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2章 複製芸術論
2.1 複製芸術
 多田道太郎氏は複製芸術論@で複製芸術を次のように定義している。

「複製芸術とはオリジナルのない芸術、全部が複製である、たとえば映画のような芸術を指す。映画だけではない、近代文学、写真、電子音楽などもこれに含まれる。」

更に

「オリジナルに赴かねば本当の芸術性のわからない芸術、複製のきかない、ききにくい芸術を『オリジナル芸術』と呼ぶ」「この用語には価値判断は含まれない。独創的でないオリジナル芸術はありうるのである。」

 これは卓見である。多くの論者は芸術といった瞬間にオリジナリティーや価値を問題にしがちだからである。多田氏がこの説で、価値判断を含まないと考えているか優れている。 多田氏の定義で疑問に思われるのは「複製のきかない、ききにくい芸術を『オリジナル芸術』」としていることである。裏を返せば「複製が可能で、複製しやすい」のが複製芸術であるということになる。

 私は複製芸術とは、複製が可能という消極的なものではなく、複製を前提としたものという積極的な立場を取る。例えば浮世絵の場合版画という形式を取り、版画であるが故の絵画表現となっている。すなわちある程度大量に複製するという前提条件がなければ、浮世絵という形式はそもそも存在しない。複製を前提とするということは多くの場合このように重要な意味を持つからである。

 従って本稿では、複製芸術を同一の芸術作品が複数存在することを前提とした芸術であり、存在するのは時間的または空間的あるいはその両方の組み合わせによってであるもの考える。音楽は演奏は時間の領域で存在するから、時間的に複製が繰り返される。浮世絵は同じものが何枚も刷られる事を前提としており、完成したものは複数同時に存在するから空間的に複製されている。

 映画はフィルムのコピーにより同時に違う場所で再現が可能でもあるし、同一のフィルムで繰り返し再現が可能だから時間的にも空間的にも複数存在する。うるさい人たちは場末で映画館で上映された名画と同じものでも、音響や映像の設備の優れた映画館で上映されたものでは違うという主張をするであろう。この主張は限定付きで意味を持つので後述したい。

2.2 2種類の複製芸術
 多田氏の論には述べられていないが、多田氏の例示した複製芸術には前述のように2種類が混在している。複製が可能な芸術と複製を前提とした芸術である。文学は確かに複製芸術であり複製可能ではあるものの、オリジナルは存在する。オリジナルは原稿ではない。原稿が失われても詩、俳句、小説などの文字の配列は存在する。文字の配列そのものがオリジナルである。

 印刷された本は複製であると同時にオリジナルである。その意味で文学は完全な文字の配列が可能だから完全な複製が可能である。すなわち文学は複製が可能な芸術である。多くの場合、複製が可能な芸術は複製を前提としてもいる。だから両者は混同される。油絵等の絵画はオリジナルしか存在しない。同じ視覚芸術でも版画と写真はオリジナルが存在しないばかりではなく、複製することによって始めて世に現れる。

 複製を前提とした芸術である。音楽はもっと極端である。版画や写真は複製した途端に実在のものとなる。これに対して音楽は演奏なり歌うなりした時だけ存在する。演奏なり歌唱を終了した途端に、その作品は実在のものではなくなる。楽譜はオリジナルではない。楽譜どおりに演奏することは機械でも可能であろう。だが音楽は楽譜を人間が解釈して演奏しない限り複製できない。

2.3 何が本物か
 先に場末で映画館で上映された名画と同じものでも、音響や映像の設備の優れた映画館で上映されたものでは違うという主張について言及した。これについて論を展開する。それは複製芸術のどこまでが本物かということである。普通の絵画は一枚しか作品がない。これがオリジナルであることは疑いがない。しかしよく考えてみればこのようなものは現在の芸術の世界では例外といってよい。

 音楽はもともと歌詞カードや譜面だけでは意味がない。演奏され歌われることによって初めて作品となって存在することができる。しかもいくらも繰り返し可能であるばかりではなく、オーディオ機器の発達によって、演奏することなく再現することが可能ばかりか、直接演奏を聴くより頻度ははるかに多い。

 絵画にも複製の問題がある。浮世絵は木版で刷られることを前提としている。だから絵師の書いた原画は意味をなさない。しかも印刷という視点から見れば1枚1枚の相違を見て取ることが現在の印刷物より容易である。これよりもはるかに技術水準が高いとはいえ、イラストレーションは一般に印刷されることを前提としている。

 従って同一としか判別できないものが何万枚と存在することすらまれではない。これらのものは全てオリジナルと考えてよいのだろうか。結論から言えば、条件付きで全てオリジナルといってよい。条件とは一定の水準の再現がなされていることである。一定の水準とは審美眼の問題だからのべることができない。しいていえば作家が意図した水準を超えたできばえに再現されているということである。

 イラストレーションでは初めから印刷されることで原画が作成されており、作家がそのときの印刷水準を想定して発色などをチェックして、印刷された状態で満足がいくように仕上げるのだから、やはり芸術作品は原画ではなく、むしろ印刷されて出版されたものの方であると言える。これは本末転倒しているように思われるが、浮世絵を想起すると当然のことであることがわかる。

