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参加費400円(資料代を含む) 会員外500円

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2024年5月例会

日  時  5月4日(土)  午後12半集合

場  所   近鉄南大阪線「土師ノ里駅」改札前

テーマ   見学会「世界遺産・古市古墳群を巡る」

案  内  平島将史さん

 日本の古墳時代中期を代表する古市古墳群と百舌鳥古墳群は、大阪平野の南部に東西約8キロを隔てて散開している。大王墓と思われる超巨大古墳を数基擁している古墳群と大和政権の関係をめぐっては、大和の勢力が河内に進出した、河内の新興勢力がこの地で新たな王権を築いた(河内王朝論)など見解がわかれている。今回見学する古市古墳群は藤井寺市・羽曳野市にまたがる羽曳野丘陵先端の台地を中心に4Km四方に130基以上の古墳が確認され、現存するものは45基とされる。 見学コースは、鍋塚古墳→仲津山古墳→中山塚古墳→赤面山古墳→大鳥塚古墳 →誉田丸山古墳→誉田山古墳→誉田八幡宮→古市駅(解散)

前の例会

 このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください

3月例会報告  横山篤夫さん(会員) 「著書『「英霊」の行方』と『銃後の戦後』を刊行して」

例会写真

「英霊」とは
 横山さんは、これまでの研究調査内容、大阪民衆史研究などに書きためたことなどを2冊の本、『「英霊」の行方』、『銃後の戦後』にまとめて出版した。出版後、偶然同じようなタイトルで『英霊の行方−国の行く末』という本が、靖国奉賛会から出版された。内容は自分とは違う視点で戦死者の顕彰と追憶をしている。靖国神社は、氏子がいないので財政的にはきびしい。自衛隊員を組織的に参拝させたり、天皇の写真を飾って、販売したりしている。この本の著者は、そんな神社の態度を批判して いて、戦死者の慰霊を真心から考えている。靖国をどう考えるのかは大きな問題だ。「英霊」とは幕末に藤田東湖も使用した言葉で「美しい霊魂」を意味し、戦死者を讃える言葉で日露戦争あたりから使用された。横山さんは、はたしてそうなのか実態にそくして考えてみたいと語る。

真田山陸軍墓地
 真田山陸軍墓地(*大阪市天王寺区玉造本町)には約6000の墓碑と約8000の遺骨を納める納骨堂がある。大村益次郎は大阪から日本陸軍をつくる構想を持っていたが、1871年の廃藩置県により中央集権制のもとで東京に中央軍ができた。真田山は中央軍の墓地から一地方墓地となった。
 すべてが戦死者とは限らない。病死者や事故死者も埋葬されている。士官の墓碑の高さは下士官のものよりわずかに高い。兵士の墓碑は同じ規格だが、将校は自費で別格の墓碑がつくれる。一人々の経歴を調べた。徴兵に際して抵抗し、暴れて営倉に入れられた末に病死した人、自殺した人など兵役を強制されて不本意な死を遂げた人たちもいる。これらの人たちもまとめて埋葬されたので、みんなまとめて「英霊」ということは実態にあわない。そのことを『英霊の行方』で明らかにしようとした。
「生兵」の存在
 新兵の訓練期間の頃を「生兵」と呼び、明治10年頃まで存在した。6ケ月間、階級も給与もなく、ただ働きで苦役に等しい。当時兵士の出身の大部分が農民であり、徴兵時に靴を支給されるが、はき慣れていないので困った。制服も洋服なので慣れなかった。ラッパで時間が知らされること、一糸乱れず行動することなど、慣れない生活にストレスがたまり適応できない若者がたくさんいた。結果、病気となる者が多く 出て記録に残っている。「生兵」と墓碑にある人は大阪以外の人がほとんどであった。 大阪の人は死んだらすぐ引き取られたが、地方の人は家族が遺体を引き取りに来るまでに、火葬され埋葬されていたので、「生兵」の墓が多くあった。伝染病や訓練中(水泳中の事故など)に死ぬ不慮の死もあった。
 一方で、戦後につくられた169基の墓がある。野田村(現・堺市北野田)の墓で、村の戦死者の6〜7割の戦死者を陸軍墓地と同じ規格でつくった。これは本来の英霊の祀り方の原則を示している。真田山には2つの異なる傾向の墓が併存している。
忠霊塔とは
 忠霊塔は日本軍が背景となってつくられた遺骨を納める巨大なモニュメントである。内地と戦地に2種類つくられた。日本軍が支配領域を拡大した外地で亡くなった兵士の遺骨が納められたのが戦地の忠霊塔である。5ヶ所の巨大な忠霊塔の中で最大のものがハルピンの100m級の塔である。その他は30〜50mほどである。敗戦時に、ほとんど打ち壊された。インドネシアやフィリピンにも計画されていた。忠霊塔とは一体何であったのか?作った側は、日本の大東亜共栄圏構想の心髄がこもっているとした。中国への侵略の疑問や批判を言うものに対しては、「中国に眠る英霊に顔向けができるのか」という言い方で批判を封殺した。戦前の修学旅行に参加した学生の感想には、「忠霊塔を見て感動」などが多く見られる。
 1934年のガダルカナルの戦い以後、戦死者が増え出してから遺骨が還ってこなくなり、「遺骨は無くても英霊は還る」という陸軍省の規定ができ、忠霊塔の実態も変化した。戦死者の妻たちは、中身の無い骨箱を受け取り、靖国神社に(戦死者の魂だけが還るという)心のやわらぎを求める流れとなっていった。敗戦間際、軍は忠霊塔の遺骨について、現地で適宜処理すべしという指示を出した。満州ではソ連軍が砲撃の対象にした。中国人は遺骨をふみつけて破壊した。アジア太平洋戦争で亡くなった戦死者の半分の遺骨がもどっていない。

今後の課題
 ソ連軍が進撃してきたとき、張家口にいた2〜3000人の日本軍部隊が1945年8月22日まで徹底抗戦した。ほかの満州にいた日本軍が日本人居留民をほったらかして逃げたのとは大きな違いだった。この間に、多くの日本人居留民は脱出することができた。その中には、西北研究所にいた今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助などの後に重要な研究者となる人々もいた。横山さんは、調査のため張家口まで行ったが、モンゴル草原の始まる張北まで行けなかった。ソ連軍をなぜ止められたのか、侵入経路の道や長城の境界に応急の障害物の工事をしたはずで、その工事に中国人やモンゴル人を働かせ、終了後に口封じのために殺害したのではないか?日本軍の徹底抗戦と居留民の脱出が美談として伝えられる中で、そのような事実があったのではないかという疑 いがあり、横山さんはそのことの調査ができなかったことを心残りとしている。

質疑・応答
 ●遺骨が大量にもどった時に各地に忠霊塔をつくる構想があった。●関大では校内の忠霊塔の遺骨を遺族に返したが、その痕跡を残さないようにした。●私有地の忠魂碑に対してGHQはどのように対応したのか?GHQは遺骨を祀っている場合は宗教的意味を認めた。各地域により対応が異なった。●信太山の忠霊塔はどうか?信太山は一市一町村のものとしての位置づけがされた。遺骨があった。●遺骨が返されないことを国民が受け入れた背景には、日本人の死生観、霊魂の観念があったのではないか。●戦死者の遺体を徹底的に本国に返還したアメリカの社会には人間の尊厳、人権を尊重する民主主義の感覚があり、日本の社会には人権、民主主義の感覚が弱かったことが遺骨が返されない問題の背景にあると思う。  (*紙面の都合ですべての発言を掲載できなかったことをお詫び申し上げます。)

2月例会報告  中村 勲さん(会員)  「川崎重工業泉州工場への空爆と密かに始まった数学の授業−田口精一さん(劇団民藝)の証言から」

例会写真

若者に伝える戦時下の記憶
 大阪府泉南郡岬町は大阪の最南端の町である。大阪湾に面して巨大な前方後円墳もある歴史地域である。戦時中そこには、川崎重工業泉州工場(現・新日本工機)があり、海防艦などの兵器がつくられていた。工場には強制連行などで半島から連れてこられた朝鮮人労働者と勤労動員で働かされる中学生たちがいた。1945年の敗戦間際、軍需工場のあるこの地域には連合軍の空爆が次第に激しくなっていた。
 中村さんは、岬町で「地球塾」という塾を経営しているが、「ネイチャートレイル」という中学生を対象とした野外フィー ルドワークの学習を行っている。岬中学校と深日地区福祉委員会の共催で、平和現地学習を行った。学習テーマは、@勤労動員による二人の死、A軍需工場ではじまった数学の授業、B空爆と8月15日の3つであった。

1,勤労動員による二人の死
 深日地区の旧制中学生が、1944年7月15日から川崎重工業泉州工場に勤労動員された。中には、学力優秀で当時難関の海軍兵学校や陸軍兵学校に学校を代表して体験入学するような学生もいた。岸和田中学校生で「正ちゃん」と呼ばれた学生は、そのような優秀な学生の一人だったが鋲打ちのような火花の散る危険で重労働の作業に従事するうちに過労で熱中症となり死亡するということが起こった。
 もう一人、同じ岸和田中学校生で「高谷」という学生は師範学校に入学が決まっていたにもかかわらず、6月に延長された勤労動員に従事させられた。彼は、工場内の電線がむき出しになった床を歩いていて感電し亡くなった。当時岸和田中学校の山下教務主任(のちに岸和田高校校長となる)は、二人の死を殉死あつかいすることを拒否、自己責任の死とされ見舞金も出なかった。戦後、名誉回復の機会もあったが山下校長は認めなかった。しかし、中村さんの娘さんが1999年に岸和田高校に入学した時、担任が横山篤夫先生だった(本日の例会に出席)。娘さんの事件に関するレポートを見た横山先生のもとで岸和田高校100年史に二人の死が書き留められ、公式記録となった。さらに府教委をつうじて大阪城内にある教育塔に二人は合葬された。

2,軍需工場ではじまった数学の授業
 当時、川崎重工業泉州工場には多数の朝鮮人労働者と岸和田中学校から勤労動員さ れた旧制岸和田中学校生が働いていた(*朝鮮人の正確な数はわからない。数百から三〇〇〇名まで諸説ある。強制連行、国内での徴用などさまざまな経路で労働に従事させられたものと考えられる)。劇団民藝の俳優田口精一さんは、父親が副工場長で、自身は岸和田中学校生として勤労動員で働いていた。
 1945年6月頃から、物資が滞るようになり兵器生産の部品が少なくなってきて、工場の稼働時間が減りヒマをもてあますようになってきたころ、金さんという30歳くらいの朝鮮人労務者を引率監督していた人物が、中学生たちに「君たち、本当は中学で勉強していなくてはならないのにこんな所でもったいないね。進学を考えているんだろう。僕が数学を教えてあげるよ」と声をかけてきた。彼は、国立京城帝大の卒業生だった。副工場長の父も賛成、ひそかに5名ほどのグループによる授業が始まった。教室は製図室で外からは見えない。机の真ん中に紙をおいて金さんは皆に幾何学を教えた。支配されている朝鮮人が支配者である日本人のエリート予備軍の若者に戦時下の工場内で密かに高等数学を教えるという当時あり得ないことが起こったのだ。
 この話は、中村さんが田口さんに直接手紙を書き、田口さんから11枚の便箋に達筆の返事が届いた。その手紙とのちに中村さんが東京まで田口さんを訪ねて聞き取りをした内容をもとにしている。
 中村さんがぜひ聞きたかったことがあった。金さんが、工場内で朝鮮人同士のケンカを止めずに黙って見ていたので、田口さんが「なぜ止めないの」と尋ねたとき、金さんが「彼らはあのようにして勉強している」と答えたというのだ。このとき、田口さんは金さんを「すごい人だ」と思ったという。中村さんは田口さんに、金さんの言葉の真意となぜ金さんが中学生に数学を教えたのかについて尋ねたかった。田口さんは東京国分寺の喫茶店「田園」で、俳優の声量ある大きな声で語ってくれた。
 田口さんは、金さんの、差別されている同族の人間が差別する側の日本人に「彼らは勉強している」と言った言葉には、彼らへの思いやりがこめられているという。 「けんかを中途で止めるよりも行き着くところまで行って、すっきりして日本での生き方、悔しさを乗り越える方法を体で学んだ方がいい」というふうに金さんは考えたのではないかと田口さんはのちに推測している。また、田口さんが「なぜけんかを止めない」と聞いた背景には、田口さんの母親が日頃、「朝鮮人をいじめてはいけない」とよく言っていたことがある。田口さんの兄がロサンゼルスでクリーニング店を経営していて、田口さんも英語を勉強したいと思い、渋谷の語学学校を見学しに行こうとしたことがあった。母親は、そのとき上京することに反対したという。それは、讃岐弁(香川県)をしゃべっているので朝鮮人とまちがわれることを恐れたためという。 それは、関東大震災時に朝鮮人が虐殺された事件に遭遇した母の若いときの体験にもとづいている。そして、金さんに、「けんかを止めろ」とつめよる日本人中学生に人間的な心を認めた金さんは、この子どもたちに数学を教えてやろうという気になったのではないか。

3,空爆と8月15日
 1945年7月25日から米第38機動部隊と英第37機動部隊の艦載機が岬町を攻撃、28名が亡くなった(左写真)。28日は深日が主に攻撃され、2人が亡くなり、一人は朝鮮人で千歳橋で亡くなった。もはやB29を迎撃する日本の戦闘機は無く、大阪市内とちがって大丈夫と思っていた多奈川が戦場となった。
   田口さんは、爆撃と機銃掃射の中 を必死で逃げて、社宅にたどりつく と、庭で息子の顔を見て歓喜している母と対面した。
 8月15日の天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送の後、海軍の特攻隊「海潮隊」の中尉が工場にやってきて、魚雷のカギを渡せと日本刀を抜いて迫った。副工場長の父は、「大事な命を無駄にすることはないでしょう」と言ってカギを渡さなかった。後で聞くと、その中尉は毛布や缶詰までを持ち出して逃げ出していたという。

質疑
○辻本 久さん
 「阪南市在住だが、斉藤イサオという人に、工場で数学の授業を受けたと聞いたことがある。」
 「阪南市の鳥取地区に紡績工場があったが、戦時中は朝鮮人の宿舎だった。多奈川の工場に南多奈川線(現在の南海電鉄多奈川線)で通っていた。多奈川の捕虜収容所の通訳(*高木ヨシイチ氏、留学して飛島組から川崎造船に入り通訳となった)が、戦後BC級戦犯裁判で有罪となり処刑された。」 
○横山篤夫さん
 「斉藤さんは知ってる。父親は陸軍中将で、軍事郵便の責任者だった。(勤労動員された中学生が2名)感電死した話を主に聞いていた。岸和田中学では勤労動員中の 事故と認めなかった。それは軍にとって不名誉であり自己責任とされた。同窓生は納得せず、山下校長(岸和田高校時代)に抗議した。そして、岸和田高校100年史の中に書かれることになり、公式の記録となったため、勤労動員中の事故と認められ、一人は厚生省から見舞金が出た。高谷さんは母子家庭で、母親も亡くなったので申請ができず、教育塔に合葬した。勤労動員の補償金はずいぶんのちに、準軍属扱いとして出るようになった。厚生省経由で手続きをしたが、そのとき靖国神社に合祀するかどうかというアンケートがある。合祀が補償金の条件ではない。」
○香山 学さん
 「退職後、(大学院に通って)平和学の研究をしている。朝鮮人の強制連行について広島の三菱重工では3000名が強制連行されて働かされていたことを聞いた。民藝が久保 栄原作の「火山灰地」を上演したとき、自分の会社(帝国繊維)に、舞台のセットに使用する麻の乾茎をトラック1台分用意してほしいとの要請があった。劇団から10万円輸送費が出てフランスから輸入、民藝に提供したことがある。そのときの公演(2005年)に田口さん(当時75歳)も出演していた。シナリオを読んだら、帝国製麻(当時の社名)は農民を痛めつけていたと書かれていた。」
○山内英正さん
 「金さんが数学の授業で幾何学を教えたことの意味は重要。幾何学が数学の基本で高等数学理解の土台となるからだ。現在は、数学教育の中で幾何学を独自に教える機会が少なくなったが、幾何学を応用して数学を理解することができる。高校や大学にすすむ基礎ともなった。」 (*紙面の都合ですべての発言者の意見を掲載できず、お詫び申し上げます。)

1月例会報告  エイミ−・ツジモトさん(国際ジャーナリスト・米国出身・日系4世) 「新興宗教にみる国家主義−自著『満州天理村「生琉里」の記憶−天理教と731部隊』から」

例会写真

日本の民衆の歴史を探究する道に
 エイミーさんは、アメリカ・ワシントン州(西海岸)出身の日系4世でフリーランスのジャーナリストである。ヨーロッパ、オセアニア、日本に在住しながら現代史の様々な課題を調査、発表している。曾祖父は明治元年にアメリカに移民した百数十名(元年組という)の内の一人であった。そのため、アメリカにいながら日本人のメンタリテイを忘れてはいけないというきびしい家庭教育を受けてきた。日本語を忘れないために、家族との会話は日本語。さもなくば、ごはん(ライス)を食べさせてもらえないほどきびしかった。それは、お米がトラウマとなるほどのことだったという。
 日本の民衆の世に知られなかった歴史を知りたいとの思いで日本に留学した。大学で「辞世の句」を研究テーマとするクラスがあった。それが日系人のわたくしの心に響いた。大逆事件の新宮グループの一人、成石平四郎の辞世の句が琴線にふれた。やがて彼の孫にあたる当時大阪府立高校教諭の岡 功さんと出会い、聞き取りを開始するまでになった。

天理教との出会い
 アメリカに移民した日本人は宗教を日々の生活の縁(よすが)とする人々が多かった。浄土真宗の信者が圧倒的に多かったが、まわりには天理教を信仰する人も多くいた。信者の友人の家に行くと、「早起き、正直、働き」のスローガンが紙に書いて貼ってあった。「世界一列みな兄弟」も印象深い言葉で、これらは教祖中山ミキの教えであった。エイミーさんの家はカトリックであったが、中山ミキの言葉は心に響き、エイミーさん自身、友人に対して「世界一列みな兄弟」と言うほどであった。
 天理教の勉強をして、「あなたはお道の人(信者)ですか?」と聞かれ、「私ほど中山ミキの理解者はいない」と公言するほどだった。

満州「天理村」を知る
 来日してから、ある時体調を崩して偶然天理病院に入院することになった。そこで、満州の「天理村」を知ることになった。満州(中国東北部)に、「王道楽土」と称されたユートピアを建設するために長野県の天理教青年会を中心とする満蒙開拓団が送り込まれた。しかし、それは国家とのある共同プロジェクトをかかえた「国策」であり、人々は豊かな国をつくるものと信じて満州に渡ったのだ。一般の開拓団との違いとし て、「布教のために」と話されていたと記憶しているのですが。

731部隊
 1934年11月、ハルビン郊外の開拓地「天理村・生琉里(ふるさと)」に200名余りの開拓民が到着した。開拓団本来の目的であった農業では不作が続き、食糧難が起こっていた頃、男たちが破格の給料をもらえるというので皆が率先して行きたがる仕事があった。それが、ハルビンから24キロほど離れた「平房(ヘイホ−)」にある731部隊の建設現場だった。希望者が多く一ヶ月間隔で交替で男たちが送られ完成まで続いた。731部隊(防疫給水部)では、「マルタ」と呼ばれた捕虜や中国人たちを細菌戦などのために(ペスト菌に感染させたり、生体解剖したり、凍傷実験するような)残虐な人体実験をしていたが、天理村の人たちは真相を知ることなく、最初に彼らを収容する建物を建設していた。3階建て、7号棟と8号棟の建物を作る労働に従事した。「マルタ」の人々は、ハルビン各地、日本領事館の地下などに閉じ込められていたが、順番に7号棟と8号棟に移送されていた。建物の修理を担った人は(壁のすき間から)「収容された人が鎖でつながれていたこと、同じ場所をぐるぐる廻っていたこと、『ガチャン、ガチャン』という音が聞こえていた」などを見聞した。(天理村の)リーダーの人たちは「敵に打ち勝つための研究をしている。他人や家族に言ってはならない」と言われていた。賃金は高いので、天理村の人は競って、その仕事に応募していた。しかし、父親が一杯お土産を持ち帰ってくることもあったりして家族の中には次第に疑念が拡がっていった。戦況が次第に不利になってくる時期、天理村の作業も終わりに近づいていた。その頃、軍は天理村に志願兵を募るようになった。招集というかたちで青年が兵士として731部隊内で働くようになった。約20名ほどが応募したが、そのうちの2人が証言してくれた。また、表に出ることを躊躇した関係者の声も代弁してくれたことで、731部隊と天理教がむすびつくことがわかってきた。

