面白、おかしいだけ、という意味ではない。小説を鑑賞することで、何らかの精神的な楽しみを享受することができる、という意味である。それ以外に何の目的が小説にあるというのだろう。小説がエンターティンメントであることは、その価値を少しも減ずるものではないことは、言うまでもない。

 二葉亭四迷は、文藝は男子一生の仕事にあらず、と断言しながら、最後には生活費としての給料をもらうために、其面影というエンターティンメントとしての傑作である、恋愛小説を書いた。それは二葉亭が文学とはエンターティンメントである、ということを理解してしまったからであると思う。

元々二葉亭が、将来の敵性国家のロシア語を学ぶうちに、ロシア文学に傾倒したのは、ロシア文学が革命運動とリンクして、政治的価値を持つものだと誤解したためだということは、本人が吐露している。

 それならばロシアにおいてなら小説はエンターティンメントではないのだろうか。そうではない。ロシア文学に傾倒したロシア人が、エンターティンメントである小説から、革命思想を引き出したのである。ロシアにおいても、小説における革命思想とは、エンターティンメントの題材のひとつに過ぎなかったのである。いくら書いた小説家自身が、本気で革命思想を書こうとしていたとしても、である。

 このことは、多くの日本人が漱石の作品を読んで、明治の思想を理解しようとしているのに似ている。もし、エンターティンメントではなく、思想を論ずることが漱石文学の真の目的ならば、漱石文学に書かれた思想が間違っていれば、漱石文学は価値がない、という奇妙なことになる。亡くなられた渡部昇一氏は、漱石は若くして死んだ、と喝破した。確かに漱石が死んだのは49歳という若さである。

 80歳を超えた渡部氏には、漱石文学に書かれた思想の未熟さを言ったのである。後年、小宮豊隆らの高弟が、漱石を聖人のように持ち上げることの方が尋常ではない。だからといってエンターティンメントとしての漱石文学の価値は少しも減ずることはない。文豪、と呼ばれる人たちの言葉を、思想の論理として真に受けるのが間違っているのだ。だから思想を語っても正しいとは限らないし、情感に訴えるエンターティンメントなのだから、論理的に正しいか、否かは関係ないのである。

  鴎外は、小説がエンターティンメントに過ぎないことを理解し、北條霞亭のような史伝に逃避したように思われる。大塩平八郎の乱などの歴史小説といわれるものを描いた結果、思想を小説で表現することの無駄を理解したのである。伊澤蘭軒などの史伝は、エンターティンメントたることを放棄し、単に鴎外自身の知的興味を満足させるために書いたものとしか考えられない。鴎外の史伝を高く評価する専門家は多い。

 しかし、エンターティンメントたることを放棄した以上、小説の形式をとってはいても、文学の範疇には入らないとはいわないが、文学としての価値は低い、と言わざるを得ない。鴎外自身もそのことは充分承知していたはずである。小生も伊澤蘭軒を無理して読もうとした。何日に一度、2〜3ページずつでも読んで、何年かかけて読破しようとした。

 しかし、読むことから精神的楽しみを得られない自分自身に素直になって、読破を放棄したのである。だから小生は伊澤蘭軒を四分の一も読んではいない。史伝の類でも、初期の渋江抽は読み終えた。一見淡々と文学的装飾をした文章の中に、時々色気らしきものを感じ、それを充分に楽しむことができたのである。

 鴎外が伊澤蘭軒その他を書くことができたのは、悪く言えば自身の文学者としての名声を悪用したのである。鴎外はこれらの史伝を文学として楽しむことが出来るのは、例外的な人物であることを知っていたとしか考えられない。

鴎外の名声がなかったら、これらの史伝に類するものは出版することもできず、購入する読者もいるはずがなかったのである。そのことは、芥川賞を取ったから、その作品を買う者がいるのと、同様である。だから芥川賞を取った作家の作品でも受賞直後だけ売れて、その後の作品が面白くないから売れず、廃業せざるを得なくなる場合があるのである。

 芸術には目的があるといった。文学の目的はエンターティンメントである。つまり精神的な娯楽である。文学はコミックなどと違い、文系の学術書と同様に、主として文字によって表現をする。そこで人は、文学に思想を求めてしまうのである。特に純文学と呼ばれる作品には、そのように扱われる傾向が強い。

 推理小説だとか、SFだとか、歴史小説は、単に特定の題材に特化しているのに過ぎない。刑事や探偵などによる推理を主題としているから、推理小説と呼ばれるのである。エンターティンメントの題材を、特定の分野に絞っているのに過ぎない。文学に思想を求めること自体は間違ってはいない。ある時代に書かれた以上、その時代を背景とした思想がある可能性があるからである。

 ただそれは文学を楽しむのではなく、文章を解剖する作業である。思想を考える上でのネタにしているのである。かと言って文学評論の中にそのようなものが含まれていても間違ってはいない。ただし、文学から思想を抽出しようとする作業だけしているのは、文学評論とは言えない。繰り返すが、文学に書かれた思想が正しいか否かは、文学の価値の評価とは別の話である。



(4)音楽
 芸術の分野のひとつである。聴覚により表現する芸術。音楽に文字のような論理性はない。すなわち音楽は情感に訴えるばかりで、客観的情報を伝達するという機能を持たない。音楽は大部分が芸術であるとしかいいようがない。

(5)写真
 写真は視覚による芸術である。しかし写真は単なる記録写真もあり全てが芸術であるわけではない。世の中に存在する量から言えば大多数が芸術ではないが、現在でも芸術に属する写真を通常の写真と区別する名称がない。大部分の写真は一般的常識どおり誰がとっても同じ写真であって、客観的に見たままに近いものである。

 しかし写真の技術にたけた人によれば、写真は絵画と同様に作家の意図により自由な表現ができるだけ写真の技術は極限に進歩している。現在では写真はみたままで、誰が撮っても同じというのは間違いである。


(6)芸術分野の盛衰
 芸術分野は常に固定して存在するわけではない。常に盛衰を伴う。衰退とは完全になくなるものと不活発ながらも存在する場合の2種類がある。歌舞伎は劇場で演ぜられることにより再現されて我々にも鑑賞できるが、新規の創作活動が行われないので完全になくなったといえる。映画は新規に製作され時折ヒット作が出るので存在はするが大部分の需要がテレビに奪われているので不活発ながら存在するものに属する。

 芸術分野の盛衰は技術の発達と社会的ニーズの変化である。大きく見れば技術の進歩が社会的ニーズを変えていると言えないこともない。映画が衰退したのはテレビが発達したからである。部屋に居ながら映画と同様に映像と音声を使ったものが只で見られる。これで映画が衰退しないはずがない。なるほど映画マニアの言うように、映画とテレビの機能は全く同じではない。

