例会はどなたでも参加できます。
参加費400円(資料代を含む) 会員外500円
日 時 7月13日(日) 13時半開場、14時開会
会 場 大阪府教育会館 3F桜の間
報 告 中尾恵子さん(一般社団法人日本ビルマ救援センター代表)
「ミャンマーの現状について−草の根の支援活動を通して」
民主化への道を進めていたミャンマーは、2021 年2 月、軍のクーデターによって、 再び軍事政権の国へ戻ってしまった。民主化を求める市民への弾圧、抵抗勢力への空 爆は後を絶たず、打ちひしがれた市民に台風、洪水、大地震の天災が追い打ちをかけ る。国内避難民の数は350 万人を超え、国民の3 人に1 人が支援を必要としている。 日本ビルマ救援センターは、草の根のネットワークを繋ぎ、軍の手に渡らず、直接被 災者に届ける支援活動を続けている。
このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください
大山古墳
三国ヶ丘駅前に集合、駅ビル3階にある みくにん広場から世界遺産・百舌鳥古墳群
の中心をなす大山(大仙陵)古墳(伝仁徳天 皇陵古墳)を俯瞰した(写真1)。とはいえ
ギザのピラミッド・秦の始皇帝陵と並んで 世界3大墳墓に数えられる巨大古墳の全容
は鍵穴型のフォルムも含め見渡せない。堺 市では隣接する大仙公園から気球を上げ約
100m 上空から見下ろす計画を立てていたが営業直前に気球に穴があきガスが漏れるというトラブルが発生。その後、委託していた
イギリスの会社の廃業・資材費高騰などで計画が頓挫していたが、フランスの会社に再
委託し万博閉幕に間に合わすべく10 月初旬には営業を開始するようである。
大山古墳の墳丘長は486m とされてきたが、最近、宮内庁は周濠の水面下の部分も含め
525m ということが多い。但し他の古墳に関しては依然と水面上の長さで表現しているの
でダブルスタンダードである。周濠は現状「三重」だが陪塚(大型古墳の周囲に築かれた
ばいちょう 中小古墳)である大安寺山古墳・茶山古墳が中堤(第2 堤)から張り出し外濠(第3
濠)がそれ を避けて湾曲することに違和感があることから築造当初は「二重」だったという説が主張
されてきた。が、最近の発掘調査の成果か らは築造当初から三重だったという見方が
有力である。ただ江戸期には三重目は埋ま っていて明治期に地元の村が三重目の掘削
を申し出た。その際に無償での土地提供と 掘削の労働奉仕を提案したが濠が完成すれ
ば農業用水として利用するという条件付き であった。奈良での前例で土地提供も有償
になるであろうという目論見(実際そうな った)もあったのではないか、そんな民衆
の逞しさも垣間見ることができるエピソー ドである。築造時期は埴輪等から5
世紀半ばと推定。これは仁徳天皇(オオサザキノミコ ト、仁徳は奈良時代の命名。天皇の称号も7
世紀に成立し大王と呼ぶべき)の息子で後に 没した履中天皇の陵墓と宮内庁が治定している石津ヶ丘古墳が埴輪等から5
世 紀初頭と推定されていることと矛盾 する。1872 年に台風による土崩れ(当
時の堺県知事税所篤による盗掘説も ある)により前方部2 段目斜面の竪 穴石槨から石棺と副葬品が露出し、
堺県の役人による絵図での報告が提 出されている。
その他の古墳
丸保山古墳も大山古墳の 陪塚である。今や国指定史跡・世界 遺産でありながら帆立貝形古墳(前 方後円墳の前方部が短い古墳)の前方部はかつて私立幼稚園が設置され削平を受けた。天 皇陵・陵墓参考地は宮内庁管轄で破壊から免れるが、それ以外は完全に破壊されたものも 多く百舌鳥古墳群には約100 基あったが現存は44 基のみである。アジア太平洋戦争後、 地主が壁土用の土取りと宅地開発のために売却したことが主たる要因である。樋の谷(古 墳)は宮内庁から陪塚丙号に指定されているが古墳かどうか疑わしい。樋門設置により幅 が広がっている第3濠に浮かぶ島状の形状だが未発掘で古墳の確証はない。樋門工事の際、 外堤が切り離された可能性が高いのではないか。
樋の谷(古墳)近くには仁徳天皇の皇后磐之媛の万葉歌碑が設置されている。歌自体は媛
の天皇への一途な愛を表現したロマンティックな内容だが、勿論、大山古墳が仁徳天皇陵
であるという前提でここに立地する。孫太夫山古墳の墳丘は宮内庁指定陪塚い号飛地、周
濠は堺市管理。前方後円墳だが公園整備工事の際、前方部を7m 付け足し周濠も盾形に造
作した。築造当初の姿により近づけるのが望ましい保存復元のあり方だと思う。
鳶塚古墳(円墳)は1955 年の土砂採取によ る破壊の際、泉大津高校地歴部の森浩一顧問
(当時)と部員が立ち会い遺物を採集。3 〜 3.5 mの周濠から家形埴輪が出土。かつて古墳が
あった位置に古墳をイメージした築山が造成 されている。墳形も高さも本来の古墳とは異
なっているが周濠の跡は列石を埋め込み表現 している。グワショウ坊古墳(円墳)の墳丘は
水分を含んだ表土と、その下の土を塊で掘り 出し、それを天地逆さまに積み重ねる工法で造成した。盛土の強度を高める古代人の高度な技術と知恵が窺える。石津ヶ丘古墳の陪塚
の七観(山)古墳は、戦時中軍が高射砲陣地に利 用すべく中央に直径5m 程の竪穴を掘削。1947
年、竪穴から多数の鉄片が発見されたにも拘ら ず1952 年、土砂採取のため完全に破壊された。
現在は古墳のあった場所に「古墳型展望台」を 設置している。銭塚古墳は前方後円墳で現在は
府立堺支援学校の敷地内にあり、学校建設に 際し前方部は破壊、後円部は残存するも削平さ
れ現状の高さは2.5 m。古墳マップやガイドブ ックに載らないのは学校の敷地内にあるので周知することで支障があるとの発想からだろ
うか。
市民運動で守ったイタスケ古墳
イタスケ古墳は画期的な前方後円墳である。1955 年に地主が開発業者に売 却。業者は土砂採取のためコンクリート製の橋を建設するも保存運動が勃発。若き考古学
者・学生・地元の小中学校の教員や生徒・住民らが古墳を護る会を組織し、署名活動・ビラ配
布・学習会・募金活動等を展開。寄付金が目標額 に達しない中、三笠宮が来訪し保存を訴える旨
が全国紙に報道され堺市が業者からの買い上げ を決断。公園を併設して保存され現在に至る。
コンクリート製の橋は破壊の危機にあったこと を記憶に刻むため敢えて風化しながらも残存さ
れている。
御廟山古墳は墳丘長203m の前方後円墳。周 濠は2 重で幅約30 〜 50m。応神天皇の初葬地
として陵墓参考地に指定。現地の説明板にかつての古墳平面図があり周濠が一部大きく広がっている様子が確認できた。民衆にとって周
濠は溜め池であり、命に繋がる農業用水の確保こそが第一義であることが読み取れた。
国交省補助事業で全国の重要文化財の調査に行ってきた。私が担当したのは13件だが、今日はその中から5件について私の立場から話をしたい。
当時の職人さんの技の多彩さ、大工さんの思い入れといった、今ではもうなくなってしまいそうな技を、特に装?(そうこう)技術といって、掛軸や古書、襖などを緻密な仕事によて修理する技術がある。これは今ほとんど継ぐ人が少なくなり大変なことになっている。それらを見させてもらった。それは素晴らしく、感動の連続であった。文化財はなぜ残していかなければならないか、その時代の生活を想像しながら、考えていただきたいと思う。なお「伝統木造」の定義は色々あるが、わが国では、古くから建てられた軸組構造による木造建築として捉えている
。
1.重要文化財 小野家住宅(長野県塩尻市)
工事中の小野家住宅に行ったのは2010年12月24日。この時はとても寒くて大変だったが江戸時代はもっと寒かったのではないか。塩尻は中仙道の塩の道の分岐点で三河の南の塩と安曇経由の北の塩がここで交わり非常に繁栄したという。小野家建物は天保2年(1831)平屋 1階建てでスタートしたが、この時期は旅をすることが流行りだして、多くの客が来ることを見越し、5年後に平屋を上に乗せて2階に増築をした。私が見た工事現場ではシートで覆われ、しかも建物をジャッキアップして上げていた。
この工事は2009年から2013年にかけて行われた。前はかなり古びていたが、完成後の小野家の形は全く変えていない。江戸期の中仙道は、宿場が69次あるが、塩尻は江戸から
30番目。道路からは「平入り」に入る。ちなみに「妻側」から入っていくのは「妻入り」。屋根は妻切、瓦葺きで当時の雰囲気はそのまま残っている。
使用されている樹種が、クリ材、マツ材、ケヤキ材、トガ材で、ヒノキの材料が1本もなく、ヒノキがなかなか手に入りにくい場所だったのではないかと思う。また、この床柱はイチョウの木で枝がそのまま全部ついている。当時の大工さんがピーンときてこの木は、こういう使い方したらいいんじゃないかということでやったと思う。「桜の間」だけではなく梅だとか、ひと部屋ずつ絵をかえていっており、こういったところも、装?技術を一生懸命残さないといけないと考え次の世代に伝えられることができたんじゃないかなというふうに思っている。
2.重要文化財 渡辺家住宅(新潟県岩船郡関川村)
越後を代表する豪農で、寛文7年(1667)に最初建てられたということである。新潟県の北部、山形県に非常に近いところにある。巨大な地主で、
酒造業、廻船問屋、金融業を営み、農業経営では50町歩も持っていた。屋敷の土地が3千坪、建物が延べで550坪あり、周りを取り囲むように土蔵がある
。1788年に一度焼失し1817年に再建された。
2009年から平成の大修理で 2014年に完成し約 8億円の工費であった。屋根は瓦ではなくトチ葺きで板の上に石を乗せてある。宮尾登美子原作のNHKテレビドラマ「蔵」のロケで使われた。敷地も屋敷も広大で屋敷は撞木(しゅもく)造りで、建物面積が1,207uあり平面図を持って歩かないと迷子になってしまう。1階と2階と合わせて部屋の数が40、それで便所が7か所、浴室が4か所、当時使用人が75名いた。屋根を見ると新潟なのに勾配が緩い。また屋根の下に桟木がものすごく細かく走っていて、その上に板を乗せただけになっている。新潟の雪は湿気を含んで重い。雪を下ろす時に板上の石の上までとるだけで下の雪は置いている。この石が1万5千個位も使用されている。これだけ同じ大きさの石を集めるだけでも大変だ。このような屋根は他の地方にはあまりない。またあれだけ大きな屋根も管理しやすいような仕組みになっていることに驚いた。家を支える土台の前の構造材をあれほど大きくする必要があるのかということも理解できた。上の雪の重さがあるから下がしっかりしないとダメで床下にものすごく大きな梁を使っている。それで柱の継ぎ手が大阪城の大手門と同じものを使っていたということはとても面白い。
3.重要文化財 櫻井家住宅(島根県仁多郡奥出雲町)
ここは2011年に行った。正保元年(1644)、出雲国に真砂土の中に砂鉄脈が見つかった。そこで櫻井家は仁多郡に移り住み苦労して「たたら」をしたりして、新しい製鉄を営むようになった。宝永5年(1755)に鉄師頭取を松江藩より拝命された。
櫻井家住宅は現在 9棟の建物が重要文化財に登録されている。母屋は瓦葺きではなく?(こけら)葺きで瓦よりずっとお金はかかるが重要文化財としてそれを守っている。
出っ張った建物は松江の松平藩の殿様がお成りになった時に使った。その時は御成門を開けて殿様は御成通をお輿に乗ったまま入ってくる。殿様が泊まった座敷の屋根もやはり?葺きでその横に煎茶室がある。煎茶室の廊下は殿様と家来で2段に分かれている。前庭に池があり、その上に滝が流れて松平不昧公が「岩浪」と名付けたが遠くから水を引いた人工の滝となっている。煎茶室への誘いは中国風のしつらえで煎茶は抹茶と違って開放的な雰囲気で庭をしっかり眺めながらたしなむ。
櫻井家住宅の要の中央の太い柱や梁は、非常に大きな材料を使っている。大きな材料を使わないと、これだけ広いところを賄うことができない。その軸組の続きの加工は、はしご状に組んで丈夫なフレームを作って家全体を固めている。広い台所の真ん中にある仕切りは煮炊きする所と食べる所を壁でなくて大きな梁を渡したような状態で空気がスムースに出入りできるように作っている。「たたら」製鉄の作業施設の炉はとても高温になり、木造であるため火事が時々起きた。施設をつくるのにかける費用10のうち建物は4で、見えない土間に6をかけている。下にものすごい仕掛けがあり、粘土も非常に大事な要素であって、純度の高い鉄を精製するために様々な苦労してやっていたということがわかる。
