例会はどなたでも参加できます。
参加費400円(資料代を含む) 会員外500円
2023年3月例会
日 時 3月10日(金) 午後5時半開場 午後6時開会
会 場 府教育会館 3F蘭の間
テーマ 「吹田事件とデモ・表現の自由―朝鮮戦争休戦と黙祷事件から70年」
報告者 石川元也弁護士
朝鮮戦争下の1952年に大阪で起こった吹田事件は、軍需物資の輸送拠点だった吹田操車場に対する日本人と朝鮮人による反戦デモに騒擾罪(騒乱罪)が適用され、最高裁まで20年の裁判を経て騒擾罪の無罪が確定した事件です。
昨年事件発生70年が経ち、今年は朝鮮戦争休戦と吹田事件の裁判中に起こった黙祷事件から70年にあたります。吹田事件弁護団の主任弁護人をしていた石川元也弁護士(91歳)が報告します。
このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください
はじめに
近現代日本における部落問題に対する政策(部落政策)は、地方自治体が中心となって部落の貧困や住環境の改善によって差別を解消することを主軸としていた。
その端緒となったのが、日露戦後に内務省によって開始された部落改善政策である。部落改善政策は、部落差別とその結果生じる部落の経済的・社会的低位性を部落民に帰し、それらを部落改善運動や移住によって解消することを主な内容としていた。部落改善政策は、一時的には効果を挙げたものの、実質的な問題の解決には至らず、差別の要因を部落民に求めたことでむしろ差別を悪化させたと評価されている。
しかし、従来の研究において、なぜ、どのように部落改善政策が成立したのかについての十分な説明はなされてこなかった。そこで本報告では、報告者の修士論文を基に、内務省による部落改善政策に先行して存在した部落改善というアイディアと、内務省の地方行政・社会政策に対する基本方針との関係に着目し、部落改善政策が成立した過程と要因を明らかにする
部落改善というアイディアの存在
1880年代後半から、地方レベル・民間レベルでは、様々な主体が部落問題を解決する手段として部落改善を実践・提唱していた。部落民による自主的部落改善運動では、部落の経済的自立や矯風によって周囲と同化するための目的として、もしくは権利意識を有する主体形成の手段として部落改善が位置づけられていた。一方で、地方当局者や教員による部落改善政策・事業・運動における部落改善は、行政目的を阻害する部落の低位性を部落民自身が改善することを意味していた。また、民間レベルでは、社会が責務として差別意識の撤廃と部落改善を行うことが提唱されていた。このように「部落改善」は様々な意味内容を持つ多義的な行為であったが、部落民においても、民間レベルにおいても政府に対して部落問題に対する政策を要求するアクターは存在しなかった。
内務省による部落改善政策の成立過程
こうした状況のなかで、内務省は独自に部落問題の問題設定を行い、自身の基本方針に合致する解決策を、先行して存在した部落改善というアイディアから形成していく。
日清戦後経営期において、内務省は、軍拡優先の予算的制約のなかで明治地方自治制を確立させるため、地方自治体の経営状況に対する視察調査や、優良町村の奨励、啓発などを行う積極的監督方針を開始する。こうした方針のなかで、部落は貧困によって自治を確立できていない存在として認識されはじめる。
日露戦後、1906年頃から内務省は、積極的監督方針を強化するなかで、部落の存在を貧困だけではなく、差別されている「特殊(種)」な部落が存在する問題として認識するようになる。同時に、積極的監督方針のシステムのなかで各地の地方当局や教員によって実施されていた部落改善の成果を見出し、解決策として採用し全国的に共有していく。
そして、1907年、内務省は、初の全国的な部落調査を実施するにあたり、部落改善方針を確立する。部落改善方針とは、部落の低位性への嫌悪から部落内外の国民が融和していないことが地方の発展を阻害している状態であるとの部落問題認識の下で、部落民を啓発することで、部落民自身が部落の低位性を解消するように促すという方針であった。こうした方針が採用された要因は、自治を重視する内務省の方針と合致する部落改善のアイディアが地方レベルで実践されていたこと、競合するアイディアが海外に存在しなかったことなどに求められる。
内務省は、翌年から開始された感化救済事業と地方改良事業の対象に部落問題を含め、ここに部落改善政策が成立する。部落改善政策は、両事業の制度的枠組みの中で、部落改善方針の担い手を地方自治体を中心とした教員、慈善事業家、宗教家に定め、彼らに方針を啓発し、優良な改善事例を奨励することを主な政策内容としていた。
質疑応答
質疑応答では、まず主に以下の質問がなされた。
@ 本報告における部落改善政策と融和政策の意味の違いについて
・報告者:本報告における部落改善政策とは、部落差別の責任を全て部落民に帰する政策とする先行研究の用法を踏襲しているが、「部落改善」自体は融和政策・同和政策においても引き続き行われているため、部落政策をめぐる用語については再検討が必要なのではないか。
A 部落改善政策の担当部局、政策担当者について
・報告者:担当部局は地方局であり、中心となった政策担当者は地方局嘱託の留岡幸助である。
そのほか、部落改善政策の成立時において、部落民は政策を要求するアクターでなかったと言い切れるのかどうか、自主的部落改善運動における「権利」意識とはどのようなものであったのかといった論点が出された。また、政策の成立要因を詳細に跡付けることも重要ではあるが、背後にある資本主義の発展という大きな流れにも目配りするべきとの指摘もなされた。
はじめに
国防婦人会は1932年に発足した軍国主義的な女性団体で、出征兵士の送迎や傷病兵・遺骨の出迎えなどを行なった。日本が戦争を始めた時期に、女性たちがどのようにして戦争に協力したか/させられたかを考える重要な材料と言える。国防婦人会については、1980年代半ばから本格的に注目されており、藤井忠俊『国防婦人会――日の丸とカッポウ着』(岩波新書、1985年)や?谷美規子『戦争を生きた女たち――証言・国防婦人会』(ミネルヴァ書房、1985年)石原佳子「大阪の国防婦人会―大阪婦人会館史料の紹介をかねて」(大阪市史編纂所『大阪の歴史16』1985年)などがある。最近でも、2021年8月14日にNHKスペシャル「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」が放送された。
国防婦人会の発祥の地が大阪市港区市岡であることは以前から知られていた。しかし、市岡の地において国防婦人会がどのように結成され広がっていったかは明らかにされてこなかった。本報告は、約40年にわたる資料調査とフィールドワークの成果に基づいたものである。
市岡と大阪港
大阪市「市岡」とは、港区役所や港郵便局がある地域を中心とした広域地名で、現在の港区の築港地区を除いた大部分の通称として使われてきた。この地域は、現在の旧淀川の河口部を江戸時代に埋め立てて新田開発をしたことから始まり、明治時代に大阪港の築港工事が行なわれて、港の町として成長した。大阪港は出征兵士を送り出す港でもあり、各地から集まった兵士たちは大阪駅から電車道(市電築港線が走っていた、現在の「みなと通」)を通って天保山桟橋まで行軍するか、貨車で浪速駅まで運ばれたという。大阪港の周辺には、陸軍糧秣支廠、陸軍軍需品支廠、国鉄臨港線などがあった。このように市岡とは軍隊が身近に存在する地域であった。
国防婦人会の発足
国防婦人会が発足する前年の1931年12月12日、井上千代子の自刃事件が起こっ た。彼女は満洲に出征する歩兵第37連隊の井上清一中尉の妻であり、出征する夫の 「後顧の憂い」が無いようにとわずか21歳で命を絶った。このことは、澤地久枝『昭和史のおんな』(文藝春秋、1980年)のなかで「井上中尉「死の餞別」」でも紹介されている。事件は当時のマスメディアで大々的に取り上げられ、阿倍野斎場では盛大な葬儀がなされた。泉佐野市の清福寺には「井上千代子夫人之碑」が現在もあり、3メートルもある大きな石碑に「殉国烈婦」と記されている。烈婦の実家として積極的な戦争協力が求められ、戦後には戦争協力者として非難を浴びたという。また、1994年に井上家があった場所(現阿倍野区)を尋ねたところ駐車場になっていたが、当時のことを知る土地所有者から話を聞くことができた。
さて、井上中尉の叔母である安田せい(夫は鉄工所を経営)は港区磯路町に住んでいた。自刃事件をきっかけに、安田せいは女性による戦争協力のための活動を行なうことを思い立ち、三谷英子(安田せいと同じく鉄工所経営者の妻)や山中とみ(助産婦・安田せいと同じ宗教の信者)らとともに大阪国防婦人会を1932年3月18日に立ち上げた。会長には三谷、副会長には安田と山中がそれぞれ就任した。国防婦人会の会員たちは割烹着にたすき掛けで、出征兵士たちに湯茶接待をして大阪港から送り出した。
港区における国防婦人会の様子
報告者が入手した資料から、1939年6月末時点での国防婦人会港支部の組織状況をうかがうことができる。港支部には26の分会があり、少なくとも約31,000人が組織されていた。分会は小学校区ごとに組織されており、その下に組と班が設けられた。特徴的なことは、役員数がきわめて多いことで、組や分会の役員がカウントされたためと思われる。会員には、処女会員(年会費60銭)、普通会員(同1円20銭)、特別会員(同3円)、名誉会員(同30円または一時金100円)に区分されていた。特別会員・名誉会員も相当数おり、少額の会費を基本としながらも、経済状態に応じて相当額を納める仕組みであったらしい。また、九条洋飲分会、九条自動車分会、築港電車分会といった職域組織も存在した。
この資料からは、各分会の顧問にどういった人物が就いていたかも判明する。多くの場合、顧問は校長が務めていたが、在郷軍人会、警防団、援護団、青年団、教化委員会の関係者が名前を連ねる例もあり、外部の男性が国防婦人会に関わっていた。大日本国防婦人会関西本部が発行したパンフレット『大日本国防婦人会とは』(1933年9月)には、国防婦人会の概念図として、兵士の家族・遺族・傷痍軍人を国防婦人会と在郷軍人会が囲み、それを警察と憲兵が監督する図が載せられている。こうしたことから、陸軍は女性の「自発的な」活動を必ずしも信用しておらず、軍隊や官僚による統制と既存の男性組織との協力を通じて国防婦人会が活動することを望んだものと思われる。
質疑応答その他
質疑応答に先立って、報告者が長年関わってきた「港区私たちと戦争展」が作成したスライドが上映され、港区の地域について参加者の理解を深めることができた。続いて、質疑応答では、国防婦人会と他の女性団体(愛国婦人会、地域婦人会)との違
いや、特別会員・名誉会員の実態について質問が寄せられた。次いで、地域の様子や女性の活動の評価について質問があった。さらに、市岡という地域の特徴や会員の階層に伴う意識のあり様について意見が出され、御影(現・神戸市東灘区)では中産階級の女性が割烹着姿を嫌がった例が証言され、国防婦人会をめぐる地域性や階級性という論点が明らかにされた。
東アジアの情勢が緊迫化し、防衛費の大幅増額と大増税が企図される今日にあって、戦争に女性たちが巻き込まれた歴史は他人事ではありえない。報告者は「港区私たちと戦争展」運動に関わりながら40年にわたる地道な研究を続けてきたという。こうした戦争認識と平和構築に向けた草の根の取り組みこそが、今後ますます重要なものとなってゆくだろう。
明治初期にあったキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」とは
1868年長崎浦上村の潜伏キリシタン3394人が摘発され(幕府時代)、その後明治新政府によって西日本の20藩22ヶ所に流配される事件が起こった。これを「浦上四番崩れ」という。「四番」は四回目を意味する。和歌山藩には65家族281名が流配された。和歌山を中心とするカトリックの人々によって、和歌山に流配されたキリシタンの人々の歴史を学習するグループ「紀州キリシタン学習会」が発足、司祭、修道者、信徒などが参加して地道な研究が続けられている。今回は、事件の発端から1873年の禁制が解除されるまでの時期の調査結果を報告する。
報告は、深掘さん他3名の皆さん。
浦上で人々は250年間信仰を守り続けた
浦上は長崎市の北部に位置し、かつてイエズス会の知行地となった地域で、ほぼ全住民がキリシタンであった。禁教令が出てからは誰もキリシタンと表明できなくなった。江戸幕府が明治維新で倒れるまでの250年間、司祭のいないところでキリスト教信仰を守り続けてきた。信仰を守る組織として世襲制の帳方(全体で1名)、水方(4郷各1名)、聞き役が(クの字に各1名)いた。彼らは「絵踏み」と「宗門改め」などによる弾圧を乗り越えて信仰を隠し守り続けた。
正月の15日に庄屋屋敷で「絵踏み」をさせられる。「絵踏み」とはキリストなどを浮き彫りした板=「踏み絵」を踏むことでキリシタンでないことを証明することで、庄屋屋敷に来なければ役人が「踏み絵」を各人の家に持って回った。キリシタン達は、摘発を免れるためにやむなく「絵踏み」を行ったが、その後「コンチリサンの祈り」を唱えて、つぐないをした。その祈りは宣教師が禁教令後日本を去る間際に信徒達に伝えたものだ。「寺請制度」は江戸幕府がキリシタン禁制の実をあげるために、すべての人がいずれかの仏教寺院に帰依所属しなくてはならなかった制度。葬式の時が問題となった。坊さんがお経を唱えている隣の部屋では信徒達はお経を打ち消すための「経消し」をする祈りを必死でささげていた。棺桶におさめる遺体の向き、状態なども葬式後変えたりした。(T)
摘発から和歌山藩への流配に至る経過
長崎大浦に宣教師が来て、それ以後浦上の信徒達はもはや信仰を隠せなくなっていった。そんなとき、四番崩れが起こった。
和歌山藩へは長崎から海路で運ばれ、1870年1月(明治2年)から65家族281名が流配され、のち8つの郡に各30数名が分散され、大庄屋を通じて各村に分配流配された。100日間は藩が配給した米があったが、後は労働して食いつなぐ必要があった。1870年6〜7月ころに和歌山へ再招集され、15才以上の働ける者は現在の海南市日方の塩浜で働かされた。「ハナシタ」と呼ばれた牢獄の宿舎に収容され、干拓のための石垣積みなどの重労働をさせられた。老人や病弱の者、15才以下の子どもなど働けない者は和歌山の「馬小屋」と称する施設に収容された。この頃は和歌山全体が台風や洪水、天候不順で不作だった。
1870年8月〜12月のころには、劣悪な環境、洪水や疫病のために87人が病死する事態となった。和歌山市鷹匠町にある禅林寺には、亡くなった信徒3名の名前と死者40人(数字だけ)についての碑が建立されている。1871年には諸外国に配慮して政府から楠本正隆が派遣され、流配された人の状況を視察、生活改善にとりくみ、「馬小屋」「ハナシタ」の収容者も新しい施設に移された。
そして、1872年に、まず棄教者に長崎への帰還許可が出た。1873年には、キリシタン禁制の高札が撤去され、棄教していない人にも許可が下り、ようやく長崎へ帰ることができた。(F・I)
「旅」という流配者の信仰の姿と現在
長崎浦上村に帰還した人々が見たものは荒れはてた村の姿だった。全村強制的に流配されて無人となった村は、家も田畑も管理する者もなく、泥棒が荒らしたり、荒廃した状況だった。福島の原発事故で街ごと避難せざるを得なかった住民が故郷に戻ったときに目にした光景もこれに近いだろうか。
故郷へ帰還できた人々が、自分たちの流配、移住先での苦難の生活、帰還と郷土の荒廃との対面、そこからの再生復活という流転の人生を「旅」と表現したというシスターの説明は、キリシタンの人々の受けた困難とそれに耐えて生き抜く支えとなった信仰の姿を感じさせ、胸に響く意味深い言葉に思えた。その「旅」は、原爆投下の中心地ともなった浦上の地域で、再び焦土を前に起ち上がって生きた人々の思いとも重なっている。それはキリシタンの信仰問題を越えて現在の私たちに迫ってくる普遍的な真実のように思う。
コラム 特筆すべき個別の話題の紹介(一部省略)
高津尾のマリア像 日高川中流に高津尾という所があり、約100年前ウナギ釣りに行った少年が河辺にキラキラ光るものを見つけたそれは何と3cmほどのマリア像だった。彼は自分で小さな祠堂を作って仏壇の横に置いていた。
その息子さん(80才台)が教会に鑑定を依頼してきたという。教会で推測できることは、約150年以上前にフランスでルルドのマリア信仰が流行し、フランスの宣教師が日本に来たときに、おみやげとしてこの小さなマリア像を信徒に贈ったことが考えられるというが確かなことはわからない。(Y)
