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大阪民衆史研究会例会資料室

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2021年例会報告

1月例会報告・福田 耕さん(本会会員)「吹田のご当地遊び『火水木(ひみずき)』をめぐる人と町のあゆみ―親たちの運動に注目して―」

1月例会写真

 火水木(ひみずき)とは、「火」「水」「木」の三チームに分かれ、「火」は「木」を、「木」は「水」を、「水」は「火」をそれぞれ追いかけて捕まえることができ、全員が捕まるか、捕まえられた数が多いチームが負けという変形型の鬼ごっこです。異年齢の集団がどこでも簡単に遊ぶことができるため、火水木は吹田市内の学校や学童保育、保育所などで親しまれており、吹田のご当地遊びとしてメディアなどで認知されています。
  吹田市制施行80周年の事業で、火水木の大会(コロナのため中止)とパンフレットを企画。パンフレット作成の過程で、この遊びが1975年に誕生したこと、この背景に60年代から保育所や学童保育づくりの運動に関わった親たちがいたことが明らかになりました。
  高度経済成長期に国鉄職員として吹田に移り住んだ中矢道一さんに聞き取りしています。
 「僕も国鉄の運転手だったから時間が不規則なんですよ。駅員と違って運転の方をやっているから、出勤時間も夜中に出勤するとかなんぼでもある職業だから。共稼ぎしていて、長時間保育もほしいし、病児保育もほしいし、ゼロ歳児保育もほしいし、自分の要求でもあるんだけれど、そのために"保育園をつくっていこう"と、こばと保育園をつくる運動から関わっているんです」(2019年10月16日聞き取り)
  パンフレット作成に関与した一員として、報告者は多くの史料を紹介しています。その中から明らかになったことは、戦災被害が比較的少なかった吹田地域が、人口の急増とともにベッドタウン化が進み、新興住宅に移り住んだ若い住民にとって、子育ての環境整備が緊急の課題となっていたことです。そうした中で、地域住民の要求として、保育所増設運動・延長保育など保育内容の充実・学童保育開設などが掲げられました。
 運動の担い手として、労働組合や母親大会連絡会など民主団体の果たした役割も 指摘されています。なによりも、1971年4月の榎原革新市政の誕生が、保育と学童の条件整備を大きく推し進めることになりました。  学童保育の運動が広がる中で、父親の子育てや学童運動への参加が進み、1976年9月に服部緑地で行った吹三小学童保育の親子合宿で、中矢道一さんが戦時中に自分がやっていた「水雷、本艦、駆逐艦」遊びを提案。「そんな軍隊みたいな名前つけるのやめてや」と意見が出て、「火水木」に置き換えたところ、子どもたちに大うけして、いつまでもやめようとしなかった、というエピソードがあります。これが、「火水木遊び」の始まりだと考えられます。
 1977年12月、「五中校区子どもを守る連絡会」の結成総会が開かれ、日本けん玉協会会長で日本文芸家協会理事の藤原一生さんが「親の愛情は何か」をテーマに記念講演。連絡会は、公園や児童館整備など子育てをめぐる環境をよくする運動を展開することになります。
 例会参加者の中に、火水木が誕生した吹三小で学童指導員をしていた前田睦男さんがおられ、当時の学童保育運動について、熱く語られました。
  「大学を卒業したところで、五中校区の運動と一緒に、保育運動もやり保母の免許も取りました。吹田の学童指導員がいないと言われ、1年で保育士を辞めて学童保育に入りました。手取りが6万から3万に半減しましたが、いろんな所へ行って、食べさせてもらいました。元々教職に就きたかったので、午前中は採用試験勉強して午後に学童に行きました。結局、一年で大阪市の教員となりましたが、土日は少年団の仕事、また教職員組合の青年部活動もしました。神鍋合宿のことも覚えています。地域がすごく世話してくれるし、住まわしてくれたりしました」。
 聞いていて、前田先生の青春真っ只中を、追体験させてもらった感じがしました。  その他の参加者から、大阪市港区でも同様な運動があり、吹田革新市政と黒田革新府政の果たした役割や60〜70年代の時代背景について意見が出されました。  報告1時間半、質問・討論約1時間と、コロナ禍にかかわらず活発で有意義な例会でした。
  吹田市制施行80周年プロジェクト会議が作成した火水木の歴史が掲載されたパンフレットは、「火水木 パンフレット」で検索するか、以下のURLから閲覧できます。 https://suita80th.jp/himizuki/ パンフの感想を80周年の事務局
(FAX06-6384-1292)にお寄せください。

8月例会報告 渡辺 武さん(会員・元大阪城天守閣館長)による大阪城フィールドワーク

8月例会写真

目に見える大阪城遺構の全ては江戸期の再建だった
 8月1日(日)猛暑と翌日に4度目の緊急事態宣言が発出される中、大阪城フィールドワークが行われた。案内人は元大阪城天守閣館長の渡辺 武さん。   集合地の大手門は、大阪城の表玄関である。他の門はすべて裏門という。豊臣時代の遺構は、すべて地上には存在せず、大坂夏の陣以後、徳川幕府が盛り土をして埋め立て、石垣も夏の陣の五年後に再建したという。しかし地中に眠る豊臣時代の遺構が近年発見され、現在発掘調査と整備事業がすすめられている。近い将来、地下7mの遺構が見学できるようになるという。
 明治維新以後、秀吉を持ち上げる風潮が高まり、大阪城も豊臣時代の遺構という印象が強まった。大阪城天守閣は夏の陣以後に幕府が再建したものが江戸時代に落雷で消失、昭和6年に市民の寄付で再建されたものが3代目の天守閣である。このときの復元担当者は、規模や外観、場所についても誤解をしていたという。

軍都大阪の中心であった大阪城
 明治以後、大阪城内には大阪鎮台(全国に6鎮台が置かれ常備軍を形成)が置かれ、のちに鎮台が廃止されて師団となり、第4師団司令部が置かれ、昭和15年に中部軍管区司令部に替わった。昭和6年に市民の寄付150万円のうち80万円で、師団司令部がドイツ様式の堅固な建物として作られた。残りの70万円で天守閣が再建された。そのとき師団司令 桜門前で解説する渡辺さん 部を寄付金で建てるかわりに、大手門から本丸への通路と本丸内全域を公園として市民に解放することを了解させたことは画期的なことだった。大阪城には、ほかに大砲などの武器を生産していた砲兵工廠、城南射撃場などの軍事施設が集中、1945年8月14日の空襲で砲兵工廠なども壊滅した。城周辺にも第8連隊などが配置され、大阪城は軍都大阪の中心であった。  

江戸期最高度の石垣から南外堀を望む
 大手門から入ると大手口枡形という四角形の区域があり、侵入した敵を攻撃する場所という。正面の石垣に巨大な大手見付石があり、表面積は29畳(47,98u)ある。多門櫓から太鼓櫓を過ぎて南外堀方向へ行く途中、「石山本願寺推定地」の説明板がある。顕如を中心とする本願寺一向一揆勢力と紀州雑賀衆、毛利氏などの信長包囲網勢力が織田信長と10年あまりの「石山合戦」を戦った中心地である石山本願寺は豊臣の大坂城のさらに地下に眠っている。その遺構をいつかぜひ見たい。ところで近年の研究結果により「石山本願寺」の呼称は「大坂本願寺」に改められつつある。そこから外堀に面して六番櫓(やぐら)があり、階段(雁木)を上ると、南外堀を見渡せる通路に出る。このあたりの石垣は江戸期の最も高い石垣という。見晴らし最高、めったにこんな所には来られない。間隔を置いて銃眼が刻まれ、かつて壁を支えた木柱の穴が残されている。

衛戍(えいじゅ)監獄跡と鶴彬の石碑
 銀杏がいっぱい実ってる銀杏並木と春には満開の桜並木を通り、かつての衛戍監獄跡に出る。金沢第7連隊で「軍隊赤化事件」首謀者として逮捕・軍法会議にかけられ2年の刑を受けた反戦川柳作者の鶴彬(つるあきら)が収容されていた監獄の入り口跡付近に鶴彬の碑が建てら れている。2008年にあかつき川柳会が鶴の没後70年を記念して百日紅(さるすべり)の木の植樹とともに碑を建立、「暁をいだいて闇にゐる蕾」の川柳が岐阜から運ばれた巨石に刻まれている。

天守閣と「大坂夏の陣図屏風」
 一番櫓から豊国神社前を通って桜門から、いよいよ天守閣にむかう。神社は、秀吉をもちあげるために明治政府が現在の市役所付近に建てたが、市役所建設の際に大阪城内に移された。戦時中、神社と師団司令部の間に防空壕が建設された。 昭和29年に防空壕が陥没する事故があり、それ を埋め立てる工事が失敗したために石垣の石が浮き上がるという始末となり、再度の補修が行われたという。
 桜門から本丸、天守閣へむかう。かつて、おとずれる市民・観光客に親しまれていた茶店の姿は今はない。橋下 徹が撤去させたのだ。
 天守閣に入ると冷房が効いていて参加者全員暑さから逃れ生き返ったようだ。現在展示されている「大坂夏の陣図屏風」は複製である。デジタル版が拡大映像で見ることができる。現物は年に一度特別展で公開される。屏風は六曲一双(六枚の屏風で全景が描かれている)で、黒田家から大阪城天守閣に譲られたといわれている。屏風は大坂城をはさんで南側を描いたのが右隻(うせき)、北側を描くのが左隻(させき)で対照的な内容となっている。右隻には、二上山から生駒山をバックに、慶長20(1615)年5月7日に天王寺・岡山方面で行われた最後の戦いが描かれている。中央の天王寺口の戦いで、旧主の武田家の伝統である「赤備え」(具足や旗指物などを赤色で統一)をした真田幸村(信繁)が率いる部隊と家康の次男松平忠直の部隊が激突しているようすが描かれている。その奮戦ぶりで「日本一の兵(つわもの)」と賞賛された真田幸村は、一時は家康本陣まで迫った。左隻には、戦火に巻き込まれて逃げまどう人々の姿が対照的に描かれている。屏風が「戦国のゲルニカ」といわれる由縁である。大坂城落城の際に、殺される庶民、徳川方の武士に拉致されてゆく女性、追いはぎに身ぐるみ剥がれる人々など悲惨な避難民の姿が赤裸々に描かれている。他の合戦図には見られないこのような左隻の描写は謎であるといわれ、右隻がそれなりに時代を経て古色を帯びているのに対して、左隻が古さを感じさせないのは、描かれた内容が幕府にとって公開を躊躇させたために長く非公開となっていたためではないかと渡辺さんは推測する。
  描かれている人物は5千人を超すという。特定の武将にスポットをあてることなく、左隻に見られるように戦火の犠牲となった庶民の悲惨さを描いていることから、従来の合戦図とは異なる「夏の陣図屏風」は何をテーマに描かれたのか?渡辺さんは、夏の陣を最後に戦争の続く世の中を終わらせようという意志が、そこに込められている のではないだろうかと推測する。「慶長」は「元和」に改元され、その後大名同士の 戦争は起こらず、「元和偃武」(げんなえんぶ)と呼ばれる時代となった。偃武とは「書経」の「偃武修文」(武器を偃(ふ)せ、文を修む)を出典とし、武器を蔵にしまい文治政治すなわち道徳に基づく統治を行うという意味。400年前の日本にも憲法9条の精神の源流が見られる。そういう目で一度「夏の陣図屏風」を多くの人に見てほしいものだ。

「夏の陣図屏風」の発注者と作者は?
 このような特異な合戦図を発注した人物と描いた作者は誰なのか?発注者について渡辺さんは、黒田長政や松平忠直を候補にあげる。作者については渡辺さんや他の研究者も有力候補として指摘する人物が岩佐又兵衛(いわさまたべえ、1578〜1650)である。父親が信長に背いて一族が惨殺されたという荒木村重とされ、のち松平忠直(福井藩主)のもとで絵画を制作、「夏の陣図屏風」も忠直の依頼で描いたとも推測されている。
 左隻に描かれている庶民の残酷なまでの悲惨な描写は岩佐又兵衛の作風、特徴に合致するという。又兵衛は近世風俗画、浮世絵の先駆者と考えられている。

11月例会報告 富山仁貴さん(会員・兵庫県立大学非常勤講師 ) 「戦後日本における地域社会運動の水脈−1950年代丹後の河崎弘の歩みから」

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地域社会運動と現在
  富山さんは十年ほど前、大学院生のころ本例会で報告された。今、大学の非常勤講師として新進気鋭の研究者となり注目されている。その研究対象は京都府丹後地域の青年団運動を中心とする地域社会運動である。このテーマを見て、先日終わった総選挙の結果に対するさまざまな評価、特に野党共闘に対する評価との関連について、どこかむすびつくところがあるのではないかという感想を持ち興味深く聞いた。野党共闘は間違いではないけれど、もっと地域での、足元での共闘を強めるべきではないのかという印象を強く抱いた。そういう点で、富山さんの戦後の丹後地域での青年団活動の研究は地味ではあるけれど極めて今日的な意味のある研究で、眼のつけどころは確かだと思った。

戦後日本の社会運動の源流としての青年団運動
 戦後の青年団運動には3つの時期と要素があった。@敗戦後、文化・スポーツ活動が民主化要求の結節点となったこと。Aレッドパージ以後、都市の労組運動などが後退した後、地方の青年団運動や学生運動などが注目され、独自の役割をはたしたこと。B保革を問わず戦後の社会の担い手を育成し、田中角栄など、戦前からのボス支配を打破する人々が登場し地方経済を引っ張っていったこと、などがあった。
 京都府丹後地域には1960〜80年代にかけて「地域に根ざした教育」で知られる教育運動があった。強力な教職員組合運動が背景にあったが、さらにその背景には農村部の社会運動があった。その水脈ともいうべきものに丹後内陸部の弥栄村における青年団運動があった。その運動の中心にいたのが河崎 弘であった。
 弥栄村は1933年の竹野郡の四か村合併で生まれ、人口は約6000名ほどの村であったが、「昭和の大合併」で弥栄町に、「平成の大合併」で京丹後市となった。河崎は1953年に青年団長となった。青年団は戦時中に国民義勇隊に再編消滅後、敗戦後に@文部省による再編、A占領軍の政策、B地域の下からの運動、にもとづき弥栄村では1946年頃に結成されるようになった。「団則」には「教養錬磨向上、明朗健全なる郷土の建設に貢献」など戦前由来のことが目標とされていたが、事務所は弥栄中学に置かれ、団員資格は25才未満の未婚男女、専門部に文化部、体育部、社会部、産業部、家政部があった。1950年代には娯楽と教養中心の「網羅的青年団」から講演会や映画鑑賞などの社会教育を中心とした「有志的青年団」に変化していった。1950年代以後、団員数の減少など衰退傾向にあり、行政の政策に従属する傾向がある一方で原水禁運動、平和運動など革新的左翼的な傾向もあらわれた。

河崎 弘と文化部の運動
 河崎 弘は弥栄村鳥取の出身で舞鶴海軍工廠で勤めているときに空襲に遭い、そのとき生きのびた思いを自分史『死なんようにせえ』に書いた。戦後郷里で家業の漆塗り職人をしながら青年団活動に参加した。機関紙『青年弥栄』の編集に関わり、文化部長として弁論大会や書画展覧会などの文化活動を積極的にすすめた。文化部部員の感想に、「部員の親睦を図るべく努力すること。接触率を密にするように」などが記録されている。
 活動は非常に熱心に行われた。丹後地域は豪雪地帯として知られるが、部会を開きにくい環境にありながら熱心に集まって議論が交わされた。弁論大会は、平日の夜8時から始まって深夜の2時半ころまで行われたこともあった。機関紙『青年弥栄』には教員からの投稿もあり地域の青年団を支援する教員の姿が垣間見られる。教員の人脈として、中田 実、吉岡時夫、川戸利一など奥丹教組の中心人物がいる。読書サークル活動の支援などが行われ、合評会には50名も参加したという。部員の懇親会ですき焼き会やハイキング大会も行われた。
 労働者教育運動や、京都府連合青年団体連合会(京青連)などの影響もあって、自由、民主主義、平和への意識も強まり、文化部主催の講演会での「警官ボイコット事 件」や「平和憲法を固守しよう」「青年は再び銃をとらない」「吉田内閣打倒」などのスローガンが叫ばれたりし、反戦ビラをまいて住居不法侵入で逮捕される「野間事件」なども起こった。背景には、朝鮮戦争前後からの逆コースの歴史の流れへの危機感があった。1953年には竹野郡「平和を守る会」、1956年には「弥栄平和祭」、1958年には「弥栄町勤労者協議会」が結成されて安保闘争にも取り組み、河崎 弘も弥栄町代表として上京した。しかし、青年団全体としては穏健な方であったらしい。
 河崎は、1953年に青年団団長に就くが青年団運営の困難さにも直面する。その後の親睦会や映画会などへの参加者数は減り、青年団活動が次第に不活発となる中で河崎自身団長退任の総会で「団長とは年中無休の高等小使いなり」と述懐したという。
 青年団活動の停滞の一方で、4Hクラブや農村青年連盟、平和を守る会などの目的別の組織は拡がっていった。

私たちが引き継ぐべきもの
 河崎は、苛酷な戦争体験を経て、戦後の青年団運動でより多くの青年が参加する運動から主体性を持つ青年団をめざし、自由に政治や教育について語り合うことの意義と大切さを理解した。そういう意味で河崎らの指導する青年団運動は成功をおさめたが、それは一部の人々を中心とする運動で、どのように継承するかという問題点をかかえていた。河崎 弘は、「巡査も誰もみんな一緒になんのわだかまりもなく明るい気持ちで政治や平和の問題が話し合えるような社会環境を一日も早く作りたい」と語っているように、彼の中には戦後の民主主義が体現され息づいている。彼の言葉には、今もなお現在の私たちに引き継がれるべき大切なことが込められている。

12月例会報告 井上春緒(はるお)さん(クラリネット奏者・西洋音楽史研究家)「疫病とヨーロッパ音楽史」

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疫病流行と芸術の変化
 クラシック音楽でもっとも人気のある作曲家の一人ショパンが活躍した時代は、ヨーロッパでコレラが流行した時代でもあることを知っている人は多くないだろう。フランスの国立の音楽大学で学んだクラリネット奏者井上春緒さんは、コロナ流行で演奏活動ができなくなった時期に、過去に疫病が流行したような時に音楽家はどう過ごしていたのだろうか、疫病の流行と音楽はどのように関係したのだろうか、という疑問を抱いた。調べようにも参考になる本は少なかったので、自分で調べ始めた。
 疫病の流行は、人類の歴史につきものであった。ヨーロッパにおいては、インパクトのあった病気の流行は3つの時期があった。第1の時期は、14世紀のペストの流行で1348年以後流行し、「黒死病」と恐れられ、ヨーロッパの人口の3分の1から3分の2が死亡したとも云われている。直前に十字軍の遠征があり、人の移動がさかんとなり、東の文化が西欧に入ってきた時に中央アジア起源のペストウイルスがヨーロッパに入って来た。感染して3〜5日で亡くなり、死滅した村もあった。ペストは神の罰という考え方がある一方、神への不信、教会への信頼の揺らぎをももたらした。 その背景には、十字軍の実態、失敗を原因とする教会の権威の失墜もあった。十字軍がきっかけとなってイタリア都市を中継地として発展した東方貿易でもうけたイタリア商人は宗教一辺倒でない現実的思考の持ち主で、ペストの流行と教会権威の揺らぎから新しい文化の担い手として登場した。古典文化の復興とむすび人間中心の新しい芸術、文化「ルネサンス」が始まった。ルネサンスはペストの流行前にはじまり流行期に加速し最盛期をむかえた。ジョットはルネサンス初期の画家で、「聖母子像」にはゴシック様式の面影が残る。ペスト流行後のフィリッポ・リッピの「聖母子像」と比較すると、前者は親しみのわかない人より高みにある感じのマリアやキリストの表現で人が見て楽しむ絵ではなく、後者は人間的な魅力のあふれる母子像で、人が見て「こんな女性と友だちになりたい」と思えるような絵だ。ペスト後は、神の世界から人の世界に芸術が降りてくるのだ。音楽でも、中世にはグレゴリオ聖歌に見られるように、メインは神の音程といわれる人間的な感情が伝わらない音程で、500年間この神の無感情の音程が続いた。しかし、ペスト流行後に神の音程の間に新たな3度(ミ)の音程が入ると、悲しさ、楽しさという人の感情が教会音楽に入るようになった。

ショパンとコレラ
 第2の時期は19世紀のコレラ流行である、19世紀のもっとも有名な作曲家の一人ショパンは、ポーランドで生まれ若いうちから活躍していた。1830年頃、20才でポーランドを発ち、パリへ入った。その頃、ポーランドで帝政ロシアからの独立をめざす11月蜂起が起こった。1831年にパリに到着したが、アジアコレラがヨーロッパに近づいているとのうわさが拡がっていた。その頃のパリには、リスト、メンデルスゾーン、ユーゴー、バルザック、デュマ、ドラクロアなど錚々たる芸術家がいた。1832年に、ショパンは演奏会でデビューし、成功をおさめる。客席にはリストとメンデルスゾーンがいたという。
 この頃のショパンをとりまく状況は、故国でのワルシャワ蜂起と失敗、パリに迫り来るコレラの脅威、音楽家としての成功への道というアンバランスで混沌としたものであった。1832年にはパリでコレラの流行が拡大し、3月末から4月14日の間に13000人が感染し、7000人が亡くなった。9月末まで流行が続き致死率は53%におよんだ。フランス全体で、この年に10万人が亡くなった。首相も亡くなったという。この時期に、ショパンの音楽に変化があった。
 コレラ流行の1年前に作曲された「華麗なる円舞曲」は、暗い和音が使われていない明るく楽しい曲だが、1832年のコレラ流行期に作曲されたエチュードOp(オーパス)10-4は、ものすごい勢いで、はじまってから、止まることのない2分ほどの曲で、以前に聴いた頃は「かっこいい曲」で、こんな曲がどうしたらできたのだろうと思った。しかし、これは若いから熱情的に書いたものではなく、一回始まると最後の和音に到達するまで止まることがなく、まるで死に神に追いかけられているような曲だと考えるようになった。それは、「華麗なる円舞曲」とは全然違う曲だった。そして、コレラの流行が終わりかけていたころに作曲された曲が、日本では「別れの曲」 という名前で知られるエチュードOp10-3だ。曲の真ん中で不安な和音が出てくるが、最後に「音楽って美しいね」という感じで終わる曲である。
 ショパンは、井上さんと身長や体重が、ほぼ同じらしい。男性としては非常に華奢な体格であった。あまり体力に自信が無い分、病気への恐怖も人一倍強かったと思われる。死への恐怖という負の感情と感染流行が収束したときの喜びなどの感情が、すべて創作意欲に結びついたのではないか、と井上さんは考える。そのような時期に新しい文化、芸術が一気に開花したのだ。
 第3は20世紀、第一次大戦中にスペイン風邪が世界的に流行した。このとき、クラシックから現代音楽が登場し、絵画ではピカソなどの現代絵画の潮流が生まれた。ジャズが発展したのもこの頃であった。
 現在、私たちの世界はコロナの感染拡大に覆われている。新たな変異も登場して、いつ収束するか未だに先が見えない不安な状況である。しかし、井上さんは、コロナの流行と収束は、新しい芸術が生まれる文化の歴史の転換期となるのではないかと考える。それは、まるでショパンの曲のように、最後は「音楽って美しいね」と思わせるような世界が待っているのかもしれない。死に直面した人間は、生を強く意識し、そこから新しい活力、芸術的活力を導き出す。歴史の流れを深く理解すれば、それは決して悲観的な結論ではなくて、生きる事への希望を導くことなのだということを教えてくれる素晴らしい報告であった。話の合間には、報告中に登場する曲などが実際に演奏されたり、井上さんがクラリネットを演奏する場面もユーチューブの映像で紹介された。こんなことは普通の例会の報告ではないことで、話の中身がよく理解できた。
 参加者の質疑も活発に行われた。音楽とピアノを愛好する立場で報告にふれた感想、はかなく消えてゆく命を意識することでものの美しさを理解する日本の伝統的な感性について、「死を思え」という箴言に見られる西欧の死と生に対する考え方、日本でも奈良、平安の時代に天然痘などの感染症が流行し、疫神(または鬼)退散のために祇園祭、お囃子などの祭礼・芸能が生まれたこと、1830年前後の西欧で連続した革命の影響は?などたくさん感想意見が出された。

2020年例会報告

1月例会報告  河 かおるさん(滋賀県立大学准教授)「三・一運動から100年−不義に抗挙する民衆の歴史を知り、日韓・日朝関係を考える」

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安倍首相の所信表明演説と三・一独立運動
 2019年は日本の朝鮮植民地支配に抗して起こった三・一独立運動から100周年にあたる。同年10月に安倍首相は所信表明演説で、1919年のパリ講和会議(第一次大戦後の)の際“日本代表が欧米の反対にもかかわらず「人種平等」を掲げた”と述べたが、これは日本が講和会議中に起こった三・一独立運動を武力で弾圧した事実をまるで無かったかのようにする話だ。講和会議の当時から「三・一運動を弾圧している日本が自由な移民の権利のために『人種平等案』などをもち出すこと自体問題にならない」(アメリカ)という批判的報道もあった。しかし今回は大部分のメデイア(国内)が、この安倍流の厚顔無恥(無知?)の話の問題点は無視していた。ちなみに、この日本が「人種平等」を主張した話は、“ネット右翼”の世界では有名な話らしい。

現在に生きている「正義と人道」を求める韓国民のたたかいの歴史
 韓国ではチョ・グク法務大臣(辞任)が韓国検察当局から家族ぐるみの「不正・汚職」事件で追及されていた時、韓国の民衆の中から「正義と人道が危うい」という表現で、自然発生的にチョグク氏擁護の集会が道路を埋め尽くして開かれていた。このような状況について、韓国のある識者は、100年前に(独立宣言書に)行動指針として表されている、と言った。その後韓国検察は家族の不正として取り上げた「証拠」なるものについて未だ検証できず、現在訴訟がゆきづまっているという。そしてノムヒョン元大統領が汚職の嫌疑をかけられ自殺した事件でも、嫌疑を証明する証拠はなかったということから韓国国民は二度と検察のつくったえん罪事件にごまかされないようにしようという意識が芽生えてきている。その背景には「三・一独立宣言」の精神が生きているのだ。またパクウネ大統領弾劾の集会・デモには甲午農民戦争でリーダーで、処刑されたチョン・ボンジョの名を冠したチョン・ボンジョ闘争団が耕耘機でデモに参加した。「正義と人道」を求める韓国民の歴史と伝統が脈々と韓国民の間に息づき、彼らが100万人規模の集会を開くソウル市庁舎前の広場は当時から現在まで続く幾多の抗議運動の場となっている。

「不義」ということ
 「不義」の意味は韓国と日本ではニュアンスが異なるという。日本では「不義密通」のような「人倫の道にはずれた行い」などに使用される。一方、韓国では「正義や道理にはずれること」に用いられる。日本が韓国に行ってきた「不義」とはどんなことか。「独立宣言」をもとに三・一独立運動に至る歴史を整理すると以下の項目となる。
(1)1875年の「江華島事件」のあと結ばれた1876年「日朝修好条規」に明記された「朝鮮を自主独立の国にする」という約束を破ったこと。
(2)1894年「甲午農民戦争」では政府軍と農民軍の間で和解をし、日清とも出兵の理由がなくなったが撤兵を行わず日本は景福宮を占領、その後日清戦争となった。
(3)1894年「日清戦争・下関条約」に明記された「朝鮮の完全無欠なる独立自主の国」では清国との宗属関係は破棄したが日本が朝鮮の独立を認めることを拒否。
(4)1904年「日露戦争」開戦時、韓国と日本は「東洋の平和と韓国の独立」という主旨にもとづき攻守同盟をむすんだが、韓国の中立化宣言は無視され日韓議定書により日本軍の駐留権、土地収容権の確保がされた。第一次日韓協約では日本の内政干渉を認める「顧問政治」が行われ、1905年ポーツマス条約では大韓帝国の保護国化の承認が列強から取りつけられた。第二次日韓協約では外交権が日本に奪われた。
(5)1907年「ハーグ密使事件」(「保護条約」の不当性を万国平和会議に訴えようとした)後、高宗が強制退位、韓国軍が解散させられた。伊藤博文が初代統監となる。
(6)1907年〜1909年「義兵闘争」韓国軍の解散後、義兵闘争が起こり、日本は義兵の死者16000名を出す焦土作戦で鎮圧した(日本側死者は133名)。
(7)1910年「韓国『併合』」8月22日日本軍がソウルに終結する厳戒態勢のもとで「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、8月29日(韓国では「国恥日」となっている)に発表。「併合」は日本の造語で、「合併」の対等イメージを避けるために日本官僚がつくった言葉。韓国人の親日団体「一心会」は「対等合併」を意図していたが解散させられた。「併合」はその後一般に使用されるようになった。国号は「大韓帝国」(韓国人の独立意識にもとづく)から「朝鮮」(清国の冊封に基づく国号)に変えられた。条約は武力の脅迫による強制で結ばれたものであり、もともと外交権を奪われているので対等の独立国同士の条約とは言えない。
(8)日本による統治は、1910年代は「武断統治」(総督現役武官制、憲兵警察制度)による軍事力をむき出しにした支配が行われた。役人より憲兵が多く、裁判なしで処罰が行われた。朝鮮語の新聞・雑誌の発行禁止、集会・結社の自由は無かったので、海外に亡命する運動家が増える。

三・一独立運動の背景と展開
 1919年のパリ講和会議でアメリカの大統領ウイルソンが提唱した民族自決主義は、帝政ロシアやオーストリア・ハンガリー帝国の支配地には適用されたが、アジアには適用されることは無く、日本の朝鮮支配は無視された。日本の「武断政治」への不満、国際的な民族自決主義の高まりに影響されて、2月8日には日本の留学生が東京で2・8独立宣言を発表し「大韓独立万歳」を叫んだ(当事者はこの後上海に亡命)。3月3日の高宗の国葬にむけて韓国全土から約20万人が集合していた。その前の3月1日にソウルに33名の民族代表が集まって三・一独立宣言が発表され、宣言を印刷したビラが全国にまかれた(その1枚が長崎県の個人宅に保管されていて2019年独立記念館に寄贈された)。当時は「独立万歳」を叫んで人びとがねり歩いた(「万歳事件」)。日本の武力弾圧によって行動は暴力的にもなり、参加者数約200万人に増え、影響は満州にもひろがった。朝鮮総督府は憲兵・警察・正規軍をあげて武力弾圧を行い、4月には水原のキリスト教会 に閉じ込められた村人たちが日本軍に焼き殺されるという事件が起こった(堤岩里《チエアムニ》事件)。弾圧による朝鮮人の犠牲者は死者約7500人、負傷者約16000人、逮捕者約47000人にのぼった。
 その後日本政府は「武断統治」政策をあらため、「文化政治」を標榜して政策の転換を行ったが、総督府現役武官制度を廃止して退役した軍人を総督に充て、憲兵警察制度を廃止したが警察力は増強した。言論集会結社の取締は緩和したが、検閲制度は残した。地方制度では朝鮮人の上層階層を協力者としてとりこんだ。実態は支配がより巧妙に強化されただけのことだ。
 三・一運動の歴史的意義は、農民運動や義兵闘争などの流れが一つに合流した最初の民衆主体の抗日運動であったこと、中国やインドなど他の地域の被圧迫民族に影響を与える世界史的意義、韓国にとってこの運動を契機に上海に大韓民国臨時政府が樹立されたことと、「大韓」の国号と共和制が採択されたこと、「正義、人道、同胞愛」という現在まで憲法前文で引き継がれている憲法的価値のルーツが成立したことがあげられる。

植民地の被害の歴史を不問に付した日米韓の国際秩序
 2018年の韓国大法院の「徴用工判決」は原告の被害者にとっての正義がようやく実現するかに見えたものだった。しかし、同時に日韓関係は「戦後最悪」といわれる状況となった。日韓関係を含む戦後の東アジアの国際秩序は、植民地時代の被害者の正義を実現させないこととひきかえに維持されてきたのではないか?
 日本の敗戦のタイミングは、半島分断に大きく影響した。8月8日ソ連が対日宣戦布告、広島と長崎に原爆投下されて日本は14日にポツダム宣言を受諾した。このタイミングでソ連は三八度線以北を占領、南はアメリカが占領、日本はアメリカの単独占領となった。朝鮮半島は日本の身代わりのように分断され、「不平和」と民主主義の抑圧が継続することになった。日本は東アジアの冷戦秩序の最前線の負担と痛みを朝鮮半島と沖縄に押しつけながら、その秩序のもとで「平和と民主主義」を享受し経済発展を優先することが許されてきた。これが「戦後の国際秩序」の大前提だった。1965年日韓会談により日韓国交正常化が行われた。これは「戦後の国際秩序」にもとづく日米韓の思惑が一致したものだった。アメリカは東北アジアの反共体制を強化、韓国への援助を日本に肩代わりさせたい。日本は高度成長を経て韓国を輸出市場とする。韓国は輸出指向型工業化をすすめるために日本の資金援助を導入する必要から日韓会談妥結を急いだ。そのため日韓双方で歴史問題にふたがされ、韓国では「対日屈辱外交」反対運動は朴政権のもとで戒厳令が発せられ弾圧された。以後、1965年体制と呼ばれるこの体制が日韓の「戦後国際秩序」の基礎となった。