天理教だけではない問題
 今回の本(『満州天理村『生琉里』の記憶 天理教と七三一部隊』)の出版にあたっ て、恩師の安丸良夫先生、色川大吉先生からは、「埋もれている資料があれば、思いきり書きなさい」と言われた。満州天理村の建設には、長野県の青年会が尽力し開拓団は早い内に実現した。長野県は満州に最多の開拓団を送っている。本の出版後、長野県の満蒙開拓記念館で講演した。参加者は天理教関係者が多かったが、話すたびに、 「そうじゃない」と首を横に振る人が多い。理解されていないと感じたが、自分は戦争は二度とあってはならないものとするために本を書いた。 ニュルンベルグ裁判で、ヒトラーの腹心ゲーリングが「戦争を起こすときは、国民に戦意を高めるために恐怖を植え付けること」が必要と語ったように、731部隊施設の建設協力は、「ソ連や中国の攻撃から日本を守るために必要な施設」という恐怖感と 戦意高揚の意識を軍が天理村の人々に植え付けた結果だ。当時は、国家に迎合するか、抗うかの選択しかなかった。これは天理教だけの問題ではない。国家は、謙虚な信者の心を利用して戦争と731部隊のような人を人とも思わない残虐行為を進めたのだ。  天理村の問題は、天理教信者の人々が願ったユートピアが戦争で崩れ去ったことが問題なのではない。被害者ということだけでなく「加害の歴史」としても認識する必要がある。宗教が加害の一端を担ったのであり、宗教のあり方として考えねばならない問題だ。どれだけの日本人が中国人を殺めたことか、それを無視するような日本人であってほしくない。

質疑応答
(質問1・男性)731部隊のある平房と天理村の距離は「隣接」とは言えないほど離れているのではないか?隊員名簿が発見されているが、名簿に証言者の名前が載っているのではないか?軍から給金をもらっていたら隊員ではないのか?
(答え)「隣接」の意味は、80数年前の中国東北部は何もない荒野で、平房は当時、天理村から遠くにかすかに見えるような土地。戦後、施設が破壊され周辺に小学校ができたり人々が住むようになり天理村の地域まで人の居住地域が拡がって荒野がなくなってきた。(約30キロほどの距離を)「隣接」と書いたのは、中国の土地のあり方として表現した。当時の関係者たちはそのようにしばしば表現していたことで 何度か生存中に尋ねていたが、「それはそれでいいです」と言われた。(苦難の道を通り抜け今がある元開拓団員たちの思いに寄り添った)
(答え)名簿は関東軍防疫給水部のセクションの731部隊隊員のみが記載され、証言をもらった人物は隊員ではないので名簿に記載されていない。軍属でもなかった。近場で招集された兵士で隊員でない人は、例えば食堂の係などがいる。少年隊といわれるのは、石井四郎(中将)が、優秀な少年をハンテイングして、昭和16年に一期生の少年隊を編成した。彼らは石井から大学でいう1〜4年の教育を受けた。整った名簿は一期生の分しかない。二期生〜四期生は、(速成で)すぐハルビンに送られ、8月15日前日、石井から帰国したら一切しゃべるなと言われた。一期生は「国の為にやった。まちがいはないという確信」を持つ人が多かったが、その後のメンバーに は(確信が)ぶれてくる人もいた。天理教本部や関係の学者に望みたいことは、満州でやってきたことを、しっかりとした姿勢で「あの時代はまちがっていた」と言ってほしい。事実に対し都合良く目を閉じないでほしい。(毒ガスで殺された)子どもを抱いているロシア人女性の瞳が、未だに自分にまとわりついて離れない。
(証言1・女性)1949年生まれです。父が明治〜大正の頃に中国に渡り、両親と満州で生活していた。母が牡丹江付近では赤痢などが流行しているので、そこにいたら死ぬからと、新京に送り返された。ハルビン附近でチフスなどの感染症が流行していたのは、「水が悪い」とだけ言われていたが、731部隊と関係があるのかという疑念があった。ハルビンの街から真っ白な雪の原を車で行った記憶がある。
(質問2・男性)天理教本部は、エイミーさんの本や報告に対し、何か見解を発表しているのか?
(答え)期待したが、コメント等はもらっていない。ネットではいろいろ言われているが、批判は当たっていない。本部は堂々と、公式の見解を出してほしい。もしまちがいがあれば認める。
(証言2・女性)1946年生まれです。父(1922年生)が731部隊の隊員(一兵卒)ではなかったかと思う。あまり戦中のことを話さなかったが、「ペスト菌のついたネズミが逃げたので、兵舎を一棟燃やした」という話を聞いたことがある。孫が学校で戦時中の話を親に聞いて来いという宿題をもらったとき、関東軍の防疫給水部(731部隊のこと)にいたと話した。平房に2〜3年いて、早く帰国している。衛生兵の腕章を持っていた。不思議なことに、父には戦友会がなかった。亡くなった時に母が遺品をすべて燃やした。聞き取りをもっと早くにしてもらっておけばよかったと思っている。調べたいが、もし名簿に載っていたらこわいとも思う。
(証言3・男性)1993年に平房に行った。(施設跡附近にできた)小学校を見た。当時、学校の隅に資料館があった。建設作業でかなり長期間働くので、トラックか何かで(作業従事者を)運んだのではないか?
(答え)(トラックの件は)いい指摘です。証言では、天理村からある地点で馬車からトラックに替わったという。ある女性の証言では、父が出稼ぎ(平房の建設作業のこと)に行くとき、途中まで馬車で、そこから先はトラックで行き、その先のことは しゃべってはいけないと言われたと、語ったという。
(証言4・質問3・男性)祖母が天理教の初代会長をしていた。台湾に布教に行ったことがある。カバン持ちをしていた人が満州で「匪賊」の頭目をしていたという。「夕陽と拳銃」というテレビドラマの主人公のモデルといわれていた。台湾と大陸の間の 人の交流について聞きたい。
(質問4・男性)話を聞いていて、(ごく普通の人が残虐な行為に関わったことは)ハンナ・アーレントの言う「陳腐な悪」(凡庸な悪)ということを感じた。よく考えないと、(我々も)巻き込まれてしまうと思う。ほんみち教は抵抗していないのか?天理教と731部隊との最初のつながりはどこにあったのか?
(答え)ほんみち教は、国に迎合しなかった点はあるが、直接国に対する謀反はしていない。地方自治体レベルでは例えば京都市などでもいろいろあった。「エホバの証人」(ものみの塔)は問題はあるが、国家に対しては堂々と抗って一人も兵士を送ることがなかった。731部隊との接触については、『天理村十年史』(復刻版)に、関東軍に天理教から土地1000町歩分譲願いがあったこと、(他に実験に使うネズミの飼育が天理村の小学校に委託された。《『満州天理村「生琉里」の記録』)。また、天理教が「天理鉄道」を作り、それは平房に直結はしなかったが731部隊との利便性があった。

最後に−撤収の際にあったこと
 ソ連の参戦後、平房からの撤収と731部隊の証拠隠滅がはかられた。天理村から招集された人物の証言では、 施設を破壊するために爆弾を持って「マルタ」の人たちの収容されていた建物内に入った。床は彼らの汚物や血で層をなしていた。その地獄のような光景を見ながら爆破作業を行ったという。 (*紙面の都合上、すべての参加者のご質問やご意見を掲載できなかったことをお詫び申し上げます。)

12月例会報告  田中正造没後110年・足尾銅山閉山50年記念大阪集会

例会写真

 田中正造没後110年・足尾銅山閉山50年記念大阪集会(同実行委員会主催、大阪民衆史研究会と「建国記念の日」反対大阪連絡会議が後援)が、12月2日にクレオ大阪中央で開かれました。オープニングとして、田中正造を描いた絵本『わたしは石のかけら もうひとつの田中正造物語』(越川栄子作、やまなかももこ絵、随想舎)の朗読が行われ、絵本を通して田中正造の人柄や歩みが共有されました。
 宇都宮大学で環境政治学を研究する橋若菜教授が、「足尾の光と影を語り継ぐ―いま何を継承するのか―」をテーマに講演しました。
 橋さんは、高校生の時に『地球環境報告』(石弘之、1988年)を読み、「軍備予算の一部でも環境に振り向けられたら」と思ったことから、環境問題は政治の問題だと思って環境政治学にすすみ、福島原発事故の避難者調査をきっかけに田中正造や足尾への関心を強めたと紹介。
 足尾は銅山の活況による受益があった一方、有害廃棄物や煙害の発生、外国人強制労働など受苦の歴史があることに触れ、「負の歴史に誠実になること、共感共苦(コンパッション)が非人間的な行為の再来を防ぐ能力につながっていく」とし、現代の環境政策について、「どこかに悲惨な環境状況を押しつけるのではなく、市民参加を極大化して民主的な決定をしていくことが重要だ」と話しました。
 田中正造の「人民を救う学問を見ず」という言葉を紹介し、自身が科学者として現場で何が起きているのかを知り、問題提起をしていきたいと締めくくりました。
 栃木県が「ジャズの町」をキャッチコピーにして市民レベルでジャズ文化を発信しているということで、Naoさん(ボーカル)と和泉みゆきさん(ピアノ)によるジャズライブが行われました(写真)。
 会場内で田中正造や足尾に関する歴史資料の展示が行われ、参加者からは、「近代化の負の側面を知り、胸が痛んだ。持続可能な発展を私も考えていきたい」「田中正造の闘争が多くの方に語り継がれてほしい」などの感想が寄せられました。  参加者は、講師や出演者を合わせて、54人でした。田中正造の養女ツルの孫にあたる大川正治さんからのメッセージが紹介され、ツルの曾孫にあたる大川久美子さんが来場されました。また、足尾を含む衆院栃木2区の福田昭夫議員(立憲民主)、衆院比例北関東ブロックの塩川鉄也議員(共産)、参院比例の岩渕友議員(共産)からメッセージがありました。

田中正造曾孫・大川正治さんからのメッセージ
 足尾から600キロ離れた大阪での「田中正造没後110年、足尾銅山閉山50周年」集会に参加された皆さん。こんにちは。私は田中正造の曾孫にあたる大川正治と申します。私の祖母は「田中正造」の養女ツルです。祖父は山田友次郎と言いますが、田中正造を支え行動を共にしていました。
 足尾鉱毒事件や田中正造は昨今忘れられつつありますが、田中正造が残した活動は今の時代に鋭い問題提起をしていると思います。日本を代表する思想家の一人であった鶴見俊輔氏は「自分と自分の生きている同時代に深く根ざす思想を求める時、われわれは、この百年の中から田中正造をあげることができる」と述べています。
 田中正造の次の言葉は現代にも生きていると思います。「真の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」「天の監督を仰がざれば凡人堕落、国民監督を怠れば治者盗をなす」。
 田中正造の関係者の一人としてこのイベントが行われることに大変嬉しく思っています。「新しい戦前」ともいわれる今の日本、地球的「気候危機」の時代の中で開かれる今日の「集会」の成功をお祈りいたします。 (文責・福田 耕《運営委員》)

11月例会報告 宋 新亜(ソウ シンア)さん(阪大大学院)「戦前大阪外語の中国語教育について」

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はじめに
 私の専門は中国語研究て゛はなくて、中国人日本留学生の文学、とくに大正時代の郭沫若なと゛旧制高校出身者の文学をやっている。しかし、2020 年に大阪大学総合学術博物館て゛開催された企画展「日本のまなざしに映った中国」をみて、大阪外語の中国語科生が同時代の中国をど う見ていたのか、外語の中国語教育はと゛ういうものて゛あったか興味をもった。さらに、 2021 年の阪大箕面キャンパス(旧大阪外大)の移転をきっかけに、古い資料を見る機会があった。こうした資料を紹介しながら、大阪外語学校の支那語部初代主任教授の井上翠を中心に展開された、戦前において国内て゛唯一といえる大阪外語の現代中国語教育の意義について論じたい。

大阪外語の中国研究
 井上翠は、戦後復刊された中国語研究会の機関誌『鵬翼』て゛「大東亜戦争は華語を軽視したより始まり、遂に敗戦の大苦〔杯〕を嘗めさせられて終わった」と述べた。井上の「華語=同時代の中国」という認識は、と゛のように戦前の中国語教育現場て゛機能したのて゛あろうか。
  まず、1934 年から竹内好を中心に活動をはじめた中国文学研究会のメンバーて゛、大阪外語と関係の深い倉石武四郎は、1941 年の同会機関誌『中国文学』て゛「本式に支那語らしい教育をするには、注音符号以外の方法は結局不利て゛ある」と訓読の形で中国語を教えることを批判した。

中国認識に対する二重構造
 一方て゛、津田左右吉が『支那思想と日本』(岩波書店、1938年)において「現代支那語を学ぶことは、日本人にとって何の教養にもならぬ」と述べたことに代表されるように、一般的に、当時の中国は文化的水準が低いと考えられていたのて゛ある。  このように近代中国語に対する軽視の一方、古典中国語に対する尊敬、儒教倫理、国家修養、臣道なと゛に対する尊敬がもとにある。また訓読法て゛現代中国語を学ぶということは、 音や形が中国語から離れて、日本語の音や形て゛中国語を学ぶというこ とて゛あり、現代中国語もある種の日本語になるということた゛。

支那及支那語』の発刊と大阪外語の中国語教育
 1936年に金子二カが大阪外語に赴任すると、伊地知善継と1939年2月から『支那及支那語』を発刊した。同誌の創刊の辞て゛は「使へる支那語とあるがままの支那追求。この一句こそが我等の態度の端的な表現て゛ある」と述べた。            伊地知は『大阪外大70年史』において、当時の中国語学が「明治以来の暗唱という伝統的方法て゛教えるという非実務的なものて゛あったこと」に気づいた金子が、中国語教育に中国現代文学を取り入れるということを試み、「魯迅や周作人をテキストとして中国語を習ったことは、今考えても、たいへん刺激的て゛あった。これは恐らく、日本て゛も最初のことて゛あり、しかもこの試みを危険視するむきも少なくなかったことを、私はずっとあとになって知ったのて゛ある。」と振り返っている。
 金子はまた、1942年発行の『支那及支那語』において、@「最初漢字を使はないて゛注音符号を用ひ若干の言葉が出来てから字を入れること」、A「音の最小単位を語音として字音としないこと」、B「四声その他声調の解釈は最初にしないこと」を、初級者教育の「一つの試み」として実践していることを述べている。

おわりに
  私たちは、大阪外大の先生方が何十年にもわたり現代中国語に科学的に向き合い、漢文訓読的な面や植民地的・実用的な面から現代中国語を解放した歴史を忘れてはならない。今後は、語学研究と語学教育の相互関係、中国語を日本語化しようとする欲望から解放、当時の時勢に対する一種の抵抗といった観点から、さらに研究を深めていきたい。

10月例会報告 平島将史さん(運営委員)泉大津高校考古資料室・池上曽根遺跡見学会 

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はじめに
 森浩一・石部正志両顧問の指導の下その黄金期を築き上げ、70年余りの伝統を持つ泉大津高校地歴部は、行政の遺跡調査・保存に携る職員が殆どいない時代に大学生と共に遺跡の発掘調査の担い手となり、日本の考古学の発展に少なからず寄与した。戦後も実際にあった古墳の盗掘を阻止すべく放課後には自転車でパトロールに回ったというエピソードもあり、そういった面からも遺跡の保存に寄与したと言える。そんな部員たちの業績の集大成である考古資料室。および、その活動のひとつの柱であった池上曽根遺跡。それらを実地に見学して、参加者の方々に直接感じていただけたらとの思いで、拙いご案内をさせていただいた。

1 泉大津高校考古資料室
 地歴部の生徒たちが発掘・収集した遺物の数は相当な数に上る。土器片を収容したコンテナだけでも優に600箱を超える。その中でも先ず注目されるのが「池上曽根遺跡」の遺物である。土器や飯蛸を捕える蛸壺、稲穂を穂首刈りするための石包丁等が展示されている。池上曽根遺跡は、1970年の大阪万博に合わせて国道26号線を新たに付け替える工事により破壊の危機に曝されたが、市民等を中心に遺跡存続の署名活動が展開され、遺構の上に盛土をしたうえで国道を敷設するという保存方法により破壊の危機を免れた。その署名活動を泉文連や労組と共に担ったのが当時の泉大津高校地歴部の顧問と部員たちであった。その後、後述する貴重な遺構・遺物群が新たに発掘されたことを考えれば、よくぞこの時遺跡保存運動に邁進してくれたものだと感慨も一入である。
 次に注目されるのが菩提池西遺跡の船形埴輪である。この遺跡は池上曽根遺跡と違って破壊されてしまい今は中学校となっている。その時は、顧問と部員が工事現場に赴き業者に遺跡調査を懇願したが、今と違って行政が地主・業者と協議のもと期間を定めて調査するという制度が確立されておらず、業者は工期の遅れが損益に直結するので一切の配慮は無い。そうした中でユンボのアームが頭に当たらないようハラハラしつつ埴輪片を採集し学校に持ち帰ったそうだ。その後、部員たちは接合作業に尽力したが、全体像が見えてこない。その時、顧問の石部教諭が船ではないかと提議 し、その方向で接合していると準構造船の埴輪が復元されたということである。他にも家形埴輪・さしば形埴輪等貴重な遺物が復元されたが、ここに身の危険を顧みずに歴史の再現を試みようとした部員たちの情熱が見て取れる。
 もう一つ注目されるのが信太千塚出土の遺物群である。ここは古墳時代後期の群集墳が89基確認されたが、その詳細な調査・報告を担ったのも泉大津高校地歴部である。その報告書は多くの研究者に活用されている。この古墳群のある所は明治以降陸軍の駐屯地であり戦後米軍が占領したのち現在は自衛隊の信太山駐屯地となっている。自衛隊が訓練地として塹壕を掘るなどしたため遺構はかなり改変されたが、宅地開発されていれば「調査保存」という名の遺跡破壊で写真と図面のみになっていたであろう。遺物としては多様な形態の須恵器、金銅製耳環、ガラス玉・トンボ玉・土玉、子ども用陶棺、小型のヒレ付き円筒埴輪等、多くのものが発掘され展示されている。

2 池上曽根遺跡公園
 本遺跡は弥生時代を通じて繁栄した環濠集落で、全盛期は弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)、面積は60ha以上(甲子園球場約16個分ほど)、集落の人口は500〜1000人程度と推測されている。全国的には吉野ヶ里遺跡が有名だが、それに匹敵すると言っても過言ではないくらいの規模と歴史的意義を有している。
 具体的な遺構としては、最大で幅7m・深さ5m程度あったとされる集落を囲う環濠、約135uの床面積を26本の柱で支えていた大型掘立柱建物、径2.3mのクスノキの一木を刳り貫いた井戸、石器ないしは金属器を製作していた作業小屋、多くの竪穴建物等が挙げられる。遺物としては、多くの石器・土器に加え、小型の銅鐸片や鋳型も出土している。石器の素材であるサヌカイトや蛸壺を意図的に集めて埋納していた例もあった。  正方位(建物の四面が東西南北の方角と一致)の大型建物や出土した中で日本最大の刳り貫き井戸、作業小屋や竪穴建物は公園内に復元されているが、ひとつ押さえておかねばならないことは建物がその通りではないということである。それらは研究者が他の遺跡の例や絵画土器等を参照して慎重に復元したものであるが、図面も写真も記録もない中で厳密に本来の形態では有り得ない。しかし、柱穴のみが並んでいても一般人にはイメージが湧かないので、復元は過去の歴史へのアプローチとしてはアリかとも思う。 参加者の方々も、弥生情報館の学芸員の方の丁寧な説明を聞きつつ、復元された遺構 を眺めながら、それぞれのイメージを抱かれ、弥生時代への思いを馳せられたことと思う。