深掘きくの墓
1966年に花山古墳群調査の際に発見された。明治16年に息子の善次郎が、母の深掘きくの墓を建立した。
被差別部落とキリシタン
長崎浦上では、キリシタン監視のために被差別部落が置かれた。浦上四番崩れの時にもキリシタンを捕縛する仕事を担わされた。それでキリシタンとの関係が悪くなった。和歌山でも四番崩れの時には、「非人番」が流配者のお世話を担ったと思われる通達文が残っている。
質疑応答その他
小林義孝さんから「千(ち)々(ぢ)石(わ)ミゲル」の夫妻墓所発掘の報告パンフの提供と説明があった。長崎県諫早市多良見町山川内伊木力のミカン畑のある丘陵に巨大な墓石の墓があり、2003年に大石一久氏によって、これが天正少年遣欧使節の一員としてローマ法王と会見した千々石ミゲルとその妻の墓であるとされた。彼はイエズス会に入会したが、その後退会した。2021年の第4次発掘の結果、1号墓の成人女性の遺体には、キリスト教の信仰具が副葬されていた。千々石ミゲル夫妻の墓と考えられ、ミゲルと思われる墓からは妻の墓から発見されたような信仰具等の副葬品は出土しなかったが、妻と同じ埋葬姿勢で同時期に埋葬されており、ミゲル自身も妻と信仰を共有していたものと考えられる。小林さんは、ミゲルがイエズス会を退会した理由として、イエズス会が人身売買に関わっていたことなどにミゲルがいやけをさしたのではないかと推測している。そして、イエズス会はやめたけど、信仰は棄てていなかったと思うと話された。
その他、「四番崩れ」の崩れの意味についての質問(これについては本文中に説明)、 キリシタンを監視した被差別民の位置づけの問題、「潜伏キリシタン」と「かくれキリシタン」の概念など、これらは今後の検討課題となった。「旅」についてのとらえ方への意見質問、これは忘れてはいけない「歴史」ととらえるか、「信仰」としてとらえるかで意見がわかれたが、両側面を考える必要があると思われる(これも本文中に説明)。キリシタン問題についてのカトリックの方々の真摯な研究調査を聞くことができて、参加者一同感動する例会だった。
全国水平社は、どのように闘ったか
1922年3月3日、全国水平社が創立されて今年で100周年。尾川さんは、創立宣言は有名だが、その運動についてはあまり知られていないとされる。
報告では、部落差別からの人間の解放をめざし、大正デモクラシーから軍国主義ファシズムの時代に至る激動の20年間に存在し、活動した全国水平社の運動について5つのテーマで解説された。尾川さんは、歴史を進歩するものと考える立場から進歩・発展の尺度は自由と民主主義の根底にある人権であるという。
(1)創立宣言
創立宣言は、平等な人間の尊厳と自由を訴える 報告する尾川昌法会長 「人間獲得」の運動(阪本清一郎)であり、従来の融和政策と運動を批判した。そして全国水平社は自らを解放する全国的集団運動であった。創立宣言は「日本初の人権宣言と言われる」との紹介をされることが多いが、誰もそのように言ったことはない。この表現は権利・人権闘争史をミスリードするものであり、形式的な意味で「人権宣言」のないことが日本の近代史の特徴であるという。日本において「基本的人権」概念が成立するのは、ポツダム宣言(1945)と日本国憲法(1946)が最初である。人権の普遍性の国際的承認の指標は、1993年の国連人権高等弁務官事務所の設置が最初である。(1948年の世界人権宣言は全会一致ではなかった)
(2)糺弾闘争
「糺弾闘争」は水平社の独自性を象徴する運動形態である。「糺弾」は「糾弾」とはちがい、「はじきだす」のではなく「もとにもどすこと」であった。社会的啓発の意味を持つ方法であり、「謝罪広告」がその例であった。「糺弾」の論拠は、生まれながらの人間の尊厳、経済の自由と職業の自由の権利という人権と法的権利を要求するものであった。個人の差別発言・態度に対する初期の糺弾闘争は、社会的政治的差別構造の糺弾闘争、弾圧に抗する糾弾権、言論・集会・出版の自由を要求する闘争に発展した。
(3)部落委員会活動と人民的融和
「水平社解消意見」(1931)は独自の身分闘争を解消することになり、自己批判を経て部落委員会活動の新方針が決定された(1934)。高松差別裁判糺弾闘争は水平社史上最大の闘争となった。請願行進や全国部落代表者会議(天王寺)が開かれ運動に活気がもどった。差別主体として、個人的差別と天皇制など社会的制度的差別が問題とされた。第13回大会で、@「特殊部落民」の呼称をやめた。A「被圧迫人民の一部」の認識に立ち「人民的融和」を促進する展望を明らかにした。「絶対的解放は、現代社会組織の改革なくしては絶対あり得ない」という理論的問題が提起された。
(4)転向と分断、戦争責任
2・26事件について「現在まで行われ てきた議会政治を廃止してファッショ独裁政治を樹立しようとする政治組織変革が此の叛乱の目標であった」(水平新聞1936)の評価がされた。しかし、以後反ファッショの運動から後退し、西光万吉は転向し、大日本国家社会党に入党(1934)、北原泰作らは部落厚生皇民運動協議会(1939)を結成、松本治一郎ら中央幹部は大和国民運動(1940頃)を行い、北原・松田・朝田・野崎らは除名された。第15回大会は戦争協力に方針転換を行った。「部落委員会・人民的融和」から「日本主義・国体の本義・国民融和」に転換したが、その理由は明確にされていない。戸坂潤は「日本主義は日本型の一種のファシズムである」と書いている(『日本イデオロギー論』)。尾川さんは「戦争協力の思想的原点は、排外主義的愛国心、日本主義である。水平社の戦争責任はまだ総括されていない、課題である」とする。
(5)部落解放全国委員会、敗戦と再興
1946年2月、全国水平社が招集し京都で全国部落代表者会議、部落解放全国委員会が結成された。翌日、部落解放人民大会が開催された。水平社の「部落委員会」継承が意識され、融和団体3名と水平社2名による運動統一をめざしていた。歴史的総括、現状認識の統一は不十分のままの出発であった。北原泰作の提案による行動綱領は、12項目だったが、日本国憲法成立で第6項目(華族制度、貴族院、枢密院その他一切の封建的特権制度の即時撤廃)は解消され、削除された。しかし国民の人権意識は脆弱で、1950年の世論調査では「人権」について「聞いたことがない」「人絹か」などの認識だった。
最後に尾川さんは、「部落差別問題は、日本近現代史に独自の社会問題であり、歴史研究、歴史認識の問題である」と報告の締めくくりに強調された。
大逆罪とは
大逆事件とは、「大逆罪」に該当する事件全般を指す。「大逆罪」とは、1882(明治15)年制定の刑法116条から120条に規定された「大逆罪」と「不敬罪」にあたり、第116条には「天皇三后(*太皇太后、皇太后、皇后)皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とある。1907(明治40)年刑法が改正され第73条から第76条が「大逆罪」と「不敬罪」に規定された。1947(昭和22)年10月、「大逆罪」は刑法から削除された。
「大逆罪」として裁かれた事件は、@本例会の報告内容である「幸徳事件」、A1923年の難波大助による「虎ノ門事件」、B1923年の「朴烈・金子文子事件」、C1932年の李奉昌による「李奉昌事件(桜田門事件)」の4件がある。そのうち、@の「幸徳事件」が一般的に「大逆事件」と称されている。
「幸徳事件」とは、長野県明科の宮下太吉による「明治天皇暗殺」のための爆裂弾製造、実験を利用して、明治政府が社会主義運動を弾圧するために起こしたでっち上げ事件で、幸徳秋水、大石誠之助、成石平四郎など事件とは無関係の者が多く逮捕された。1911(明治44)年、幸徳秋水以下24名に対して死刑判決が下され、天皇恩赦で12名が無期懲役に減刑、死刑判決が確定した12名は判決から1週間後に刑の執行が行われた。
平沼騏一郎のもらした後悔
捜査の指揮をとった検事総長代理平沼騏一郎は『回顧録』で、「被告は死刑にしたが、中に三人陰謀に加担したかどうか判らぬのがゐる。死刑を言渡さねばならぬが、ひどいと云ふ感じを有ってゐた」と書いている。三人について神崎 清は坂本清馬と神戸の岡林寅松、小松丑治であろうとしている。岡林と小松は無期懲役に減刑後、1931年に仮出獄している。岡林は「何のために自分が大逆犯人となったかと今でも不思議に思っている位です」(1931年高知新聞)小松は「私など単に神戸にあって平民新聞を読んだり社会主義を研究してゐたばかりです、弁解がましいことをいへば笑はれるかもしれませんが何のためにやられたのか本当はよく判らないのです」(1931年大阪朝日新聞)と語っている。
大逆事件の構成
事件は3つの事件から構成されている。
(1)明科事件
長野県明科の製材所職工・宮下太吉による「明治天皇暗殺」のための爆裂弾製造と爆破実験計画で、管野須賀子・新村忠雄・古河力作が賛同していた。新村の実兄新村
善兵衛が爆裂弾製造のための薬研を与え、新田融が爆裂弾の容器となるブリキ缶を提供した。これが大逆事件の「中心」なる事件だった。幸徳秋水は計画自体が空中分解すると考え、事実上放任していたという。捜査では爆裂弾本体は発見されなかった。
(2)11月謀議
1908年11月、東京巣鴨の幸徳秋水宅で、大石誠之助(新宮)、森近運平、松尾卯一太(熊本)が皇居占拠や官庁襲撃の「謀議」をしたという嫌疑が持たれた。実際は、単なる放談が行われただけで「謀議」の事実はなかった。
(3)内山愚童の「皇太子暗殺計画」
神奈川県箱根大平台の曹洞宗林泉寺住職・内山愚童が1909年1月に幸徳秋水宅を訪ねて、爆裂弾の図を見て「皇太子暗殺」の「計画」を発想したという嫌疑である。
神戸の岡林と小松が犠牲となったのは、(3)の「事件」に関してであった。1909年、内山が永平寺からの帰途、神戸に立ち寄り「計画」に同意したとして二人は死刑判決を受けた。二人は、その後の証言でも事件の計画のことは知らず、幸徳秋水とは小松は一度会っただけで、岡林は公判ではじめて会ったという。
明治期神戸の工業発展と社会主義運動
明治20年〜40年代に神戸では鐘淵紡績や川崎造船などの近代工業が発展した。神戸市の人口は工業発展とともに増え1887年に10万余名だったのが1907年には36万余名と3倍に増加した。労働者は一日11時間前後の長時間労働(紡績)や低賃金、不衛生な労働環境に置かれた。鐘紡(現在のカネボウとはちがう会社)では1900年はじめに1万1721名いた職工が、その年のうちに7701名が退社している。理由は、逃亡除名が6331名で他に解雇、病気帰休、死亡など。1899年神戸市は労働者・無宿人の生活拠点である木賃宿の強制移転などをすすめ移転先に新川地区を指定、それはスラムの形成を促した。キリスト教社会運動家の賀川豊彦や岡林寅松などが救済活動や社会主義夜学校・日曜学校(少年向け)などに取り組んだ。
岡林・小松の思想と神戸での行動
小松丑治は1876年高知市帯屋町で生まれた。17才で大阪市に出て区役所や小学校などに勤め、1898年に神戸市で神戸海民病院支院事務員となり社会主義に関心を持ち、『平民新聞』を講読するようになった。岡林寅松は1876年高知市鷹匠町に生まれた。1899年に医術開業前期試験に合格し、1902年小松の世話で神戸海民病院本院に就職、医生として治療にも従事した。日露戦争開戦前、『萬朝報』の幸徳秋水と堺利彦の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持つようになった。1904年、岡林と小松が中心となり神戸市の週間『平民新聞』読者会・社会主義研究会の「神戸平民倶楽部」を結成した。同倶楽部では「社会主義と宗教」や「マルクス・エンゲルスの学説」など社会主義に関する研究や討議を行う例会を毎週第2土曜日に当番の会員宅を会場にして開催していた。岡林は「大阪平民社」でも「共産党宣言」について講演している。1907年には元町6丁目にあった元六倶楽部で「第1回社会主義講演会」を開き、大阪から 森近運平、武田九平、荒畑寒村、和歌山から大石誠之助などが出席、講演している。岡林は、講演会後に、「人類社会は資本家紳士階級と平民労働者とに区別するところで社会主義者勿論資本家に反対するが今日の階級制度の世にありては資本家の産出する自然なれば吾等社会主義者はつまりこの階級制度を打破するにありて資本家も労働者も皆人類を挙げて解放するの福音にして今日の資本家の如き穀つぶしをなくして国民皆兵否人類皆労働軍の世となさねばならぬ、これには先ず労働者の大自覚を促さねばならぬ」と書いている。(『雑記帳』)「神戸平民倶楽部」例会は毎回12~13名で、官憲の監視と迫害は強まり、内務省警保局の監視記録には兵庫県下の社会主義者は18名、その筆頭に岡林と小松が置かれていた。
再審請求の棄却と名誉回復・顕彰運動
終戦後まで生きのびた岡林寅松は森長英三郎ら自由法曹団弁護士の尽力で1947年坂本清馬とともに復権した。これは司法大臣名義の特赦で、選挙権などの人権は回復されたが無罪が宣告されたわけではなかった。
1961年1月坂本清馬らによって東京高裁に「大逆事件」の再審請求がなされた。1965年12月東京高裁は事件の再審請求の棄却を決定した。同年12月坂本らは最高裁に特別抗告したが1967年7月最高裁での特別抗告も棄却されて現在に至る。
戦後、多くの研究者により「大逆事件」は当時の国家が社会主義者・無政府主義者の自由・平等・博愛思想を「危険思想」とみなして、でっちあげを行い多くの無実の人々を弾圧した「権力犯罪」であることがあきらかにされている。
再審請求の道が閉ざされた今、幸徳秋水の郷里高知県四万十市、大石誠之助の郷里和歌山県新宮市など全国各地で大逆事件の連座者の名誉回復と顕彰の運動が続けられている。
2017年「共謀罪」と「大逆事件」
「共謀罪」が成立したとき、「治安維持法の再来」と言われた。平沼の公判での論告に「大逆罪ヲ謀ル動機ハ信念也」と述べたように権力が個人の内心まで踏み込んでこようとする動きが現在に続いている。大逆事件の意味と、犠牲者のかかわった運動、現在行われている名誉回復と顕彰の運動の持つ意義をあらためて考える必要があると上山さんは強調する。田中伸尚は「私は明治の『大逆事件』こそ、共謀罪の原点だという認識が当初からあった。それは、非戦を軸に一気に広まった革新的な思想の社会主義を根絶するために国家が乏しい根拠で、『大逆』を共謀・陰謀したという事件をでっちあげ、多数の人々を罪に陥れ、生を奪ったからである。動機が思想にあるとして事件を作った日本の国家のあり方と、そのような国家を許容してきた社会意識−近代日本に刺さっているトゲを、そうとは気づかない社会意識−が今なお地続きのままで、それが共謀罪を生んだ」と書いている。〔『囚われた若き僧 峯尾節堂 未決の大逆事件と現代』岩波)
質疑交流
上山さんが大逆事件問題に関心を持つきっかけとなったのは、大谷大学時代の授業で、事件の犠牲者で無期懲役となった高木顕明がとりあげられたことだった。大谷派東本願寺は、かつて高木を非難していたが現在では態度を改め高木の復権を認めるようになった。「大逆罪」のルーツは何かについて、古代の専制的な天皇制の思想を根拠にしているのではないかという意見、明治の薩長藩閥政府がつくりあげた絶対主義的天皇制を根拠にしているという意見など活発な意見交換が行われた。再審請求運動の現在について、龍谷大の石塚氏が「再審検討会」を立ち上げているとのこと。名誉回復・顕彰運動について各地で積極的にすすめられているが、右翼の妨害があること、死者の名誉市民化には反対という革新政党市議から意外な意見があったことなどが紹介された。名誉回復・顕彰運動の意義について、犠牲者らがかかげた民主主義の思想を我々が受け継ぐことで現代の社会の意識を変え、「共謀罪」など昨今の政治情勢を打ち破るきっかけとなることなどが指摘された。
もみじ寺(壽法時)「慰霊碑」見学
快晴で初夏の暑さを感じるなか、大阪市天王寺区四天王寺二丁目の壽法寺(もみじ寺)を訪ねました。「水子供養」のはでな看板が目立つお寺は古い大阪の面影を残す四天王寺界隈の一角にあります。元禄時代創建の浄土宗寺院で、かつては境内が天王寺区役所附近まであり、池の側にもみじが咲いていたので「もみじ寺」の通称があります。墓石が密集する細い区画を行くと、 ひときわ背の高い緑色の石の「大阪事件」犠牲者の慰霊碑が立っていました。酷D片岩製の板石(写真1)に深く文字が刻まれています。
1995年11月23日「大阪事件」(1885年10月)110周年の日に、大阪民衆史研究会が慰霊碑の解説板を立てていましたが、現在周辺が整備されて解説板はありません。解説板に書かれていた内容を以下に紹介します。