韓国民主化以後の動き
 1987年の民主化以後、国民の言論の自由が復活する中で1990年代に日本では戦後補償裁判が次々起こされた。1991年8月、元「慰安婦」である金学順さんが名乗り出て「慰安婦」問題も未解決の戦後補償問題として浮上した。このような植民地支配や戦争の責任を問う動きは、現在世界中で起きている。
  日本外務省作成のファクトシート「旧朝鮮半島出身労働者に関する事実とは」には、問題の現状把握が以下の様に示され、日本政府の考え方がよくわかる。
<事実その一>「1965年の『財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」は、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認しています。
<事実その2>「同協定はまた、署名日以前に生じた全ての請求権について、いかなる主張もすることができないことを定めています。」
<ところが>2018年10月30日及び11月29日、韓国大法院は、日本企業で70年以上前に働いていた旧朝鮮半島出身労働者の請求を認め、複数の日本企業に対し、慰謝料の支払いを命じました。」とし、「これらの判決は、1965年の日韓請求権協定に明らかに反しています。日韓関係の法的基盤を覆すのみならず、戦後の国際秩序への重大な挑戦であります。」と彼らなりの正直な反応を明らかにしている。

河野談話、村山談話から安倍談話まで
 1993年の「河野談話」では「政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」とし、1995年の「村山談話」では「わが国は、遠くない過去に一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と表明した。しかし、「損害と苦痛」を与えた事実と、そのことに対する道義的責任は認め、「痛切な反省」と「お詫び」は表明するが、「国家責任と賠償」は認めず、被害者の尊厳は引き続き回復できていない。以上が、韓国民主化で、真実の歴史にふたをする1965年体制が危機に瀕して、それを補完するねらいとして提起された1995年体制だ。しかし、2015年の「安倍談話」では「損害と苦痛」を与えたという部分が消え、道義的責任論すら後退しているのが現状だ。

質疑交流
 感想として、河先生の報告を聞いて日韓問題についての整理がよくできたという声が多かった。現在の韓国で起こっている問題についても日本のマスコミを通じて理解している内容とは相当ちがう事実も知ることができた。韓国への反感や蔑視が根深くある状況、その原因は?歴史認識の問題を明らかにする重要性、歴史認識と社会の絆を強めることとの関連、朝鮮通信使の時代は尊敬するまなざしがあったのでは?三・一独立宣言起草者の権東鎮が淡路島を訪れ、揮毫を残していた事実の公表、など活発な質疑交流が時間いっぱい続けられた。

2月例会報告 山下和也さん(会員・相撲研究家)「相撲の歴史と大阪」

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相撲の歴史は2000年以上、神事から武闘訓練へ、そして勧進、興業へ
 山下さんは24年前、本研究会の例会で報告されて以来2度目。これまでに各所で報告したことや著書に書かれた内容をまとめての報告。
 相撲についての最古の記述は古事記「大国主の国譲り」でタケミナカタノカミとタケミカヅチノカミの力くらべの話、日本書紀「垂仁天皇七年の条」の當麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲が有名だ。當麻蹴速は野見宿禰に蹴り殺されるから、これはほとんどケンカだ。
 宮廷行事として記録されるのは奈良時代天平六年七月七日に国家安泰と五穀豊穣を祈り聖武天皇が「相撲の戯を観す」とある「相撲節会(せちえ)」が最初。平安時代には、延暦一一年桓武天皇が、兵制の「健児の制(こんでいのせい)」に取り入れて力士から兵士を選び、神事から武芸的要素の強いものに変化した。鎌倉時代には武士が鎧をまとって相撲で戦闘訓練をした。戦国時代には織田信長が相撲を好み、盛んに相撲の「上覧(じょうらん)」を行い、強い力士は家臣として召し抱えた。秀吉も「上覧」相撲を行った。江戸時代の天下太平の世になると武闘訓練の意義は薄れ、「勧進(かんじん)」(寺社の修復などの寄付を募る)を目的とする相撲興行の時代となった。これが現在の相撲興業に続く原点となっている。

土俵の成立−現在の相撲の原型の成立
 相撲に土俵はつきものと思っていたが、意外なことに土俵は江戸時代に成立したという。その背景には以下の事情があった。鎌倉時代頃、相撲をしている周囲に見物人が輪をつくって自然の囲いをつくっていたがケンカが絶えず中止となった。ケンカの原因は勝ち負けの判定がもつれるとサポーター同士のケンカになったこと。のちに周囲を四本の柱でリング状に囲むようになり、さらに俵で四角に囲むようになった。
  1670年頃(江戸時代寛文年間)に土俵が成立し、あずまやの下に土俵がつくられ、享保年間(18世紀)現在のような土俵とルールができたという。当初の四角の土俵は、現在も岡山県や岩手県に残っている。
 正保2年(1645)に京都の糺の森(ただすのもり)で公許の勧進相撲がはじまった。勧進相撲の興行は寺社奉行の許可で行われるようになった。興業目的は寺社の修復だったが、18世紀半ばには目的が限定されず、大坂は堀江新地開発のための興行が行われた。寛保2年(1742)四季勧進相撲が、夏は京都、秋が大坂、春と冬が江戸で行われるようになった。寛政元年に「横綱」の称号ができた。当初は大関が最高の番付で、谷風や小野川などの強い大関に「横綱」称号が与えられ、明治23年に番付に横綱として記載され、明治42年に地位としての「横綱」が認められるようになった。

大阪すもうの起源
 大阪市西区南堀江2丁目の南堀江公園に「勧進相撲興行の地碑」がある(平成7年3月建立)。石碑には「江戸幕府により風紀を乱すとして禁止されていた勧進相撲が 大阪では元禄5年(1692)一説には同15年に はじめてこのあたりで興行されていたと伝える」と刻まれている。勧進相撲開始の年が元禄5年と15年の2説あるが、山下さんは、勧進の目的である堀江川の開削が元禄11年に始まるので、元禄5年はまちがいという。天保年間、江戸が相撲の中心地となり大坂本場所に江戸力士が出場すると大坂の力士は格下の「中相撲」として番付に記載された。

大阪と東京の対立
 明治元年に難波新地で大阪本場所興行が企画されたが中止となった。その後、東京の横綱「陣幕」が大阪頭取となって改革、大阪は独立組織として興行を行った。明治7年(1874)、京都で東京、京都、大阪が対等合併して興行をはじめた。明治21年、陣幕に反旗をひるがえした80人が脱走して広角組を結成、陣幕は失脚、明治28年に和解がなって大阪は一団体として興行を行うようになった。混乱の収束の背景には、小林佐兵衛(押尾川)、鶴田丹蔵(藤島)、橋本政吉(高田川)など「侠客」の介入があった。明治38年大阪相撲協会が成立、明治40年大阪番付ができた。明治42年に両国国技館が完成した。野外興行だった時は雨天休場で2ヵ月間ぐらい興行が続くときもあった。その後、京都、横浜、浅草、熊本、名古屋など各地に国技館建設ブームが起きた。明治43年、大阪の大関大木戸の横綱免許について東京側が東京の協会の過半数の許可が必要と主張、大阪側が住吉大社から独自に許可を得て「住吉横綱」と称した。この問題で東京と大阪の関係は大正元年の和解まで絶交状態となった。

新世界国技館
横綱問題で大阪と東京の関係がこじれて、大阪の国技館建設計画が遅れていたが、大正7年、新世界の国技館建設予定地で本場所が開催された。大正8年に開館式が行われ、建坪626坪、鉄筋コンクリート造、4階建の国技館が完成した。建設費は50万円、15000人収容(実際の観客定員3650人)。しかし、肝心の大阪相撲は、待遇改善を求める幕内力士のストライキ(堺市龍神に籠城)や、東京に対して実力では歯が立たない状況など凋落の一途をたどって行く。国技館で行われたのは六年間で12場所の本場所だけというありさまだった。大正14年、東京が大阪を吸収合併するかたちで東西合併が行われ、大日本相撲連盟が結成された。大阪相撲は大正15年の本場所(台北)を最後に消滅する。合併に伴って力士の実力査定が行われたが大阪力士の大半は格下げとなった。

関目に大阪大国技館建設
 昭和12年に関目に大阪大国技館が完成する。完成までに、港区磯路など4個所の候補地で計画されるが、いずれも頓挫して再び関目に昭和12年竣工されることとなった。建坪3000坪、鉄筋コンクリート造4階建、収容25000人だが実際は10574人だった。第1回大阪場所が昭和12年6月9日から13日間開催され、昭和15年の第7回場所まで大阪大場所の興行が行われた。第2回目の興行の時、幕内の九州山という力士が途中で召集令状が届き、土俵上で出征のあいさつをしていったというエピソードがあった。昭和15年には日独伊三国軍事同盟が結成された時期である。戦況は次第に悪化し、新国技館は、わずか4年7場所で役割を終え、その後ベークライト生産工場に転用されることになった。建物は昭和26年まで残っていたが、屋根に葺かれた銅板は戦時の供出ではぎ取られた。その後解体、現在跡地はURの住宅地となっている。昭和23年から相撲の大阪興行が復活、福島公園仮設国技館などを経て昭和28年から大阪府立体育館で大阪場所が行われるようになった。

質疑交流とまとめ
 興味深い話に参加者は引きこまれるように聴き入った。現在、相撲は若手の台頭があり、白鵬の時代も間もなく終わる予感がする。このあたりで相撲の歴史を見直す必要もあるものと思われる。現在のような天皇の臨席する「天覧相撲」は、大正時代に皇太子(のちの昭和天皇)が見物する「台覧相撲」にはじまったということで、それほど古いものではないということがわかった。2000年近い相撲の歴史で、神事、兵士の鍛錬、興行相撲という変遷をたどっているが、古代にみられる神事の要素は、今後検討することで古代史の理解も深まるものと思われた。例えば古墳になぜ力士の埴輪があるのか、など。現代史の相撲には、興行にともなうトラブル、侠客の暗躍など生臭い話もある。少し前は八百長相撲問題があった。神事であることを強調する元横綱もいるが、聖と俗はいつも隣り合わせだ。歴史を振り返ると現在の相撲の抱える問題とどこかつながっている。なかなか興味はつきない。

3月例会報告 井ノ元ほのかさん(会員・大阪市立大学文学研究科前記博士課程)「1920年代から30年代の大阪における『医療の社会化』」

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 3月28日、大阪府教育会館において、大阪市立大学院生で本会会員の井ノ元ほのかさんに「1920年代から30年代の大阪における『医療の社会化』」と題して報告していただきました。「医療の社会化」とは、国民が必要とするときにすみやかに受診受療の機会が社会的に確保されること、と定義されます。今回の報告は、1911年以降全国的に叫ばれた「医療の社会化」の動きに着目、医療や医学を求めて運動を起さざるを得ない社会の実態を、歴史的に明らかにすることが目的です。一人暮らしをしていた時、生活を逼迫させるほどに医療費が高いと実感したことがきっかけだと言います。
  元来の関心が、日中戦争前1930年代の反戦・反ファッショ運動にあったので、主に1920年代から30年代の大阪における「医療の社会化」に目を向けることになりました。
  社会事業(社会事業団体、大阪市など)と社会運動(無産政党、無産者医療運動など)の両側面から分析し、三つに章立てしています。
第1章 恩賜財団済生会と無産政党(大衆党系・社民党系)の事業あるいは運動を取り上げ、その展開と社会的な意味の解明。 
第2章 無産者運動を取り上げ、その展開や社会的な意味、特質を解明。 
第3章 「医療の社会化」を論じるにあたって意識すべき点を整理し紹介。
  『社会事業要覧』『社会運動通信』『大大阪』「大原社会問題研究所所蔵文書」「大阪市社会部報告」「大阪無産者病院ニュース」や各社『新聞記事』など、数多くの文献資料を読みこなしていることに、報告者の意気込みを感じます。
 大阪を行動の基盤とする者にとって、当時の大阪は伝染病の罹患率が高く、1935年には全国平均の2倍となっている事実に驚きます(グラフ2)。しかしそれだけ、「医療の社会化」を求める動きが強かったとも言えます。無産者運動の経緯を資料に沿って詳細に分析している点は評価できます。
 また、「先進的医師」として、岩井弼次、加藤虎之助両名について紹介していますが、そのほか「医療同盟」に参加した医師たちについて、個別に研究する必要があると思います。この点については、報告者が、今後の課題として「無産者医療運動の担い手について個人の経歴を分析する」と述べている所です。
 さらに「小ブル階級」と決めつけられた医師(「技術者獲得の件について」1932年)を、より科学的に分析再評価しなければなりません。この問題は、現在に通ずる課題です。「民医連」は、この課題に積極的に取り組んでいると思います。それにしても、社会的に厳しい時代、先進的医師集団が少なからず存在したことに、驚きを禁じ得ません。
  1928年に「御大典を前に全市民の健康診断」(大阪毎日新聞7月25日)が呼びかけられ、医療を介した統制がなされ、水上生活者など貧困者層は疎外されました。このことは、「新型コロナウイルス」を名目とする「非常事態宣言」につながる、現代的課題であるとも指摘されました。
<質疑応答> 抜粋
 柏木―両親が三島診療所の活動に参画。自分も三島診療所について調べている。今回の報告で、全体の位置づけがよくわかった。
小林―プロレタリア美術同盟に加わった彫刻家・浅野孟府が診療所の設計をしたという話がある。また、加藤虎之助のデスマスクをとったとも。一番知りたいことがわかって良かった。
蟹江―日本古代史を研究しているが、報告の歴史的手法が勉強になった。
 滝川―医療は広がりも持つ。研究課題として大変意義あると思う
福田―先進的医師が多数出てきたのが興味深い。「安くていい医療」だけではだめ。階級的視点。いまの「民医連」の父母の会活動などに通ずる。
井ノ元―医者が運動に参加して来るのは @勉強会で、医者や医学生が積極的になる。A大衆の参加により他からの差別化をはかった。
松浦―人民戦線運動に関して編纂され た『労働雑誌』に「無産者医療」の記事がある。
柏木―親の考えはシンプルで、「安くてかかれる診療所をつくる」だった。学生たちがかかわって学習会や読書会を開いた。高槻など大きな組織があった。
  報告と質疑応答、あわせて2時間15分。大変実りある例会でした。とくに、関連情報の交換が活発になされ、継続して資料の提供等が話し合われました。

7月例会報告 フィールドワーク「火垂るの墓」記念碑とアンネのバラの教会を訪ねて

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 長く続くコロナ禍、野外に出てフィールドワークする企画が立てられました。6月7日に除幕式を終えた、「火垂るの墓」記念碑と平和のシンボル「アンネのバラの教会」をめぐるコースです。
  大阪民衆史研究会としても、「小説 火垂るの墓 誕生の地」と刻まれた、野坂昭如文学記念碑建立募金に協力しています。
〇見学日時:7月11日(土)午後2時、阪急甲陽園線・苦楽園口駅集合。
 〇コース:苦楽園口駅―中原石材工業所―ニテコ池―西宮震災記念碑公園、「火垂るの墓」記念碑―防空壕跡―おばさんの家跡―苦楽園口駅==甲陽園駅―アンネのバラの教会―洋菓子ツマガリ「喫茶甲山」―甲陽園駅 で解散。苦楽園口駅から徒 「火垂るの墓」記念碑前で。右から案内の二宮一郎 歩10分。ニテコ池手前の 会長・尾川昌法、副会長・松浦由美子、高谷 均、 石材店・中原石材工業所に 立ち寄ります。
 記念碑委員会の委員でも 西宮震災記念公園にてある谷本守己さんに、主碑となった石材(約4.5t)について説明していただきました。 「六甲のさくら御影という、今では採れない貴重な石。先代が50年前に手に入れて、地元に還元できるようにと保管してきた希少なもの。喜んで提供させてもらった」と、語ります。西宮震災記念碑公園は、二三日続いた長雨で芝生の足元もぬかるんでいます。しかし、ピンクがかった中央の碑は、新緑の中で婉然と映えていました。雨上がりの時間帯はとくに明るく映えて印象に残ります。碑に向かって左隣には野坂昭如の経歴、右隣には野坂昭如の戦争体験と小説の一場面を記したそれぞれ英訳付きの石碑を設置。高畑勲監督のアニメ画像も陶板で貼り付けてあります。台座と左右の碑は中国黒龍江省産の「白御影」です。周辺に植栽された「アンネのバラ」(教会から寄贈)と紫陽花も色づいています。清太少年が節子と入り込んだ「横穴壕」は、実際は池の南、東西の崖に掘られた二カ所の防空壕でした。現在は民家のガレージや玄関辺りになっていて、その面影はうかがえません。ただし、親戚のおばさんの家跡は今は空き地になっています。土曜の午後ですが、通りかかる人も少なく、足早に見学。総勢七人なので小回りが利きました。苦楽園口駅から1駅。終点甲陽園駅から急な坂道を上ること15分。石段を登り切った眼前に、アンネのバラの教会の印象的な建物が聳えます。ヴォーリズ事務所の設計というのも頷けます。坂本誠治牧師の出迎えを受けて、2階の礼拝所でスクリーン映像を見ながら、ナチス政権下のドイツ、アンネ・フランクの生涯、父オットー・フランクさんとの出会い、聖イエス会の戦前からの活動などを、じっくりと伺いました。とくに収容所で生き永らえたユダヤ人男性の言葉「愛に反対する言葉は憎しみではありません。それは無関心です」は、世界の現況に鑑みても、胸に突き刺さるように感じました。
 1時間に及ぶ報告、最後のスクリーン画面には、アンネの笑顔と彼女が残した言葉「わたしは世界と人類のために働きます」。戦前に治安維持法で逮捕された牧師たちのことや、ヨーロッパでアンネの日記のグラフィック版が発行されたことなど、質疑応答が盛り上がりました。アンネたちが隠れていた部屋の3?映像も紹介され、唯一外気を取り入れられる窓も映し出されました。
  2015年6月21日、兵庫県立芸術文化センターで上演された“「茶色の朝」とアンネの夜”コンサート終了後、アンネのバラの教会・坂本牧師に、ガットネロ・松浦由美子さんから舞台装置として使用された「アンネの窓」が贈呈されました。本日遠路はるばる参加された北藪 和さんが描いた窓枠の絵画は、本物と寸分たがわず再現されていることがわかります。改めて北藪画伯の力量に感銘いたしました。
 資料室のアンネ・フランクの遺品も坂本牧師から懇切丁寧に解説していただきました。教会は40周年記念の年を迎え、様々な行事を催されるとのこと・・・これからも、この西宮の地に、「平和のシンボル」として、幅広く発展することを切望します。 西宮震災記念碑公園には、昭和30年に建立された「戦没者慰霊塔」も在ります。阪神淡路大震災慰霊碑に加えて、今年6月に「火垂るの墓」記念碑が建立。「平和を祈念する」大小三つの石碑が揃って佇む公園は、西宮市にとって誇るべき聖地となることは間違いありません。
  喫茶カブトヤマのバターブレンド珈琲(クッキー付き)は500円。ツマガリのケーキは作りたてで絶品です。デパ地下では販売していません。本店でしか食べられない生ケーキに参加者全員大満足でした。なおカップソーサーの絵は皇室御用達の大倉陶園です。店内の奥に、著名なユダヤ人画家・シャガールの画が飾られています。美味しい珈琲とケーキ、そしてシャガール・・・フィールド・ワークの最後を飾るに相応しいシチュエーションでした。

総会記念講演 石原佳子さん 百年前、新聞でたどるスペイン風邪流行と大阪

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 2020年の今、「史上最悪」といわれるインフルエンザ、「スペイン風邪」が終熄してからほぼ百年です。1918年秋に始まった第1波、1919年末から20年にかけての第2波と流行は3年に及びました。病原であるウィルス自体が知られない時代、どういう病気かわからないままに、大戦中の兵士や物資の往来とともに欧州の戦場に持ち込まれ、世界中に広まりました。死者は2千万人とも5千万人ともいわれます。 家族や大切な人を失った記憶は、祖父母・父母から子へ孫へと多くの人びとに継承されているはずなのに、必ずしも共有されて来なかったのではないか。それが今回の報告につながりました。2.11集会で出会った会員により大阪民衆史研究会と出会い、この場をいただきましたことを心から感謝いたします。

大阪府市の超過死亡
 まずは流行期間中の新聞紙面を検索しよう。思った矢先に3月から自粛期間に入り図書館が利用できなくなりました。その後は、国会図書館のデジタルコレクションと取り組む毎日が続きます。大阪府市統計書と『日本帝国死因統計』、衛生局の報告類のデータを表化しながら、大阪での被害をもっと正確に描けないものかと思いました。
  というのは内務省衛生局による報告書『流行性感冒』(1922年1月)による統計が極めて不完全なものと気づいたからです。同書序文に、日本の死者数38万8千人余、患者数2380万人余とあります。数字は各道府県からの報告を合算したものですが、統計表に空欄が多数ありました。なかでも大阪府は22か月間中の6か月半しか記載されていません。府内死者数2万2005人とありますが、とてもそれだけとは考えられないのです。
  実態により近い数字を出すために、流行前と流行時の総死亡数の差をもって「超過死亡」を算出しました。流行がなかったら「死なずにすんだ」人数なのです。流行期を1918年10月から1920年5月までとし、その2年前同月の月別総死亡数の差を、『日本帝国死因統計』(帝国死因)と『大阪府統計書』『大阪市統計書』から計算しました。
  その結果、大阪府が32,970人(府統計)と32,502人(帝国死因)、大阪市が13,909人(市統計)と14,755人(帝国死因)になりました。統計ごとに微妙に数字が違います。

新聞紙面から流行をたどる
 統計から大阪府平均の月別死亡を見ると1918年11月と1920年1月の前後2極、その間の1919年は少し死亡者数が減った時期になります。それらを前流行、谷間の時期、後流行と分けて、新聞紙面から具体的な様相を拾うことにつとめましたが、『大阪朝日新聞』最終版を中心に見たため、大阪市にかたよってしまったのが残念です。
 さて同紙の報道は、1918年10月16日夕刊の愛媛県での流行が初めです。大阪については26日夕刊の西成郡北中島村小学校児童の死亡記事が最初なので、わずか10日間で流行の波が大阪まで届いたことになります。
  大阪市内で流行第1波(前流行)のピークは11月12日。市営火葬場の火葬認許数から14日発行の夕刊に「昨日が絶頂」の見出しが載りました。第2波(後流行)のピークは1920年1月下旬。大阪市が作成した『流行性感冒予防施設概要』に22日213人死 亡(大阪府)とあるのが最多です。
 日本から派遣された艦船や商船・貨物船、シベリア出兵先での感染、軍隊から国内各地へ伝播、前流行と後流行の相違、流行の谷間の時期に天然痘・コレラなど伝染病が多発したこと、施療券を配布し無料診療所を開設するなどした府市の施策、学校は閉鎖しても商工業や興行の閉鎖記事が見られない、後流行時に政府の予防策としてマ スクが急浮上して半強制を求める内務省と対する府市の対応など、興味深い事実が浮かび上がりました。
  これら紙面をパワーポイントで紹介することで流行の展開と様相を可視化しようと思ったのですが、現実には多数の記事と統計類に振り回されて、大変消化不良の報告になりました。公設市場・簡易食堂・共同宿泊所・市営住宅など、米騒動前後から計画された施設が流行のなかで実施されたこと、大阪市内・西成郡・東成郡それぞれの地域の状況なども検討したいと思いましたが、流行の展開を新聞紙面からたどるだけで精いっぱいで、そこまで及べなかったのが悔やまれます。
 現在進行中の新型コロナウィルス感染症流行のなかで浮かび上がるさまざまな社会の問題、共通する状況がスペイン風邪にかかる資料から読み取れます。この未曽有の惨害をどうぞ忘れないでほしい。今後の歴史研究と叙述に、とりわけ地域史の中に活かしてほしい。そんな報告者の思いを受けとめていただければ幸いです。

11月例会報告・フィールドワーク 戦後75年−加害と被害のまち港区築港周辺

11月例会写真

 中国大陸への出征基地と大阪大空襲の痕跡を、戦後75年の節目に訪ねる大阪港周辺フィールドワークは、2020年11月22日(日)に行われ13人が参加しました。コロナ禍の下で例会もままならない中、人数限定で屋外ならと企画したものです。 地元港区の戦争展で資料や体験の掘り起こしをしてきた実行委員会の添田為三郎さんと佐藤美則さんが、戦争展で使用した展示物を現場で広げて説明する、という臨場感あふれるものとなりました。
 メトロ大阪港駅から陸軍糧秣廠大阪支廠跡、獣魂碑、天保山明治天皇観艦記念の碑、中国人強制連行受難者追悼の「彰往察来」碑の前で説明を受け、大阪市営渡船 で桜島へ渡りました。対岸の此花区からは港区築港の全景が良くわかるので、直ぐに折り返しの船で港区へ引き返しました。やかんに入れた湯茶で兵士を接待して、 戦地へ送りだした国防婦人会は港区が発祥の地です。やがて全国1千万に増え、銃後を守る大組織へと拡大しました。
  天保山桟橋から移動して海遊館横で、子どもの頃港区に住んでいた寺田淳子さん(伊丹市在住)に当時の思い出を語ってもらいました。1945(昭和20)年6月1日の大阪大空襲の米軍機は、沖の赤灯台白灯台の上空から来襲。大阪大空襲の体験を語る会の金野紀世子さんの体験画を示しながら、港区の空襲の様子を松浦が説明しました。
  大桟橋跡中央突堤で参加者一同写真撮影。大阪民衆史研究会らしくコロナ禍での例会の記録になるようにマスクありとなし2枚、二宮一郎さんが撮影しました。
  レンガ造りの住友倉庫は今も現役です。空襲時の機銃掃射の痕跡も以前は良くわかりましたが、今は分かりにくくなっています。築港住友倉庫屋上に高射砲が備え付けられ、高射砲部隊が駐屯していました。
  大阪俘虜収容所跡、軍馬像の台座だけ残る築港住吉神社。6月1日の空襲ですべて焼けた築港高野山には、空襲の熱で焼けた石像が境内に残っています。遺骨帰還の際には故国で最初に法要が行われたところでもあります。六角形をした築港は港区の先端部分で加害・被害の様々な戦争遺跡が残っています。3時間くらいで回ることができました。

2019年例会報告

記念講演 新井勝紘(かつひろ)さん(本会会員・元専修大学文学部教授・高麗博物館館長)「『五日市憲法』の先駆性−発見から50年、今学ぶこと」

記念講演の写真

「五日市憲法」との出会い
 冒頭、新井さんは今回の『「立憲政体改革之急務」島田邦二郎史料集成』(以後『史料集成』)の出版について、1980年代の「自由民権百年」運動の頃にこの史料が発見注目され、その後30年を経て今回1冊の本となり史料の全貌をとらえることができた。これにより自由民権期最後の1880〜1890年代の国民の国家・憲法構想にふれることができた。このことは自由民権運動研究の久しぶりの成果であると述べられた。
 新井さんは在学していた東京経済大学の色川大吉教授の近代史ゼミの共同調査で「五日市憲法」に出会った。研究テーマの検討をしている頃、佐藤栄作首相が「明治百年祭」を行うことを公言していた。「明治百年論争」が起こり、「バラ色論」と「めでたい百年のはずがない」と否定する意見にわかれていた。名著『明治精神史』を出版したころの色川教授は学徒出陣などを体験し「めでたいはずがない」と言っていた。明治百年をどうしたら相対化できるのか、まず足元の歴史から見直すことを決め、OBらの調査の伝統を継ぎ多摩地区の調査をすることになった。当主が代わった深沢家に申し込んだが最初「ガラクタしか無い」と断られ、再度申し込み承諾を得、1968年8月27日に調査に入った。   五日市の深沢家土蔵は多摩地区西部にあり、東京から電車で1時間半の終点の駅。バスはなく、山に向かって歩き1時間ほどの道。ここが東京?というような所に朽ちかけた土蔵があった。深沢家は名主で母屋は既に引っ越して現地には墓地と土蔵、立派な門 だけが残っていた(土蔵は現在東京都史跡となり修復されている)。当主も滅多に入ったことの無い土蔵に裸電球を引いて、ゼミ生が手分けして入り調査を行った。新井さんは2階部分を担当、偶然竹製の文箱を開けるとふろしき包みが出てきた。あけたとたん、劣化していたふろしきが紙のようにボロボロにくずれた。その中に、もっとも重要な「五日市憲法」の史料がまとまって入っていた。上から「五日市学術講談会」などの結社の記録が、下に憲法案が24枚の和紙に綴られて入っていた。見出しに「日本帝国憲法」とあったので、最初は「大日本帝国憲法」をうつしたものではないかと思った。それが今では中学・高校の日本史教科書のほとんどに紹介されている「五日市憲法」だった。
  その後半世紀、さまざまのメデイアに取り上げられた。最初に読売新聞の多摩版が2ヵ月後の10月に記事にした。NHKの「明るい農村」、11PM、小沢昭一のラジオ番組でも。卒論にまとめた論文が『民衆憲法の創造』(色川編、評論社)で共著として出版された。現物は大学や憲政記念館で展示されたが、フリーアルバムに貼り付けていたものを、はがれなくなったのでそのまま桐の箱に入った「大日本帝国憲法」の隣に置くことになった。最近は時代の状況か展示からはずされる傾向だ。現在、五日市と執筆の中心となった千葉卓三郎の墓がある仙台市、生誕地の宮城県栗原市の3個所に石碑がある。

明治憲法、日本国憲法、五日市憲法、現・自民党改憲案を比較する
 『五日市憲法』は204条あり、明治憲法の76条、日本国憲法の103条の2〜3倍ある。明治の憲法草案が内容のわかるものだけで20ほどあり、200条を超す憲法案は植木枝盛の『日本国々憲按』と2つだけである。『五日市憲法』のモデルとなったのは『嚶鳴社草案』である。しかし『嚶鳴社草案』に該当しない部分が50%もあり、その中心部分が国民の権利に関する部分であり、そこに力点が置かれていることが『五日市憲法』の特徴である。主な条項で各憲法、憲法案を比較すると特に自民党改憲案の歴史に逆行する内容が浮き彫りとなるのに対して、『五日市憲法』の先駆性がより明らかだ。
 『五日市憲法』では天皇の扱いは「君民共治」であったが、国民の権利は重視され、オリジナルのものが多い。「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス」とあり、日本国憲法の基本的人権の内容に匹敵する。これに対して自民党改憲案は「国民は、・・自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、公益及び公の秩序に反してはならない」とあり、「公の秩序」を誰が判断するのか、まさに戦前に、明治憲法に回帰するものだ。また「凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論ゼス其身体生命財産名誉ヲ保固ス」とあり日本国憲法のもとでさえ固く守られていないことが掲げられている。そのほか、「教育の自由」「地方自治権」「立法権の優越」「国事犯の死刑の禁止」 など日本国憲法に匹敵するか、それ以上の先駆的な内容に注目される。『五日市憲法』は204条の内国民の権利をもっとも重要視しており、行政に憲法を守らせるという立憲主義の立場を明確にしている。安倍政権の改憲の立場が憲法を国民に守らせるものと意図していることとは明らかに異なっている。
 その点で植木枝盛の『日本国々憲按』もストレートに国民の権利を条件なしに明記し ている。第四十四條「日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形態ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス」は戦後の民間組織「憲法研究会」が、これを参考に『憲法草案要綱』を作成し、GHQに提案してそのまま採用されたに等しい(鈴木安蔵談)とのこと。

『五日市憲法』は誰がどのようにつくったのか
 どういう人たちがこれをつくったのか。ふろしきに包まれていた史料の一番上に置かれていたのが結社の記録だった。「学芸講談会」という結社の盟約には、討論し各自の 知識を交流するだけではなく、「気力ヲ興奮センコトヲ要ス」とあり、会員は「互イニ相敬愛親和スルコト一家親族ノ如クナルベシ」としている。単なる知識の交流だけではなく気力を高め、濃密な人間関係と相互扶助的な組織を構想していたことがわかる。また「五日市討論会」では、女性(女戸主)参政権や二院制の是非など、賛否両論のテーマを選び、月三回、10ぐらいのテーマを選び討論し論理的思考と相手を論破する力を養うことをめざしていた。深沢家土蔵からはそのほかの資料として、各国の憲法資料、法律関係の外国書籍、主な外来思想書など膨大な資料があり、レベルの高い討論とこれらの資料の読み込みを経て憲法案ができあがったと思われる。その中心にいたのが宮城県からさまざまな経路、経験(ギリシャ正教の信徒となるなど)を経て東京の五日市に来た千葉卓三郎だった。