4.重要文化財 佐々木家住宅(島根県隠岐郡隠岐島)
ここも2011年に行った。隠岐島の島後の東海岸の釜地区で佐々木家は庄屋を勤めてい
た。島内の建物の中でも最大規模で、部材にものすごく大きな材料を使っている。
隠岐造りの特徴は玄関が 3つあることである。その玄関の一番重要な所からは、神官が出入りする。隠岐島は仏教寺院が一軒もない。廃仏毀釈の時の知事が命をかけて仏教を潰していった。2つ目に村の主だった人たちが用事のある時の次の間のような玄関があり3つ目に一般の住民が出入りするところの玄関があり、これは厳格に守られていた。
屋根はスギが使われているが、これは島内にヒノキが一本もないからで、耐用年数は劣るが使わざるを得ない。大きな大黒柱は心材をきれいにシロアリにやられていた。富田林で同じ被害があり、その時は大黒柱を入れ替えたが瓦が重いので少しづつジャッキアップする大変な工事をした。ここでは、解体工事した時に柱の真ん中をボーリングの機械でくりぬいて、同じような部材を差し込んでいった。
島内での重立った材料はマツで、いい松がいっぱいあり、松普請と呼ばれている。マツは本土の木とは違い、太い枝葉が全然なく建材としては非常に優秀で節が少ないきれいなものがある。塩害にも強いクロマツが大正時代まではたくさんあったが、今は50本ぐらいしかなく伐採はさせてもらえないということらしい。
5.眞島家住宅(鹿児島県名瀬市→奄美市)
奄美大島では本土とまた違う感じの家造りをしている。石垣で風を下から上がらせないようにして屋根を低くし勾配をきつくして風がどちらから来ても流れるようにしている。現在は奄美博物館に展示されているが、ヒキモン造りと言い大きいものを作らず倒れても簡単に持ち上げることができる。台風銀座の奄美では建物を軽くして風で動いても人力で運ぶことができる。表の建物とドーグラに2つ分かれて間の渡り廊下には壁も屋根もない。建物を見るとカゴのような造りで屋根も非常に軽く材料も細い。細い竹を渡した上に茅を載せて縄でしっかり括っている。表の母屋も土壁は使っていない。土壁を使うとはシロアリが上がってくるので柱が傷まないように使わない。柱と柱の間に板を通してあるだけで板であれば傷んでも簡単に取り替えていくことができる。やっぱり長年の知恵で材料もロスがなく台風が来ても恐れることもない。この暮らし方は、さすがすごいと思う。
(質疑応答については省略させていただきます)
「地域」「実物」教材にもとづく教育
現在の学校現場は大変である。ICT活用、学習指導要領の実施強要、煩雑な観点別評価など多忙を極める。その中で、浅井さんは「なんでかなあ?」という生徒の疑問を大事にする授業、生徒に問いかける授業を大切にしてきた。「遠い過去の話」を身近にするため、「地域に関わる問題」、「実物」教材からアプローチすることにとりくんだ。「地域を学習するということは、低・中学年だけの仕事だけでなくて高学年、さらに中学高校それぞれの段階で、それぞれに応じた学習を展開すべきものだと考える。だから、産業学習も歴史学習も絶えず地域から出発し、子どもたちが地域を調べることをもとに
して、それぞれの学習の展開を考える」(南部吉嗣元歴教協委員長)ことを基本にしている。泉陽高校在勤中には、与謝野晶子の「君しにたまふことなかれ」石碑や妙国寺の「とさのさむらい はらきりのはか」石碑、堺県庁跡の本願寺別院などを見学して明治初期の歴史を、東百舌鳥高校では、土塔を見学して行基の布教活動と奈良時代の政治と文化を、考えさせる授業にとりくんだ。
ワタから考える日本史の授業
八尾市立歴史資料館でもらった棉を毎年生徒と植え「綿繰り」体験を実施、家庭科の先生の協力で「糸づくり」にも挑戦した。江戸時代の「農業の発達、商品作物の栽培」授業では、ワタ種を蒔いて発芽しても虫に食われたり、夏の水まき、台風でワタが倒れたりする体験からお百姓さんの苦労が少しわかる。明治の産業革命の授業では、「繰り綿」の繊維から糸をつくる体験をし、「縒りをかける」ということを説明し、「糸車の手作業から機械を使って大量生産」するのが産業革命だと教えている。
棉作の歴史
教科書では「秀吉の朝鮮出兵で、各大名がワタの種を持ち帰り植えさせた」と書いているが、永原慶二さん(一橋大名誉教授)の『新・木綿以前のこと苧麻から木綿へ』(中公新書)では、後漢に南海から木綿が伝来、14世紀末から15世紀初に明の洪武帝の頃、木綿栽培と綿布生産が発展した。高麗に元から木綿が伝えられ、李朝で本格的に栽培され、応永13(1406)年に「日本国王」(室町幕府将軍)に「青木綿」が回賜(かいし:朝貢に対する返礼)され、1408年の大内家使者には「綿布」が、1451年の島津家使者には「綿布二三九四匹」が回賜されている。このころの木綿は舶来品で需要が高く高級品だった。日本では、律令の税として正丁(せいてい:課税対象となる成年男子)の庸(よう)は麻布、調(ちょう)の「綿」は蚕の繭からつくる「真綿」であった。国産木綿については文明11(1479)年史料に、令賢房という僧侶に「木綿壱端」が土
産に贈られた記録が初見(永原)。大阪では天文9(1540)年『室町殿日記』では摂津西成郡勝間で生産された「小妻木綿」が京都で取引されている。江戸時代の棉作中心地、三河木綿、伊勢木綿、摂津木綿は戦国時代に素地があり関東、東海、四国、九州など東北以外で広く棉作が行われていた。木綿の使用方法については兵衣、旗、幟、陣幕や馬具、火縄など軍需品が多かった。宮崎安貞『農業全書』(元禄10年)には木綿生産地について「河内・和泉・摂津・播磨・備後」などが記録されている。木綿生産は戦国
〜江戸期に爆発的に発展した。木綿は苧麻(麻)に較べ保温性や肌触りがよく、栽培・紡績・織布の生産工程で分業が成立しやすく商品生産・流通面で発展する特性にすぐれていたからであった。
授業の実践例
@天下の台所 大坂が「天下の台所」という意味を絵図や写真で蔵屋敷や東回り航路などの海上交通で全国がつながり大坂の木綿や銅が江戸に送られたことなどで確認させる。
A大和川の付け替え
堺では小学校から大和川の付け替えを習う。絵図で当時の洪水の多さ、被害を確認し、中 甚兵衛たち百姓の付け替え嘆願運動を紹介。推進派と反対派の意見も見る。付け替え後、新旧大和川筋で綿作がさかんとなった。ワタという商品作物は現金になり、貨幣経済が農村に浸透していったことを理解させる。肥料に鰯が大量にいるので漁法の拡大にもつながった。付け替えで、鴻池新田や三宝新田など新たな新田開発が行われたことにふれる。
B産業の発達と社会の変化
各地に商品作物の特産品が作られ産業発達と貨幣経済発展がすすむことを資料「高安の里」(八尾歴史民俗資料館)を参考に確認。「河内木綿」の名で木綿製品が普及した。綿や紅花など実物教材を見せる。貨幣経済浸透で本百姓の階層分解を考えさせる。宇田大津村(現・泉大津市)の織屋(天保14年)の資料で家族以外の人を雇用する大規模な織屋の存在、無高の百姓でも機織りだけで生活していける人がいることを知る。尾張名所図会では「マニュファクチユア(工場制手工業)」の存在を確認。
C百姓一揆とうちこわし
経済発展の一方で一揆や打ちこわしが起こる原因を探る。高石市富木の楷定寺にある「土井忠兵衛の顕彰碑」を見て、1783年の千原騒動を考える。同年は台風、長雨で綿が不作だった。一橋領の百姓は銀納の年貢減免と延納願いを出した。拒否されたので百姓たちは一揆を起こし下掛屋の川上佐助宅を襲った。堺奉行所の捜査と検挙の後、下掛屋の廃止、年貢の月延べ払いが認められた。当時幕府は株仲間を重視、農民の自由な綿販売が禁止され、問屋仲間が買いたたきをしていた。百姓は「国訴」という国を超えたたたかいをして自分たちの要求を実現していた。
D日本の産業革命
大阪紡績をとりあげる。同社は現在の大阪市内京セラドームの近所にあった。渋沢栄一 などが設立に関わった。資本金は当時28万円で、毛利、池田、蜂須賀などの旧大名や大倉財閥が出資した。イギリスから最新のミュール紡績機を輸入、最大規模の工場となった。原料は中国綿を輸入、労働者は近隣農村から集めた。その後、三重、天満、平野、東京などで大規模工場ができていった。大阪紡績成功の原因として、ミュール紡績機、中国綿やインド航路就航で入ったインド綿(安価な原料)、二交代制、長時間労働、若い女工さん(低賃金)、リング紡績機にイギリスよりも早く切り替えたこと、などを考える。
E社会問題の発生
低賃金や長時間労働の問題に対して労働者が立ちあがった。寄生地主制のもとで農家の子女が工場の劣悪な条件で働かざるをえなかったことを理解させる。天満紡績のストライキの紹介。日清戦争後に労働争議がふえたこと、治安警察法が労働運動をおさえたことを理解させる。足尾鉱毒事件では住民運動が起こっても銅生産をやめなかった理由として、
銅が武器の原料であることと生糸と並んで輸出品の中心であったことをあげる。
F大戦景気と大阪の変化
第一次世界大戦後、日本は空前の好景気となり産業構造が変化、独占資本が確立した。都市化、大衆文化の普及、大戦景気と「成金」の発生を考える。造船業と製鉄業の成長、輸出国・債権国となり在華紡ができ鐘紡や東洋紡績(大阪紡績と三重紡績が合併)が上海に進出、中国進出政策につながる。工業生産額が農業生産を上まわり農業国から工業国になり重化学工業発展で男子労働者が増えたこと。1925年には大阪市の人口は東京を超えて「大大阪」に変化した。御堂筋が建設され、城北と城東が変化、工場がふえていった。小林一三の「阪急商法」を沿線宅地開発、宝塚歌劇、百貨店設立などの資料で考えさせる。
G世界恐慌と日本 世界恐慌の日本への影響を理解させる。財閥の経済支配、浜口内閣の金解禁、昭和恐慌で人々の暮らしがったか、小作争議と労働争議の増加について鐘紡争議などを例に考えさせる。綿糸生産が、家内工業から工場制手工業、機械性大工業に拡大し低賃金・長時間労働、労働運動の高まりなどを考えてゆく。
質疑
●小松さん 「泉大津出身で、実家が織屋でトヨタ織機2台があった。松原では古い織機で、茶こしなど目の細かい金網をつくる地場産業ができている。河内木綿があるのになぜ中国綿を使ったのか?」○答「繊維が長すぎ、ミュール紡績機にあわなかった。」「泉州は分業が進んでいたので安い綿花が入っても経営が続いた。」
●林 「実習や見学授業で、1時間の枠ではむずかしいと思うが、2コマなどの時間割はしているのか?○答え「1時間でやっている。」○小松さん「小学校では1時間で綿繰りを指導している。八尾の資料館で道具を貸し出している。」
●井沼さん「水田の横で綿を作って幕府が認めたのか?」○答え「『勝手作り仕る法』で認められ、そのぶんは年貢の対象となった。」「大阪紡績は、なぜ大阪からはじまったのか?」○答え「工場用地として国有地を借りることができたため」「インド綿と中国綿の ちがいは?」○答え「インド綿の方が、繊維が長く安い」「紡績業は2交代制なのに製糸はちがうのはなぜか?」○答え「製糸は女工の手作業部分が多く、紡績は機械が大きく稼働させるために交代制にした」
(*すべての質問や意見を紹介できなかったことをお詫び申し上げます。
古家実三日記
本会会員の木津力松氏(100歳)が「戦前の革命的民主的出版物保存会」(中田さんが会長)のニュースに2020年から2024年まで連載した「古家実三日記抄」が文理閣から単行本として出版された。兵庫県での草創期の社会・労働運動に官憲の弾圧にも屈せず身を挺して貢献し、一方で古書店「白雲堂」店主として国内外の書籍・資料を収集、郷土研究を軸に在野の歴史研究家として異彩を放つ活動をした古家実三の行動を詳細に記録した日記167冊や手帳の資料をもとにしている。古家の人物と行動に魅せられた藤原昭三氏(『福崎町史』編集室)や須崎慎一氏(神戸大学教授)が「古家実三日記研究会」を20年間続けた。資料はその後国会図書館憲政資料室に預けられたが、藤原氏が複写した日記や手帳資料などを公開した。木津力松氏は、これらの資料をもとにニュースに連載した記事をまとめ、2024年末、『古書店「白雲堂」古家実三日記抄−兵庫県無産階級運動の歴史的解明』として文理閣より出版した。