「自由民権運動退潮期の一八八五(明治一八)年五月、自由党急進派であった大井憲太郎とその同志小林樟雄、磯山清兵衛らがはかって、自由党壮士が朝鮮にのりこみ、「朝鮮改革」を行って清国から朝鮮を独立させ、外患をおこして日本人民の愛国心を喚起し、民権運動を勝利に導こうと計画しました。そのため爆発物を製造し、まさに朝鮮へ渡る寸前、発覚し、大阪・長崎などで一三九名が逮捕されました。これが世にいう「大阪事件」で、その歴史的評価は、現在多くの議論があります。逮捕された壮士のうち、福島県出身の加藤宗七は送検前に、群馬県の山崎重五郎、長野県の土屋市助、茨城県の川北寅之助が予審中に病死しました。彼ら四人を顕彰するため、死後まもなくの一八八七(明治二〇)年、有志により慰霊碑が現在の天王寺区逢坂一丁目の天神山に建てられ、盛大に慰霊祭が行われました。しかし、その後、倒壊して安井天神のかた隅に放置されていたのを、これをみかねた有志の奔走と、通称もみじ寺で知られる壽法寺の当時の住職の好意で、再建されました。ところが再び近年、道路計画のため、慰霊碑は倒れたままになっていましたが、今年の春、これを壽法寺に建てていただくことができ、本日、「大阪事件」の犠牲者の関係者のご遺族とともに「追悼のつどい」を開催しました。
一九九五年十一月二三日 「大阪事件」百十周年の日に 大阪民衆史研究会 」
碑に記された四名について
午後から竹田さんの、碑に刻まれた四名についての詳細な報告が行われました。
@加藤宗七は福島県田村郡大倉村(現・田村市船引町)に生まれた。事件に関与し、1885年11月に長崎で逮捕された。送検前の11月28日に同地で病死した。1995年の「追悼のつどい」には親戚の加藤安夫氏(宗七 の兄の曾孫、奈良市)親子が出席した。
A山崎重五郎は群馬県前橋で前橋藩士の五男として生まれ、徴兵逃れのために山崎家の養子となった。自由党幹部の兄の影響で自由党「壮士」となった。1884年自由党が「同士相会シ文武ノ業ヲ攻究スル」目的で設立した「有一館」の館生となった。同館は大井憲太郎を中心とする関東急進派の拠点と化し、自由党解党後は青年党員の牙城となった。「大阪事件」計画にあたり、資金難に苦しんだ大井らは強盗を計画、山崎、大矢正夫、内藤六四郎の三名に決行を命じた。三名はためらいつつ強盗実行を決断した。大矢正夫は『自叙伝』で、このことにふれている。「如何に国事の爲めとハ言ヘ、良民が粒々辛苦して、蓄積したる財を奪ふハ、良心の容れざる所なり、故に第一にハ、吾々の対敵たる官金を奪ふべく、第二にハ、世の所謂守銭奴なる者の産を奪ハんと。」大井憲太郎、小林樟夫は1885年11月23日大阪で逮捕、山崎は27日に大阪府十市郡竹田村(現・奈良県)で逮捕、1886年堀川監獄分署の未決監に勾留中に腸カタルで死去(享年26才)。
B土屋市助は長野県岩尾村(現・佐久市)に生まれた。ハリスト正教会ニコライのもとで神学を学び、ロシア虚無党の影響を受けた?1885年初め「有一館」生となり、10月25日渡韓壮士の第一陣として大阪に集合、長崎へ出発、11月末頃に逮捕された。1886年頃、結核が悪化して危篤状態となり、府立病院で9月14日亡くなった(享年21才)。1995年の「つどい」には、佐久市在住の子孫である土屋次男氏が出席した。
C川北虎之助は茨城県の出身でどういう人物か不明。
慰霊碑建立と再建の経過
慰霊碑は大阪事件裁判中の1887年、安井天神に「在阪有志」により建立されました。同年9月10日に、天神山で「慰霊懇親会」が盛大に行われましたが慰霊碑には、大阪事件の内容を記すことは認められませんでした。そして、その後倒壊した碑は安井天神の隅に放置されていましたが、壽法寺の先代住職が同寺に移転させ、1910年境内で追悼会が行われました。このことについて、山崎重五郎の兄斎藤壬生雄が『自由党史』(早稲田所蔵)に書き込みをしています。「明治四十三年五月、大坂ニ建設ノ碑ハ更ニ紅葉寺ニ移石シ、大ナル記念祭ヲ執行シ、年々五月 日ト定タリトノ通知、余ノ下ニ在リタリ。」この年1910年8月に、「韓国併合」が行われました。
1991年5月3日、梅田の太融寺で行われた「国会期成同盟発祥の地」碑前祭時に行われたフィールドワークで「大阪事件」碑が壽法寺(もみじ寺)の境内外に放置さ れているのが確認されました。松尾章一氏が同寺に申し入れ、また犠牲者の一人山崎重五郎の親戚の方(河合和子さん)が京都百万遍の瑞林院に嫁がれ、そのご主人河合孝雄師が壽法寺住職と友人であった関係で、和子さんから強い働きかけがあり、1995年4月壽法寺に碑が再建されました。1995年11月23日に行われた「自由民権『大阪事件』犠牲者追悼のつどい」には、四人の遺族のうち、川北虎之助以外の遺族八名が集まっています。
質疑
参加者(十名)による活発な質疑が行われました。田崎公司さんは、加藤宗七について、福島事件に関わり、五日市で小学校教員をしていた、地元の人は「悪いことをして長崎まで行った人物」と噂をしていた、土屋市助について、渡韓する前に赤穂浪士の刀を渡されたという話が残っている、碑が置かれていた安井天神は真田幸村切腹の場と言われている、「大丸」が気に入っていた土地で、「大丸天神」とも呼ばれ、大塩平八郎の乱の際は、大丸は襲撃対象とならなかったと言われていることなど興味深い話をされた。山内英正さんは、落合寅一が信貴山寺に押し込み強盗に入った時のことをくわしく語られた。飾り用のおもちゃの小判を持っていこうとしている最中、村人が騒ぎ出したので、日本刀を振り回して逃げ出した。寅一は、逃げ足が速かったが道の雑草を刀で伐採しながら後の者の逃げ道を作りながら逃げたという。頭山 満などからも尊敬され、晩年に至っても時局批判をやめなかったので警察が24時間尾行していたという。家族が「こんな老人が何もできないのだから放っといてくれ」と頼んで、ようやく尾行が解かれたとのこと。キリスト教に入信、断酒をし、救世軍活動を続けたという。金井隆典さんは、事件逮捕者の救援活動が非常に組織的に行われていたことを指摘された。慰霊碑が裁判の最中に計画されていること、拘留された人々への差し入れの手続きが書式化されており、救援活動の形式がフォーマット化されているほど救援活動が組織的に行われていたことがわかります。裁判の傍聴記事は、新聞の間で温度差があったという。「毎日(大阪毎日新聞)」は冷たい扱い、「朝野新聞(東京)」は、傍聴の電報記事を毎回掲載するなど熱心に扱ったという。
事件の評価について新たな説明板を作るのであれば、論点(注・参考資料)をどのようにあきらかにするべきか、明確にしてゆく必要があるのではという意見が出され、これについては、研究会的なものを作る必要があるという声もあり、検討課題となりました。
本会会員で兵庫歴史教育者協議会会長の山内英正さんの案内による「武庫川渓谷廃線跡を歩く」フィールドワークは、2022年4月10日(日)に行われ6人が参加しました。今年は桜の開花が早く、当日は少しピークが過ぎていましたが、好天にも恵まれ、満開のなかハイキングを楽しむことができました 。
JR宝塚線(福知山線)西宮名塩駅に午後1時集合し、丹波街道と呼ばれる旧道を15分ほど下ったところが、廃線跡の入口となっています。ここから武田尾駅手前までの約4.7qが事実上のハイキングコースとなっていますが、管理主体がJRと行政で複雑にまたがっており、事故などについては「自己責任で」とのことのようです。したがって、途中トイレもなく、枕木の残る道を歩き、真っ暗なトンネルを懐中電灯で照らして進んでいきました。
また山内さん自身が関わってきた「武庫川ダム建設中止、ダムに頼らない総合治水」をめざした「21世紀の武庫川を考える会」の運動の成果で、2011年、国交省は武庫川ダム中止を発表しました。それにともない同会は関係者と話しあいを続け、2016年に廃線跡の一般開放が実現しました。同会は、武庫川渓谷の自然と景観を守り、より豊かな武庫川づくりのために皆さんとともに運動を続けたいとしています。
山内さんの解説でそのダム計画施設の名残や、明治時代の阪鶴鉄道の遺構などを見学しながら、最長414mの北山第2トンネルなど、合計6つのトンネルを通り抜けました。そのなかで、長尾山第1トンネルの入口では、1929年のダイナマイト爆発事故で朝鮮人労働者が死傷しています。
サクラ研究の演習林としてこの地の山を譲り受けて「亦楽山荘(えきらくさんそう)」を構え、大正末期から武田尾駅から線路を歩いて通ったのが、「桜男」笹部新太郎です。大阪市北区堂島に生まれた笹部は、父から月給取りにはなるなと厳命されたことを守り、東京帝国大学法科を卒業以後、一度も職業に就かず、生涯をサクラの研究に捧げました。
現在、「亦楽山荘」は宝塚市により「桜の園」として里山公園として開放されています。私たちは、武庫川の親水広場から「亦楽山荘」跡まで急な山道を登って、途中、ヤマザクラの満開を見ることができました。笹部は個性のないクローンであるソメイヨシノを忌み嫌い、ヤマザクラを愛したとのことですが、その美しさを知ることができて、ここまで登ってきた甲斐があったと思いました。
ゴールのJR武田尾駅に着いた時には夕暮 れ時となっていましたが、心地よい疲れとともに大阪の家路につくことができました。
今回のシンポジウムは、2020年3月7日に東京の大正大学で開催予定が、コロナ禍のために中止延期となったため、2年越しに大阪たかつガーデンでようやく開催にこぎつけたものである。全国自由民権研究顕彰連絡協議会と大阪民衆史研究会が共催して、オンラインと対面方式を同時に行うという本研究会にとっては初めての試みも、多少の機械的トラブルはあったものの、全体で49名(zoom23名、対面26名)の参加でシンポジウムは無事成功の運びとなったことを喜びたい。以下に、当日の報告、質疑交流について、要旨を報告する。
シンポジウムは筒井秀一高知自由民権記念館館長のオンラインによるあいさつにはじまり、島田 耕、竹田芳則、高島千代、新井勝紘(オンライン)、福井 淳の五氏による報告が行われ,その後質疑交流が行われ、閉会の挨拶を尾川昌法大阪民衆史研究会会長が行った。司会は大阪民衆史研究会副会長の松浦由美子、同事務局長の林耕二が担当した。
(1)報告
報告1 島田 耕さん(映画監督・島田彦七ひ孫・大阪民衆史研究会副会長) 「島田邦二郎と私」(要旨)
東京で映画の仕事を30年勤め、1980年に大阪にもどり、淡路の叔父の家に行くと邦二郎の資料が届けられていた。自由民権百年のとりくみで太融寺に国会期成同盟の記念碑を建てる募金などをよびかけていたころで、中瀬寿一さんなど歴史研究者と出会い、五日市憲法などの話も出た。似たものがうちにもあると言ったことで、知人の藤林伸治が調べたいと言うので、交詢社関係の資料を送ると他にないかということになり、萩原さんや向江さん、竹田さんらが実家の蔵の調査を行い邦二郎の『立憲政体改革之急務』が世に出ることになった。史料は島田家文書として洲本の淡路文化資料館に保管されている。資料中には王陽明の本などもあり、先祖は庄屋だったが読書や俳諧などに関心が深かったことがわかる。おばあさん(彦七の娘のよしの)の話として、彦七と邦二郎が自由民権運動をして淡路の幹部だったこと、邦二郎は東京で学問をしたのに村長や議員をしただけで惜しい人、大塩平八郎の門下生倉田績(紀州)が八木村の国分寺にいて、彦七と邦二郎が陽明学を学んだこと、客間に績と署名がある扁額があること、陽明学は本を読むだけではなく実践することが大事、などの話を聞かされ、東京へ出て学生のころ東宝争議を支援に行くような人生につながったと思う。邦二郎の葬儀には出た記憶がある。彦七は、福沢が「天は人の上に人をつくらず」と言ったが、「天子さんがあって、妙なものじゃ」と言った。研究者の方々のご協力で邦二郎の『立憲政体改革之急務』
を発見し、大阪民衆史研究会で『島田邦二郎「立憲政体改革之急務」史料集成』を発刊できた。いま憲法改悪の動きがある中、日本国憲法は決してアメリカの押しつけ憲法ではなく、その源流には自由民権運動があり、邦二郎らの明治憲法批判、さまざまな憲法草案研究の活動などがあることを、もっと世間に報せてゆく必要があると思う
。
報告2 竹田芳則さん(奈良大学教授・大阪民衆史研究会運営委員) 「島田邦二郎の自由民権思想の背景を探る」(要旨)
邦二郎の自由民権思想の前半期、明治10年代までを探る。特に邦二郎の思想形成に影響を与えた兄彦七との関係、淡路の自由民権運動との関係をみてゆく。
1,淡路における成立期から高揚期の自由民権運動 初期
1870年徳島藩蜂須賀家の筆頭家老稲田氏別邸が襲撃される庚午事変(稲田騒動)が起こる。1874年板垣らが「民撰議院設立建白書」を出した直後、徳島の自助社が設立、1876年淡路島が兵庫県に編入され、同年淡路自助社が設立される。初期は徳島の影響が、後半以後は兵庫県全体の運動に位置づけられる。1875年、「通諭書」事件が起こり大審院が回収命令を出す。同年、35人が大阪愛国社設立に参加した。
高揚期 自助社に替わり民権運動の中心となるのが1877年安倍喜平により創刊された「淡路新聞」、鹿島秀麿は慶応卒業後に同紙創刊に参加。1880年愛国社第4回大会が開かれ集会条例が出される。吉田一郎が「淡路新聞」で同条例を批判。1881年神戸交詢社社員らによる兵庫県憲法講習会が私擬憲法法案「国憲私考」を起草、鹿島は安倍誠五郎らと修正委員として関わり兵庫県改進党の運動で大きな役割を果たす。
植木枝盛の淡路遊説 民権運動の最高揚期の1881年5月に津名郡志築村の青木茂七郎の要請で植木枝盛が淡路遊説を行い、島田彦七らが洲本遊説中の植木を宿舎に来訪、交流する。1882年佐野助作らが淡路自由党を結党、島田彦七も常議員15名のうちの1人。同年、淡路改進党も結成される。自由党中央本部臨時大会に淡路地方支部から榎列村の真野方郎が参加。
2,島田彦七、邦二郎の民権運動参加
邦二郎の兄彦七(島田 耕氏の曾祖父)は淡路の三原郡鳥井村の庄屋島田家の長男に生まれた。1881年洲本に遊説に来た植木枝盛を訪ね、82年には淡路自由党結成に参加した。82年集会条例改定で政党の地方化が禁止され、その後全国的な解党の流れがあり淡路自由党も解党された。
邦二郎は、三原郡八木村の笑原村で生まれた。1876年洲本師範学校に入学、翌年神戸師範学校に合併され同校に移る。1880年慶應義塾に入学、英学を学び、1884年千葉県の南窓明治学会に招かれ、英学教師となり、その後大阪市で私塾を開き、英学を教えるが病気となり淡路に帰国する(30才)邦二郎の「交詢社私擬憲法案」は、第79条の条文までが転記されている。朱書きの修正などがされているが、邦二郎が草案討議に参加していたことを表すものではない。
邦二郎は慶應義塾に学び、交詢社の私擬憲法案に大きな影響を受け、10年後の『立憲政体改革之急務』執筆の原点となったとも考えられる。
3,島田邦二郎の政治思想と人的ネットワーク
『資料集成』にある「第三号人名記録」には、東北から熊本まで96人の個人名があり、山形、千葉県地引村付近の民権家、慶應義塾出身者が多い。 栗原亮一は浪華学舎で邦二郎に英学を教え、国会開設請願から1881年自由党結成に加わり板垣の洋行に随行。『自由新聞』主筆として84年清仏戦争を清国で取材。帰国後「大阪事件」連累者の疑いを恐れ自宅に閑居。88年大同団結全国有志大懇親会開催で発起人総代。第1回衆議院議員選挙以後1908年まで当選10回、自由党土佐派の中心人物として自由党から憲政党、立憲政友会に所属、板垣内相秘書官もつとめた。
高須峯造は愛媛県越智郡の出身、1878年浪華学舎で英学を学び、栗原の家に同居。80年、邦二郎と同じ日に慶應義塾に入社。81年慶応卒業後、山形県で東英社を組織、『山形新聞』に助筆。83年越智郡から県会議員に選出、のち弁護士となり、85年邦二郎の「松山紀行」に旧友として登場。87年に県会の改進主義者らで予讃倶楽部を結成。旧自由党系を批判する改進党員と連携し、愛媛進歩党を結成。
4,島田邦二郎の政治思想の系譜
国会期成同盟が憲法案起草を呼びかけた民権運動飛躍期に邦二郎は慶應義塾学生だった。交詢社案に影響を受けたが民権運動には積極的ではなかった。1886年に淡路に帰って、三大事件建白運動の頃から政治に本格的に関わるようになった。兄彦七と佐野助作らは淡路自由党主流派で、邦二郎もその立場だったが思想的には「福沢派」に近い?旧友の高須峯造は改進党系に近い行動を取る。『急務』執筆のころの淡路の政治状況は、1891年前半期の民権派内部の分裂顕在化、三原郡の大同団結運動が分裂。邦二郎は改進党やこれと共同する旧自由党勢力の三原同志会と対立。もと淡路自由党幹部で「福沢派」として神戸交詢社で私擬憲法を起草した真野方郎とは激しく対立した。邦二郎は、地縁・血縁の確執をともなう地域での政争の中で、これまで積み上げてきた理想とする憲法構想を『立憲政体改革之急務』に書き残そうとしたのか?