9月例会報告 小林義孝さん(会員・摂河泉地域文化研究所)地域と人々の戦争−「戦争遺跡」の再検討その他−

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1 戦争とのかかわりはそれぞれの地域ごとに大きく異なっています。それを、戦争とは悲惨なものという一元的な発想で戦争を考える「悲惨な戦争」論では、近代における軍事の意味や戦争の実態と性格を把握することはできないと思います。本報告では地域という「場」における戦争、その地域に生きた人々の戦争という二つの視点で地域の戦争を考えました。前者は「戦争遺跡」という戦争の痕跡を、後者は地域に遺された戦没者の墓標の情報や地域で地域の者が編纂した戦争の記録を資料としました。どちらも地を這うように地域の戦争の調査をした先輩たちの業績を活用して、わがまち大東の戦争の姿を描きます。同じ手法で各地域の戦争の実態と性格、さらにはそれぞれの地域の個性的な歴史叙述を構築されることを願います。
 もうひとつこの地域の近代における位置が生み出したかもしれないひとつの可能性を指摘しました。
2 日本近代における軍隊の性格を「侵略」という言葉のみに収斂させることは難しいと考えます。明治国家の目標は「富国強兵」でありました。富国と強兵は相互に依存関係にあります。この関係を1930年代から「広義兵学、すなわち戦争経済、軍事技術、軍制などを包括する『軍事という一個の学的体系』の確立をめざし」たという小山弘健氏の軍事史研究に依拠して「戦争遺跡」を再検討しました。
3「戦争遺跡」概念は平和教育のなかで生まれたといわれ、その分類は1994年に伊藤厚史氏「負の文化財」という論文でなされ、それが定説化しています。しかし歴史の資料「War-Relaiated Sites」を「負」という価値を前提にするということはいささか疑問に感じます。
 本報告では「戦争遺跡」を軍事遺跡と戦争遺跡(War-Relaiated Sites)にわけて分類しました。「軍事遺跡」は「平時」の軍制・軍令の制度に関わるものであり、常備の軍事関係の遺跡と国土(本土)防衛にかかわるものに分けました。戦争遺跡(War-Relaiated Sites)は、国土(本土)における戦場や戦争被害のほか、植民地や侵略地においてのものも当然存在する。また内乱、クーデター、テロの場も対象とし。さらに戦争の加害者と被害者の両義性をもつ国民(民衆)の遺跡も射程にいれました(「軍事遺跡・戦争遺跡の分類〈稿〉」参照)。
4 この分類を用いて大東市域の戦争の実態をあきらかにしました。 大東市域のまちや村は、軍事鉄道の性格をもつ片町線(T-1C、分類表参照)が域内を走り、北隣する四條畷市域に「忠君愛国」の聖地である別格官幣社四條畷神社(T-1D)が所在するものの、近代を通じて軍事施設とは関わりのない地域でした。唯一の軍事施設は飯盛山頂の設けられた大阪市域の防空体制の一環として設けられた防空監視哨(T-2@)のみです。敗戦直前の時期には大阪市の防空のための防空空地帯(U-1C)に市域の西端部分が指定さ、1943年(昭和18)に松下飛行機と松下無線という軍需工場(U-1B)が建設されたため、一部空襲被害も受けたが限定的 でした(U-2A)。
 大阪市内からの疎開者や学童疎開(U-1D)の記憶は今も地域に残っています。
 以上のように基本的には「軍事遺跡」に分類されるものはほとんどなく、「戦争遺跡」にあたる軍需工場などとそれに向けての空襲の被害を限定的に受けた、これが大東市域における地域の戦争の実態でした。現在の大東市域は直接的な戦争の被害はなく、軍都大阪の背後を支える地域であったことが軍事・戦争遺跡の分布からも理解できます。
5 十五年戦争において合計730名の戦死者の数が『大東市史』にあげられています。
水永八十生氏は市域の墓地に残された戦没兵士の墓標を独力で悉皆的に調査を行い、298基の墓碑を確認されています。そこからは大東市域から動員された兵士の動向をうかがうことができます。
6『龍間戦争記』は1991年(平成3)、敗戦から46年目の年に大東市龍間に在住の樋口清春氏がまとめた村の人々の十五年戦争の記録です(樋口清春編『龍間戦争記』自刊、1991年)。
 龍間は飯盛山の西斜面の谷合に所在する小さい村です。1941年(昭和16)の龍間の村は戸数81戸、人口433人(男性226人、女性207人)である。農家が4分の3を占め、農業を主体としながらも、地域の特色をいかした伝統的な職業(狩猟、石工、製粉など)とともに大阪市内への勤め人もみられる。勤め先は大阪砲兵工廠が圧倒的に多いようである。
7『龍間戦争記』には「戦没者遺影と軍隊歴・戦死状況」「従軍者軍隊歴」「戦争時の区長・隣組組織」「村の産業」「戦争疎開受入状況」「戦争の思い出」などの項目で龍間の村人の十五年戦争における軍隊歴、村の状況、大阪市内からの疎開者の受入れ状況、そしてそれらの情報を包み込むように村人たちの「戦争の思い出」が記されています。ここには村人の戦地での状況と龍間の村人の戦時の生活が二重写しとなっています。
8 龍間の村から十五年戦争に出征した者は67名であり、そのうち戦死者は22名を数え、3人に1人が戦死しています。龍間から徴集された兵士は、兵58名、下士官14名、准士官1名、士官2名となる。龍間から戦場に赴いた村人は圧倒的に兵と下士官で占められていました。士官学校などを卒業した高級将校は、陸軍大佐である一人のみでした。 『龍間戦争記』に載せられた村から「出征」した兵士たちの戦地での戦いと村での戦争の時代に関する多様な情報は、多くのことを教えてくれます。多角的に分析し地域と地域の人々の戦争を描く、今後の課題の大きな課題です。
10 盾津飛行場を考えた「未完の構想」については 小林・太田理「「陸軍盾津飛行場」(大西進編著『日常と地域の戦争遺跡』、批評社、2022年)を参照いただきたい。
軍事遺跡・戦争遺跡の分類〈稿〉(項目のみ)
T.軍事遺跡 1. 国家の装置としての軍と関連施設の遺跡
@軍政・軍令関係、A編成された軍事組織、B軍需物資の生産、C軍事的インフラ、Dイデオロギー宣布装置、E追悼・慰霊の施設、F地域と軍隊
2. 国土(本土)防衛のための施設の遺跡
@軍事施設、A国民の対応
U.戦争遺跡(War-Relaiated Site)
1.戦時の軍事
@ 軍政・軍令関係、 A編成された軍事関係、B軍需物資の生産、C防空施設、Dイデオロギー宣布装置、E地域と戦争、F戦争裁判所
2.戦場、戦闘被害の遺跡 @侵略の戦場、A本土の戦場・戦争被害地、B内乱、反乱、クーデター、テロの場所

8月例会報告 石月静恵さん(会員)「戦後大阪女性史研究のあゆみ―「戦後大阪女性史研究年表」を中心に」

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はじめに
 報告者は、1971年大阪叙せ史研究会の創立に参加し、2020年同会と共編著で『女性ネットワークの誕生―全関西婦人連合会の成立と活動』(ドメス出版)を刊行した。大阪歴史学会の会誌『ヒストリア』が2023年300号を迎えるにあたり、特集号「大阪地域史研究の成果と可能性」(仮題)を編むことになった。報告者に「大阪の女性史」をテーマに執筆依頼があり、「大阪の女性史研究」で執筆を承諾した。そこで、まずどのような研究がなされてきたかを調査、年表を作ることにした。大阪女性史研究会の例会で協力を要請、地域女性史研究会の会員伍賀偕子氏にも協力をお願いした。本報告は、年表作成の過程と年表から得られた「戦後大阪女性史研究」の特徴を紹介したものである。

1 「戦後大阪女性史年表」作成の方法
 まず、全国的な女性史研究の動向がわかる基礎資料(女性史総合研究会編『日本女性史研究文献目録』東京大学出版会、1983年。折井美耶子・山辺恵巳子『地域女性史文献目録』ドメス出版、2003年など)から大阪関係を抜粋。資料調査はドーンセンター情報ライブラリーと大阪市立中央図書館で実施。データベースとして大阪市立大学「都市大阪に関する歴史学分野文献目録」を参照。学会等会誌(『歴史科学』・『ヒストリア』・『大阪民衆史研究』・『大阪の歴史』・『市政研究』など)、『大阪社会労働運動史』から大阪の女性史関係の文献を調査。学校史や女性団体史などをホームページで検索して調査した。

2 年表を作成して
 書籍・論考(論文・研究ノート・資料紹介など)を年代別、種類別(教育・労働・女性運動・戦争と女性・福祉社会事業・施設団体・自伝伝記=オーラルヒストリー、エゴドキュメント・女性問題関係女性史・生活記録・女性史年表など・前近代)に分け(表)、傾向を分析した。
 年代別にカウントすると、1980年代、90年代、2011年以降の順になる。
 120点を超える書籍の内、約3分の1弱は、施設・教育機関・女性関係団体の周年誌であり、「研究書」とは言えないかもしれないが、団体や学校の歴史を丁寧に追ったものも多い。表を作成して得た傾向は、次のとおりである。
@)教育関係は、年代による偏りがあまりなく、周年誌が多くを占める。
A)労働・女性問題は、竹中恵美子氏の研究など種々出版されているが、「女性史」というくくりでは多くはない。
B)女性運動の論文は、1980年代に多く書かれている。
C)女性と戦争関係の出版は、1980年代に多い。
D)自伝・伝記は、現在オーラルヒストリー、エゴ・ドキュメントとして再注目・再 検討されている。1990年代に多く出版されている。
E)前近代研究は盛んだが、大阪の女性史という点では少なく、今後に期待したい。
 全国的には、「自治体女性史」(都道府県市区町村などの自治体が刊行した女性史を指しており、自治体が中心になって編さんした書籍のほか、地域叙女性史グループなどが中心になって編さんし、それを自治体が刊行したものを含む)が1990年代に盛んに刊行され、管見では都道府県単位の自治体女性史は21都府県にのぼる。これは、1975年の国際婦人年と76〜85年の国連婦人の十年の影響が大きく、自治体が女性政策の一つとして、成果として見えやすい女性史を刊行したものと思われる。しかし、大阪府からは刊行されておらず、大阪府内では、枚方市と岸和田市が女性史を出版している。

3 戦後大阪女性史研究の成果と課題
 大阪の女性史研究は、大阪だけにとどまらず、全国への発信も行っていると言えよう。報告者は近世史研究者の藪田貫氏と共編著で『女性史を学ぶ人のために』(世界思想社、1999年)を出版した。同書には、在阪の研究者が多く執筆し、「大阪人権博物館」やドーンセンターの「女性問題ビデオライブラリー」についても掲載した。また、1977年に愛知開催で始まり、2015年岩手で第12回が開催された「全国女性史研究交流のつどい」においても、大阪から参加してきた。
 1971年黒田了一革新府政が誕生(〜1979年まで)し、そのもとで国際婦人年を迎えられたことも女性政策の推進にプラスに作用し、1994年ドーンセンターが開館した。しかし、2008年の橋下徹府知事の下で、児童文学館の閉館やドーンセンターの民間委託など、女性政策の後退がみられた。2023年の日本のジェンダーギャップ指数は、過去最低の146か国中125位となった。女性史研究は、現在の女性の地位と大きく連動し、ジェンダーギャップを減少させる活動が求められている。「地域女性史研究会」は「ここに生き ここを超える」を掲げており、どんな地域でもそこに住みそこで生きる人々の生活がある。女性史では、なかなか表面に現れてこない女性たちの実態や生活があり、埋もれがちな女性たちの声をどのように拾い上げていくのか、方法論も含めて検討していく必要がある。
 なお、年表は『大阪民衆史研究』76号(2024年刊行予定)に掲載予定である。

<質疑・討論>
 司会は、松浦由美子氏によって進められた。まず、参加した大阪女性史研究会の石原佳子氏からは、「杉村久子日記」や国防婦人会について、山田氏からは岸和田女性史・山岡春文書について補足説明を受けた。地域女性史研究会の伍賀氏からは年表の運動史と研究史の関係について質問が出された。
 討論では、戦後の「母の歴史」を書こうという運動が大阪であったのではないかとい う指摘があり、民科大阪支部婦人部会や大阪現代史研究会の詳細についても質問が出さ れ、松浦氏・富山氏から補足が行われたが、現在詳細は分からないとのことであった。
 また、サブカルチャーの研究の中で、女性史として見られるものがあるのではないかという指摘、社会的関わりを持てない主婦などの声をどのように拾い上げるのかといった質問も出されたが、今後の課題として受けとめたいと報告者は応えた。

7月例会報告 金子 昭さん(天理大学おやさと研究所教授)「戦時体制下における天理教ー政府による干渉と教団の戦時対応」

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教育勅語を柱とする国民道徳運動と天理教
 金子 昭さんは、天理大学おやさと研究所教授で天理教研究の第一人者である。最近では、毎日新聞(デジタル版6月17日〜18日)「どんな教団もカルト化しうる」のタイトルで「宗教2世」問題について発言されている。
 今回は、明治から終戦までの天理教の動向、特に治安維持法下での政府の教団への介入と、これに教団が如何に対応していったかということについて報告された。
  天理教は大和国山辺郡三昧田村(現・奈良県天理市)の中山みき(1798〜1887)が「天啓」を受けて人々に伝えた「神意」(「おふでさき」などの直筆の書として残されている。)からなる教理に基づいている。現在の天理教の教典は、戦後改訂されたものである。最初の教典は明治36年の「天理教教典(明治教典)」であるが、その内容は当局の目を意識して教祖の教えをかなり封印した内容で、いわば外向けの教理であった。
  明治末期から「教育勅語」に由来する「国民道徳運動」がさかんにすすめられた。天理教は独立した教団として政府の認可を得るために、他の宗教とともに「国民道徳運動」に協力してゆくが、教典自体に教育勅語の思想を自主的に取り入れている。上(天皇)と神(大神)が同列に置かれ、明治教典は天皇制国家に組み込まれたかたちで教えを説く内容となり、教祖直筆の「おふでさき」などの本来の教理は封印された。一方で大正15年の「教祖40年祭」や昭和3年の「おふでさき」公刊など、内部的には、封印された本来の教理を信仰する動きも見られた。明治教典にみられる外向けの教理と教祖直筆の「おふでさき」に代表される本来の教理の信仰といういわば信仰の二重構造がみられた。道徳は「国民道徳=教育勅語」、宗教は天理教という態度で教団が自主的に天皇制国家に協力しながら、外向けと内向けの対応をとっていたのである。講演会も国民道徳運動に力点を置く外向けのものと、限定的ながら「おふでさき」などの内容も含む教理や信仰を中心とした内向けのものとにわけられていた。

国民精神総動員運動と天理教の「革新」
 1937年日中戦争が始まり、国民精神総動員運動により国民全体が総力戦体制に動員されることになった。宗教教団全体が、天理教も例外ではなく戦争協力に動員されることになった。一方で天理教は、人類創世神話を記述した『泥海古記』にあるように記紀に登場しない神名やすべての人間が平等につくられたという記述など国家神道と抵触する教理を有していたため、それまでにも政府当局の監視下にあったが、この時期に至り1938年の「諭達第8号」(後述)にみられるような教理の「革新」=変質までを断行せざるを得なかった。1939年には、公刊されていた「おふでさき」が回収され焼却されることになった。国民精神総動員までは、外向けと内向けの対応で政府に自主的に協力しながら、教組以来の教理・信仰を守ってきたが、戦争と国民精神総動員の体制のもとで当初の自主的な協調から次第に強要された同調姿勢へと変容してゆく。こうした苦境に満ちた状況は1945年8月の日本の敗戦まで続いた。

『特高月報』『思想月報』に見る治安維持法下の天理教
 戦時体制下の天理教の具体的な時局対応の経過について、報告者は『特高月報』、『思想月報』などの資料にもとづき報告された。『特高月報』は内務省警保局から昭和5年〜19年に刊行され、『思想月報』は司法省刑事局から昭和9年〜19年に刊行された思想弾圧の記録である。
  戦前の公安・治安維持は3つの部局により行われた。@内務省警保局とその管轄下の特高警察、A司法省刑事局、B陸軍省憲兵隊である。宗教団体については文部省宗教局が管轄した。特高警察は、行政警察(犯罪予防)と司法警察(犯罪捜査、検挙)の両面に関わった。
  特別高等警察(特高警察)は、1886(明治19)年、警視庁に高等警察の部局が設置され、自由民権運動の取締を行ったことにはじまる。1910(明治43)年、大逆事件が起こり、1911(明治44)年、警視庁の高等警察課から特別高等警察課を分離、各府県でも特別高等警察課が設置された。大逆事件の被害者である管野スガは天理教の機関紙『道の友』に寄稿したことがある。1925(大正12)年、治安維持法が成立し、1928(昭和3)年3・15事件で特高警察により日本共産党員と関係者が大量検挙された。1935(昭和10)年ころから戦時体制が強化され、特高警察による国民生活のあらゆる思想生活の監視がおこなわれるようになった。
  敗戦により、1945(昭和20)年、GHQの指令で特高警察は廃止されたが多くの特高関係資料が証拠隠滅のために焼却された。焼却を指示した人物が、内務官僚で特高課長の経験もある奥野誠亮である。(奥野は戦後、文部大臣や法務大臣を歴任した。)
 特高警察は国体変革の運動、共産主義運動、国家主義運動、反国家・反社会的な運動などすべての思想に関わる運動を監視抑圧した。宗教を利用した不正行為なども取り締まった。1935年、大本教事件の一ヶ月前、天理教税務疑獄事件が起こり、天理教会長中山正善氏が税務署にワイロを送った容疑で天理教本部に捜査が入り、天理中学校校長らが検挙された。罰金刑ですんだが後に右翼の天理教撲滅運動などが起こった。1938(昭和13)年、天理本道(分派)が治安維持法・不敬罪で検挙された。帝国議会(国家総動員法委員会)では、天理教攻撃が行われた。
 同年、「国家総動員法」が施行された。1928〜29年頃には日本共産党が弾圧で壊滅状態となり、特高は宗教関係に攻撃の矛先を向けていた。1936(昭和11)年3月以後の『特高月報』目次から「宗教運動の状況」の項目が登場する。
 『特高月報』にみる天理教関係記事には、1936年、●天理教々師の信仰利用犯罪の検挙、●天理教撲滅運動の状況、1937年、●右翼分子の天理教排撃運動、●天理教管長等に対する告発状、●支那事変に関する宗教諸団体の動静、●天理本道 治安維持法並に不敬罪事件の検挙などがみられる。これらの記事から、特高警察が天理教に注目した点として、反国家的言動(6回)、反社会的行動(6回)、教団内部の動静確認(4回)が考えられる。教義に関しては、天理教からわかれた「天理本道」が『泥海古記』を主要教典としており、治安維持法違反・不敬罪で検挙された。当初無罪であったが、のちに結社禁止命令が出された。1942(昭和17)年ころより監視・抑圧はさらにきびしくなり、1943(昭和18)年、●天理教関係者の不穏策動、●天理教布教師の人身惑乱事件検挙、●元天理教布教師の要注意言動、1944(昭和19)年、●天理教布教師の寄附金横領事件検挙、●天理教本部の献金募集計画中止問題、●天理教布教師の要注意動向、要注意とされた言動には「神は人を苦しめるためのものではなく、和楽の生活を営ましめることが神の御意である」などがある。●天理教の石炭増産挺身隊結成並に出動状況などがみられる。  

「諭達第八号」と天理教の「革新」
  『思想月報』は司法省により思想検察行政の一環として作成されたもので、第一次資料としての価値が高い。1939(昭和14)年、●最近における天理教本部の動向に関する調査、1940(昭和15)年、●天理教教義修正問題に関する調査では1937年以降の「革新」教理とその普及状況についての検証を記述、●元天理教々師山中重太郎外二名に対する恐喝未遂被告事件予審終結決定(大阪地裁報告)、1942(昭和17)年、●山中重太郎外二名に対する(天理教本部に対する)恐喝未遂被告事件判決(大阪地裁被告)などがあった。
  その後、天理教の思想調査で、教理の「反社会的性格」と一部の教師による「反社会的行動」が問題とされ教団が当局から指摘を受けて、その是正を行うことになったのが「革新」を表明した「諭達第八号」であった。1938年の「諭達第8号」では、『泥海古記』に関連ある一切の教説は行わないことや、教団の教師は「国体(天皇を中心とする国家体制)の本義を体得発揚する」義務などが強調された。