古書店「白雲堂」店主となる
古家実三は、1890年兵庫県加西郡下里村(現・加西市)に生まれた。神戸一中をアルバイトの過労による病気で中退後、村役場の書記を経て神戸で古本屋「白雲堂」を開業した。古書店業の始まりは全国各地への古書買い付けと行商の旅であった。朝鮮・中国・台湾など外地にも行った。外地の旅は、古書資料の買い付けだけではなく、民俗調査といってもいいくらいのフィールドワークとなった。台湾の石器を本人が描いた実測図を『台湾石器図譜』として出版したものは大学の研究者からも注目をあびて購入希望があった。古家は福沢諭吉から空海までの幅広い文献を読破する読書家であっただけでなく地に足をつけて現場を歩いた。彼の活動の原点が、この行商体験にある。
社会運動−憲政擁護運動から無産階級運動へ
古家が社会運動に関わるようになった時期は、憲政擁護運動の一環として起こった加西立憲青年会、大正倶楽部への参加であった。この頃の古家の思想は、明治憲法体制擁護の立場であった。その後、1923年に普通選挙制度を要求する兵庫県青年党に入党、さらに神戸サラリーマンユニオンの委員長、政治研究会神戸支部幹事に従事した。
この頃、古家はそれまでの思想から転換、無産階級運動の立場に立っている。サラリーマンユニオンは、週休制度確立、解雇退職手当制定などを要求として掲げた。政治研究会は無産政党結成を準備する行動綱領を掲げていた。1926年、労働農民党が農民労働党の解散後に再結成された。古家は結成と同時に入党した。古家がこのような組織的な社会運動に入っていった理由として『古家史料目録』に「僕は本能的といってもよい程戦争が嫌いであった。・・・力強い戦争反対運動は、社会運動=解放運動の一環として展開しなければ効果の上がらないことを若い人たちによって教えられた。」と書いている。
このような時期、古家は森戸辰男や山川 均、大山郁夫などの活動家や文化人、知識人との交流をしている。与謝野晶子とは書簡を交わし、晶子は古家が「ただの古本屋ではない」と述べている。1927年9月の普通選挙制度実施後はじめての兵庫県議会議員選挙に労働農民党から立候補したが惜敗した。その後、3・15事件はうまく逃れたが、1929年労農党再建の活動中に4・16事件で逮捕された。水上署の独房に拘留された際の日記が残されている。
「もう取調がある頃だと思っているのに、今日もとうとう何の沙汰もなく過ぎ去った。僕はあいかわらずダンスと歌謡と、壁画描きの一日を送った。今日は素晴らしい婦人の壱躯(像)ができあがった。歓喜勇躍にたえないほど芸術的な興奮を感じた。しかし山宣のことを想い、とらわれゆく同志のことを考えるとセンチメンタルな気持ちになって時々涙ぐまされ、時には嗚咽をおこすこともあった。」
その後新労働農民党神戸支部を結成、1931年に日本労働組合総評議会関西地方評議会を結成、副議長となり、1935年には友愛倶楽部結成に参加、相談役となり、古家は以後、大正・昭和にかけて警察・軍隊の弾圧に屈せず身を挺し、時には精神的に大きな悩みを抱えながら、兵庫県を中心とする草創期の社会・労働運動の中心人物として活躍した。
『播磨郷土研究』
戦時中の時期については今後の調査研究の課題である。古家は本土空襲の激しくなることを予測し膨大な資料を郷里に疎開させていた。それらの資料は『白雲堂家蔵・図書目録』に記録されている。戦後、古家は1946年に日本共産党に入党し、河西郡下里村(現・加西市)に帰郷して郷土研究にとりくむ。この頃、治安維持法違反で刑に服していた赤松啓介も下里村に帰郷、古家と古代史研究に共同して取り組むことになった。古家の古代史研究で注目される業績は、下里村で日本最古の古法華石仏(1300年前)を発見したことである。古家について、多くの学者、出版関係者も、「ただの古本屋ではない」と言ってい た。専門の学者が彼に書籍に関する質問をしていたという。
木津さんは、古家氏の業績として第1に加西郷土研究会の創立と機関紙『播磨郷土研究』の刊行、第2に戦前無産運動資料集成の事業の進行、第3に、これらの研究をアカデミーに依存するだけでなく、白雲堂の書店活動と結合し、エッセイにもまとめたこと、古本屋人生の真実の記録である、としている。古家は、生まれ変わったら何になりたいかと聞かれ、「また古本屋になりたい」と言ったという。彼は終生、読書の重要性を説いた。
古家が『播磨郷土研究』第10号に書いた論文「現代史の激流と郷土史の関係(二)」は、彼の急死一年前のもので、遺稿とも云うべき論文である。(以下に一部紹介)
「歴史は少数の学者や好事家の独占に任せておくべき学問ではなく、すべての人民が身につけて、過去に吾々祖先の犯した過ちのため一般の人民が非常に悲惨な境遇に陥った事実を知って、現在の実生活とむすびつけて考えることは最も重要なことであり、またさらに重要なことは過去の歴史的知識や経験を生かして、現在の歴史の流れを的確に批判する力を養い、流れの方向を過たせないために民衆の力を結集するということが最大の目標でなければならないのである。(以下略)」
質疑
山内さん 下里村の古法華石仏の発見は有名で、甲陽学院のクラブでも調査した。
東野さん P114の大橋治房は放出出身、父親は淀川の今太閤として知られた。治房は戦前は共産党員で、戦後は自民党の府会議長だった。娘はシャンソン歌手(中村 扶)。
田中さん 神戸市図書館に、須崎慎一氏が発刊した『古家実三日記研究』があった。日記の詳細が記載されている。P127の大正メーデーの写真の解説はまちがい、右翼の街頭宣伝の写真。古家の研究姿勢の特徴は、実践と結びついていることだ。
(*全員の発言を掲載できなかったことをお詫びします。)
はじめに
「金岡軍隊村」は、現在の堺市金岡公園・警察学校・長尾中学校・近畿中央呼吸器センター・労災病院・大阪府合同宿舎・金岡団地とその周辺住宅地にあたる。
1932(昭和7)年、現堺市北区長曾根町に真田山から騎兵連隊移動。後で輜重隊も移転・陸軍病院が新設、「軍隊村」となった
軍隊村になる前は農業用灌漑池が二つ(楠本池と毛白池)あり、近くに“千田”(上等米が育つ田)の小字が近くにあるほど良い農地だったと思われる。
1928(昭和3)年に話があったが、農民は死活問題と猛反対。3年がかりで軍隊に押し切られ、1931年に工事が始まった。
戦後はアメリカ進駐軍の病院となり、地元の強い願いで返還された。 復元図は、20数人の体験者や地元の人の聞き取りと国会図書館アジ歴など公文書から作成、当時の配置や実態を探ることとする。
@金岡連隊・金岡キャンプの復元
国立公文書館のアジア歴史資料(アジ歴)の陸軍の輜重隊移転関係資料の設計図と体験者の聞き取りを1948(昭和23)年米軍の航空写真の上に描き復元した。金岡キャンプは近畿財務局「無料貸付契約書」付図と体験者の聞き取りを昭和23年米軍の航空写真の上に描き復元した。
A練兵場と騎兵隊および輜重隊
練兵場は、最初は現金岡公園にあったが、陸軍病院が出来たので、現金岡団地と周辺住宅地に農民から土地を借り上げる形で練兵場を作った。終戦直前は「練兵場も患者の芋畑に。小学生が草取り(8月15日午前中も)」。 騎兵隊は、1870(明治3)年大阪城内に第1騎兵隊として編制。1896(明治29)年騎兵第四連隊と改称し、現在の真田山公園)に移転。1932(昭和7)年3月、金岡村長曽根町(現長尾中・警察学校)に移転。1941年、捜索第四連隊と改称し、トラックと戦車を使用。1945年4月、捜索第四補充隊を解散し、本土防衛隊に転属。本土防衛隊は8月も召集派兵された。1945年4月、制毒訓練所が編成され、跡地は、制毒隊(毒ガスを扱う)となる。
終戦後の1945年8月20日ごろ、毒ガス入りのドラム缶10数本が河内長野に運ばれ、数本が寺ケ池の中へ、数本が岸辺に、残りが松林に埋められた。用水路で魚をとっていた大人1名が死亡。池で遊んでいた子どもが入院(金岡分院が河内長野市千代田の陸軍幼年学校のあとに移った国立大阪病院に)
輜重隊は、1876(明治9)年、大阪城に輜重第四小隊として編制。1934(昭和9)年3月金岡村に移転、1935年12月、二中隊は自動車部隊となった。
B体験者がかたる輜重隊のようす。
一棟の兵舎に4つの兵室があり、一兵室に約20名が寝ていた。部屋の3辺に一人幅60pのわらふとんのマットをしいていた。マットの上に毛布を敷き、もう一枚の毛布を筒状に巻いた中に寝る。その様子を状袋(封筒)と言っていた。いびき・寝言・寝返りもできない。
塀は乗りこえるのは簡単だが、後がたいへん!ある兵隊が脱走(脱柵)した。班員の連帯責任を追及された。丸一昼夜して捜索隊に連れられて帰隊し、衛兵所の奥の営倉(軍の留置場)に一週間監禁された。衣服の紐はすべて除かれ、狭い部屋に正座して、昼夜を分かたず監視されていた。3度の食事は飯とたくわんのみで衛兵を経由して渡された。入所中は班全体が謹慎を命じられ、何かといえば「連帯責任」を押しつけられた。1週間たって彼が班内へ帰って、しばらく1人座りつづけていていた。耐えられず便所で自殺した兵隊もいたと聞かされた。(岸上清次さんの話)
C陸軍病院金岡分院について
1934(昭和9)年3月22日、輜重隊と一緒に衛戍病院が新設され、その後1937年、陸軍病院金岡分院ができた。1941年、日赤302救援班が編成され、陸軍病院金岡分院にピンクの召集令状を受けた日赤大阪・和歌山・奈良・兵庫班の看護婦が配置された。
1945年6月、陸軍病院は、金岡分院が練兵場を利用して拡張し6万坪病棟約60棟、収容患者5千人を越え、大手前を大阪第1陸軍病院、金岡を大阪第2陸軍病院とする。1945年、一部が奈良県初瀬町へ疎開、井谷屋(本部と第1病棟)平野屋(第2病棟)・大野屋(第3病棟)(『桜井市史』上巻より)があった。
看護婦であった田口文さんの証言によると、勤務は2交代で12時に交代。37棟まであり37棟は結核・伝染病棟。病室には、両側にベッドが並び各室に詰所があり看護婦の仮眠室もあり。病室と病室の間はわりと広く洗濯干場もあり。一つの病室に60人ぐらい。36番棟はサブロクと呼ばれ精神を病んでいた人たちがいて、看護婦ではなく兵隊がつき有刹
鉄線がめぐらされていて、患者が暴れると電気ゴテをあて眠らされたそうだ。端に英霊室があり亡くなった人を連れていった。「陸軍病院は鬼の金岡・仏の日赤と言われた。
陸軍病院金岡病院での死者の数の公式な報告は見つかっておらず、近くのお寺の「葬式回数記録」では、昭和17年166名、18年255名、19年529名、20年628名、計1,578名とあり、最高は20年2月の葬儀22回126人となっている。
1945年10月、アメリカ進駐軍金岡キャンプになったが、病院は河内長野市の旧陸軍幼年学校跡に移り12月厚生省に移管、「国立大阪病院」となった。
市岡から疎開で因島へ
近江さんは大阪市港区市岡で生まれた。父親は因島の生まれで、地場産業の石の加工技術を覚えて港区で石工として働いた。小学校6年の頃、空襲を避けて両親の生まれた因島に疎開(縁故疎開)した。田舎に親戚の無い人は集団疎開で島根県松江市に行かされた。当時、疎開はまず大阪郊外に予行演習的に数日行き、その後本格的に疎開した。(*参加者の森下さんから、港区の人は和泉市に来ていた
との報告があった。)近江さん姉妹の名前は君が代の歌詞に由来する。近江さんは八千代で双子の妹は千代。名前のことで島の生徒からはやされていじめられた。自分はどうもなかったが、妹が泣いて帰って来たので、「国歌を利用して人をいじめるとは何ごとだ!」とやりかえした。自分の性格はおてんばで、妹は文学少女だった。中学校の頃、担任の英語の先生が、「べーベルの婦人論」について教えてくれて、女の自立の思想を学んだ。
東洋繊維に就職、シベリア抑留者を歓迎する活動に