 それどころか画面の大きさと音声の迫力と言う点ではテレビを遥かに凌いでいる。しかしそれが必ずしも映画がテレビに負けない要因にはならなかった。上記のようなメリットを有効に生かした少数の作品だけが生き残る傾向にあるのは明白である。技術がより発達した後発の芸術のメリットは、その分野に多数の人が就業することによって才能ある人間が多数創作活動に加わることになったからである。

 更に感性のある人ほど新しい技術を求める。感性の鈍い人ほど新しい技術の持つ可能性に気付かないからである。古い技術の芸術分野に固執する人は多くの場合価値の確立した芸術分野に安住したがる。映画も現在では映画芸術などと言われるが登場した当時は軽蔑されていた。世の中は常にこれを繰り返しているのに多くの人は気付かない。

 浮世絵は版画と言う印刷にない味わいのある作品を作る事が出来るものだという誤解がある。版画は当時の最新の印刷技術であった。そのために彩色の上にグラデーションまでつけることすら可能であった。現代のように印刷技術の発達した時代には浮世絵は再現性が少なく不完全なものに見える。だが当時はそれをいかにして克服するか工夫していたのである。

 それでもビアズリーのイラストレーションの如く原画の製作にまで製版技術によって制限された。それでも江戸時代には絵を大量に出版する技術として重要であった。版画は印刷技術や他の要因によってハイテクからローテクになった。技術の進歩は常にそうしたものである。


 ハイテクはいつまでもハイテクでいられることはない。ハイテクとは製作に当時の最新の技術を必要とし、大衆には不可能なものである。時代が版画をローテクにしたことを証明して見よう。江戸時代には版画を庶民が作ることはできない。だが現代では誰でも作ることができる。本当である。
 
なぜなら、版木、絵の具彫刻刀は現代では誰にでも手に入れることができるが江戸時代には特殊な人達しか入手できない。文明の発達によって安くて品質のよい材料が容易に手に入るようになったからである。版画を作ることと材料の入手難易と関係ないと言うことはできない。

 技術とは個人の技能ばかりではなく社会環境も含まなければならない。ハイテクは特殊な材料を使って特殊な技能を必要とするものである。多くの場合、職人芸を必要とする。だから高価になるのは当然である。材料、技能ともに多数の労力の集積だからである。

 ロケットのノーズコーン(先端の尖った円錐型の部分)をみよ。町工場の職工の勘にたよって製作されている。ロケットのフェアリングは手作りで作られている。ハイテク製品は高い。それは大量生産ができないからである。常に最先端の技術にはこの問題がある。

 最新鋭の軍用機の製造工程を見よ。多くの工員がよってたかって工具による手作業を行っている。手作業でしかまだできない部分が多いからだ。製造数が少なくて手作業の方が有利な場合と製造工程を自動化できない場合は区別されるべきである。


1.5 作家
 芸術の分野を問わず、芸術作品を制作する者を総称して本稿では作家と呼ぶことにする。作家という語はかなりの場合において常識的には適切ではなく、分野によって個別に異なる用語を使い分けるべきであろうが、芸術全体を総合して制作する者を論ずる場合には作家を用い、個別には作曲家等の適切な用語を用いることとする。

 古典的な絵画における作家は明確にその絵画を描いた人に他ならない。だが古典的なものであっても演劇や浮世絵の場合など、普通の絵画のように単純なものはむしろ少ない。演劇の場合脚本家、監督、俳優、美術など多数の人間が参加して始めて成立する。浮世絵の場合でも絵師ばかりでなく、版木を作るもの、刷る者など複合的な作業の集大成である。

 音楽は作曲家と演奏者、声楽家の総合である。音楽の場合、声楽家の個性によるところが非常に大きく、その声楽家のためのようなものすらあり、作曲家が付随的に認識される場合すらある。歌舞伎を印刷とみれば、現代の印刷ですら印刷工場という巨大な組織が介在する。このことは思ったより重要なことであって、日本の写真入りのカレンダーが珍重されるのは他の国より印刷技術が進んでいるからである。

 こう考えてくると、場合によっては作家という言葉にあまり重きを置く必要がないのかもしれない。換言すれば多くの場合、作家の名前はその芸術作品の制作に携わったものの代表者の名前に過ぎないと考えた方がよいのかもしれない。

(1)小説家
 小説の作家を言う。実際には小説家が最も作家と呼ばれてもさしつかえないものだが、詩人などの作家と区別するために使う。

(2)画家
 絵画の作家を画家と呼称することにする。画家とは古典的用語であり職業にもとづく名称としてイラストレーターなどがあるがこれも含まれる。逆に言えば画家とは絵画という芸術を制作するものの総称であって、職業人しての区分をする名称ではない。つまり画家という職業はないと言わなければならない。

 画家を自称するものは芸術の権威にすがるものである。職業としての画家は存在するとすれば、展覧会のために描く者である。展覧会は社会的存在ではない。社会に開かれているようにみえながら実は自閉的世界である。

 二科展を目指す若者よ。恥かしくはないのか。女優や歌手という本来の職業を持つ者たちの明らかに下手な余芸が二科展には登場しているのだ。若者よ。二科展に入選したところであなたはその素人に肩を並べるに過ぎない。

(3)作家のピーク
 評価が確定した多くの著名芸術家の場合、案外閑却されているのが作品個々の出来の良し悪しの評価と、どんな作家にも技量ののったピークがあるということである。ピークに向けて作品の品質は向上して、ピークを超えると明らかに衰えるということである。例えば東山魁夷の作品を時系列的にならべた個展を見たことがある。晩年の魁夷の作品は明らかに技量が落ちていることが見て取れる。

 年齢による体力の衰えが、経験による向上を超えてしまったこと、視力の衰えなどの原因があるのであろう。しかし主催者側では誰が見てもわかるはずのこの事実に触れない。鑑賞者も何故か気付きもしない。芸術の制作には技量を必要とする。従って年齢その他の原因によるおとろえはある。作家の制作能力にはピークがある。

(4)作家は職業である
 「芸術と社会的要請」の項で述べたように、芸術は社会的要請によって制作される。すなわち芸術は趣味の領域ではない。芸術が趣味でないとすれば、作家はアマチュアではなく、職業人でなければならない。職業とはその行為によって生計を支えるものである。ある作家が芸術の創作によって全ての生活を支えるのではなく、生活費の一部をまかなうということもある。

 モジリアニの絵は一枚も売れなかった。だからモジリアニは画家ではない。画家ではないからモジリアニはアマチュアである。モジリアニの絵は従って芸術ではない。モジリアニは死後なぜ売れたか。投機的価値である。そのことと芸術とは何の関係もない。

1.6 芸術と社会的要請
(1)芸術と社会的要請
 芸術の分野を問わず、芸術を作ることを「制作」と呼ぶことにする。これも総合的名称であって個別には作曲のように呼ばれることもある。この定義によれば植物図鑑の挿絵を画くことは芸術ではないから制作ではない。植物図鑑の挿絵を客観的に見て当該分類の植物だと理解できるように描くことが目的であり理想だからである。