明治憲法発布(1889年)前後の状況と『立憲政体改革之急務』の位置
 1880年の国会期成同盟大会のアピール「明治14年大会までに各地域で憲法を起草し持ち寄って憲法草案を作成する」を受け明治憲法発布前に101種類の私擬憲法が起草された。この時代を憲法の時代第1期としている。『五日市憲法』もその中の一つだ。
 1880年代後半になっても憲法起草の運動は続いていた。86年から一般からの憲法草案募集の動きが星 亨の「燈新聞」などを中心に出てくる。一方、政府の憲法案を公開させ、国民の意見を反映させようという動きも「朝野新聞」などに見られる(1885年)。三大事件建白運動の中でも「憲法の公示」を要求している。憲法諮詢会なども憲法の逐条審議を要求している。   明治憲法発布後も全国各地で憲法を学習・討議するための憲法研究会が起こっている。埼玉県草加では百名ほどが集まり、東京赤坂でも「赤坂区憲法研究会」が、帝国大学でも学生による憲法研究が行われている。発布後も民間での憲法論議は積極的に憲法が論じられていることがわかる。「朝野新聞」に掲載された「憲法に関する感情」という記事が、明治憲法発布後まだ一ヶ月経過していない頃の国民の意識の一端をあらわしていて興味深い。「・・去る二日の新富座政談大演説会に於いて、某弁士が我憲法は完全なりと述ぶるや否や、数百の聴衆は争てノーノーと叫びし由」と。国民がこぞって明治憲法を祝っていたように思われがちだが、このような状況があったのだ。島田邦二郎の『立憲政体改革之急務』執筆も、このようなことを背景に考えるとよく理解できる。

アメリカに渡った自由民権運動
 新井さんは恩師色川教授の研究を受けつぎアメリカ西海岸の邦字紙の調査を始めている。弾圧された自由民権運動家が米西海岸に渡り邦字紙を発行していた。「新日本」にはじまり「第19世紀」は1899年から59号続いた。明治政府を批判し責任内閣制などを論じている。日本では埼玉の1例のみ確認されている。その後「自由」「革命」(1号のみ)「愛国」「小愛国」と名前を変え最後に「第19世紀」にもどった。これらの新聞は日本にむけ紙の爆弾のように送られたが、発行禁止処分を受け多くが港で没収された。

コメント・質疑  
 まず会長の尾川さんから、『史料集成』と江村栄一『憲法構想』(「日本近代思想大系」9、岩波書店1989)との違いについて説明があった。ひとつは読み違いの修正。岩波版「真・善・美」(緒言P384上−4L)は『史料集成』では「真・美・善」(緒言P92,3L)、岩波版「失政スル」(第2章P39下−最後から6L)は『史料集成』では「失政アル」(第2章P104−最後から4L)に原本通り修正した。人名注で第1章「寛雑」を岩波では「カント」としたが、これは「ジェレミー・ベンサム」であると修正(第1章注10)した。
 副会長で島田邦二郎の兄彦七の孫である島田 耕さんからは、自由民権百年をきっかけとした史料発見のいきさつが語られ、出版の構想20年の末に今回『史料集成』の発刊をできたことについての謝辞が述べられた。
 執筆者の一人高島千代さんからは『五日市憲法』と『立憲政体改革之急務』(以下『急務』)の関連について以下のようにコメントされた。
 幕末から明治期にかけて日本の社会に国家・憲法を構想する気運があり、その流れに『五日市憲法』も『急務』もある。(明治憲法発布後に出た『急務』はこれらの議論を)もう一度まとめあげたものだ。(五日市憲法を書いた中心人物の)千葉卓三郎の議論も『急務』の中に生きている。『五日市憲法』をつくった青年たちの学習運動は自分たちの手で国会・憲法をつくろうとするものだった。『急務』も同じ背景を持っている。邦二郎は明治13年に慶應義塾に入学、『交詢社案』を学んでいる。神戸でも新憲法案が出され、明治10年の三大事件建白書に憲法草案の作成者たちが名前を連ねている。同時代的に各地で学習運動があり一つの構想が出来上がるときに地域毎の運動がある。この時期の日本の地域社会には国家構想をねりあげようとする気力、熱気、「人民の元気」があった。それは「わたしたちが政治主体である」という意識だ。邦二郎の『急務』の独自性は、「立憲政体」は変化する政体であるという意識だ。人民の世論にもとづく政体は変化することが当然という考え方だ。それゆえ、明治憲法発布後も、よりよい方向にもっていこうとする学習運動が続けられたのだ。
  参加者の主な質問意見は、@松江市から来られた野津庸二さんが、松江藩内で反乱を起こす計画があった気配を示すような史料が古い旅館から出たという興味深い話をされ、今後、想定外の所から資料が出てくるのではないか?と感想を交え言われた。A山内英正さんは1977年に新婚旅行で五日市の深沢家土蔵を訪ねた経験を話され当時の若者たち の議論に政治・法律問題だけではなく俳句とか文化史的な背景もあったのではないかとの疑問を出された。
 新井さんからの回答(要旨)は、@その時代の矛盾をいちばん体現している人について、色川教授は江戸時代では豪農層だと言われた(明治では戸長にあたる)。A深沢家からは漢詩集がたくさん出てきた。幕末期の豪農層の一般的な教養だった。

2月例会報告 高谷 均さん(会員・元府立高校教諭)「永井孝弘氏 特別幹部候補生の修養録について−アジア太平洋戦争末期の下士官候補生の訓練日誌」

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特別幹部候補生
 報告者の親戚である故・永井孝弘氏は旧制中学4年終了後、1944年4月に陸軍特別幹部候補生として第1航空情報連隊第五中隊に入隊した。永井氏が隊内で記録した訓練日誌「修養録」が、よくわからない遺品として家族から高谷さんに託された。それは調べて見ると思いがけない貴重な史料であった。
 「特幹」と称された陸軍特別幹部候補生の制度は、現役下士官(将校・準士官の下位、一般兵士より上位に位置する階級、旧陸軍では曹長、軍曹、伍長にあたる)を補充する目的で設けられた。それまでは下士官は、一般兵士からのたたきあげで育成されたが、学徒動員直後の1943年に創設され海軍の予科練に相当する。募集は15〜20歳(中学4〜5年)を対象に、算数・作文・身体検査面接という内容の試験に合格すれば兵籍に編入され、採用時は一等兵、訓練後に伍長で任官の予定であった。兵種は航空と船舶が多く、これは「戦況悪化の反映?」とも考えられる。通信兵が多く、船舶要員は多くが特攻隊員にまわされたという。

「修養録」に見る訓練生活と日本軍レーダーの実体
 永井氏は採用後、静岡県磐田市の第1航空情報連隊(通称中部129部隊)という訓練師団の第5中隊に入営し、その後第7中隊を経て第6中隊に最終的に配属された。部隊は東海道の見附宿付近、戦後は静岡大学農学部が置かれ、現在はかぶと塚(古墳)公園の位置にあった。入隊後4ヵ月の新兵訓練の後、第2期教育として地上レーダーの訓練を受けた。「修養録」(隊内で記録する個人の訓練日誌で上官が点検し朱で評が書き込まれる)が書かれるのは第6中隊配属の8月からである。保存の良い「修養録」表紙には右上に「錬成中隊篇」、中央に「修養録」の表題、左下に横書きで貯金通帳番号と帯剣番号が書かれている。氏名の前にある「市川隊平野班」は市川中隊長と平野班長の名前を示す。陸軍の地上レーダーは通称「タチ」と呼ばれた。「タ」は開発した陸軍多摩電波技術研究所のあった多摩の「タ」、「チ」は地上用の意味。野戦用はトラック4台で運び、日本電気が設計、東芝製真空管を使用した。メーカーはほかに岩崎、松下も関わっている。第2次大戦時のレーダーは、イギリスは地上固定式、アメリカはトレーラーの車載移動式、日本が車載のままの型式であった。レーダーは当時「ラジオロケーター(英)」と呼ばれていた(日本では「電波探知機」)。英軍が独軍のロンドン空爆作戦を 撃退した背景にはレーダーを活用した英空軍の活躍があった。原理は電波を発信して探索の対象物にあたってはねかえってきた受信波をオシロスコープで読み取るものでアンテナを対象物のある方向に向けた時のみ受信波が返ってくるという限界があった。現在のような円形の画面に広い範囲からの受信波をひろうタイプは、アメリカで開発されたPPIという装置であった。アメリカはこのレーダー装置でB29が本土攻撃した際には、海中の機雷や爆撃目標物の確認を行っていたという(参加者の辻本氏談)。
  訓練は送信機・受信機・電源の設営と接続、受信波読み取りなどを地上固定式のもので計100時間ほど行われたが、故障も多く指導法も不統一で感電事故もあった。
 兵舎は中隊毎に置かれ、中隊の編成は中隊長と隊付士官、班長・下士官、古兵・上等兵・古参1等兵、候補生・特幹1等兵で「候補生殿」と呼ばれる正体不明の兵隊がいたが学徒動員で士官になれなかった「落ち幹」かもしれないという。体罰は紛失物の未報告や上官批判の感想文などが原因で、行ったのは週番士官や隊付兵長であった。永井氏のいた第6中隊では古兵のいじめなどはあまり見えなかったが、班により事情が異なるのか?訓練部隊は入れ替わりが多いので体罰、いじめが伝統化しにくかったのだろうか?特に第6中隊では人徳者の長田兵長の存在が古兵への牽制になっていたとも考えられる。

転属と機上レーダー訓練
 突然の試験の合格者が9月中旬に東京国立の東部92部隊に転属となった。東京商大(現・一橋大学)の接収地である。大学の立派な建物、設備、士官の多さに戸惑ったという。10月下旬に対外演習で三浦半島に行ったが、3度の米飯など好待遇であった。
 11月に水戸航空通信学校で機上レーダー(飛行機搭載レーダー)の演習が行われた。実戦態勢を思わせる指揮系統となり、私物整理が指示される。この頃には空襲が本格化している。特攻を鼓舞する訓話が行われたり、このことは逆に士気の低下を招いている。修養録には家族の記事が増え、富山からは父親が面会にも来るようになった。
 飛行訓練が始まり、武装をはずした百式重爆撃機呑龍U型丙機に「タキ」1号レーダーを搭載した。「タキ」とは、「タチ」レーダーの機上型である(キは機上を指す)。地上型と同じ原理のレーダーを搭載している。初期の地上レーダー(大型遠距離警戒レーダー)を飛行機に載せているのは日本だけで、欧米ではもっと精密なcm単位のレーダーがすでに使用されていた。飛行兵ではない候補生を飛行機に乗せたため(候補生が順に1名づつ搭乗)、 多くが飛行機酔いでおう吐した。搭乗員は候補生以外は下士官以上なので緊張して連携がとれなかったりした。離陸後に機長がいきなり電源を切断しレーダー画面が消えてあわてるようなこともあった。訓練内容は目視偵察や照明弾投下が多く、本来の索敵行動とは思われない。1月に訓練が終わり永井氏は隊付補助として原隊に留まり、階級は兵長に昇進した。6月、部隊は富山飛行場に疎開したのち終戦で水戸にもどり、そこで除隊した。
 質疑交流では活発な意見交換が行われた。特に辻本 久さんは、「特幹の歌」を憶えていて歌ってみせてくれた。またレーダーに関する知識も豊富で、自身が船員であったこともありくわしい説明をされた。イギリスのレーダーには、日本の八木博士が開発した八木アンテナが応用されていたことなども報告された。

3月例会報告 武内善信さん(元和歌山市立博物館・元和歌山城整備企画課学芸員)「石山合戦と雑賀一向一揆」

3月例会の写真

先祖は石山合戦に参加した
 武内さんは、元和歌山市立博物館学芸員および和歌山城整備企画課学芸員であった。本来は大逆事件など近代史の専門家で、現在は南方熊楠研究会会長でもある。そして和歌山市内の浄土真宗本願寺派寺院善勝寺(天正元年開基)の住職でもある。「石山合戦」の始まる頃にできた寺の先祖は同合戦に参加したという。雑賀衆調査に関わったのは和歌山市立博物館で開催された「石山合戦」の展示がきっかけだった。

通説と実体のちがい
 調査を始めて、世間の歴史常識と言われていることと実体とは違うことがわかってきた。「雑賀衆」の通説は「室町時代後期、紀州鷺森御房を中心に結束した本願寺門徒」(国史大事典)、「雑賀一揆」の通説は「石山合戦期、紀伊国雑賀を中心に蜂起した一向一揆」(日本史大事典)である。しかし、「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」とは区別すべきことがわかってきた。さらに、「石山合戦」という歴史名称について、最近、秀吉の大坂城が平地に石を積んで城にしたことから「石山」と呼ばれるようになったという説が出され、戦国時代に本願寺は大坂本願寺と呼ばれており、石山本願寺の呼称は後世の呼び名であるので信長との戦いを「石山合戦」とする名称は時期的に無理ということになった。「大坂本願寺合戦」とすべきところだが、この名称も使いにくく、将来的には使用されなくなるとはいえ、現在は「石山合戦」の通称を使わざるを得ないという。

「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」のちがい
 「雑賀衆」とは惣村(中世の村落のかたちで、村の運営に有力農民、地侍、土豪などが参加する自治組織を形成)を単位とする地縁でむすばれた集団を指し、現在の和歌山市域と海南市など周辺地域に惣村(全体で36村)の連合体が5つあり、雑賀庄(和歌山市西部の中心地域に13村)、十ケク(紀の川右岸に6村)、宮ク(日前宮附近に2村)、中郷(岩橋など7村)、南ク(大野など8村)を「雑賀五組」と呼んだ。これに対して、「雑賀一向一揆」とは「雑賀衆」の中の一向宗門徒および「雑賀衆」以外の一向宗門徒が地縁に関わりなく一向宗(浄土真宗)の本末(本寺<本山>と末寺の階層関係)で結ばれた関係である。つまり雑賀衆という地縁的集団は一向宗門徒もその他の宗派も含んでおり、雑賀一向一揆は雑賀衆の中にいる一向宗門徒(3分の1ないし4分の1)と、雑賀衆以外の門徒からなる。
 通説では紀州に浄土真宗の信仰が入ったのは南北朝頃で、本格的な普及は蓮如(本願寺第八世)の紀州来訪以後とされる。しかし蓮如が紀州に入る以前から仏光寺教団(真宗仏光寺派、了源が開祖)が泉州から海上または川を経て紀州に浸透し、本願寺教団も蓮如以前に泉州の海生寺(現・嘉寺)の浄光寺了真が陸路(雄山峠などの峠越え)により紀州に教線をひろげていたという(本願寺は親鸞の血統を嗣ぐ門主の教団、それ以外に門弟が結成した教団が仏光寺派、高田派など近代に至って10教団となった)。蓮如の文明18(1486)年の紀州来訪は、了真の開いた道筋をたどっている。紀伊の真宗は、仏光寺派の真光寺末(泉州にある大寺真光寺の末寺)や性応寺末、本願寺教団の浄光寺末など諸派が入り乱れ、同じ村にいくつもの寺がある。その中で紀州における蓮如の最初の直弟子とされた清水(現・冷水)道場の了賢に二尊像(親鸞と蓮如の連座画像)が下付された。本願寺では親鸞画像は特別の意味があり、各地の門末が地域の拠点的な寺院に置かれている親鸞画像に出仕する義務がある。親鸞画像が置かれた了賢の清水道場は紀伊の拠点的な道場(正式な寺格のない修行場)となった。重要な港である清水は真宗の陸と海からひろがる教線の結節点であり、以後清水を中心に真宗の普及拡大がすすんだ。その後親鸞画像の移動と共に清水道場は黒江、御坊山、鷺森御坊へと発展する。

「石山合戦」と雑賀一向一揆
 雑賀衆は、「石山合戦」開始の頃は本願寺方とはいえなかった。紀伊の守護畠山秋高は信長の娘(養女)を妻としているような背景もあった。特に阿波の「上桜合戦」では、三好長治の傭兵として参戦し、本願寺方の篠原長房を攻め滅ぼしている。しかし、天正2年頃、雑賀門徒衆は積極的に本願寺方に味方することになる。その理由は、@信長と関係の深い守護畠山秋高が家臣に殺され守護の統制がなくなったこと、A足利義昭が信長と対立し、紀州由良の興国寺で反信長戦線の結成をはかり、雑賀は足利将軍を選んだこと、B最近の発掘調査の結果、石山合戦の最中の天正2年に大坂本願寺が鷺森御坊(和歌山市駅の南方向)に当時最大級の幅約17mもの堀(掘った土は土塁として利用される)の増築整備を行ったと考えられることから、本願寺が退去してきた際の防御用堀であると推定されることなどで、天正2年の時点で、雑賀門徒衆とその他の地域の門徒衆からなる雑賀一向一揆が成立し、本願寺方の主要な勢力として「石山合戦」の前面に登場したものと思われる。
 ただ本願寺関係資料に登場する「雑賀衆」は、「雑賀一向一揆」の意味で使用されているので注意を要する。
  天正4年以後、「石山合戦」における雑賀一向一揆の活躍はめざましく、天王寺砦の戦いでは信長も鉄砲で足を狙撃され、鈴木孫一と本願寺の重臣下間頼廉の偽首を京都でさらして両名を倒したという流言を流すほど苦戦している。その後第1次木津川の海戦で毛利・雑賀の水軍が織田方の水軍を破り石山への補給を確保した。これに対して、信長は天正5年、本願寺を支える主要勢力の雑賀一向一揆の攻撃を行う。根来衆と雑賀の宮ク、中郷、南クは信長方につき、雑賀庄と十ケクが雑賀一向一揆の中心として信長軍と対峙した。このとき、南クの大野莊は一向一揆勢と反一向一揆勢に分裂し、鈴木孫一が 大野の一向一揆側を支援して勝利した。中郷も門徒勢が多く、内部分裂していた。宮クも一向一揆勢が優勢になるに及んで、わびを入れてきた。信長は、戦況不利で、毛利の圧力もあり、紀州から撤去せざるを得ず、雑賀一向一揆側に形式的な誓詞を出させて退去した。(教科書・副教材などに、このとき雑賀一向一揆が信長に敗れて従ったという記述があるが、あきらかに雑賀一向一揆が信長に勝利した戦いであった。)

「講和」以後の動き
 天正8(1580)年、本願寺と信長の講和が成立、顕如は大坂を退去し紀州の鷺森御坊に入った。雑賀一向一揆の役目も終わった。このとき、雑賀一揆(この場合の一揆という言葉は、百姓一揆などの闘争的な意味に限定されるのではなく、自治組織としての集団、一味のような意味である)は存在するが、その中の勢力バランスが変化した。鈴木孫一や非門徒の土橋平次の力が相対的に強くなった。「石山合戦」講和後の天正10年、両者の確執は木本の土地争いをめぐり激化し、また信長につくか四国の長宗我部につくかの路線対立もあり、鈴木孫一が土橋平次を殺害した。さらに信長の支援を受けて鈴木は土橋の砦をも陥落させる。これは紀州の水軍をおさえたかった信長が、紀伊湊に勢力を持つ土橋を鈴木と連携して追い出そうとしたためである。しかし、本能寺の変(一説には信長の四国政策が変化して長宗我部と対立し、これに明智光秀が反発したという)で信長が討たれると土橋残党が反転攻勢に出て鈴木孫一は雑賀から退去する。
  そして天正13年秀吉が紀州攻めを行い、大田城水攻めと開城によって雑賀は終焉をむかえる。
 (*報告中、被差別民と真宗教団の関係の有無、沙也可と雑賀衆との関係の有無についても触れられたが、いずれも十分な時間をとれなかったので、ここでは省略する。)
 質疑交流ではたくさんの質問意見がだされ、活発な交流が行われた。
 特に雑賀一向一揆が信長を悩ました鉄砲戦術についても多くの質問意見が寄せられた。火縄銃が日本に導入された最初の頃は、 非常に稀少で高額であったので、武内さんは「フェラーリのようなもの」と例えられた。それがのちに大量に生産されて価格が下がり、消耗品となった。現在、 戦国時代の火縄銃はほとんど残っておらず大徳寺に天正銘のものが1丁置かれているという。また鉄砲は種子島に初めて伝来したというこれまでの定説も修正され 、最近は東南アジアなどから分散波状的に日本国内に入ってきたということが定説になっているという。

4月例会報告 「堺町歩きフィールドワーク(北庄を中心に)」案内 竹田芳則さん(会員・堺市立北図書館)

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 堺市堺区にある旧市街地は、1945年の空襲により壊滅的な被害を受け、その後の高度経済成長期の開発により、近世以来の歴史都市としての景観もほとんど失われてしまいましたが、そのなかで戦災以前の町の面影を比較的残している地域を中心にまち歩きを行いました。

当日の主な日程
 南海本線七道駅(集合)→「放鳥銃定限記」石碑→清学院→鉄砲鍛治屋敷→大道(紀州街道)→水野鍛錬所→山口家住宅→寺町・農人町・土居川公園→覚応寺→西本願寺堺別院(堺県庁跡)→妙國寺→堺奉行所跡→菅原神社→大小路→開口神社→さかい利晶の杜(解散)

「放鳥銃定限記」石碑と柳原吉兵衛
 大正3年(1914)に南海七道駅近くの運河掘削工事現場から「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題する377文字の漢文が刻まれていた石碑が発見された。石碑は江戸時代初期の堺における鉄砲関連資料として貴重で、江戸時代の試射場がこの近くにあったことを示す。開削工事の発起人であった堺の実業家 柳原吉兵衛が昭和3年(1928)、自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立し、その後堺市に寄贈された。
 柳原吉兵衛は、具足屋という江戸時代からの有力な商家で、今も続く大和川染工所という工場を創業した人物。クリスチャンとしても知られる。昭和初期、この附近は大和川染工所のほか大日本セルロイド(ダイセル・現在のイオンモール)などの大工場と、そこで働く朝鮮人や沖縄出身者が多く住む地域であり、岸和田紡績堺分工場の争議を指導した労働組合の事務所もあった。

七道浜から北旅籠町へ
 七道駅は堺の北北西のまちはずれにあたり、元禄2年(1689)の堺大絵図(『元禄二己巳歳堺大絵図』前田書店出版部、1977年)で「神輿道」と書かれた付近。近世初期には「七道浜墓所」という堺の四墓の一つが存在したが、のちに移転。駅ガードをくぐり町の入口を左に北半町、右に北旅籠町の間の道を入ると、元禄堺大絵図で、その境内が「非人借宅」としている宗宅寺と道を挟んで「ひじり屋敷」がある。七道浜墓所を管理する賎民とされる「三昧聖」が住んでいたが、墓地の移転に伴い環濠外に移住した。

河口慧海(かわぐち えかい 1866〜1945)
 黄檗宗の僧侶で、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット 語訳の仏典入手を決意して、1900年(明治33)日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
 現在の堺区北旅籠町の樽職人の長男に生まれた慧海は6歳から寺子屋の清学院に通い、その後は泉州第二番錦西小学校へ通学した。15歳の時、同い年で近所の商家の跡取り肥下徳十郎(ひげ とくじゅうろう1866〜1915)と出会う。二人は友情を深め、漢学塾「晩晴書院」にも一緒に通い、徳十郎は「無二の親友」として慧海のチベット行きを物心両面で支えることとなる。近年、徳十郎の子孫宅から慧海直筆の日記・手紙・写真など21点の資料が発見された。このうち日記帳は、インドで2回目のチベット行きの準備をしていた慧海の日々の行動が記されている。頁の後半で中央部が四角く刳り抜かれており、遺書などを収めた箱を堺の肥下家に送った際に、鍵を入れた小箱を日記帳の中に隠して別送したものと考えられている。

堺鉄砲鍛治屋敷
 種子島伝来の鉄砲製法が堺に伝わり、堺は日本一の鉄砲生産地になった。江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、元禄堺大絵図にも記載されており、わが国の町家建築としても最古に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重である。昨年(2018年)ご当主より堺市が建物寄贈を受け、現在その公開と活用に向けて整備中。
 最近ここから江戸時代〜明治時代にわたる総点数2万点を超す古文書等が発見された。堺市と関西大学が共同研究調査として2015度より4年間、鉄砲鍛冶屋敷の史料調査を実施し成果の一部が報告書として刊行された。鉄砲の注文から代金の引き渡しに至る江戸時代の鉄砲ビジネスの仕組みが初めて明らかになるなど、日本の鉄砲生産の歴史を書き換える貴重な成果となっている。

元和の町割
 大坂夏の陣(1615)前哨戦で、大坂方の大野道犬により堺は全て焼き払われたが、戦後まもなく、徳川幕府の命により、新しい都市計画による地割(区画整理)が行われた。これを「元和の町割」といい、当時の堺政所(堺奉行)の長谷川藤広の下、地割奉行となった風間六右衛門の指揮により実施された。中世以前から、堺の町は真ん中に東西の大小路と南北の大道(紀州街道)が直角に交わっていた。大小路は、堺の町を摂津国の北庄と和泉国の南庄を分ける国境線として認識され、「堺(さかい)」の名称の由来と考えられている。元和の町割では、道すじを大道と大小路を基準として、縦は大道に、横は大小路に平行に造られ、町の外周三方に堀をめぐらした。
 大道(紀州街道)と平行する道の幅を見てみると、大道が4間半(8.1m)であり、東西にその次のすじが2間(3.6m)、その次が3間(5.4m)とたがいちがいとなっている。 1872年(明治5)の町名改正により、大道沿いの町名に東西に2ブロックごとに番号をつけた名称に整理された。現在、堺市の住居表示では「北旅籠町西一丁」というふうに「丁目」ではなく「丁」と表示されているが、近世の一つの町単位を丁(=町)とした名残りである。東側の堀(土居川)に沿って、町の一番東に農人町がつくられ、堺廻りの田畑を耕作する農民に居住させ、他都市に見られない構造となっている。農人町の内側には寺町がつくられ、以前に町なかにあった寺院が、南北に細長い地域に並べて配置された。地割奉行の風間は熱心な日蓮宗信者であったが、寺町の地割において日蓮宗の寺院に広い敷地を割り当てたとして、他宗から不平や反感が高まり、事情聴取のため幕府が風間に江戸に来るよう命じたところ、風間は堺の町はずれで自刃したとのエピソードが残る。

堺事件
 慶応4年2月15日(旧暦。太陽暦では1868年3月8日)に堺町内で起きた土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。事件後、 新政府の外国事務局判事五代友厚らがフランス側と交渉し、隊長以下土佐藩士20人を死刑とし、執行場所を堺の妙國寺とすることが決められた。刑執行に立ち 会っていたフランス軍艦長が11人が切腹したところで中止を要請し、結果として9人が助命された。事件を題材に、森鴎外が1914年(大正3)に歴史小説『堺事件』 を発表したが、これについては大岡昇平が、晩年の作品『堺港攘夷始末』において、鴎外による歴史の「切盛と捏造」を厳しく指摘している。その背景に、 明治政府内の高知県士族による堺事件「殉難者」を靖国合祀、国家として顕彰する動きがあった。

5月特別例会報告 「淡路島出身・島田邦二郎の『自由民権』の憲法構想を学び顕彰する集い」  
共催   大阪民衆史研究会・治安維持法国賠同盟淡路支部結成準備会
講師  島田 耕さん(本会副会長)
     高島千代さん(会員・関西学院大学法学部教授)
     田中隆夫さん(会員・治安維持法国賠同盟兵庫県本部)

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予想を超えて51名が参加
 5月11日(日)、淡路島の洲本市総合福祉会館で「淡路島出身・島田邦二郎の『自由民権』の憲法構想を学び顕彰する集い」が開催された。大阪民衆史研究会と「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟淡路支部結成準備会」(以下、「準備会」)の共催だ。
 当日は、18時からという遅い時間にもかかわらず、参加者は、51名にのぼった。会場は定員30名だったため、急遽、広いホールに切り替えることになったが、それほど、想定したよりも多くの方にご参加いただけたということである。「準備会」の皆さんの熱意、そして事前に朝日新聞神戸総局に開催記事を掲載してもらったことが大きかったのだろう。それにしても、淡路出身の島田邦二郎について、これだけ多くの地元の方々に、その一端でも伝えることができたことは、私にとっても大きな喜びだった。
「立憲政体改革之急務」が自由民権百年運動のなかで発見されたのが1985年、江村栄一さんが全文を翻刻したのが1989年(江村栄一編『日本近代思想体系9 憲法構想』岩波書店)だから、それから30年目の年に、奇しくも、邦二郎の郷里、淡路でその学習会が実現したわけである。

地元淡路で語られる邦二郎の憲法構想
 学習講演会の講演者・トップバッターは我会の島田耕さんだったが、島田さんも、邦二郎・彦七おじいはんのこと、ご自分の家・歴史を回想されながら、ようやくここまできたという思いだったのではないだろうか。お話しの最後に少し涙ぐまれていたのが印象的だった。学習会が終わってからも、「一つ階段を上った実感」を吐露されていたが、その点にも、今回の会がもっていた意義が示されている。民権研究者の間では高い評価を与えられていたものの、地元・淡路ではよく知られていなかった島田邦二郎が、ようやく郷里に認められたのだから、ご子孫でなくとも、大きな感慨を持たざるを得まい。 島田さんの後は、私の方から「淡路の人、島田邦二郎の思想―『立憲政体改革之急務』を中心に」と題して1時間ほど話をした。まずは「立憲政体改革之急務」(以下、「急務」)に至るまでの邦二郎の人生を三期にわけて紹介し、邦二郎・彦七の肖像写真、邦二郎の筆写した交詢社「私擬憲法」、邦二郎の蔵書中、書き込みのあるミルの原書についても写真でみてもらった。その上で、邦二郎は、急進派の思想理解から出発しつつも、のちに改進党的なイギリス立憲制への志向を強く持つに至った自由党系政治家であると論じた 「急務」については概要を紹介したが、その主張の特徴は立憲政体を「改革的ノ政体」なりと論じたことにあり、ここに見られる「急務」独自の動態的な立憲政体イメージからすれば、明憲法体制は不動のものでなく改革していいものだということになる。また「急務」にみられる、「自由民権」「三大事件建白」など明治10-20年代政治思想の集大成は、少なくとも淡路において、明治10年代の運動・思想が、明治の国家・憲法が成立する明治20年代でも途切れることなくつながっていたことを示している。「ですから淡路の皆さんは、これについて、もっと誇りに思ってよいのではないでしょう」かと述べて、話をしめくくった。
立憲主義とは多様な人々の意見によって日々新たに形成されていくもの、造り直されていくものだという、「急務」の根幹にある主張は、ひるがえってみれば、現在の日本国憲法にもあてはまるものだろう。私自身、以前から、「急務」は「護憲」という立場がもつ本当の意味を考えさせてくれる主張だと考えていたので、もし時間があれば、そんな話もしたかったのだが、残念ながら時間切れだった。

現代とつながる邦二郎の問題意識
 最後に田中隆夫さんが、島田邦二郎にはじまり、宮崎駿、さらに現在の朝ドラ『なつぞら』のモデルとなった奥山玲子さんに至るまでの、「人間の誇りを守り希望をもった人々」、あるいは「戦争反対で活動した人」のつながりを紹介。信念をもった行動が必ず「つながり」をもたらすこと、そこにこそ運動の希望のあることを述べて、同盟「準備会」、その再出発を力強く励ました。田中さんのお話は、今回の「集い」の趣旨と、島田邦二郎の研究・顕彰との接点をうまくつなげてくれるものだったと思う。
 残念ながら、質疑応答の時間がなくなってしまったので、それぞれの講演について意見交換することはできなかったが、終了後の交流会には洲本・南あわじの市議を含む20名が参加され、邦二郎や淡路の政治状況など、色々なお話しをすることができた。淡路玉ねぎのスープや淡路牛なども御馳走になってしまい、本当に楽しい時間だった。
 その時にも感じたことだが、「準備会」の皆さんは、淡路の地域史について非常に よく勉強されている。実は「集い」が開始する前に、「準備会」のメンバーが5人ほど集まり、島田耕さんの案内で、淡路文化史料館を訪問。「急務」の閲覧や所蔵庫の見学もさせてもらったのだが、その時に、集まった皆さんは淡路の古代史・中近世史などついても、実によくご存知だった。   島田邦二郎史料集成が刊行されたことで、大阪民衆史研究会の邦二郎研究が一段落したことは確かだが、島田家の経済基盤から文化活動・ネットワークの広がりに至るまで、邦二郎研究の課題は未だ多く残っている。今回、淡路でこのような会をもてたことをバネに、これからは地元・淡路の人びとと手を携えて、新たな研究へと踏み込んでいく必要があるのではないか。その意味で、大阪民衆史研究会の島田邦二郎研究も、再出発なのかもしれない。こうしたことも含め、今回の学習講演会実現にあたっては、堀井裕右さんをはじめ「準備会」の皆様には本当に色々なことを教えていただきました。末筆ながら、関係者の皆様に、心より感謝を申し上げます。
                                                             文責・高島千代