1948年新制中学校を卒業して、麻の製糸、織物などをつくる従業員数千人の大企業の東洋繊維(広島県三原市)に就職した。仕事は繊維を織る前処理をしていた。寄宿舎(1500名ほど)の自治会長となり女工仲間の要求などをまとめて会社側に伝えることなどをしていた。当時、シベリア抑留者が帰国して故郷に帰る列車が各地を移動していた。因島の向かいの広島県三原市の糸崎駅に列車が停車することが妹の知人から聞いてわかった。帰って来た兵士を、歌を歌ったり話をしたりすることではげまそうと女工たちに呼びかけて、午後9時頃に出かけて行った。糸崎駅の出迎えの評判は舞鶴駅まで伝わっていた。停車時間だけの歓迎会であったが、帰国兵士たちには喜ばれた。近隣の職場の男性労働者も女工さんらの安全警護役を買って出てくれた。この行動は寄宿舎独自の行動であったが、会社側は、よけいなことをして仕事に差し支えると困るとして、中心的な女工を退職に追い込んだ。近江さんもその後、当時カリエスで入院したこともあり、解雇されて妹がいる福山に行き福山織物に就職した。労働組合づくりが発覚し
て大阪出張所に配置転換させられた。慣れない一人の事務労働に従事した。当時、淀屋橋に行くと阪本紡績の労働組合がデモなどの活動をしているのを目の当たりに見て、こんな職場(福山の紡績会社の出張所)には居られないと思った。
丸三敷布に就職−12時間労働とセクハラの体験
上二病院に知人を見舞いに行った時、泉南の紡績会社で働いていた人が職員にいた。その人は、日紡貝塚に勤めていたが1950年のレッドパージで解雇されていた。彼女から泉州の紡績会社に人手が足りないと聞き、丸三織布に就職した。そこで、泉州の労働条件が如何にひどいか知らされた。戦後の時代であったが、泉州では10時間〜12時間労働がまかり通っていた。東洋繊維や福山織物では8時間労働が守られていた。
食事もまずかった。それより悪いのは、男性の加減師(織機の調整をする技術者)のセクハラ行為だった。近江さんは、尻や胸を触ってくる彼らの手をピシッと叩いて撃退できたが、ほかの女工さんはみんな被害を受けても我慢している場合が多かった。長時間労働、セクハラ、食事などの待遇のひどさなど泉州の紡績会社はひどい状態だった。
労働組合の結成へ
1961年丸三織布で労働組合を結成した。労働組合をつくる時に相談した人は、林のおばちゃんであった。彼女は戦前、ゼネラルモーターズのタイピストをしていたが、組合活動などで治安維持法違反で逮捕された経験があった。戦後は、堺市の母親運動の中心的な活動家だった。自宅を訪問して労働組合づくりのABCを教えてもらった。また中小の紡績会社の組合作りの起爆剤となったのが阪本紡績労働組合の結成だった。 1959年田尻町にあった2000人の従業員を擁する阪本紡績で労組が結成された。阪本紡績労組は、「2交代12時間労働、生理休暇無し」などの悪名高い「泉州労基法」を打破して、泉州の紡績会社の労働者を励まし、中小の紡績会社の労組づくりへの支援も行った。藤原織布の争議では、労組結成大会に酒気を帯びた職制ら20数名がバットやレンガなどを持ち無抵抗の女子組合員や応援の組合員に暴行を加えるという事件が起こった。5名が重傷を負うという事態となったが、負けずに組合結成大会を開いた。
組合結成や会社との交渉などで、地域で一番強力な支援をもらったのが教職員組合だった。青年運動、サークル活動、学習会なども盛んに行われた。阪本紡績の中に労働学校ができて、市大の先生などが教えに来てくれた。
組合結成し、自分は組合長となった。会社には、@食事の改善A寮生活改善B8時間労働制確立C電気洗濯機の購入D有給休暇、生理休暇Eその他、を要求した。その後、他の会社でも相次いで組合結成が行われた。
当日は、近江さんの他に辻知恵子さん(元阪本紡績)、出水紀子さん(元藤原織布)のお二人も組合結成当時などの体験を報告され、松本芳郎さん(いずみ近現代史の会)が司会を担当されました。
質疑
森下さん 大阪市の郊外疎開は2泊3日で、港区の子どもは和泉市、1945年6月に南池田小学校に来ているという資料がある。森田紡績はごはんがまずくて女工さんが逃げたという話がある。セクハラは泉州がひどかったのか? 答え ふとんの中まで入ってくるということがあった。いやがらせの範囲。 辻さん 阪本紡績にいたが、ゼンセン同盟は役にたたず、総評に相談に行ってストライキをした。労基署が来たら、会社から隠れろという指示が来た。暴力団の介入があり、組合幹部がなぐられることもあった。 林 引き揚げ列車の兵士とはどんな交流があったのか? 答え ほとんど交流する時間は無かった。他の人で話したりはしていたらしい。
五代友厚の娘久子と日記
久子は五代友厚の四女として1883(明治16)年に生まれた。五代は薩摩藩出身で欧州留学後、明治政府の官僚となり、大阪造幣寮(のちの造幣局)や大阪株式取引所などを開設、関西を中心に日本資本主義の基礎となる各種事業を起こした。五代の妻豊子には子が無く、四男二女の子供たちは皆母親がちがう。久子の実母は初で、家庭内では乳母的な存在であった。
久子は尋常小学校を卒業後一〇歳で市立大阪高等女学校に入学、六年間の多感な時期を過ごした。1901年、東区久太郎町の杉村正太郎に嫁いだ。杉村家は砂糖・両替商、土地経営などを営み、友厚の事業にも協力する船場の有力な商家であった。正太郎は、現在も続いている杉村倉庫となる会社を創業した。
久子の日記は、孫娘の稲岡正子さんが所有していたが、大雨や阪神大震災により家が崩れ、取り壊すことになった時、日記が発見され所有者から大阪市に連絡があり、大阪市史編纂所で調査することになった。日記は1911年から1945年まで書き継がれた。
杉村家の生活
友厚は久子が二歳の時に亡くなった。久子の結婚時に用意された持参の品物を見ても五代家が非常に裕福であるとはいえず、杉村家からかなり金が入っていたと思われる。久子と姑の関係は険悪なものだった。このことが、のちに久子の長期の家出の原因となった。番頭の回顧録によれば、五代から譲られた鉱山会社の不振が、先代当主の自殺の原因だとされるが確かなことはわからない。正太郎との間に3人の子供が生まれ、みな名前に正の字を入れた。
1910年6月杉村正太郎が大阪市会議員に当選、1911年11月には電気鉄道部長に就任した。堺筋に市電が通り、道の拡幅のために「軒切り」をするので、1911年9月から江之子島に転居した。日記が始まるのは、1911年9月29日、引越が終わったころからである。浪花座で芝居見物をしたこと、演しものは渡辺崋山の歴史劇で、モリソン号事件ではじまるという内容。1912年1月7日は七草がゆとから汁を食べたという記述。寒の入り前夜、ネギを屋根の上に投げ上げ露にあてたものを、おからの汁に入れて食べると病気をしないという風習があった。久子の杉村家での役割は義母タネのもとで
衣類管理などの家事、贈答、接待、家内使用人などの管理が主であった。14人いた使用人(常時4〜5名が働く)への給料は、節季払いから月給制に変わった。
焼跡線問題
1912年1月16日、「本日午前一時より、難波新地四番町遊楽館より出火」とあり、道頓堀にかけて火災が拡大、道頓堀北側の市電敷設が大火後、南側敷設案に変更され「焼跡線」と呼ばれた。内務省が市の市電路線案を認めなかった。この件で、植村市長と電鉄部長杉村正太郎、参事村山龍平なども辞任することになった。 1912年4月5日、友厚の盟友だった大阪財界の中心人物藤田伝三郎の葬儀見物に子供連れで行ったが人出が多く(約20万人)、よく見れなかったという。
1912年8月20日、「本日市民大会」とあり、中之島公会堂で8000人を集めた大阪市民大会が開かれ、焼跡線(高津九条線)の全線許可と植村市長再選が決議された。
家出事件と日記を書くと云うこと
久子の日記は、最初のころは、女中への指示やものの出し入れなど、67文字ほどの「備忘録」的な内容だったが、書くほどに長くなり、1912年12月31日には599文字となる。
1912年2月19日〜5月22日に実家の五代家に長期にわたる家出をした頃から日記の内容が変わってくる。家出の原因は、姑との関係の問題が大きい。姑タネの機嫌を「天候」と書き、家出前には、このような表現はなかった。家出してからは、なだめに来る人や、相談する人のことなども書かれている。
久子自身のことを表現するのに、「自分」と書き、「私」という表現は使っていない。石原さんは、「自分」は「私」より前に出す意味があるのではと指摘する。
質疑
(問)戦時中の日記はあるのか?
(答)戦時中の分はあるので、調査してみたい。 絵を描くのが好きで、ダンスもやっていた。昭和の時期は一番大変だった。
(問)絵は誰に習っていたのか?
(答)不明。
(意見)明治の女性で恵まれた家庭の人は日記を書く人が多かった。私の母も日記を書いていた。
(問)杉村家が砂糖商だったことと(友厚との関係で)薩摩藩との関係はないのか?
(答)当時は砂糖は四国からも手に入った。
なぜこの本を書いたのか
相可さんが「ヒロポンと特攻」について書こうと考えたのには、3つの理由があった。
第1は、梅田和子さんから戦争体験の証言を聞いたこと。梅田さんは旧制茨木高女(現・府立春日丘高校)内の工場(大阪陸軍糧秣廠支所)で覚醒剤の入った特攻兵向けのチョコレートの包装作業に従事した。自分が教え子を送り出していた高校でそんなことがおこなわれていたことに驚き調べた。
第2は、百田尚樹氏の小説をもとにした映画『永遠のゼロ』など、特攻隊員の純粋な気持ちを強調して特攻を美化する傾向が広がっていることへの危機感だった。特攻は美化できるものではない。日本は戦地で残虐行為を行い、沖縄戦でも明らかなように日本国民が軍に守られたことはなく、日本軍兵士は使い捨てだった。
第3は、日本の侵略戦争を正当化する「自虐史観批判」、「歴史修正主義」の潮流が出てきたことへの危機感だった。1990年代に他県の社会科授業を参観したことがあった。中学生を対象に「日中戦争は是か非か」をテーマにして、生徒の戦争反対グループ(最初は多数派)と賛成グループを前に教員によるデイベートが行われた。「当時の農民の生活は大変だった」「満州国も移民を受け入れていた」などの意見が出されると、戦争賛成派がふえてゆき、多数派だった反対派が少数になっていった。「戦争もやむをえない」論によって賛成派がふえていったのである。これがきっかけになって、情緒的な反戦意識では不十分で、日本の戦争のリアルな実相と、なぜそんな戦争をしたのかの因果関係(歴史認識)を伝えなければならないと考えた。
ヒロポンとは
「ヒロポン」は大日本製薬の商品名で、1941年に発売され、「眠気一掃」「戦力増強」などの効能が宣伝された興奮剤である。ケシからつくられるアヘンやモルヒネなどの「麻薬」は、逆に意識をもうろうとさせる働きをする。同社は中国東北部の奉天(現・瀋陽)にも支店があった。太平洋戦争が始まると、ヒロポンはほとんど軍に納入された。戦後、軍が放出し、質の悪い密造品も出回り広く中毒者がでた。戦時中は軍が「ヒロポン」を管理し、一般市民の間に中毒患者はほとんどなかった。 1951年、覚醒剤取締法で一般使用は禁止されたが、ヒロポンは現在でも重度のうつ病 などに処方されている。また自衛隊では覚醒剤と麻薬が保持されている。戦争には欠かせないからだろう。
ヒロポンと特攻
ヒロポンは主に航空兵に与えられていた。軍需工場の夜間勤務者にはヒロポンの錠剤が与えられ、勤労動員の女学生にも与えられた。1945年5月の沖縄特攻では、白菊特別攻撃隊に所属した沓名坂男さんが、軍医の蒲原宏さんからヒロポンを注射された。当時、実戦機はすでに残り少なく、特攻にも練習機の白菊機や九三式練習機(赤とんぼ)が使用された。沓名さんは注射をされた体験を、「今まで酒でふらついていた身体が見る見る立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔いなどどこへやら、神経は昂ぶり身内から闘志が湧いてくるのを感じる」と語っている。
軍医の蒲原宏さんは、当時、注射の中身がヒロポンとは知らなかった。軍医学校でも教えられていなかった。夜間に沖縄に出撃する特攻兵への注射は若手の軍医にまかされ、上官は行きたがらなかったという。戦後、蒲原さんは元の上官から「あれはヒロポンだった」と聞いた。
もっとも醜悪な作戦、特攻