 植物図鑑の挿絵の高度な技量のものは芸術に入れたい誘惑にかられる人は多いだろう。だが本当は図鑑の絵として必要な技量が向上すれば主観性が失われなければならないので、芸術から離れていく。

 別の例を挙げよう。道路標識は視覚によって機能する。しかも社会的存在価値がある。だが道路標識は人間の情感にうったえるのではなく、というよりむしろ喜びや恐怖といった人間の情感にできるだけうったえることなく、客観的に右折車線だとか進入禁止だとか言う客観的情報を伝達するためのものであるから芸術ではない。

 逆に芸術であることは道路標識の機能を損なう。信号や標識を見て興奮して理性を失うようでは危険だからである。あくまでも情感ではなく理性にうったえるものでなくてはならない。


 ここに言う社会とは芸術の制作時点に限定される。すなわち作品が後世に残り、結果として何らかの異なった社会的に意義のあるものになったとする。そのような意味においての社会ではなく、あくまでも制作当時の社会的存在について言っていることに注意されたい。後世ではなく、作家にとっての現代である。
 芸術は社会的要請により制作するというのが第一義であって、芸術家の内面的要請は第二義的なものである。社会的要請とは何か。現代では、絵画であれば本の挿絵(イラストレーションの類)、音楽ならCD制作などである。ここではイラストレーションを例にとり、社会的要請と芸術の関係を説明する。現代の絵画はイラストレーションにつきると言ってよい。絵画のなかで社会的要請があるのは、現代日本ではイラストレーションだけといってよい。

 イラストレーションは文字通り説明である。本の表紙ならば本の中身をイメージするものである。挿絵ならばストーリーを表す。意外なものではプラスチックモデルのボックスアートがある。これらのイラストレーションの画家は内面の欲求によって描くのではなく、依頼者からの要求に従って描く。

 画材や作風は要求に適合した表現が可能なものを選択するのが本来であるが、一人の画家が多数の画材や作風を使い分けられるわけではないので、通常依頼者が要求に合致した画家を選択する。


 最近、小説のイラストレーションに漫画が使用されるのは、漫画で違和感のない小説に使用するのはもちろんであるが、漫画が普及して多くの人が漫画による表現に慣れるようになったためである。挿絵が使用されるのは単に説明というよりは、活字ばかりの重苦しさを軽減するという目的もある。

 芸術の社会的要請の重要性は社会的要請が作家に制作の目的意識を与え、画の題材の選択や描き方などに明確な指針を与えることにある。自由に描いてよいということは気楽なようで実は重大な誤りである。制作に目的意識があり、画の題材の選択や描き方などに明確な指針があるということは生き生きした画を描くために必要な条件である。優れた芸術を生み出すのに必要な条件である。

 もちろん社会的要請がある作品全てが優れた芸術であるとは限らない。いや希であろう。しかし、社会的要請のない作品には優れた芸術となることはないのである。展覧会は社会的要請ではない。展覧会は作家に目的意識を与えてくれないからである。油彩とか水彩とか基本的技法に制限を与えるだけであとは自由だからである。

 だから日展などの展覧会に優れた芸術はない。これは事実が証明している。彼等は内面の要求だとか芸術性だとか抽象的な観念を主張する。だがこれは彼らの自尊心を失わないための虚構である。事実は彼等の意識は審査員あるいは師匠にいかに気に入られるかに集中している。展覧会という純粋な領域に見えるが実はもっとも不純である。

 私の知人に日展の彫金部門に何度も入選している男がいる。ところが師匠はたいがい高齢なので亡くなることがある。すると彼は日展に受からなくなるというのだ。そして新しい先生に付くとまた入選をするという。これは偶然ではなく、既にそんなことが2度あったというのである。

 展覧会は審査員に媚びるのである。同じ媚びるのなら鑑賞者に媚びなければならない。画を買ってくれる人に媚びなければならない。小説家は編集者に媚びるというなかれ。いくら編集者に気に入られても読者に気に入られなければ小説は売れない。売れなければ編集者も困る。

 だから編集者の理想は読者に売れるかどうかを判別する目を持つ者である。読者のニーズをつかむことのできる者である。漱石は芥川龍之介に、小説を書くには批評家を押すのではなく、読者を押せとアドバイスした。このアドバイスはこの意味において正しい。

 ただしテクニカルイラストレーションは芸術ではない。テクニカルイラストレーションはいわば図面であって、学術論文と同じく客観性を基本とし、情緒を排するのが原則だからである。現代は商業社会である。その意味で芸術作品は商品である。商品であると言うことが社会的要請を生み出し芸術を芸術たらしめる。

 一般的に芸術は商業主義とは隔離されたものであるべきだと考えられているが間違いである。「芸術」なる概念が一人歩きすると、展覧会芸術というゆがんだものを生みだし、多くの有能な作家を徒労に追いやっている。なるほど王侯貴族の時代では現在と異なった芸術の存在形態があった。その類推で現代の芸術のあり方を規定してはならない。

 作家を庇護すべき王侯貴族は現代にはいない。その代わり大衆が商品の購入という形態を持って芸術の存在を維持している。それも現代の社会的要請を満たしての話である。作家の内面の要請は過大に評価すべきではない。芸術はあくまでも社会的要請があって始めて制作される。これに付随して作家の内面の要請が生じたり、活きることもある。

 しかし内面の要請だけにより芸術が生まれることはあり得ない。内面の要請とはやっかいなしろものである。実は内面の要請とは作家が単に社会的要請により制作したのではないという、作家の自尊心に満たすためか、後世になって鑑賞したものが作品を捨象した観念の産物である。例えば人生の苦しみを表現するという内面の要請により制作したなどというのは詐欺か詭弁に等しい。それは写真を撮られると魂を奪われると言った類の迷信と同類に過ぎない。

 後世の人間は当時の社会を知らないから、芸術を生み出した真の社会的要請を知らない。社会的要請は消えて見えなくなり芸術しか残らないから、無理して作品の中から作家の内面の要請なる観念を発明した。


 これは元来西洋人の得意とすることだが、西洋人の芸術論にかぶれるに従い現実的なはずの日本人すらこのような主張をなす。内面的要請があるとすれば、制作の過程で作家に意識されずに発露されるものである。展覧会なるものは、芸術は社会的要請なしには制作され得ないものであるのに、観念の産物である作家の内面の要請を実現するために、擬似的に産み出された社会的要請である。

 もし内面の要請だけで芸術が存在するのなら、展覧会などに応募せずに制作するがよい。これなど展覧会に応募するために制作を行うのと同様にグロテスクである。芸術は必要から生まれる、というのが本論を書くひとつの動機であった。これは純粋芸術の否定である。