報告3 高島千代さん(関西学院大学・大阪民衆史研究会運営委員)
「『立憲政体改革之急務』は何を語っているか」
島田邦二郎の『立憲政体改革之急務』は、『自由民権百年』最終号(1985年)に一部紹介され江村栄一編『日本近代思想体系9 憲法構想』(1989年)に全文がはじめて紹介された。明治憲法施行当時最も「ラデイカルな見解」であり、質量共に非常に優れた構想であるにも拘わらず、まだよく知られていない。
1,執筆に至るまで
邦二郎の活動時期は、明治10年代(1878〜86) の大阪・東京での英学修業を経てイギリス立憲君主制を良いと考える『急務』の基本的なアイデイアを獲得、民権派と接点を持つ時期と、明治19年に淡路に帰郷、三大事件建白運動(地租軽減、言論集会の自由、外交政策の転換を要求)・大同団結運動を担ってゆく時期とにわかれる。1887年12月には三大事件建白書提出のため淡路代表として上京。土佐・淡路自由党系グループと連携運動する。主要な要求は「責任内閣」である。ほかに普通選挙、一院制、首長公選・直選制、言論集会の自由、国会開設前の選挙人等の心得に関する議論、憲法点閲論も議論。これらの項目は、『急務』の中にもみられ、この時代の運動を背景に『急務』が書かれたことは確か。彦七、邦二郎は兵庫県議会選挙にも出馬、落選するが、この時の経験が『急務』中の「人民」「輿論」は「不完全なもの」(第一章)、「郡長公選論」(第四章)などの主張に反映されているのではないか。1891年1月8日前に上京し、たぶん第一回帝国議会を傍聴し議会の予算査定権限の限界や立憲自由党の分裂を見た経験も明治憲法67条を念頭に、『急務』の中に反映されていると思われる。
1889年2月〜91年前半に『立憲政体改革之急務』を執筆か
邦二郎の視座は、明治10年代は地方から中央を、19年以後は中央にいて、明治憲法制定と国会開設以後は地方を自らの場と定めている。立憲政体は改革を許容する体制であり、欠点をもつ明治憲法を改めることを目的とする。道理に訴えて行い、実施する場合は当局者の取捨選択にまかせるとしている。
2,『立憲政体改革之急務』の内容と特徴
構成は全10章、26×26字の原稿用紙90枚に書かれ字数は約5万字である。緒言と第1章は邦二郎の立憲政体論の理論が集約されている。第2章から第6章までは、立憲政体の具体的な内容、第7章から第9章までは立憲政体を支える人民はどうあるべきかを述べ、第10章はまとめである。
理論が集約されている緒言と第1章に「天下ノ事物ハ常ニ退歩ノ運命ヲ有ス」とあるように、天下の事物は常に変化し放置すると退化するとし、社会を改良してゆく必要性を述べている。立憲政体は改良に都合が良い政体であるとする。本来、人間は不完全な動物であり、国家の存在理由は人間に保障された天賦人権を可能ならしめるものであるとする。人民が本で、政府が末である。立憲政体は、そのためのもっとも適合的な政体であり人民の意思にもとづく政体であるとする。君主については「世界広シト雖モ、人民ナクシテ君主ナル者アル可カラズ」とし、君主の位は人民の意思にもとづくとしており、これは実質的に国民主権の考え方である。
第2章~6章は具体的な制度改革論について述べ議会と人民に内閣が責任を負うべきとする「責任内閣論」を「立憲政体ノ骨子」とし、明治憲法55条を、その根拠としている。「普通選挙論」について述べ、女性参政権についてもふれている。
「地方自治論」では首長公選論、議員の直接選挙論を述べている。言論・集会・結社の自由についても述べ、「一院制」について、貴族院不要論を唱えている。これは、憲法改正を必要とする議論である。第7~9章では、立憲政体を支える人民が責任を持ち、「輿論」を正しく保つために常に「事物改良」を志し、まず人民自身を改良すべ
きことを述べている。
さいごに、『急務』の特質、歴史的な位置を3点にまとめると、@明治憲法発布前後の憲法論・政治構想の集大成した議論である。A「不完全な動物」である人間の社会を改良するのに最も適合した政体が立憲政体であり、明治憲法体制も改革の対象としている。B明治憲法の依拠する秩序は、「皇祖」以来の固定的な関係ではなくて自由と権利をもつ人民の意思によって決定されるという民権運動の近代的な秩序意識が継承されている。
報告4 新井勝紘さん(元専修大学教授・大阪民衆史研究会会員)(オンライン) 「淡路島の『自由民権』と明治政府批判−島田邦二郎と『立憲政体改革之急務』−」 「自由民権期の憲法構想にみる権利意識−山村と島から撃つもの−」
1,2022年1月3日産経新聞に「明治憲法授業で歪曲か、日教組集会で実践例」という記事が載った。新潟県の小学校で、明治憲法と五日市憲法草案を比較する授業が行われたことについて記事では教員の政治的意図、歴史を大きくねじ曲げている、「護憲」を植え付ける意図などが指摘され、これをうけて2月3日予算委員会で日本維新の会の山本剛正議員が質問、文科大臣・岸田総理が答弁した。文科省は新潟県教委を通して確認中との内容。「五日市憲法」は多くの教科書でもとりあげられていて、これは教育への不当な干渉であり、私たちも声明を準備している。
2〜3、家永・松永・江村編『新編明治前期の憲法構想(新編2005年)』では、「まだ私たちの知らないこの種の資料が他にもまだ存在するのではないか」としている。慶応元年~明治20年7月の間に57編が確認され(新編)、未発見も含め101編が存在すると考えられる。今後期待される憲法草案発見地は、1,香川県有志、2、栃木県中節社、3,和歌山県実学社、4,宮城県仙台有志、5,宮城県進取社、6,岩手県盛岡有志、7,島根県出雲有志、8,福岡県柳川、9,茨城県真壁、10,全国各地が考えられる。
4〜11、ラデイカルな案は地域から出されている。憲法草案・国家構想の起草時期は明治憲法発布前後まで広げる必要がある。五日市憲法は、1968年8月27日山林の中の深沢家の土蔵から発見された。同憲法の先駆性は「国民の権利」を明記し、国民の権利を守らない法律は認めないとしたこと。法の前では全ての国民が平等であるとし外国人の権利も認めている。現行憲法でも内外国人を問うて差別が存在する。五日市憲法112条において政府が個人の人権を侵すことがあれば国会が反対を主張し法律の公布を拒絶することができると、立法権の行政権への優位を明記している。地方自治への干渉禁止、教育の自由と教育を受ける権利も認められている。同憲法を起草した千葉卓三郎の法意識は、「備忘録」に「国家は人民に因て立つの名なり政府の務は必ず人民より起り、政府の事を施す」と書いているように、国家が人民の意思をもとに成り立っているという立場を明確にしている。
12〜25、各地の憲法草案等
新潟県南魚沼郡中村の田村ェ一郎「私草大日本帝国憲法」は、明治19年末〜20年7 月ころに起草。「交詢社」草案に28条を附加した。国民の権利項目が11か条附加され、植木案のみだった「死刑廃止」が明記される。三河国渥美郡田原村(現愛知県田原市)の村松愛蔵憲法草案は、明治14年起草。民主主義の方向に徹した草案で、女性戸主に参政権、一院制議会、法律の留保なしの自由が明記される。愛知県知立市の内藤魯一の大日本国憲草案は、嚶鳴社草案を東京の名望博識の士として批判、一局議院を主張、有司専制の明治政府に対し革新的な憲法創出、君権縮小、人権拡張、一院制を意図している。熊本の相愛社員私擬憲法案は、民権結社「相愛社」の起草。毎夜会議をひらき、明け方まで論議を重ね、中には危険な思想もあった。まとまらずに、東京の矢野駿雄に起稿を依頼し、民約憲法案ができたという。岩手県久慈の小田爲綱家文書は、自由民権期憲法構想の中で不気味な光を放っている。「皇帝憲法を遵守せず、暴威を以て人民の権利を抑圧する時は、人民総員投票を以て廃位の権を行うことを得る」と、国民投票による皇帝廃位を明記している。明治憲法発布に関する感情について、新富座政談演説会のようすが朝野新聞(明治22年)に記録されている。責任内閣や弾劾権に関する明文のないことなどに不満が多く、ある弁士が「我が憲法は完全なり」と言うや否や数百の聴衆が「ノーノー」と叫んだとある。在米民権家からも「政府の改革」「藩閥政府の掃討」「政権の帰する所は我々国民の輿論にあり」などの意見が寄せられていた。中江兆民は1881年「憲法の原理」(『東洋自由新聞』)を発表し、「民の民たる所以の者は、正さに、自ら其憲法を造ることを得るに在り。且つ憲法を造ることは、独、民の自主自由の大権を以て、是に与かるに足る」と主張している。また1890年、自由党結党と32項目の政治目標の原案を起草している。その中で、明治憲法の点閲(一点づつ点検すること)を求めている。華族令や責任内閣、条約締結、選挙権などは明治憲法の弱点とし、最初の国会で逐条審議し、改正することを要求し民権派のまきかえしを試みている。しかし憲法点閲、兵制改革、議会の弾劾権の3項目は集会条例に抵触するということで認可されず、自由党大会で審議されなかった。中江兆民は、明治22年『活眼』で、国会での憲法の点閲と意見があれば上奏する権利があることを主張し、それがなければ真の国会といえない、としている。そして、衆議院議院の一大義務とは、憲法に就いて意見を陳述すること、上奏して陛下の認可を仰ぐことであるとしている。憲法の点閲については邦二郎が『急務』の中でも主張している。
報告5 福井 淳さん(全国自由民権研究顕彰連絡協議会代表・大正大学特任教授)
「都市民権結社の憲法構想」「嚶鳴社憲法草案」
私擬憲法の先駆けである「嚶鳴社憲法草案」につき、「国民ノ権利」条項を中心に、また邦二郎が全文筆記記録した「交詢社私擬憲法案」につき、「内閣」条項を中心に『急務』などと比較し、島田構想の意義についても明らかにしたい。
嚶鳴社は地方にも29の支社、全国に1000人近い社員を擁して、あらゆるメデイアを駆使して活動した。「嚶鳴社憲法草案」の起草は1879年末とされる。
起草の参加者は、河津祐之、島田三郎、金子堅太郎などの元老院に在籍した人々が中心となった。彼らは、ジャーナリスト派と対立しており、社長の沼間守一らからは歓迎されなかったため未完成に終わったと考えられる(印刷発行はされた)。国会期成同盟の憲法草案作成決議とは無関係に、元老院の「日本国憲按」起草の影響を受けた独自の起草(民間での焼き直し)であった。
「嚶鳴社憲法草案」の主な起草者は、@河津祐之、フランス留学をした仏学派で起草時は元老院大書記官。のち立憲政党、司法省刑事局長を勤めた。革命は「毒害ヲ破砕」するが、「破砕」が定着して建設的営為が困難になると主張。A島田三郎、
英学派、起草時は元老院少書記官。のち立憲改進党、衆議院議長。善き「王政」(立憲君主制)は悪しき共和制に優ると主張。B金子堅太郎、英学派、起草時は東大予備門教員、元老院権少書記官。立憲君主制においても王権を制限しすぎないことを主張。「嚶鳴社憲法草案」は、革命には慎重、共和制には懐疑的、王権の存在意義をも認めるが明治政府中枢とは微妙に一線を画した元老院系の穏健な民権家官吏たちを中心に起草された。英学派の島田・金子が実質的な起草者であった。
「嚶鳴社憲法草案」の「国民ノ権利」条項の主な部分−「第1条 凡ソ日本人民タルモノハ法律上ニ於テ平等ノモノトス」など−は元老院「日本国憲按」条文を引き継いだものであったが、民権派にヨーロッパ各国(スイス、イタリア、オランダ、スペイン)の憲法が盛り込んだ普遍的な国民の政治的権利の存在を知らせる積極的な意義をもった。ちなみに明治憲法では「平等」の語を使用していない。「女帝」について、第6条「皇族中男無キ時ハ皇族中当世ノ皇帝ニ最近ノ女ヲシテ帝位ヲ襲受セシム」と女性の皇位継承を認めている。「国憲ノ改正」について、憲法の改正は第1条「憲法ヲ改正スルハ特別会議ニ於テスベシ」と、第2条「両院ノ議員三分の二ノ議決ヲ経テ皇帝ノ允可スルニアラザレバ特別会ヲ招集スルコトヲ得ズ」とし、憲法改正を通常の法律の範囲でとらえる元老院「日本国憲按」と異なり、憲法改正のハードルが高いことを示す。
交詢社「私擬憲法案」と島田「立憲政体改革之急務」の内閣に関する構想の比較
邦二郎史料に「私擬憲法案」全条文を筆記したものがあり、『急務』執筆にあたり、影響を受けたことが考えられる。「私擬憲法案」の「内閣」と、島田『立憲政体改革之急務』の「第弐章 立憲政体ノ骨子 一名責任内閣論」を比較検討すると、その主要部分は、「私擬憲法案」の「内閣」条項の主旨や一部用語が近似している。島田は、
「私擬憲法案」から基本的な着想を得つつ「明治憲法体制」改革を意図し、それを一時的なものとせずに改革を定着させようとした、そして「議院内閣制」、「責任内閣」を独自に構想したことなどが島田の真骨頂として評価できる。また、「交詢社」以外の文献、ベンサムやトクヴィルなども読んでいたのではと考えられ、島田の勉強熱心ぶりが窺われる。
(2)質疑応答
参加者は計49名、短時間ながら活発な質疑が行われた。
質問・森下賢一さん(大津市)、「島田邦二郎が人民の人権や自由について、どのような意見を持っていたのか?私は植木枝盛を尊敬しており、人権の保障こそ憲法の要と思う。」
感想・渡辺倬郎さん(堺市)「本を買っていたけど、あまり読んでなかったが、今日の話を聞いて非常によくわかった。新井さんが五日市憲法を教材にしたことを維新が国会で追及するという不当なことが行われていることを紹介されていたが、大阪でもオンライン授業について意見を述べた校長を維新の松井市長が処分していた問題があり、維新の不当な教育介入政策が全国に影響をおよぼしていることは問題と思う。」
高島回答、「すべての人は様々な能力を持って生まれてきているが、それらの能力を十全に発揮し、幸福を得ることができるように人権が保障されなければならいという考え方で、スペンサーに近い考えと思う。結社の項でも、もし政府が悪政を行えば、政治結社は、それに抵抗しなければならないとも主張している。」
質問・松崎さん(zoom)「竹田レジメ中、P3史料島田邦二郎宛彦七書翰の『明治15年』は『明治14年』ではないか?」
竹田回答、「『急務』では明治14年になっている。レジメがまちがいでした。」
質問・杉山弘さん(zoom)「民権家の法の思想について、状況の反映、スペンサーやミルなどの影響は」質問・真辺美佐さん(zoom)「邦二郎が共和制から立憲政体に考えが変わったのはなぜか?」
高島回答、「『急務』について、まずスペンサーが思い浮かぶ。立憲政体が変化に対応するというところなどスペンサーに近い。地方自治論などはトクヴィルの影響が考えられる。今後検討課題としたい。」「立憲民主政体に考えが変わった理由ははっきりわからない。大阪にいる頃、竹内や栗原、岡山の結社のラデイカルな考えの影響などが考えられる。その後東京に行って、慶応に学び日本の社会に適応した立憲君主政体を考えるようになったのでは。」
ビルマとミャンマー
南田さんは日本で数少ないビルマ語とビルマ文学を教える大学の専任教員である(現在は大阪大学名誉教授)。2020年3月に45回目のビルマ訪問を終えて帰国した。昨年2月に軍事クーデターが起こって市民の抵抗が続いている。南田さんは渡航禁止となった機会に、軍事政権下でビルマ文学が経た試練、文学的経緯をまとめ、『ビルマ文学の風景−軍事政権下を行く』を書き下ろした(2021年本の泉社刊)。
かつて「ビルマ」と呼ばれた国は、軍事政権により1989年以来「ミャンマー連邦」と国名表記を変えた。ビルマとミャンマーは同義で、多数派民族のビルマ族を指す名称である。英語表記が「バーマ」、ビルマ語表記が「バマー」と「ミャンマー」である。 軍事政権は、「バマー」は多数派民族ビルマを指し、「ミャンマー」は全住民を指すとしている。全住民には、ビルマ族のほかに、シャン族、カチン族、カレン族、モン族などの多くの民族が含まれ、135の民族が居住するといわれている。南田さんは、軍事政権が、これらの少数民族の言語と文学の独自性を認めているとは思われないとしている。
歴史的には多数の民族の覇権抗争があり、11世紀に第一次ビルマ族統一王朝が成立、13世紀に元の侵入、16世紀~18世紀に第二次ビルマ族統一王朝が成立、この頃西欧列強の介入がはじまる。第三次ビルマ族統一王朝が三度の対英戦争で滅び、ビルマ族の王国は終わり、イギリスの植民地支配がはじまった。
国軍の前身「ビルマ独立軍」は、日本軍の特務機関によって訓練された30名の部隊をもとに1941年にタイで結成された。「独立軍」と日本軍が1942年にビルマ南部に侵入、英軍の撤退後日本は軍政を施行、1943年「日本軍政」が撤廃され、「独立」が与えられたが、日本軍のインパール作戦敗退後に、1944年抗日統一戦線が結成され、1945年連合軍がヤンゴンを制圧後、日本軍が敗走し日本の統治が終わった。