特攻には、航空特攻(爆弾を積んだゼロ戦、人間爆弾「桜花」)、水中特攻(人間魚雷「回天」、人間機雷「伏龍」)、水上特攻(ベニヤ板のモーターボート「震洋」)などがあった。海軍の特攻責任者である大西瀧治カは、特攻を「統率の外道」と呼び、本来の作戦ではないことを十分認識していたが、一度始めた戦争を自ら止めることができない「負のループ」にはまりこんでいた。
1944年10月、関行男隊長の「神風特攻隊(敷島隊)」が米航空母艦を撃沈するという予想外の戦果をおさめた。報告を受けた天皇は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった。」と言ったと伝えられている。しかしその後は、アメリカ軍の優れたレーダーと暗号解読によって、特攻作戦は成果をあげることができなくなった。日本軍指導部は特攻を国民の戦意を鼓舞する手段と考え、天皇のねぎらいを利用して特攻を正当化した。「敷島隊」を率いた関行男自身は「ぼくは天皇や日本国のためではなく、最愛の妻のために行く」と心情を吐露していた。隊員たちは「特攻の志願を募る」とつめられて、皆納得がゆかず呆然としていたが、恫喝されて「志願」の手を挙げた。検閲があり遺書には本音を書けなかった。特攻が志願により行われたという宣伝は、実態とはかけはなれている。
梅田和子さんの体験
梅田さんは弁護士の家庭の三女として1930年に生まれ、小学校5年生の時に太平洋戦 争がはじまった。旧制大手前高女に進学したが、戦争悪化を危惧した父親の判断で高槻に疎開し、旧制茨木高女に転校した。1944年には同校に軍需工場が置かれ、プレハブ施設内で覚醒剤入りのチョコレートを包装する作業が女学生によって行われていた。梅田さんは、包装作業する学生がチョコレートを盗むので監視する役目を教員から指示された。上級生からスパイだと思われた梅田さんはただちに屋上に呼び出され、チョコレートを食べさせられた。食べると体がカッと熱くなり、普通のチョコレートと違うことがすぐわかった。家に帰ってその話をすると、父親は「ヒロポンでも入っているのかな」と言った。チョコレートは棒状で菊の御紋がついていた
朝鮮人へのリンチを目撃する
期待通りのスパイの役目をしなかった梅田さんは、高槻市の山間部の成合(なりあい)にある秘密軍需工場タチソ(「高槻地下倉庫」の暗号名)での勤労奉仕を命じられた。同工場は戦闘機「飛燕(ひえん)」(川崎航空機)のエンジン製造を目的としていたが、突貫工事で建設中だった。約2800人の朝鮮人労働者とその家族700人がいた。地元の小学校には朝鮮人児童が一日47名も入ってくるときもあった。
タチソはやがて米軍の空襲の標的となり、攻撃が激しくなってきた頃、イライラをつのらせた軍人(下士官)が朝鮮人労働者に対するリンチを始めた。暴力はエスカレートし、椅子がこわれるまで殴ることもあった。将校はただ見ているだけであった。梅田さんは、疑問に思って「なんで?」と将校に何度も尋ねた。一人の将校が「だって朝鮮人だから」と答えたという。敗戦後は、タチソで書類焼却を手伝った。それが証拠隠滅のためとは知らなかった。
梅田さんは、(1)覚醒剤入りチョコレートの製造作業の一部に従事したこと、(2)日本人下士官による朝鮮人へのリンチを目撃したこと、(3)証拠隠滅の書類焼却に従事したことなど、重要な証言を行った。それは、日本軍が知られたくない戦争の実相を伝えるものであり、日本人側からの貴重な証言である。
軍国主義教育と戦争責任
特攻を可能にしたのは日本の軍国主義教育であった。茨木高女でも「桜井駅址」(楠木正成・正行父子顕彰)整備の勤労奉仕や、運動会で「重量運搬競技」「救急看護競技」などが行われた。幼児用の塗り絵では、アメリカ兵をまっぷたつにする子どもの姿が描かれていた。
学徒兵だった岩井忠正さんは海軍の人間魚雷「回天」と人間機雷「伏龍」という2つの特攻訓練に従事した。弟の忠熊さんは「震洋」による特攻作戦に参加した。二人は天皇制や侵略戦争に批判的であったが、自ら特攻に志願した。「戦死」を避けられないものとして考えており、どのみち死ぬなら華々しく死のうと考えたのである。兄弟は戦後の特攻美。化の風潮を批判し、日本軍の暴力的制裁の実態をリアルに証言した。
日本の戦争責任を負うのは、天皇、戦争指導者(軍人、政治家、財界関係者を含む)、教員、メデイア、一般民衆などがあげられる。教員は軍国主義教育を推進した現場の責任者である。戦後、日教組が掲げた「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンは、戦後教育の重要な目標となったが、この言葉には、戦場の向こう側の風景がぬけている。加害の事実、他者に対する視点のない自国中心の考え方であり、限界があると思う。
民衆の戦争責任について、1946年に映画監督伊丹万作は「戦争責任者の問題」を書き、敗戦後「軍部や新聞にだまされた」という多くの国民の態度を批判して、「批判力と思考力を失っていた国民」の責任について言及した。
今年は歴史修正主義的な中学校歴史教科書が、3冊も検定に合格し、各地で採択に反対する運動が起こっている。二度と戦争を起こさないために必要なことは、(1)民衆がかしこくなること、(2)戦争の向こう側にいる人に思いを馳せること、(3)国境を越えた民衆の連帯を築くことが必要である。
質疑
<山崎さん> 梅田さんのお姉さんの佐々木靜子さんは戦後初めての弁護士で、社会党の参議院議員(大阪選挙区1971〜77年)となった方ですね。 <平島さん> 茨木ではケシ栽培がされていて、恩賜のタバコにもアヘンが入っていたのではということを聞いたが、どうか?(相可さん:恩賜のタバコにもアヘンが入っていたことは聞いたことがない。) <林> 会員の島田 耕さんの話で、淡路島の実家で軍が預けにきたチョコレートを食べたとのこと
父の戦争体験を伝えること
原さんは府立高校を退職後しばらくして、父親(故人)の戦争体験を調べ始めた。生前には詳しい話を聞けなかったが、本人が地域で戦争体験を話していて、そのメモが残っていた。ドイツの大統領ワイツゼッカーの言葉「心に刻む」とあるように戦争体験者の苦しみ、戦争の実相を伝えることが今大事なことと思い、父たちの戦争体験を自分が伝え、他の人がそれを聞いて、さらに体験を聞き、伝える連鎖が起こってゆくことを期待する気持ちがあった。それがアジアの人々の間にも広がり、戦争の悲惨さをわかちあっていったらどうなるだろうかとも考えた。
週1回、公共と地理総合の科目で高校生に教えているが、父親の体験も取り上げている。生徒は静かに聞いてくれている。若者に伝えてゆく上で、教育の場は大事だ。
軍歴証明と兵籍簿の調査から
父の講演メモに「戦犯裁判」と書かれたものがあった。「戦犯になったのか?」という疑問がわいた。そこで、まず調査の基本となる軍歴証明、兵籍簿などから調べ始めた。
鳥取県が本籍なので県に問い合わせて書類を取り寄せた。1945年に徴兵され、広島の船舶通信隊補充隊に所属、第4中隊からのちに第5中隊に移った。8月6日に広島市内で被爆、9月18日まで野戦病院に入院後、20日に除隊となっている。(昭和21年6月に除隊後満期となっているが、この意味は不明。)
兵籍簿には、1944年官立無線電信講習所卒の通信兵となっている。祖父母は通信兵だと安全と思い無線学校に入学させたらしい。その後、大阪商船の通信士として徴用配属された。厚生労働省のウエブサイトを見れば徴用船員の名簿等の資料があるとわかり、ネットで問い合わせて、3ヵ月ほどでコピーを送ってもらった。船員カードによると、第3級通信無線士で、6月19日に志アトル丸に乗船している。6月15日に広島の宇品を出航、プサンで関東軍を乗せて台湾高雄で輸送船16隻の船団を結成、フィリピンに向かった。父は門司から乗船した。18才だった。
米潜水艦に撃沈される
当船には4285人が乗船していたが、途中、アメリカの潜水艦に撃沈された。午前中に最初に沈められたが、魚雷の被弾時刻、沈没時刻などすべて記録があった。
午後3時頃、6時間ほどの漂流の後救出された。父が何かにつかまって波間を漂っているときに後方に死体がいくつも浮いてついてきたという。救助された船もまた撃沈されて、多くの兵士が二重遭難にあい亡くなった。1944年7月19日にようやくマニラについた。フィリピンには、沈没船に乗っていた船員や兵士がいっぱいいた。それらの元兵士の書いた本もたくさん出版されている。1944年のフィリピンには米軍が押し寄せてきていた。7月18日に東条内閣が総辞職した。1944年10月23〜26日、レイテ沖海戦が行われ日本は大敗した。フィリピン全土でゲリラによる反攻がはじまり、連合軍捕虜4万人が本土に送られ、日本各地の捕虜収容所に収容された。父は、フィリピンからようやく3度目に脱出して帰国できた。
広島で原爆に被爆する
父は帰国後、4月に徴兵され船舶通信隊補充隊第5中隊に配属されたが、8月6日の8時15分頃、広島の兵舎で仮眠していたところを被爆したのである。爆風の当たる角度により、建物は倒壊しなかったが、倒れた柱があたって仮死状態になった。基地から少し離れた国民学校の野戦病院に送られ回復した。戦後、同じ部隊の元隊員3名が原爆症の補償を求める裁判を起こして勝訴している。
横浜裁判の証人となる
戦後、実家のある鳥取県倉吉市に帰った。実家は軍服屋の商売で裕福な家だった。宝塚ファンで、雑誌「宝塚」のコレクションがあり、合本されたものが保存されている。父は1947年に女学校の先生をしていた母と結婚して1950年に自分が誕生した。
ところが結婚の準備の最中にGHQから突然呼び出しを受けた。横浜BC級戦犯裁判への出廷を命じられたのだ。父の講演メモを見た時は、戦犯になったのではないか?という疑惑を抱いた。国立公文書館の記録を調べると、父の名前があった。被告側の弁護のための証人であった。
事件は、フィリピンからの帰国船「鴨緑丸」(大阪商船)が1944年12月13日にマニラを出航後、14日と15日に米軍機による爆撃を受けた。船には1619名の連合軍捕虜と乗組員100名、マニラからの婦女子700名、遭難船員1000名、警備兵30名、その他に台湾人軍属26名が乗船していた。父吉郎は乗組員ではなく、遭難船員としての便乗者であった。
攻撃による捕虜の死傷、船から脱出した捕虜を日本軍兵士が銃撃したことなどがあり、別の船に乗り換えて門司に着いたときには捕虜の生存者は約600名となっていた。
裁判では、捕虜を管理する隊員と船長ら9名が被告となり、2名が絞首刑となった。父は、1947年3月10日から5月9日まで、証人としておそらく何回も横浜裁判(旧横浜地裁、2000年に改築)に出廷させられたと思われる。裁判史料には父の証言内容がみつからなかったので、今後他の資料を調査する予定である。
質疑
松山さん 一人称で語る戦争体験は大事と思う。資料の調査などは、どのようにして、どれくらい時間がかかったのか?答え 2016年以降、自分の仕事が落ち着いてから、(報告の中で紹介した)公文書館や自治体役所などのほか、ネット検索などでも調査をした。
東野さん お父さんが入学した官立無線講習所と逓信省講習所(のちのNTTにつながる)との関係は?
辻本さん 資料P6の参考文献中の駒宮真七郎『戦時輸送船団史』を探しているが見つからない。
大町さん 軍歴簿は大阪府のものは克明に書かれていたが、府県により異なる。父は「戦争に与するな」と言っていた。
小松さん 父は中国戦線に派遣された。兄の話では、武漢作戦に行ったという。父が90歳の時に戦争体験の話を聞いた。陸軍病院が中国兵に攻められて全滅した。父は偵察に行っていて無事だった。そのことは機密にされ、軍からすぐ帰国せよと命じられたという。
山崎さん 府庁で勤めていた頃、福祉課の人の話を聞いた。普通3〜4年で異動するが、その人は35年ほどいた。引き揚げ援護局にいた頃、軍隊仲間の話で、年金を有利に受け取るために軍歴の詐称をする者がいることを聞いた。長年福祉課で勤め、資料にくわしかったその人は、軍歴詐称を見破ることが得意であった。戦時中海南島にいた人と現地見学に行ったが、村の中へは入れてもらえなかった。
谷さん 応召の国旗に書かれた名前が41名なのは、42名だと縁起が悪いからなのか?