 多くの人と同様、私も純粋芸術ということを何となく信じていた。純粋芸術の信奉は芸術至上主義である。私が純粋芸術の考えを捨てたのは以下のような経過である。あるイラストレーションの雑誌で竹久夢二を見た。日本のイラストレーターの草分けであるという。低俗であるといわれるが素直に面白い。

 昭和四〇年台の後半である。雑誌「太陽」に特集が出る、各地で展覧会が行われるなどして一種の夢二ブームがあった。多くの大衆に好まれたのである。ところが夢二は美術史には登場していなかった。美大など正規の絵画教育を受けておらず、有名な展覧会の入選経験もない。画壇の人ではないのである。

 大衆に人気があるにもかかわらず、芸術としては認められない。それならば画壇のいう芸術ための芸術という概念がおかしいのである。夢二と画壇の絵描きの相違は何か。片や流行のイラストレーターで本などの挿し絵画家で、片や展覧会に入選して将来は展覧会のボスになるのが目的である。

 展覧会とは何か。展覧会に入選するにはどうしたらよいか。良い絵を描くことである。良い絵とは何か。すばらしい芸術としての絵を描くことである。するとすばらしいしい芸術とは展覧会に入選することである。何と倒錯しているのではないか。芸術と呼ばれるか否かの判定基準が展覧会だというのだ。日本で展覧会が開かれるようになったのはせいぜい百年たったのにすぎない。

 それならば江戸時代以前の絵画は芸術ではないというのだ。画壇は大衆を軽蔑している。大衆が支持する夢二はろくなものではない。大衆には芸術など理解できず、理解できるのは美大出の画壇の重鎮の展覧会の審査委員だけなのだ。

 展覧会にどのような画を出品するかは自由である。完全な自由であるというのは不自由だというのは名言である。自由であるために何を描いてよいか分からない。だから現代人の苦悩だとか個人の内面の表現だとか、誰にも実証できない観念を持ち出す。ピカソのゲルニカはドイツ空軍がゲルニカの町を無差別爆撃したことに抗議して描いたのだという。

 ゲルニカを素直に見るがよい。どうしたら空襲に対する怒りを感じることができるのか。絵画でそんな観念を表現的するものではない。ピカソのゲルニカに対する観念的評価はヒットラーに対する政治的悪評価を利用した愚かな動機である。

 この点は別項でも述べる。
絵画の制作の目的を展覧会への入選という空疎な目的であることを隠蔽するために表現できもしない空想的観念を持ち出すだけなのだ。芸術を制作する目的は観念ではない。社会的必要性である。社会的必要性とは何か。平凡で低俗に思われようが、何に使われるかという用途である。

 竹久夢二は多くの場合に本の挿絵として用いられた。挿絵であるということは目的を設定すると同時に制約となる。不自由である。不自由により逆に自由を獲得することができる。挿し絵であることは本の内容と関連すべきという制限と同時に目的を与える。本であるからには印刷する事を考慮するから、印刷することが可能な挿し絵にしなければならないから、当時の印刷技術を考慮した描画法となる。

 制限は自由を生む。制限されることにより、それを限界まで利用する努力が優れた芸術作品を生む契機となる。ただしそれも限界があって制限により個々の作家の表現ができない程度まで制限が多ければ芸術が成立しなくなる。たとえば粘土板に棒を使って描くという古代の壁画では表現の制限が個々人の表現を成立させなくしてしまう危険まである。

 社会的必要性のある芸術は必ず優れた芸術作品を生むというのではない。社会的必要性のない芸術には優れた芸術作品を生む可能性がないというのである。展覧会への出品も社会的必要性ではないかというのは屁理屈である。展覧会は展覧会に入選するという自己撞着の盗作した目的しか与えない。その上日本の展覧会に入選するには選定委員に媚びなければならない。

 選定委員に人間的に嫌われただけで入選できないのである。しかも自分の弟子に優先的に入選枠を行使するというコネ社会の世界である。展覧会に出品された作品は技術的には優れていても、面白みはない。それどころか無目的だから技術を磨くこともできないから、技術すら停滞する。


 こうして多くの若者が純粋芸術というありもしない観念のために人生を浪費する。絵画は写真のために滅びたといった。滅びたのは写真という代替手段ができたために必要性がなくなったためである。だがわずかに絵画だけでしか実現し得ない分野では細々と存続する。たとえばプラスチックモデルのボックスアートというものがある。

 プラモの製品を売る箱に画かれた絵である。これは中の製品のイメージを良くして販売を促進するためである。実物の写真やプラモの完成写真の方が良いはずたが、これは例外的で少ない。それには明白な理由がある。


 多くの場合は第二次大戦の飛行機、艦艇、戦車がプラモの主力であることによるのである。これらのカラー写真は少なく、白黒ではいかにも古臭く販売促進にはならない。実物のカラー写真に代わり、絵が登場する。見栄えのするアングルで、自由な塗装をした姿を描けるのは絵しかないのである。実際多くのモデラーがボックスアートに騙されてプラモを買うということを繰り返している。

 ここにボックスアートの絵画としての社会的存在理由がある。ここでは特殊な事情によって現在でも絵画が写真に優位に立っている。従って、能力のないものが画いたとしか思われないものに混じって優れたボックスアートが存在する。そして大企業は多くの報酬を払えることから、大企業のボックスアートは優れており、良い製品のボックスアートは良いことが多いという、騙しの論理が必ずしも嘘ではなくなる。

 ロシアでは企業論理が働きにくいから、製品の質は良くてもボックスアートにコストはかけないから質は劣る。ましてソ連時代はボックスアートどころか説明書すら昔のざら版紙より劣る、折り曲げれば折れてしまいそうな粗悪なものだった。芸術の良し悪しも現代では商業論理に左右される。

 余談になるがボックスアートでも本来の民族性のようなものが現れている。漫画でわかるように日本の絵画表現は、西欧のものに比べ立体感を抑制している。西欧の漫画は線描という比較的立体表現が困難で労力がかかる場合でも立体感を強調している。ボックスアートでも同様で、遠近法が使われ立体表現がなされているにもかかわらず、日本のボックスアートはこれらの表現が抑制されている方が、日本人には好感をもたれるようである。

(2)伝統芸能の保護

 大阪市の橋下市長が文楽への補助金を打ち切ると言いだして、伝統芸能の保護の在り方が問題にされている。伝統芸能を含めた芸術の保護には二種類がある。ひとつはクラシック音楽や古典的絵画のように、評価がおおむね確定した芸術作品に対して、今後も存在させるようにすることである。音楽や演劇の範疇に属する芸術は、それを維持するためには、再現する技能者が必要である、という困難さがある。これに対して絵画や彫刻のような視覚芸術は、作品は既に出来上がったものであるから、これを維持するには、保管の方法を考えればいいから数段楽であると言えよう。