ビルマ文学抵抗の系譜とビルマ国民の民主主義を求める闘い
(1)植民地時代(1886〜1941)
全土がイギリスの占領下におかれ、反英闘争が続く中で、1904年『モンテクリスト伯』の翻案で近代小説の始祖『マウン・インマウンとマ・メーマ』が発表された。タキン党が結成され近代的ナショナリストに
『ビルマ文学の風景』 よる反英闘争がはじまった。タキン党の大規模な反英 行動、労働者・農民と知識人の共闘が生まれ、1939年タキン党内サークルとしてのビルマ共産党が創設された。
(2)日本占領期(1942~45)
1941年日本軍特務機関がビルマ独立軍(BIA)を創設、1942年3月、日本軍と共にラングーン(ヤンゴン)に入場し6月日本軍の全土軍政布告。ビルマ独立軍は解散しビルマ防衛軍に改編された。日本軍政を民衆に浸透させるため、作家協会を再建する。1943年に日本軍傀儡政権が発足し、防衛軍司令官アウンサンが防衛大臣に就任した。1944年、抗日統一戦線「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、1945年3月反ファシスト人民自由連盟が抗日蜂起する。
(3)戦後(1945〜1949)
1946年に英国が復帰する。タゴン・ターヤー(1919〜2013)が『ターヤー(星座)』誌を創刊、「新文学」を主唱する。反ファシスト人民自由連盟総裁アウンサンが暗殺され、後継者のタキン・ヌ(ウー・ヌ)がビルマ翻訳文学協会を設立、会長となる。1948年ビルマ独立。1948年3月、共産党が蜂起、以後戦後作家の拘束が始まる。1949年、カレン族とモン族の武装組織が蜂起、内戦状態となり分断社会が出現する。娯楽・純文学抗日小説や人生描写の小品が登場する。
(4)50年代(1950〜59)
1951年、総選挙で反ファシスト人民自由連盟が勝利する。ウー・ヌ内閣が発足。作家、学生が逮捕され、戦後作家の拘束第2波がはじまる。1958年、国軍がヤンゴンを包囲、ウー・ヌ首相が国軍への政権委譲宣言をし、ネー・ウイン将軍の選挙管理内閣(第1次軍政)はじまり、政治家、労働運動家、作家、ジャーナリストらが逮捕され、作家拘束第3波はじまる。このころ人生描写小説など多様な文学世界が生まれる。
(5)60年代(1960〜69)
1960年、総選挙でウ・ヌー元首相が勝利、第1次軍政が終わる。1962年、国軍がクーデターで政権を奪取、ビルマ式社会主義計画党を設立。全作家を集めて国民文学会議が開催される。政府と共産党、少数民族軍の和平交渉が決裂し、左翼と組合指導者が大量逮捕される。戦後作家拘束の第4波がはじまる。全政党、作家組織も解散する。少数民族との友好小説や娯楽小説が多い。
(6)70年代(1970~79)
ビルマ式社会主義のもとで「民政移管」が行われるが、軍人が私服に着替えただけの時代。1974年、ビルマ式社会主義共和国憲法の発布、人民議会選挙が行われる。「民政移管」が行われるが、1975年事前検閲がはじまる。1976年、ヤンゴン大学学生デモが行われ首謀者が処刑される。1977年、ネーウイン暗殺未遂事件が起こる。文学労働者連盟が結成、小説における左翼潮流が完全撤退し、「愛国小説」が増える。
(7)80年代(1980〜89)
ビルマ式社会主義が崩壊、新たな軍事政権・国家法秩序回復評議会が成立、国軍が武力で全権を掌握する。国連から最貧国の認定受ける。雑誌が多数創刊され、短編小
説の黄金時代。1988年、国民民主連盟(NLD)結成される。1989年、アウンサン・スーチーらが自宅軟禁される。ビルマ共産党が壊滅。
(8)90年代(1990〜99)
1990年、総選挙で国民民主連盟が圧勝するが、政権移譲なし。1991年、アウンサン・スーチーがノーベル平和賞受賞。軍事政権、憲法制定のための国民会議を開催、作家が多く(女性作家も)投獄される。検閲が強化される。1995年、アウンサン・ スーチー自宅軟禁解除。1996年、自宅前道路封鎖、逮捕者増加。
(9)2000年代(2000〜2009)
2000年、アウンサン・スーチー再び自宅軟禁。2002年、軟禁解除。2003年、遊説中に襲撃され軟禁される。2006年、首都がヤンゴンからネービードーに移転。2007年、ビルマモダンの旗手ターヤー・ミンウエーが死亡。長井記者がデモ取材中に銃殺される。2008年、サイクロンで使者14万人。ジャーナリストが多数逮捕され、検閲が強化される。新憲法草案の投票実施、新憲法が成立。2009年、軟禁中のアウンサン・スーチーが自宅に米国人男性を入れたとして公判、軟禁1年半延長。
(10)2020年代(2020〜2019)
新憲法下で初の選挙。国民民主連盟はボイコットし、国軍の連邦団結発展党が圧勝。アウンサン・スーチー軟禁解除。「民政」開始、国軍総司令官テイセインが大統領に。2012年4月、議会補欠選挙でアウンサン・スーチーら国民民主連盟が圧勝する。事前検閲制度が廃止される。2013年、民主化闘争や投獄体験などの社会問題を扱う小説が登場。2015年、総選挙で国民民主連盟が圧勝。2016年、新政権が発足、アウンサン・スーチーが外相、国家最高顧問に就任する。2016年、ラカイン州でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)の襲撃と国軍の「反撃」があり、ロヒンギャ・ムスリム70万人の難民が流出する。この事実を報道した記者が逮捕される。2019年、アウンサン・スーチーがハーグの国際司法裁判所に出廷、過剰な武力行使を認めるも、ジェノサイドは否定する。ロマンス作家ジューが国民文学賞長編部門を受賞する。発禁小説の再版、性的描写の「過激」是非をめぐる論争が行われる。2020年、憲法改正案が軍人議員の反対で否決される。総選挙で国民民主連盟が圧勝。2021年、「選挙に不正があった」として国軍が政権を簒奪する。国家最高顧問、大統領ら閣僚・議員が多数拘束される。当時取材していたアメリカ・CNNの記者が、国軍のメンバーについて「こんな程度の低い人にはじめて会った」と感想を述べている。国軍の弾圧が暴力化し、ネットの切断、銃火気の使用、放火、子どもを含む市民への無差別攻撃、押し込み強奪、逮捕者への拷問・虐殺・性的虐待、遺族引き渡し時の金銭要求など非人道的犯罪行為が多数みられた。逮捕をまぬがれた議員らが連邦議会代表委員会CRPHを結成、国民統一政府(NUG)の発足を宣言する。NUGは人民防衛隊PDFを結成する。国軍と戦闘状態に入る。国軍による弾圧で使者1000名を超す。国民の抵抗が激しく、国軍は空爆などなりふりかまわぬ攻撃を続けている。
質疑交流
南田さんの濃密な報告を受けて 質疑は活発に行われた。
●市民は分断社会を乗り越えて、国軍は劣勢に立っている。
分断社会について質問があった。現状は、国軍の弾圧に対して国民の総反撃が行われていて、国軍は現在は劣勢に立たされ凶暴な弾圧を続けている。その中で、かつて国民を分断していた壁が崩壊しているとのこと、分断の主な壁とは民族対立であり、ロヒンギャに対する偏見も溶けつつあり、さまざまな少数民族の共闘がすすんでいる。防衛隊が国軍の飛行機を撃墜した際に、国軍広報官が「(貴重な)飛行機を撃たずに
人間を撃ってくれ」というわけのわからない返しを発言したとか。カヤ州では、警官隊が不服従運動に入ったとか。何でもマンガになり、「犬(国軍)が来たよ、おれたちじゃないよ、と本物の犬が言ってる」とか。
●ロシアがバックについている。
「国軍があつかましくも居座っているのは、バックにどこかの勢力がいるのか?」の質問には、「ロシアがついている」との回答。国軍の訓練など、ロシア軍がやってるらしい。ロシアは世界中で悪いことをやっている。
●日本の援助と国軍の関係。
日本の特務機関がビルマ軍を作り現在の国軍の基礎を築いた。笹川良一の息子が国軍に米国人解放の交渉に行った背景は、よくわからないところがあるが、そのへんのところも調べる必要がある。日本は2019年に1900億円もの政府開発援助(ODA)を供与している。国軍系の企業がミャンマー経済を支配し国軍の経済的利権となっており、日本企業の進出との関係も深い。日本は人権擁護に対する毅然とした態度が求められている。
疫病流行と芸術の変化
クラシック音楽でもっとも人気のある作曲家の一人ショパンが活躍した時代は、ヨーロッパでコレラが流行した時代でもあることを知っている人は多くないだろう。フランスの国立の音楽大学で学んだクラリネット奏者井上春緒さんは、コロナ流行で演奏活動ができなくなった時期に、過去に疫病が流行したような時に音楽家はどう過ごしていたのだろうか、疫病の流行と音楽はどのように関係したのだろうか、という疑問を抱いた。調べようにも参考になる本は少なかったので、自分で調べ始めた。
疫病の流行は、人類の歴史につきものであった。ヨーロッパにおいては、インパクトのあった病気の流行は3つの時期があった。第1の時期は、14世紀のペストの流行で1348年以後流行し、「黒死病」と恐れられ、ヨーロッパの人口の3分の1から3分の2が死亡したとも云われている。直前に十字軍の遠征があり、人の移動がさかんとなり、東の文化が西欧に入ってきた時に中央アジア起源のペストウイルスがヨーロッパに入って来た。感染して3〜5日で亡くなり、死滅した村もあった。ペストは神の罰という考え方がある一方、神への不信、教会への信頼の揺らぎをももたらした。 その背景には、十字軍の実態、失敗を原因とする教会の権威の失墜もあった。十字軍がきっかけとなってイタリア都市を中継地として発展した東方貿易でもうけたイタリア商人は宗教一辺倒でない現実的思考の持ち主で、ペストの流行と教会権威の揺らぎから新しい文化の担い手として登場した。古典文化の復興とむすび人間中心の新しい芸術、文化「ルネサンス」が始まった。ルネサンスはペストの流行前にはじまり流行期に加速し最盛期をむかえた。ジョットはルネサンス初期の画家で、「聖母子像」にはゴシック様式の面影が残る。ペスト流行後のフィリッポ・リッピの「聖母子像」と比較すると、前者は親しみのわかない人より高みにある感じのマリアやキリストの表現で人が見て楽しむ絵ではなく、後者は人間的な魅力のあふれる母子像で、人が見て「こんな女性と友だちになりたい」と思えるような絵だ。ペスト後は、神の世界から人の世界に芸術が降りてくるのだ。音楽でも、中世にはグレゴリオ聖歌に見られるように、メインは神の音程といわれる人間的な感情が伝わらない音程で、500年間この神の無感情の音程が続いた。しかし、ペスト流行後に神の音程の間に新たな3度(ミ)の音程が入ると、悲しさ、楽しさという人の感情が教会音楽に入るようになった。
ショパンとコレラ
第2の時期は19世紀のコレラ流行である、19世紀のもっとも有名な作曲家の一人ショパンは、ポーランドで生まれ若いうちから活躍していた。1830年頃、20才でポーランドを発ち、パリへ入った。その頃、ポーランドで帝政ロシアからの独立をめざす11月蜂起が起こった。1831年にパリに到着したが、アジアコレラがヨーロッパに近づいているとのうわさが拡がっていた。その頃のパリには、リスト、メンデルスゾーン、ユーゴー、バルザック、デュマ、ドラクロアなど錚々たる芸術家がいた。1832年に、ショパンは演奏会でデビューし、成功をおさめる。客席にはリストとメンデルスゾーンがいたという。
この頃のショパンをとりまく状況は、故国でのワルシャワ蜂起と失敗、パリに迫り来るコレラの脅威、音楽家としての成功への道というアンバランスで混沌としたものであった。1832年にはパリでコレラの流行が拡大し、3月末から4月14日の間に13000人が感染し、7000人が亡くなった。9月末まで流行が続き致死率は53%におよんだ。フランス全体で、この年に10万人が亡くなった。首相も亡くなったという。この時期に、ショパンの音楽に変化があった。
コレラ流行の1年前に作曲された「華麗なる円舞曲」は、暗い和音が使われていない明るく楽しい曲だが、1832年のコレラ流行期に作曲されたエチュードOp(オーパス)10-4は、ものすごい勢いで、はじまってから、止まることのない2分ほどの曲で、以前に聴いた頃は「かっこいい曲」で、こんな曲がどうしたらできたのだろうと思った。しかし、これは若いから熱情的に書いたものではなく、一回始まると最後の和音に到達するまで止まることがなく、まるで死に神に追いかけられているような曲だと考えるようになった。それは、「華麗なる円舞曲」とは全然違う曲だった。そして、コレラの流行が終わりかけていたころに作曲された曲が、日本では「別れの曲」 という名前で知られるエチュードOp10-3だ。曲の真ん中で不安な和音が出てくるが、最後に「音楽って美しいね」という感じで終わる曲である。
ショパンは、井上さんと身長や体重が、ほぼ同じらしい。男性としては非常に華奢な体格であった。あまり体力に自信が無い分、病気への恐怖も人一倍強かったと思われる。死への恐怖という負の感情と感染流行が収束したときの喜びなどの感情が、すべて創作意欲に結びついたのではないか、と井上さんは考える。そのような時期に新しい文化、芸術が一気に開花したのだ。
第3は20世紀、第一次大戦中にスペイン風邪が世界的に流行した。このとき、クラシックから現代音楽が登場し、絵画ではピカソなどの現代絵画の潮流が生まれた。ジャズが発展したのもこの頃であった。
現在、私たちの世界はコロナの感染拡大に覆われている。新たな変異も登場して、いつ収束するか未だに先が見えない不安な状況である。しかし、井上さんは、コロナの流行と収束は、新しい芸術が生まれる文化の歴史の転換期となるのではないかと考える。それは、まるでショパンの曲のように、最後は「音楽って美しいね」と思わせるような世界が待っているのかもしれない。死に直面した人間は、生を強く意識し、そこから新しい活力、芸術的活力を導き出す。歴史の流れを深く理解すれば、それは決して悲観的な結論ではなくて、生きる事への希望を導くことなのだということを教えてくれる素晴らしい報告であった。話の合間には、報告中に登場する曲などが実際に演奏されたり、井上さんがクラリネットを演奏する場面もユーチューブの映像で紹介された。こんなことは普通の例会の報告ではないことで、話の中身がよく理解できた。
参加者の質疑も活発に行われた。音楽とピアノを愛好する立場で報告にふれた感想、はかなく消えてゆく命を意識することでものの美しさを理解する日本の伝統的な感性について、「死を思え」という箴言に見られる西欧の死と生に対する考え方、日本でも奈良、平安の時代に天然痘などの感染症が流行し、疫神(または鬼)退散のために祇園祭、お囃子などの祭礼・芸能が生まれたこと、1830年前後の西欧で連続した革命の影響は?などたくさん感想意見が出された。
地域社会運動と現在
富山さんは十年ほど前、大学院生のころ本例会で報告された。今、大学の非常勤講師として新進気鋭の研究者となり注目されている。その研究対象は京都府丹後地域の青年団運動を中心とする地域社会運動である。このテーマを見て、先日終わった総選挙の結果に対するさまざまな評価、特に野党共闘に対する評価との関連について、どこかむすびつくところがあるのではないかという感想を持ち興味深く聞いた。野党共闘は間違いではないけれど、もっと地域での、足元での共闘を強めるべきではないのかという印象を強く抱いた。そういう点で、富山さんの戦後の丹後地域での青年団活動の研究は地味ではあるけれど極めて今日的な意味のある研究で、眼のつけどころは確かだと思った。
戦後日本の社会運動の源流としての青年団運動
戦後の青年団運動には3つの時期と要素があった。@敗戦後、文化・スポーツ活動が民主化要求の結節点となったこと。Aレッドパージ以後、都市の労組運動などが後退した後、地方の青年団運動や学生運動などが注目され、独自の役割をはたしたこと。B保革を問わず戦後の社会の担い手を育成し、田中角栄など、戦前からのボス支配を打破する人々が登場し地方経済を引っ張っていったこと、などがあった。
京都府丹後地域には1960〜80年代にかけて「地域に根ざした教育」で知られる教育運動があった。強力な教職員組合運動が背景にあったが、さらにその背景には農村部の社会運動があった。その水脈ともいうべきものに丹後内陸部の弥栄村における青年団運動があった。その運動の中心にいたのが河崎 弘であった。