 現在浮世絵がどのように高く評価されようとそれに使われた原画の評価が問題にされることはない。原画が引き出されるのは芸術作品としてではなく、骨董的あるいは希少価値としてだけである。


 浮世絵の場合は技術水準が低いからばらつきは大きい。刷りの失敗もあるであろう。これも想定された水準を超えたものを芸術作品と呼ぶことができる。すなわち一定水準を超えていないものは失敗作で商品とならないからである。現代の版画家の一部には版画の刷りによるばらつきを好む者がいるが、むしろ浮世絵作者たちはそのようなばらつきを極力排除したかったのである。

 場末の映画館の答えに戻ろう。場末の映画館であっても、映画を最低限度の水準で再現する設備を備えてさえすれば、複製芸術をそこで再現できるといえる。しかし映画によっては特殊な音響効果を必要とする場合があるので、そのような作品に関しては複製芸術を再現するに足るとはいえない。作品によっては場末の映画館で見た場合と、最新設備の映画館で見た場合とでは同じ映画とは思われないという場合もあるのに違いないのである。


2.4 ビアズリーの場合
 一人の代表的なイラストレーターのオーブリービアズリーを例に取ろう。ビアズリーのイラストレーションの特色は無彩色の線描にある。それを白と黒の芸術と呼ぶこともある。コントラストの強い明瞭な表現が特別な印象と効果をもたらしていることを評価しているのだ。だが彼がそのような表現手法を用いたのは、望んだことではない。

 ビアズリーのイラストレーションはオスカーワイルドの小説の挿し絵として印刷されることを前提に制作されている。彼の手法は当時の印刷技術の未発達により制限されたのに過ぎない。当時の印刷技術では未だ彩色のできる、グラデーションのある印刷をする技術が未発達だったのに過ぎなかったのである。

 作家に課せられたこのような制限は浮世絵の場合と同じく特殊な効果を生み出すことがあったのである。人々は通常の油彩と異なった特異な表現で、しかもそれを有効に利用したテーマと表現技術が使われたことに驚いたのに違いない。そこでビアズリーのイラストレーションは有名になった。


 ビアズリーが起用されたのは、手軽にバーン・ジョーンズ風の挿絵を描けるといった世俗的要因に過ぎなかった。しかしわずか25歳で結核で病没したために夭折した天才というレッテルが後世貼られることとなった。彼が必ずしもその表現手法に満足していなかったことは、後に彩色とグラデーションの印刷技術が発達すると簡単に従来の手法を放棄したことでもわかる。もっとも彼は未だ新しい技術を充分に駆使出来ずに悲惨な結果しか残していない。

 今となってはその原因が単に技術の未習得だったのか、印刷技術の未発達が彼の天性に合っていなかったのかは不明である。もしかするとビアズリーは印刷技術が発達して、彩色もグラデーションも自由に使える時代に生まれたら、才能を生かすことができずただのイラストレーターで終わっていたのかもしれない。あるいはもっと特異な才能を発揮していたのかも知れない。

 ただひとついえるのは、彼は課せられた制限の中で存分に才能を発揮したのである。彼の例は、表現技術の未発達は必要最低限の表現の自由度が確保されていれば作家にとって不利なものではないこと、作家の本能は表現の自由度の拡大を求めて、最新の表現技術を希求するということを証明している。製作技術にどのようなものを用いるかは直接に作品の出来具合を支配する。

 
しかしビアズリーもそうだったように、作者は常に新しい技術を求めたがるものである。あたかも古典的技法に止まる傾向があり、その方が芸術性を高める事が出来ると考えるのは誤解である。しかし新しい技術に跳びつくことが、その作家自身、作品にとってよい結果をもたらすかどうかは別な話である。

 新しい技術は別な才能を必要としているかもしれない。その作家ができのよい芸術を作れたのは、古い技術に自分の能力があっていたからなのかもしれない。筆に習熟していた画家の全てがエアブラシを使いこなせるとは限らないのである。コンピュータグラフィックに至っては、その差は明瞭になる。感性という共通項はあるものの、CGは絵筆を持つ才能は必要とせず、コンピュータを操る技術と根気を必要とする。

 ビアズリーのイラストレーションにもどれば、それは白黒だけで構成されていて、彩色どころか濃淡のグラデーションさえない。これがビアズリーの魅力だと絶賛されるのだが、実はビアズリーが白黒を採用したのは前述のように当時の印刷技術が未熟でグラデーションが表現できなかったのに過ぎない。彼の作品はオスカーワイルドの著作の挿絵なので書物の印刷という条件が課せられていた。

 だがこの制限の中でビアズリーは能力を発揮した。制限の中での製作は緊張感として結果的に有利に働いた。ビアズリーがもっと自由な表現方法を求めていたのは、彩色印刷が可能になると早速着色のイラストレーションを試みている。だが彼はなじんだ白黒表現から彩色を使いこなせるようになる前に、前述のように二十五歳で病死した。


@「複製芸術論」多田道太郎・講談社学術文庫

A「ビアズリーのイラストレーション」解題 大森忠行・岩崎出版・1970

Bビアズリー・スタンリー・ワイントラウブ・美術出版社1969.6

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