 評価が確定しているものとは、実は芸術としての形式が完成し、しかも作品としても今後同じ形式で新しい作品が生み出されることが無いものである。文楽にしても歌舞伎にしても、西欧のクラシック音楽にしても、そのジャンルに属する作品は数さえほぼ確定していて今後新しい作品が全く同じ形式で生み出されることはないのである。逆に言えば、伝統芸能は現代の映画のように大衆が娯楽として対価を支払って鑑賞しにくる、と言う事が少ないから、再現する技能者が生活を維持する手段が無い、つまり収入が得られないと言う事である。そこに伝統芸能の保護の必要性がある。補助金を大阪市が支払わなければ文楽はなくなってしまう可能性が大きいのである。

 現在に生きている形式の芸術とは、大衆など芸術を享受する者たちによって鑑賞の対価が支払われるから、古典的芸術のように保護する必要が無い。その代わり現代に生きて新しい作品を生みださなければならない。しかし評価が確定していないが故に、色々な妨害がなされることがあろう。チャタレー裁判などはその口で、芸術家わいせつかなどと言う語義矛盾のような公権力の言いがかりで出版が妨害されようとした。これに対して守るのがもうひとつの保護である。従って本稿は、第一のものを論ずることになる。

 論旨は違うが、産経新聞平成二十四年九月七日の一面に、芸術の保護に関する寄稿がある。橋下大阪市長が文楽協会への補助金凍結について曽根崎心中を見て「演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」と言ったと言う。

 私は論者と違う意味でこの意見に到底賛成できない。文楽は当時の最新のテクノロジーの範囲で作られた人形劇の一種である。そしてその範囲で完成されたものである。当時の大衆はそれを楽しんだのであり、ビアズリーの作品がモノクロの線描しかできない当時の印刷技術の制限の中で完成されたものであり、それゆえに独特の表現となっていて価値も高い。従って今の技術を使って合理化するとすれば、それはもはや文楽ではなくなるのである。極限を言えばCGを使え人形遣いはいらない。たがあのように人間の顔を誇張する必要性も亡くなる。だから表現手法が不自由な故にある味わいもなくなる。

 歌舞伎でも同様であろうが、視覚芸術であっても、作品の形式に慣れなければその作品を理解できない。英語の詩だと英語が分からなければ面白さを理解できないように、文楽の形式を理解できなければ、実際には文楽の面白さを享受できないのである。橋下氏は普段からみているテレビドラマのせいぜい時代劇の感覚で見ているのであろう。曽根崎心中のストーリーを使って時代劇映画を作るのは可能であろう。究極的には橋下氏の言うのはそうせよ、と言っているのに等しい。

 文楽と言う芸術はもはや新作を作ることも技術的改良を加えることもできない、現代には芸術の形式としては生きていないのである。従って余程の好事家以外は対価を支払って作品を鑑賞しようとはしない。つまり何らかの形で保護しなければ現代には存在しえない芸術である。いわば絶滅危惧種である。それを保護すべきか否かは本稿が論ずるつもりはない。失礼な仮定ながら、文楽協会の運営に問題があって補助金が無駄遣いされていることについて、橋下市長が問題にして補助金を打ち切ろうとしているのなら正しいのであろうが、批判は芸術の形式だけにしか言及されていないのだからやはり見当違いの補助金打ち切りの理由としか考えられない。

 同じ古典芸能と言っても落語にはこのような問題が無いようである。その理由は落語が新作と古典の二分野を持つことが出来ている事にあるように思われる。落語は江戸時代からの伝統芸能でありながら、現代の世相を表現する新作落語を作ることができる。従って興行的な面では新作に負うことができる。

 しかも新作と古典の違いは、作品の対象が江戸時代か現代かが主なものであろう。だから新作落語への理解は同時に古典への入り口ともなる。しかも現代の日本語の標準語が落語から作られたと言われるように、時代の相違に比べ言語の相違が少ない。古典落語とはいっても時代背景が異なるだけで言葉の理解に不自由はないのである。日本人が時代劇を楽しむことができるのなら古典落語も理解困難ではなくストーリー自体も楽しむことができる。

 このような例は文楽や歌舞伎などの日本の古典芸能に比べると稀有な例と言える。西欧のクラシック音楽に比べても同様であろう。クラシックを演奏するオーケストラを使って、映画音楽が演奏されることがある。これは新作である。だが同じくオーケストラを使っているというのが共通するだけで、ベートーベンなどの音楽とは別なジャンルには違いない。もちろんこれはどちらが高級か、という価値判断を言っているのではない。しかしこれによってもオーケストラを維持するだけの安定的な収入を得ることは困難である。

 そもそもクラシック音楽を演奏するために高度な技術を要する割に演奏家の収入の道は少ない。クラシック音楽の固定的ファンは多いが、それでも講演収入でオーケストラを維持する事ができるのは、少数のメジャーな楽団だけであろう。


(3)伝統継承のふたつの意味

 日本画の大御所の伊東深水は、鏑木清方らに続く、浮世絵の歌川派の系統の美人画の正統な後継だと言われる。一方で歌舞伎は日本の伝統芸能の正統な伝承である。果たしてこの二つの正統な後継や伝承の意味は全く異なる


 まず、歌舞伎である。絵画や映画と違い歌舞伎は、音楽と同様に今再現しなければ、かつて演じられていた歌舞伎の演目を見ることはできない。これは絵画が完成してニ百年前の作品であろうと、眼前に常に同じものが存在することが出来るのと全く状況が異なる。

 歌舞伎の伝統の正統な伝承とは、江戸時代に演じられていた歌舞伎の忠実な再現である。極論を言えば、生きた人間を使って江戸時代に演じられていた演目を極力忠実に再現する人間テープレコーダである。実際には役者の個性や伝承の間に微妙な変化が生まれて、当時のものとは実際には異なるのも当然である。

 歌舞伎の新作が作られて同じ役者が演じていた時代ですら、役者の技量や解釈の微妙な変化で、全く同じように演じること自体があり得ない。これは現代の舞台劇でも同様であろう。しかし、歌舞伎が昔演じられていた当時のものの、極力忠実な再現が基本的目的である、ということに変わりはない。

 まれに新作の歌舞伎として、現代の世相を歌舞伎の手法で演ずるものもある。それは例外であって、おそらく永遠に主流とはならない。歌舞伎は江戸時代のある時期までの世相を反映することが出来たが、その後の変化に歌舞伎と言う演劇形式が追従するのに限界が生じた。歌舞伎は古典芸能として固定化したものの再現が常態となったのである。

 絵画の世界はそうではない。保存状態の良し悪しで、完璧とは言えないにしても、広重でも写楽でも彼らの作品を当時の彼らの作品そのものを見ることができる。では、伊東深水が歌川の美人画の正統な後継と言われるのは何か。歌川国芳などの浮世絵の技法の基本を使って、新作を作り出したことである。歌舞伎のように基本が古典のコピーなのではなく、あくまでも現代に新作を描いていることに本質がある。