弥栄村は1933年の竹野郡の四か村合併で生まれ、人口は約6000名ほどの村であったが、「昭和の大合併」で弥栄町に、「平成の大合併」で京丹後市となった。河崎は1953年に青年団長となった。青年団は戦時中に国民義勇隊に再編消滅後、敗戦後に@文部省による再編、A占領軍の政策、B地域の下からの運動、にもとづき弥栄村では1946年頃に結成されるようになった。「団則」には「教養錬磨向上、明朗健全なる郷土の建設に貢献」など戦前由来のことが目標とされていたが、事務所は弥栄中学に置かれ、団員資格は25才未満の未婚男女、専門部に文化部、体育部、社会部、産業部、家政部があった。1950年代には娯楽と教養中心の「網羅的青年団」から講演会や映画鑑賞などの社会教育を中心とした「有志的青年団」に変化していった。1950年代以後、団員数の減少など衰退傾向にあり、行政の政策に従属する傾向がある一方で原水禁運動、平和運動など革新的左翼的な傾向もあらわれた。
河崎 弘と文化部の運動
河崎 弘は弥栄村鳥取の出身で舞鶴海軍工廠で勤めているときに空襲に遭い、そのとき生きのびた思いを自分史『死なんようにせえ』に書いた。戦後郷里で家業の漆塗り職人をしながら青年団活動に参加した。機関紙『青年弥栄』の編集に関わり、文化部長として弁論大会や書画展覧会などの文化活動を積極的にすすめた。文化部部員の感想に、「部員の親睦を図るべく努力すること。接触率を密にするように」などが記録されている。
活動は非常に熱心に行われた。丹後地域は豪雪地帯として知られるが、部会を開きにくい環境にありながら熱心に集まって議論が交わされた。弁論大会は、平日の夜8時から始まって深夜の2時半ころまで行われたこともあった。機関紙『青年弥栄』には教員からの投稿もあり地域の青年団を支援する教員の姿が垣間見られる。教員の人脈として、中田 実、吉岡時夫、川戸利一など奥丹教組の中心人物がいる。読書サークル活動の支援などが行われ、合評会には50名も参加したという。部員の懇親会ですき焼き会やハイキング大会も行われた。
労働者教育運動や、京都府連合青年団体連合会(京青連)などの影響もあって、自由、民主主義、平和への意識も強まり、文化部主催の講演会での「警官ボイコット事
件」や「平和憲法を固守しよう」「青年は再び銃をとらない」「吉田内閣打倒」などのスローガンが叫ばれたりし、反戦ビラをまいて住居不法侵入で逮捕される「野間事件」なども起こった。背景には、朝鮮戦争前後からの逆コースの歴史の流れへの危機感があった。1953年には竹野郡「平和を守る会」、1956年には「弥栄平和祭」、1958年には「弥栄町勤労者協議会」が結成されて安保闘争にも取り組み、河崎 弘も弥栄町代表として上京した。しかし、青年団全体としては穏健な方であったらしい。
河崎は、1953年に青年団団長に就くが青年団運営の困難さにも直面する。その後の親睦会や映画会などへの参加者数は減り、青年団活動が次第に不活発となる中で河崎自身団長退任の総会で「団長とは年中無休の高等小使いなり」と述懐したという。
青年団活動の停滞の一方で、4Hクラブや農村青年連盟、平和を守る会などの目的別の組織は拡がっていった。
私たちが引き継ぐべきもの
河崎は、苛酷な戦争体験を経て、戦後の青年団運動でより多くの青年が参加する運動から主体性を持つ青年団をめざし、自由に政治や教育について語り合うことの意義と大切さを理解した。そういう意味で河崎らの指導する青年団運動は成功をおさめたが、それは一部の人々を中心とする運動で、どのように継承するかという問題点をかかえていた。河崎 弘は、「巡査も誰もみんな一緒になんのわだかまりもなく明るい気持ちで政治や平和の問題が話し合えるような社会環境を一日も早く作りたい」と語っているように、彼の中には戦後の民主主義が体現され息づいている。彼の言葉には、今もなお現在の私たちに引き継がれるべき大切なことが込められている。
目に見える大阪城遺構の全ては江戸期の再建だった
8月1日(日)猛暑と翌日に4度目の緊急事態宣言が発出される中、大阪城フィールドワークが行われた。案内人は元大阪城天守閣館長の渡辺 武さん。
集合地の大手門は、大阪城の表玄関である。他の門はすべて裏門という。豊臣時代の遺構は、すべて地上には存在せず、大坂夏の陣以後、徳川幕府が盛り土をして埋め立て、石垣も夏の陣の五年後に再建したという。しかし地中に眠る豊臣時代の遺構が近年発見され、現在発掘調査と整備事業がすすめられている。近い将来、地下7mの遺構が見学できるようになるという。
明治維新以後、秀吉を持ち上げる風潮が高まり、大阪城も豊臣時代の遺構という印象が強まった。大阪城天守閣は夏の陣以後に幕府が再建したものが江戸時代に落雷で消失、昭和6年に市民の寄付で再建されたものが3代目の天守閣である。このときの復元担当者は、規模や外観、場所についても誤解をしていたという。
軍都大阪の中心であった大阪城
明治以後、大阪城内には大阪鎮台(全国に6鎮台が置かれ常備軍を形成)が置かれ、のちに鎮台が廃止されて師団となり、第4師団司令部が置かれ、昭和15年に中部軍管区司令部に替わった。昭和6年に市民の寄付150万円のうち80万円で、師団司令部がドイツ様式の堅固な建物として作られた。残りの70万円で天守閣が再建された。そのとき師団司令
桜門前で解説する渡辺さん 部を寄付金で建てるかわりに、大手門から本丸への通路と本丸内全域を公園として市民に解放することを了解させたことは画期的なことだった。大阪城には、ほかに大砲などの武器を生産していた砲兵工廠、城南射撃場などの軍事施設が集中、1945年8月14日の空襲で砲兵工廠なども壊滅した。城周辺にも第8連隊などが配置され、大阪城は軍都大阪の中心であった。
江戸期最高度の石垣から南外堀を望む
大手門から入ると大手口枡形という四角形の区域があり、侵入した敵を攻撃する場所という。正面の石垣に巨大な大手見付石があり、表面積は29畳(47,98u)ある。多門櫓から太鼓櫓を過ぎて南外堀方向へ行く途中、「石山本願寺推定地」の説明板がある。顕如を中心とする本願寺一向一揆勢力と紀州雑賀衆、毛利氏などの信長包囲網勢力が織田信長と10年あまりの「石山合戦」を戦った中心地である石山本願寺は豊臣の大坂城のさらに地下に眠っている。その遺構をいつかぜひ見たい。ところで近年の研究結果により「石山本願寺」の呼称は「大坂本願寺」に改められつつある。そこから外堀に面して六番櫓(やぐら)があり、階段(雁木)を上ると、南外堀を見渡せる通路に出る。このあたりの石垣は江戸期の最も高い石垣という。見晴らし最高、めったにこんな所には来られない。間隔を置いて銃眼が刻まれ、かつて壁を支えた木柱の穴が残されている。
衛戍(えいじゅ)監獄跡と鶴彬の石碑
銀杏がいっぱい実ってる銀杏並木と春には満開の桜並木を通り、かつての衛戍監獄跡に出る。金沢第7連隊で「軍隊赤化事件」首謀者として逮捕・軍法会議にかけられ2年の刑を受けた反戦川柳作者の鶴彬(つるあきら)が収容されていた監獄の入り口跡付近に鶴彬の碑が建てら
れている。2008年にあかつき川柳会が鶴の没後70年を記念して百日紅(さるすべり)の木の植樹とともに碑を建立、「暁をいだいて闇にゐる蕾」の川柳が岐阜から運ばれた巨石に刻まれている。
天守閣と「大坂夏の陣図屏風」
一番櫓から豊国神社前を通って桜門から、いよいよ天守閣にむかう。神社は、秀吉をもちあげるために明治政府が現在の市役所付近に建てたが、市役所建設の際に大阪城内に移された。戦時中、神社と師団司令部の間に防空壕が建設された。 昭和29年に防空壕が陥没する事故があり、それ を埋め立てる工事が失敗したために石垣の石が浮き上がるという始末となり、再度の補修が行われたという。
桜門から本丸、天守閣へむかう。かつて、おとずれる市民・観光客に親しまれていた茶店の姿は今はない。橋下 徹が撤去させたのだ。
天守閣に入ると冷房が効いていて参加者全員暑さから逃れ生き返ったようだ。現在展示されている「大坂夏の陣図屏風」は複製である。デジタル版が拡大映像で見ることができる。現物は年に一度特別展で公開される。屏風は六曲一双(六枚の屏風で全景が描かれている)で、黒田家から大阪城天守閣に譲られたといわれている。屏風は大坂城をはさんで南側を描いたのが右隻(うせき)、北側を描くのが左隻(させき)で対照的な内容となっている。右隻には、二上山から生駒山をバックに、慶長20(1615)年5月7日に天王寺・岡山方面で行われた最後の戦いが描かれている。中央の天王寺口の戦いで、旧主の武田家の伝統である「赤備え」(具足や旗指物などを赤色で統一)をした真田幸村(信繁)が率いる部隊と家康の次男松平忠直の部隊が激突しているようすが描かれている。その奮戦ぶりで「日本一の兵(つわもの)」と賞賛された真田幸村は、一時は家康本陣まで迫った。左隻には、戦火に巻き込まれて逃げまどう人々の姿が対照的に描かれている。屏風が「戦国のゲルニカ」といわれる由縁である。大坂城落城の際に、殺される庶民、徳川方の武士に拉致されてゆく女性、追いはぎに身ぐるみ剥がれる人々など悲惨な避難民の姿が赤裸々に描かれている。他の合戦図には見られないこのような左隻の描写は謎であるといわれ、右隻がそれなりに時代を経て古色を帯びているのに対して、左隻が古さを感じさせないのは、描かれた内容が幕府にとって公開を躊躇させたために長く非公開となっていたためではないかと渡辺さんは推測する。
描かれている人物は5千人を超すという。特定の武将にスポットをあてることなく、左隻に見られるように戦火の犠牲となった庶民の悲惨さを描いていることから、従来の合戦図とは異なる「夏の陣図屏風」は何をテーマに描かれたのか?渡辺さんは、夏の陣を最後に戦争の続く世の中を終わらせようという意志が、そこに込められている
のではないだろうかと推測する。「慶長」は「元和」に改元され、その後大名同士の
戦争は起こらず、「元和偃武」(げんなえんぶ)と呼ばれる時代となった。偃武とは「書経」の「偃武修文」(武器を偃(ふ)せ、文を修む)を出典とし、武器を蔵にしまい文治政治すなわち道徳に基づく統治を行うという意味。400年前の日本にも憲法9条の精神の源流が見られる。そういう目で一度「夏の陣図屏風」を多くの人に見てほしいものだ。
「夏の陣図屏風」の発注者と作者は?
このような特異な合戦図を発注した人物と描いた作者は誰なのか?発注者について渡辺さんは、黒田長政や松平忠直を候補にあげる。作者については渡辺さんや他の研究者も有力候補として指摘する人物が岩佐又兵衛(いわさまたべえ、1578〜1650)である。父親が信長に背いて一族が惨殺されたという荒木村重とされ、のち松平忠直(福井藩主)のもとで絵画を制作、「夏の陣図屏風」も忠直の依頼で描いたとも推測されている。
左隻に描かれている庶民の残酷なまでの悲惨な描写は岩佐又兵衛の作風、特徴に合致するという。又兵衛は近世風俗画、浮世絵の先駆者と考えられている。
火水木(ひみずき)とは、「火」「水」「木」の三チームに分かれ、「火」は「木」を、「木」は「水」を、「水」は「火」をそれぞれ追いかけて捕まえることができ、全員が捕まるか、捕まえられた数が多いチームが負けという変形型の鬼ごっこです。異年齢の集団がどこでも簡単に遊ぶことができるため、火水木は吹田市内の学校や学童保育、保育所などで親しまれており、吹田のご当地遊びとしてメディアなどで認知されています。
吹田市制施行80周年の事業で、火水木の大会(コロナのため中止)とパンフレットを企画。パンフレット作成の過程で、この遊びが1975年に誕生したこと、この背景に60年代から保育所や学童保育づくりの運動に関わった親たちがいたことが明らかになりました。
高度経済成長期に国鉄職員として吹田に移り住んだ中矢道一さんに聞き取りしています。
「僕も国鉄の運転手だったから時間が不規則なんですよ。駅員と違って運転の方をやっているから、出勤時間も夜中に出勤するとかなんぼでもある職業だから。共稼ぎしていて、長時間保育もほしいし、病児保育もほしいし、ゼロ歳児保育もほしいし、自分の要求でもあるんだけれど、そのために"保育園をつくっていこう"と、こばと保育園をつくる運動から関わっているんです」(2019年10月16日聞き取り)
パンフレット作成に関与した一員として、報告者は多くの史料を紹介しています。その中から明らかになったことは、戦災被害が比較的少なかった吹田地域が、人口の急増とともにベッドタウン化が進み、新興住宅に移り住んだ若い住民にとって、子育ての環境整備が緊急の課題となっていたことです。そうした中で、地域住民の要求として、保育所増設運動・延長保育など保育内容の充実・学童保育開設などが掲げられました。
運動の担い手として、労働組合や母親大会連絡会など民主団体の果たした役割も
指摘されています。なによりも、1971年4月の榎原革新市政の誕生が、保育と学童の条件整備を大きく推し進めることになりました。
学童保育の運動が広がる中で、父親の子育てや学童運動への参加が進み、1976年9月に服部緑地で行った吹三小学童保育の親子合宿で、中矢道一さんが戦時中に自分がやっていた「水雷、本艦、駆逐艦」遊びを提案。「そんな軍隊みたいな名前つけるのやめてや」と意見が出て、「火水木」に置き換えたところ、子どもたちに大うけして、いつまでもやめようとしなかった、というエピソードがあります。これが、「火水木遊び」の始まりだと考えられます。
1977年12月、「五中校区子どもを守る連絡会」の結成総会が開かれ、日本けん玉協会会長で日本文芸家協会理事の藤原一生さんが「親の愛情は何か」をテーマに記念講演。連絡会は、公園や児童館整備など子育てをめぐる環境をよくする運動を展開することになります。
例会参加者の中に、火水木が誕生した吹三小で学童指導員をしていた前田睦男さんがおられ、当時の学童保育運動について、熱く語られました。
「大学を卒業したところで、五中校区の運動と一緒に、保育運動もやり保母の免許も取りました。吹田の学童指導員がいないと言われ、1年で保育士を辞めて学童保育に入りました。手取りが6万から3万に半減しましたが、いろんな所へ行って、食べさせてもらいました。元々教職に就きたかったので、午前中は採用試験勉強して午後に学童に行きました。結局、一年で大阪市の教員となりましたが、土日は少年団の仕事、また教職員組合の青年部活動もしました。神鍋合宿のことも覚えています。地域がすごく世話してくれるし、住まわしてくれたりしました」。
聞いていて、前田先生の青春真っ只中を、追体験させてもらった感じがしました。
その他の参加者から、大阪市港区でも同様な運動があり、吹田革新市政と黒田革新府政の果たした役割や60〜70年代の時代背景について意見が出されました。
報告1時間半、質問・討論約1時間と、コロナ禍にかかわらず活発で有意義な例会でした。
吹田市制施行80周年プロジェクト会議が作成した火水木の歴史が掲載されたパンフレットは、「火水木 パンフレット」で検索するか、以下のURLから閲覧できます。
https://suita80th.jp/himizuki/ パンフの感想を80周年の事務局
(FAX06-6384-1292)にお寄せください。
中国大陸への出征基地と大阪大空襲の痕跡を、戦後75年の節目に訪ねる大阪港周辺フィールドワークは、2020年11月22日(日)に行われ13人が参加しました。コロナ禍の下で例会もままならない中、人数限定で屋外ならと企画したものです。
地元港区の戦争展で資料や体験の掘り起こしをしてきた実行委員会の添田為三郎さんと佐藤美則さんが、戦争展で使用した展示物を現場で広げて説明する、という臨場感あふれるものとなりました。
メトロ大阪港駅から陸軍糧秣廠大阪支廠跡、獣魂碑、天保山明治天皇観艦記念の碑、中国人強制連行受難者追悼の「彰往察来」碑の前で説明を受け、大阪市営渡船 で桜島へ渡りました。対岸の此花区からは港区築港の全景が良くわかるので、直ぐに折り返しの船で港区へ引き返しました。やかんに入れた湯茶で兵士を接待して、 戦地へ送りだした国防婦人会は港区が発祥の地です。やがて全国1千万に増え、銃後を守る大組織へと拡大しました。
天保山桟橋から移動して海遊館横で、子どもの頃港区に住んでいた寺田淳子さん(伊丹市在住)に当時の思い出を語ってもらいました。1945(昭和20)年6月1日の大阪大空襲の米軍機は、沖の赤灯台白灯台の上空から来襲。大阪大空襲の体験を語る会の金野紀世子さんの体験画を示しながら、港区の空襲の様子を松浦が説明しました。
大桟橋跡中央突堤で参加者一同写真撮影。大阪民衆史研究会らしくコロナ禍での例会の記録になるようにマスクありとなし2枚、二宮一郎さんが撮影しました。