6月例会報告  成瀬龍夫さん(会員・元滋賀大学学長)「比叡山の僧兵たち」

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マフィアと僧兵
成瀬さんの専門は経済学だ。定年後、歴史小説かエッセイを書きたいという強い想いにとらわれた。1994年頃イタリアでマフィアの研究をして本を出版するはずだっ たが、売れないからやめたほうがよいとの忠告で出版は頓挫した。それから25年後地元比叡山の僧兵がマフィアに代わる研究対象となり、今回の『比叡山の僧兵たち』という歴史エッセイ的な本を出版する運びとなった。 執筆のきっかけは信長の比叡山焼き討ちに関する延暦寺自身の説明に強い疑問を感じ、真相解明の意欲が沸いたことだった。

信長の比叡山焼き討ちの真実
 信長の焼き討ちの規模について3つの説がある。@太田牛一『信長公記』に代表される大規模説、A延暦寺の説明に基づく中規模説、B兼康保明『考古学推理帳』(考古学調査)にもとづく小規模説だ。従来は全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が行われた、とするイメージが「常識」のようになっている。しかし、2013年に行われた発掘調査によると、焦土の発見も非常に少なく、『信長公記』の記事は「たいへん誇張した物語というべきであろう」(兼康)という。「壊滅的な打撃を受けた」とする延暦寺の立場と発掘調査とのギャップをどう考えるのか、今後の検証が求められている。

僧兵とは何か
中世大寺院は延暦寺に限らず数千の規模の僧兵を擁していた。エール大学教授朝河貫一は、京都や奈良の大寺院のみならず全国各地の寺院が僧侶による武装した集団を組織し、相互の内紛を納めたり封建領主や朝廷に対して自己の主張を押し通したことは日本の宗教史における「11世紀のもっとも驚くべき現象」としている(「日本の社会経済史上における宗教の位置」1931年)。不殺生を戒律とする僧が人を殺傷する武力をどういうわけで行使することになったのか?僧兵とは何か?弁慶に代表されるような僧兵のイメージは歴史的に正しいのか?僧兵を「悪党」「悪僧」とするイメージは中世以後の「軍記物」などの文学の世界の中でつくられ、本当の姿はわかっていないという。
 もともと僧兵は「山法師」「堂衆」「衆徒」などといわれ、「僧兵」という言葉が出てきたのは江戸時代で、武士が支配し、「儒学」「国学」にもとづく仏教排斥が行われるようになった社会の意識から出た言葉だ。
僧兵武力の発生について、黒田俊雄の分類を参考に6つの類型に分類できる。  @寺社の自衛武力として、A寺領荘園の防衛のため、B寺院内の内紛のため、C朝廷への強訴のため、D他宗派との争いのため、E幕府・武家への合力のため、など。  辻善之助は得度制度がゆるみ、僧侶になる手続きが容易となり質の悪い僧が大量に生産されて、これが僧兵発生の基盤となったとする。10世紀後半、大量生産された僧の学僧と非学僧への種別化を行い、「二十六か条制式」を定めて堂衆・行人などの非学僧に武力の担い手の役割をあてたのが天台座主の良源だった。良源が僧兵の創始者といわれる由縁である。

鎮護国家仏教と僧兵の武力発生の論理
  日本の仏教は、古代律令国家が中国唐の時代に確立された鎮護国家仏教を導入したことに特色があるという(空海と最澄の密教導入も含めて)。個人の解脱や民衆救済を目的とする仏教本来のありかたより、日本では、仏教を国内政治の補完物とし、国分寺制度など国家が寺院と僧を管理し鎮護国家の機能を担わせた。王法と仏法は車の両輪と考えられた。仏法は朝廷(王法)を支え、朝廷は仏法を保護する関係にあった。
 そのような日本仏教の特色から、鎮護国家の核心である王仏帰依の関係には仏教の戒律と矛盾する論理が胚胎されていた。つまり、仏教では殺生を禁止しているが、王法、すなわち国家は戦争における殺人を肯定している。鎮護国家思想は殺生を肯定しているため、仏教の戒律の空洞化が必然的だ。
 僧兵の武力の発生が、武士の発生と同じように自衛的武力、荘園防御などの社会的・経済的要因などにのみ求めるのではなく、鎮護国家仏教という中国の影響を受けた日本独自の仏教内部の論理にもとづくとするところが報告者の論点のユニークなところである。

質疑交流から
報告者の大胆な問題提起を受けて活発な質疑が行われた。鎮護国家仏教の中に殺生肯定の論理が含まれているとする提起は刺激的である。宗教と戦争の関わりは日本に 限らず、また現代にも通じる普遍的な問題である。それは宗教内部の論理なのか、宗教外の社会・経済的な要因によるのか、日本仏教を鎮護国家仏教とひとくくりに できるのか、などまだまだ検討すべき点があるものと思われ、議論はつきないところで当日は時間となった。

7月例会報告  久保在久さん(会員)「大阪砲兵工廠物語」

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新聞記事160万字を記録、砲兵工廠の歴史描
久保さんは大阪砲兵工廠に関する戦前の「大阪毎日」や「大阪朝日」の記事160万字分記録して、今年5月に『大阪砲兵工廠物語』を出版した。久保さんの人生で砲兵工廠には縁がある。父親が1940年に大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)に勤務したため 和歌山県栗栖川村から大阪市に移住した。1952年に大阪中央電報局に勤務、このときおぼえたモールス通信の技術を元にブラインドタッチができたので、今回の新聞記事160万字を記録することはあまり苦にならなかったという。

巨砲の国産化
  明治3(1870)年「造兵司」が大阪城内に置かれ、機械は長崎製鉄所(旧幕府直営)から運ばれた。これが大阪砲兵工廠のはじまりで、東京砲兵工廠は小銃を、大阪は大砲を製作することになった。幕末から外国製兵器が輸入されていたが、西南戦争以後国産の大砲の生産、使用がはじまった。明治14年には口径7センチの大砲(山、野砲)が開発され、これはドイツのクルップ社製より性能が上まわった。試射は最初信太山で行われていたが、性能の向上に応じて大津川(泉大津市)の河口北(現・汐見町、下水処理場付近)、明治25(1892)年から北掃部村春木(岸和田市)の海岸に移された。24センチの巨砲は、3q沖の軍艦の鋼鉄製の甲板を打ち抜くほどの威力を示した。しかし近所の住民は「大砲試験場が設けられてから家傾き、壁が震え、大病の者は動悸に堪えられず、障子ガラスも完全なものはない」と窮状を訴えたという。
  大砲の性能をさらに向上させるため、イタリアから技術指導の軍人を招聘した(ポンペオグリロ少佐など)。そのため莫大な給与が支払われた(月報3000円説と450円説がある。当時の総理大臣の年俸が約1万円だった。)。グリロ氏には現地妻まで世話されたという。
 長期勤続者(49年8ヵ月)の火砲製造所旋工職長秦源次郎氏によると「普仏戦争(1870〜71年)にはドイツ(プロイセン)の依頼を受けてクルップ砲12門の製造をやったことがあります」とのこと。また「それから台湾役、西南戦争、日清、日露、日独(第1次大戦)を職工として経験」したという。大阪砲兵工廠で製作された大砲は、明治26(1893)年時点で、28センチ榴弾砲(日露戦争時、旅順攻略に使用)、24センチ加農砲、15センチ臼砲、12センチ加農砲、9センチ速射砲、演習用24センチ加農縮射砲、24センチ臼砲縮射砲、7センチ野砲、7センチ山砲など計107門であった。  

砲兵工廠が日本の産業革命・都市化に及ぼした影響
 大阪砲兵工廠は戦争のない時期は兵器以外の製造も引き受けた。天神橋の橋杭、天満橋の鉄橋架設用材など鉄橋の架設から捕鯨のための鉄砲、造幣局の炭酸ソーダ製造釜、こうもり傘の骨、通貨製造機械(朝鮮)まで製作した。さらにコレラ流行のため、特に着工が急がれた大阪市の水道事業用の水道管製作は途中日清戦争(明治27〜28年)のために生産縮小したが、砲兵工廠が主力となって完成させた。ほかに砲兵工廠の技術により製作されたものは、海陸用蒸気器械、造船用鉄物類、ポンプ、紡績具、釘切り、綿実繰り、街灯台、車輪類、革箱類などさまざま。明治41(1908)年からは軍用自動車の開発がはじまった。すでに欧米では自動車を輜重輸送用に使用していた。明治44年から大正3年にかけて大阪砲兵工廠で10数台の軍用自動車が製作され、大阪・東京間、満州などで試験走行が行われた。自動車への大砲など兵器搭載の研究 も行われた。大正7(1918)年には民間企業7社に自動車製作の指導、同8年には発注を行うことになった。また砲兵工廠出身の職工が大阪で操業する例が多く、池田アルミニウム、松田製作所、国友鉄工所、大阪精工所などが軍用品、兵器製造会社として成長した。砲兵工廠や関連の民間企業が発展し、大阪には地方からの求職者が集中し、大阪周辺の農民の職工化もすすみ、東成郡などの東部大阪が職工の居住地として人口の激増と都市化の進展、中小企業の工場の増加など農村地帯から都市化へと変貌をとげた。大阪砲兵工廠自体拡張をとげ、職工25000人が就業し、名古屋と朝鮮の平壌に分工場がつくられた。
  このように大阪砲兵工廠は、軍事工業を中心とする重工業を軸に日本の工業化、産業革命の推進力となり、大阪の都市形成をもすすめる役割をはたした。それは一方で、劣悪な労働条件、労働問題や都市問題の原因ともなっていった。

労災事故、労働争議、労組の結成、普選運動
 明治13(1880)年8月30日、西南戦争で未使用だったスナイドル銃を解体中に弾薬箱を落としたことで爆発事故が起こり、42名が死亡、11人が重傷という惨状となった。12歳の少年職工も犠牲となった。陸軍は労働災害に対応するべく常駐の医師を置くことを決定した。
 日露戦争後800名の職工を解雇し、さらに同数解雇する計画が明らかとなった。職工らは明治39(1906)年7月1日門前に多数結集し、11月には1万人を結集して賃金増額を要求して当局と交渉を行った。当局は代表者を解雇したが、職工側は団結を強め、玉造稲荷に結集して16000人の連判状を確認したが、警察は700名を動員して運動を鎮圧した。大正8(1919)年、砲兵工廠は、それまでの労働者の団結行動を禁止する態度を改め、「穏健な思想を以て労働組合を組織」させるほうが労働者の意識の高揚につながるとの見解を明らかにし、労働者代表もこれに応じて、11月森ノ宮小学校で八木信一の司会で大阪砲兵工廠労働団体向上会が発会した。翌年関西でもはじまった普通選挙運動期成関西労働連盟団には向上会の八木信一が参加している。 

まとめと質疑意見交流
 久保さんが最初に強調されたように、大阪砲兵工廠の歴史は単に兵器工場の歴史というだけでなく、大阪と日本の産業革命、資本主義の発達史そのものであり、また大阪の都市形成にあたえた影響もはかりしれない。そして、久保さんが特に関わり合った八木信一という人物に代表される大阪の労働運動や普選運動などとの関わりもある。それはこのテーマが、会場からの感想で述べられたように久保さんの研究の集約されたものでもあるように思えた。
  今回は砲兵工廠に関心の深い参加者が多く、活発な質疑が行われた。●海軍の砲兵工廠についてはどうか?日露戦争中は呉の砲兵工廠は36時間労働で死者が多数出たという。●砲兵工廠が大阪の産業革命に果たした役割は大きい。熟練工が砲兵工廠で育成されている。●旅順攻撃に使用された兵器は?大阪で作られた28センチ榴弾砲が使 用された。これらは各地の要塞に据えられていたものを旅順に移動させた。●大阪の空堀の水道管は明治に砲兵工廠で作られたものが未だに使用されている。 ●イタリア人などの外国技術者を高額報酬で雇う一方で当時の職工の学力レベルはどうだったのか?幕末から各地で大砲製造など、工業の近代化をすすめる努 力がされている。

8月例会報告  溝川悠介さん(大阪府立大学名誉教授)「治安維持法に弾圧された父・溝川良治」

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ここに彼がいる
  溝川さんの父良治さんは、戦前のファシズムの時代に抗って侵略戦争に反対し平和と自由を求める闘いを命がけで行っていた。生前多くを語らなかった父のことをくわしく知るきっかけとなったのは、父の死後に大阪外語の仲間たちが父を偲んで出版した追悼集『ここに彼がいる!溝川良治を偲んで!』や、関西学連(関西の社研の連合組織)のOB会「冬至会」に集う人たちの記録からであった。
 良治さんは1909年京都府加佐郡大江町で生まれ、1916年一家で大阪市に移り、1925年高津中学校に入学した。その年、治安維持法が制定された。『追悼集』の丹羽道雄(東大から関西学連)の記述によると、良治さんが、この頃からマルクス主義(科学的社会主義)を学び、社会科学研究会(社研)に入るようになったきっかけとして、(1)大正デモクラシーという当時の社会的状勢が多くの青年に改革の熱意を持たせたこと。(2)マルクスも教えられていた高津中学校の自由で進歩的な学風。(3)大阪外語(大阪外国語大学、現在の大阪大学外国語学部)の進歩的気風、社会科学研究会の水準の高さ、をあげている。

1年次で大阪外語を退学処分
  1928年良治さんは大阪外語独語部入学後すぐに社研部に入部した。その仲間には、階戸義雄らがいる。この年に治安維持法の最高刑が死刑の改正が行われている。翌年1929年良治さんは1年次の3月大阪外語を退学処分となった(『特高月報』には諭旨退と記載)。その退学に至る理由は未だ不明である。この年には山本宣治暗殺、4・16共産党弾圧事件、世界恐慌などが起こっている。在籍1年に満たず何故退学となったのか?この時期にはげしい思想弾圧が行われたと推定されるが、真相は不明である。その翌年1930年に「2月事件」と呼ばれた弾圧事件が起こっている。階戸義雄、奥田 平らが検挙された。

満州事変など侵略戦争拡大と大弾圧
 「2月事件」で検挙を免れた人びとがパリコンミューン記念日に大阪を中心に京阪神で「日本共産党大阪市委員会」の再建宣言を行い4月27日からメーデーの宣伝行動などを行い、このとき関係者10名ほどが検挙された。さらに8月26日京阪神3都市でいっせい検挙が行われ、この「4月事件」、「8月事件」と呼ばれる弾圧事件で1100余名が検挙された。その後も、学生や労働組合が参加して弾圧にもめげず、満州事変、上海事変勃発を機に反戦運動を果敢に展開した。特高との熾烈な闘いは1年余り続いた。1932年8月25日特高は新聞解禁を行い、大阪府では500余名(学生51名)が検挙され、91名が起訴された(学生が5名)、京都府では455名が検挙、起訴16名。 兵庫県では160名余が検挙、起訴78名におよんだ。
  毎日新聞号外には「街上に雪片のごとく不穏ビラが乱れ飛び、予期していた大阪府特高課では時を移さず各署を動員して追撃戦を展開、(中略)日本医務労働大阪支部責任者溝川良治(24)ら7名を朝日橋署で検挙した」と書かれている。

家族宛に出された手紙発見される
 2016年、良治さんが家族宛に留置所から出された手紙8通が悠介さん宅で発見された。1932年の検挙起訴で未決監にいるときに出された手紙らしい。厳しい検閲下で書かれているので政治的な内容は避けて、エスペラント語習得への向学心、本や雑誌の差し入れ、家族への思い、揺るがない信念などが綴られている。1933年9月28日付の母親に宛てた手紙には「面会の折には色々お伺いしお母さんや皆さんのお気持ちははっきりとわかっていますし、済まないと思いますが・・どうなるにしろ仕方のないことですから諦めてほしいのです」と書かれている。これについて悠介さんは「たぶん母親の『転向』の説得に信念を曲げず刑を覚悟して『諦めてほしい』と言い切る24歳の青年の強さに感銘します」と述べている。

新しい事実発見も
 良治さんは1935年には就職しているので、1934年には出所したらしいことが推測される。しかし、最近になって1938年には「日本共産主義者団」(中央の日本共産党組織が特高警察の攻撃により崩壊し、関西中心に立ち上げられた組織だが短期間で終わった)に関わって検挙されていることがわかった。良治さんは、つごう7回検挙されているらしいが、すべての実情が把握されてはいないので今後の調査が期待される。一方、困難な状況の中でも1938年12月に良治さんは俊子さんと結婚している。
 報告者が子どものころ良治さんに、首の後ろにある丸いハゲのあとのような部分について「隠した方がいい」と指摘して、父親がものすごく怒ったという思い出を語られたが、それはおそらく拷問と関わりのある傷だったのではないかと考えられる。良治さんは拷問の体験など多くを語っていないが、家にもどされた時は足腰が立たなかったことや、ふとんが重くて「つり布団」のようにしたことがあったということは、特高警察による残酷な拷問のために良治さんは体の大きな損傷を受けていたと考えられる。

大阪大学に文書開示請求を行う
 報告者は2019年2月、大阪大学総長宛に「故人である父溝川良治に関する学籍簿・教授会記録」等の法人文書の開示を請求した。良治さんが在籍1年にも満たずになぜ退学になったのか?その真相を明らかにし名誉回復措置についても糺すためである。しかし、4月5日付で大阪大学総長から「法人文書不開示決定通知書」が届いた。開示しない理由は、学籍簿は「法第5条第1号の個人情報(特定の個人を識別する情報)に該当するため」とあり、教授会記録は「戦災による消失のため当該文書は不存在であり所有していないため」との回答だった。報告者は、この不開示決定の回答を 不服として6月15日付で不服審査請求書「故人である父溝川良治の学籍簿記録への開示請求」を提出したが、7月末現在、回答はない。

質疑交流
 問題への関心が高く、さまざまな質問・意見が出た。阪大が親族でも個人情報問題をたてに文書不開示の回答をしたことには一様に疑問が出された。
 ある参加者は、満州から帰還した父親が戦後、戦争の映画を見ていて、「戦争とはこんなものとちがう」と言って席を立った印象深い出来事の記憶を語った。
 別の参加者からは、戦前に父親が三高在学中に特高に捕まり、えんぴつを指の間にはさまれる拷問を体験したこと、その後放校処分となり別の私学に行かざるを得なかったこと、最近になって京大に学籍簿の確認を求めたが、「学籍簿には見当たらない」との回答のみであったことなどが報告された。
  司会の松浦さんからは、今回のような治安維持法に弾圧された学生たちの実情の調査が、いまだ遅れていること、まだまだ新しい歴史事実が埋もれており、 これらを発掘調査する努力を続けてゆく必要性が訴えられた。

9月例会報告 尾崎 翔さん(関西大学文学部総合人文学科)「安乗(あのり)の(とうや)制度と文楽」

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海浜の村に遺る伝統行事とう屋制度
 三重県の志摩半島に位置する志摩市阿児町安乗は人口2000人ほどの漁村だ。ほとんどが顔見知りの村にある安乗神社には各岬で祀られていた15の神々が合祀され ている。この神社の1年間を通じて行われる様々な祭礼の中心となっているのが、とう屋(とうや)制度である(頭屋、當屋などとも言う)。 尾崎さんは、この郷土の祭礼と文化に以前から興味があり大学で研究することになった。今回の報告は卒業論文として提出する内容をもとにしている。
 安乗では、毎年12月25日に2名のとう人が抽選で選ばれる。とう人は神の子とされている。資格年齢は明確には決まっていないが、幼年から38歳までと言う資料もある。
  2名の家は一とう屋、二とう屋に分けられ、その日から翌々年の1月15日まで勤めるので、この期間にはとう屋が古とうと新とうの4軒存在する。この期間に死亡者などの忌があると資格を失う。従って家族の内に病人や高齢者がいる家は事前に辞退することがあるという。1年間にわたって祭礼を進行してゆくとう屋仲間のグループがあり、とう人、カヨウ、中老、大年寄(大老または総代)の役目がある。いずれも2名づつ、とう人を勤めた経験者である。とう屋は昔は裕福な家が勤めたが、現在は祭礼の進行は神社が中心となり氏子が協力している。
1年間の主な行事
12月20日 丸注連(まるじめ)つくり 紙の上にごはんとその日とれた魚(ハマチなど)を
        置いて、御神酒を注ぐ。壺という台に皿を置いてコモを巻き、シイ
        の小枝を置き、その上に朝編んだ竹のすだれを置く。これが丸注連
        と呼び、御分霊である。一・二とう屋で祀る。
12月31日 大祓と毎籠(とう人と大年寄)
1月1日 御棚祭(みたらまつり) 午前の歳旦祭のあと浜辺で龍神を祀り、当年の豊漁を祈る(年
      度により浜と神社の境内の違いがある)。神社の森から「山入り」によっ
      て採りだしたモチの木にみかんを刺し祭壇に飾る。護摩を焚き祈とうする。
       浜(「イヤモトの浜」という)での祈願行事の後、神社参集殿で「三献乃
      儀」と呼ばれる宴会を行い、「なんやれ節」と呼ばれる歌と神事の際に威
      厳を添えるための「鬨(とき)の声」(イーヨーイ、イーヨーイ、オー)
      で締める。  
1月2日 翁祭(三番叟)ニワの浜、神殿で「翁さん」(素朴な翁の人形)が8名の
      使い手と大年寄によって三番叟の舞いを行う。その後奉安所に納められ
      る。  
1月3日 丸注連納め 深夜に御分霊の丸注連を神社へ還御させる。渡御の途中に
      還御の一行に出会うと狂気してしまうというので太鼓をたたいて先触れ
      をする。以前は徒歩だったが、現在は軽トラで移動している。
1月4日 すこ祝い とう人が関わる最後の祭礼。とう人の叔父が女装するなどこっけい
      な雰囲気の祭。新、古のとう人が魚を釣る真似をし、神主による志摩神楽が
      演じられ、ナンヤレ節が謡われる。竜宮の使いという設定で女装の男性が
      ハナを垂らしている姿を模した滑稽な姿であらわれ、神主とこっけいな問
      答を繰り返す。最後にカヤの実にたとえた落花生をまき、次にミカンをま
      く。この頃は女性も参加できる。
<途中省略>
1月10日 例大祭 午前中に注連縄作りを行う。午後2時より例大祭開始。獅子舞が行われる。
       猿田彦の面をつけた童子が「鼻こんぼり」という参列者と氏子の頭を叩い
       てまわる行事がある。叩かれると厄除けになるという。参列者は三献乃儀
       を行い、御神酒と御供えの料理を食べる。獅子舞が、神殿前、御旅所(参
       集殿前)への渡御で行われる。この間に古とうから新とうへの交替が行われる。
      獅子舞が終わると、いよいよクライマックスの注連縄切神事が行われる。
      古カヨウ頭が介添えとなって新カヨウ頭が大注連縄(太い部分は90cm
       あり、大蛇に見立てている)を刀で切り下ろす。太刀数は多い方が吉とさ
       れ、回数は奇数がよいとされる。まっぷたつになった時に偶数なら、もう
       一太刀加える。これを2回行う。これで神事が終了する。終わりにカヨウ
      の座敷と呼ばれる祝いの席がもたれる。現在は合同で神社で行う。
 その後の主な行事は、1月15日の伊勢神宮参宮、とう屋祈願、10月9日の節句祭、
10月20日のとう屋注連縄巻、垢離始め(海水による清め)、11月1日の注連縄張、
12月20日の丸注連縄巻などが行われてゆく。

まとめ・質疑交流
 あまり知られていない古式の伝統行事が、綿密に調査されてビデオも含めてわかりやすく報告された。これを若者がやってくれたことにも大きな意味がある。これだけたくさんの年中行事がありながら、これでも簡略化されてきているという。それは行事を継承してゆく後継者、子どもたちの数が減っているためでもある。また殆どの働き手が町外に出ていることもある。これは全国どこでも祭礼を行うところの共通の悩みだろう。
 後半にビデオで見せられた安乗の人形芝居、安乗文楽は重要無形文化財に指定されている。その起源は秀吉の文禄慶長の役の頃に遡る伝承もあるという。特に1月2日に行われる三番叟であやつられる古式の人形芝居は航海安全や大漁祈願を行う漁民の信仰に根ざす芸能で、日本の芸能文化のルーツに位置するようなものだ。そこから江戸時代以降に現在の文楽のようなかたちに進化してきたものと思われ、日本芸能史の展開を見ているようだ。最近は町外からも見物客が訪れるようになったという。従来地域の交流の場であった人形芝居は、地元の人は上演中もおしゃべりに熱中していることがあり、外から来た人は人形芝居そのものに集中できないとの不満も出ているという興味深い報告もされた。質疑では、もう少し整理してまとめるとよいとのアドバイスや、泉大津市の 泉穴師神社に残る「飯之山だんじり」の頭屋制度(泉大津市豊中町)や宮座などとの比較など参考になる意見も多く出された。論文として完成したあかつきには、 大阪民衆史研究73号に掲載してはどうかと、参加者の意見が一致した。報告者の今後の調査研究の深化を期待するところだ。

10月例会報告 小林義孝さん(会員)、大西 進さん(河内の戦争遺跡を語る会)「地域と戦争:大東・四條畷の戦争遺跡」

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1,大西さんの報告
本土決戦に備えた基地の建設
 1945年4月に陸軍は「本土決戦」にむけた「航空総軍」を創設し、米軍の南九州上陸に備えて、八尾市の大正飛行場第11飛行師団司令部に司令部を移駐させた。「航空総軍」の目的は、米軍を水際で阻止するために全軍を「特攻」に用いることだった。さらに戦闘指揮所を奈良県香芝市の屯鶴峯(どんづるぼう)に配置するために地下壕(2Km)の建設を、また天理市柳本には飛行場の建設もはじめた。なぜそのような基地が奈良県の中心部に置かれたのか?他の地域の類似の施設とのネットワークはどうであったのか?など今後の調査が期待される。

松下電器製の飛行機があった
 たびたび大空襲の標的となった大阪市の防空施設として四條畷監視哨が飯盛山山頂にあった。侵入する敵機を監視し、対空射撃を誘導するものだ。高射砲隊は、鶴見緑地などに配備されていた。昭和16年に防空法にもとづく都市計画で鶴見防空緑地がつくられた。四〇万坪強が強制買収され他の三大緑地と共に大阪の防衛施設拠点となった。大東市域の主な軍需工場には鐘紡住道工場と松下無線四条工場、松下飛行機株式会社があった。松下無線は大東市寺川に軍のバックアップのもと一〇万坪の大工場を建設、航空機用電装品、超短波無線機、レーダーなどの生産を行った。松下電器が海軍の要請で木造船を作った技術をもとに木製飛行機を作ることになった。プロペラ生産の強化合板の技術で木製骨組みの飛行機を開発した。ジュラルミンなどの金属材料が不足していたためである。昭和18年に松下飛行機株式会社が住道に一三万坪の敷地で建設され、昭和20年1月に第一号機「試製九九式練習用爆撃機二型 通称明星」が完成、盾津飛行場で進空式が行われた。結局、試作機は終戦までに三機しか制作されなかった。

強制疎開と戦後の都市計画
 大阪城内にあった大阪砲兵工廠の下請けの大部分を、現在の東大阪市地域の高井田・長堂地区の軍需工場が引き受けていた。そのため米軍の爆撃が、この地域に集中したので、近鉄布施駅周辺の軍需工場の周囲の木造家屋が強制撤去されることになった。駅前、沿線の密集住宅地が昭和20年3月〜7月頃に疎開された。これを「鉄道疎開」と呼んだ。現在、小阪駅前の南側に広い街路が残っている。空襲では2000戸ほどが破壊されたが、疎開では3800戸が撤去された。戦後の東大阪市の都市計画は、この強制疎開がもとになっているといえる。

現在も残る掩体壕
  大正飛行場には米軍機を迎撃するための飛行第246戦隊が配属されたが、当時戦闘機50機が配備されていた。これらの戦闘機を爆撃から守るための堅固な屋根を持つ掩体壕(えんたいごう)が大正飛行場内に19基、高安山麓に20数基つくられた。当時は東高野街道沿いに点々と並び、古墳の間にも置かれていたという。木造のものは破壊され、現在は垣内地区に鉄筋コンクリート製のドーム型の掩体壕が残されている。

2,小林さんの報告
 小林さんは「戦争」遺跡と「軍事」遺跡について区別する必要を説く。「戦闘の痕跡も軍事施設もすべて『戦争遺跡』と捉える風潮」があり、戦争遺跡は「負の遺跡」と考えることが一般的と指摘する。「負」の評価をつける前に、客観的に軍隊や軍事の問題をどうとらえるのかが必要と主張する。たとえば戦闘機は戦争の武器であると同時に、先端技術の粋でもあった。小林さんは、あるところで子どもたちに見せる資料にきれいな戦闘機の図が掲載されている資料があったが、これに対して「美しい兵器を子どもたちに見せてはいけない」というクレームがあったという。報告者は客観的な技術として戦闘機の評価と戦争とは区別して考えることが必要と主張する。軍需産業が大阪の工業の発展に大きな比重を占めていることも指摘された。日本の近代化は軍事と一体だった。これらの指摘は、戦争を考える上で、ひとつの問題提起であり、世の中には、もっと極端に「戦争があるので技術が発展する」というような意見も結構広く存在している。われわれは、こういう意見に、どう明確に答えてゆくのか、よく考える必要がある。

質疑・交流
 意見交換も活発に行われた。大西さんの本土決戦にむけた司令部施設が大阪府から奈良県の地域につくられていたという指摘は重要で、今後全国に存在する類似 の施設とのネットワークを調査して、日本軍の本土決戦に備えた態勢の全貌をつかむことができるかもしれない。アメリカの公文書館などに資料が眠っているかも しれないので、ぜひワシントンに行くべきだという意見も出た。小林さんの意見については、軍事が経済発展に影響を及ぼす例はあるが、経済の軍事化がもたらす 影響についてよく分析する必要があるのでは、軍事予算が膨大となって国民生活が犠牲となることは(戦前の日本や崩壊前のソ連でも)現に起こっていること、戦争 と軍事を区別するということをもっと具体的事実に即して明らかにする必要があるのでは、アメリカの軍産複合体の例も見る必要があるのでは、などさまざま意見 が出された。

11月例会報告  宮川 ?さん(考古学者・橿原考古学研究所研究顧問・文化財保存全国協議会) 「百舌鳥・古市ではなぜ古墳が巨大化したか−古墳の大きさで覇権を競合したヤマト政権と吉備首長連合」

11月例会の写真

 世界遺産登録された百舌鳥・古市古墳群に注目が集まっている。百舌鳥古墳群の研究と保存運動に関わってきた宮川さんは今、講演やマスコミからの取材などで忙しい。

巨大古墳だけが世界遺産の価値ではない
 堺市にある百舌鳥古墳群と、その東側、藤井寺市・羽曳野市を中心とする古市古墳群は築造の順序では古市古墳群がより古い。しかし「百舌鳥・古市古墳群」と百舌鳥が先に記される理由は墳丘長が日本一(全長495m)の大山古墳(「仁徳陵古墳」で登録申請)が百舌鳥古墳群にあるからだ。
  古墳が築かれた5世紀の頃、天皇の呼称は成立しておらず大和政権では大王と呼ばれていた。また学会では大山古墳の被葬者を「仁徳天皇」とは考えないのが多数意見である。しかし行政は宮内庁の見解に基づき大山古墳を「仁徳陵古墳」と呼び、マスコミもそのように紹介することが多い。そして巨大であるが故にこの古墳が世界遺産の中心的価値であるかのように位置づけている。それは正しいのか。世界遺産委員会(21ヶ国)では、「(保存)運動によって古墳は往時の姿をとどめている。先駆けとなった市民らの努力に感謝したい 」(ジンバブエ代表発言)などの意見があるように、市民による遺跡の保存運動なども評価の対象となっている。

外国使節に見せるために巨大古墳をつくったのか?
 大山古墳はクフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵などと並べられて持ち上げられている。時代が異なる墳墓を比較しても意味は無い。巨大な墳丘が外国使節が船から見えるように造られたとの説がよく言われているが、外国の使節に見せるためだけに膨大な労力と時間を費やして造ったとは思われない。当時の大和政権が、これだけのものを造る必要性があったことの本当の理由を明らかにすることが重要である。