 だがここには大いなる落とし穴がある。歌川国芳らの当時の浮世絵師は、自らの生きている時代を活写したのである。伊東は明治の中期以降に生まれ、大東亜戦争から30年近く生きている。なるほど初期には伊藤の描く和服美人と風景もあったろう。しかし実際には、それを活写したのではなく、美人にしても風景にしても浮世絵の全盛期を想起させるものを描いている。

 これは浮世絵師が同時代を描いていたのとは異なる、一種の懐古趣味である。伊東の時代はまだ、市井には、和服美人が多くいた。だから単なる懐古趣味には見えなかったが、伊東の作品が好まれたのは、あくまでも現代の描写ではなく懐古趣味の部分であった。だから伊東が歌川派から伝承したのは肉筆浮世絵の画材と技法の部分であって、同時代を活写する、という根本の精神ではない。

 それは伊東の責任ではない。伝統的日本画という技法が、既に伊東の生きた時代を活写するのには限界に達してしまったのである。まして技法を忠実に継承しようとすればするほど限界がある。日本画に近いと言う意味では、現代日本で可能性を秘めているのは、恐ろしく未熟と言われようとアニメとコミックであろう。だがこれらは、歌川派が存在した絵画と言う分野からは外れている、新しい分野である。そもそも現代日本どころか、世界中にも古典的な意味での絵画と言う分野の存在価値は極めて少なくなっている。

 伊東は辛うじて存在意義が認められる最後の時代に生きていただけ、幸せだったといえよう。伝統芸能としての歌舞伎は、現代と言う時代に適合することはできなくなっているものの、芸術の再現、つまり保存の必要性からの存在価値は充分にある。しかし、伝統的日本画は、同時代を表現することができない以上存在価値はない。ただし、日本画の応用で時代を表現することが可能となり、社会のニーズを見つければ再び存在価値が出る。最大の難関は後者である。社会的ニーズとは展覧会に出品することでは絶対にない。



1.7 芸術と技術
 多くの人は芸術を保守的なものだと考えやすい。しかし芸術は保守的ではない。だから芸術と科学技術の進歩は無関係ではない。無関係どころか大いに関係がある。それについて述べたいと思う。

(1)技術の進歩と芸術
 技術の進歩は芸術に新しい分野を追加する。それが従来の芸術の仕事の一部ないし大部分を奪うことがある。勿論新分野が旧分野を完全に代替するということはありえないが、社会的要請に対して新分野が適合するために置き換わるということである。ここの分野でそれがどのように起きたかということは各論で論じることにして、ここでは技術の進歩が新しい分野が誕生する条件だけ説明する。

 写真を例に取る。写真は単に光を画面に定着させみたままの映像を再現する手段として開発された。初期の写真は色彩を表現できないばかりではない。どのような写真になるかは大部分が偶然に支配された。ある技術が芸術の分野を生み出す条件は、作家により表現を制御する自由度が一定以上に増えることと、作家の意志により表現内容を制御することができることである。

 写真で言えば偶然に支配されるのでは作家の意志により表現内容を制御できない。対象を変えるのでなければ同じ写真になってしまうのであれば、表現の自由度は零である。これが初期の写真が芸術の一分野ではなかった理由である。現代のプロのカメラマンと写真器材は各種の手段を用いることによってカメラマン個人のイメージする写真をかなり自由に撮れる。

 もちろん依然として制限もあるがそれは画材を使用する場合に別な制限が画家に課せられるのと比較して自由度が劣るものではない。このように技術の発達によって写真は芸術の1分野となった。あらゆる芸術は技術の進歩により芸術となる。素人目にはエアブラシよりも筆を絵画に適したものだと誤解する。それはエアブラシの方が技術には高度な道具だからである。実はそうではない。

 エアブラシと筆の用途による使い分けはある。これはあらゆる作家の使う器具道具はそうである。だが筆も発明された当時は最新技術であった。単に地面に棒を擦り付けて画を描くという時代に比べればはるかに表現の自由度が増す。絵は筆という最新技術の道具を得て初めて芸術たり得たのである。

(2)表現の自由度と技術の進歩
 自由度とは私の知る限り工学的概念である。だから説明しておく。振動論で最も簡単なものが一自由度の振動系である。動かない天井からばねに吊られたおもりがある。このおもりが上下方向にしか動かないものする。そしてばねを下に引いて離すと上下振動する。最初の位置を0とした場合のおもりの上下方向の位置xを変位という。

 変位を使って微分方程式で振動の状態を表す。この振動系を1自由度という。変化するものが1つしかないからである。今度は天井が上下に動くものとする。天井の変位をx1とすれば、この振動芸術はxとx1で表される2自由度の振動系という。ものごとの状態を表すものが増えることが自由度が増えるという。自由度が増えると状態の複雑な表現ができるようになる。ここではこのような意味のアナロジーで自由度という言葉を使うことにする。

 表現の自由度とはある芸術作品をある手法を使って製作したと仮定したとき、製作者の意図がどの程度反映できるかを言い、反映できる程度が大きいほど自由度が多いという。ある作品を製作する場合に一定以上の自由度がない場合には芸術的作品の製作は不可能となる。ごく初期の写真は写真の映り方を撮影者が制御できない、すなわち自由度の少ないものであった。

 ところが自由度が増加しても容易に芸術分野に使用できる技術とはみなされなかった。その原因は誰が写しても機械的に同じに写ると一般には考えられるようになった。一方で比較的容易に写実的画像が得られるために、実態として絵画のニーズをだんだん侵食していった。

 写真の映像が優れたものになると同時に誰が写しても同じと言う誤解は解かれて芸術分野として認められることになった。技術が発達すると映像が改良されるばかりではなく、絞り、ピント、フィルターなどによって自由度は増していった。もちろん光の当て方の工夫によってどのように映像が変化するのかと言ったことを撮影者が予測可能になることによって撮影者のイメージした映像を作ることが可能となった。

 これが自由度が増したということの意味である。コンピュータグラフィックは現在発達中の最たるものである。当初はドットの密度などによってかなり幼稚な画像しか得られなかった。インベーダーゲームの画像と最新のゲームの画像を見れば差は歴然としている。まして最新のコンピュータグラフィックを見れば進歩の過程がよくわかる。だがまだ克服できないのは映像の割にデータ作成に手間がかかりすぎることであろう。

 感性の良い作家は新しい技術を求める。表現のより多くの自由度を求めるとともに新しい表現手法を求める。エアブラシによるイラストレーションも新しいとは言えないが筆よりも新しい技術である。後世から見て古い技術も出現当時は最新の技術であった。筆にしても技術の発達によりより使いやすく又、用途によっての分化も進んだ。伝統的な手法にこだわるのは権威にすがっている感性の低い者に過ぎない。