レンガ造りの住友倉庫は今も現役です。空襲時の機銃掃射の痕跡も以前は良くわかりましたが、今は分かりにくくなっています。築港住友倉庫屋上に高射砲が備え付けられ、高射砲部隊が駐屯していました。
大阪俘虜収容所跡、軍馬像の台座だけ残る築港住吉神社。6月1日の空襲ですべて焼けた築港高野山には、空襲の熱で焼けた石像が境内に残っています。遺骨帰還の際には故国で最初に法要が行われたところでもあります。六角形をした築港は港区の先端部分で加害・被害の様々な戦争遺跡が残っています。3時間くらいで回ることができました。
2020年の今、「史上最悪」といわれるインフルエンザ、「スペイン風邪」が終熄してからほぼ百年です。1918年秋に始まった第1波、1919年末から20年にかけての第2波と流行は3年に及びました。病原であるウィルス自体が知られない時代、どういう病気かわからないままに、大戦中の兵士や物資の往来とともに欧州の戦場に持ち込まれ、世界中に広まりました。死者は2千万人とも5千万人ともいわれます。
家族や大切な人を失った記憶は、祖父母・父母から子へ孫へと多くの人びとに継承されているはずなのに、必ずしも共有されて来なかったのではないか。それが今回の報告につながりました。2.11集会で出会った会員により大阪民衆史研究会と出会い、この場をいただきましたことを心から感謝いたします。
大阪府市の超過死亡
まずは流行期間中の新聞紙面を検索しよう。思った矢先に3月から自粛期間に入り図書館が利用できなくなりました。その後は、国会図書館のデジタルコレクションと取り組む毎日が続きます。大阪府市統計書と『日本帝国死因統計』、衛生局の報告類のデータを表化しながら、大阪での被害をもっと正確に描けないものかと思いました。
というのは内務省衛生局による報告書『流行性感冒』(1922年1月)による統計が極めて不完全なものと気づいたからです。同書序文に、日本の死者数38万8千人余、患者数2380万人余とあります。数字は各道府県からの報告を合算したものですが、統計表に空欄が多数ありました。なかでも大阪府は22か月間中の6か月半しか記載されていません。府内死者数2万2005人とありますが、とてもそれだけとは考えられないのです。
実態により近い数字を出すために、流行前と流行時の総死亡数の差をもって「超過死亡」を算出しました。流行がなかったら「死なずにすんだ」人数なのです。流行期を1918年10月から1920年5月までとし、その2年前同月の月別総死亡数の差を、『日本帝国死因統計』(帝国死因)と『大阪府統計書』『大阪市統計書』から計算しました。
その結果、大阪府が32,970人(府統計)と32,502人(帝国死因)、大阪市が13,909人(市統計)と14,755人(帝国死因)になりました。統計ごとに微妙に数字が違います。
新聞紙面から流行をたどる
統計から大阪府平均の月別死亡を見ると1918年11月と1920年1月の前後2極、その間の1919年は少し死亡者数が減った時期になります。それらを前流行、谷間の時期、後流行と分けて、新聞紙面から具体的な様相を拾うことにつとめましたが、『大阪朝日新聞』最終版を中心に見たため、大阪市にかたよってしまったのが残念です。
さて同紙の報道は、1918年10月16日夕刊の愛媛県での流行が初めです。大阪については26日夕刊の西成郡北中島村小学校児童の死亡記事が最初なので、わずか10日間で流行の波が大阪まで届いたことになります。
大阪市内で流行第1波(前流行)のピークは11月12日。市営火葬場の火葬認許数から14日発行の夕刊に「昨日が絶頂」の見出しが載りました。第2波(後流行)のピークは1920年1月下旬。大阪市が作成した『流行性感冒予防施設概要』に22日213人死 亡(大阪府)とあるのが最多です。
日本から派遣された艦船や商船・貨物船、シベリア出兵先での感染、軍隊から国内各地へ伝播、前流行と後流行の相違、流行の谷間の時期に天然痘・コレラなど伝染病が多発したこと、施療券を配布し無料診療所を開設するなどした府市の施策、学校は閉鎖しても商工業や興行の閉鎖記事が見られない、後流行時に政府の予防策としてマ
スクが急浮上して半強制を求める内務省と対する府市の対応など、興味深い事実が浮かび上がりました。
これら紙面をパワーポイントで紹介することで流行の展開と様相を可視化しようと思ったのですが、現実には多数の記事と統計類に振り回されて、大変消化不良の報告になりました。公設市場・簡易食堂・共同宿泊所・市営住宅など、米騒動前後から計画された施設が流行のなかで実施されたこと、大阪市内・西成郡・東成郡それぞれの地域の状況なども検討したいと思いましたが、流行の展開を新聞紙面からたどるだけで精いっぱいで、そこまで及べなかったのが悔やまれます。
現在進行中の新型コロナウィルス感染症流行のなかで浮かび上がるさまざまな社会の問題、共通する状況がスペイン風邪にかかる資料から読み取れます。この未曽有の惨害をどうぞ忘れないでほしい。今後の歴史研究と叙述に、とりわけ地域史の中に活かしてほしい。そんな報告者の思いを受けとめていただければ幸いです。
長く続くコロナ禍、野外に出てフィールドワークする企画が立てられました。6月7日に除幕式を終えた、「火垂るの墓」記念碑と平和のシンボル「アンネのバラの教会」をめぐるコースです。
大阪民衆史研究会としても、「小説 火垂るの墓 誕生の地」と刻まれた、野坂昭如文学記念碑建立募金に協力しています。
〇見学日時:7月11日(土)午後2時、阪急甲陽園線・苦楽園口駅集合。
〇コース:苦楽園口駅―中原石材工業所―ニテコ池―西宮震災記念碑公園、「火垂るの墓」記念碑―防空壕跡―おばさんの家跡―苦楽園口駅==甲陽園駅―アンネのバラの教会―洋菓子ツマガリ「喫茶甲山」―甲陽園駅 で解散。苦楽園口駅から徒 「火垂るの墓」記念碑前で。右から案内の二宮一郎 歩10分。ニテコ池手前の 会長・尾川昌法、副会長・松浦由美子、高谷 均、 石材店・中原石材工業所に 立ち寄ります。
記念碑委員会の委員でも 西宮震災記念公園にてある谷本守己さんに、主碑となった石材(約4.5t)について説明していただきました。 「六甲のさくら御影という、今では採れない貴重な石。先代が50年前に手に入れて、地元に還元できるようにと保管してきた希少なもの。喜んで提供させてもらった」と、語ります。西宮震災記念碑公園は、二三日続いた長雨で芝生の足元もぬかるんでいます。しかし、ピンクがかった中央の碑は、新緑の中で婉然と映えていました。雨上がりの時間帯はとくに明るく映えて印象に残ります。碑に向かって左隣には野坂昭如の経歴、右隣には野坂昭如の戦争体験と小説の一場面を記したそれぞれ英訳付きの石碑を設置。高畑勲監督のアニメ画像も陶板で貼り付けてあります。台座と左右の碑は中国黒龍江省産の「白御影」です。周辺に植栽された「アンネのバラ」(教会から寄贈)と紫陽花も色づいています。清太少年が節子と入り込んだ「横穴壕」は、実際は池の南、東西の崖に掘られた二カ所の防空壕でした。現在は民家のガレージや玄関辺りになっていて、その面影はうかがえません。ただし、親戚のおばさんの家跡は今は空き地になっています。土曜の午後ですが、通りかかる人も少なく、足早に見学。総勢七人なので小回りが利きました。苦楽園口駅から1駅。終点甲陽園駅から急な坂道を上ること15分。石段を登り切った眼前に、アンネのバラの教会の印象的な建物が聳えます。ヴォーリズ事務所の設計というのも頷けます。坂本誠治牧師の出迎えを受けて、2階の礼拝所でスクリーン映像を見ながら、ナチス政権下のドイツ、アンネ・フランクの生涯、父オットー・フランクさんとの出会い、聖イエス会の戦前からの活動などを、じっくりと伺いました。とくに収容所で生き永らえたユダヤ人男性の言葉「愛に反対する言葉は憎しみではありません。それは無関心です」は、世界の現況に鑑みても、胸に突き刺さるように感じました。
1時間に及ぶ報告、最後のスクリーン画面には、アンネの笑顔と彼女が残した言葉「わたしは世界と人類のために働きます」。戦前に治安維持法で逮捕された牧師たちのことや、ヨーロッパでアンネの日記のグラフィック版が発行されたことなど、質疑応答が盛り上がりました。アンネたちが隠れていた部屋の3?映像も紹介され、唯一外気を取り入れられる窓も映し出されました。
2015年6月21日、兵庫県立芸術文化センターで上演された“「茶色の朝」とアンネの夜”コンサート終了後、アンネのバラの教会・坂本牧師に、ガットネロ・松浦由美子さんから舞台装置として使用された「アンネの窓」が贈呈されました。本日遠路はるばる参加された北藪 和さんが描いた窓枠の絵画は、本物と寸分たがわず再現されていることがわかります。改めて北藪画伯の力量に感銘いたしました。
資料室のアンネ・フランクの遺品も坂本牧師から懇切丁寧に解説していただきました。教会は40周年記念の年を迎え、様々な行事を催されるとのこと・・・これからも、この西宮の地に、「平和のシンボル」として、幅広く発展することを切望します。
西宮震災記念碑公園には、昭和30年に建立された「戦没者慰霊塔」も在ります。阪神淡路大震災慰霊碑に加えて、今年6月に「火垂るの墓」記念碑が建立。「平和を祈念する」大小三つの石碑が揃って佇む公園は、西宮市にとって誇るべき聖地となることは間違いありません。
喫茶カブトヤマのバターブレンド珈琲(クッキー付き)は500円。ツマガリのケーキは作りたてで絶品です。デパ地下では販売していません。本店でしか食べられない生ケーキに参加者全員大満足でした。なおカップソーサーの絵は皇室御用達の大倉陶園です。店内の奥に、著名なユダヤ人画家・シャガールの画が飾られています。美味しい珈琲とケーキ、そしてシャガール・・・フィールド・ワークの最後を飾るに相応しいシチュエーションでした。
3月28日、大阪府教育会館において、大阪市立大学院生で本会会員の井ノ元ほのかさんに「1920年代から30年代の大阪における『医療の社会化』」と題して報告していただきました。「医療の社会化」とは、国民が必要とするときにすみやかに受診受療の機会が社会的に確保されること、と定義されます。今回の報告は、1911年以降全国的に叫ばれた「医療の社会化」の動きに着目、医療や医学を求めて運動を起さざるを得ない社会の実態を、歴史的に明らかにすることが目的です。一人暮らしをしていた時、生活を逼迫させるほどに医療費が高いと実感したことがきっかけだと言います。
元来の関心が、日中戦争前1930年代の反戦・反ファッショ運動にあったので、主に1920年代から30年代の大阪における「医療の社会化」に目を向けることになりました。
社会事業(社会事業団体、大阪市など)と社会運動(無産政党、無産者医療運動など)の両側面から分析し、三つに章立てしています。
第1章 恩賜財団済生会と無産政党(大衆党系・社民党系)の事業あるいは運動を取り上げ、その展開と社会的な意味の解明。
第2章 無産者運動を取り上げ、その展開や社会的な意味、特質を解明。
第3章 「医療の社会化」を論じるにあたって意識すべき点を整理し紹介。
『社会事業要覧』『社会運動通信』『大大阪』「大原社会問題研究所所蔵文書」「大阪市社会部報告」「大阪無産者病院ニュース」や各社『新聞記事』など、数多くの文献資料を読みこなしていることに、報告者の意気込みを感じます。
大阪を行動の基盤とする者にとって、当時の大阪は伝染病の罹患率が高く、1935年には全国平均の2倍となっている事実に驚きます(グラフ2)。しかしそれだけ、「医療の社会化」を求める動きが強かったとも言えます。無産者運動の経緯を資料に沿って詳細に分析している点は評価できます。
また、「先進的医師」として、岩井弼次、加藤虎之助両名について紹介していますが、そのほか「医療同盟」に参加した医師たちについて、個別に研究する必要があると思います。この点については、報告者が、今後の課題として「無産者医療運動の担い手について個人の経歴を分析する」と述べている所です。
さらに「小ブル階級」と決めつけられた医師(「技術者獲得の件について」1932年)を、より科学的に分析再評価しなければなりません。この問題は、現在に通ずる課題です。「民医連」は、この課題に積極的に取り組んでいると思います。それにしても、社会的に厳しい時代、先進的医師集団が少なからず存在したことに、驚きを禁じ得ません。
1928年に「御大典を前に全市民の健康診断」(大阪毎日新聞7月25日)が呼びかけられ、医療を介した統制がなされ、水上生活者など貧困者層は疎外されました。このことは、「新型コロナウイルス」を名目とする「非常事態宣言」につながる、現代的課題であるとも指摘されました。
<質疑応答> 抜粋
柏木―両親が三島診療所の活動に参画。自分も三島診療所について調べている。今回の報告で、全体の位置づけがよくわかった。
小林―プロレタリア美術同盟に加わった彫刻家・浅野孟府が診療所の設計をしたという話がある。また、加藤虎之助のデスマスクをとったとも。一番知りたいことがわかって良かった。
蟹江―日本古代史を研究しているが、報告の歴史的手法が勉強になった。
滝川―医療は広がりも持つ。研究課題として大変意義あると思う
福田―先進的医師が多数出てきたのが興味深い。「安くていい医療」だけではだめ。階級的視点。いまの「民医連」の父母の会活動などに通ずる。
井ノ元―医者が運動に参加して来るのは @勉強会で、医者や医学生が積極的になる。A大衆の参加により他からの差別化をはかった。
松浦―人民戦線運動に関して編纂され た『労働雑誌』に「無産者医療」の記事がある。
柏木―親の考えはシンプルで、「安くてかかれる診療所をつくる」だった。学生たちがかかわって学習会や読書会を開いた。高槻など大きな組織があった。
報告と質疑応答、あわせて2時間15分。大変実りある例会でした。とくに、関連情報の交換が活発になされ、継続して資料の提供等が話し合われました。
相撲の歴史は2000年以上、神事から武闘訓練へ、そして勧進、興業へ
山下さんは24年前、本研究会の例会で報告されて以来2度目。これまでに各所で報告したことや著書に書かれた内容をまとめての報告。
相撲についての最古の記述は古事記「大国主の国譲り」でタケミナカタノカミとタケミカヅチノカミの力くらべの話、日本書紀「垂仁天皇七年の条」の當麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲が有名だ。當麻蹴速は野見宿禰に蹴り殺されるから、これはほとんどケンカだ。
宮廷行事として記録されるのは奈良時代天平六年七月七日に国家安泰と五穀豊穣を祈り聖武天皇が「相撲の戯を観す」とある「相撲節会(せちえ)」が最初。平安時代には、延暦一一年桓武天皇が、兵制の「健児の制(こんでいのせい)」に取り入れて力士から兵士を選び、神事から武芸的要素の強いものに変化した。鎌倉時代には武士が鎧をまとって相撲で戦闘訓練をした。戦国時代には織田信長が相撲を好み、盛んに相撲の「上覧(じょうらん)」を行い、強い力士は家臣として召し抱えた。秀吉も「上覧」相撲を行った。江戸時代の天下太平の世になると武闘訓練の意義は薄れ、「勧進(かんじん)」(寺社の修復などの寄付を募る)を目的とする相撲興行の時代となった。これが現在の相撲興業に続く原点となっている。
土俵の成立−現在の相撲の原型の成立
相撲に土俵はつきものと思っていたが、意外なことに土俵は江戸時代に成立したという。その背景には以下の事情があった。鎌倉時代頃、相撲をしている周囲に見物人が輪をつくって自然の囲いをつくっていたがケンカが絶えず中止となった。ケンカの原因は勝ち負けの判定がもつれるとサポーター同士のケンカになったこと。のちに周囲を四本の柱でリング状に囲むようになり、さらに俵で四角に囲むようになった。
1670年頃(江戸時代寛文年間)に土俵が成立し、あずまやの下に土俵がつくられ、享保年間(18世紀)現在のような土俵とルールができたという。当初の四角の土俵は、現在も岡山県や岩手県に残っている。
正保2年(1645)に京都の糺の森(ただすのもり)で公許の勧進相撲がはじまった。勧進相撲の興行は寺社奉行の許可で行われるようになった。興業目的は寺社の修復だったが、18世紀半ばには目的が限定されず、大坂は堀江新地開発のための興行が行われた。寛保2年(1742)四季勧進相撲が、夏は京都、秋が大坂、春と冬が江戸で行われるようになった。寛政元年に「横綱」の称号ができた。当初は大関が最高の番付で、谷風や小野川などの強い大関に「横綱」称号が与えられ、明治23年に番付に横綱として記載され、明治42年に地位としての「横綱」が認められるようになった。