3グループにわかれる百舌鳥古墳群
 百舌鳥古墳群は3つのグループから成る。第1は、4世紀末の「茅渟古墳群」で、水軍の役割を担った人びとの古墳で海岸平野に分布している。第2は、「百舌鳥耳原古墳群」で「耳原」の地名は古市古墳群の位置から見て海岸平野の端、百舌鳥野の台地に位置するので「ミミ=端」の呼び名をつけられた。5世紀初頭の「百舌鳥大塚山古墳」に始まり続いて巨大古墳の「石津ケ丘古墳」(「履中陵」)と大山古墳が築かれる。周辺に官僚や武人の古墳が集中する。第3は東側の土師台地にある「土師古墳群」。大王墳の土師ニサンザイ古墳以外には親衛隊的な武人のものと思われる帆立貝型古墳が周辺に点在する。これらの3つのグループの古墳群に三幕三場の主役と物語があり大山古墳のみをとりあげると、これらのストーリーがだいなしになる。

前方後円墳の設計思想
 「前方後円墳」という用語は江戸時代の学者蒲生君平が宮車のイメージからつくっ た言葉で、この言葉の呪縛にとらわれると誤解を招くので、宮川さんは、この用語をやめるべきと主張する。そして前方後円墳を理解するために、その設計思想を読み解く方法を提起している。前方後円墳の後円部の円は日輪(=太陽)を表すという。倭人は、この太陽を象徴している円の直径を八等分して縦・横に64区画にわけた方形の区画図をつくり、この一区画がそれぞれの前方後円墳墳丘の大きさを決めるモジュール(寸法比率)であるという。背景に倭人が八を「全き数」と考えていたことがあるという。各地の前方後円墳実測図を、区画図に投影して重ね、前方部の前端の線が円の端から延長した区画のどの位置に来るかで、古墳の設計タイプが分類されるという。以上の方形区画図で前方後円墳を分類すると一区から八区までの前方部を持つ前方後円墳が分類できる。大王墳は五区から八区のタイプという。

古墳の物差し「ヒロ」
 後円部直径を八等分した一区を「ヒロ」という単位ではかり、そのマス目の大きさが古墳全体の大きさの寸法比率)となる。「ヒロ」は「両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離」で倭人の身長に相当。古墳時代の男子の推定平均身長は約163センチ前後、これを大ヒロとし女子は約152センチで、これを小ヒロとする。古墳設計の分析から検出されるヒロは、その古墳に埋葬された被葬者の身長(=ヒロ)の可能性が考えられ、それは被葬者の霊力を表象するという。大ヒロと小ヒロという二種の単位が古墳から検出されることは古墳時代が男性首長と女性首長の双系性社会であった可能性がある。現在の古墳研究では、古墳築造の尺度は古代中国の「歩」またはその単位である「尺」が主流。しかし邪馬台国と交流のある魏は華北の畑作地帯なので、一足×二足=一歩が土地計量の単位となるが倭は水田稲作地帯なので「ヒロ」を計量単位としているという。被葬者の身長にもとづく「ヒロ」を尺度にすると設計図がなくても、棒と縄により地上に古墳の地割り図を描くことができる。かつて堺市の福泉上小学校でNHKの番組で宮川さんらが指導して生徒が運動場に前方後円墳の8分の1の地割り図を描く実験を行ったことがある。

前方後円墳の定型化と巨大化、王統の二系列
 定型化した最初の前方後円墳とされる箸中山古墳は、3世紀後半前後(宮川)で邪馬台国女王卑弥呼の古墳という見解が有力となっている(宮内庁では「ヤマトトトヒモモソヒメ」の比定)。後円部直径が約160m、墳丘の長さが約280mの巨大古墳。宮川さんは、古墳の一区のヒロが約154cmの小ヒロ(女性身長)が使用され、前方部が六区13ヒロあり、これは太陰暦の1年を示すという。さらに、後円部は日輪(太陽)を、前方部は水の祭祀をあらわし水田稲作の祭祀を行うカリスマ的指導者すなわち卑弥呼のイメージが浮かぶという。奈良盆地では五区型の古墳も分布し、西殿塚古墳が始祖にあたる。墳丘が左右非対称の特徴があり、大和王権には六区型と五区型の二つの王統があったことが考えられ万世一系的に一つの王統ではないことが考えられる。特に古市古墳群の西殿塚古墳を継ぐ五区型は水系と稲作農耕を掌握して生産力の維持を担い、百舌鳥古墳群の箸中山古墳を継ぐ六区型は西日本と朝鮮半島進出の覇権追求を担う機能を分担する車の両輪の役割を果たしていたのではないかという。

河内平野から朝鮮半島への進出と敗北
 4世紀末に奈良盆地北部から河内平野に六区型の巨大墳である仲津山古墳が造営される。以後河内・和泉の地域に巨大古墳を擁する古市古墳群、百舌鳥古墳群が築かれてゆく。(*考古学・歴史学会では、奈良盆地の東南部→北部→河内平野への巨大古墳を擁する古墳群の移動をどう理解するのか、大和政権の発展ととらえるのか、河内の独自勢力に大王権が移動したのか、単に墓地の地域が手狭になって移動したのか、あるいは他の原因かなど論争となっている)
  この動きの背景には、ヤマト政権の西日本への覇権拡大と同時に、主に鉄資源を求めて朝鮮半島に進出するねらいがあったという。中国吉林省にある高句麗の広開土王石碑には4世紀の倭国が百済と組んで半島に攻め込み、高句麗に惨敗したことが書かれている。

半島進出を示す痕跡か?謎の鉤状武器
 宮川さんは、この歴史的事実の痕跡と考えられる遺物を百舌鳥大塚山古墳の発掘中に発見した(戦後すぐに森浩一氏がリーダーで宮川さんら高校生も参加)。後円部4号粘土槨から出土した鉄製武器、工具の中に「釣り針状に鋭く曲げた部分と、柄にさし込む袋部分とを鍛接した長さ33センチ」の武器らしきものがあった。復元した容積から鉄の重さを計算すると1.7キロ強~1.8キロ近い頑丈な武器であり、他では見つかっていないが、11〜12世紀のヨーロッパで市民兵が騎馬兵を引き倒すのに用いられた「バトルフック」という武器が似ているという。用途として@船戦さで使う武器A歩兵が騎馬兵を馬から引きずり下ろす武器の二案を考えたが、Aの対騎馬兵の歩兵用武器 に重点を置いて考えているという。

朝鮮半島進出の挫折を巨大古墳造営で乗り越えようとしたヤマト政権
 朝鮮半島で高句麗に敗北したヤマト政権は、失墜した王権の権威を挽回するために百舌鳥の台地に、これまでの13ヒロを超える六区型16ヒロの巨大墳、石津ケ丘古墳(「履中陵」)を築く。これはヤマト王権が各地の王を従える階層的な身分秩序の基準であった前方後円墳の設計限度(8ヒロ)の2倍となり、大王の権威をいっそう高めようとするものだ。しかし重要拠点である関東平野の王には例外的に10ヒロの設計を認めている(太田天神山古墳)。また宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳は石津ケ丘古墳の2分の1、8ヒロで設計を裏返しにして築造している。これは非対称という特徴を持つ前方後円墳の設計を反転しているのでわかる。非対称の表現には 葬送儀礼に関わることは「全き性」を欠くという倭人の精神世界が背景にあるという。 これは日向の王とヤマト王権とが「擬制的な同族関係」を持つと同時に、2分の1で反転した墳丘により「従属性」をも表し、ヤマト王権が地方の首長との同盟関係を強化しようとしていることを示す。

吉備首長連合と墳丘の大きさで覇権を競う
 一方で、この頃吉備では岡山市の西に墳丘長350mを超す造山古墳が築かれる。16ヒロの造山古墳は各地域の王の古墳の2倍の設計であり、高句麗戦で敗北したヤマト王権に対峙しようとする意図が考えられる。
  吉備の動きに対抗してヤマト政権は、古市古墳群に20ヒロ、墳丘長416mの誉田御廟山古墳(「応神陵」)を、次いで百舌鳥古墳群に20ヒロ、墳丘長495mの大山古墳(「仁徳陵」)を築いた。二つの古墳は、10キロ離れているがほぼ同じ緯度上にあり、これは壮大なグランドデザインにもとづいて設計・企画されているという。そして、二つの古墳は西に、吉備に向かって覇権の霊力を合体させて注ぐという構図を持っているという。その後吉備はさらなる対峙姿勢を示さず、巨大古墳造営の競合は収束したという。その背景には、ヤマト王権の畿内における生産力(大和川・木津川・淀川水系の水田稲作)が吉備に優っていたということも考えられる。その後、百舌鳥古墳群の東端に孤立して造られた土師ニサンザイ古墳が13ヒロの大王墳の原点に戻るとともに、後円部直径の円弧を縦横3×3の9個連接した506mの正方形区画を墓域とする壮大な宇宙観を示すことで倭の五王時代の巨大古墳の終幕を飾る。

質疑交流
 日本古来の太陽信仰と太陰暦の関係は?女系首長から男系首長への交代の背景は?前方後円墳の後円部が日輪(太陽)だと前方部の方形が象徴するものは?古墳群に対して王宮の在りかは?宮川さんの関わってきた遺跡保存の苦労について?などさまざまな質問、意見が出された。以前は遺跡保存について行政が無関心で古墳の破壊を止められなかったことや、巨大古墳以外のものは軽視されたこと、文化財保護法があっても建築のみが対象とされていたことなどが話された。また宮内庁の陵墓指定古墳の 公開について近年ようやく一部の公開調査が実現してきたが、未だ宮内庁の姿勢は固く、それはいわば皇国史観が変わらず残っているものと見るべきだとされ 、研究者は、そういう気持ちで今後も公開をねばり強く要求する必要があると強調された。

12月例会報告  島田 耕さん(副会長)「映画『キクとイサム』制作秘話」

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六〇年経っても色あせない感動
 映画「キクとイサム」は今年で60周年をむかえる。今井 正監督が1959年に製作、キネマ旬報のベストテン1位となった。映画はアフリカ系アメリカ兵と日本女性との間に生まれた姉弟と二人を育てる祖母(北林谷江)の生活、その周囲の人びとを描いている。主演のキク役の高橋エミさんは現在70代、イサム役のジョージさんは60代となった。エミさんは東京で歌手としてライブなどで活躍している。終戦直後、米軍人と日本女性の間に生まれた子どもは学校や社会でいじめられることが多かった。水木洋子は1959年に製作された映画向けに脚本を書き下ろし、この時期に二人のような子どもたちが日本の社会に生まれ育っている姿を通して「日本の戦後」を描こうとした。
 例会の冒頭、島田さんの説明の後、2時間余りの映画を50分に短縮して上映した。映画は、主役の二人がオーデイションで何人かの候補者から選ばれて、そのワキを錚々たる俳優陣(北林谷江、宇野重吉、三國連太郎、滝沢 修など)が固めていた。これだけの役者を揃えられたのは今井 正監督の影響力という。
 戦後に行われていたアメリカへの養子あっせんの問題が描かれ、そのために姉弟が、家族がひきさかれてゆく。姉弟役の二人の演技は自然で、子どもらしい姿、心の動き、好奇や差別的な目で見る周囲への反発と自分の置かれた理不尽な境遇に対する怒りや悲しみが伝わってくる。
 当日観た白黒の古くなった画面からは、まぎれもなく胸に迫ってくるもの、60年経っても色あせない感動があった。島田さんは、今井作品に、1955年「由起子」の制作部助手(進行)として、1959年の「キクとイサム」の4人の助監督の一人(セカンド)として参加した。「多くの映画関係者が、戦後のこの時代の日本映画の作品が最も輝いていたと語っています」(島田)。それは残念ながら一部を除き最近のほとんどの日本映画からは失われているものだった。

40代の北林谷江が演じる老婆
 北林谷江といえばおばあさん役で知られている。この映画の撮影時、北林は40歳代であったという。画面上の彼女の姿は、今日のハリウッドのメーキャップもびっくりのおばあさんであった。役に徹するために彼女は歯を 抜いたという。撮影地の福島県の山村で歩いている本物のおばあさんを観察して、実際に着ている着物を借りて役作りをした。その着物を頼んで借りにゆく係を島田さんが担当したという。

映画製作の苦心と助監督の仕事
 今井監督の映画作りはゆっくり時間をかけてやるのが特徴という。よい監督は時間をかけるのは黒澤 明監督も同じだ。早く安上がりにつくろうとする映画会社と対立する。最近の映画は、どうなんだろう。「キクとイサム」では、脚本家の水木洋子がオリジナルで書き下ろすのに3年かかったという。主演のキク役の高橋エミさんは初めての映画出演だった。10人ほどの候補者から、脚本の水木さんがエミさんの起用を強く推した。今井監督は、別の可愛い子を指名したが水木さんに拒否されたという。4人の助監督が10日間ほど合宿して指導した。映画冒頭のまりつき歌が、どこのわらべ歌かわからなかったので、専門家にたずねたが誰も知らなかった。エミさんに聞いて近所で歌われていることがわかった。
 7月頃に準備をはじめ、撮影場所探しに1ヵ月かかった。カメラマンが台本を読んで候補地を探した。祭の場面は埼玉で、主な撮影地は福島県の村だった。実際の撮影は8月頃にはじまった。映画の撮影は平均的に準備が15日、撮影が45日、全体が2ヵ月ほどだ。今井監督の場合は、撮影日数が伸びることが多い。「キクとイサム」は「大東プロ」という独立プロダクションの製作だ。スポンサーは三重と滋賀に映画館を持つ経営者だ。スタッフには東宝争議の関係者もいて、ギャラの値上げ交渉も起こる。助監督の誰かが交渉の窓口になるが、皆イヤイヤしなければならない。
 助監督はさまざまな仕事をこなさなければならないが、今井監督の機嫌の悪いときは、好きな囲碁の相手を島田さんがやった。監督の囲碁の腕は、次第に上達して島田さんよりもうまくなったという。

戦前から戦後にかけて
 戦前は映画法があり、映画は必ず検閲された。脚本の検閲、撮影終了後にさらに検閲されてようやく上映許可が下りた。政府は世論操作に映画を利用した。今井監督は旧制水戸高校時代に「戦旗」を見せられ、勉強会に行って捕まった。拷問をされたが口を割らなかった。1年休学の後東大に入り、またさそわれて捕まり、中退した。
 戦後、GHQの「民主化政策」のもとで日本映画は軍国主義の抑圧から解放され、今井、山本薩夫、黒澤 明などが活躍するようになった。日本映画界が輝きを取り戻した時期だ。1950年以後の冷戦期になると、「逆コース」がはじまり、東宝争議が米軍の包囲のもとで抑圧されるような時代となった。 現在の日本映画界の大きな問題として、助監督を育ててゆくシステムがないという。この点で、韓国映画の躍進の背景に金大中大統領の時代に、映画を輸出できる国にするために国が出資してハリウッド並の映画をつくるべく、映画人と映画の制作に援助をしたことが大きな理由としてあげられる。

質疑交流から
 懇親会も含めてさまざまな質問意見が出され、例会は大いにもりあがった。カマドにマッチを擦ってすぐ火がついたが、これは簡単すぎるのではという質問が出た。撮影についてはカマドのセットを事前につくり入念な準備・練習をいたそうだ。畑で急に雨が降って、カミナリがなるシーンがあるが、これは消防車に来てもらって雨を 降らせ、カミナリは電気をショートさせて稲光と音を出したという。画面は本当に自然にできていたのでさすがと思った。子どもの演技が非常に自然でうまかったが、助監督が指導に入るのか?という質問では、本番の撮影ではすべて監督が演技指導をするとのことだった。今井監督と山本薩夫監督の個人的なことや二人の関係についても質問があった。両人とも酒が強いとのことで、特に山本監督の家では正月は酒盛りが続くという話。二人とも戦地に行ったが、山本監督のほうが女優からの手紙が来たり、そんなことが理由でいじめられたそうだ。
 意見の中で、特に最近の日本映画が一部を除き低迷する一方、韓国映画の中には真実に迫り非常に迫力のある作品が多いことなどが指摘された。その原因として 考えられることは、民主化によって独裁政治の抑圧から解放された現在の韓国の社会で活力ある映画が作られていることと終戦直後の軍国主義の抑圧から解放された 日本の社会でもすぐれた映画がつくられたということの相似、一方、韓国では、かつて金大中大統領の下で国策として映画作りが支援されはじめたことと現在の日本 では映画人を育てるシステムがないことの違いなどがあるのではという意見が出された。

2018年例会報告

1月例会報告 辻本 久さん(会員)、横山篤夫さん(会員)「記録に残されなかった阪南市の空襲」

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泉南の空襲記録を書きかえる発見
 大阪府下の空襲の研究では、大阪市内、北摂地域などの調査がすすんでいるが大阪府 南部の泉州地域の研究は遅れている(小山仁示『大阪大空襲』参照)。横山篤夫さんは小山さんからも励まされて泉州地域の聞き取り調査を行ってきた。最近の研究では2016年5月例会で報告された英国艦隊による泉州一帯の空襲攻撃事件がある。この報告内容に注目した阪南市在住の辻本さんが、横山さんに地元阪南市の空襲事件のことを連絡し、これが今まで公的な記録にない新しい事実であることが確認された。横山さんから指摘を受け、辻本さんがさらに調査を行った結果が、今回の報告につながった。それは1945年8月8日に現・阪南市の海岸部であったP51戦闘機による攻撃で死者3名の被害があった事件で、このことは警察署の報告にもなく、その後公的な記録に残らず、阪南市史(旧・阪南町史)にも記載されることはなかった。そういう意味で、今回の発見は泉南地域における空襲研究を書きかえる内容となり、各紙にも大きく報道された。

報告者本人が目撃体験した空襲
 辻本さんは昭和10年生まれで現在82歳。空襲当時は小学校4年生であった。当日(1945年8月8日)の午前11時半頃で快晴だった記憶があるという。家の土間にいると、突然「バリバリバリ」という音(機銃の発射音)と超低空で飛んでいると思われる飛行機の爆音が聞こえた。村出身の予科練のパイロットが超低空で飛んでいたのを見たこともあり、飛行機の爆音であることがわかった。山側から海にむかって村の木造船の造船所から船が進水しているところに機銃掃射が行われたのだ。アメリカ軍のP51戦闘機が100mほどの近距離で海に向かって飛んで行くのが見えた。ジュラルミンの銀色の機体が、翼から白い煙を流して飛び去って行くのが見えた。煙は機銃を撃った跡の硝煙らしかった。当時は、本土へ攻撃に来る戦闘機は、一般に「艦載機」とか「グラマン」(海軍の戦闘機で紺色に着色)と言う人が多かった。辻本さんは子どもながら、防空教育からか、新聞や雑誌などからの知識だったのだろうか、その戦闘機の機影を見て、すぐP51とわかったと報告されている。一方、日本の戦闘機は隼(陸軍)しか知らずアメリカの戦闘機は名前やメーカーも知っていたという。  現場は現在の南海本線「鳥取ノ荘駅」の浜側にあたり、当時西鳥取村の北地区付近、タコ釣りをしている漁師が撃たれたという情報が伝わってきた。この地域は現在も大阪湾にそって何カ所も漁港がある。当時は農家が主で漁師人口は少なかったという。船に何本も竿をつけて風に流されながらタコを釣る漁法があった。
 あとでわかった被害の全容は、地元の人が2名(うち一人は土手藤吉さん)、他地域の人で大型の機帆船(「摂津丸」)の船長らしき人が1名亡くなったという。報告者は、そのとき沖の方から棺桶を乗せた舟が浜に向かってやってくるところを目撃している。棺桶を舟の上に十字型に交差するように置いていたことを印象深く憶えているという。
 事件の日が8月8日であることは、今回の調査で地元の人の聞き取りや寺の過去帳からわかったとのこと。

P51戦闘機部隊のこと
  P51戦闘機(愛称ムスタング)は、ノースアメリカン社が英国本土からドイツ爆撃の護衛用にイギリスの要請で開発した長距離の航続距離を持つ戦闘機だ。馬力、速度、航続 ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機 距離などにおいてゼロ戦などの日本戦闘機にまさり、ヨーロッパ戦線から太平洋に転戦、第7戦闘機集団が硫黄島上陸戦の最中に本山飛行場に移駐し、1945年4月7日から日本本土攻撃に参加した。部隊の編成は、戦闘機集団(ファイターコマンド)という上級司令部のもとで、戦闘機軍団(ファイターグループ)が複数構成され、ひとつのグループは3つの戦闘機戦隊(スクアドロン)で編成、ひとつのスクアドロンは4つの戦闘機小隊(ファイターフライト)で編成、各フライトは4機の戦闘機が所属する。ひとつのコマンドに148機が所属している。1機につきパイロットが2名待機している。関西地域は、第21戦闘機軍団(ファイターグループ)が攻撃に参加した。最近NHKでも放映された記録フィルムの中に、P51が地上を機銃掃射で攻撃する映像があり、これは機銃を発射するために引き金を引くと同時にカメラも作動する仕掛けになっているそうだ。同機は性能がよいので朝鮮戦争でも使用され現在も自家用機などに利用されている。

なぜ阪南市の空襲被害(死亡者)が記録されなかったのか。
 当時、尾崎警察署が空襲被害の把握をしていた。空襲で死者が出たという当時村の人の多くが知っていたであろう事実が警察署の記録からもれていたと考えられる。それがなぜか、あとの質疑の中でも疑問が出されたが、不明のままである。おそらくは、当時混乱していて、報   辻本 久さん     告が時間内に届かず集計漏れとなったことなどが想定される。警察署の人員不足も指摘されている。戦争末期、成人男子のほとんどが戦地に送られ、警察署といえど人員が不足し業務がままならない事態に追い込まれていた可能性も考えられる。ともかくも、72年ぶりに、空襲被害の正確な事実が確認されたのであった。今全国各地で、このような空襲被害の実態の再調査がすすめられているが、実際の体験者、目撃者が健在でおられる時間も残り少なくなっており、調査を急ぐ必要がある。実際の空襲下の生活を体験した参加者もいて、質疑がもりあがった。高知県でP51の編隊が飛行する目撃談も出され、また墜落B29機のガラス破片をこするといいにおい がしたという、ある年齢層以上の人でないとわからない共通の体験談も交わされた。

2月例会報告 塚田 孝さん(大阪市立大学文学部教授)「近世大坂の都市社会−孝子・忠勤褒賞から見る民衆世界−」

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「孝子・忠勤褒賞」史料により、名もなき人々の生きざまを描く
 塚田さんは昨年12月、『大坂民衆の近世史−老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書)を発表した。そこに詳細に描かれたのは、江戸時代の都市大坂に生きる名もなき庶民の歴史であった。そのきっかけは、大坂市中に通達された孝子褒賞(親孝行な子供への褒賞)や忠勤褒賞(奉公先の主人に誠実に仕えた者への褒賞)の詳細な理由書の史料に出会ったことである。
 松平定信が行った寛政の改革に際して、寛政元(1789)年、親孝行や奇特な行為の事例を全国調査し、褒賞(ほめて褒美を与えること)することが開始された。大坂では10月にお触れがあり、孝子等の調査が行われ、その後10年間ほどの調査をもとに享和元(1801)年、『官刻孝義録』が刊行された。摂津国78人 のうち大坂は7件21人であった。幕末までに480件余りの褒賞が市中に通達された。  当初は江戸に上申し、下知を受けて褒賞していた。当初は孝子褒賞と忠勤褒賞が重点であり、その頃の褒賞理由は長いこと、銀が下されること、教戒的な文言が見られることなどが特徴である。文化6(1809)年頃から大坂独自の褒賞が行われるようになり、その特徴は、理由が簡略、銭による褒賞、教戒文言はないことであった。 時代を経るにつれ、「年寄(町の運営にあたる役)の役儀出精(働きぶりがすぐれている)」(1812年〜)、「盗賊捕縛」(1820年〜)、「難船救助(安治川や木津川での難船の救助)」(1830年〜)などの褒賞が増加している。

孝子褒賞・忠勤褒賞のパターンと条件
 今回は、孝子、忠勤の各褒賞について、それぞれのパターンと条件につき事例をあげて報告された。
孝子褒賞のパターンは、@幼少時に親の病気や死亡のために苛酷な状況となる場合。 A生活困難な状況下、老親を抱え、献身するような場合。忠勤褒賞のパターンは、@主家が困難となるも、再建に努力する。A主家の困難が続くが、どこまでも支え続ける場合など。
 褒賞の条件としては、まず富裕な生活者は褒賞の対象とはならないこと、あくまで貧しい階層の者であることで、その行為の内容として@家業出精、A看病や身の回りの世話、B弔い、年忌の行いなどがポジテイブな中身として、またC家賃滞納や買掛(つけや借金)がないことなども条件とされた。

都市下層民衆の生活の不安定さ
 褒賞される人々の生活から見えてくることは、都市に生きる下層の人々の生活が非常に不安定であることだ。病気では眼病、盲目の事例がもっとも多く48人。聾唖者は2人。中風が14人。癇性・気むら(精神不安定)が14人など。父親の死後母親への孝行が行われる例も多い。火災も多く、転宅も多く、不安定な借家人の生活状況がわかる。特に借家人の場合、享保15(1730)年から女名前で借家することができなくなったので、養子により男名前を借りたりすることになった。

高齢者への「老養扶持」「手当米」
 子や孫の孝行への褒賞として「老養扶持」が一日米五合与えられた。また100歳以上の高齢者には「手当米」として米10俵与えられた。

都市民衆の複合的な生業構造
 褒賞の事例からわかる都市民衆の職業は、籠細工、灯心職、綿実の挽売、古綿打ち、提灯張、夜番、塩魚、青物売、煙草入縫職、釘鍛冶、下駄職、鼻緒足袋職、船頭、本綴り、夜番、大工、米仲買、醤油販売、金融関係、墨屋、歌舞伎役者、陰陽師、三味線指南などで、都市には多様な職種があり下層の民衆がいくつもの職を兼ねて生活を成り立たせていた状況がわかる。

自治組織「町(ちよう)」の姿、相互扶助的側面、複合的な生業で生活を支える人々
 都市大坂のうち商人や職人が居住する町人地(町(まち)方(かた))を構成する小単位の町(ちよう)は、独立性の強い自治体と考えられる。大坂市中は、北、南、天満の三郷から成り、北に250町、南に260町、天満に109町の計619町があった。ひとつの町が自治単位であり、たとえば道(ど)修(しよう)町(まち)は道をはさんで南北の区画が1町であった。町を構成するのは主に、町に家屋敷をもつ「家持ち」としての町人と借家人の二つの階層であった。(家持の町人から選ばれた町名主、町年寄、月行事の三役が町の運営にあたる。)
  町に関わる雑務として「夜番人(やばんにん)」がある。町の夜回りをするほか、昼間にも町内の用事を依頼されて行い、その他にも本綴り(本を綴じる仕事)などの様々な副業をする。文化7年の伊勢屋佐兵衛の事例は、両替屋に下人奉公していた佐兵衛は、主家が傾き、自らの家屋敷も売り払い借家人となり、町の夜番人として雇ってもらい、副業もしながら主家を支えた。町の相互扶助的側面と複合的な生業のありかたがわかる事例である。一方、「町代」(市役所の職員的な仕事)は町の業務をしながら他の副業をすることなく、町代の仕事に専念して、その精勤褒賞の対象となっており、夜番人のように副業をすることはないところが異なる。
  町年寄に対する精勤褒賞事例からは、文久2年の瀬戸屋九蔵の事例でわかるように紛争の解決や、困窮者の援助など相互扶助にはたした役割など町の運営に関わる町年寄に期待される事柄が見えてくる。

褒賞の前と後
 褒賞があると、奉行所からの褒美の銀(銀5枚)だけではなく、多額の祝いが各所から集まった。安政3年の御池通墨屋和平下女いその事例では、墨屋である主家の当主や 家族が中風や眼病で倒れ、下女のいそが嫁入り話まで断って、看病から商売まで引き受けて働き、東町奉行所から褒賞され銀5枚と惣年寄から銭2貫文もらったが、そのほか町内の家持個人、町代、借家人などから多額の貨幣、物品がお祝いとして寄せられた。

明治期の褒賞制度
 明治初期にはなお全国で江戸期とかわらない孝子・忠勤褒賞が継続されていた。一方、1875(明治8)年4月、ヨーロッパの制度が導入されて太政官布告により「勲章条例」が制定される。その後、7月に太政官通達「篤業奇特者及び公益の為め出金者賞与条例」が出され、各府県で独自に褒賞せよとの指示が行われた。褒賞対象の中心は、江戸期の「孝子・忠勤」であった。その後1881(明治14)年前記条例が改正された内容による「褒章条例」が公布された。明治期に制定された「勲章条例」と「褒章条例」は改正を繰り返しながら現在の勲章と褒章の制度的根拠となっており、報告者は「明治以降の勲章・褒章の明治政府による、その吸収と再編の意味や、戦後の二度にわたる見直しにもかかわらず、現在に至っている意味などを考えるには、近世以来の褒賞に込められた政治的意味を踏まえておくことが必要であろう」としている。

質疑交流から
 参加者から多くの質問意見が出された。主なものとして、(問)奈良時代以降の日本や中国でも、孝子褒賞にあたるようなことはあったが、近世後期に行われた背景は何か?(答)18世紀末から19世紀にかけて一揆、打ち壊し、若者の博打のはびこりなど社会秩序の動揺が続いたことに対して儒教的な要素で締め直そうとしたことが考えられる。(問)褒賞を媒介にして、町などから金品が寄せられることは相互扶助につながるので、褒賞は、そのような位置づけ(救済)が考えられるのか?(答)褒賞は救済目的ではない。(問)遊女などの階層も褒賞されるのか?(答)遊女などは、ある意味で自己犠牲の究極の姿として考えられるので褒賞の対象となりえた。
 報告中、大坂の道修町などの詳細な絵図が示された。そこには、「吉兵衛」や「しな」、「ゆき」などその町に生きた個人の名前が浮かび上がっていた。塚田さんは著書の中で「歴史のかげで、ひっそりと、しかも懸命に働き、誠実に生きた人々に無限の価値を見出しうるような歴史学でありたいといつも思っている。・・・そうした人々が歴史をつくってきたのであり、それを明らかにすることはとても楽しい」と語っているが、本研究会の原点とも通じる内容の報告であった。なお、会長の尾川先生の先祖が、『官刻孝義録』に記載されているという意外な事実も知らされた。

3月例会報告 西田 清さん(治安維持法国賠同盟滋賀県本部)「反戦・平和にいのちをかけた久木興治カ 不屈の青春」

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眉目秀麗、頭脳明晰な青年革命家
 久木が青年共産同盟や日本共産党に入って、軍隊への反戦工作などをしている時に特高警察に逮捕されたように、西田さんも戦後米軍への工作などを行っていて逮捕され刑務所に入った経験を持つ。それは自分自身が久木の後を追っているように感じると、西田さんは言う。
久木は滋賀県の八日市中学校に小学校5年から受験して入学した秀才である。写真を見ると「眉目秀麗」そのものという印象だ。当時久木はロシア革命史の本を読みふけり、河上肇が編集した『社会問題研究』を購読、ロシアに渡って「社会主義」建設に参加することが夢 であった。のちに治安維持法で検挙され投獄されたことで、八日市中学校の学籍簿から除籍されることになったが、戦後周囲の尽力で同窓会に働きかけ学籍は復活することができた。
 大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)に入学後、「社研」に加入し「大阪外語読書会」を20名ぐらいで組織した。読書会が弾圧されそうになった際、彼は商家出身の同窓生の家に資料を隠したが、このときは翌日特高が来て危なく難を逃れた。こんなところに彼の剛胆にして細心のものごとに対処する性格があらわれているという。しかし、彼は受験生に読書会勧誘のビラを撒いていて検挙される。

軍隊への工作活動
 久木は1926年、大阪で組織された青年共産同盟(共青)に加盟、翌年春日庄次郎と会って日本共産党に入党する。当時春日の活動拠点は、大阪市内の千日前通りの市電の停留所に近い細工谷にあった。彼の任務は工場と青年労働者のなかに軍国主義反対の勢力を築くことであった。1927年、軍隊工への働きかけを行うことが決定され、関西地方委員会の書記であった久木は、その先頭に立つことになった。
 27年12月下旬には、大阪城近くの歩兵第8連隊と歩兵第37連隊にビラ「歩兵第八連隊及歩兵第三十七連隊の全兵士諸君!」を、28年2月11日には、ビラ「戦争で肉弾とされる兵卒には選挙権もない!」を、28年2月19日には、ビラ「国家の干城たる兵卒諸君に選挙権がない!」を兵営内に配布している。ビラは封書などに入れて隊内の兵士に郵送されたという。28年2月24日には海軍の水兵に対する働きかけが検討され、翌月10日、「兵卒新聞」が発行され久木が執筆した。軍隊内に共産党の組織を建設することも計画された。28年、青年共産同盟員の兵士中村福麿は労農党演説会で反戦演説を行い、軍法会議で懲役6年の刑となった。久木は『青年衛兵』で「兵卒諸君のために闘った中村二等卒の処罰に反対せよ!」と訴えた。