1.8 芸術と形式
(1)作家の目標は表現の形式を作る事である

 「形式」という言葉に拒否反応を示さないでいただきたい。作家の表現の形式とは言語で言えば、英語やフランス語といった言語の種類に例えられる。作家は固有の言語を持つ。このような例えは必ずしも適切ではないのだが、2人の画家が同じ油彩を使って同時に同一人物を描いたとしても、同じ絵画はできない。

 それは見た映像を作家固有の言語で表現するからである。これが表現の形式である。多くの場合ある作家の表現の形式は先人のものまねである。だがそれでは作家として独立したことにはならないし、その作家の技量がそれを許さない。修練を重ねることによってその人独自の表現の形式を作る。だがそれで止まらない。

 常に形式は発展しなければならないのである。発展し続けることが作家の健全さの証である。従って作家はまず自己の表現の形式を作ることを目標とし、次は不断に表現を進化させる。これは意識されるものではなく、本能がそうさせているというべきである。先に適切な例ではないと断ったのは、同一の題材を与えられても、個々の作家は同一条件で描くことはしないからである。

 同一の条件、例えばポーズ、表情などの選択も芸術の表現の手段のひとつである。これを著しく限定されることは表現の自由度を低下させる。


 ある程度低下すると、芸術としての表現能力を失う。芸術ではなくなるのである。同一条件を強制されるのは習作にすぎない。こう考えれば写真にも言語がある、表現の形式があるということがわかるだろう。あらゆる条件を統一して写真を撮れば同じものしかでないのは明らかである。これは自由度0の状態である。これは芸術とはならない。題材の選択から始まってあらゆる条件の選択によって作家固有の作品ができる場合だけ写真が芸術になりうるのである。

 秋山正太郎と篠山紀信の作風が異なるのは容易にわかる。これが表現の形式が作家で異なることの証明である。作家の使う形式が言語であるといった意味はこれだけではない。英語しかわからないものに日本語は理解できない。音は誰の耳でも聞こえる。絵は誰でも見える。

 だから音楽や絵画は古今東西、老若男女誰にでも理解できるという誤解がある。表現の形式を言語に例えたのはこの意味である。ある作家の言語を理解しなければその作品は理解できないのである。絵画表現の場合に言語より思考レベルが情感に近いので全く分からないというのではないにしてもある程度分からない場合が多いと言った方がよいのかもしれない。

 以上は説明の便利のために作家レベルでの表現の形式を説明した。だが最上位には芸術の分野における表現の形式が存在し、その中間のいくつかのレベルでの表現の形式がある。わかりやすいのは絵画と音楽という表現形式のレベルでの表現の形式があり、その下には絵画の中でも西洋美術と東洋美術いうレベルがありその下にはいわゆる日本画と浮世絵といったレベルがあり、最下層に位置するのが作家個人のレベルである。

 歌舞伎を理解し得ないのは大部分の場合、歌舞伎を理解する感性がないのではなく、歌舞伎が芸術の手法として生きていた同時代人ではないために歌舞伎の言語を理解し得ないためである。同時代というのは有利な条件であって言語が自然に身に付くように表現の形式という言語も自然に身に付く。

 展覧会を見る場合でも、多数の作家のものよりも個展の方がわかりやすい。多数の作家でも同一時代に統一した方が見やすい。日本画と洋画を交互に見せられたのでは頭が錯乱する。これは言葉で同じ言語の連続の方がわかりやすいというのと同じことである。


 作家の表現の形式は進歩するといった。どのレベルであれ表現の形式は進歩する。ある芸術の分野は時代に合わせて進歩する。進歩し得なくなったときにその芸術の分野は滅びる。過去の作品を保存するしかなくなるのである。歌舞伎は滅びた。だから新作は意味をなさない。多くの古典と呼ばれる形式はこのように滅びた形式の総称である。

 滅びたあるいは滅び掛けた芸術の形式を復活させることはあるいは可能な場合がある。しかし、それは常に新作を生み出すことができるということである。古典芸術にとって新作を生み出すというのは現代では困難である。現代は商業社会である以上芸術は社会的要請のある商品である。

 日展など有名な展覧会に受かった作家の絵は当選回数と絵の大きさによって美術商によって価格がつけられるという。何ともグロテスクな話ではないか。その絵画の価値は商品としての社会的価値によって決まる。その場は展覧会ではない。ルノアールなど有名な画家の絵は何億円もするという。これは芸術作品として価値ではない。

 投資対象としての価値に過ぎない。芸術の価値とは社会的存在のために評価される価値である。例えば映画、スターウォーズは上映されるとヒットするために、競って各会社は高額の放映権料を製作会社に支払う。これが映画の価値である。映画の価値は観客に鑑賞されることによってだけ存在する。

 商業社会である現在では、芸術の価値は多くの場合、商品価値である。古典絵画の高額な価値は商品価値ではない。古典絵画は公開することによって高額な観覧料を得られるためではなく、前述のように投資対象としての価値だからである。多くの日本人はバブルの崩壊によって投資対象としての土地の価値がいかに空虚なものか知ったはずである。利用して価値のあるはずの土地を投機の対象としたから失敗したのである。

(2)芸術作品と形式
 芸術論で形式は重要な課題である。形式には広義から狭義まで何層のものが存在する。卑近な例で漫画をとる漫画をひとつの芸術分野と仮定する。それを分類すると劇画、少女漫画、4コマ漫画などの形式に分類される。今の形式の例は必ずしも同一水準での分類とは限らない。

 同一形式のなかで作家は作家固有の形式を持つ。これは通常形式とは認識されないことが多いが、作家が漫画の中で何を描こうと一定の書き方に則って書くために他の作家の作品と明瞭に区別されるという意味で「形式」である。例えば何人かの漫画家があるアイドル女優のような実在の人物を描いたとすると、各々の作家は固有の描き方をする。

 ただし、どの漫画家が描いたものでも、各々そのアイドルには似ている。今説明した形式は最も狭義の形式であり、漫画という形式より更に狭義の形式であり、漫画家個々人に固有の形式である。


 通常アシスタントは師匠の描き方を真似て描き先生たる漫画家と区別出来ないもの程度の漫画を描くことができる者がいる。甚だしい場合には主人公を描くことを手伝う場合がある。ところが描くことに習熟するとアシスタントも師匠の描き方に似てはいても異なった画を描くことが出来るようになって独立する。

 これを作家の形式の開発と言う。実に作家の最も重要な目標は独自で有用な形式を開発することである。もっとも形式を開発してもそれが社会に受け入れられないのでは有用な形式ではない。


 この形式は固定されたものではない。長年描き続けると描き方は少しづつ変化していく。だから十年位の時間を隔てる作品を比較すると明瞭な差異が生じる。例えば漫画「巨人の星」の連載当初と「新巨人の星」の漫画を比較すれば明瞭に変化が見てとれる。この変化がより良き方向に進めば進歩であるし、悪化すれば退化であって必ずしも進歩するとは限らない。