まとめと質疑
 (1)戦前の天理教は、当局からは、反国家的性格のみならず反社会的問題をも起こしている存在として弾圧の対象となった。
  2)国家道徳運動の段階では、教育勅語の思想を自発的に教理に取り入れて天皇制国家に協力しながら信仰を維持したが、国民精神総動員運動の段階では、国家主義と総動員運動への協調を余儀なくされた。総動員運動とどう関係し何が問題点であったのか今後の課題である。教訓として、宗教が主体性を持つことが大事である。
 質疑では、多くの意見が出された。天理教教理の難解な用語についての解説なども行われた。治安維持法下での天理教への監視・抑圧の経験と現在の政治状況との関係、天理教で行われている平和運動についても触れられ、教団以外の参加者からの共感の言葉も述べられた。憲法9条改悪の情勢についての危機感も述べられた。歴史研究と宗教の認識理解の重要性も指摘された。

5月例会報告 「フィールドワーク・今城塚古墳を訪ねる」

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1,新池ハニワ工場公園へ
 高槻市教育委員会認定ボランテイアのガイド佐伯一義さんの案内で、参加者10名は最初にJR摂津富田駅前からバスで新池ハニワ工場公園に行きました。6世紀前半築造の今城塚は、継体天皇陵(正確には大王)であることが学会で認められています。全長190m、二重の濠、周囲には6000本の円筒埴輪が並べられています。これらのハニワを焼成した登窯(のぼりがま)が古墳近くにあります。 5世紀から6世紀の間この場所でハニワが作られていました。2基の窯を含め3基が古く5世紀ころ、その他は6世紀の窯で計18本の登窯と作業小屋がありました。周辺には、粘土と水、燃料となる松林が豊富にありました。最盛期は530年頃で、今城塚古墳には多くの形象ハニワ家、武人、巫女、動物などの形のハニワ)と円筒埴輪(円筒形で古墳の埋葬地としての境界を示すもの)が作られました。登窯は朝鮮半島から伝来した技術で、1200度前後の高温で焼成でき、須恵器などの硬質の土器も製作されました。
2,今城塚古代歴史館へ
 ハニワ公園から徒歩で今城塚古墳と歴史館へ向かいました。途中、闘鶏野(つげの)神社と闘鶏山(つげやま)古墳に立ち寄りました。闘鶏山古墳は4世紀前半の全長86.4mの前方後円墳です。継体大王の時代以前の三島の王墓と考えられます。石室に使用されている石は吉野川流域の石です。未盗掘の竪穴式石室から人骨、三角縁神獣鏡、石製腕飾り、木簡の一部などが発見されました。神社は氷室(ひむろ)地区の氏神神社です。
 五月晴れの空の下、約50分ほど歩いて、今城塚古墳と古代歴史館へ着きました。歴史館は2011年にオープンし、展示の中心は今城塚古墳の北側内堤で発掘された形象ハニワ群の展示です。約190点の形象ハニワが発掘で確認され、 それらは大王墓のハニワ祭祀場を示す全国に例のないものです。大王の宮廷をあらわす全国最大級の家形ハニワ(最大のものは高さ170cm、武人、巫女、力士、イノシシや犬、馬などの動物、剣や盾、塀、太鼓など多様な実物のハニワが展示され、これらのレプリカが有田焼で復元されて古墳現地に祭祀を復元するように配置されています
3,今城塚古墳へ
(1)継体大王の真の陵墓

 今城塚古墳は淀川流域最大級の前方後円墳です。西向きの全長190m、総長約350m、総幅約340mで二重の濠があります。6世紀前半の古墳時代後期の古墳です。宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳(5世紀)を継体天皇(大王)陵としていますが、円筒埴輪の年代測定により今城塚古墳築造が6世紀の頃と確認され、古墳が 6世紀の頃に大王となった継体大王の墓であることがあきらかとなっています。そのため全面的な発掘調査も見学もできる唯一の大王陵となっています。
(2)大王陵のスケールを示す埴輪祭祀場と石組み排水溝、阿蘇凝灰岩の石棺
 今城塚古墳を特徴づけるもののひとつが大王の祭祀儀礼(葬送儀礼か?)を再現したものと考えられる多数の埴輪群からなる埴輪祭祀場です。全国に例を見ない約190点以上の形象埴輪群が発掘された位置に整然と北を向いて並んでいます。   もうひとつは、被葬者を埋葬した横穴式石室の排水溝と思われる石組みの施設です。後円部の中心にむかって石組みの排水溝と思われる暗渠が確認されました。幅、高さとも約30cmの空洞が石を組んで作られています。横穴式石室に必要とされる施設で、大王墓で横穴式石室を初めて取り入れた古墳ではないかと考えられています。
 一方で、5世紀の古墳時代中期の大型古墳で取り入れられた造出(つくりだし)という大和政権伝統のかたちが6世紀の今城塚古墳でも用いられているところは、排水溝を伴う横穴式石室という最新の施設導入とあわせて継体大王の政権の特質を考えさせる点ではないでしょうか。また、出土した石棺破片の中でも阿蘇のピンク凝灰岩が継体の石棺と推定されます。熊本から瀬戸内海を舟運で運ばれた石棺こそ大王にふさわしいものです。石棺破片は他に二上山白石、兵庫県高砂の竜門石があります。
(3)造出(つくりだし)
 今城塚古墳には南北両方に造出と呼ばれる施設が築かれています。4世紀後葉〜5世紀の古墳時代中期に発達、一部6世紀の古墳時代後期にもみられます。方形の区画に埴輪を並べ、祭祀を行った場所と考えられます。 継体大王の居た時代は6世紀で、その古墳に古い大和政権の伝統的な様式が採用され たことは、仁徳の血統とは異なる出自である継体が前王朝の皇女を娶り入り婿として 即位したことから、大和政権の伝統に配慮した可能性が考えられます。
(4)戦国時代の砦と地震の痕跡
 今城塚の語源と思われるのが、戦国時代に古墳が砦に利用されたという歴史です。織田信長と三好長慶の戦い(摂津攻め)の際に、ここに砦が築かれたと推測されています。また、墳丘前方部には1596年7月13日に起こった慶長伏見地震(マグニチュード7.5)で崩れた痕跡も残っています。  ・・・佐伯さんの名ガイドご苦労様でした。
4,継体政権成立をどう考えるか−記・紀の記述と各研究者の説について(補足)
 『古事記』は「継体天皇」の即位について「仁徳天皇」の血統の「武烈天皇」が亡くなり継承者が絶えたので近江国から「応神天皇」の5世孫である袁本杼(おおど)命(継体)を迎え仁賢天皇の皇女手白髪(たしらが)命と婚姻させ即位させたと記しています。『日本書紀』はよりくわしく、男大迹(おうど)天皇(継体)の父彦主人(ひこうし)王は近江国高島郡の「三尾之別業(なりどころ)」(三尾の別邸)に越前国三国から垂仁天皇の子孫の振姫(ふりひめ)を迎え継体が生まれたが彦主人王が死んだので振姫は継体を連れて越前に帰り養育した。その後、武烈天皇が死に継承者が絶えたので大伴金村大連(おおむらじ)が越前国に男大迹(おおど)王(継体)を迎えに行き樟葉宮(枚方)で即位、5年後に筒城(つつき)宮(山城)、12年後に弟国宮(おとくに・山城)、20年後に磐余玉穂宮(大和)で即位したとしています。
 主な研究者の諸説
(1)直木孝次郎氏は、「仁徳」の血統「武烈天皇」の死後大和朝廷が分裂し、この時起こった地方の動乱に乗じて近江・尾張を地盤とする継体が大和に侵入し、大和勢力を併せて皇位を継ぎ新王朝を創始、その後分裂動揺の期間を経て540年の欽明の統一で安定期を迎えたとしています。520年の磐井との戦争は、磐井が第2の継体をめざして失敗したとしています(『日本古代の国家構造』)。
(2)岡田精司氏は、継体は近江坂田郡に拠点を持っていた息長氏を出自とし、この見解はその後多くの研究者に影響を与えました。息長氏は記紀の皇統譜とも関係する氏族であり、一方で継体は琵 琶湖の湖上交通路の支配による経済力をもとに近畿北部、北陸、東海の地方豪族の連 合を背景としながら、「仁賢天皇」(仁徳の血統)の皇女を妻とすることで入り婿のかたちで王位を継承したとしています(「継体天皇の出自とその背景」)。
(3)大橋信弥氏は、継体の出自を息長氏とする岡田説は支持しがたいとし、継体の父彦主人王の「別業(なりどころ、別邸)」がある近江高島に越前三国の豪族の娘振姫を迎えて継体が生まれ、越前との関係および継体の即位に豪族三尾氏の役割が極めて大きいとしています(『日本古代国家の成立と息長氏』)。
(4)山尾幸久氏は、継体の出自を岡田氏と同じく息長氏とし、大和の中央豪族が継体を迎え入れることによって、近江の鉄生産体制を手に入れ、継体が代表する地方勢力と経済力を吸収することによって大和政権の勢力基盤を畿外に拡大しようとしたとしています(『日本古代の国家形成』)。  
(5)塚口義信氏は、継体は湖北地方(坂田郡)を本拠とし、近江・越・尾張の諸豪族と姻戚関係(近江関係の后妃は4名)を結び、政治的にきわめて緊密な関係があった。特に北近江の息長氏や三尾氏とは継体が擁立されるかなり以前の父祖の代から深い関係があったことが推測されるとしています(『神功皇后伝説の研究』)。(6)水谷千秋氏は、継体が大和に入ることに抵抗していたのは北葛城地方の葛城氏の残存勢力、葦田宿禰系葛城氏と仁徳系王族の一部がむすんだ勢力であり、一方で葛城氏とその同族を除いた大伴、物部など大和の中央豪族の大半が継体を擁立して政権の立て直しをはかり、葛城氏の没落と入れ替わるように頭角を現してきた蘇我氏が重要な役割をはたしたとしています。さらに、磐井を盟主とする九州北部・中部の「有明首長連合」(柳沢一男氏)の自立の動きに対して大和政権側が危機感を抱き、中央豪族の再結束と継体の即位を促し、磐井の征討=国土統一戦争に勝利し、大和政権の再編強化につながったとしています(『謎の大王継体天皇』)。

4月例会報告 「ウクライナ情勢とフランス−移民、難民の歴史から−」 報告 中條健志さん(東海大学語学教育センター講師)

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1. はじめに
 昨今のウクライナ情勢をめぐる報道では、フランス大統領エマニュエル・マクロンの姿をしばしば目にする。同じ「西側」にいながら、アメリカやドイツとは必ずしも同じではないフランスの姿勢には、同国とウクライナ、ロシア、あるいは旧ソ連とのあいだに築かれてきた独自の歴史的背景がある。報告では「移民」と「難民」をキーワードにウクライナ情勢をとおして現代フランスの一部を明らかにした。
2. ウクライナ情勢とマクロン
  2022年2月24日のウクライナ侵攻以降、欧米諸国の首脳たちはロシアにたいする厳しい態度を表明しているが、そのなかで、フランス大統領エマニュエル・マクロンの立場は特徴的だといえる。たとえば、2022年6月28日付『AFP BB News』では、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領がロシアを「テロ支援国家」に指定すべきだと発言したことにたいし、「テロ」という表現は用いるべきではなく、ゼレンスキーに同意しない考えをマクロンが表明したことが報じられている。
  また、2022年12月4日付『ロイター』では、終戦後にロシアの安全保障も考慮すべきとマクロンがコメントしたことにたいし、ウクライナのミハイロ・ポドリャク大統領府顧問が「ロシアからの安全保障を必要としているのは世界であり、その逆ではない。」と批判したことが伝えられている。なお、これについては、同国のドミトロ・クレバ外相も「理解できない。」と反発している(2022年12月10日付『日本経済新聞』)。
  ほかにも、「フランスの立場は、ロシアを完全に敗北させて崩壊させることではない。」、「今のロシアのシステムでは、プーチン(大統領)以外のいかなる(指導者の)選択肢も良いとは思えない。」という発言(2023年2月19日付『朝日新聞』)や、訪中先で習近平国家主席にたいし「ロシアを理性的にし、すべての人を交渉のテーブルに戻すうえで、あなたを頼りにしている。」と述べたこと(2023年4月7日付『BBC NEWS JAPAN』)など、マクロンの「親ロシア」的な態度は、しばしば批判の対象となっている。一方で、マクロンのこうした立場を、本人の政治観のみから理解することは難しい。というのも、そこにはマクロン、というよりもフランスとロシアとのあいだに長年にわたり築かれてきた歴史的、文化的な関係があるからである。

3. フランスにおけるロシア移民の歴史
3.1. 前提

 産業革命がすすむ列強の一員となるべく、ピョートル一世(1672-1725)がロシアのヨーロッパ化をすすめたことが、フランスにおけるロシア移民史のひとつの起点で ある。そこでは、貴族たちが「ヨーロッパ風」の服を着たり、フランスをふくむ西欧 に留学したりすることが奨励された。当時のヨーロッパの国際語は、英語ではなくフランス語であった。
 そこではまた、フランス革命(1789年)を逃れた貴族がロシアに亡命し、一部の階層に限られた現象ではあったが、両国のあいだに人びとの行き来が生まれたことも関係している。フランスにおける反革命の思想が、帝政ロシア政府に受け入れられたのである。その結果、ロシアの支配者階級ではフランス語が用いられるようにもなった。ナポレオン戦争(1803-1815)によりフランス語やフランス文化の人気に翳りがみられたこともあったが、フランスがロシアにとっての欧州の主要なパートナー国となり、この時期にその後の移民、難民受け入れの下地がつくられたといえる。
3.2. ロシア革命前
 ロシア革命(1917年)までの時期、ヨーロッパの富裕層に人気のリゾート地であった南仏のコート・ダジュールに、帝政ロシアの要人たちがしばしば足を運んでいた。そこでは、ニコライ一世皇后であったアレクサンドラ・フョードロヴナが滞在し、ニースにロシア正教会の教会を建設したり(1856年)、療養していたロシア大公のニコライ・アレクサンドロヴィチが同地で死亡したさい(1865年)、記念としてサン=ニコラ大聖堂がつくられたりした(1912年)。
3.3. ロシア革命期
 血の日曜日事件(1905年)をはじめとする、労働運動や革命運動にたいする弾圧を逃れるため、人びとが移民、難民、あるいは亡命者として西欧に移住するようになる。こうした現象はロシア革命(1917年)までつづいた。フランスは移住者のおもな受け入れ先となり、1930年代には、国内各地に約50の労働者コミュニティがつくられていた――知識人層はおもにパリに集住――。革命後のソ連政府は在外ロシア人の市民権を剥奪する措置をとるが(1921年)、ナンセン国際難民事務所1930-1939)によるナンセン・パスポートの発行により、かれらの身分は保証された。
 当時、フランス国内のロシア人はその大半が正教徒であったが、ユダヤ教徒やイスラーム教徒、また、反ソ連政府の共産主義者もいた。かれらは、1901年に結社の自由法がつくられたフランスで結社(団体)を設立し、同胞間の連帯を深めていく。そこでは慈善団体、図書館、政党、青年団などが創設された一方で、在外ロシア正教会(1921-)による、宗教をつうじたコミュニティ強化もすすめられた。
3.4. 第二次世界大戦後
 大戦後は、ソ連政府に批判的であったり、そこから迫害を受けていたりした人びとの移住が展開される。著名人を挙げると、フランスで知られた人物として、ジャーナリストでテレビ・ラジオ司会者でもあったレオン・ジトローネ(1914-1995)、小説家のヴィクトル・ネクラーソフ(1911-1987)、バレエ・ダンサーのルドルフ・ヌレエフ(1938-1993)などがいる。
3.5. ソ連崩壊後
 1991年12月26日の「崩壊」以降、フランスへの亡命者は激減し、移住者の大半は労働移民におきかわる――一部にはオリガルヒ(新富裕層、新興財閥)の投資家もいた――。すなわち、ロシア移民がもっともフランスに移住したのは、20世紀のはじめ、とりわけロシア革命期であった。
 2019年時点でのフランスのロシア移民の総数は53,532人である――総人口は6739万人――。一方で、フランスの国籍制度は出生地主義であり、フランスで生まれた者には、(一定の条件はあるものの)自動的にフランス国籍が付与されるため、ロシアからの移住者の後裔たちを「ロシア人」と考えるならば、この数字をおおきく上回るものになるとみられる。

4. フランスのロシア系文化人
 以上の歴史的背景から、フランスにはロシア出身の、あるいはそこに出自をもつ文化人が数多くいる。ほんの一例ではあるが、代表的な人物の名前を以下に挙げる。
 カラン・ダッシュ(1858-1909):漫画家、風刺家、アレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968):哲学者、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985):哲学者、アンリ・トロワイヤ(1911-2007):小説家、モーリス・ドリュオン(1918-2009):小説家、政治家、アレハンドロ・ホドロフスキー(1929-):映画監督、マーシャ・メリル(1940-):俳優。コジェーヴの『無神論』(2015年、法政大学出版局)やジャンケレヴィッチの『泉々』(2023年、みすず書房)などが出版されていること、ドリュオンが『パルチザンの歌』をフランス語に翻訳していたこと、またホドロフスキーの映画が公開されていることから、日本でもかれらの作品や活動に触れることができる。

5. まとめ
 ロシアの侵攻以降、西欧各国はウクライナからの難民を受け入れているが、その中心にいるのは周辺諸国である。たとえば、2022年2月24日から3月20日までに、ポーランドが233万6799人、ルーマニアが60万8936人、ドイツが23万9千人の難民を受け入れたが、フランスは3万人であった。この傾向はその後も変化していない。
マクロン――「フランス」と言いかえることができよう――の対ロシア観の背景にあるもののひとつに、仏露関係の歴史があることは疑いない。それほどまでに、フランスにおける「ロシア文化」の影響は大きいといえる。もちろん、こうした側面にくわえ、経済的な要因も無視することができないが、両国のあいだに築かれてきた関係が、ウクライナ情勢にたいするフランスの立場に反映されていると言えるだろう。今後、フランスはウクライナ情勢にどうかかわっていくのだろうか?ポーランドやドイツ、あるいは英米と(どの程度)異なるポジションをとりうるのか、注視していくべきだろう。

3月例会報告 石川元也弁護士「吹田事件とデモ・表現の自由―朝鮮戦争休戦と黙祷事件から70年−」

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 吹田事件とデモ・表現の自由−朝鮮戦争休戦と黙とう事件から70年―」をテーマに、当時、吹田事件弁護団で主任弁護人をしていた石川元也弁護士が報告した。
 吹田事件は、1952年6月25日に朝鮮戦争開戦2周年の際、戦争と軍需輸送に反対して行われたデモ行進に騒擾罪が適用され、270人ほどが逮捕、111人が起訴されて裁判にかけられた事件。
 戦後の逆コースの中で、デモ表現の自由が奪 われていき、朝鮮戦争が勃発すると日本に駐留する米軍は、伊丹飛行場や吹田操車場を出撃・輸送拠点としており、デモ参加者はこれに反対していた。吹田事件の裁判は、一審、二審ともに騒擾罪の無罪を勝ち取ることとなった。

どこから「騒擾」のはじまりとするか
 裁判において、どの時点を騒擾のはじまりとするのかが一つの論点となった。検察側は、「須佐之男命神社前の警備線『突破』からが騒擾だ」と主張したため、弁護側は証人尋問で検察が被告に対して須佐之男命神社以前の行動や準備時点から質問していくことに、「騒擾罪になったところから聞きなさい」と抗議し、須佐之男命神社以前のデモの準備などは、「記載を無視する」という判断を裁判所は行った。
 さらに、全被告が取り調べの不当性を訴え、裁判所は「任意性がない」と調書を大量却下した。尋問で事前の「謀議」や事後の行動など事件自体と関係ないものを検察が質問しても、裁判所によって却下されるようになった。  どの事件も事件が起こった時は検察側の主張で記事が書かれ、弁護側のことは書かれないが、マスコミも調書の大量却下ごろから弁護側の反証を記事にするようになり、吹田事件は無罪だなという雰囲気があった。