3・15事件
 1928年3月15日、田中義一内閣のもとで日本共産党をはじめとする民主団体に対する大弾圧が行われた。これが3・15事件である。日本共産党、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟などの活動家1600名余が検挙され(うち約500名を起訴)残酷な拷問が行われた。同年6月には治安維持法をいっそう改悪するために最高刑を死刑とする緊急勅令が出された。事件の背景には、国民の中に運動をひろげようとする日本共産党とその影響力を壊滅させようとする政権側の意図がある(編集部注)。久木は28年3月15日午前4時半に検挙される。29年2月1日公判で非転向(注:「転向」とは支配権力が共産党員や同調者に「正しい方向に転じ向かうのだ」と思わせる意味で作られた用語)を貫いた。
  久木は、予審終結時の陳述で「私は従来と何等変わった感想は現在何も持っていない」、公判の最終陳述では「吾等はブルジョアジーの敵として罰せられる名誉に立っているので、ブルジョア司法に公正は望んでいない」と語り、京大教員であった村山藤四郎の解党主義(共産党の方針から君主制撤廃と大地主の土地没収を削除することを主張)に対しても、「君主制の廃止及び大地主の土地の没収の両項目はあくまで存続さすべきであり、これなくして共産主義政党とは言えない」と反論した。獄中の5年間は、大阪刑務所に入所した時に、「刑務所にいるうちはいっさい話をしない。出たらしゃべる」と言ったきり全く口を開かなかったというので、刑務所の教誨師も彼の意志の強さに感心していたという。

出獄後の状況、大阪での動向
 出獄した後、1935年10月に久木は上阪する。特高警察がつきまとい、就職するも会社に特高が来ると翌日はクビになるという状況で、職を転々とした。1936年5月に思想犯保護観察法が公布され、治安維持法でつかまった人は一生保護観察の対象となったのだ。西田さんは、久木が第2回予審尋問調書で「若し(日本共産党の)組織が無いなら『コンミニスト』(ママ)として組織をつくる必要も意識した」と語っているが、出獄後上阪して、なぜ党の建設に取り組まなかったのか疑問としている。時代は2・26事件や日独伊防共協定調印、大本教やひとのみち教団弾圧事件などが続き、1937年には日中全面戦争が開始される頃である。そのような情勢が久木の行動にも反映していたのだろうか。最後に西田さんは、1920年代の久木の先駆的な活動は評価に値するとして、このような無名の人びとの歴史を発掘することの重要性を強調された。

松浦由美子さんからの補足
 松浦さんは1980年代から「労働雑誌」の調査をすすめる中で、西田さんが書いた久木の伝記「不屈の青春」を見て、彼が上六周辺で活動していたことを知った。久木が兵士に反戦ビラを送って働きかけた第八連隊は難波宮跡、第三十七連隊は旧国立病院跡であった。共産党に入党したところは日赤付近、春日庄次郎のアジトは天王寺区細工谷に、共青関西地方委員会は千日前通の市電停留所跡にあった。松浦さんは自分のいる周辺を久木が活動していた偶然も手伝って、次第に調査をすすめることとなった。久木が出獄後、入社した「教育通信社」は都島区網島にあり、「日刊教育通信」を発行していた。この会社は「大阪府学事職員録」などを発行し、教育界と強いつながりを持っている。
 久木が、この会社に勤めるようになった経緯もよくわからない。特高ににらまれそうな活動歴のある人物が多く居て、久木が入るきっかけとなった経営者の富岡勝という人物も「大阪合同労組」にいたらしいことなど今後調査すればおもしろいことがわかりそ うだ。最大の謎は、久木が1937年7月24日天神祭の宵宮の日に大川(淀川)で溺死したとされていることだ。松浦さんは、水泳の得意だった久木が、流れの緩やかな川でおぼれるとは考えにくいこと、他の事故と違い新聞記事にもなっていないこと、などから 特高警察による謀殺ではないかとの疑いを抱いている。ところで、例会当日参加者(医師)から意外な意見が出された。久木は長い刑務所暮らしで脚気を患っていたので、泳 いでいるときに「脚気心」により不整脈が起こると心臓が止まり、大川付近の川底は5mほどの深さがあるので、沈んでしまって浮かび上がれなかったかもしれないとのこと。はたして真実はどうか、今後の調査と解明が待たれるところだ。

質疑交流
 参加者からの質問意見で上記文中に紹介した事以外で、戦前の軍国主義の時代の中、久木のような反戦と平和をめざす活動を弾圧にもめげず勇敢に行える人物の居たことに驚き、なぜこのようなことができたのかという質問には、西田さんによると、戦前にこういう先駆的な活動をできたのは、久木のような知識人の役割が大きかったという。またほかに、大阪の運動の先駆性、大阪外大の学生運動の伝統などについても意見感想が出された。

4月例会報告 赤塚康雄さん(会員・元天理大学教授)「ジャーナリスト柳沢恭雄の研究」

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銃口を前に「終戦」を守った男
 柳沢恭雄の名前を知らなくても、東宝の映画「日本の一番長い日」で終戦の玉音放送を阻止しようとNHKに乱入した反乱軍の銃口を前に体を張って放送を守ったNHK職員と言えば、記憶にある方も多いだろう。当時柳沢はNHK報道部副部長。8月15日午前4時半頃、反乱軍の畑中健二少佐は森近衛第1師団長を殺害して宮城とNHKを一時武力制圧しNHK報道部に侵入した。柳沢の胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民(向け)に放送させろ。さもなければ撃つぞ」   柳沢恭雄氏 と要求した。このとき柳沢は下手に反抗して畑中をより興奮させないように、無言で向き合った。この気迫に押されて畑中は去り、玉音放送は無事に正午に流された。畑中少佐は放送の前に皇居前で自決した。この事件は、映画の原作となった半藤一利の小説では、NHKの職員は館野守男になっていたが、実際は柳沢が当該のNHK職員であった。柳沢自身は「彼(畑中)のあの目つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。(略)畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったようだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。」と証言している。
 彼は戦後、京丹後にある畑中の実家を訪ね、兄が昭和44年にようやく建てた墓に毎年のように参っていた。兄の話によると、畑中本人は陸士(陸軍士官学校)に行くことは渋っていた。優しい性格で、本当は三高で文学をやりたかったようだ。素直な性格のまま、「市ヶ谷精神」を受け容れたのだろうと。畑中らクーデターを図った青年将校は東京帝大の平泉澄教授の門下生で、平泉からは吉田松陰の「諫死論」(君主が誤った行動をすれば臣下がそれを諫めることが正しいという考え方)の講義を受けていた。そのような思想が決起の根拠となっていたようだ。又、事件の背景には、間違った命令でも直属の上司から受けた命令には従うという日本軍隊独特の性格もあるという。

中学生でマルクスに傾倒
 柳沢は京都府の上狛町(現・木津川市山城町)の出身。山城国一揆が起こった土地で、実家は大地主で父は村長を務めた。周囲では米騒動や小作争議が起こり、そのような環境のもと本人は中学時代にはすでにマルクスなど社会主義文献を読みあさる早熟な少年だった。病弱のため中学を一年遅れで卒業し、浦和高校から東大文学部社会学科に入学、ジャーナリストをめざして新聞学教室に学んだ。大学では「新人会」はすでに解散しており、彼は青年共産主義同盟に加入した。夏休みにオルグ活動で奈良に入っているとき、1932年8月 30日奈良をゆるがす治安維持法による大弾圧事件8・30事件が起こった。彼は検挙され、懲役1年2ヵ月、執行猶予3年の判決を受ける。報告では、彼の名前が特高月報にはみつからないとのことであったが、当日参加された田辺 実氏から特高月報には2回出ているとの指摘があった。また奈良新聞に記事が掲載された「妙齢の女」についても、報告では長谷川テル(エスペランチスト、劇作家)ではないかとの推測であったが、これも田辺氏から別の銀行員らしい女性であるとの指摘があった。

NHK入局
 東大卒業後、NHKに入局する。治安維持法で逮捕された経験がありながらNHKに入れた背景には、親戚にあたる松阪広政刑事局長(のち小磯、鈴木内閣の司法大臣)の保証があったからと思われる。松阪は降伏決定時の閣議に出席していたので、事前に敗戦を知っている。柳沢は、3日前に大臣室に行って、彼と「敗戦ですね。しかし三井三菱などは生き残るんですね」との会話を交わしている。
 NHKに入局後、彼は論文「報道放送の特質と限界」を書いた。当時は新聞の記事を書きかえて逓信省で検閲を受け放送していた。彼は独自取材による自主編成の放送の必要を考えていた。しかし論文が局内誌に掲載直前に100名ほどの記者と共に軍属として招集された。時期は真珠湾攻撃の直前。NHKからは参謀本部に一人派遣されてるので、彼も開戦予定は知っていた。呉港から諏訪丸でサイゴンに到着、彼は6名のNHK記者と南方作戦に従事させられる。任務はジャワ島攻略戦における対オランダ軍謀略放送だった。1942年3月3日から7日間100回以上の放送を行った。内容はオランダ・インドネシア軍の劣勢を誇大に宣伝すること。結果として、数においては優勢だったオランダ軍が1週間後に降伏することとなる。

戦時中の報道についての後悔
 柳沢は戦時中の自分の「罪」について三つのことをあげている。ひとつは、この謀略放送に加わったこと。そして報道解説委員として、フィリピンレイテ作戦に、「天王山の戦いとして今すぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが国民の勤め」と解説したこと。これは補給を不可能と知りながら解説し、作戦の結果、京都府の第16師団はレイテで玉砕した。 
 もうひとつは、放送の自己検閲のことだった。戦時中NHKでは、まず大本営からのニュースが伝えられ、次に同盟通信からのニュースが来る。ニュースの放送は、「依命中止」が国家の命令で中止されること。「任意取止」がNHK独自の判断で中止することだった。大本営からのニュースは、真実かどうかわからないと思っていた。山本五十六が死亡した事実はしばらく伏せられた。報道は真実を伝えることと思っていたので、毎日真実を国民に伝えていない無念さを感じていた。新聞報道も戦争が拡大するにつれて変化した。1931年6月まで「大阪朝日」は軍部に対して批判的な記事も掲載し、「日日」と「読売」は軍部に迎合的であった。しかし1931年9月18日の柳条湖事件にはじ まる満州事変が起きて10月以後の朝日は軍部の批判をすることはなくなった。1944年3月、「毎日」ではベテラン記者の新名丈夫が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事を書いて陸軍を怒らせ、彼は36歳で視力が悪いので兵役免除を受けていたにもかかわらず記事の翌日招集された。同時に同じ年代の250名ほどが招集されて、硫黄島などの激戦地に送られ玉砕することになる。1944年には雑誌「中央公論」と「改造」が廃刊となった。

戦後の活動
 戦後、彼は取材に基づく放送をめざして放送記者制度を創設し、ニュース解説をはじめる。幣原内閣の批判などを行った。GHQから民主化をすすめたニューデイール派が撤退すると、検閲が厳しくなった。読売新聞で正力松太郎が戦争犯罪人指名を受けて追放され、組合が編集権を行使した。そのことがGHQのプレスコード(新聞準則)にひっかかり編集幹部が解雇された。組合は解雇撤回を要求してストを行い、1946年10月各紙とNHKが支援して放送ストが行われた。結局NHKだけがストに入り、管理職の柳沢は外側からストを指導、9部課長もストに参加した。20日間のストが行われ、柳沢はスト解除後休職処分となった。
 1950年7月28日レッドパージが行われ、マスコミ関係704名、NHK119名がパージされて職場を追われた。1951年柳沢は中国へ密航し、北京の自由日本放送(日本向けの政治宣伝放送)に従事した。このとき家族は知らないうちに柳沢がいなくなったと語っている。1958年に帰国したときには、出入国管理令違反で逮捕され5日後に釈放されている。
 1960年に日本電波ニュース社を設立し社長に就任した。当時社会主義圏のニュースはほとんどが、この会社から発信された。ベトナム戦争時のニュースも電波ニュース社から送られたニュースが世界中に配信されている。1962年、ホー・チ・ミンの単独インタビューに成功した。アメリカのテレビ局でさえも同社のニュースを利用していたという。

現在の問題と柳沢研究の意義
 取材に基づく真実を伝える報道、放送記者制度、検閲への抵抗、新聞・放送関連組合など柳沢が現在の放送界、マスコミに遺産として残したものは大きい。公正で真実をありのまま伝える報道は民主主義の土台であり、権力の介入を許してはならないことはかつての歴史の大きな教訓だ。柳沢は、その渦中で闘い、銃口をつきつけられても退かな かった。今放送番組の政治的公平などを定めた放送法4条の撤廃案など、政府によるマスコミへの介入が強められている。一方で朝日新聞などが森友加計問題など安倍官邸による国民だましの不正を暴く追求を、まさに社を挙げて命がけで行っている。現在、柳沢の時代と彼の行動を再度見返すことも必要であると思われる。赤塚さんの研究がさらに深められていくことを期待する。報告のあとTBS制作の柳沢恭雄さんのドキュメンタリー番組の上映があり、質疑交流も活発に行われた。参加者から今後の研究に参考となる指摘もあり(本文中記載)、有意義な例会となった。

5月例会報告 生野コリアタウンとその周辺をフィールドワーク 案内と解説 足代健二郎さんと宋 悟(ソンオ)さん

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 郷土史家で猪飼野探訪会の足代健二郎(あじろけんじろう)さんが案内役。鄭甲寿(チヨンカプス)(ワンコリアフェスティバル代表)・宋悟(ソンオ)(クロスベイス代表理事)両氏が南北会談・朝鮮事情についての最新状況を解説という、豪華な講師陣によるフィールドワークが実現しました。ただし、諸事情のため参加できなくなった方が多く、そのことがもったいなくも残念でした。 午後1時、JR鶴橋駅に集合。近鉄とJRが交差する高架下を抜けて、焼肉店が密集した路地裏を歩きます。まずは、ワンコリア 5月の日曜日生野コリアタウンの賑わい フェスティバル事務所を訪れ、代表の鄭甲寿さんから、南北対話を積極的に評価するお話を聞きました。在日団体の果たす役割についても強調。質疑を含めて20分余で切り上げ、足早に鶴橋商店街へ。著名な作家・司馬遼太郎さんの実家である福田薬局跡(今はトータルファッション店)前でも、足代さんの説明が続きます。今回は10年前のフィールドの時より詳細になってます!
 続いて、創立百周年を迎える北鶴橋小学校を経て、近くにあった高英姫(コヨンヒ)(金正恩の母とされる)が住んでいた住宅跡へ。道路をはさんで今はマンションが建っていますが、昔はモルタルの家だったそうです。 その前で、資料片手に精緻な解説を加えるのは、猪飼野探訪会の中野善典さん。あらゆる伝手をたどって、関西の人気テレビ番組「探偵ナイトスクープ」顔負けの手法で解明していく内容は、十分な説得力を持っています。ご本人は、あくまで自己満足のためと謙遜されますが・・・その熱意には頭が下がります。
 最後に、コリアタウン内のクロスベイス事務所に向かいます。天候に恵まれて、みなさん疲れも見せず元気いっぱい。5月の行楽日和、若い女の子が満ち溢れて、大変なにぎわいでした。1階は韓国レストラン「班家食工房」。午後2時半過ぎですが、テーブルにお客さんがひしめいています。
 宋悟さんによれば、生野区は13万人中、外国籍が2万8千人。韓国・朝鮮が1位、2位が中国であるが、最近はベトナム留学生が急増し、コリアタウンにも豚肉などの食材を求め、ベトナム人のお客さんも増えているとのこと。また、少子高齢化が市内でもとくに高く、子どもの貧困が深刻だと言います。なお、コリアタウ は元々3つの商店街から成っているが、今では合同の役員会が定期化されているとのことです。
 韓国の文在寅大統領を誕生させたのは、連続して百万人を動員した民衆の力であり、光州を中心とした民衆蜂起(1980)を担った親たちの子供世代が、大きな役割を果たしているのでは、と語ります。中国のケ小平(フランス)、ベトナムのホーチミン(フランス)は、外国の資本主義を知っており、金正恩もスイスに留学している。アジアの社会主義国が経済的な開放政策をとるかどうかは、そういった指導者の海外経験が影響しているのではないかと。この点は、私も同感です。毛沢東の頑迷ぶりは、彼が一歩も中国から出なかったことと関係あると、指摘されていますから。
 そのほかに、ヘイトスピーチの問題が取り上げられ、その原因と日本政府の姿勢が議論されました。また、北朝鮮に対する日本の評論家について、誰がまともなのか共感できるのかとの質問も出ました。質疑応答を含めて、2時間を越える充実した報告・議論がくりひろげられました。

6月例会報告 中條健志さん(会員・東海大学特任講師)テーマ「ヨーロッパの言語」の諸問題

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『ヨーロッパの言語』の現代的意義とは
 中條健志さんは現在東海大学の国際教育センター特任講師として、フランス語を教えている。2017年9月に岩波書店から出版したアントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』は、4名(西山教行、堀晋也、大山方容、中條)による共訳である。初版は1918年、第2版は1928年に出版された。邦訳版は1943年に大野俊一訳で出版され、今回(2017年版)が2回目の翻訳出版である。出版を引き受けてくれた岩波書店から「なぜ今これを出版するのか?」と問われた。この本を出版する現代的意義は何か?中條さんは「それが今日の報告の結論です」と話をはじめた。

社会言語学のはじまり
 アントワーヌ・メイエはフランスの(社会)言語学者でインドヨーロッパ語族の諸言語を研究した。当時(20世紀初頭)は「言語学」そのものの研究が主流で、メイエは言語の持つ社会的側面に注目、歴史や社会との関連を重視して研究した。これは今日では普通に認められている研究方法だが当時はまだ珍しい考え方であった。この本の原題は『新生ヨーロッパの言語』だが、第1次大戦後に生まれた新生国家の創出と言語の関係を論じており、第1次大戦後の民族自決、民主主義の発展などの新しい情勢の展開が、この本の成立の背景にある。

第1次大戦後の新しい情勢と言語
 大戦は英仏露と米などの連合国(日本も含む)と独、墺(オーストリア・ハンガリー帝国)、オスマン・トルコなどの同盟国(ブルガリアも含む)との戦争であった。同盟国側の敗戦により、オーストリア・ハンガリー帝国と オスマン・トルコ帝国などの多民族国家が解体し、新たな国家、新たな国境線策定の問題が起こる。政府関係者とも、つきあいが深かかったメイエは、戦時中からこれらのことを予想していたフランス政府当局への政策提言として、この本を書いたという。

メイエの言語観
 第1次大戦後、群小国家が成立して、各国ではそれぞれの国語制定が行われ少数話者の言語が増えた。この状況に対してメイエは、「文明に値する言語」と「文明に値しない言語」があると主張し、「文明語」でない小言語の増加には意味がないとした。ハンガリー語については、「複雑な言語であり、借用語が多く、独自の文明に至らない言語である」とし、アイルランド語については「文明の大言語たる英語を捨て去り、言語の監獄に人を閉じ込めかねない農民の話語に切り換えるよう国民に提唱するなど奇妙なこ とだ」とした。メイエのこのような考え方の背景には、「言語の統一性は文化の統一性に由来し」、「ユマニスムや啓蒙主義を体現する西ヨーロッパ」が「文明」を代表し、東ヨーロッパなどは「野蛮」で独裁的・全体主義的であるという独断があり、彼には西ヨーロッパ特にフランスを中心と考えるナショナリズムがあった。
  メイエは少数集団の言語は、「それを使用する民族にとっては非力の原因であり、外国人にとっては不便の種」とし、「文明の統一は言語の統一を求める傾向に向かう」と考えた。このようなメイエの考え方は、言語の平等を原理原則とする現代の言語学や言語とアイデンテイテイのむすびつきを重視する思想とは相容れない。しかし、このような考え方は過去のものと言えるのか。今日でも日本が単一民族国家という誤解が未だにあって、アイヌ語の正しい位置づけもなされていない。メイエの言語観は今日では批判の対象だが、支配的国家の言語が世界の支配的言語となるという言語帝国主義の考えや単一言語主義、偏狭なナショナリズムと言語の問題は現代にも通じるところだ。メイエは比較言語学者としては今日でも評価されるが、一面でその言語帝国主義的な発想は我々にとっては反面教師的な考え方と言えるだろう。

1943年邦訳版の意図は?
 最初の邦訳版として1943年に大野俊一の訳で出版されたものには、訳出されていない部分が多くあるという(100〜150カ所ほど)。その意図は何であったのか不明である。出版時、大野は検閲や内外のプロパガンダを行う情報局に勤めていた。なぜ敵国のメイエの著作を訳したのか?  中條さんは、以下の様な推測を述べている。まず表にあらわれた意図として、第1次大戦後のヨーロッパ情勢に、「大東亜共栄圏」に通じるものを見出していたのではないか。戦時中、日本はアジア各国で植民地や占領支配したところで日本語教育を強制していた。そのような政策の参考と考えたのか?もうひとつは、表には出せない裏の問題として、1943年版には訳出されない部分を現在訳すと、労働者の国際連帯や国家同士の連帯などに触れた部分が多く見られ、メイエはこのような労働運動や社会主義・共産主義運動の記述内容にシンパシーを感じていたふしがあるという。こういうものをあからさまには公表できない当時の情勢から大野は、これらの部分の訳出を控えたのか?

メイエの残したもの
 この本を実際に読んでみてインドヨーロッパ語に属するラテン語系、ゲルマン語系、スラブ語系の各言語がもとはひとつの祖語から出発して、どのように分化してきたのかその経過がくわしく記述されていてよくわかった。特に高校の世界史を教える先生には非常に参考になる書物で、ぜひ読まれることをすすめたい。 このように比較言語学の一般解説書としては未だに生命力を持っている書物だが、一方で言語帝国主義、単一言語主義という考え方が未だに生きている現在(フランスでは90年代にようやく地域言語を守る政策が取り入れられた)、かつてあったそのような思想の祖型として反面教師として参考となる書物だ。そして、1943年版には訳出されていなかった労働者の連帯や社会主義への関心、国際協調主義的な要素、エスペラント語の評価などの面が今回の訳により再評価されたということも指摘される。質疑交流も活発に行われた。メイエの持つ複雑さ、さまざまな面の評価についていろいろ質問や意見が交わされた。

総会記念講演  藪田 貫さん(兵庫県立歴史博物館館長・大塩事件研究会会長)「大塩平八郎の乱と現代」

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「大塩の乱」180年をむかえて
 1837年の大塩平八郎の乱から180年が経過して、各紙が特集を組んでいる。『朝日』は大阪版夕刊で「追跡 大塩平八郎」を連載している。困窮する庶民を尻目にぜいたくざんまいの将軍家、私腹をこやす商人と幕府高官。元大阪町奉行所与力が大砲をぶっぱなして幕政のゆがみを正し、困窮者を救済しようとした事件は、現代の日本の状況ともオーバーラップしている。「大塩様」は今もなお大阪の庶民のこころの底に生きているのではないか。
 藪田さんは、現在兵庫県立歴史博物館館長で、大塩事件研究会の会長でもある。会は酒井 一前会長から大塩関係の史料遺品をすべて寄贈されて受け継いだ。冒頭それらがビデオで紹介された。大塩の肖像画や文書があり、中に大砲の絵があった。大塩が市中で幕府側に放った大砲の砲身部分には参加した門弟の名前が連判書として書かれていたことが印象的であった。

檄文発見と大塩研究のはじまり
 大塩の先行研究として、幸田成友(1910『大塩平八郎』)と石崎東國(1918『大塩平八郎』)が知られているが、石崎が発見した(成正寺に保存)檄文の現物が本格的な研究のきっかけとなった。檄文の行には三つのすきまが見られ(下図、出典は岡光夫・山崎隆三編著『日本経済史』ミネルヴァ書房)、これは計画の露顕を防ぐために版木を四枚に分割して(32枚、4ブロック)文章全体がわからないようにして彫り師に彫らせたためといわれる。藪田さんは、そのレプリカを開きながら説明された。写本でのみ檄文を見るとわからなかったことが、現物が発見されて当時の様子がわかった。(*檄文には現在の飢饉の原因は豪商と結託した悪徳役人の行為であり、彼らを誅伐して特権的豪商の金と蔵屋敷の米を貧民に分け与えよと書き、幕政の腐 敗を嘆き、一方で農民一揆とは異なることを強調し、困窮者救済の意図を明らかにしている。)事件が鎮圧されて後、関係者900名ほどが尋問され調書を取られた。それらは江戸に集約され審理された。そこから事件の全貌が見えてくるが、それがわかってきたのが1987年の頃だった(『大塩平八郎一件書留』)。これで事件の研究のりんかくが定まってきた。

大塩「出世願望」説は正しいか
 一部に、大塩には個人的な「出世願望」があり栄達が無理で乱を起こしたという説(仲田)がある。大塩が作成した「建議書」という膨大な資料はそのために作成されたというのだ。藪田さん自身は、この説はまちがいとするが、大塩が他の大坂武士とは異なる側面、江戸の情報に強い関心を持っていたという面を強調する。大塩は多彩な人間関係のネットワークを持ち、特に江戸関係には重要人物がいる。このようなことが「猟官運動」といううがった指摘を受ける元になっているようだ。関係者には水野忠邦(老中)、林述斎(林家第八代、大学頭)、佐藤一斎(昌平黌教授)などがいる。実際、大塩は金策に困っていた林に3000両を貸しており、それは林が無尽(頼母子講、発生は講組織による相互金融、近世には営利を目的とする富くじに近いような無尽が流行)に手を出そうとしていたのを止めるためであったという。与力には精錬と汚濁の二つのグループがあり、大塩は家康の前で軍功をたてた先祖を誇り、「功名気節を以て祖先の志を継がん」とする、例外的な存在であったという。大塩が書いた「建議書」は所司代。城代、町奉行などを指弾する内容であり、庶民の困窮をよそに無尽で蓄財する武士たちを批判し、老中になる以前の水野忠邦なども大坂時代(城代)に無尽で利益を得ていることなどが、やり玉に挙げられている。

「隠者」から武力蜂起へ
 大塩は与力をやめ、陽明学にもとづく塾、洗心洞で豪農出身者を含む門人らを指導、藤田東湖、水戸斉昭や林述斎、佐藤一斎らとも交流する。大塩が陽明学と出会うのは、大坂町奉行所に与力見習いとして14歳で出仕してから24〜25歳頃とされる。この頃陽明学を独学で研鑽したという。文政13(1830)年38歳で与力をやめ、天保4(1833)年41歳で中斎を号し、天保5(1834)年「隠者にて候得ども多忙」と言い、「草莽中にて定言を吐き」、天保7(1836)年7月頃には武器を準備し、12月に檄文を彫る。天保8(1837)年蔵書を売り(668両=約1億3000万円)、「建議書」を発送。2月19日、鎧兜を着用し、大砲を曳き、棒火矢などを発射して軍陣を連ねて行動を起こした。鴻池などの大商人の店を焼き払ったが反乱は1日で鎮圧されて終わった。

大塩の乱の性格をめぐって
 反乱は鎧兜の装備、戦陣の陣立て、大砲、鉄砲の使用など表面的には軍事行動として行われた。これは百姓一揆とは異質であり、大塩も檄文の中で「一揆とはちがう」と書いている。また、大塩個人と門人らの意識にも溝があり、反乱の性格をめぐっては未だ に解明すべき問題がある。これらと関係して、「大塩嫌い」を公言する人たちの理由に挙げられるのが、「大坂を焼いたこと」(脇田 修)、「蘭学者を苦しめたこと」(司馬遼太郎)など。しかし藪田さんは「大坂を焼いたことは本当にすみません」と言いつつ、反乱の目的は(腐敗した幕政と大商人の金儲けの犠牲となった)最悪の困窮者の救済にあったことはまちがいないだろうと指摘する。
 大塩の乱には未だ解明されない部分も多くあることがわかったが、当時の事実を解明する資料が20世紀に出てくることもあり、現在起こっている森友・加計問題の資料だって、この先10年後ぐらいに新たな資料が出てくる場合もあるかもしれないと藪田さんは言う。現在の時代にこそ“新たな大塩よ出でよ”と言いたいところだ。「大砲」をぶっぱなしたい相手はゴロゴロいる。時間いっぱいお話しして頂き、参加者は「おもしろかった」と口々に感想を語っていました。

8月例会報告 島田 耕さん(副会長・映画監督)「東宝争議(1948年)の70年−亀井文夫監督「女の一生」映像資料紹介と共に」

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日本映画の一番輝いていた時代
 島田さんは淡路島で中学生の頃、黒澤 明監督の「我が青春に悔いなし」を観て驚いた。終戦1年後の1946年のことだった。戦時下に抑圧されていた映画人の創造のエネルギーがふきあがってきたような感じだったという。背景にはこの頃、日本の民主化路線をすすめるGHQのCIE(民間情報教育局)のコンデが東宝、松竹、大映各社に反軍国主義、自由主義的平和主義的な映画作りを提言していることもあった。戦後は映画が最大の娯楽であり、島田さんは空腹よりもスクリーンの世界への憧れがまさり、生きる活力につながったという。

東宝争議のはじまり
 東宝では終戦翌年に労組(日本映画演劇労組)が結成された。1948年4月8日、第3次東宝争議が起こる。労働協約の更新を会社が拒否し全東宝従業員1200人、撮影所は270人の解雇を発表してきたのだ。会社は「二つの赤」(経営の赤字と共産党員)の追放を意図していた。砧(きぬた)撮影所に立てこもった労組の闘いに他の労組(産別組合)、朝鮮人連盟、全学連などの団体が支援に駆けつけ、撮影所に泊まり込みで争議が闘われた。当時島田さんのおじさんが撮影所で働いていた。叔母さんは自宅のあった世田谷でバザーをして争議の資金カンパをしていた。島田さんは当時17歳で争議支援の活動を行い、電柱に古い新聞紙に赤インクで書いたポスターを貼る活動などをしていたという。撮影中の映画はすべてストップした。亀井文夫監督の「女の一生」は6ヵ月中断して1949年に公開された。

アメリカ軍の介入と争議の結果
 争議には全国から支援の輪がひろがっていた。当時の日本は占領下にあり、GHQ内部では反共主義の潮流が勢力を占めていて「赤い映画人」は許せないという考え方があった。争議に対する米軍の介入も予想していたが、どう出るかまでは想定していなかった。1948年8月19日早朝米軍は戦車(7台)を配置して撮影所を包囲し、上空には偵察指揮のための飛行機(3機)まで旋回していた。日本の武装警官2000人が出動し「軍艦以外はすべて来た」と言われる東宝争議最大の山場であった。日本メデイアは米軍の介入を報道できないので、事前に「ロイター」や「タス」など外国通信社20社ほどを呼んであった。「ロイター」が世界に発信した内容をもとに日本のメデイアが記事を書いた。強制執行の最後通告があり組合は退去せざるを得なくなった。会社からにらまれていた共産党員などの20名の組合員が自主退職のかたちで辞め、270名の解雇は事実上撤回 されるという特殊な解決の仕方で結着した。争議のなかで分裂派だったメンバーはその後新東宝をつくった。

戦後世界史の中の東宝争議と日本国憲法制定
 東宝争議の時期は、戦後の世界史のいわば潮の変わり目に位置した。2年前の1946年には日本国憲法が公布された。この間に何があったのか。  
1946〜1947年は、東欧社会主義圏の成立。アジアでは中国の国共内戦で人民解放軍が優位に立ち1949年には中華人民共和国が成立する時期。米ソ間に東西冷戦が開始される頃である。GHQは当初、日本占領政策の目的をポツダム宣言にもとづき日本の軍国主義を取り除き、民主化することに置いていた。しかし世界情勢の変化を受けてアメリカは日本民主化の政策を変更し、日本をアジアにおける「反共の防壁」とする政策に転換することになった。東宝争議はアメリカの方針転換直後に起こった出来事であり、日本国憲法は転換直前、日本「民主化」の過程が実行中の時期にGHQ民政局の若手ニューデイーラーたちが関わって出来た当時世界最良の民主主義の憲法であった。