 ことに老齢化した場合に、視力低下など明白な退化をすることがある。変化は必然であって一定の形式に達したら停止するということはあり得ない。停止は感性の摩滅を表しているから、停止は退化に他ならない。

(3)形式の進歩と停滞
 ここでは歌舞伎、浪曲といったある芸術分野自身における形式の進歩と停滞について説明する。歌舞伎を例に取ろう。阿国歌舞伎の時代の歌舞伎と現代の歌舞伎は明らかに異なる。根本において女性だけで演じられていたものが、いつの間にか男性だけでしか演じられないように逆転していることを想起するだけで明瞭である。

 この変化は始祖である阿国歌舞伎から進歩したのである。進歩はなぜ起こったか。ひとつには形式の洗練である。重大な変化は時代の世相を表すために起こった。歌舞伎は本来同時代の出来事を演じるものである。時代の世相を表現するものである。時代の世相は変化する。変化する世相に対応して歌舞伎の形式が変化しなければ、時代の世相を適切に表現できないのである。

 だがその中にもほとんど変化しないものもある。歌舞伎の本質というべきものである。歌舞伎にうとい私にはその本質を知らない。しかし歌舞伎が歌舞伎であるためには変えてはならないものがあるはずである。必ずしもその本質は阿国歌舞伎の時代からあったとは言えない。

 歌舞伎の本質は形式の洗練の過程の中でいつしかできあがったものである。歌舞伎の本質が形成されると、時代に対応した変化はその本質を損なわない範囲で行われる。ところが現代の歌舞伎の形式は変化しない。形式が変化するのは時代の世相を表現するためであるといった。


 ところが現代の歌舞伎は現代の世相を表現してはいない。現代の歌舞伎はあくまでも江戸時代以前の世相を表現している。それはいつの時代からか、歌舞伎の本質を損なわずに時代の世相の変化に対応した形式の変化が不可能になったのである。それは形式の停滞である。形式の停滞が起こるとその芸術分野は新しい作品を作ることが不可能になる。現代の歌舞伎はかつて作られた作品を複製しているだけである。

 このようなことはクラシック音楽にも言える。現代でもクラシックの形式をとった音楽が制作される。しかし停滞した形式だから優れた芸術は生まれない。えてしてこのような芸術は権威主義に陥る。


 作品の劣等をかつて優れた芸術を生んだのと同じ形式の芸術分野であるという権威主義で覆い隠そうとする。人は演歌や歌謡曲を無意識にクラシック音楽より劣ったものと考えている。これが権威主義である。新興の芸術分野は常に軽侮の目で見られる。伝統がないから権威もないのである。

 いまや演歌も権威になりつつある。演歌も時代の世相を表す芸術である。だが演歌と言う形式は今や現代の世相を表すのが困難になりつつある。演歌は次第に古臭いと見られるようになりつつある。北島三郎は権威になってしまった。だからかつてのヒット曲とコネだけで演歌界に君臨する。新しいヒット曲は出せない。滅びたのである。滅びるべきものが君臨する世界は堕落する。優れた芸術は生み出せない。

 そこに救世主のように現れたのが氷川きよしである。氷川はカリスマとなった。カリスマは芸術を救う。しかし一人の芸術家だけのカリスマだけでは長く持たない。小さなカリスマでよいから次々と輩出しなければならないのである。演歌の良し悪しを判断するのは大衆である。大衆は演歌という形式にあきつつある。演歌も停滞しつつある。

 落語も既に形式としては停滞した。確かに一時期新作落語がはやったこともある。しかし長続きはしなかった。落語の機能はむしろ漫才が引き継ぎつつある。もはや落語の主流は古典落語である。古典落語はかつての作品の再現である。クラシック音楽でもそうだが、私は古典の再現を軽蔑するものではない。音楽や落語は絵画と異なり保存できないから再現するしかない複製形である。

 複製するためには非常な努力と感性を要する。しかも作品の作られた時代とは異なるから、その努力は同時代の人の比ではない。既に失われた感性を再現しなければならないのである。


1.9 建築の芸術性
(1)建築と芸術

 技術の世界の作品でありながら建築物ほど芸術性がいわれるものは少ない。建築家の一部には芸術家気取りの者すらいる。だが建築は視覚的に美醜が問われはするものの、その役割は視覚が人間の情感にうったえることにより達成するのではなく、住居としての居住空間あるいはオフィスとして利用できる空間という機能性が基本なのであって、この点で根本的に先の芸術の定義とは異なる。

 かのアントニオ・ガウディの建物はどうだろう。色々な意味で倒錯した作品としか言いようがない。建築は建物としての機能性が基本だから芸術の定義から外れる、と言ったがガウディの建物は機能性がない。居住できないのである。とすればこれは通常の意味での建築ですらない。

 ガウディの建物は視覚を通じて、人間の情感にうったえるが、社会的に何の目的も持たない。つまり前述の純粋芸術という虚偽の芸術に属するという他はない。現在は観光という社会的存在価値があるとすればガウディの恐らく最も嫌いしかも意図しない目的であって、皮肉としか言いようがない。


 ガウディの建物の観光資源としての価値は古代の遺跡が意図せず観光し現になったのと同断である。建築が一般的に視覚にうったえることを重視し、あたかも芸術と混同されるようになったのはその技術水準の総体的な低さである。多くの建物は比較的低レベルの設計技術によっても建てられる。

 従って視覚的な観点を重視しても、強度など必要な機能性を満足できるゆとりがある。これに対して、限界に近い設計をする超高層ビルなどは、視覚的なものは二義的にしてまず耐震設計や強度計算、施工技術などを優先しなければならない。

 すなわち「芸術的」建築は遊びの要素を優先できるほど技術にレベルが低いのである。
これは自動車が航空機より外観的要素を重視できることと同じである。同じ航空機でも軍用は外観を考慮する必要もなく、旅客機などの民間機に比べれば遊びの要素はない。

(2)建築は芸術か
 建築物は芸術と評されることが多い。これは正当であろうか。それは場合と程度による。日本の城郭のうち安土桃山時代以降の城郭は、戦国時代の要塞としての合理性よりも、支配者としての権力の威光を示す機能に重点が置かれるようになった。これが芸術と呼ばれる所以である。

 それでも日本の城郭は要塞の機能を失ったとしても、官庁としての機能が重要視されるようになった。そのことが情感にうったえて支配者の威光を示すという機能を超えている。超えている以上は芸術ではない。


 ものごとは程度の問題がある。芸術としての役割と居住その他の役割との比率の問題によって建築も芸術となりうる。例えば法隆寺の五十の塔である。現在はほとんど中に入ることはないが、設計の当初は仏像の保管やメンテナンスなどのために中に入って利用するという機能はあった。
 
しかし仏教の象徴、宗教性を具現して大衆に誇示するという機能の方が、元々圧倒的に強かったであろうことは想像できる。この意味において五重の塔などの仏教建築の多くは芸術と呼んで差し支えないと考える。


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