デモ隊の竹棒や火炎瓶、投石をどう考えるか
 デモ隊が所持していた竹の棒などについて、いかに当時の社会運動が警察に弾圧されてきたか、デモを達成するために防衛的に必要だったということを弁護側は主張した。
 また、須佐之男命神社前の警備線「突破」や吹田操車場内で何ら衝突はなかったものの、産業道路で米軍の車にデモ参加者が火炎瓶を投げたり、3か所の派出所の玄関 を壊したりしたことについて、検察側は、「デモ隊は参加者を排除していないので、共同意思があった」と主張したが、弁護側は「デモ隊は粛々と行進していて立ち止まって行為者を支援する行動は取っていない。無視する行動を取った。行動をしたあとデモ隊に入ったからといってとがめるものではない」とした。1955年に日本共産党の六全協(第六回全国協議会)問題があり、共産党が軍事行動を否定したことについて、「俺たちの行動は、軍事行動だとされるのか」と被告団が動揺したことに触れ、被告団を集めては、「そのこと(六全協)と、吹田事件は関係ない。吹田事件はあくまで大衆的な行動だから、団結していこう」と励ましたという。
 一審判決で吹田事件は反戦平和のデモ行進であって、集団の行動について何ら問題ないとし、騒擾罪も操車場内の事業を妨害したことも成立しないと格調高い無罪判決が出た。メーデー、大須、吹田の三つの騒擾事件の中で最初に無罪判決を勝ち取った(後に二審判決で騒擾罪は無罪にしたものの、威力業務妨害罪のみ有罪)。

弁護士、裁判官のエピソード
 弁護団で一緒だった弁護士や裁判官のエピソードが相次ぎ、黒田了一府政で社共のつなぎ役だった毛利与一、京大教授をやめて弁護士になった佐伯千仞などの活躍を、「理論的で裁判所を翻弄した」と評した。  石川弁護士の前任の主任弁護人・山本治雄が左陪席の裁判官がちょこちょこ裁判長と話をしていることを見て、「こらお前、何やっている」と抗議すると、「合議をしている」と答えたのに対し、「右陪席を置いておいて、合議があるか」と追及していた。山本治雄は1967年に吹田市長に当選する。議員は弁護士と兼ねることができるが、常勤の市長になると弁護士資格をもったまま弁護士業務ができなくなるということで、石川氏が主任弁護人となった。
 青年法律家訪中団が1963年に学者・弁護士10人で中国に行く際に判事室に寄って、「6月20日までに帰って来ますから」と言ったら、裁判官が「判決後に行ったら歓迎されるだろうな」と言っていた。一審判決は6月22日で、中国政治法律学会から「無罪判決おめでとう」と電報があった。

吹田事件の史料について
 元・被告団長が共産党府委員会の勤務員をしており、段ボール13箱分の史料を持っていた。共産党が事務所を立て替える際に、倉庫にずっと置いてあったものを、石川氏のもとへ引き取ってほしいと連絡があった。吹田市立博物館の中牧弘允特別館長と石川氏が長野県人会で親しくなったのをきっかけに吹田市立博物館に寄贈することとなった。石川事務所から段ボール1箱、山本治雄事務所にいた人から1箱、合わせて15箱が博物館に寄贈され、裁判の進行ごとに整理し、目録をつくるようにお願いしている。目録が完成すれば公開されることになる。裁判記録の破棄問題が昨年から大きな問題になっているが、裁判資料は国民の財産であり、記録の保存にも役立っている。

1月例会報告柳下草太さん(関西学院大学修士課程)「日露戦後における部落改善政策の成立過程」

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はじめに
近現代日本における部落問題に対する政策(部落政策)は、地方自治体が中心となって部落の貧困や住環境の改善によって差別を解消することを主軸としていた。
その端緒となったのが、日露戦後に内務省によって開始された部落改善政策である。部落改善政策は、部落差別とその結果生じる部落の経済的・社会的低位性を部落民に帰し、それらを部落改善運動や移住によって解消することを主な内容としていた。部落改善政策は、一時的には効果を挙げたものの、実質的な問題の解決には至らず、差別の要因を部落民に求めたことでむしろ差別を悪化させたと評価されている。
 しかし、従来の研究において、なぜ、どのように部落改善政策が成立したのかについての十分な説明はなされてこなかった。そこで本報告では、報告者の修士論文を基に、内務省による部落改善政策に先行して存在した部落改善というアイディアと、内務省の地方行政・社会政策に対する基本方針との関係に着目し、部落改善政策が成立した過程と要因を明らかにする

部落改善というアイディアの存在
 1880年代後半から、地方レベル・民間レベルでは、様々な主体が部落問題を解決する手段として部落改善を実践・提唱していた。部落民による自主的部落改善運動では、部落の経済的自立や矯風によって周囲と同化するための目的として、もしくは権利意識を有する主体形成の手段として部落改善が位置づけられていた。一方で、地方当局者や教員による部落改善政策・事業・運動における部落改善は、行政目的を阻害する部落の低位性を部落民自身が改善することを意味していた。また、民間レベルでは、社会が責務として差別意識の撤廃と部落改善を行うことが提唱されていた。このように「部落改善」は様々な意味内容を持つ多義的な行為であったが、部落民においても、民間レベルにおいても政府に対して部落問題に対する政策を要求するアクターは存在しなかった。

内務省による部落改善政策の成立過程
 こうした状況のなかで、内務省は独自に部落問題の問題設定を行い、自身の基本方針に合致する解決策を、先行して存在した部落改善というアイディアから形成していく。
  日清戦後経営期において、内務省は、軍拡優先の予算的制約のなかで明治地方自治制を確立させるため、地方自治体の経営状況に対する視察調査や、優良町村の奨励、啓発などを行う積極的監督方針を開始する。こうした方針のなかで、部落は貧困によって自治を確立できていない存在として認識されはじめる。
  日露戦後、1906年頃から内務省は、積極的監督方針を強化するなかで、部落の存在を貧困だけではなく、差別されている「特殊(種)」な部落が存在する問題として認識するようになる。同時に、積極的監督方針のシステムのなかで各地の地方当局や教員によって実施されていた部落改善の成果を見出し、解決策として採用し全国的に共有していく。
 そして、1907年、内務省は、初の全国的な部落調査を実施するにあたり、部落改善方針を確立する。部落改善方針とは、部落の低位性への嫌悪から部落内外の国民が融和していないことが地方の発展を阻害している状態であるとの部落問題認識の下で、部落民を啓発することで、部落民自身が部落の低位性を解消するように促すという方針であった。こうした方針が採用された要因は、自治を重視する内務省の方針と合致する部落改善のアイディアが地方レベルで実践されていたこと、競合するアイディアが海外に存在しなかったことなどに求められる。
  内務省は、翌年から開始された感化救済事業と地方改良事業の対象に部落問題を含め、ここに部落改善政策が成立する。部落改善政策は、両事業の制度的枠組みの中で、部落改善方針の担い手を地方自治体を中心とした教員、慈善事業家、宗教家に定め、彼らに方針を啓発し、優良な改善事例を奨励することを主な政策内容としていた。

質疑応答
質疑応答では、まず主に以下の質問がなされた。
@ 本報告における部落改善政策と融和政策の意味の違いについて
・報告者:本報告における部落改善政策とは、部落差別の責任を全て部落民に帰する政策とする先行研究の用法を踏襲しているが、「部落改善」自体は融和政策・同和政策においても引き続き行われているため、部落政策をめぐる用語については再検討が必要なのではないか。
A 部落改善政策の担当部局、政策担当者について
・報告者:担当部局は地方局であり、中心となった政策担当者は地方局嘱託の留岡幸助である。
 そのほか、部落改善政策の成立時において、部落民は政策を要求するアクターでなかったと言い切れるのかどうか、自主的部落改善運動における「権利」意識とはどのようなものであったのかといった論点が出された。また、政策の成立要因を詳細に跡付けることも重要ではあるが、背後にある資本主義の発展という大きな流れにも目配りするべきとの指摘もなされた。

12月例会報告 松浦由美子さん(副会長)「国防婦人会―発祥の大阪港区から見えてくるもの 1932〜1942―」

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はじめに
 国防婦人会は1932年に発足した軍国主義的な女性団体で、出征兵士の送迎や傷病兵・遺骨の出迎えなどを行なった。日本が戦争を始めた時期に、女性たちがどのようにして戦争に協力したか/させられたかを考える重要な材料と言える。国防婦人会については、1980年代半ばから本格的に注目されており、藤井忠俊『国防婦人会――日の丸とカッポウ着』(岩波新書、1985年)や?谷美規子『戦争を生きた女たち――証言・国防婦人会』(ミネルヴァ書房、1985年)石原佳子「大阪の国防婦人会―大阪婦人会館史料の紹介をかねて」(大阪市史編纂所『大阪の歴史16』1985年)などがある。最近でも、2021年8月14日にNHKスペシャル「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」が放送された。
 国防婦人会の発祥の地が大阪市港区市岡であることは以前から知られていた。しかし、市岡の地において国防婦人会がどのように結成され広がっていったかは明らかにされてこなかった。本報告は、約40年にわたる資料調査とフィールドワークの成果に基づいたものである。

市岡と大阪港
 大阪市「市岡」とは、港区役所や港郵便局がある地域を中心とした広域地名で、現在の港区の築港地区を除いた大部分の通称として使われてきた。この地域は、現在の旧淀川の河口部を江戸時代に埋め立てて新田開発をしたことから始まり、明治時代に大阪港の築港工事が行なわれて、港の町として成長した。大阪港は出征兵士を送り出す港でもあり、各地から集まった兵士たちは大阪駅から電車道(市電築港線が走っていた、現在の「みなと通」)を通って天保山桟橋まで行軍するか、貨車で浪速駅まで運ばれたという。大阪港の周辺には、陸軍糧秣支廠、陸軍軍需品支廠、国鉄臨港線などがあった。このように市岡とは軍隊が身近に存在する地域であった。

国防婦人会の発足
 国防婦人会が発足する前年の1931年12月12日、井上千代子の自刃事件が起こっ た。彼女は満洲に出征する歩兵第37連隊の井上清一中尉の妻であり、出征する夫の 「後顧の憂い」が無いようにとわずか21歳で命を絶った。このことは、澤地久枝『昭和史のおんな』(文藝春秋、1980年)のなかで「井上中尉「死の餞別」」でも紹介されている。事件は当時のマスメディアで大々的に取り上げられ、阿倍野斎場では盛大な葬儀がなされた。泉佐野市の清福寺には「井上千代子夫人之碑」が現在もあり、3メートルもある大きな石碑に「殉国烈婦」と記されている。烈婦の実家として積極的な戦争協力が求められ、戦後には戦争協力者として非難を浴びたという。また、1994年に井上家があった場所(現阿倍野区)を尋ねたところ駐車場になっていたが、当時のことを知る土地所有者から話を聞くことができた。
 さて、井上中尉の叔母である安田せい(夫は鉄工所を経営)は港区磯路町に住んでいた。自刃事件をきっかけに、安田せいは女性による戦争協力のための活動を行なうことを思い立ち、三谷英子(安田せいと同じく鉄工所経営者の妻)や山中とみ(助産婦・安田せいと同じ宗教の信者)らとともに大阪国防婦人会を1932年3月18日に立ち上げた。会長には三谷、副会長には安田と山中がそれぞれ就任した。国防婦人会の会員たちは割烹着にたすき掛けで、出征兵士たちに湯茶接待をして大阪港から送り出した。

港区における国防婦人会の様子
 報告者が入手した資料から、1939年6月末時点での国防婦人会港支部の組織状況をうかがうことができる。港支部には26の分会があり、少なくとも約31,000人が組織されていた。分会は小学校区ごとに組織されており、その下に組と班が設けられた。特徴的なことは、役員数がきわめて多いことで、組や分会の役員がカウントされたためと思われる。会員には、処女会員(年会費60銭)、普通会員(同1円20銭)、特別会員(同3円)、名誉会員(同30円または一時金100円)に区分されていた。特別会員・名誉会員も相当数おり、少額の会費を基本としながらも、経済状態に応じて相当額を納める仕組みであったらしい。また、九条洋飲分会、九条自動車分会、築港電車分会といった職域組織も存在した。
 この資料からは、各分会の顧問にどういった人物が就いていたかも判明する。多くの場合、顧問は校長が務めていたが、在郷軍人会、警防団、援護団、青年団、教化委員会の関係者が名前を連ねる例もあり、外部の男性が国防婦人会に関わっていた。大日本国防婦人会関西本部が発行したパンフレット『大日本国防婦人会とは』(1933年9月)には、国防婦人会の概念図として、兵士の家族・遺族・傷痍軍人を国防婦人会と在郷軍人会が囲み、それを警察と憲兵が監督する図が載せられている。こうしたことから、陸軍は女性の「自発的な」活動を必ずしも信用しておらず、軍隊や官僚による統制と既存の男性組織との協力を通じて国防婦人会が活動することを望んだものと思われる。

質疑応答その他
 質疑応答に先立って、報告者が長年関わってきた「港区私たちと戦争展」が作成したスライドが上映され、港区の地域について参加者の理解を深めることができた。続いて、質疑応答では、国防婦人会と他の女性団体(愛国婦人会、地域婦人会)との違 いや、特別会員・名誉会員の実態について質問が寄せられた。次いで、地域の様子や女性の活動の評価について質問があった。さらに、市岡という地域の特徴や会員の階層に伴う意識のあり様について意見が出され、御影(現・神戸市東灘区)では中産階級の女性が割烹着姿を嫌がった例が証言され、国防婦人会をめぐる地域性や階級性という論点が明らかにされた。
 東アジアの情勢が緊迫化し、防衛費の大幅増額と大増税が企図される今日にあって、戦争に女性たちが巻き込まれた歴史は他人事ではありえない。報告者は「港区私たちと戦争展」運動に関わりながら40年にわたる地道な研究を続けてきたという。こうした戦争認識と平和構築に向けた草の根の取り組みこそが、今後ますます重要なものとなってゆくだろう。

11月例会報告 「浦上四番崩れ、和歌山藩流配についての一考察」 報告:グループ「紀州キリシタン学習会」

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明治初期にあったキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」とは
   1868年長崎浦上村の潜伏キリシタン3394人が摘発され(幕府時代)、その後明治新政府によって西日本の20藩22ヶ所に流配される事件が起こった。これを「浦上四番崩れ」という。「四番」は四回目を意味する。和歌山藩には65家族281名が流配された。和歌山を中心とするカトリックの人々によって、和歌山に流配されたキリシタンの人々の歴史を学習するグループ「紀州キリシタン学習会」が発足、司祭、修道者、信徒などが参加して地道な研究が続けられている。今回は、事件の発端から1873年の禁制が解除されるまでの時期の調査結果を報告する。
 報告は、深掘さん他3名の皆さん。

浦上で人々は250年間信仰を守り続けた
 浦上は長崎市の北部に位置し、かつてイエズス会の知行地となった地域で、ほぼ全住民がキリシタンであった。禁教令が出てからは誰もキリシタンと表明できなくなった。江戸幕府が明治維新で倒れるまでの250年間、司祭のいないところでキリスト教信仰を守り続けてきた。信仰を守る組織として世襲制の帳方(全体で1名)、水方(4郷各1名)、聞き役が(クの字に各1名)いた。彼らは「絵踏み」と「宗門改め」などによる弾圧を乗り越えて信仰を隠し守り続けた。
 正月の15日に庄屋屋敷で「絵踏み」をさせられる。「絵踏み」とはキリストなどを浮き彫りした板=「踏み絵」を踏むことでキリシタンでないことを証明することで、庄屋屋敷に来なければ役人が「踏み絵」を各人の家に持って回った。キリシタン達は、摘発を免れるためにやむなく「絵踏み」を行ったが、その後「コンチリサンの祈り」を唱えて、つぐないをした。その祈りは宣教師が禁教令後日本を去る間際に信徒達に伝えたものだ。「寺請制度」は江戸幕府がキリシタン禁制の実をあげるために、すべての人がいずれかの仏教寺院に帰依所属しなくてはならなかった制度。葬式の時が問題となった。坊さんがお経を唱えている隣の部屋では信徒達はお経を打ち消すための「経消し」をする祈りを必死でささげていた。棺桶におさめる遺体の向き、状態なども葬式後変えたりした。(T)

摘発から和歌山藩への流配に至る経過
 長崎大浦に宣教師が来て、それ以後浦上の信徒達はもはや信仰を隠せなくなっていった。そんなとき、四番崩れが起こった。
 和歌山藩へは長崎から海路で運ばれ、1870年1月(明治2年)から65家族281名が流配され、のち8つの郡に各30数名が分散され、大庄屋を通じて各村に分配流配された。100日間は藩が配給した米があったが、後は労働して食いつなぐ必要があった。1870年6〜7月ころに和歌山へ再招集され、15才以上の働ける者は現在の海南市日方の塩浜で働かされた。「ハナシタ」と呼ばれた牢獄の宿舎に収容され、干拓のための石垣積みなどの重労働をさせられた。老人や病弱の者、15才以下の子どもなど働けない者は和歌山の「馬小屋」と称する施設に収容された。この頃は和歌山全体が台風や洪水、天候不順で不作だった。
 1870年8月〜12月のころには、劣悪な環境、洪水や疫病のために87人が病死する事態となった。和歌山市鷹匠町にある禅林寺には、亡くなった信徒3名の名前と死者40人(数字だけ)についての碑が建立されている。1871年には諸外国に配慮して政府から楠本正隆が派遣され、流配された人の状況を視察、生活改善にとりくみ、「馬小屋」「ハナシタ」の収容者も新しい施設に移された。
 そして、1872年に、まず棄教者に長崎への帰還許可が出た。1873年には、キリシタン禁制の高札が撤去され、棄教していない人にも許可が下り、ようやく長崎へ帰ることができた。(F・I)

「旅」という流配者の信仰の姿と現在
 長崎浦上村に帰還した人々が見たものは荒れはてた村の姿だった。全村強制的に流配されて無人となった村は、家も田畑も管理する者もなく、泥棒が荒らしたり、荒廃した状況だった。福島の原発事故で街ごと避難せざるを得なかった住民が故郷に戻ったときに目にした光景もこれに近いだろうか。
 故郷へ帰還できた人々が、自分たちの流配、移住先での苦難の生活、帰還と郷土の荒廃との対面、そこからの再生復活という流転の人生を「旅」と表現したというシスターの説明は、キリシタンの人々の受けた困難とそれに耐えて生き抜く支えとなった信仰の姿を感じさせ、胸に響く意味深い言葉に思えた。その「旅」は、原爆投下の中心地ともなった浦上の地域で、再び焦土を前に起ち上がって生きた人々の思いとも重なっている。それはキリシタンの信仰問題を越えて現在の私たちに迫ってくる普遍的な真実のように思う。

コラム 特筆すべき個別の話題の紹介(一部省略)
  高津尾のマリア像  日高川中流に高津尾という所があり、約100年前ウナギ釣りに行った少年が河辺にキラキラ光るものを見つけたそれは何と3cmほどのマリア像だった。彼は自分で小さな祠堂を作って仏壇の横に置いていた。 その息子さん(80才台)が教会に鑑定を依頼してきたという。教会で推測できることは、約150年以上前にフランスでルルドのマリア信仰が流行し、フランスの宣教師が日本に来たときに、おみやげとしてこの小さなマリア像を信徒に贈ったことが考えられるというが確かなことはわからない。(Y)

深掘きくの墓
 1966年に花山古墳群調査の際に発見された。明治16年に息子の善次郎が、母の深掘きくの墓を建立した。

被差別部落とキリシタン
 長崎浦上では、キリシタン監視のために被差別部落が置かれた。浦上四番崩れの時にもキリシタンを捕縛する仕事を担わされた。それでキリシタンとの関係が悪くなった。和歌山でも四番崩れの時には、「非人番」が流配者のお世話を担ったと思われる通達文が残っている。