亀井文夫監督「女の一生」のメッセージ
 報告途中に亀井文夫監督作品「女の一生」(1949年)が上映された。亀井文夫も自主退職した一人であったが上映は大きな反響を呼び映画の興行費から争議解決金として1500万円を日映演労組が獲得した。この頃から独立プロによる映画制作がはじまり前進座は第一作映画として今井正監督「どっこい生きている」をつくった。
 亀井はソ連で映画を学び、「女の一生」では主人公の女性が恋人と工場の屋上でキスシーンを演じる場面がある。島田さんは、当時これを革命的ロマンテイシズムと言ったと紹介した。映画は古いかたちの家族関係(半ば封建的な日本社会の縮図)の中で葛藤する若い夫婦と姑の関係、会社側と組合に団結して闘う工場の労働者ら(日本に芽生える新しい社会をめざす動き)を重ね合わせながら描いている。志村 喬が演じる労働組合のリーダーが学習会で人類の歴史の進歩の必然性について語った後、全員が窓から流れてくる音楽の方向をいっせいに見て、ほほえんでいるというシーンで終わる。当時から、「これでよいのか?」、「みんなが見ているものは何か?」などのさまざまな意見が出された。最後は観ている人に考えさせるという今ではよくあるかたちだが当時は斬新な終わり方であった。封建的社会の象徴でもある姑と対立する若夫婦が姑と共に労働者と一緒になってほほえんでいる姿は新しい日本社会の変革がどうあるべきかについて暗示する表現と思う。実際に映画公開の1月の総選挙で日本共産党が35議席を獲得するという情勢でもあったことを考えると、映画のメッセージ性はわかる気がする。しかしあのいっせいのほほえみに当時の時代精神を感じると同時に、現代の我々が見ると違和 感を感じるのも事実で、これも現代という時代の雰囲気を反映している。亀井監督なら現代の日本社会をどう表現するのだろう。質疑交流では熱心な意見交換が行われ、特に戦後史の転換期の問題に意見が集中した。その意味では東宝争議は、終戦直後の日本と現代がつながる結節点にある問題でもあり、その前後に何があったのか再度見直す必要も感じられ、貴重な例会となったように思われる。

9月例会報告 書評会『沖縄 憲法なき戦後』豊下楢彦・古関彰一著

 今回の書評会は、大阪歴史科学協議会、大阪歴史学会、2・11集会実行委員会の共催による学習会を、大阪民衆史研究会の例会とした企画だ。当日、著者代表として参加していただいた豊下楢彦さんは、日米安保体制を軸とした戦後日本外交史の研究で知られた研究者で、実は今回の企画も、これまでの豊下さんに対するラブコールが、ようやく書評会という形で結実したものだった。
 現在、日本の人権や民主主義を考える際、その制約を正当化する「やむを得ない事情」として、常に引き合いに出されるのが、「テロ」や「北朝鮮・中国の脅威」である。しかし「テロ」も「北朝鮮・中国の脅威」も、実は、日米安保体制や冷戦という枠組の中での発想に他ならない。この点に思い至るならば、日米安保を超えて日本の安全保障政策がどのような形をとるべと問題に向き合うことが、実は日本の民主主義に直結する課題だということがわかる。
 豊下楢彦さんの一連のご研究、例えば『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波新書・1996年)、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書・2007年)、『昭和天皇の戦後日本―(憲法・安保体制)ににいたる道』(岩波書店・2015年)などは、この課題にリアルに向き合ってきた成果だ。日米安保条約を批判しても、その成立までにどのような選択肢があり、その条文の語句に日米政府間のどのような妥協の論理が込められているのか、知る人は少ない。豊下氏は、この点を丹念に追いつつ、その中に、「パワー・ポリティクス」の思考に基づく現実主義的な外交によって日米安保を乗り越えていく契機を探ってこられた。戦後直後の日本政府には、「国連」による集団安全保障の中に日本を位置づける視点や「非武装・中立地帯」の構想がリアルなものとして存在していたが、それが「日米安保」と化し、アメリカの核の下に組み込まれていったのはなぜか―この点を、昭和天皇が果たした役割を含め、明らかにされてきたのが、豊下楢彦さんなのである。
 このように豊下氏の研究の特徴、また魅力は、まず現在の日本社会に対する強烈な問題意識にたった歴史叙述であること、また「実際にあったこと」だけでなく「あり得たこと」、つまり日本外交が実際に持ち得た選択肢の提示を通じて、現在の問題への答えを追求しようとする点にある。そしてこの点は、今回の書評会がとりあげた『沖縄 憲法なき戦後―講和条約三条と日本の安全保障』も例外ではない。こうした姿勢・手法が、現実肯定に陥りがちな「外交史」からの脱却につながっていることは、当日の報告者、小林啓治さん・吉次公介さんも指摘されていたが、筆者は、むしろ自由民権運動研究者の色川大吉が「未発の契機」という概念によって、民権派による「変革の可能性」を論じようとした手法との類似性を感じた。 いずれにしても、『沖縄 憲法なき戦後』は、そのタイトルにも示されているように、なぜ沖縄では、日本国憲法下で当然に認められるべき基本的な人権(土地所有権を含む)を戦後から今に至るまで行使できないのか―こうした問題意識に立ち、米軍による沖縄支配の法的根拠であったサンフランシスコ講和条約の第3条を再検討し、支配根拠をめぐる日米両政府、国内外の議論や、当時の選択肢を明らかにすることを第一の柱としている。
 サンフランシスコ講和条約第3条は、「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)…(中略)を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」としているが、沖縄が戦後、この第3条に定める「信託統治制度」によって米に統治されたと理解している人は多い。しかし、信託統治制度はそもそも植民地下の地域が解放される過程で住民の自治・独立を図る目的で設置されたものであり、この制度の下で米軍は十分な「行動の自由」を確保できない。かといって「併合」はさらに困難であることから米が生み出したのが、この第3条だった。ここにおいて沖縄は、信託統治制度への移行を前提としつつ、むしろ赤文字部の規定により、事実上、米軍がフリーハンドをもつ「植民地」として支配されることになったのである。
 このように沖縄支配は、信託統治制度への移行措置という、きわめて薄弱な根拠に依拠しており、1956年12月日本が国連に加盟すると、独立国への信託統治制度適用を禁ずる国連憲章78条によって講和条約3条は前提を失う。当時この点は沖縄、また日本の国会でも再三指摘されており、むしろ国連に積極的に訴えて沖縄返還を実現すべきという主張もみられたが、結局、岸政権は「国連カード」を使うことなく、むしろ米の「ブルースカイ・ポリシー」(空に雲一つなく、アジアの平和と安全にいかなる脅威もなくなるまで、沖縄は返還しない)を1957年6月の日米共同声明で容認する。さらに1960年12月、国連で「植民地独立付与宣言」が採択されると信託統治制度は事実上終了し、講和条約3条は死文化。実はこの段階で沖縄支配は法的根拠を喪失していたが、池田政権は岸以降の沖縄返還要求「凍結」政策を続け、さらには本土でなく沖縄への核持ち込みにも理解を示す。これに対して佐藤内閣は沖縄返還を要求するが、それは、むしろ「極東に脅威と緊張が存在する限り」沖縄における一定自由な米軍の行動を容認すること(つまり「ブルースカイ・ポリシー」の前提を日本が引き受けること)によって、返還協定の道筋をつけようとするものだった。
 以上のように、戦後の日本政府は、沖縄問題を日本の不可避の国益問題として取り組むことなく、また返還要求の根拠として、「国連カード」や、3条失効論に依拠した復帰運動の高まりを利用することもなかった。つまり日本政府による沖縄返還要求は、利用し得る交渉カードのすべてを駆使する(「パワー・ポリティクス」)のではなく、「ブルースカイ・ポリシー」の一端を日本政府が担うことによって根拠づけられていた。返還後は日本政府が責任もって引き続き米軍の「行動の自由」を実現することと引き換えに、 沖縄返還を米国政府に「お願い」するというのが、日本政府の立場だった。「憲法なき沖縄」のはじまりである。しかも、これは対等な主権国家としての「要求」ではなく、 「お願い」である。そして、その根底にあるのが、憲法9条下で防衛力をもてない日本の安全、東洋の平和を守るためには米軍が沖縄で自由な行動を行うこと(核持ち込みを含む)を受け入れざるを得ない、という論理だった。
  以上のような戦後日本外交の主権なき実態を明らかにしたことが、本書の第二の柱であるが、ここには、二つの問題がはらまれている。一つは、日本政府が沖縄問題を日本の主権や切実な国益に関わる問題としてこなかったことの意味である。その根底には、近世以降、沖縄(琉球王国)を「日本」の「異域」とし、本土の外・従属的な位置におく視点があるように思われるが、これが、朝鮮・台湾に対する「植民地」としての視線にきわめて近いことは、その国籍問題にも示されている(本書第1章)。沖縄を「植民地」として扱ってきたのは米だけではなかったのである。沖縄の基地問題が今に至るまで解決されない背景には、こうした本土における沖縄への視線と、無関心がある。無関心とは、沖縄の基地問題「憲法なき沖縄」が「本土」のそれにつながっていることを意識しないことでもある。もう一つの問題は、「パワー・ポリティクス」なき対米外交が、結局、今に至っても続いているということである。米に対する沖縄返還の「お願い」は、「米国の好意」、米との「相互信頼」「友好関係」という言葉の下になされたが、この種の言葉は現政権下でも多用されており、また、憲法9条下で防衛力をもてない日本だから米軍が必要という論理は、湾岸戦争以降の「国際貢献」の強調によってさらに補強されている。本書は、こうした論理を打ち破る方法として、沖縄を拠点に、米にも中国にも支配されない「東アジア軍縮共同体」(核兵器の使用もそれによる威嚇も行わない)を形成することを提案しているが(終章)、私たちはこの問題提起にどう答えるのだろうか。
 このように本書は、戦後直後から現在に至るまで沖縄また日本で、米軍が「行動の自由」を得ている理由・根拠を明らかにすることで、米軍基地、さらに日米安保をのりこえていくリアルな道筋を示してくれる。本書の問題提起をぜひ、多くの方と共有したい。
報告・高島千代(運営委員・関西学院教員)

10月例会報告 原 幸夫さん(会員・大阪経法大講師)「中国遼寧省の万人坑を訪ねて」

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遼寧省の「万人坑」を訪ねる
 原さんは府立高校、大阪経済法科大学などに勤めながら「東アジア青少年歴史体験キャンプ実行委員会」の運営に参加して日中韓の中高校生たちの交流をはかる取り組 みを毎年すすめている。今年は、その一環としてキャンプが行われた中国吉林省での「万人坑」の見学を中高生とともに行った。
 「万人坑」について万人坑研究者の青木 茂は「中国での定義は万人坑とは『人捨て場』のことであり、原因・理由にかかわらず、日本の中国侵略下で『不自然な死』『理不尽な死』を強いられた人が埋められているところが万人坑である。虐殺被害者や強制労働の犠牲者などが埋められているところは全て万人坑である。」としている。(青木 茂『万人坑を訪ねる−満州国の万人坑と中国人強制連行』緑風出版2013年)
 今回の報告は主に、昨年中国帰還者連絡会の解散にともなって結成された「奇跡を受け継ぐ会」主催の「万人坑を知る旅」で訪れた遼寧省の「万人坑」見学の報告である。 遼寧省は中国東北部、旧満州国の支配した中心地で省都は瀋陽(旧奉天市)である。 瀋陽を中心に十個所の「万人坑」を8泊9日の日程で訪ねた。原さんは、かつての街並みが残る瀋陽で旧大和ホテルの張学良の泊まった部屋に宿泊したそうだ。

屍骨累々の万人坑−「人捨て場」
 原さんが撮った写真をプロジェクターで映しながらの説明を受けた。画面には、地中に埋められていた白骨が屍骨累々と横たわり、あるいは乱雑に積み重ねられ、日本の中国支配下で行われた犯罪のすさまじい様が映し出された。
 「阜新炭鉱の万人坑」は炭鉱のある丘陵地全体が万人坑となっている。発掘地をドームで覆い展示されている。2005年にリニューアルされて、かなり費用をかけた展示で展示室内は冷暖房が効いており、構内は電気自動車で回れるようになっている。遺骨が無数に並んでいる発掘地はガラスで覆われている(「死難鉱工記念館」)。遺骨には足首が無いという特徴が見られたが、これは野犬が食べた結果らしい。時代が下るにつれ、より乱雑に遺骨が埋められるようになっている。遺骨の骨は太く歯の状態も良く、青壮年の人びとであることがわかる。まだ息のある時に埋められた人もいることが骨の様子で確認された。   「抗暴青工遺骨館」には抵抗した労働者の遺骨が埋められている。彼らは捕虜収容所から送られてきた「特殊工人」と呼ばれた人びとである。満州以外の華北などから来た人も含まれている。敗戦までに9300人が阜新に送られ、捕虜兵士による抵抗、暴動が繰り返された。遺骨は乱雑に埋められていた。この人たちの死亡率は50%にもなるという。
 1960年代に発掘された「北票炭鉱(北票市)万人坑」の「台吉南万人坑」では丘陵地が人捨て場となっている。ここでは3万人が亡くなっている。「排列型屍骨房」では頭を山の方にむけて、ていねいに埋葬されていた。一方で、深く掘られた穴には、体がよじれて、手が上に上がっている状態の遺骨が見られ、これは生きたまま埋められてもがいて手で土を?いている状態を示している。よくこんな残酷なことが出来たものだと思う。上から人骨を乱雑に積み重ねただけの場所が見られたが、これは近くの谷間に投げ棄てられた遺体の骨を拾ってきたものらしい。「大石橋の虎石溝万人坑」は本多勝一の「中国の旅」で紹介された場所で、マグネサイト(マグネシウム鉱石)の露天掘りで世界有数の鉱山である。巨大なトラックが行き交う中を見学した。ここでは2体が針金でまかれている状態の人骨があった。
 「弓長嶺鉄鋼万人坑(遼陽市)」では12000人が亡くなっており、一帯には骨が散乱して積まれている。見学中、住民が寄ってきて、「子供の頃は骨が散乱していた」という話をしてくれた。焼却炉(「煉人炉」)が残っている。 途中、頭蓋骨に鈍器を打ち込んで陥没させた遺骸とか、あまりにもむごたらしい惨状を映し出したせいか“プロジェクターが機能マヒに陥り”、口頭報告のみにならざるをえなくなった。「本渓湖炭鉱仕人溝万人坑」には1942年にガス爆発が起こり1800人が亡くなる大惨事が起こったことの慰霊碑がある。碑には1377人と少なく記載していた。新賓では抗日運動が日本軍の虐殺で弾圧された結果、「北山万人坑」が形成されている。現在も採掘されている巨大な露天掘りの撫順炭鉱のある撫順市には36カ所もの万人坑が形成され25万人が亡くなっている。撫順の近くには有名な「平頂山」がある。ここでは日本軍の守備隊、憲兵隊が3000人を虐殺、遺体をガソリンで焼いた上、山をダイナマイトでくずして埋めた。その中で唯一の生存者が母の胎内にいた子どもだったと聞かされて愕然とした。
 大連の「龍王廟万人坑」は最近リニューアルしたが、陸軍の病院建設で動員された労働者の万人坑がある。ここには「関東軍693部隊」が配置され、細菌戦研究で有名な「731部隊」と同様の細菌兵器開発を行っていた疑いがある。「旅順万忠墓記念館」には日清戦争中、日本軍が旅順で2万人の市民、兵士を虐殺し焼却、白玉山山麓などに埋めた記録などが展示されている。

質疑交流−万人坑研究の問題点
 質疑交流では活発な質疑意見交換が行われた。万人坑問題では、まず研究が非常に少ないということが参加者も報告者自身も強く感じている問題であった。このことの背景に、さまざま指摘された問題が横たわっているように思える。報告者が万人坑をめぐる旅で感じたこと、問題意識について、○1960年代の文革期に発掘がさかんに行われていること。○発掘は一部に留められていること。遺骨収集は行われていないこと。○「愛国主義教育」として巨費をかけた万人坑遺跡記念館がある一方で放置されている万人坑が各地にあること。○万人坑の管理は行政が行い、市民運動や自発的な活動による 研究、保存活動は行われていないこと。そして責任の所在として、関東軍、日本政府、 満州国政府、満鉄などとともに中国社会の「把頭(はとう)制度」(中国特有の労働ボスなど中間搾取者の制度)という慣行も含めて、その構造をどうとらえるのか明らかにする必要があることと、万人坑形成の要因である中国人「労工」問題がどのように研究されてきたのか、現在なお、万人坑研究が少ない中で日中戦争史研究、日本帝国主義史研究とも関連して今後追求されなければならない問題であると指摘されている。  
 意見交換の中で、中国国内では万人坑問題は中国政府が管理しており、市民運動などはむしろ抑制されるか自発的に起こる状況では無いこと。中国政府はむしろ、日本との経済的政治的関係に配慮して万人坑問題をあまり表沙汰にはしない姿勢が見られるのではないかと推測されること、その一方で拠点的な遺跡は整備して保存しているという二面的な対応が見られること、などの点についても言及された。しかし、報告で明らかにされた惨状は日本が大陸で犯した侵略行為の中でも相当深刻な問題であると考えられる。今後冷静な分析解明が両国の研究者の協力によりすすめられることが期待される。

11月例会報告 熊井三郎さん(会員・詩人会議)「階(しな)戸(と)義雄 ― 知られざる戦時下の抵抗詩人大阪外語社研、労農救援会 大阪支部書記、二度の投獄を経て」

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大阪外国語学校社研部
  詩人階(しな)戸(と)義雄は報告者の熊井三郎さんとともに奈良詩人会議を結成、以後お二人は共に詩人会議を支える同志として歩んで来られた。
 階戸は1908年金沢市の遊郭街に生まれた。父が米相場に手を出して家屋敷を売り払って金沢に出てきたのだ。中学4年の頃四高の学生が開いている読書会で、ブハーリンの『史的唯物論』を読んで社会への目を開いた。1928年大阪外国語学校のロシア語部に入学。兄夫婦と父の住む生野の借家に、中学同窓の大阪歯科医専の岩田了吉と転がり込み読書会を開いていた。外語ではロシア人教師ニコライ・ネフスキー(日本民俗学、アイヌ語、宮古島方言、西夏語などの研究で知られる。ソ連帰国後シベリアに流刑、流刑地で死去)にロシア語を学ぶ。外語の社研に入り、活動する。「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)の機関紙「戦旗」分局の責任者となり、数十部を扱い、そのマージン(2割)を学費の足しにした。当時「戦旗」は最盛期で26000部発行された。1929年ころ、大阪で外語、商大(現・市大)、歯専、大高(現・阪大)、関大などの社研が結集する「学連」の委員会に外語代表として参加した。

治安維持法違反で検挙
 1930年無産者新聞の支局をしている京大生から総選挙の共産党宣伝行動への参加を求められ、(この時、「神様」から言われたように思ったと後に語っている)ビラを軍需産業でもあった藤永田造船所前で労働者に手渡し、天満紡績にも塀越しにビラを投げ込んだ。その後、特高に逮捕され戎橋署に拘置されて拷問を繰り返し行われた。後の裁判の中で、当時撒いたビラには「天皇制打倒、帝国主義戦争反対」の文言が書かれていたことを知る。留置所ではドロボウやスリが介抱してくれたという。そして、彼に指示した京大生は同様に検挙されたが、公判で陸軍中将主計総監の息子だとわかった。奥田平は懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。東京朝日には「関西共産党の大検挙五百名余 七十一名起訴」の記事が出た。
この事件で外語は放校処分となり(卒業試 験は終わっていたにも拘わらず放校となった)。1931年に超党派的に労働者・農民の救援を行う「日本労農救援会(国際労働者救援会日本支部)準備会」が結成され、1932年階戸は、大阪支部の書記(のち書記長)になる。自然災害や労働争議の救援にあたるが、書記の収入は食うや食わずで、再三検挙され留置所に入って、ようやく飯にありついたという。
 1935年日本共産党に入党し、翌年治安維持法違反で検挙され1年半堺刑務所に入獄する。その後腸結核を発病して堺刑務所を仮出獄、母親に引き取られ郷里金沢の病臥の床で、日中戦争・太平洋戦争下、憲兵、特高、保護司の監視のもとにあって稀有の「国禁の詩」を書き続けた。

国禁の詩
 階戸は1937年から敗戦までの8年間の間に、日本戦中詩に希有の抵抗詩など67編を書いた。例会には熊井三郎さんの仲間、詩人会議の会員が多数参加したが、報告の途中で階戸の詩を交替で朗読するという、これまでの例会にない異例の展開となった。その中で冒頭に紹介された代表的な作品が「火喰鳥」だ。

火喰鳥
 私の胸の火は  
 同じ火を呼ぶ  
 一度たべた火は  
 舌を焼いたが  
 そのからい味が  
 忘れられない  
 たとえ身をこがす  
 焔であろうとも  
 私の胸の火は  
 火を呼んで止まぬ

戦後の活動
 1947年階戸は日本共産党石川県委員長となり、1953年の内灘闘争(内灘村米軍砲弾試射場反対闘争)を指導した。1956年病気療養のため奈良市に移住、1957年「奈良文学」に参加、詩を発表、1962年第1詩集『風雪の暦』を発行。戦前の詩がはじめて公にされる。1969年岩波書店「世界」8月号の「父と子」特集に「暗い谷間の青春」が掲載される。1968年はじめて北アルプスに登り、以後山好きとなって大台ヶ原、西穂高、蝶ケ岳などを登る。1974年奈良詩人会議を屋根正彦、東海小磯、報告者の熊井三郎さんらと共に結成、代表を務めた。以後全国組織の詩人会議にも参加し、熊井さんらと共に奈良で詩作活動を続ける。1981年6月18日肝臓癌のために死去。享年73歳。

質疑交流から
  本日の例会は31名が参加し、補充の椅子も足らなくなるほどの盛況となった。特に詩人会議、大阪外大OBの方々などが多く参加され、東京と埼玉からも参加した会員の清水さん、中野さんのご夫妻4名など、いつもは見られない顔ぶれだった。質疑交流も活発に行われ、「文化の香りのする報告だった」との感想が語られた。途中、詩人会議の参加者により詩の朗読が交替で行われたことも異例な展開だった。
  冒頭で、階戸の読み方について意外な新発見があった。従来「しなど」と読まれてきたが、これは「しなと」が正しいと確認された。奈良県では階戸について知る人が少なく、これほどの詩人とその戦中の希有な抵抗詩について、もっと広く知らせる必要があるとの共通認識も生まれた。この例会も、そのよい機会となった。そして戦前、戦中に治安維持法の犠牲となり大学を放校処分となったような学生たちの足跡についても今後調査する必要があるとの認識が参加者に拡がったように思われる。それは、安倍政治のもとで再び「ファシズム」の足音が聞こえてくるような昨今、ぜひ必要な作業と思われる。階戸は私たちに語りかけている。「私の胸の火は 火を呼んで止まぬ」と。

12月例会報告 マーレン・アニカ・エーラスさん(米国ノースカロライナ大学シャーロット校准教授)「越前大野の町社会と江戸時代の貧民救済について」

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ドイツ出身の日本近世史研究者
 マーレン・エーラスさんは、ハンブルク大学在学時に大阪市立大学に留学、大学院はプリンストン大学、のちにハーバード大学で研究し、現在はノースカロライナ大学シャーロット校准教授である。日本近世史を研究、3月に博士課程論文にもとづき『Give and Take:Poverty and the status Order in Early Modern Japan』を出版した(ハーバード・アジアセンター)。今回の報告は、その著書の内容に基づく。彼女は研究対象の大野藩のあった大野市の観光大使も務めている。

大野藩
 大野藩は現在の福井県大野市に位置し、大野盆地の一部と山間部に広がる奥越前の入りくんだ地域を領地としていた。17世紀末以後明治まで四万石の中小大名である土井氏が藩主であった。
 報告者の研究テーマは、大野藩城下の非人集団、物乞い、座頭、瞽女などの貧民の管理と救済、飢饉の際などの一般町民、農民などの救済の構造、それにかかわる「仁政イデオロギー」*(明治前期に至る)の役割などを明らかにすることである。 (*編集部注:近世史像について1970〜80年代以後、大きな転換があった。その中心に「仁政イデオロギー論」がある。それまでの近世史研究の観点は領主権力の専制的性格が強調され、一方で搾取される民衆の鬱屈した不満が爆発して一揆となり、一揆の革命的・階級闘争的な側面が強調された。これに対し「仁政イデオロギー論」は1973年頃提起され、金沢藩の前田利常が「仁政」(「御救」「御恵」)を施すことにより小農民の保護育成を意図したものとする。その後80年代後半になって、領主と民との関係について両者の間に利害の衝突と同時に「合意」「契約」などの関係を見出すこと、幕藩制国家の「公儀」・公共の役割に注目する研究がすすめられるようになった《深谷克己、朝尾直弘ら》。)福井県では大野市がもっとも古文書史料が残っている(他地域は災害などであまり残っていない)。世界的に見ても前近代の庶民の歴史資料が残っている割合は日本が多いという。日本の古文書を世界遺産にすべきとエール大学の先生もいっているとのこと。

史料に見る貧民と貧民救済の状況
 (1)座頭小野市の例(史料1斎藤寿々子家文書) 座頭は江戸時代に盲人の一般的呼称となり、鍼灸治療、按摩、門付芸能などを稼業とした。座頭小野市は五番町の家持(家屋敷を所有する町人)、座頭仲間の座元(統括責任者)であり妻と子供4人の家庭を持っていた。安永6(1777)年に「乱心」(精神疾患 となり、家族、親戚、仲間が介護にあたるが大変だったので藩(町奉行)に救済を求める「願書」を出した。町奉行の解決策は、妻と娘は弟の家に、市は上黒谷村へと家族を分散させる案であった。この経過から、町人は家を持っているけれど生活は安定していないこと、働き手が病気になると家は解体すること、家持というステータスは失いたくないこと、貧困になると共同体−町人の場合は「五人組」や町全体に救済を求めること、最後には「願書」を(藩に)出すことも珍しくないこと、などがわかる。
 (2)金塚村の奥兵衛の例(史料2寛政元(1789)年願書)  金塚村の奥兵衛は病気で足が立てなくなった。妻も病気で、村が「合力」(相互扶助)で助けていたが一般的に村の「合力」は長続きしない、最終的には親類に引き取られることが多い。しかし皆貧乏だったら長続きしない。奥兵衛は足が不自由なので、物乞いもできない。そこで藩に「お救い」(江戸時代に領主が生活難渋者を救済する制度)を願い出ることが行われる。奥兵衛は結局「お救い」を認められた。
 (3)座頭・瞽女、乞食頭(史料3「座頭瞽女乞食頭江祝儀布施之覚」麦屋文書) 座頭は「当道座」(当道は、もとは琵琶法師の座組織、江戸時代に幕府公認の組織となる)という全国組織に属し、町人でも百姓でもない。瞽女は地域の座頭に従属する。座頭は施物、音曲、鍼灸、按摩、門付芸、金融などの職業の特権を有する。京都や大坂では金持ちもいるが、小都市では貧しい人が圧倒的である。上記の職業では生計が成り立たないこともあるので、座頭や瞽女は物乞いをすることもある。しかし座頭・瞽女は乞食(「古四郎」)とは一線を画そうとしている。座頭は町人の女性と結婚できるが、乞食はできない。
 (4)その他の貧民の物乞いと役人による見逃し  物乞いは百姓、町人でもやることがあったが、町奉行所は見て見ぬ振りをすることがあった。冬に山間部は雪が深く積もる。山村から貧しい百姓が大野へ来て物乞いをすることがあった。これに対して、大野藩が負担して12月1日に「御施行」(粥の炊き出し)を行った。炊き出しは京都では三井などの豪商がやっている。

身分社会と貧民救済 Give and Take
 研究の基本史料として「町年寄御用留」(業務日記)が用いられている。元文5(1740)〜明治3(1870)年まで49年分の記録が残されている。町年寄とは最高位の町役人で、二人月番交替、町奉行への願書伝達、町人の代表、藩の政策の実行責任者である。史料にはさまざまな貧民の姿が見られ、江戸時代の社会構造にどのように位置づけられていたか、彼らがどのように自己主張できたか、束縛されていたか、また「御救」や村内の「合力」などさまざまな救済方法が併存する状況などが記録されている。
 江戸時代の社会は、民衆が村、町、仲間、家臣団、寺中など公認された自律的な共同体である身分集団に組織されていた。集団は強い地域性を持ち、共同所有の土地や縄張り、職分の独占権を持ち、身分集団独自の「法」(仲間、式目など)があった。誰を仲間に入れるか、追放するかを自分たちで決められた。領主は彼らを支配下に置きながら、身分集団の独自の関係を利用しようとした。そして彼らは公認される特権のかわりに「御 用」と呼ばれる役目を果たしていた(「古四郎」の町廻りや行き倒れの「片付」など)。この「特権」と「御用」の互酬性、救済を貰うことと与える行為(報告者の言う「Give andTake」)が江戸時代の身分制社会を読み解くひとつのキーワードである。

「渇命願」という願書(史料4「天明3・4年(天明飢饉中)の渇命願」)
 「渇命願」とは、飢饉で飢餓状態など困窮している人が領主に出す救済願いである。その手続きは、まず飢えている本人が町の庄屋に出し、町年寄から町奉行に出されると、藩は極力救済を行うことをためらい、いったん町で解決するように圧力をかける。天明3年12月26日には、三番町の33名が飢えてお救いを願い出たが却下された。天明4年にも四番町で76名が願い出たが同様に却下された。「町内で相応に暮らす者同士で解決せよ」とのことであった。同年1月26日には町全体で350名が願い出たが「前例の通り御用達(領主に御用金を納める特権商人)、町の金持ちで救いなさい」という回答だった。このとき米を出した町人は、「相応に暮らす者」(町の金持)や町役人(町年寄、庄屋)、御用達などであった。各町には、渇命者が多いところ、いないところ、渇命者と金持ちのバランスが取れているところ、などの格差があった。  藩の立場は、できるだけ町内で解決させようとし、よほど大きな飢饉や百姓一揆が起こるようなことを契機に「御救」を発動させた。寛政の改革以後、幕末以後、特に天保の飢饉の頃「御救」が出されることが多かった。この時期は同時に藩政改革による藩財政立て直し事業が併行して行われた。大野藩では「うるし」、タバコなどの新しい産業が起こった。

質疑交流
 江戸時代の社会の詳細な報告、それもドイツ人研究者による報告に参加者一同新鮮な感動を覚え聞き入った。参加者の中に偶然、これから大野市へ実際に行くのでくわしく話を聞いておきたいという人もいた。ヨーロッパなどとの貧民救済制度の比較、村落の共同体の自治能力の比較などの質問も出た。日本の古文書が国際的に高い評価を受けていることなど重要な指摘であり、近世史の研究が従来のように領主層の一方的な強権的支配でなく、領主と家臣、民衆との相互関係の中で理解してゆくことが非常に重要となっていることが理解された。

2017年例会報告

1月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会副会長・大経大名誉教授)「国家資本主義中国の生命力とゆらぎ」

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社会主義研究の現状
 ソ連・東欧の「社会主義体制」崩壊と中国の改革開放以後、日本の社会主義研究は低迷している。従来の「社会主義経済学会」は「比較経済体制学会」と看板を掛け替え、中国=「社会主義」説の立場の研究者は少数派となっている。その中で、社会主義の現状と展望に関して積極的な発言・理論提起を行っているのは日本共産党ぐらいである。 その要点は、@ソ連・東欧=人間抑圧型の体制の崩壊。A社会主義的変革の中心は生産手段の社会化(生活手段は私有、中小企業・農業の私的経営・所有は認める)。B議会主義の尊重。C市場経済の再評価(計画性と市場経済を結合)などであり、現在の中国、ベトナム、キューバなどの国は社会主義に到達した国ではなく、社会主義をめざす国々としてとらえている。

2033年にゼロ成長となる中国
 慶応義塾大学の大西 宏は、中国経済の成長は徐々にスピードを落とし2033年には成長率ゼロの段階に到達するという。これは他の先進資本主義国の到達状況と同じである。中国の現在のGDP総額は11兆ドル(世界第2位、アメリカが第1位、日本が第3位)、一人当たりGDPは約8000ドルで(76位)中所得国。アメリカは第7位、日本は第26位である。大西は、中国は正真正銘の資本主義であるという。毛沢東時代は国家資本主義、ケ小平時代に入って私的資本主義となり、現在は国家独占資本主義(1929年恐慌以後はじまり、公共事業政策や管理通貨制など国家の介入のもとで運営される高度に発達した独占資本主義)段階とする。中国の経済成長はこれまでの「投資依存型」(工場や機械設備などの生産手段への投資優先)が成長の停滞をもたらし、中成長に移行していくためには「消費依存型」への構造転換=「新常態」をめざしている。そのためには政府・官僚と企業、中央と地方などの経済主体間での競争、妥協、利害の対立などの問題が引き起こされ、そのことが「経済の揺らぎ」や「政治の揺らぎ」の問題に波及しているという。