大阪すもうの起源
大阪市西区南堀江2丁目の南堀江公園に「勧進相撲興行の地碑」がある(平成7年3月建立)。石碑には「江戸幕府により風紀を乱すとして禁止されていた勧進相撲が 大阪では元禄5年(1692)一説には同15年に はじめてこのあたりで興行されていたと伝える」と刻まれている。勧進相撲開始の年が元禄5年と15年の2説あるが、山下さんは、勧進の目的である堀江川の開削が元禄11年に始まるので、元禄5年はまちがいという。天保年間、江戸が相撲の中心地となり大坂本場所に江戸力士が出場すると大坂の力士は格下の「中相撲」として番付に記載された。
大阪と東京の対立
明治元年に難波新地で大阪本場所興行が企画されたが中止となった。その後、東京の横綱「陣幕」が大阪頭取となって改革、大阪は独立組織として興行を行った。明治7年(1874)、京都で東京、京都、大阪が対等合併して興行をはじめた。明治21年、陣幕に反旗をひるがえした80人が脱走して広角組を結成、陣幕は失脚、明治28年に和解がなって大阪は一団体として興行を行うようになった。混乱の収束の背景には、小林佐兵衛(押尾川)、鶴田丹蔵(藤島)、橋本政吉(高田川)など「侠客」の介入があった。明治38年大阪相撲協会が成立、明治40年大阪番付ができた。明治42年に両国国技館が完成した。野外興行だった時は雨天休場で2ヵ月間ぐらい興行が続くときもあった。その後、京都、横浜、浅草、熊本、名古屋など各地に国技館建設ブームが起きた。明治43年、大阪の大関大木戸の横綱免許について東京側が東京の協会の過半数の許可が必要と主張、大阪側が住吉大社から独自に許可を得て「住吉横綱」と称した。この問題で東京と大阪の関係は大正元年の和解まで絶交状態となった。
新世界国技館
横綱問題で大阪と東京の関係がこじれて、大阪の国技館建設計画が遅れていたが、大正7年、新世界の国技館建設予定地で本場所が開催された。大正8年に開館式が行われ、建坪626坪、鉄筋コンクリート造、4階建の国技館が完成した。建設費は50万円、15000人収容(実際の観客定員3650人)。しかし、肝心の大阪相撲は、待遇改善を求める幕内力士のストライキ(堺市龍神に籠城)や、東京に対して実力では歯が立たない状況など凋落の一途をたどって行く。国技館で行われたのは六年間で12場所の本場所だけというありさまだった。大正14年、東京が大阪を吸収合併するかたちで東西合併が行われ、大日本相撲連盟が結成された。大阪相撲は大正15年の本場所(台北)を最後に消滅する。合併に伴って力士の実力査定が行われたが大阪力士の大半は格下げとなった。
関目に大阪大国技館建設
昭和12年に関目に大阪大国技館が完成する。完成までに、港区磯路など4個所の候補地で計画されるが、いずれも頓挫して再び関目に昭和12年竣工されることとなった。建坪3000坪、鉄筋コンクリート造4階建、収容25000人だが実際は10574人だった。第1回大阪場所が昭和12年6月9日から13日間開催され、昭和15年の第7回場所まで大阪大場所の興行が行われた。第2回目の興行の時、幕内の九州山という力士が途中で召集令状が届き、土俵上で出征のあいさつをしていったというエピソードがあった。昭和15年には日独伊三国軍事同盟が結成された時期である。戦況は次第に悪化し、新国技館は、わずか4年7場所で役割を終え、その後ベークライト生産工場に転用されることになった。建物は昭和26年まで残っていたが、屋根に葺かれた銅板は戦時の供出ではぎ取られた。その後解体、現在跡地はURの住宅地となっている。昭和23年から相撲の大阪興行が復活、福島公園仮設国技館などを経て昭和28年から大阪府立体育館で大阪場所が行われるようになった。
質疑交流とまとめ
興味深い話に参加者は引きこまれるように聴き入った。現在、相撲は若手の台頭があり、白鵬の時代も間もなく終わる予感がする。このあたりで相撲の歴史を見直す必要もあるものと思われる。現在のような天皇の臨席する「天覧相撲」は、大正時代に皇太子(のちの昭和天皇)が見物する「台覧相撲」にはじまったということで、それほど古いものではないということがわかった。2000年近い相撲の歴史で、神事、兵士の鍛錬、興行相撲という変遷をたどっているが、古代にみられる神事の要素は、今後検討することで古代史の理解も深まるものと思われた。例えば古墳になぜ力士の埴輪があるのか、など。現代史の相撲には、興行にともなうトラブル、侠客の暗躍など生臭い話もある。少し前は八百長相撲問題があった。神事であることを強調する元横綱もいるが、聖と俗はいつも隣り合わせだ。歴史を振り返ると現在の相撲の抱える問題とどこかつながっている。なかなか興味はつきない。
安倍首相の所信表明演説と三・一独立運動
2019年は日本の朝鮮植民地支配に抗して起こった三・一独立運動から100周年にあたる。同年10月に安倍首相は所信表明演説で、1919年のパリ講和会議(第一次大戦後の)の際“日本代表が欧米の反対にもかかわらず「人種平等」を掲げた”と述べたが、これは日本が講和会議中に起こった三・一独立運動を武力で弾圧した事実をまるで無かったかのようにする話だ。講和会議の当時から「三・一運動を弾圧している日本が自由な移民の権利のために『人種平等案』などをもち出すこと自体問題にならない」(アメリカ)という批判的報道もあった。しかし今回は大部分のメデイア(国内)が、この安倍流の厚顔無恥(無知?)の話の問題点は無視していた。ちなみに、この日本が「人種平等」を主張した話は、“ネット右翼”の世界では有名な話らしい。
現在に生きている「正義と人道」を求める韓国民のたたかいの歴史
韓国ではチョ・グク法務大臣(辞任)が韓国検察当局から家族ぐるみの「不正・汚職」事件で追及されていた時、韓国の民衆の中から「正義と人道が危うい」という表現で、自然発生的にチョグク氏擁護の集会が道路を埋め尽くして開かれていた。このような状況について、韓国のある識者は、100年前に(独立宣言書に)行動指針として表されている、と言った。その後韓国検察は家族の不正として取り上げた「証拠」なるものについて未だ検証できず、現在訴訟がゆきづまっているという。そしてノムヒョン元大統領が汚職の嫌疑をかけられ自殺した事件でも、嫌疑を証明する証拠はなかったということから韓国国民は二度と検察のつくったえん罪事件にごまかされないようにしようという意識が芽生えてきている。その背景には「三・一独立宣言」の精神が生きているのだ。またパクウネ大統領弾劾の集会・デモには甲午農民戦争でリーダーで、処刑されたチョン・ボンジョの名を冠したチョン・ボンジョ闘争団が耕耘機でデモに参加した。「正義と人道」を求める韓国民の歴史と伝統が脈々と韓国民の間に息づき、彼らが100万人規模の集会を開くソウル市庁舎前の広場は当時から現在まで続く幾多の抗議運動の場となっている。
「不義」ということ
「不義」の意味は韓国と日本ではニュアンスが異なるという。日本では「不義密通」のような「人倫の道にはずれた行い」などに使用される。一方、韓国では「正義や道理にはずれること」に用いられる。日本が韓国に行ってきた「不義」とはどんなことか。「独立宣言」をもとに三・一独立運動に至る歴史を整理すると以下の項目となる。
(1)1875年の「江華島事件」のあと結ばれた1876年「日朝修好条規」に明記された「朝鮮を自主独立の国にする」という約束を破ったこと。
(2)1894年「甲午農民戦争」では政府軍と農民軍の間で和解をし、日清とも出兵の理由がなくなったが撤兵を行わず日本は景福宮を占領、その後日清戦争となった。
(3)1894年「日清戦争・下関条約」に明記された「朝鮮の完全無欠なる独立自主の国」では清国との宗属関係は破棄したが日本が朝鮮の独立を認めることを拒否。
(4)1904年「日露戦争」開戦時、韓国と日本は「東洋の平和と韓国の独立」という主旨にもとづき攻守同盟をむすんだが、韓国の中立化宣言は無視され日韓議定書により日本軍の駐留権、土地収容権の確保がされた。第一次日韓協約では日本の内政干渉を認める「顧問政治」が行われ、1905年ポーツマス条約では大韓帝国の保護国化の承認が列強から取りつけられた。第二次日韓協約では外交権が日本に奪われた。
(5)1907年「ハーグ密使事件」(「保護条約」の不当性を万国平和会議に訴えようとした)後、高宗が強制退位、韓国軍が解散させられた。伊藤博文が初代統監となる。
(6)1907年〜1909年「義兵闘争」韓国軍の解散後、義兵闘争が起こり、日本は義兵の死者16000名を出す焦土作戦で鎮圧した(日本側死者は133名)。
(7)1910年「韓国『併合』」8月22日日本軍がソウルに終結する厳戒態勢のもとで「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、8月29日(韓国では「国恥日」となっている)に発表。「併合」は日本の造語で、「合併」の対等イメージを避けるために日本官僚がつくった言葉。韓国人の親日団体「一心会」は「対等合併」を意図していたが解散させられた。「併合」はその後一般に使用されるようになった。国号は「大韓帝国」(韓国人の独立意識にもとづく)から「朝鮮」(清国の冊封に基づく国号)に変えられた。条約は武力の脅迫による強制で結ばれたものであり、もともと外交権を奪われているので対等の独立国同士の条約とは言えない。
(8)日本による統治は、1910年代は「武断統治」(総督現役武官制、憲兵警察制度)による軍事力をむき出しにした支配が行われた。役人より憲兵が多く、裁判なしで処罰が行われた。朝鮮語の新聞・雑誌の発行禁止、集会・結社の自由は無かったので、海外に亡命する運動家が増える。
三・一独立運動の背景と展開
1919年のパリ講和会議でアメリカの大統領ウイルソンが提唱した民族自決主義は、帝政ロシアやオーストリア・ハンガリー帝国の支配地には適用されたが、アジアには適用されることは無く、日本の朝鮮支配は無視された。日本の「武断政治」への不満、国際的な民族自決主義の高まりに影響されて、2月8日には日本の留学生が東京で2・8独立宣言を発表し「大韓独立万歳」を叫んだ(当事者はこの後上海に亡命)。3月3日の高宗の国葬にむけて韓国全土から約20万人が集合していた。その前の3月1日にソウルに33名の民族代表が集まって三・一独立宣言が発表され、宣言を印刷したビラが全国にまかれた(その1枚が長崎県の個人宅に保管されていて2019年独立記念館に寄贈された)。当時は「独立万歳」を叫んで人びとがねり歩いた(「万歳事件」)。日本の武力弾圧によって行動は暴力的にもなり、参加者数約200万人に増え、影響は満州にもひろがった。朝鮮総督府は憲兵・警察・正規軍をあげて武力弾圧を行い、4月には水原のキリスト教会
に閉じ込められた村人たちが日本軍に焼き殺されるという事件が起こった(堤岩里《チエアムニ》事件)。弾圧による朝鮮人の犠牲者は死者約7500人、負傷者約16000人、逮捕者約47000人にのぼった。
その後日本政府は「武断統治」政策をあらため、「文化政治」を標榜して政策の転換を行ったが、総督府現役武官制度を廃止して退役した軍人を総督に充て、憲兵警察制度を廃止したが警察力は増強した。言論集会結社の取締は緩和したが、検閲制度は残した。地方制度では朝鮮人の上層階層を協力者としてとりこんだ。実態は支配がより巧妙に強化されただけのことだ。
三・一運動の歴史的意義は、農民運動や義兵闘争などの流れが一つに合流した最初の民衆主体の抗日運動であったこと、中国やインドなど他の地域の被圧迫民族に影響を与える世界史的意義、韓国にとってこの運動を契機に上海に大韓民国臨時政府が樹立されたことと、「大韓」の国号と共和制が採択されたこと、「正義、人道、同胞愛」という現在まで憲法前文で引き継がれている憲法的価値のルーツが成立したことがあげられる。
植民地の被害の歴史を不問に付した日米韓の国際秩序
2018年の韓国大法院の「徴用工判決」は原告の被害者にとっての正義がようやく実現するかに見えたものだった。しかし、同時に日韓関係は「戦後最悪」といわれる状況となった。日韓関係を含む戦後の東アジアの国際秩序は、植民地時代の被害者の正義を実現させないこととひきかえに維持されてきたのではないか?
日本の敗戦のタイミングは、半島分断に大きく影響した。8月8日ソ連が対日宣戦布告、広島と長崎に原爆投下されて日本は14日にポツダム宣言を受諾した。このタイミングでソ連は三八度線以北を占領、南はアメリカが占領、日本はアメリカの単独占領となった。朝鮮半島は日本の身代わりのように分断され、「不平和」と民主主義の抑圧が継続することになった。日本は東アジアの冷戦秩序の最前線の負担と痛みを朝鮮半島と沖縄に押しつけながら、その秩序のもとで「平和と民主主義」を享受し経済発展を優先することが許されてきた。これが「戦後の国際秩序」の大前提だった。1965年日韓会談により日韓国交正常化が行われた。これは「戦後の国際秩序」にもとづく日米韓の思惑が一致したものだった。アメリカは東北アジアの反共体制を強化、韓国への援助を日本に肩代わりさせたい。日本は高度成長を経て韓国を輸出市場とする。韓国は輸出指向型工業化をすすめるために日本の資金援助を導入する必要から日韓会談妥結を急いだ。そのため日韓双方で歴史問題にふたがされ、韓国では「対日屈辱外交」反対運動は朴政権のもとで戒厳令が発せられ弾圧された。以後、1965年体制と呼ばれるこの体制が日韓の「戦後国際秩序」の基礎となった。
韓国民主化以後の動き
1987年の民主化以後、国民の言論の自由が復活する中で1990年代に日本では戦後補償裁判が次々起こされた。1991年8月、元「慰安婦」である金学順さんが名乗り出て「慰安婦」問題も未解決の戦後補償問題として浮上した。このような植民地支配や戦争の責任を問う動きは、現在世界中で起きている。
日本外務省作成のファクトシート「旧朝鮮半島出身労働者に関する事実とは」には、問題の現状把握が以下の様に示され、日本政府の考え方がよくわかる。
<事実その一>「1965年の『財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」は、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認しています。
<事実その2>「同協定はまた、署名日以前に生じた全ての請求権について、いかなる主張もすることができないことを定めています。」
<ところが>2018年10月30日及び11月29日、韓国大法院は、日本企業で70年以上前に働いていた旧朝鮮半島出身労働者の請求を認め、複数の日本企業に対し、慰謝料の支払いを命じました。」とし、「これらの判決は、1965年の日韓請求権協定に明らかに反しています。日韓関係の法的基盤を覆すのみならず、戦後の国際秩序への重大な挑戦であります。」と彼らなりの正直な反応を明らかにしている。
河野談話、村山談話から安倍談話まで
1993年の「河野談話」では「政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」とし、1995年の「村山談話」では「わが国は、遠くない過去に一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と表明した。しかし、「損害と苦痛」を与えた事実と、そのことに対する道義的責任は認め、「痛切な反省」と「お詫び」は表明するが、「国家責任と賠償」は認めず、被害者の尊厳は引き続き回復できていない。以上が、韓国民主化で、真実の歴史にふたをする1965年体制が危機に瀕して、それを補完するねらいとして提起された1995年体制だ。しかし、2015年の「安倍談話」では「損害と苦痛」を与えたという部分が消え、道義的責任論すら後退しているのが現状だ。
質疑交流
感想として、河先生の報告を聞いて日韓問題についての整理がよくできたという声が多かった。現在の韓国で起こっている問題についても日本のマスコミを通じて理解している内容とは相当ちがう事実も知ることができた。韓国への反感や蔑視が根深くある状況、その原因は?歴史認識の問題を明らかにする重要性、歴史認識と社会の絆を強めることとの関連、朝鮮通信使の時代は尊敬するまなざしがあったのでは?三・一独立宣言起草者の権東鎮が淡路島を訪れ、揮毫を残していた事実の公表、など活発な質疑交流が時間いっぱい続けられた。