疑応答その他
 小林義孝さんから「千(ち)々(ぢ)石(わ)ミゲル」の夫妻墓所発掘の報告パンフの提供と説明があった。長崎県諫早市多良見町山川内伊木力のミカン畑のある丘陵に巨大な墓石の墓があり、2003年に大石一久氏によって、これが天正少年遣欧使節の一員としてローマ法王と会見した千々石ミゲルとその妻の墓であるとされた。彼はイエズス会に入会したが、その後退会した。2021年の第4次発掘の結果、1号墓の成人女性の遺体には、キリスト教の信仰具が副葬されていた。千々石ミゲル夫妻の墓と考えられ、ミゲルと思われる墓からは妻の墓から発見されたような信仰具等の副葬品は出土しなかったが、妻と同じ埋葬姿勢で同時期に埋葬されており、ミゲル自身も妻と信仰を共有していたものと考えられる。小林さんは、ミゲルがイエズス会を退会した理由として、イエズス会が人身売買に関わっていたことなどにミゲルがいやけをさしたのではないかと推測している。そして、イエズス会はやめたけど、信仰は棄てていなかったと思うと話された。
 その他、「四番崩れ」の崩れの意味についての質問(これについては本文中に説明)、 キリシタンを監視した被差別民の位置づけの問題、「潜伏キリシタン」と「かくれキリシタン」の概念など、これらは今後の検討課題となった。「旅」についてのとらえ方への意見質問、これは忘れてはいけない「歴史」ととらえるか、「信仰」としてとらえるかで意見がわかれたが、両側面を考える必要があると思われる(これも本文中に説明)。キリシタン問題についてのカトリックの方々の真摯な研究調査を聞くことができて、参加者一同感動する例会だった。

2022年度総会記念講演 尾川昌法会長「水平社創立百周年−水平社運動に関する五つの断章」

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全国水平社は、どのように闘ったか
 1922年3月3日、全国水平社が創立されて今年で100周年。尾川さんは、創立宣言は有名だが、その運動についてはあまり知られていないとされる。 報告では、部落差別からの人間の解放をめざし、大正デモクラシーから軍国主義ファシズムの時代に至る激動の20年間に存在し、活動した全国水平社の運動について5つのテーマで解説された。尾川さんは、歴史を進歩するものと考える立場から進歩・発展の尺度は自由と民主主義の根底にある人権であるという。

(1)創立宣言
  創立宣言は、平等な人間の尊厳と自由を訴える 報告する尾川昌法会長 「人間獲得」の運動(阪本清一郎)であり、従来の融和政策と運動を批判した。そして全国水平社は自らを解放する全国的集団運動であった。創立宣言は「日本初の人権宣言と言われる」との紹介をされることが多いが、誰もそのように言ったことはない。この表現は権利・人権闘争史をミスリードするものであり、形式的な意味で「人権宣言」のないことが日本の近代史の特徴であるという。日本において「基本的人権」概念が成立するのは、ポツダム宣言(1945)と日本国憲法(1946)が最初である。人権の普遍性の国際的承認の指標は、1993年の国連人権高等弁務官事務所の設置が最初である。(1948年の世界人権宣言は全会一致ではなかった)

(2)糺弾闘争
   「糺弾闘争」は水平社の独自性を象徴する運動形態である。「糺弾」は「糾弾」とはちがい、「はじきだす」のではなく「もとにもどすこと」であった。社会的啓発の意味を持つ方法であり、「謝罪広告」がその例であった。「糺弾」の論拠は、生まれながらの人間の尊厳、経済の自由と職業の自由の権利という人権と法的権利を要求するものであった。個人の差別発言・態度に対する初期の糺弾闘争は、社会的政治的差別構造の糺弾闘争、弾圧に抗する糾弾権、言論・集会・出版の自由を要求する闘争に発展した。

(3)部落委員会活動と人民的融和
 「水平社解消意見」(1931)は独自の身分闘争を解消することになり、自己批判を経て部落委員会活動の新方針が決定された(1934)。高松差別裁判糺弾闘争は水平社史上最大の闘争となった。請願行進や全国部落代表者会議(天王寺)が開かれ運動に活気がもどった。差別主体として、個人的差別と天皇制など社会的制度的差別が問題とされた。第13回大会で、@「特殊部落民」の呼称をやめた。A「被圧迫人民の一部」の認識に立ち「人民的融和」を促進する展望を明らかにした。「絶対的解放は、現代社会組織の改革なくしては絶対あり得ない」という理論的問題が提起された。

(4)転向と分断、戦争責任
 2・26事件について「現在まで行われ てきた議会政治を廃止してファッショ独裁政治を樹立しようとする政治組織変革が此の叛乱の目標であった」(水平新聞1936)の評価がされた。しかし、以後反ファッショの運動から後退し、西光万吉は転向し、大日本国家社会党に入党(1934)、北原泰作らは部落厚生皇民運動協議会(1939)を結成、松本治一郎ら中央幹部は大和国民運動(1940頃)を行い、北原・松田・朝田・野崎らは除名された。第15回大会は戦争協力に方針転換を行った。「部落委員会・人民的融和」から「日本主義・国体の本義・国民融和」に転換したが、その理由は明確にされていない。戸坂潤は「日本主義は日本型の一種のファシズムである」と書いている(『日本イデオロギー論』)。尾川さんは「戦争協力の思想的原点は、排外主義的愛国心、日本主義である。水平社の戦争責任はまだ総括されていない、課題である」とする。

(5)部落解放全国委員会、敗戦と再興
 1946年2月、全国水平社が招集し京都で全国部落代表者会議、部落解放全国委員会が結成された。翌日、部落解放人民大会が開催された。水平社の「部落委員会」継承が意識され、融和団体3名と水平社2名による運動統一をめざしていた。歴史的総括、現状認識の統一は不十分のままの出発であった。北原泰作の提案による行動綱領は、12項目だったが、日本国憲法成立で第6項目(華族制度、貴族院、枢密院その他一切の封建的特権制度の即時撤廃)は解消され、削除された。しかし国民の人権意識は脆弱で、1950年の世論調査では「人権」について「聞いたことがない」「人絹か」などの認識だった。
 最後に尾川さんは、「部落差別問題は、日本近現代史に独自の社会問題であり、歴史研究、歴史認識の問題である」と報告の締めくくりに強調された。

7月例会報告「神戸における大逆事件と現代」
上山 慧さん(会員・治安維持法国賠同盟大阪府本部事務局次長)

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大逆罪とは
 大逆事件とは、「大逆罪」に該当する事件全般を指す。「大逆罪」とは、1882(明治15)年制定の刑法116条から120条に規定された「大逆罪」と「不敬罪」にあたり、第116条には「天皇三后(*太皇太后、皇太后、皇后)皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とある。1907(明治40)年刑法が改正され第73条から第76条が「大逆罪」と「不敬罪」に規定された。1947(昭和22)年10月、「大逆罪」は刑法から削除された。
 「大逆罪」として裁かれた事件は、@本例会の報告内容である「幸徳事件」、A1923年の難波大助による「虎ノ門事件」、B1923年の「朴烈・金子文子事件」、C1932年の李奉昌による「李奉昌事件(桜田門事件)」の4件がある。そのうち、@の「幸徳事件」が一般的に「大逆事件」と称されている。
 「幸徳事件」とは、長野県明科の宮下太吉による「明治天皇暗殺」のための爆裂弾製造、実験を利用して、明治政府が社会主義運動を弾圧するために起こしたでっち上げ事件で、幸徳秋水、大石誠之助、成石平四郎など事件とは無関係の者が多く逮捕された。1911(明治44)年、幸徳秋水以下24名に対して死刑判決が下され、天皇恩赦で12名が無期懲役に減刑、死刑判決が確定した12名は判決から1週間後に刑の執行が行われた。

平沼騏一郎のもらした後悔
 捜査の指揮をとった検事総長代理平沼騏一郎は『回顧録』で、「被告は死刑にしたが、中に三人陰謀に加担したかどうか判らぬのがゐる。死刑を言渡さねばならぬが、ひどいと云ふ感じを有ってゐた」と書いている。三人について神崎 清は坂本清馬と神戸の岡林寅松、小松丑治であろうとしている。岡林と小松は無期懲役に減刑後、1931年に仮出獄している。岡林は「何のために自分が大逆犯人となったかと今でも不思議に思っている位です」(1931年高知新聞)小松は「私など単に神戸にあって平民新聞を読んだり社会主義を研究してゐたばかりです、弁解がましいことをいへば笑はれるかもしれませんが何のためにやられたのか本当はよく判らないのです」(1931年大阪朝日新聞)と語っている。  

大逆事件の構成
 事件は3つの事件から構成されている。  
(1)明科事件
 長野県明科の製材所職工・宮下太吉による「明治天皇暗殺」のための爆裂弾製造と爆破実験計画で、管野須賀子・新村忠雄・古河力作が賛同していた。新村の実兄新村 善兵衛が爆裂弾製造のための薬研を与え、新田融が爆裂弾の容器となるブリキ缶を提供した。これが大逆事件の「中心」なる事件だった。幸徳秋水は計画自体が空中分解すると考え、事実上放任していたという。捜査では爆裂弾本体は発見されなかった。  
(2)11月謀議
 1908年11月、東京巣鴨の幸徳秋水宅で、大石誠之助(新宮)、森近運平、松尾卯一太(熊本)が皇居占拠や官庁襲撃の「謀議」をしたという嫌疑が持たれた。実際は、単なる放談が行われただけで「謀議」の事実はなかった。  
(3)内山愚童の「皇太子暗殺計画」
 神奈川県箱根大平台の曹洞宗林泉寺住職・内山愚童が1909年1月に幸徳秋水宅を訪ねて、爆裂弾の図を見て「皇太子暗殺」の「計画」を発想したという嫌疑である。
 神戸の岡林と小松が犠牲となったのは、(3)の「事件」に関してであった。1909年、内山が永平寺からの帰途、神戸に立ち寄り「計画」に同意したとして二人は死刑判決を受けた。二人は、その後の証言でも事件の計画のことは知らず、幸徳秋水とは小松は一度会っただけで、岡林は公判ではじめて会ったという。

明治期神戸の工業発展と社会主義運動
 明治20年〜40年代に神戸では鐘淵紡績や川崎造船などの近代工業が発展した。神戸市の人口は工業発展とともに増え1887年に10万余名だったのが1907年には36万余名と3倍に増加した。労働者は一日11時間前後の長時間労働(紡績)や低賃金、不衛生な労働環境に置かれた。鐘紡(現在のカネボウとはちがう会社)では1900年はじめに1万1721名いた職工が、その年のうちに7701名が退社している。理由は、逃亡除名が6331名で他に解雇、病気帰休、死亡など。1899年神戸市は労働者・無宿人の生活拠点である木賃宿の強制移転などをすすめ移転先に新川地区を指定、それはスラムの形成を促した。キリスト教社会運動家の賀川豊彦や岡林寅松などが救済活動や社会主義夜学校・日曜学校(少年向け)などに取り組んだ。

岡林・小松の思想と神戸での行動
 小松丑治は1876年高知市帯屋町で生まれた。17才で大阪市に出て区役所や小学校などに勤め、1898年に神戸市で神戸海民病院支院事務員となり社会主義に関心を持ち、『平民新聞』を講読するようになった。岡林寅松は1876年高知市鷹匠町に生まれた。1899年に医術開業前期試験に合格し、1902年小松の世話で神戸海民病院本院に就職、医生として治療にも従事した。日露戦争開戦前、『萬朝報』の幸徳秋水と堺利彦の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持つようになった。1904年、岡林と小松が中心となり神戸市の週間『平民新聞』読者会・社会主義研究会の「神戸平民倶楽部」を結成した。同倶楽部では「社会主義と宗教」や「マルクス・エンゲルスの学説」など社会主義に関する研究や討議を行う例会を毎週第2土曜日に当番の会員宅を会場にして開催していた。岡林は「大阪平民社」でも「共産党宣言」について講演している。1907年には元町6丁目にあった元六倶楽部で「第1回社会主義講演会」を開き、大阪から 森近運平、武田九平、荒畑寒村、和歌山から大石誠之助などが出席、講演している。岡林は、講演会後に、「人類社会は資本家紳士階級と平民労働者とに区別するところで社会主義者勿論資本家に反対するが今日の階級制度の世にありては資本家の産出する自然なれば吾等社会主義者はつまりこの階級制度を打破するにありて資本家も労働者も皆人類を挙げて解放するの福音にして今日の資本家の如き穀つぶしをなくして国民皆兵否人類皆労働軍の世となさねばならぬ、これには先ず労働者の大自覚を促さねばならぬ」と書いている。(『雑記帳』)「神戸平民倶楽部」例会は毎回12~13名で、官憲の監視と迫害は強まり、内務省警保局の監視記録には兵庫県下の社会主義者は18名、その筆頭に岡林と小松が置かれていた。

再審請求の棄却と名誉回復・顕彰運動
 終戦後まで生きのびた岡林寅松は森長英三郎ら自由法曹団弁護士の尽力で1947年坂本清馬とともに復権した。これは司法大臣名義の特赦で、選挙権などの人権は回復されたが無罪が宣告されたわけではなかった。
 1961年1月坂本清馬らによって東京高裁に「大逆事件」の再審請求がなされた。1965年12月東京高裁は事件の再審請求の棄却を決定した。同年12月坂本らは最高裁に特別抗告したが1967年7月最高裁での特別抗告も棄却されて現在に至る。  戦後、多くの研究者により「大逆事件」は当時の国家が社会主義者・無政府主義者の自由・平等・博愛思想を「危険思想」とみなして、でっちあげを行い多くの無実の人々を弾圧した「権力犯罪」であることがあきらかにされている。
  再審請求の道が閉ざされた今、幸徳秋水の郷里高知県四万十市、大石誠之助の郷里和歌山県新宮市など全国各地で大逆事件の連座者の名誉回復と顕彰の運動が続けられている。

2017年「共謀罪」と「大逆事件」
 「共謀罪」が成立したとき、「治安維持法の再来」と言われた。平沼の公判での論告に「大逆罪ヲ謀ル動機ハ信念也」と述べたように権力が個人の内心まで踏み込んでこようとする動きが現在に続いている。大逆事件の意味と、犠牲者のかかわった運動、現在行われている名誉回復と顕彰の運動の持つ意義をあらためて考える必要があると上山さんは強調する。田中伸尚は「私は明治の『大逆事件』こそ、共謀罪の原点だという認識が当初からあった。それは、非戦を軸に一気に広まった革新的な思想の社会主義を根絶するために国家が乏しい根拠で、『大逆』を共謀・陰謀したという事件をでっちあげ、多数の人々を罪に陥れ、生を奪ったからである。動機が思想にあるとして事件を作った日本の国家のあり方と、そのような国家を許容してきた社会意識−近代日本に刺さっているトゲを、そうとは気づかない社会意識−が今なお地続きのままで、それが共謀罪を生んだ」と書いている。〔『囚われた若き僧 峯尾節堂 未決の大逆事件と現代』岩波)

質疑交流
 上山さんが大逆事件問題に関心を持つきっかけとなったのは、大谷大学時代の授業で、事件の犠牲者で無期懲役となった高木顕明がとりあげられたことだった。大谷派東本願寺は、かつて高木を非難していたが現在では態度を改め高木の復権を認めるようになった。「大逆罪」のルーツは何かについて、古代の専制的な天皇制の思想を根拠にしているのではないかという意見、明治の薩長藩閥政府がつくりあげた絶対主義的天皇制を根拠にしているという意見など活発な意見交換が行われた。再審請求運動の現在について、龍谷大の石塚氏が「再審検討会」を立ち上げているとのこと。名誉回復・顕彰運動について各地で積極的にすすめられているが、右翼の妨害があること、死者の名誉市民化には反対という革新政党市議から意外な意見があったことなどが紹介された。名誉回復・顕彰運動の意義について、犠牲者らがかかげた民主主義の思想を我々が受け継ぐことで現代の社会の意識を変え、「共謀罪」など昨今の政治情勢を打ち破るきっかけとなることなどが指摘された。

5月例会報告 自由民権運動と『大阪事件』研究」見学会と報告    1部 もみじ寺(壽法寺)の「大阪事件」碑の見学    2部 「自由民権運動と『大阪事件』研究」   案内・報告 竹田芳則さん(運営委員・奈良大学教授)

5月例会写真

もみじ寺(壽法時)「慰霊碑」見学
 快晴で初夏の暑さを感じるなか、大阪市天王寺区四天王寺二丁目の壽法寺(もみじ寺)を訪ねました。「水子供養」のはでな看板が目立つお寺は古い大阪の面影を残す四天王寺界隈の一角にあります。元禄時代創建の浄土宗寺院で、かつては境内が天王寺区役所附近まであり、池の側にもみじが咲いていたので「もみじ寺」の通称があります。墓石が密集する細い区画を行くと、 ひときわ背の高い緑色の石の「大阪事件」犠牲者の慰霊碑が立っていました。酷D片岩製の板石(写真1)に深く文字が刻まれています。
  1995年11月23日「大阪事件」(1885年10月)110周年の日に、大阪民衆史研究会が慰霊碑の解説板を立てていましたが、現在周辺が整備されて解説板はありません。解説板に書かれていた内容を以下に紹介します。
 「自由民権運動退潮期の一八八五(明治一八)年五月、自由党急進派であった大井憲太郎とその同志小林樟雄、磯山清兵衛らがはかって、自由党壮士が朝鮮にのりこみ、「朝鮮改革」を行って清国から朝鮮を独立させ、外患をおこして日本人民の愛国心を喚起し、民権運動を勝利に導こうと計画しました。そのため爆発物を製造し、まさに朝鮮へ渡る寸前、発覚し、大阪・長崎などで一三九名が逮捕されました。これが世にいう「大阪事件」で、その歴史的評価は、現在多くの議論があります。逮捕された壮士のうち、福島県出身の加藤宗七は送検前に、群馬県の山崎重五郎、長野県の土屋市助、茨城県の川北寅之助が予審中に病死しました。彼ら四人を顕彰するため、死後まもなくの一八八七(明治二〇)年、有志により慰霊碑が現在の天王寺区逢坂一丁目の天神山に建てられ、盛大に慰霊祭が行われました。しかし、その後、倒壊して安井天神のかた隅に放置されていたのを、これをみかねた有志の奔走と、通称もみじ寺で知られる壽法寺の当時の住職の好意で、再建されました。ところが再び近年、道路計画のため、慰霊碑は倒れたままになっていましたが、今年の春、これを壽法寺に建てていただくことができ、本日、「大阪事件」の犠牲者の関係者のご遺族とともに「追悼のつどい」を開催しました。
 一九九五年十一月二三日 「大阪事件」百十周年の日に     大阪民衆史研究会 」

碑に記された四名について
 午後から竹田さんの、碑に刻まれた四名についての詳細な報告が行われました。  
@加藤宗七は福島県田村郡大倉村(現・田村市船引町)に生まれた。事件に関与し、1885年11月に長崎で逮捕された。送検前の11月28日に同地で病死した。1995年の「追悼のつどい」には親戚の加藤安夫氏(宗七 の兄の曾孫、奈良市)親子が出席した。
A山崎重五郎は群馬県前橋で前橋藩士の五男として生まれ、徴兵逃れのために山崎家の養子となった。自由党幹部の兄の影響で自由党「壮士」となった。1884年自由党が「同士相会シ文武ノ業ヲ攻究スル」目的で設立した「有一館」の館生となった。同館は大井憲太郎を中心とする関東急進派の拠点と化し、自由党解党後は青年党員の牙城となった。「大阪事件」計画にあたり、資金難に苦しんだ大井らは強盗を計画、山崎、大矢正夫、内藤六四郎の三名に決行を命じた。三名はためらいつつ強盗実行を決断した。大矢正夫は『自叙伝』で、このことにふれている。「如何に国事の爲めとハ言ヘ、良民が粒々辛苦して、蓄積したる財を奪ふハ、良心の容れざる所なり、故に第一にハ、吾々の対敵たる官金を奪ふべく、第二にハ、世の所謂守銭奴なる者の産を奪ハんと。」大井憲太郎、小林樟夫は1885年11月23日大阪で逮捕、山崎は27日に大阪府十市郡竹田村(現・奈良県)で逮捕、1886年堀川監獄分署の未決監に勾留中に腸カタルで死去(享年26才)。
B土屋市助は長野県岩尾村(現・佐久市)に生まれた。ハリスト正教会ニコライのもとで神学を学び、ロシア虚無党の影響を受けた?1885年初め「有一館」生となり、10月25日渡韓壮士の第一陣として大阪に集合、長崎へ出発、11月末頃に逮捕された。1886年頃、結核が悪化して危篤状態となり、府立病院で9月14日亡くなった(享年21才)。1995年の「つどい」には、佐久市在住の子孫である土屋次男氏が出席した。
C川北虎之助は茨城県の出身でどういう人物か不明。