辻本さん 国旗に女性の名前が無い。男しか書けなかったのか? 川崎さん 父は和歌山県新宮市出身で17歳で志願兵となった。中学校卒で小学校の代用教員となったが、働き口が無くて軍人になった。中国で、ソ連が参戦して攻めてきたときに張家口附近で日本軍が抗戦した際に、「ひびき」という名称の部隊で戦ったという話をしていた。1945年9月に帰国した。
堀越さん 龍神村のB29搭乗員の慰霊祭に行った。戦争体験を知ることが大事と思う。アウシュビッツ強制収容所にも行ったが、トラウマになるほどの体験だった。
質疑、意見交換は活発に行われた。すべての参加者の意見を掲載できなかったことをおわびします。
5月4日に晴天の下、古市古墳群を巡った。藤井寺市・羽曳野市にまたがる羽曳野丘陵先端部の国府(こう)台地を中心とした4q四方の範囲に130基以上の古墳が確認され、現存するのは45基とされている。
近鉄土師ノ里駅に集合し、駅前にある案内板を利用して古墳や古墳群について簡単な説明をした。
その後まず市野山古墳(伝允(いん)恭(ぎょう)天皇陵古墳)に行った。墳丘長230mの前方後円墳で二重の濠と堤があったことが確認されている。江戸時代には綿の栽培が行われ「綿山」と呼ばれていた。地形上、濠に水が溜まりにくく村人は自由に出入りしていた。築造時期は五世紀中頃から後半と推定。
続けてこの古墳の「陪塚」(大古墳周辺に築かれる古墳で大古墳の被葬者の家臣を埋葬、あるいは被葬者の権力を示す器物を埋納している小古墳)の一つである唐(から)櫃山(とやま)古墳に行った。墳丘長59mの帆立貝形古墳で後円部の南半分は府道と近鉄線により破壊され、前方部は民間の庭を経て現在は更地になっている。藤井寺市が買収し整備・公開の予定だそうだ。築造時期は五世紀後半と推定。
次に鍋塚古墳(国史跡)の法面の階段を上まで登った。一辺63m高さ7mの方墳だが時の流れで四角い墳形はよく分からなかった。間近に仲津山古墳が望め築造時期も共に四世紀末頃と推定されるので、その陪塚としてよいであろう。
古墳を降りて少し歩くと仲津山古墳(伝仲(なかつ)姫(ひめの)命(みこと)陵古墳)に到った。墳丘長290mもあり日本の古墳の大きさランキングで第9位になる。前方後円墳で国府台地の最高地点に立地している。発掘調査はされたが、あくまで宮内庁管掌領域外のみである。百舌鳥・古市古墳群中最古の※大王陵と言えるが、被葬者とされている仲姫命より応神天皇(仲姫命の夫)の方が早く死亡しているので、宮内庁の「治定(じじょう)」は根拠がない。(※便宜上、天皇の呼称を用いているが、天皇の用語は7世紀後半以降に現れるので、この時点では本来「大王」というべきである。)
仲津山古墳の側面に沿って歩きその巨大さを実感しているうちに、程無く古室山(こむろやま)古墳に着いた。墳丘長150mの前方後円墳であるが、この古墳の特長は墳頂まで登ることができる中型古墳だということである。本来、国民共有の文化財である古墳は中に入れて当然であり、ましてや世界遺産は誰もが自由に出入りできるべきである。ところが、この古墳は非常に珍しいケースであり、観光ポイントとして有名なのは実は残念な事態だ。
国は文化財の国民への開放をもっと進めていくべきである。頂上まで登り墳丘の規模や形を実感できたことに加え、見晴らしもよく誉田山古墳、あべのハルカスや二上山・金剛山も見え、一服の爽快感を味わった。築造時期は四世紀後半と推定。
赤面山(せきめんやま)古墳は特異な古墳である。西名阪自動車道の高架下に立地しており、道路建設の際、橋脚を1本とばし古墳の真上のみコンクリートをアーチ状に補強し、側道も墳丘に沿ってカーブさせている。一辺22m、高さ2.7mの小さい方墳だが1956年に国史跡に指定されていたおかげで、その後の工事で破壊されずに保存された。ただし保存するのなら、せめて説明板程度は掲示してほしいが殆ど何もない。事前の知識がなければ、それと分からずに工事の盛土か何かとしか思わないであろう。円筒埴輪(五世紀初め頃)が出土しており、作りが隣接する大鳥塚古墳から出土した円筒埴輪と同様であることから、大鳥塚古墳の陪塚と考えられる。
大鳥塚古墳は墳丘長110mで築造時期は四世紀末と推定され、円筒埴輪・形象埴輪のほか銅鏡が2枚出土するなど国史跡にも指定されている価値ある古墳だが、後円部の墳丘裾を著しく掻破する形で3カ所の大きな窪みがある。これは第二次世界大戦時に陸軍の大正飛行場(現八尾空港)が空襲される事態に備え、近隣に戦闘機が発着可能な幅の広い道路(現在は府道)を敷設し、その戦闘機を隠しておく「掩体(えんたい)壕(ごう)」の跡である。また後円部の墳頂部には4カ所の「銃座」と思われるくぼみが見受けられた。
次は誉田(こんだ)(御廟)山古墳である。墳丘長425mで全国第2位の規模(容積は第1位)。前方部西側に土崩れが見られる(西側が氾濫原、墳丘の下に活断層。天平年間に地震で崩落)。2万本以上の円筒埴輪、各種形象埴輪等が出土し、築造時期は五世紀前半と推定。前方部から後円部まで歩き、その巨大さを実感した。
続いて誉田八幡宮を訪れた。宮司より境内の案内を受けたのち宝物庫に入れて頂き、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から発掘された国宝の2具の金銅透彫鞍金具(竜の文様の透彫りは4世紀頃から盛んになった朝鮮との交流によって進んだ文物や技術が移入されたという背景
を物語る)等様々な貴重な資料を見せて頂いた。
古市古墳群は2019年に百舌鳥古墳群と共に世界遺産に認定された。そのこと自体は人々の関心を深める契機としていいことかも知れないが、自由に立ち入れない古墳が殆どで
ある現状が改善されないのであれば、その認定に意義があったのか疑問である。ましてや天皇陵及びそれに準ずる古墳は宮内庁管理の下、研究者ですら立ち入って調査することが殆どできない状態である。宮内庁の天皇陵治定が誤っていることがあったとしても、研究者さらには一般人にも開放して、歴史の真実により迫ることが国民にとっての利益であり、研究の進展ひいては文化
の発展にも寄与するのではないだろうか。
良心的兵役拒否への道
ブライアンさんは米国ネブラスカ州のオマハ市の出身である。アメリカの真ん中、トウモロコシ畑が広がる地域だ。ベトナム戦争以前は徴兵制があった。事前に入隊希望を問われた時、自分は敵を殺すことも、殺されることもいやだった。マタイ伝福音書にも「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とあることから徴兵拒否をした。そのために、2年間は何か国のために尽くさなければならない。
大学卒業時、宣教師になれば日本に行って国際親善に役立てると考え1961年にキリスト教宣教師として来日、青山学院大学で3年間英語を教えた。宣教師なのでキリスト教の布教もしなければならなかった。
鈴木大拙と禅との出会いと失望
そのためにまず、日本人はどのような信仰を持っているのかを知る必要があった。かつて感銘を受けた鈴木大拙の『禅と日本文化』に、「仏教は慈悲の宗教で、一度として戦争に加担したことはない」と書いてあった。キリスト教は、そうではなかった。仏教は本当に平和的な宗教なのか?と半信半疑で、休みを利用しては永平寺で在家として参禅した。その後出家して、曹洞宗の僧となった。花園大学の市川白弦(学僧・臨済宗)の『禅と戦争責任』を読み、仏教は平和に徹する宗教ではなかったと知った。鈴木自身が、1904年の『仏教の戦争観』において、「必要なときはいつでも死すべき体を捨てよう。死者の上に仏法の旗を」と書いていた。更に「僧侶は一粒の米も生産できぬが、国民の精神力錬成には役立てる」という(戦意高揚をうながす)鈴木の言葉に失望した。曹洞宗、浄土真宗など他の宗派も同じ口調で日本人の戦意を高めようとしていた。
軍による禅の利用
杉本五郎中佐は在家の禅修行者で、自分の禅は「軍人禅」であり、君臣一体の精神で、「私」をなくし「無」にすることを主張した。無我を是とする禅そのものが皇軍の真の精神となるとした。軍は禅を利用し、禅の方もそれを良しとし協力したのである。キリスト教を捨てて曹洞宗の僧侶となってから、このような発言に出会いショッ
クだった。また探そうとしたが平和に徹した世界的宗教はなかった。無神論になろうかとも悩んだが、宗教の教理ではなく何かに根源的なものがあるのではないかと宗教の研究をはじめた。
アニミズムと宗教の起源−宗教をなぜ人間は必要としてきたか?
ヒントは日本の神道にあった。神道の根源はアニミズム(日本だけではない)それは自然崇拝ではなく、あらゆる対象に精霊の存在を認める考え方である。物理的世界の裏に精神界があり、いろいろな神々がいる。アマテラスは太陽の神、スサノオは雨の神・・・。京都の伏見稲荷、ローマの農耕神サートウルヌス、エジプトの太陽神ラーなど世界中に普遍的に存在する。宗教はいつから、なぜ生まれてきたのか?
ホモサピエンスと呼ばれる現生人類の歴史は約30万年前にさかのぼる。現在ある宗教は1万年ぐらいの歴史しかない。それ以前のアニミズムの歴史を通じて人類の精神史を知ることができる。
人類の祖先は部族で動き、狩猟を行い道具を作った。人類は、生き残るためにがんばり、自然界を自分たちに有利なように利用するために神を作った。そこに宗教が生まれた。雨を降らせるために雨の神をつくり、神に性別をもうけた。性別がないと頼み事ができない。
動物の狩りをしていた人類は、部族どうしが対立すると相手(敵)を退けるか殺すか、自分たちが生き残るため自分の神々を動員して戦った。これが宗教と戦争の始まりではないか。アメリカでは戦争をする際に、「for God and Country」と言った。十字軍は「神の思し召し」と叫んで戦った。それは神のための戦争ではなく、神を利用して戦う。正義は自分たちの方にあり相手には無い。それ故、相手を殺せる。これが最初の帝国主義戦争だった。自分たちの利益のために宗教、神を利用して戦った。(日本では戦争で)敵を「鬼畜米英」と思い込むことによって人を殺すことができた。宗教は、その「正義感」の意識を提供した。 アニミズムの特徴は、部族のための宗教で、個人のための宗教ではない。スサノオが雨を降らせるのは部族全体のためであった。正しい儀式をやらないと神が喜ばないので(願いを聞いてくれない)、儀式を導く人:シャーマンが登場した。代表的なシャーマンが卑弥呼であった。女性である卑弥呼は、神のお告げを知り、部族の行動を決定した。まつりごとと政治は一体であった。
神社の祝詞の底にはアニミズムの世界、神話の世界がある。アメリカ人こそ、アメリカ原住民の神話の世界を知るべきである。神話の世界は教義でない。神道にも教義がなく、単に穢れを祓うというようなことを目的としている。
カール・ヤスパースと「Axial Period」
ドイツの哲学者カール・ヤスパースは1930年代に、「宗教における大変革の時代
Axial Period」という考え方を唱えた。BC800〜200年のころ、世界中で先駆者的な人々の間に、同時的な意識変革が生まれた。中国で孔子や老子など(諸子百家)が、インドでブッダ、マハヴィーラ(ジャイナ教)が、中東でエレミヤなどが、ギリシャではホメロスなどが登場した。これらの意識変革の特徴は、@宗教は部族のためではなく、個人のためでもある。A自然界の摂理の探求。B道徳は部族のためではなく、普遍的な規則である。
部族の時代は、盗みは部族内でのタブーだったが、この時代から盗みは全ての人から盗んではいけないことになった。
宗教とテロ・戦争
問題点として、我々の国家が危機に直面すると部族の時代にもどるということだ。核兵器の登場は、全人類を殺すことのできる時代に入ったということである。ナチスの空軍司令官でヒトラー側近だったゲーリングは、「市民は当然のことながら戦争を望んではいないが、戦争に巻き込むのは簡単だ。『攻撃されている。危険だ。』と言えば、国民は従う。」と語った。
宗教は戦争をもたらさないが、宗教は為政者により利用された。1932年、三井合名理事長の団 琢磨と前蔵相井上準之助が殺された血盟団事件は、テロに仏教が関わった事件だが、首謀者井上日召を法廷で弁護した臨済宗僧侶の山本玄峰は、「国家国体に害を為すものあるときはたとえ善人と呼ばるる者を殺すも罪なしと仏は云ふ」(ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争』)と証言した。
質疑・意見交換
●(川崎)アフリカで300万年前の地層からルーシー(猿人・アウストラロピテクス)の化石が出たが、30万年前の人類とのちがいは?「ミトコンドリアDNA」が女性遺伝子のみを伝えることと、シャーマンが女性であることとの関係は?また、アダムとイブはどちらが先にできたのか?●(谷)ルドルフ・オットーの「ヌミノーゼ」概念が宗教の根源と聞いたことがあるが、「Axial
Period」との関係は?●(林)部族の時代でいわれる遊牧民とは、農耕成立以前の狩猟採集時代の人類を指しているのか?そうであるなら、日本の縄文時代は狩猟採集の生活を主として、一部原始的農耕があったが、日本考古学の有力な説として、戦争がほぼなかったとされている。石の鏃は、弥生時代のものが人を殺せるのに十分大きいのに対して、縄文のものは小さく中型以下の動物の狩猟に向く。戦死者の遺骨の発見される割合が少ないことも傍証としてあげられる。このことについてどう考えるのか?◎(答え)原始の時代で、相手を殺すことが戦争の全てではない。相手にふれることも、衝突のうち。生き残ること