慰霊碑建立と再建の経過
 慰霊碑は大阪事件裁判中の1887年、安井天神に「在阪有志」により建立されました。同年9月10日に、天神山で「慰霊懇親会」が盛大に行われましたが慰霊碑には、大阪事件の内容を記すことは認められませんでした。そして、その後倒壊した碑は安井天神の隅に放置されていましたが、壽法寺の先代住職が同寺に移転させ、1910年境内で追悼会が行われました。このことについて、山崎重五郎の兄斎藤壬生雄が『自由党史』(早稲田所蔵)に書き込みをしています。「明治四十三年五月、大坂ニ建設ノ碑ハ更ニ紅葉寺ニ移石シ、大ナル記念祭ヲ執行シ、年々五月 日ト定タリトノ通知、余ノ下ニ在リタリ。」この年1910年8月に、「韓国併合」が行われました。
 1991年5月3日、梅田の太融寺で行われた「国会期成同盟発祥の地」碑前祭時に行われたフィールドワークで「大阪事件」碑が壽法寺(もみじ寺)の境内外に放置さ れているのが確認されました。松尾章一氏が同寺に申し入れ、また犠牲者の一人山崎重五郎の親戚の方(河合和子さん)が京都百万遍の瑞林院に嫁がれ、そのご主人河合孝雄師が壽法寺住職と友人であった関係で、和子さんから強い働きかけがあり、1995年4月壽法寺に碑が再建されました。1995年11月23日に行われた「自由民権『大阪事件』犠牲者追悼のつどい」には、四人の遺族のうち、川北虎之助以外の遺族八名が集まっています。

質疑
 参加者(十名)による活発な質疑が行われました。田崎公司さんは、加藤宗七について、福島事件に関わり、五日市で小学校教員をしていた、地元の人は「悪いことをして長崎まで行った人物」と噂をしていた、土屋市助について、渡韓する前に赤穂浪士の刀を渡されたという話が残っている、碑が置かれていた安井天神は真田幸村切腹の場と言われている、「大丸」が気に入っていた土地で、「大丸天神」とも呼ばれ、大塩平八郎の乱の際は、大丸は襲撃対象とならなかったと言われていることなど興味深い話をされた。山内英正さんは、落合寅一が信貴山寺に押し込み強盗に入った時のことをくわしく語られた。飾り用のおもちゃの小判を持っていこうとしている最中、村人が騒ぎ出したので、日本刀を振り回して逃げ出した。寅一は、逃げ足が速かったが道の雑草を刀で伐採しながら後の者の逃げ道を作りながら逃げたという。頭山 満などからも尊敬され、晩年に至っても時局批判をやめなかったので警察が24時間尾行していたという。家族が「こんな老人が何もできないのだから放っといてくれ」と頼んで、ようやく尾行が解かれたとのこと。キリスト教に入信、断酒をし、救世軍活動を続けたという。金井隆典さんは、事件逮捕者の救援活動が非常に組織的に行われていたことを指摘された。慰霊碑が裁判の最中に計画されていること、拘留された人々への差し入れの手続きが書式化されており、救援活動の形式がフォーマット化されているほど救援活動が組織的に行われていたことがわかります。裁判の傍聴記事は、新聞の間で温度差があったという。「毎日(大阪毎日新聞)」は冷たい扱い、「朝野新聞(東京)」は、傍聴の電報記事を毎回掲載するなど熱心に扱ったという。
 事件の評価について新たな説明板を作るのであれば、論点(注・参考資料)をどのようにあきらかにするべきか、明確にしてゆく必要があるのではという意見が出され、これについては、研究会的なものを作る必要があるという声もあり、検討課題となりました。

4月例会報告 フィールドワーク 武庫川渓谷廃線跡を歩く

4月例会写真

 本会会員で兵庫歴史教育者協議会会長の山内英正さんの案内による「武庫川渓谷廃線跡を歩く」フィールドワークは、2022年4月10日(日)に行われ6人が参加しました。今年は桜の開花が早く、当日は少しピークが過ぎていましたが、好天にも恵まれ、満開のなかハイキングを楽しむことができました 。
 JR宝塚線(福知山線)西宮名塩駅に午後1時集合し、丹波街道と呼ばれる旧道を15分ほど下ったところが、廃線跡の入口となっています。ここから武田尾駅手前までの約4.7qが事実上のハイキングコースとなっていますが、管理主体がJRと行政で複雑にまたがっており、事故などについては「自己責任で」とのことのようです。したがって、途中トイレもなく、枕木の残る道を歩き、真っ暗なトンネルを懐中電灯で照らして進んでいきました。
  また山内さん自身が関わってきた「武庫川ダム建設中止、ダムに頼らない総合治水」をめざした「21世紀の武庫川を考える会」の運動の成果で、2011年、国交省は武庫川ダム中止を発表しました。それにともない同会は関係者と話しあいを続け、2016年に廃線跡の一般開放が実現しました。同会は、武庫川渓谷の自然と景観を守り、より豊かな武庫川づくりのために皆さんとともに運動を続けたいとしています。
  山内さんの解説でそのダム計画施設の名残や、明治時代の阪鶴鉄道の遺構などを見学しながら、最長414mの北山第2トンネルなど、合計6つのトンネルを通り抜けました。そのなかで、長尾山第1トンネルの入口では、1929年のダイナマイト爆発事故で朝鮮人労働者が死傷しています。
 サクラ研究の演習林としてこの地の山を譲り受けて「亦楽山荘(えきらくさんそう)」を構え、大正末期から武田尾駅から線路を歩いて通ったのが、「桜男」笹部新太郎です。大阪市北区堂島に生まれた笹部は、父から月給取りにはなるなと厳命されたことを守り、東京帝国大学法科を卒業以後、一度も職業に就かず、生涯をサクラの研究に捧げました。 現在、「亦楽山荘」は宝塚市により「桜の園」として里山公園として開放されています。私たちは、武庫川の親水広場から「亦楽山荘」跡まで急な山道を登って、途中、ヤマザクラの満開を見ることができました。笹部は個性のないクローンであるソメイヨシノを忌み嫌い、ヤマザクラを愛したとのことですが、その美しさを知ることができて、ここまで登ってきた甲斐があったと思いました。 ゴールのJR武田尾駅に着いた時には夕暮 れ時となっていましたが、心地よい疲れとともに大阪の家路につくことができました。

3月例会報告 シンポジウム「淡路島の『自由民権』と明治憲法批判 −島田邦二郎『立憲政体改革之急務』」

 今回のシンポジウムは、2020年3月7日に東京の大正大学で開催予定が、コロナ禍のために中止延期となったため、2年越しに大阪たかつガーデンでようやく開催にこぎつけたものである。全国自由民権研究顕彰連絡協議会と大阪民衆史研究会が共催して、オンラインと対面方式を同時に行うという本研究会にとっては初めての試みも、多少の機械的トラブルはあったものの、全体で49名(zoom23名、対面26名)の参加でシンポジウムは無事成功の運びとなったことを喜びたい。以下に、当日の報告、質疑交流について、要旨を報告する。
 シンポジウムは筒井秀一高知自由民権記念館館長のオンラインによるあいさつにはじまり、島田 耕、竹田芳則、高島千代、新井勝紘(オンライン)、福井 淳の五氏による報告が行われ,その後質疑交流が行われ、閉会の挨拶を尾川昌法大阪民衆史研究会会長が行った。司会は大阪民衆史研究会副会長の松浦由美子、同事務局長の林耕二が担当した。
(1)報告
報告1 島田 耕さん(映画監督・島田彦七ひ孫・大阪民衆史研究会副会長)  「島田邦二郎と私」(要旨)
 東京で映画の仕事を30年勤め、1980年に大阪にもどり、淡路の叔父の家に行くと邦二郎の資料が届けられていた。自由民権百年のとりくみで太融寺に国会期成同盟の記念碑を建てる募金などをよびかけていたころで、中瀬寿一さんなど歴史研究者と出会い、五日市憲法などの話も出た。似たものがうちにもあると言ったことで、知人の藤林伸治が調べたいと言うので、交詢社関係の資料を送ると他にないかということになり、萩原さんや向江さん、竹田さんらが実家の蔵の調査を行い邦二郎の『立憲政体改革之急務』が世に出ることになった。史料は島田家文書として洲本の淡路文化資料館に保管されている。資料中には王陽明の本などもあり、先祖は庄屋だったが読書や俳諧などに関心が深かったことがわかる。おばあさん(彦七の娘のよしの)の話として、彦七と邦二郎が自由民権運動をして淡路の幹部だったこと、邦二郎は東京で学問をしたのに村長や議員をしただけで惜しい人、大塩平八郎の門下生倉田績(紀州)が八木村の国分寺にいて、彦七と邦二郎が陽明学を学んだこと、客間に績と署名がある扁額があること、陽明学は本を読むだけではなく実践することが大事、などの話を聞かされ、東京へ出て学生のころ東宝争議を支援に行くような人生につながったと思う。邦二郎の葬儀には出た記憶がある。彦七は、福沢が「天は人の上に人をつくらず」と言ったが、「天子さんがあって、妙なものじゃ」と言った。研究者の方々のご協力で邦二郎の『立憲政体改革之急務』 を発見し、大阪民衆史研究会で『島田邦二郎「立憲政体改革之急務」史料集成』を発刊できた。いま憲法改悪の動きがある中、日本国憲法は決してアメリカの押しつけ憲法ではなく、その源流には自由民権運動があり、邦二郎らの明治憲法批判、さまざまな憲法草案研究の活動などがあることを、もっと世間に報せてゆく必要があると思う


報告2 竹田芳則さん(奈良大学教授・大阪民衆史研究会運営委員)  「島田邦二郎の自由民権思想の背景を探る」(要旨)
   邦二郎の自由民権思想の前半期、明治10年代までを探る。特に邦二郎の思想形成に影響を与えた兄彦七との関係、淡路の自由民権運動との関係をみてゆく。
1,淡路における成立期から高揚期の自由民権運動 初期 
 1870年徳島藩蜂須賀家の筆頭家老稲田氏別邸が襲撃される庚午事変(稲田騒動)が起こる。1874年板垣らが「民撰議院設立建白書」を出した直後、徳島の自助社が設立、1876年淡路島が兵庫県に編入され、同年淡路自助社が設立される。初期は徳島の影響が、後半以後は兵庫県全体の運動に位置づけられる。1875年、「通諭書」事件が起こり大審院が回収命令を出す。同年、35人が大阪愛国社設立に参加した。 高揚期 自助社に替わり民権運動の中心となるのが1877年安倍喜平により創刊された「淡路新聞」、鹿島秀麿は慶応卒業後に同紙創刊に参加。1880年愛国社第4回大会が開かれ集会条例が出される。吉田一郎が「淡路新聞」で同条例を批判。1881年神戸交詢社社員らによる兵庫県憲法講習会が私擬憲法法案「国憲私考」を起草、鹿島は安倍誠五郎らと修正委員として関わり兵庫県改進党の運動で大きな役割を果たす。 植木枝盛の淡路遊説 民権運動の最高揚期の1881年5月に津名郡志築村の青木茂七郎の要請で植木枝盛が淡路遊説を行い、島田彦七らが洲本遊説中の植木を宿舎に来訪、交流する。1882年佐野助作らが淡路自由党を結党、島田彦七も常議員15名のうちの1人。同年、淡路改進党も結成される。自由党中央本部臨時大会に淡路地方支部から榎列村の真野方郎が参加。
2,島田彦七、邦二郎の民権運動参加
 邦二郎の兄彦七(島田 耕氏の曾祖父)は淡路の三原郡鳥井村の庄屋島田家の長男に生まれた。1881年洲本に遊説に来た植木枝盛を訪ね、82年には淡路自由党結成に参加した。82年集会条例改定で政党の地方化が禁止され、その後全国的な解党の流れがあり淡路自由党も解党された。 邦二郎は、三原郡八木村の笑原村で生まれた。1876年洲本師範学校に入学、翌年神戸師範学校に合併され同校に移る。1880年慶應義塾に入学、英学を学び、1884年千葉県の南窓明治学会に招かれ、英学教師となり、その後大阪市で私塾を開き、英学を教えるが病気となり淡路に帰国する(30才)邦二郎の「交詢社私擬憲法案」は、第79条の条文までが転記されている。朱書きの修正などがされているが、邦二郎が草案討議に参加していたことを表すものではない。
  邦二郎は慶應義塾に学び、交詢社の私擬憲法案に大きな影響を受け、10年後の『立憲政体改革之急務』執筆の原点となったとも考えられる。
3,島田邦二郎の政治思想と人的ネットワーク
  『資料集成』にある「第三号人名記録」には、東北から熊本まで96人の個人名があり、山形、千葉県地引村付近の民権家、慶應義塾出身者が多い。  栗原亮一は浪華学舎で邦二郎に英学を教え、国会開設請願から1881年自由党結成に加わり板垣の洋行に随行。『自由新聞』主筆として84年清仏戦争を清国で取材。帰国後「大阪事件」連累者の疑いを恐れ自宅に閑居。88年大同団結全国有志大懇親会開催で発起人総代。第1回衆議院議員選挙以後1908年まで当選10回、自由党土佐派の中心人物として自由党から憲政党、立憲政友会に所属、板垣内相秘書官もつとめた。
 高須峯造は愛媛県越智郡の出身、1878年浪華学舎で英学を学び、栗原の家に同居。80年、邦二郎と同じ日に慶應義塾に入社。81年慶応卒業後、山形県で東英社を組織、『山形新聞』に助筆。83年越智郡から県会議員に選出、のち弁護士となり、85年邦二郎の「松山紀行」に旧友として登場。87年に県会の改進主義者らで予讃倶楽部を結成。旧自由党系を批判する改進党員と連携し、愛媛進歩党を結成。
4,島田邦二郎の政治思想の系譜
  国会期成同盟が憲法案起草を呼びかけた民権運動飛躍期に邦二郎は慶應義塾学生だった。交詢社案に影響を受けたが民権運動には積極的ではなかった。1886年に淡路に帰って、三大事件建白運動の頃から政治に本格的に関わるようになった。兄彦七と佐野助作らは淡路自由党主流派で、邦二郎もその立場だったが思想的には「福沢派」に近い?旧友の高須峯造は改進党系に近い行動を取る。『急務』執筆のころの淡路の政治状況は、1891年前半期の民権派内部の分裂顕在化、三原郡の大同団結運動が分裂。邦二郎は改進党やこれと共同する旧自由党勢力の三原同志会と対立。もと淡路自由党幹部で「福沢派」として神戸交詢社で私擬憲法を起草した真野方郎とは激しく対立した。邦二郎は、地縁・血縁の確執をともなう地域での政争の中で、これまで積み上げてきた理想とする憲法構想を『立憲政体改革之急務』に書き残そうとしたのか?

報告3 高島千代さん(関西学院大学・大阪民衆史研究会運営委員)
 「『立憲政体改革之急務』は何を語っているか」
 島田邦二郎の『立憲政体改革之急務』は、『自由民権百年』最終号(1985年)に一部紹介され江村栄一編『日本近代思想体系9 憲法構想』(1989年)に全文がはじめて紹介された。明治憲法施行当時最も「ラデイカルな見解」であり、質量共に非常に優れた構想であるにも拘わらず、まだよく知られていない。
1,執筆に至るまで
 邦二郎の活動時期は、明治10年代(1878〜86) の大阪・東京での英学修業を経てイギリス立憲君主制を良いと考える『急務』の基本的なアイデイアを獲得、民権派と接点を持つ時期と、明治19年に淡路に帰郷、三大事件建白運動(地租軽減、言論集会の自由、外交政策の転換を要求)・大同団結運動を担ってゆく時期とにわかれる。1887年12月には三大事件建白書提出のため淡路代表として上京。土佐・淡路自由党系グループと連携運動する。主要な要求は「責任内閣」である。ほかに普通選挙、一院制、首長公選・直選制、言論集会の自由、国会開設前の選挙人等の心得に関する議論、憲法点閲論も議論。これらの項目は、『急務』の中にもみられ、この時代の運動を背景に『急務』が書かれたことは確か。彦七、邦二郎は兵庫県議会選挙にも出馬、落選するが、この時の経験が『急務』中の「人民」「輿論」は「不完全なもの」(第一章)、「郡長公選論」(第四章)などの主張に反映されているのではないか。1891年1月8日前に上京し、たぶん第一回帝国議会を傍聴し議会の予算査定権限の限界や立憲自由党の分裂を見た経験も明治憲法67条を念頭に、『急務』の中に反映されていると思われる。
1889年2月〜91年前半に『立憲政体改革之急務』を執筆か
 邦二郎の視座は、明治10年代は地方から中央を、19年以後は中央にいて、明治憲法制定と国会開設以後は地方を自らの場と定めている。立憲政体は改革を許容する体制であり、欠点をもつ明治憲法を改めることを目的とする。道理に訴えて行い、実施する場合は当局者の取捨選択にまかせるとしている。
2,『立憲政体改革之急務』の内容と特徴
 構成は全10章、26×26字の原稿用紙90枚に書かれ字数は約5万字である。緒言と第1章は邦二郎の立憲政体論の理論が集約されている。第2章から第6章までは、立憲政体の具体的な内容、第7章から第9章までは立憲政体を支える人民はどうあるべきかを述べ、第10章はまとめである。
 理論が集約されている緒言と第1章に「天下ノ事物ハ常ニ退歩ノ運命ヲ有ス」とあるように、天下の事物は常に変化し放置すると退化するとし、社会を改良してゆく必要性を述べている。立憲政体は改良に都合が良い政体であるとする。本来、人間は不完全な動物であり、国家の存在理由は人間に保障された天賦人権を可能ならしめるものであるとする。人民が本で、政府が末である。立憲政体は、そのためのもっとも適合的な政体であり人民の意思にもとづく政体であるとする。君主については「世界広シト雖モ、人民ナクシテ君主ナル者アル可カラズ」とし、君主の位は人民の意思にもとづくとしており、これは実質的に国民主権の考え方である。
 第2章~6章は具体的な制度改革論について述べ議会と人民に内閣が責任を負うべきとする「責任内閣論」を「立憲政体ノ骨子」とし、明治憲法55条を、その根拠としている。「普通選挙論」について述べ、女性参政権についてもふれている。 「地方自治論」では首長公選論、議員の直接選挙論を述べている。言論・集会・結社の自由についても述べ、「一院制」について、貴族院不要論を唱えている。これは、憲法改正を必要とする議論である。第7~9章では、立憲政体を支える人民が責任を持ち、「輿論」を正しく保つために常に「事物改良」を志し、まず人民自身を改良すべ きことを述べている。
   さいごに、『急務』の特質、歴史的な位置を3点にまとめると、@明治憲法発布前後の憲法論・政治構想の集大成した議論である。A「不完全な動物」である人間の社会を改良するのに最も適合した政体が立憲政体であり、明治憲法体制も改革の対象としている。B明治憲法の依拠する秩序は、「皇祖」以来の固定的な関係ではなくて自由と権利をもつ人民の意思によって決定されるという民権運動の近代的な秩序意識が継承されている。

  報告4 新井勝紘さん(元専修大学教授・大阪民衆史研究会会員)(オンライン) 「淡路島の『自由民権』と明治政府批判−島田邦二郎と『立憲政体改革之急務』−」   「自由民権期の憲法構想にみる権利意識−山村と島から撃つもの−」
1,2022年1月3日産経新聞に「明治憲法授業で歪曲か、日教組集会で実践例」という記事が載った。新潟県の小学校で、明治憲法と五日市憲法草案を比較する授業が行われたことについて記事では教員の政治的意図、歴史を大きくねじ曲げている、「護憲」を植え付ける意図などが指摘され、これをうけて2月3日予算委員会で日本維新の会の山本剛正議員が質問、文科大臣・岸田総理が答弁した。文科省は新潟県教委を通して確認中との内容。「五日市憲法」は多くの教科書でもとりあげられていて、これは教育への不当な干渉であり、私たちも声明を準備している。
2〜3、家永・松永・江村編『新編明治前期の憲法構想(新編2005年)』では、「まだ私たちの知らないこの種の資料が他にもまだ存在するのではないか」としている。慶応元年~明治20年7月の間に57編が確認され(新編)、未発見も含め101編が存在すると考えられる。今後期待される憲法草案発見地は、1,香川県有志、2、栃木県中節社、3,和歌山県実学社、4,宮城県仙台有志、5,宮城県進取社、6,岩手県盛岡有志、7,島根県出雲有志、8,福岡県柳川、9,茨城県真壁、10,全国各地が考えられる。
4〜11、ラデイカルな案は地域から出されている。憲法草案・国家構想の起草時期は明治憲法発布前後まで広げる必要がある。五日市憲法は、1968年8月27日山林の中の深沢家の土蔵から発見された。同憲法の先駆性は「国民の権利」を明記し、国民の権利を守らない法律は認めないとしたこと。法の前では全ての国民が平等であるとし外国人の権利も認めている。現行憲法でも内外国人を問うて差別が存在する。五日市憲法112条において政府が個人の人権を侵すことがあれば国会が反対を主張し法律の公布を拒絶することができると、立法権の行政権への優位を明記している。地方自治への干渉禁止、教育の自由と教育を受ける権利も認められている。同憲法を起草した千葉卓三郎の法意識は、「備忘録」に「国家は人民に因て立つの名なり政府の務は必ず人民より起り、政府の事を施す」と書いているように、国家が人民の意思をもとに成り立っているという立場を明確にしている。
12〜25、各地の憲法草案等
 新潟県南魚沼郡中村の田村ェ一郎「私草大日本帝国憲法」は、明治19年末〜20年7 月ころに起草。「交詢社」草案に28条を附加した。国民の権利項目が11か条附加され、植木案のみだった「死刑廃止」が明記される。三河国渥美郡田原村(現愛知県田原市)の村松愛蔵憲法草案は、明治14年起草。民主主義の方向に徹した草案で、女性戸主に参政権、一院制議会、法律の留保なしの自由が明記される。愛知県知立市の内藤魯一の大日本国憲草案は、嚶鳴社草案を東京の名望博識の士として批判、一局議院を主張、有司専制の明治政府に対し革新的な憲法創出、君権縮小、人権拡張、一院制を意図している。熊本の相愛社員私擬憲法案は、民権結社「相愛社」の起草。毎夜会議をひらき、明け方まで論議を重ね、中には危険な思想もあった。まとまらずに、東京の矢野駿雄に起稿を依頼し、民約憲法案ができたという。岩手県久慈の小田爲綱家文書は、自由民権期憲法構想の中で不気味な光を放っている。「皇帝憲法を遵守せず、暴威を以て人民の権利を抑圧する時は、人民総員投票を以て廃位の権を行うことを得る」と、国民投票による皇帝廃位を明記している。明治憲法発布に関する感情について、新富座政談演説会のようすが朝野新聞(明治22年)に記録されている。責任内閣や弾劾権に関する明文のないことなどに不満が多く、ある弁士が「我が憲法は完全なり」と言うや否や数百の聴衆が「ノーノー」と叫んだとある。在米民権家からも「政府の改革」「藩閥政府の掃討」「政権の帰する所は我々国民の輿論にあり」などの意見が寄せられていた。中江兆民は1881年「憲法の原理」(『東洋自由新聞』)を発表し、「民の民たる所以の者は、正さに、自ら其憲法を造ることを得るに在り。且つ憲法を造ることは、独、民の自主自由の大権を以て、是に与かるに足る」と主張している。また1890年、自由党結党と32項目の政治目標の原案を起草している。その中で、明治憲法の点閲(一点づつ点検すること)を求めている。華族令や責任内閣、条約締結、選挙権などは明治憲法の弱点とし、最初の国会で逐条審議し、改正することを要求し民権派のまきかえしを試みている。しかし憲法点閲、兵制改革、議会の弾劾権の3項目は集会条例に抵触するということで認可されず、自由党大会で審議されなかった。中江兆民は、明治22年『活眼』で、国会での憲法の点閲と意見があれば上奏する権利があることを主張し、それがなければ真の国会といえない、としている。そして、衆議院議院の一大義務とは、憲法に就いて意見を陳述すること、上奏して陛下の認可を仰ぐことであるとしている。憲法の点閲については邦二郎が『急務』の中でも主張している。

報告5 福井 淳さん(全国自由民権研究顕彰連絡協議会代表・大正大学特任教授) 「都市民権結社の憲法構想」「嚶鳴社憲法草案」
 私擬憲法の先駆けである「嚶鳴社憲法草案」につき、「国民ノ権利」条項を中心に、また邦二郎が全文筆記記録した「交詢社私擬憲法案」につき、「内閣」条項を中心に『急務』などと比較し、島田構想の意義についても明らかにしたい。
 嚶鳴社は地方にも29の支社、全国に1000人近い社員を擁して、あらゆるメデイアを駆使して活動した。「嚶鳴社憲法草案」の起草は1879年末とされる。 起草の参加者は、河津祐之、島田三郎、金子堅太郎などの元老院に在籍した人々が中心となった。彼らは、ジャーナリスト派と対立しており、社長の沼間守一らからは歓迎されなかったため未完成に終わったと考えられる(印刷発行はされた)。国会期成同盟の憲法草案作成決議とは無関係に、元老院の「日本国憲按」起草の影響を受けた独自の起草(民間での焼き直し)であった。
 「嚶鳴社憲法草案」の主な起草者は、@河津祐之、フランス留学をした仏学派で起草時は元老院大書記官。のち立憲政党、司法省刑事局長を勤めた。革命は「毒害ヲ破砕」するが、「破砕」が定着して建設的営為が困難になると主張。A島田三郎、 英学派、起草時は元老院少書記官。のち立憲改進党、衆議院議長。善き「王政」(立憲君主制)は悪しき共和制に優ると主張。B金子堅太郎、英学派、起草時は東大予備門教員、元老院権少書記官。立憲君主制においても王権を制限しすぎないことを主張。「嚶鳴社憲法草案」は、革命には慎重、共和制には懐疑的、王権の存在意義をも認めるが明治政府中枢とは微妙に一線を画した元老院系の穏健な民権家官吏たちを中心に起草された。英学派の島田・金子が実質的な起草者であった。   「嚶鳴社憲法草案」の「国民ノ権利」条項の主な部分−「第1条 凡ソ日本人民タルモノハ法律上ニ於テ平等ノモノトス」など−は元老院「日本国憲按」条文を引き継いだものであったが、民権派にヨーロッパ各国(スイス、イタリア、オランダ、スペイン)の憲法が盛り込んだ普遍的な国民の政治的権利の存在を知らせる積極的な意義をもった。ちなみに明治憲法では「平等」の語を使用していない。「女帝」について、第6条「皇族中男無キ時ハ皇族中当世ノ皇帝ニ最近ノ女ヲシテ帝位ヲ襲受セシム」と女性の皇位継承を認めている。「国憲ノ改正」について、憲法の改正は第1条「憲法ヲ改正スルハ特別会議ニ於テスベシ」と、第2条「両院ノ議員三分の二ノ議決ヲ経テ皇帝ノ允可スルニアラザレバ特別会ヲ招集スルコトヲ得ズ」とし、憲法改正を通常の法律の範囲でとらえる元老院「日本国憲按」と異なり、憲法改正のハードルが高いことを示す。
交詢社「私擬憲法案」と島田「立憲政体改革之急務」の内閣に関する構想の比較
 邦二郎史料に「私擬憲法案」全条文を筆記したものがあり、『急務』執筆にあたり、影響を受けたことが考えられる。「私擬憲法案」の「内閣」と、島田『立憲政体改革之急務』の「第弐章 立憲政体ノ骨子 一名責任内閣論」を比較検討すると、その主要部分は、「私擬憲法案」の「内閣」条項の主旨や一部用語が近似している。島田は、 「私擬憲法案」から基本的な着想を得つつ「明治憲法体制」改革を意図し、それを一時的なものとせずに改革を定着させようとした、そして「議院内閣制」、「責任内閣」を独自に構想したことなどが島田の真骨頂として評価できる。また、「交詢社」以外の文献、ベンサムやトクヴィルなども読んでいたのではと考えられ、島田の勉強熱心ぶりが窺われる。
(2)質疑応答
 参加者は計49名、短時間ながら活発な質疑が行われた。
質問・森下賢一さん(大津市)、「島田邦二郎が人民の人権や自由について、どのような意見を持っていたのか?私は植木枝盛を尊敬しており、人権の保障こそ憲法の要と思う。」
感想・渡辺倬郎さん(堺市)「本を買っていたけど、あまり読んでなかったが、今日の話を聞いて非常によくわかった。新井さんが五日市憲法を教材にしたことを維新が国会で追及するという不当なことが行われていることを紹介されていたが、大阪でもオンライン授業について意見を述べた校長を維新の松井市長が処分していた問題があり、維新の不当な教育介入政策が全国に影響をおよぼしていることは問題と思う。」
高島回答、「すべての人は様々な能力を持って生まれてきているが、それらの能力を十全に発揮し、幸福を得ることができるように人権が保障されなければならいという考え方で、スペンサーに近い考えと思う。結社の項でも、もし政府が悪政を行えば、政治結社は、それに抵抗しなければならないとも主張している。」
質問・松崎さん(zoom)「竹田レジメ中、P3史料島田邦二郎宛彦七書翰の『明治15年』は『明治14年』ではないか?」
竹田回答、「『急務』では明治14年になっている。レジメがまちがいでした。」
質問・杉山弘さん(zoom)「民権家の法の思想について、状況の反映、スペンサーやミルなどの影響は」質問・真辺美佐さん(zoom)「邦二郎が共和制から立憲政体に考えが変わったのはなぜか?」
高島回答、「『急務』について、まずスペンサーが思い浮かぶ。立憲政体が変化に対応するというところなどスペンサーに近い。地方自治論などはトクヴィルの影響が考えられる。今後検討課題としたい。」「立憲民主政体に考えが変わった理由ははっきりわからない。大阪にいる頃、竹内や栗原、岡山の結社のラデイカルな考えの影響などが考えられる。その後東京に行って、慶応に学び日本の社会に適応した立憲君主政体を考えるようになったのでは。」

1月例会報告 南田みどりさん(大阪大学名誉教授)「ビルマ文学の風景に見る抵抗の系譜」

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ビルマとミャンマー
 南田さんは日本で数少ないビルマ語とビルマ文学を教える大学の専任教員である(現在は大阪大学名誉教授)。2020年3月に45回目のビルマ訪問を終えて帰国した。昨年2月に軍事クーデターが起こって市民の抵抗が続いている。南田さんは渡航禁止となった機会に、軍事政権下でビルマ文学が経た試練、文学的経緯をまとめ、『ビルマ文学の風景−軍事政権下を行く』を書き下ろした(2021年本の泉社刊)。
 かつて「ビルマ」と呼ばれた国は、軍事政権により1989年以来「ミャンマー連邦」と国名表記を変えた。ビルマとミャンマーは同義で、多数派民族のビルマ族を指す名称である。英語表記が「バーマ」、ビルマ語表記が「バマー」と「ミャンマー」である。 軍事政権は、「バマー」は多数派民族ビルマを指し、「ミャンマー」は全住民を指すとしている。全住民には、ビルマ族のほかに、シャン族、カチン族、カレン族、モン族などの多くの民族が含まれ、135の民族が居住するといわれている。南田さんは、軍事政権が、これらの少数民族の言語と文学の独自性を認めているとは思われないとしている。
 歴史的には多数の民族の覇権抗争があり、11世紀に第一次ビルマ族統一王朝が成立、13世紀に元の侵入、16世紀~18世紀に第二次ビルマ族統一王朝が成立、この頃西欧列強の介入がはじまる。第三次ビルマ族統一王朝が三度の対英戦争で滅び、ビルマ族の王国は終わり、イギリスの植民地支配がはじまった。
 国軍の前身「ビルマ独立軍」は、日本軍の特務機関によって訓練された30名の部隊をもとに1941年にタイで結成された。「独立軍」と日本軍が1942年にビルマ南部に侵入、英軍の撤退後日本は軍政を施行、1943年「日本軍政」が撤廃され、「独立」が与えられたが、日本軍のインパール作戦敗退後に、1944年抗日統一戦線が結成され、1945年連合軍がヤンゴンを制圧後、日本軍が敗走し日本の統治が終わった。

ビルマ文学抵抗の系譜とビルマ国民の民主主義を求める闘い
(1)植民地時代(1886〜1941)
 全土がイギリスの占領下におかれ、反英闘争が続く中で、1904年『モンテクリスト伯』の翻案で近代小説の始祖『マウン・インマウンとマ・メーマ』が発表された。タキン党が結成され近代的ナショナリストに 『ビルマ文学の風景』 よる反英闘争がはじまった。タキン党の大規模な反英 行動、労働者・農民と知識人の共闘が生まれ、1939年タキン党内サークルとしてのビルマ共産党が創設された。
(2)日本占領期(1942~45)
 1941年日本軍特務機関がビルマ独立軍(BIA)を創設、1942年3月、日本軍と共にラングーン(ヤンゴン)に入場し6月日本軍の全土軍政布告。ビルマ独立軍は解散しビルマ防衛軍に改編された。日本軍政を民衆に浸透させるため、作家協会を再建する。1943年に日本軍傀儡政権が発足し、防衛軍司令官アウンサンが防衛大臣に就任した。1944年、抗日統一戦線「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、1945年3月反ファシスト人民自由連盟が抗日蜂起する。
(3)戦後(1945〜1949)
1946年に英国が復帰する。タゴン・ターヤー(1919〜2013)が『ターヤー(星座)』誌を創刊、「新文学」を主唱する。反ファシスト人民自由連盟総裁アウンサンが暗殺され、後継者のタキン・ヌ(ウー・ヌ)がビルマ翻訳文学協会を設立、会長となる。1948年ビルマ独立。1948年3月、共産党が蜂起、以後戦後作家の拘束が始まる。1949年、カレン族とモン族の武装組織が蜂起、内戦状態となり分断社会が出現する。娯楽・純文学抗日小説や人生描写の小品が登場する。
(4)50年代(1950〜59)
 1951年、総選挙で反ファシスト人民自由連盟が勝利する。ウー・ヌ内閣が発足。作家、学生が逮捕され、戦後作家の拘束第2波がはじまる。1958年、国軍がヤンゴンを包囲、ウー・ヌ首相が国軍への政権委譲宣言をし、ネー・ウイン将軍の選挙管理内閣(第1次軍政)はじまり、政治家、労働運動家、作家、ジャーナリストらが逮捕され、作家拘束第3波はじまる。このころ人生描写小説など多様な文学世界が生まれる。
(5)60年代(1960〜69)
 1960年、総選挙でウ・ヌー元首相が勝利、第1次軍政が終わる。1962年、国軍がクーデターで政権を奪取、ビルマ式社会主義計画党を設立。全作家を集めて国民文学会議が開催される。政府と共産党、少数民族軍の和平交渉が決裂し、左翼と組合指導者が大量逮捕される。戦後作家拘束の第4波がはじまる。全政党、作家組織も解散する。少数民族との友好小説や娯楽小説が多い。
(6)70年代(1970~79)
 ビルマ式社会主義のもとで「民政移管」が行われるが、軍人が私服に着替えただけの時代。1974年、ビルマ式社会主義共和国憲法の発布、人民議会選挙が行われる。「民政移管」が行われるが、1975年事前検閲がはじまる。1976年、ヤンゴン大学学生デモが行われ首謀者が処刑される。1977年、ネーウイン暗殺未遂事件が起こる。文学労働者連盟が結成、小説における左翼潮流が完全撤退し、「愛国小説」が増える。
(7)80年代(1980〜89)
 ビルマ式社会主義が崩壊、新たな軍事政権・国家法秩序回復評議会が成立、国軍が武力で全権を掌握する。国連から最貧国の認定受ける。雑誌が多数創刊され、短編小 説の黄金時代。1988年、国民民主連盟(NLD)結成される。1989年、アウンサン・スーチーらが自宅軟禁される。ビルマ共産党が壊滅。
(8)90年代(1990〜99)
 1990年、総選挙で国民民主連盟が圧勝するが、政権移譲なし。1991年、アウンサン・スーチーがノーベル平和賞受賞。軍事政権、憲法制定のための国民会議を開催、作家が多く(女性作家も)投獄される。検閲が強化される。1995年、アウンサン・ スーチー自宅軟禁解除。1996年、自宅前道路封鎖、逮捕者増加。
(9)2000年代(2000〜2009)
 2000年、アウンサン・スーチー再び自宅軟禁。2002年、軟禁解除。2003年、遊説中に襲撃され軟禁される。2006年、首都がヤンゴンからネービードーに移転。2007年、ビルマモダンの旗手ターヤー・ミンウエーが死亡。長井記者がデモ取材中に銃殺される。2008年、サイクロンで使者14万人。ジャーナリストが多数逮捕され、検閲が強化される。新憲法草案の投票実施、新憲法が成立。2009年、軟禁中のアウンサン・スーチーが自宅に米国人男性を入れたとして公判、軟禁1年半延長。
(10)2020年代(2020〜2019)
 新憲法下で初の選挙。国民民主連盟はボイコットし、国軍の連邦団結発展党が圧勝。アウンサン・スーチー軟禁解除。「民政」開始、国軍総司令官テイセインが大統領に。2012年4月、議会補欠選挙でアウンサン・スーチーら国民民主連盟が圧勝する。事前検閲制度が廃止される。2013年、民主化闘争や投獄体験などの社会問題を扱う小説が登場。2015年、総選挙で国民民主連盟が圧勝。2016年、新政権が発足、アウンサン・スーチーが外相、国家最高顧問に就任する。2016年、ラカイン州でアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)の襲撃と国軍の「反撃」があり、ロヒンギャ・ムスリム70万人の難民が流出する。この事実を報道した記者が逮捕される。2019年、アウンサン・スーチーがハーグの国際司法裁判所に出廷、過剰な武力行使を認めるも、ジェノサイドは否定する。ロマンス作家ジューが国民文学賞長編部門を受賞する。発禁小説の再版、性的描写の「過激」是非をめぐる論争が行われる。2020年、憲法改正案が軍人議員の反対で否決される。総選挙で国民民主連盟が圧勝。2021年、「選挙に不正があった」として国軍が政権を簒奪する。国家最高顧問、大統領ら閣僚・議員が多数拘束される。当時取材していたアメリカ・CNNの記者が、国軍のメンバーについて「こんな程度の低い人にはじめて会った」と感想を述べている。国軍の弾圧が暴力化し、ネットの切断、銃火気の使用、放火、子どもを含む市民への無差別攻撃、押し込み強奪、逮捕者への拷問・虐殺・性的虐待、遺族引き渡し時の金銭要求など非人道的犯罪行為が多数みられた。逮捕をまぬがれた議員らが連邦議会代表委員会CRPHを結成、国民統一政府(NUG)の発足を宣言する。NUGは人民防衛隊PDFを結成する。国軍と戦闘状態に入る。国軍による弾圧で使者1000名を超す。国民の抵抗が激しく、国軍は空爆などなりふりかまわぬ攻撃を続けている。

質疑交流
 南田さんの濃密な報告を受けて 質疑は活発に行われた。
●市民は分断社会を乗り越えて、国軍は劣勢に立っている。
 分断社会について質問があった。現状は、国軍の弾圧に対して国民の総反撃が行われていて、国軍は現在は劣勢に立たされ凶暴な弾圧を続けている。その中で、かつて国民を分断していた壁が崩壊しているとのこと、分断の主な壁とは民族対立であり、ロヒンギャに対する偏見も溶けつつあり、さまざまな少数民族の共闘がすすんでいる。防衛隊が国軍の飛行機を撃墜した際に、国軍広報官が「(貴重な)飛行機を撃たずに 人間を撃ってくれ」というわけのわからない返しを発言したとか。カヤ州では、警官隊が不服従運動に入ったとか。何でもマンガになり、「犬(国軍)が来たよ、おれたちじゃないよ、と本物の犬が言ってる」とか。
ロシアがバックについている。
 「国軍があつかましくも居座っているのは、バックにどこかの勢力がいるのか?」の質問には、「ロシアがついている」との回答。国軍の訓練など、ロシア軍がやってるらしい。ロシアは世界中で悪いことをやっている。
●日本の援助と国軍の関係。
 日本の特務機関がビルマ軍を作り現在の国軍の基礎を築いた。笹川良一の息子が国軍に米国人解放の交渉に行った背景は、よくわからないところがあるが、そのへんのところも調べる必要がある。日本は2019年に1900億円もの政府開発援助(ODA)を供与している。国軍系の企業がミャンマー経済を支配し国軍の経済的利権となっており、日本企業の進出との関係も深い。日本は人権擁護に対する毅然とした態度が求められている。