が最大の目標。部族にとっての邪魔者の存在もある。アメリカ原住民の言葉に、自分の名前を人間と表現し、他の部族は人間ではないと表現する。●(香山)現代の世界で起こっている問題について、今後の方向性について聞きたい。◎(答え)部族対立のように自分たちの社会の立場に立つのか、人類全体の立場、相手の人間性(を尊重する)の立場に立つのか、問われている。国際連合の創立時は普遍的原理の理想があった。日本がアメリカの国家主義と緊密になるのか、アジアの世界と緊密になるのか(重要な選択だ)。日本は日露戦争以後アメリカと密約をして、日本は朝鮮を、アメリカはフィリピンを奪った。いわゆる「名誉白人」となって帝国主義同士で植民地の分取りあいをして、どれだけ代償を払ったのか。日露戦争以後アメリカと密約をして、日本は朝鮮を、アメリカはフィリピンを奪った。日本はどのように生き残るのか。白人と同盟するのか、アジアの立場に立つのか。国連の安全保障理事会常任理事会の拒否権をなくして五大国の支配をなくすことが必要だ。普遍的意識の上で、国連の改革が必要。常備の国連軍を備えることが必要だ。日本は核兵器禁止条約に参加すべきで、アメリカ軍が在日米軍基地に核兵器を置かないようにすべきだ。●(村木)宗教を信仰している。教団の指導者は戦争責任を認めようとしない。どこに希望を見つけていきていけばいいのか?ゲーリングの話は重要だ。もし日本が攻められたらどうする?と聞く人がいるが、武器をもって生存を願うことはまちがいだ。◎(答え)宗教には光と影の部分がある。影を認め、自分の宗教にとって、何が光かを知り、それを生かしていただきたい。●(城)ホモサピエンスは共感する能力を獲得したというが、それとアニミズムの発生との関係は?◎母性文明を柱にしていれば、戦争を繰り返し起こさなかった。平和であるために、女性の意志を尊重することが大事である。現代の卑弥呼、出でよと言いたい。●(松浦)戦前、国防婦人会に1000万人の女性が組織され、その発祥の地が大阪であったことを調査した。
(紙面の都合で、発言者の意見全てを掲載できなかったことをお詫び申し上げます。)
「英霊」とは
横山さんは、これまでの研究調査内容、大阪民衆史研究などに書きためたことなどを2冊の本、『「英霊」の行方』、『銃後の戦後』にまとめて出版した。出版後、偶然同じようなタイトルで『英霊の行方−国の行く末』という本が、靖国奉賛会から出版された。内容は自分とは違う視点で戦死者の顕彰と追憶をしている。靖国神社は、氏子がいないので財政的にはきびしい。自衛隊員を組織的に参拝させたり、天皇の写真を飾って、販売したりしている。この本の著者は、そんな神社の態度を批判して いて、戦死者の慰霊を真心から考えている。靖国をどう考えるのかは大きな問題だ。「英霊」とは幕末に藤田東湖も使用した言葉で「美しい霊魂」を意味し、戦死者を讃える言葉で日露戦争あたりから使用された。横山さんは、はたしてそうなのか実態にそくして考えてみたいと語る。
真田山陸軍墓地
真田山陸軍墓地(*大阪市天王寺区玉造本町)には約6000の墓碑と約8000の遺骨を納める納骨堂がある。大村益次郎は大阪から日本陸軍をつくる構想を持っていたが、1871年の廃藩置県により中央集権制のもとで東京に中央軍ができた。真田山は中央軍の墓地から一地方墓地となった。
すべてが戦死者とは限らない。病死者や事故死者も埋葬されている。士官の墓碑の高さは下士官のものよりわずかに高い。兵士の墓碑は同じ規格だが、将校は自費で別格の墓碑がつくれる。一人々の経歴を調べた。徴兵に際して抵抗し、暴れて営倉に入れられた末に病死した人、自殺した人など兵役を強制されて不本意な死を遂げた人たちもいる。これらの人たちもまとめて埋葬されたので、みんなまとめて「英霊」ということは実態にあわない。そのことを『英霊の行方』で明らかにしようとした。
「生兵」の存在
新兵の訓練期間の頃を「生兵」と呼び、明治10年頃まで存在した。6ケ月間、階級も給与もなく、ただ働きで苦役に等しい。当時兵士の出身の大部分が農民であり、徴兵時に靴を支給されるが、はき慣れていないので困った。制服も洋服なので慣れなかった。ラッパで時間が知らされること、一糸乱れず行動することなど、慣れない生活にストレスがたまり適応できない若者がたくさんいた。結果、病気となる者が多く
出て記録に残っている。「生兵」と墓碑にある人は大阪以外の人がほとんどであった。
大阪の人は死んだらすぐ引き取られたが、地方の人は家族が遺体を引き取りに来るまでに、火葬され埋葬されていたので、「生兵」の墓が多くあった。伝染病や訓練中(水泳中の事故など)に死ぬ不慮の死もあった。
一方で、戦後につくられた169基の墓がある。野田村(現・堺市北野田)の墓で、村の戦死者の6〜7割の戦死者を陸軍墓地と同じ規格でつくった。これは本来の英霊の祀り方の原則を示している。真田山には2つの異なる傾向の墓が併存している。
忠霊塔とは
忠霊塔は日本軍が背景となってつくられた遺骨を納める巨大なモニュメントである。内地と戦地に2種類つくられた。日本軍が支配領域を拡大した外地で亡くなった兵士の遺骨が納められたのが戦地の忠霊塔である。5ヶ所の巨大な忠霊塔の中で最大のものがハルピンの100m級の塔である。その他は30〜50mほどである。敗戦時に、ほとんど打ち壊された。インドネシアやフィリピンにも計画されていた。忠霊塔とは一体何であったのか?作った側は、日本の大東亜共栄圏構想の心髄がこもっているとした。中国への侵略の疑問や批判を言うものに対しては、「中国に眠る英霊に顔向けができるのか」という言い方で批判を封殺した。戦前の修学旅行に参加した学生の感想には、「忠霊塔を見て感動」などが多く見られる。
1934年のガダルカナルの戦い以後、戦死者が増え出してから遺骨が還ってこなくなり、「遺骨は無くても英霊は還る」という陸軍省の規定ができ、忠霊塔の実態も変化した。戦死者の妻たちは、中身の無い骨箱を受け取り、靖国神社に(戦死者の魂だけが還るという)心のやわらぎを求める流れとなっていった。敗戦間際、軍は忠霊塔の遺骨について、現地で適宜処理すべしという指示を出した。満州ではソ連軍が砲撃の対象にした。中国人は遺骨をふみつけて破壊した。アジア太平洋戦争で亡くなった戦死者の半分の遺骨がもどっていない。
今後の課題
ソ連軍が進撃してきたとき、張家口にいた2〜3000人の日本軍部隊が1945年8月22日まで徹底抗戦した。ほかの満州にいた日本軍が日本人居留民をほったらかして逃げたのとは大きな違いだった。この間に、多くの日本人居留民は脱出することができた。その中には、西北研究所にいた今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助などの後に重要な研究者となる人々もいた。横山さんは、調査のため張家口まで行ったが、モンゴル草原の始まる張北まで行けなかった。ソ連軍をなぜ止められたのか、侵入経路の道や長城の境界に応急の障害物の工事をしたはずで、その工事に中国人やモンゴル人を働かせ、終了後に口封じのために殺害したのではないか?日本軍の徹底抗戦と居留民の脱出が美談として伝えられる中で、そのような事実があったのではないかという疑
いがあり、横山さんはそのことの調査ができなかったことを心残りとしている。
質疑・応答
●遺骨が大量にもどった時に各地に忠霊塔をつくる構想があった。●関大では校内の忠霊塔の遺骨を遺族に返したが、その痕跡を残さないようにした。●私有地の忠魂碑に対してGHQはどのように対応したのか?GHQは遺骨を祀っている場合は宗教的意味を認めた。各地域により対応が異なった。●信太山の忠霊塔はどうか?信太山は一市一町村のものとしての位置づけがされた。遺骨があった。●遺骨が返されないことを国民が受け入れた背景には、日本人の死生観、霊魂の観念があったのではないか。●戦死者の遺体を徹底的に本国に返還したアメリカの社会には人間の尊厳、人権を尊重する民主主義の感覚があり、日本の社会には人権、民主主義の感覚が弱かったことが遺骨が返されない問題の背景にあると思う。 (*紙面の都合ですべての発言を掲載できなかったことをお詫び申し上げます。)
若者に伝える戦時下の記憶
大阪府泉南郡岬町は大阪の最南端の町である。大阪湾に面して巨大な前方後円墳もある歴史地域である。戦時中そこには、川崎重工業泉州工場(現・新日本工機)があり、海防艦などの兵器がつくられていた。工場には強制連行などで半島から連れてこられた朝鮮人労働者と勤労動員で働かされる中学生たちがいた。1945年の敗戦間際、軍需工場のあるこの地域には連合軍の空爆が次第に激しくなっていた。
中村さんは、岬町で「地球塾」という塾を経営しているが、「ネイチャートレイル」という中学生を対象とした野外フィー
ルドワークの学習を行っている。岬中学校と深日地区福祉委員会の共催で、平和現地学習を行った。学習テーマは、@勤労動員による二人の死、A軍需工場ではじまった数学の授業、B空爆と8月15日の3つであった。
1,勤労動員による二人の死
深日地区の旧制中学生が、1944年7月15日から川崎重工業泉州工場に勤労動員された。中には、学力優秀で当時難関の海軍兵学校や陸軍兵学校に学校を代表して体験入学するような学生もいた。岸和田中学校生で「正ちゃん」と呼ばれた学生は、そのような優秀な学生の一人だったが鋲打ちのような火花の散る危険で重労働の作業に従事するうちに過労で熱中症となり死亡するということが起こった。
もう一人、同じ岸和田中学校生で「高谷」という学生は師範学校に入学が決まっていたにもかかわらず、6月に延長された勤労動員に従事させられた。彼は、工場内の電線がむき出しになった床を歩いていて感電し亡くなった。当時岸和田中学校の山下教務主任(のちに岸和田高校校長となる)は、二人の死を殉死あつかいすることを拒否、自己責任の死とされ見舞金も出なかった。戦後、名誉回復の機会もあったが山下校長は認めなかった。しかし、中村さんの娘さんが1999年に岸和田高校に入学した時、担任が横山篤夫先生だった(本日の例会に出席)。娘さんの事件に関するレポートを見た横山先生のもとで岸和田高校100年史に二人の死が書き留められ、公式記録となった。さらに府教委をつうじて大阪城内にある教育塔に二人は合葬された。
2,軍需工場ではじまった数学の授業
当時、川崎重工業泉州工場には多数の朝鮮人労働者と岸和田中学校から勤労動員さ
れた旧制岸和田中学校生が働いていた(*朝鮮人の正確な数はわからない。数百から三〇〇〇名まで諸説ある。強制連行、国内での徴用などさまざまな経路で労働に従事させられたものと考えられる)。劇団民藝の俳優田口精一さんは、父親が副工場長で、自身は岸和田中学校生として勤労動員で働いていた。
1945年6月頃から、物資が滞るようになり兵器生産の部品が少なくなってきて、工場の稼働時間が減りヒマをもてあますようになってきたころ、金さんという30歳くらいの朝鮮人労務者を引率監督していた人物が、中学生たちに「君たち、本当は中学で勉強していなくてはならないのにこんな所でもったいないね。進学を考えているんだろう。僕が数学を教えてあげるよ」と声をかけてきた。彼は、国立京城帝大の卒業生だった。副工場長の父も賛成、ひそかに5名ほどのグループによる授業が始まった。教室は製図室で外からは見えない。机の真ん中に紙をおいて金さんは皆に幾何学を教えた。支配されている朝鮮人が支配者である日本人のエリート予備軍の若者に戦時下の工場内で密かに高等数学を教えるという当時あり得ないことが起こったのだ。
この話は、中村さんが田口さんに直接手紙を書き、田口さんから11枚の便箋に達筆の返事が届いた。その手紙とのちに中村さんが東京まで田口さんを訪ねて聞き取りをした内容をもとにしている。
中村さんがぜひ聞きたかったことがあった。金さんが、工場内で朝鮮人同士のケンカを止めずに黙って見ていたので、田口さんが「なぜ止めないの」と尋ねたとき、金さんが「彼らはあのようにして勉強している」と答えたというのだ。このとき、田口さんは金さんを「すごい人だ」と思ったという。中村さんは田口さんに、金さんの言葉の真意となぜ金さんが中学生に数学を教えたのかについて尋ねたかった。田口さんは東京国分寺の喫茶店「田園」で、俳優の声量ある大きな声で語ってくれた。
田口さんは、金さんの、差別されている同族の人間が差別する側の日本人に「彼らは勉強している」と言った言葉には、彼らへの思いやりがこめられているという。
「けんかを中途で止めるよりも行き着くところまで行って、すっきりして日本での生き方、悔しさを乗り越える方法を体で学んだ方がいい」というふうに金さんは考えたのではないかと田口さんはのちに推測している。また、田口さんが「なぜけんかを止めない」と聞いた背景には、田口さんの母親が日頃、「朝鮮人をいじめてはいけない」とよく言っていたことがある。田口さんの兄がロサンゼルスでクリーニング店を経営していて、田口さんも英語を勉強したいと思い、渋谷の語学学校を見学しに行こうとしたことがあった。母親は、そのとき上京することに反対したという。それは、讃岐弁(香川県)をしゃべっているので朝鮮人とまちがわれることを恐れたためという。
それは、関東大震災時に朝鮮人が虐殺された事件に遭遇した母の若いときの体験にもとづいている。そして、金さんに、「けんかを止めろ」とつめよる日本人中学生に人間的な心を認めた金さんは、この子どもたちに数学を教えてやろうという気になったのではないか。
3,空爆と8月15日
1945年7月25日から米第38機動部隊と英第37機動部隊の艦載機が岬町を攻撃、28名が亡くなった(左写真)。28日は深日が主に攻撃され、2人が亡くなり、一人は朝鮮人で千歳橋で亡くなった。もはやB29を迎撃する日本の戦闘機は無く、大阪市内とちがって大丈夫と思っていた多奈川が戦場となった。
田口さんは、爆撃と機銃掃射の中 を必死で逃げて、社宅にたどりつく と、庭で息子の顔を見て歓喜している母と対面した。
8月15日の天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送の後、海軍の特攻隊「海潮隊」の中尉が工場にやってきて、魚雷のカギを渡せと日本刀を抜いて迫った。副工場長の父は、「大事な命を無駄にすることはないでしょう」と言ってカギを渡さなかった。後で聞くと、その中尉は毛布や缶詰までを持ち出して逃げ出していたという。
質疑
○辻本 久さん
「阪南市在住だが、斉藤イサオという人に、工場で数学の授業を受けたと聞いたことがある。」
「阪南市の鳥取地区に紡績工場があったが、戦時中は朝鮮人の宿舎だった。多奈川の工場に南多奈川線(現在の南海電鉄多奈川線)で通っていた。多奈川の捕虜収容所の通訳(*高木ヨシイチ氏、留学して飛島組から川崎造船に入り通訳となった)が、戦後BC級戦犯裁判で有罪となり処刑された。」
○横山篤夫さん
「斉藤さんは知ってる。父親は陸軍中将で、軍事郵便の責任者だった。(勤労動員された中学生が2名)感電死した話を主に聞いていた。岸和田中学では勤労動員中の 事故と認めなかった。それは軍にとって不名誉であり自己責任とされた。同窓生は納得せず、山下校長(岸和田高校時代)に抗議した。そして、岸和田高校100年史の中に書かれることになり、公式の記録となったため、勤労動員中の事故と認められ、一人は厚生省から見舞金が出た。高谷さんは母子家庭で、母親も亡くなったので申請ができず、教育塔に合葬した。勤労動員の補償金はずいぶんのちに、準軍属扱いとして出るようになった。厚生省経由で手続きをしたが、そのとき靖国神社に合祀するかどうかというアンケートがある。合祀が補償金の条件ではない。」
○香山 学さん
「退職後、(大学院に通って)平和学の研究をしている。朝鮮人の強制連行について広島の三菱重工では3000名が強制連行されて働かされていたことを聞いた。民藝が久保 栄原作の「火山灰地」を上演したとき、自分の会社(帝国繊維)に、舞台のセットに使用する麻の乾茎をトラック1台分用意してほしいとの要請があった。劇団から10万円輸送費が出てフランスから輸入、民藝に提供したことがある。そのときの公演(2005年)に田口さん(当時75歳)も出演していた。シナリオを読んだら、帝国製麻(当時の社名)は農民を痛めつけていたと書かれていた。」
○山内英正さん
「金さんが数学の授業で幾何学を教えたことの意味は重要。幾何学が数学の基本で高等数学理解の土台となるからだ。現在は、数学教育の中で幾何学を独自に教える機会が少なくなったが、幾何学を応用して数学を理解することができる。高校や大学にすすむ基礎ともなった。」 (*紙面の都合ですべての発言者の意見を掲載できず、お詫び申し上げます。)
日本の民衆の歴史を探究する道に
エイミーさんは、アメリカ・ワシントン州(西海岸)出身の日系4世でフリーランスのジャーナリストである。ヨーロッパ、オセアニア、日本に在住しながら現代史の様々な課題を調査、発表している。曾祖父は明治元年にアメリカに移民した百数十名(元年組という)の内の一人であった。そのため、アメリカにいながら日本人のメンタリテイを忘れてはいけないというきびしい家庭教育を受けてきた。日本語を忘れないために、家族との会話は日本語。さもなくば、ごはん(ライス)を食べさせてもらえないほどきびしかった。それは、お米がトラウマとなるほどのことだったという。
日本の民衆の世に知られなかった歴史を知りたいとの思いで日本に留学した。大学で「辞世の句」を研究テーマとするクラスがあった。それが日系人のわたくしの心に響いた。大逆事件の新宮グループの一人、成石平四郎の辞世の句が琴線にふれた。やがて彼の孫にあたる当時大阪府立高校教諭の岡 功さんと出会い、聞き取りを開始するまでになった。
天理教との出会い
アメリカに移民した日本人は宗教を日々の生活の縁(よすが)とする人々が多かった。浄土真宗の信者が圧倒的に多かったが、まわりには天理教を信仰する人も多くいた。信者の友人の家に行くと、「早起き、正直、働き」のスローガンが紙に書いて貼ってあった。「世界一列みな兄弟」も印象深い言葉で、これらは教祖中山ミキの教えであった。エイミーさんの家はカトリックであったが、中山ミキの言葉は心に響き、エイミーさん自身、友人に対して「世界一列みな兄弟」と言うほどであった。
天理教の勉強をして、「あなたはお道の人(信者)ですか?」と聞かれ、「私ほど中山ミキの理解者はいない」と公言するほどだった。
満州「天理村」を知る
来日してから、ある時体調を崩して偶然天理病院に入院することになった。そこで、満州の「天理村」を知ることになった。満州(中国東北部)に、「王道楽土」と称されたユートピアを建設するために長野県の天理教青年会を中心とする満蒙開拓団が送り込まれた。しかし、それは国家とのある共同プロジェクトをかかえた「国策」であり、人々は豊かな国をつくるものと信じて満州に渡ったのだ。一般の開拓団との違いとし
て、「布教のために」と話されていたと記憶しているのですが。
731部隊
1934年11月、ハルビン郊外の開拓地「天理村・生琉里(ふるさと)」に200名余りの開拓民が到着した。開拓団本来の目的であった農業では不作が続き、食糧難が起こっていた頃、男たちが破格の給料をもらえるというので皆が率先して行きたがる仕事があった。それが、ハルビンから24キロほど離れた「平房(ヘイホ−)」にある731部隊の建設現場だった。希望者が多く一ヶ月間隔で交替で男たちが送られ完成まで続いた。731部隊(防疫給水部)では、「マルタ」と呼ばれた捕虜や中国人たちを細菌戦などのために(ペスト菌に感染させたり、生体解剖したり、凍傷実験するような)残虐な人体実験をしていたが、天理村の人たちは真相を知ることなく、最初に彼らを収容する建物を建設していた。3階建て、7号棟と8号棟の建物を作る労働に従事した。「マルタ」の人々は、ハルビン各地、日本領事館の地下などに閉じ込められていたが、順番に7号棟と8号棟に移送されていた。建物の修理を担った人は(壁のすき間から)「収容された人が鎖でつながれていたこと、同じ場所をぐるぐる廻っていたこと、『ガチャン、ガチャン』という音が聞こえていた」などを見聞した。(天理村の)リーダーの人たちは「敵に打ち勝つための研究をしている。他人や家族に言ってはならない」と言われていた。賃金は高いので、天理村の人は競って、その仕事に応募していた。しかし、父親が一杯お土産を持ち帰ってくることもあったりして家族の中には次第に疑念が拡がっていった。戦況が次第に不利になってくる時期、天理村の作業も終わりに近づいていた。その頃、軍は天理村に志願兵を募るようになった。招集というかたちで青年が兵士として731部隊内で働くようになった。約20名ほどが応募したが、そのうちの2人が証言してくれた。また、表に出ることを躊躇した関係者の声も代弁してくれたことで、731部隊と天理教がむすびつくことがわかってきた。
天理教だけではない問題
今回の本(『満州天理村『生琉里』の記憶 天理教と七三一部隊』)の出版にあたっ
て、恩師の安丸良夫先生、色川大吉先生からは、「埋もれている資料があれば、思いきり書きなさい」と言われた。満州天理村の建設には、長野県の青年会が尽力し開拓団は早い内に実現した。長野県は満州に最多の開拓団を送っている。本の出版後、長野県の満蒙開拓記念館で講演した。参加者は天理教関係者が多かったが、話すたびに、
「そうじゃない」と首を横に振る人が多い。理解されていないと感じたが、自分は戦争は二度とあってはならないものとするために本を書いた。
ニュルンベルグ裁判で、ヒトラーの腹心ゲーリングが「戦争を起こすときは、国民に戦意を高めるために恐怖を植え付けること」が必要と語ったように、731部隊施設の建設協力は、「ソ連や中国の攻撃から日本を守るために必要な施設」という恐怖感と
戦意高揚の意識を軍が天理村の人々に植え付けた結果だ。当時は、国家に迎合するか、抗うかの選択しかなかった。これは天理教だけの問題ではない。国家は、謙虚な信者の心を利用して戦争と731部隊のような人を人とも思わない残虐行為を進めたのだ。
天理村の問題は、天理教信者の人々が願ったユートピアが戦争で崩れ去ったことが問題なのではない。被害者ということだけでなく「加害の歴史」としても認識する必要がある。宗教が加害の一端を担ったのであり、宗教のあり方として考えねばならない問題だ。どれだけの日本人が中国人を殺めたことか、それを無視するような日本人であってほしくない。
質疑応答
(質問1・男性)731部隊のある平房と天理村の距離は「隣接」とは言えないほど離れているのではないか?隊員名簿が発見されているが、名簿に証言者の名前が載っているのではないか?軍から給金をもらっていたら隊員ではないのか?
(答え)「隣接」の意味は、80数年前の中国東北部は何もない荒野で、平房は当時、天理村から遠くにかすかに見えるような土地。戦後、施設が破壊され周辺に小学校ができたり人々が住むようになり天理村の地域まで人の居住地域が拡がって荒野がなくなってきた。(約30キロほどの距離を)「隣接」と書いたのは、中国の土地のあり方として表現した。当時の関係者たちはそのようにしばしば表現していたことで
何度か生存中に尋ねていたが、「それはそれでいいです」と言われた。(苦難の道を通り抜け今がある元開拓団員たちの思いに寄り添った)
(答え)名簿は関東軍防疫給水部のセクションの731部隊隊員のみが記載され、証言をもらった人物は隊員ではないので名簿に記載されていない。軍属でもなかった。近場で招集された兵士で隊員でない人は、例えば食堂の係などがいる。少年隊といわれるのは、石井四郎(中将)が、優秀な少年をハンテイングして、昭和16年に一期生の少年隊を編成した。彼らは石井から大学でいう1〜4年の教育を受けた。整った名簿は一期生の分しかない。二期生〜四期生は、(速成で)すぐハルビンに送られ、8月15日前日、石井から帰国したら一切しゃべるなと言われた。一期生は「国の為にやった。まちがいはないという確信」を持つ人が多かったが、その後のメンバーに は(確信が)ぶれてくる人もいた。天理教本部や関係の学者に望みたいことは、満州でやってきたことを、しっかりとした姿勢で「あの時代はまちがっていた」と言ってほしい。事実に対し都合良く目を閉じないでほしい。(毒ガスで殺された)子どもを抱いているロシア人女性の瞳が、未だに自分にまとわりついて離れない。
(証言1・女性)1949年生まれです。父が明治〜大正の頃に中国に渡り、両親と満州で生活していた。母が牡丹江付近では赤痢などが流行しているので、そこにいたら死ぬからと、新京に送り返された。ハルビン附近でチフスなどの感染症が流行していたのは、「水が悪い」とだけ言われていたが、731部隊と関係があるのかという疑念があった。ハルビンの街から真っ白な雪の原を車で行った記憶がある。
(質問2・男性)天理教本部は、エイミーさんの本や報告に対し、何か見解を発表しているのか?
(答え)期待したが、コメント等はもらっていない。ネットではいろいろ言われているが、批判は当たっていない。本部は堂々と、公式の見解を出してほしい。もしまちがいがあれば認める。
(証言2・女性)1946年生まれです。父(1922年生)が731部隊の隊員(一兵卒)ではなかったかと思う。あまり戦中のことを話さなかったが、「ペスト菌のついたネズミが逃げたので、兵舎を一棟燃やした」という話を聞いたことがある。孫が学校で戦時中の話を親に聞いて来いという宿題をもらったとき、関東軍の防疫給水部(731部隊のこと)にいたと話した。平房に2〜3年いて、早く帰国している。衛生兵の腕章を持っていた。不思議なことに、父には戦友会がなかった。亡くなった時に母が遺品をすべて燃やした。聞き取りをもっと早くにしてもらっておけばよかったと思っている。調べたいが、もし名簿に載っていたらこわいとも思う。
(証言3・男性)1993年に平房に行った。(施設跡附近にできた)小学校を見た。当時、学校の隅に資料館があった。建設作業でかなり長期間働くので、トラックか何かで(作業従事者を)運んだのではないか?
(答え)(トラックの件は)いい指摘です。証言では、天理村からある地点で馬車からトラックに替わったという。ある女性の証言では、父が出稼ぎ(平房の建設作業のこと)に行くとき、途中まで馬車で、そこから先はトラックで行き、その先のことは
しゃべってはいけないと言われたと、語ったという。
(証言4・質問3・男性)祖母が天理教の初代会長をしていた。台湾に布教に行ったことがある。カバン持ちをしていた人が満州で「匪賊」の頭目をしていたという。「夕陽と拳銃」というテレビドラマの主人公のモデルといわれていた。台湾と大陸の間の
人の交流について聞きたい。
(質問4・男性)話を聞いていて、(ごく普通の人が残虐な行為に関わったことは)ハンナ・アーレントの言う「陳腐な悪」(凡庸な悪)ということを感じた。よく考えないと、(我々も)巻き込まれてしまうと思う。ほんみち教は抵抗していないのか?天理教と731部隊との最初のつながりはどこにあったのか?
(答え)ほんみち教は、国に迎合しなかった点はあるが、直接国に対する謀反はしていない。地方自治体レベルでは例えば京都市などでもいろいろあった。「エホバの証人」(ものみの塔)は問題はあるが、国家に対しては堂々と抗って一人も兵士を送ることがなかった。731部隊との接触については、『天理村十年史』(復刻版)に、関東軍に天理教から土地1000町歩分譲願いがあったこと、(他に実験に使うネズミの飼育が天理村の小学校に委託された。《『満州天理村「生琉里」の記録』)。また、天理教が「天理鉄道」を作り、それは平房に直結はしなかったが731部隊との利便性があった。
最後に−撤収の際にあったこと
ソ連の参戦後、平房からの撤収と731部隊の証拠隠滅がはかられた。天理村から招集された人物の証言では、
施設を破壊するために爆弾を持って「マルタ」の人たちの収容されていた建物内に入った。床は彼らの汚物や血で層をなしていた。その地獄のような光景を見ながら爆破作業を行ったという。
(*紙面の都合上、すべての参加者のご質問やご意見を掲載できなかったことをお詫び申し上げます。)