タカ派が台頭する中国の政情
 「政治の揺らぎ」は例えば中国軍部内のタカ派の台頭となって現れている。彼らは「戦場で獲得できないことは、卓上の談判によっても得られない」とする。ケ小平が経済発展を優先させて「今は我慢」としていたが、彼の死後に重しがとれて軍部タカ派が勢力を増しており、次第に中国の政策の基調に「大国主義・覇権主義」が強まりつつある。南沙・西沙諸島への中国の現状変更行為、尖閣諸島への介入など覇権主義的な行動が活発となり、安倍政権の日米同盟強化・海外派兵・憲法改悪などの悪政に絶好の口実を与えている。

「あいまいな制度」としての中国資本主義の生命力
 加藤弘之(故人)は、中国資本主義の持つ「曖昧な制度」にこそ、その生命力が潜んでいるとする。中国には@激しい市場競争、A国有と民有併存の混合体制、B地方政府と官僚の競争、C利益集団形成過程で生じる腐敗と成長の共存などがあり、「中国では 制度移行に伴う一時的な制度の併存や重複を利用するだけでなく、『曖昧さ』を意識的に温存し、積極的にこれを利用することで組織や規則に縛られることなく、個人が自由に意志決定できる範囲を広げ、機動的、効率的な制度運用をはかる」という「曖昧な制度」が活力をもたらしているという。ここでは「腐敗」問題も決定的なマイナスとはならないので、現状追認的、楽観的な分析とも取れる考え方だ。

改革かカタストロフィー(崩壊)か、中国の行方
 大西の「投資依存型成長」から「消費依存型」への構造転換の可能性は、国内の経済格差を見るとそう簡単ではない。中国の「ジニ係数」(経済格差を示す指数、0〜1の間の数値で示され、0.4以上を警戒ラインとする)は、2008年のピーク0.49以後、高止まりとなっている。先進国平均が0.3、世界平均が0.44であり、中国の投資依存型の成長とは国民生活を犠牲にしてきた経済成長と言える。中国の社会階層モデル表によれば、@上級階層(政府トップ、国有銀行・大型事業責任者など)が1.5%で1200万人、A上位・中級階層(高級知識人、中・高級幹部、中企業経営者など)が3.2%で2500万人、B中級階層(技術者、科学研究者、個人経営など)が13.3%で1億500万人、C下位・中級階層(労働者、農民など)が68%で5億6000万人、D下級階層(失業者、農村貧困家庭など)が14%で約1億1000万人であり、中国人口約13億人のうち約82%が下位の階層であり、貧困層が分厚く、中間層が非常に薄いことが特徴である。
 中国人研究者楊継縄は、権力は制約なき上部構造となり、資本は制御されざる経済的基礎となっている。これが『現在の中国におけるすべての社会問題の総根源』とし、「もし、主体的な政治改革による民主の前進を怠るならば、ますます社会矛盾が累積し、遂にはカタストロフィー型の変事に到りかねない」としている。その予兆として、「労使衝突」「農村での農民と幹部の衝突」「土地収用・開発にともなう立ち退きをめぐる紛争」「地方幹部、公安・検察・司法一体化した不正・横暴をめぐる紛争」などの大衆的な騒擾事件(「群体性事件」)の多発を取り上げている。
 貧困と経済格差の是正は中国社会の体制存続を左右する焦眉の問題となっている。重慶の薄煕来事件は権力闘争の一環という問題がありながら、民衆生活の重視という課題をめぐってもせめぎあいを内包していた、という。

政治改革の核心は民主政治の実現
 今起こっている「群体性事件」(大衆的騒擾事件)は、自発的な大衆の意志にもとづいている。報告者は「国家権力の意志と国民の意思との相互交通を保障する制度的機能 が欠如しているが故に、『群体性事件』が絶えない」とし、楊も権力を制御するためには「民主政治を必要とするものであり、政治的独占を排除し、政治的競争が展開されること」が政治改革の核心と述べている。  現在の中国共産党一党独裁の体制が「当面不可欠の要件」でなおかつ「社会」(人民)の側の反作用による共棲関係とするのか(加藤)、党・国家と変革主体としての「社会」の二元的な構造とするのか(菱田雅晴)、あるいは一党独裁を廃して民主政治の体制を築くことが必要なのか、中国情勢は一朝一夕には解決できない複雑な事態にあることはまちがいないが、必要な方向性は見えてきたように思える。習近平自身、中国共産党が人民に見放される時、党は「統治の正統性(執政資格)を失って、歴史の舞台から降りざるをえない」と述べている(『人民日報』2016年7月7日)。
 意見交流は活発に行われた。参加者に中国での起業を試みようとした会員もいて、ウイグル問題のテロ事件が起こってから外国人への規制がきびしくなったこと、 省の幹部が大きな権限を持っており起業活動を行う上で直接的な影響力を及ぼすことができる実態も垣間見えたことなど興味深い話題が提供された。中国共産党の幹部と資本家経営者が癒着あるいは同一人物であったりする状況で、資本の無法で制限のない利潤追求活動や腐敗に規制をかけることなど困難ではないのか?という疑問、中国の統計が正確なのかという疑問、ソ連方式の「社会主義」失敗の総括がされているのかという疑問、「議会制度」・民主主義の確立は、再度民主主義革命を行うぐらい独自に追求しなければ無理なのではないかという疑問、資本主義の世界的展開の中での中国資本主義というものを見ないといけないのではないかという疑問、など多くの疑問と意見が出され、10月ころ再度、 中国共産党大会を受けて例会報告を行いたいとの申し出が山本氏からあった。

2月例会報告 中條健志さん(会員・大阪市大都市文化研究センター研究員)「EUの諸問題を整理する−英国離脱、極右台頭、テロ、難民をキーワードに 」

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英国のEU離脱問題その後
 2016年6月23日にイギリスは国民投票で51.9%賛成の僅差でEU離脱を決定した。 今後離脱が正式に行われるまでには、各国との協定の結び直しがあって、2年以上かか る予定だ。メイ首相は3月頃にEUの憲法である「リスボン条約第50条」にもとづき、離脱を宣言し、欧州理事会に通告し、その後26カ国と離脱後のことについての交渉が終了すると離脱が決定する。交渉経過により離脱中止の可能性もあり、今後の政権の動きによってイギリスのEU離脱は、どうなるのか予測しがたい事態である。

移民・難民問題が原因か?
 2015年夏頃から、離脱と難民問題が関係あるように語られるようになったが、事実はそうでなかった。キャメロン首相は2013年、EUとの関係の見直しを提案していた。その理由は、イギリスのEUへの支出に対して、見返りが少ないという議論があって、そのために関係の見直しを行い、EU残留可否の国民投票を行うという提案であった。見直しの議論がされている頃には難民問題など出ていなかったのだ。
 イギリスは人口約6500万人中移民は500万人(8%)でEU加盟国の平均10%よりも低い割合だ。EUの「シエンゲン協定」は加盟国内の移動の自由(パスポート、ビザが不用)を保障するが、イギリスは協定に加入していないので、移民が入りにくい国である。イギリスのブルーカラー労働者のほとんどは移民出身である。イギリス人は、そういう仕事には就きたがらないので、雇用を脅かしていると言うことにはならない。難民については、2012〜2014年の難民申請では、イギリスが2万人に対して、ドイツは44万人、スウェーデンは16万人、フランスは8万人なので、イギリスが特に難民が多いわけではない。難民問題が離脱の原因とされている理由は「スケープゴート」にされているのにほかならないというのが多くの研究者の意見だ

離脱の本質的原因としての内政問題
 離脱の真の原因は何か。ひとつはEUの官僚制の問題などシステム上の問題が指摘されている。
 さらに重要な原因として、各国の内政問題の矛盾が指摘される。2005年にフランスで欧州憲法案が国民投票で否決された。フランスで通過すれば他の国でも採択されると思われていたが、これで憲法、元首、軍隊を持つ「欧州合衆国」構想は終わった。その原因は、憲法の評価そのものよりも失業率の高さなど政府の政策への批判の影響が大きかったことが考えられる。イギリスでも社会福祉や雇用の問題があり、EUへの支出に比較して見返りが少ないことが以前から指摘されている。フランスの極右党首ルペンは「フランスの金で東欧やイタリア人を食わせている」という批判を行い支持率を高めている。
 国内政治への国民の不満がEUへの関わり・負担に対する批判となってはねかえっているということが問題の本質らしい

極右の台頭
 ヨーロッパ各国(フランス、オーストリア、ドイツ、北欧など)での極右の台頭が目立っている。フランスの大統領選挙では2月現在の支持率で極右政党の国民戦線党首ル ペンが第一位となっている。社会党はもはや左派とは思われていない状況だ。第2回投票でルペンに勝つためには、それ以外の政党が結集することが必要となっている。なぜ極右が支持を伸ばしているのか、国民戦線の政策を見ても失業対策や若者雇用の問題など共和党と変わらないおだやかな内容で、父親のルペンが言ったような「外国人は出ていけ」などの過激なことは言わなくなっている。むしろフランスで極右として目立っているのは、日本の安倍首相と「日本会議」であるという。

テロ問題
 2015年のパリのテロで、犯人の一部がベルギーのブリュッセル市モーレンベーク地区出身のモロッコ移民2世であったことからベルギー(特にモーレンベーク)がテロの温床地であり、移民・難民が元凶視されるようになった。しかし、ヨーロッパの貧困地域全体で職を得られず自立できない若者に対して、テロ組織が青年のアイデンテイテイー確立を求める心理に訴えかける巧妙なリクルートが行われている。ベルギーや難民だけが特別にテロと関係するわけではない。

まとめ
 移民・難民問題が本質的な内政問題(貧困、失業、格差などの問題)とすりかえられて原因とされている。特に日本ではEU離脱の原因を難民問題とする傾向が強い。それは、多言語・多様な文化を持つ社会と単一的傾向の強い文化の社会の違いが原因であるかもしれない。「ベルギーは言語が異なるので(テロの)対策がとりにくい」という見解が仏、独などで見られるが、ベルギーでは言語の違いは問題にならない。日本では福島原発事故が起こってから反韓流キャンペーンがはじまった。これは原発事故をおおいかくすためのもの?と、フランスで報道されている。ヨーロッパにおいては歴史的に「社会問題」と移民・難民は常にリンクされてとらえられる傾向がある。 質疑では活発な意見質問が出された(「」内が回答)。EUへの拠出金問題では、「独仏は積極的だが英国はヨーロッパ中心のイベントになるので消極的である。」宗教問題では「旧植民地宗主国の仏はイスラム系が多く、英は少ない。」フランスについて、現在は荒れている雰囲気だが、反イスラムは表だって言いにくいように思える。これについては「社会、政界にイスラム系の人が深くとけこんでいることも原因」という。EUは、もともと経済統合で発足したが、それは資本主義の延命策ではないのか。EU発足の理念としての戦争のないヨーロッパをめざす方向についてはどのように考えられているのか、については「ルクセンブルグなどの小国の中に平和・多文化の統合を求める考えが生きている。」膨大な難民がどうしてヨーロッパに受け容れられたのか?日本と大きな違いを感じる、など。

3月例会報告 細田慈人さん(和泉市立ふるさと館学芸員)「中世の物語と陰陽道」

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陰陽道(おんようどう、おんみょうどう)
 陰陽道は、飛鳥時代に百済などを通じ導入された古代中国で生まれた陰陽説、五 行説、暦法などと、中国固有の宗教思想である道教、そして日本固有の神道などが融合、取捨選択されて日本で独自に成立したものである。その中心が、天武天皇により七世紀に設けられた律令制下の国家機関である陰陽寮で、陰陽(占い)、暦(暦作成)、天文(天文気象の観測)、漏刻(時刻の通知)の部門があった。陰陽寮に出仕し、天皇や上級貴族のために働く技術官僚としての「陰陽師」が「官人陰陽師」、のちに陰陽道への需要が下級貴族や一般庶民にまで広く拡大することによって民 中央が細田さん 間に登場してきたのが「法師陰陽師」である。
 平安時代、貴族社会をとりまいていた「物怪(もっけ)」(霊が引き起こす怪異)や「穢れ」というタブー、「呪詛」という目に見えない攻撃の恐怖などから、天皇や貴族たちの身を守るために陰陽道によって張り巡らされた防御のシステムは現代人の想像を絶する世界であった。それらの記憶は特に「今昔物語」などの説話となって残されている。説話と史実にみられる陰陽師の姿は異なる。両者の比較、その関連を探ることが今回の報告者の課題である。

物語に見る陰陽師の姿
 『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話集には勧善懲悪、因果応報、偶像性などの特徴が見られるが、特に『今昔』には陰陽師の登場する話が多い。安倍氏や賀茂氏が10世紀以後陰陽道の支配的地位を占める以前に活躍した弓削是雄などの陰陽師や三善清行など一般の貴族で陰陽の術に通じた人々や市井で活動した下級陰陽師である法師陰陽師などの姿が描かれている。
 説話集、女流文学、軍記物などの物語に共通することは、登場する陰陽師は官人陰陽師、法師陰陽師、陰陽道知識を有する貴族で、職能(卜占、祓い、祭祀、暦道、天文道など)は宮廷陰陽道に依拠しているものが多い。物語では賀茂氏や安倍氏などの官人陰陽師の活躍と名声が描かれる一方、社会的身分の低い法師陰陽師は呪詛を行う悪役として描かれている。各ジャンル毎では、説話では鬼と対決する法師陰陽師など、女流文学では年中行事を司る宮廷陰陽師、軍記物では兵乱を予兆する陰陽師の姿などそれぞれ特徴の違いがみられる。

史実に見る陰陽師の姿−権力とむすびついて発展、貴族化
 10世紀以後、藤原摂関政治とむすびついて陰陽道の二大宗家である安倍氏(のちの土御門家)と賀茂氏(のちの幸徳井家)の両家が陰陽頭(陰陽寮の長官)となって地位を独占、勢力を拡大する。陰陽家の家格の上昇(安倍晴明は従四位下)、権 力とのむすびつきにともない、安倍氏と賀茂氏との勢力争い、安倍氏内部の抗争が生じる。室町時代には足利義満とむすびついた安倍有世(ありよ)が祈祷者として重用され、陰陽師としては破格の従三位の地位を獲得する。有世は大嘗会に行われる吉(き)志(し)舞(まい)奉行を執り行うことで、安倍氏の長者として、最高評価の陰陽師としての地位を獲得したという。安倍晴明が中世前期の陰陽師の立役者であるなら、安倍有世は中世後期の立役者といえる。晴明や有世など安倍氏の長者が吉志舞(新羅の舞ともいわれる)を舞ったという事実は、のちに曲(くせ)舞(まい)、幸(こう)若(わか)舞(まい)と陰陽道が関係することもあり、陰陽道と舞、芸能が深い結びつきを持つことを示唆する。

物怪と穢を祓う陰陽師
 古代から中世の社会には、物怪(もっけ:霊がひきおこすと考えられた怪異や祟り)と死を代表とする穢(けが)れのタブー、そして目には見えない呪(じゆ)詛(そ)という攻撃などが網の目に様に人々を取りまいていた。犬がおしっこをしたことも「怪異」とおびえた平安京の人々は、今日から見ればみんな強迫神経症のようであったといっても過言ではない状況であった。陰陽道は、これらを暦による計算、天体の動きの観測などを通じて分析し、それへの対処を行うシステムであった。陰陽師は上巳祓(三月三日)や六月祓(茅の輪くぐり)などの年中行事、仏事、葬送儀礼など滞りなくすすむように管理し、凶事を避けるために「物(もの)忌(いみ)」(外界との交流を遮断する)を指示し、「撫物(なでもの)」(紙の人形などに身体の悪いところをすりつけて水に流したりした)などを用いて病気の予防や治療をも行った。また朝廷でも私人でも重要なことを行う日時は陰陽師が選定した(日次(ひなみ))。例えば太政官の文書発給開始日も陰陽師が選定した。

民衆の中の陰陽師
 陰陽寮を中心に天皇や上級貴族の相談にあずかった官人陰陽師は貴族に位置し、社会のエリートであった。一方、陰陽道への社会的需要が増し市井に登場した社会的身分の低い陰陽師が法師陰陽師であった。これら市井の陰陽師は、中世後半以後、声聞師と呼ばれたさまざまな芸能を行う傍ら陰陽道的呪術を用いる人々や修験者という民間陰陽師となってゆく。彼らは卑賤視された河原者と居住地を接し、社会的身分は低かったが陰陽道の技能と知識を有することで一定の権威を持ち、内裏にも出入りを許されることがあった。物語で悪役として登場することの多い民間陰陽師は、史実では民衆の中で一定の地位を得ていたと考えられる。それは伏見莊においては検断権(中世の警察権・刑事裁判権、近世の大庄屋に匹敵)を持ち、起請文の管轄を行った例などにも見られる。  例会は久しぶりの中世がテーマで報告者の非常に詳しい報告に興味深く聞き入った。

4月例会報告 山下喜久枝さん、松浦由美子さんの共同報告「おかあさんと手をつなごう」−1950年代 母と婦人教師のつどい

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大教組資料から発見、1950年代の地殻変動的な社会運動
 「大教組運動史」編集のために収集された資料の整理が2011年から始まった。その中に1950年代に起こった日教組婦人部による婦人教師と母親たちの子供と教育を守る運動の資料があった。それは「お母さんと手をつなごう」という呼びかけで 行われ、大阪でも活発な運動がすすめられた。そのなかで、牽引者的な役割をはたしたのが八尾教組の婦人部長だった山下喜久枝さん(旧姓青柿、故・山下重雄氏夫人)だということがわかった。1952年から全国婦人教員研究協議会(婦研協)が開かれた。第1回は大阪市中之島公会堂に2000人が集まり、1953年の第2回は千葉県で行われ江頭千代子さんの長崎原爆体験がNHKラジオで放送された。1954年の第3回は静岡に3000人が集まり「お母さんと手をつなごう」の呼びかけが行われた。 今回の報告は松浦由美子さんが資料発掘の経過と当時の状況や山下さんの役割などを紹介し、山下喜久枝さんが当時の体験を語るというやり方で行われた。

教員組合草創期に婦人部長となる
山下さんは1944(昭和19)年に臨時教員研修所を経て臨時教員になった。9月大阪市北中道小の学童疎開に付き添い半年後に卒業した子どもたちと帰阪する。その後、天王寺区味原小へ。当時学校を入ったところに祠があり教育勅語が置かれ、式の際には校長が壇上で捧げて読み上げた。戦後、教育勅語は否定され、同じ校長が「(制度が)変わりました」と言うだけであったが、特攻隊から帰ったある先生は職員室で恥ずかしそうにしていたので、元気づけてあげたという。終戦後、八尾久宝寺小に転勤した。久宝寺小で休暇をもらい、1948(昭和28)年平野女子師範学校で正教員の免許を取得し、八尾の久宝寺小学校に勤めることになった。この頃教員組合は義務的に参加するもので自発的に参加活動するという雰囲気でもなかったという。この頃校長も組合員だったので、山下さんは校長から依頼されて婦人部長となった。第3回全国婦人教員研究協議会には、校長に「行かしてほしい」と頼んで参加した。この頃はいろんな新しいことに興味があった。「お母さんと手をつなごう」の呼びかけは藤田寿(ひさ)さんが声をあげた。藤田さんは堺市の婦人民主クラブのまとめやくで、世界母親大会に、14名の日本代表のひとりとして参加した。

大阪での「お母さんと手をつなごう」運動
 婦研協第3回大会の全体会議で「お母さんと手をつなごう」の呼びかけがあり、校長の許可を得て八尾市で運動をはじめた。久宝寺小学校は古い村の中にあり、お寺などを会場にしてつどいが開かれた。夏休みの夜に寺や集会所で母親と婦人教員の話し合いがもたれた。夜は普段着で行けることや、いろんな学年の親が混じり合い親がいやがる成績の話などはあまり出ずに、いろいろな課題について電灯の下で話し合われる気楽な雰囲気であることがお母さんに受け容れられた。参加した母親の感想は、「楽しかった」「また参加したい」など好評であった。学期に一回はしま しょうと約束し、八尾では6月に第1回、8月に第2回、10月に第3回の会がもたれた。八尾がトップを切ってはじめたが、高槻では、農村部の母親も参加できるように市バスが農村に乗り入れるように要請した。吹田では「マザーグースの会」ができ、遠足のお菓子を共同で購入するとか、本を共同で買って学級でまわすなどの取り組みが行われた。八尾では子供を守る運動として危ない道に警告の看板を立てたり、子供によい文化を伝える取り組みとして、映画館を貸し切り午前中は教育映画を無料で上映した(ある参加者から、香川県丸亀市でも映画館で「ベンハー」などが無料で見ることができたと、同じような体験が報告された)。

大教組時代の思い出
山下さんは1956〜58年の3年間大教組の執行役員(専従)となり、大阪総評の婦人部も担当した。勤評闘争も体験したが、この時期は昼も夜もないほど激しい闘争を体験したという。この頃、産休補助教員制度を要求する闘いを組織して実現することができた。子供と接することが好きだったので現場にもどることにしたが、八尾の校長はみんな山下さんのような”闘士”が来ることを恐れてだれも引き受けようとしなかった。志紀小学校の校長だけ「おまえだれも採ってくれなかったので、わしが採ってやった」と言ってくれた。この時期は、校長が組合から集団的に脱退していた頃(1958年)であった。その背景には、朝鮮戦争前後からの「逆コース」のはじまり、勤務評定による教育現場の統制など戦後の政治、教育の反動化の波が押し寄せてきたことがあった。

質疑交流から
山下さんは37年の教員生活を終え55歳で退職後も、大阪退職教員の会女性部で「女性サロン」の世話役をつとめられた。91歳の現在も非常にお元気だ。趣味は日本画を描かれる。戦前と戦後の民主化、反動化の3つの時期を体験して教職に関わる仕事にに一生を捧げてこられた貴重な経験談を聞かせて頂いて参加者一同おおいにもりあがった。質疑では、戦前から戦後に切り替わった時期の教育と社会の変化についてどのように感じたか?母親と婦人教員のつどいには父親の参加はなかったのか?つどいは、どうしてもりあがったのか?どのような話題が話されたのか?などの質問意見が出された。また山下さん(旧姓青柿)のおじさんは戦前に神戸で労働組合運動で活躍した青柿善一郎さんであることや夫の故・山下重雄さん(元大教組役員・本会会員)が大教組の執行委員会終了直後 に「青柿喜久枝さんと結婚します」と突然のプロポーズをして本人と周囲を驚かせたことも紹介された。母親と婦人教員のつどいが大きな成功をおさめた背景には、校長が夜の会議をさせてくれたり、「母親にあわせて話をする」、「むずかしい話をしない」という婦人教員側のとりくみが功を奏したことや、戦前の家父長的な社会から婦人、母親が自立する契機となり、つどいでの話題も子育てや日常のいろんなことが話され共感を持てる場になっていたことが考えられるのではないかとする意見も出された。戦前は、女性がそのように自由に話し合うことができなかったことが戦後の民主化過程で、その壁が打ち破られ、その中から子供と教育を守るための要求が出され、そのエネルギーが1950年代の「お母さんと手をつなごう」という地殻変動的な運動の土台となったのではないだろうか。

5月例会報告 櫻澤 誠さん(大阪教育大准教授) 「沖縄戦後史から何を学ぶことができるか」

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沖縄史研究と新崎盛暉
 いま沖縄に関する研究は、政治史、運動史、思想史、文化史などさまざまな分野で非常にさかんであるという。 櫻澤さんは新潟県の出身であるが、大学で近現代史を専攻し、従来の日本史の枠を超える部分に関心を持ち沖縄をテーマに絞って研究をはじめた。1950〜60年代に現職だった教員に聞き取りをするなかで、沖縄戦後史研究の第一人者新崎盛暉の史観に違和感を覚えた。新崎は、『沖縄戦後史』(中野好夫と共著)、『沖縄現代史』、『日本にとって沖縄とは何か』(いずれも岩波新書)などの著書で、日米両政府とそれをささえる日本国民による「構造的沖縄差別」の存在を示し、沖縄の民衆運動が沖縄史をつくる主体であり、1950年代後半の「島ぐるみ闘争」(注:軍用地料一括払い反対、適正補償要求、損害賠償請求、新規接収反対の4原則の闘争)、1970年前後の沖縄闘争、1995年の少女暴行事件後の展開を運動の転機としている。このように民衆運動を中心に置く一方で、1972年の沖縄返還から1995年の間が「20年の空白」となっているのが特徴である。「空白」とは、歴史研究において民衆運動を中心に置いているため、運動の画期が見出しにくいこの時期の歴史がよく検討されていないことを指す。

「1995年インパクト」と沖縄史研究の新しい段階
(1)森宣雄、若林千代、鳥山 淳の研究−新崎の継承、民衆運動の視点から
 1995年9・4の米兵による少女(小6)暴行事件を契機に、反基地感情が爆発し、大田知事は代理署名を拒否し、8万5千人を集めて県民総決起大会が開かれた。その後沖縄研究が活発化した。背景には沖縄への問題意識の高まり、米側公文書の公開、沖縄県公文書館の開館など史資料環境の改善、歴史学をはじめとする人文科学の多様なアプローチがおこなわれるようになったことが考えられる。それには、これまでの固定的な民族論の影響からはなれて、日本史の中での沖縄の位置を見直す視点が出てきたことなども考えられる。民主党政権下で沖縄密約問題の調査、資料の開示が行われたことの影響も大きい。
 以後、沖縄史研究に新しい世代が登場しはじめた。単著に限定すると、まずは、森宣雄、若林千代、鳥山 淳が第一世代である。森は「民衆運動史」という新崎の視点を継承し、「1950年代は前衛党の時代、1960年代は復帰協が前衛を担い、1970年代以降は中心を持たない同心円状にひろがるネットワークの時代」としてとらえるが、1972年〜1995年は「20年の空白」で、1995年以後の展開となる。
  若林は、「沖縄に関する米国(軍)の政策決定過程や軍政の実態について、アジアでの位置づけを重視して」検討し、「沖縄の『受益層』と民衆の区分を前提に戦後沖縄における双方の出発点を論じた」。大政翼賛会出身の者が知事になったり、那覇警察署長出身者が優遇されたり戦前戦中のブラックリストを米軍が利用して戦後の統治に生かしている問題にも触れている。鳥山 淳は、1945〜51年の琉球政府発足までを新たな史料を利用して描き、平地がほとんど基地に奪われる中で農業が不可能になる一方、基地経済への依存など農村社会の危機感を明らかにし、「『抵抗』(革新)と『協力』(保守)の二極対立を相対化し自治と復興をめぐる願望の潮流を描いた」。若林と鳥山はいずれも戦後初期に焦点を置いている。

(2)平良好利、櫻澤 誠の研究−保革の対立をこえた視点・オール沖縄へ
平良好利と櫻澤 誠は、「民衆運動」を歴史の中心に置いた新崎の視点からは前の三人より離れた位置に立つ見方といえる。
 平良は「徹底して軍用地問題にこだわりながら、『受容』と『拒絶』の二項対立ではなく、そのはざまで苦闘する沖縄政治指導者の姿を描き出し」、「島ぐるみ闘争」(1956年ころ)から1958年の占領政策転換(注:アメリカの高等弁務官制への変更にともない、沖縄住民の生活水準を日本の県並みにすることで本土復帰要求の高まりを未然に防ごうとした。)までの過程について、これまでアメリカの圧力により保守が「島ぐるみ闘争」から抜けることで運動の勢いがなくなり、1958年に不本意な合意があったという考え方に対して、新資料にもとづき1956〜58年の間もたたかいは動いており、背後で日本政府の関与もあってアメリカとの交渉が行われ、占領政策の転換があったとする見解を示している。また沖縄返還時の軍用地地主と日本政府との再契約交渉が行われた過程についても初めて詳細な検討が行われた(注:復帰前は米国が地代を支払っていたが、復帰後は日本政府が安保条約と地位協定に基づき土地を提供するので、日本政府が地代を支払うことになり、軍用地主と日本政府との間に新規賃貸契約交渉が行われ、復帰前の約6.5倍の地代を実現した)。
 櫻澤は、新崎が「民衆運動」(=革新陣営)を中心とする沖縄の歴史を描いたことに対して、「島ぐるみ闘争」のように保革の対立する人々が8割以上団結してまとまる時があることに着目した。そこで、沖縄における保革を次のように定義する。沖縄での「保守」的立場とは、「基地を受忍すること」しかし「基地拡張には反対し、補償を要求すること」とし、「革新」的立場は、「基地反対、基地撤去を要求すること」であるが、両者は単純に対立するものではないとし、「革新」的立場は「保守」的立場の発展過程ととらえることも可能だとする。現在のオール沖縄に至る歴史と沖縄の未来は、まさに保守革新をこえた沖縄民衆のしたたかな動きの中から創り出されるものなのであろう。その背景には、1995年少女暴行事件以後の反基地意識の定着と拡がり、本土への怒りと幻滅があり、70年代以後の世界的な民族・国家認識の変化の影響のもとで前近代琉球の王国としての自立した歴史への再評価、その後の「琉球処分=日本への併合」、「日本復帰=第3の琉球処分」という歴史認識のひろがりがある。
 編集者は、翁長知事誕生の選挙戦後半に同僚と応援に駆けつけて、その時まさに保革を超えた躍動するオール沖縄の姿を目撃し大いに元気をもらった。そして、これが沖縄の未来であるとともに日本の未来のあるべき姿なのだと確信させられた。それは実際その後、野党共闘として本土でも実践されるようになったが、そう簡単ではない。しかし、保守革新を超えて人々が手を結び合う、あの複雑で困難な過程を経てきた沖縄の経験を今学ぶことこそが大事だろう。 報告に紹介された沖縄研究者の著書を紹介します。
森宣雄
  『地のなかの革命−沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画室2010) 『沖縄民衆史−ガマから辺野古まで−』(岩波現代全書2016)
若林千代
『ジープと砂塵 米軍占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦1945〜1950』(有志舎2015)
鳥山 淳
『沖縄基地社会の起源と相克1945〜1956』(勁草書房2013) 平良好利 『戦後沖縄と米軍基地 「受容」と「拒絶」のはざまで1945〜1972年』(法政大学2012)
櫻澤 誠
『沖縄の復帰運動と保革対立−沖縄地域社会の変容−』(有志舎2012) 『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜−政治結合・基地認識・経済構想−』(有志舎2016)『沖縄現代史−米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで−』(中公新書2015)

6月例会報告 (6月25日 明日香村フィールドワーク)山内英正さん(会員・犬養万葉記念館運営協力委員・白鹿記念酒造博物館評議員) 「袖吹き返す明日香風ー歴史と万葉の飛鳥探訪」

雨の明日香村をゆく
 故犬養 孝先生(大阪大学名誉教授)は全国の万葉歌の故地を訪ねて名著『万葉の旅』など貴重な著述・記録を多く残されると同時に、地元民と協力して歌碑をつくり、万葉の風土と景観を守る全国的な運動の先頭に立たれた。とりわけ「飛鳥保存問題には終生情熱を傾けた」(山内英正『万葉 こころの風景』)。山内英正さんは大阪大学文学部の学部生・院生のころから社会人となっても犬養氏のもとで三〇余年間「秘書」役として 行動を共にされた。今回は、その山内さんの案内による明日香をめぐるフィールドワークである。
 当日は、あいにくの雨であったが、雨中の明日香もなかなかいいものである。当日のコースは橿原神宮前駅からバスで豊浦駐車場(古宮(ふるみや)遺跡)→豊浦(とゆら)寺→甘樫丘(あまかしのおか)→明日香村埋蔵文化財展示室→犬養万葉記念館→四神の館・キトラ古墳→飛鳥資料館→山田寺址→大原神社→飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)の行程。4名の参加者の中で堀 潤さんが大阪の阪南市から車で来られたので途中合流し、雨の中でも迅速に行動できた。
 豊浦駐車場で山内、二宮両氏を待つ間、となりの水田のあぜ道に降りて土の表面をざっと見てゆくと「あった!」、須(す)恵(え)器(き)(朝鮮半島から伝来した登り窯の技術で1000度以上の高温で焼成された土器)の破片を6〜7個ひろうことができた。ここは「古宮(ふるみや)遺跡」で、小墾田宮(おわりだのみや)の候補地と考えられてきたが最近は蘇我氏の庭園跡の可能性が有力視されている。水田の中にケヤキの古木が一本こんもりした小山に立っている「古宮土壇」が庭園遺構とされる。ここから数分歩いて豊浦(とゆら)寺。推古天皇が603年に豊浦宮から小墾田宮に遷ったのち豊浦寺(飛鳥寺と一対の尼寺)が創建された。現在は向原寺となっているが、講堂の西南角付近から掘立柱建物(豊浦宮の遺構か?)と石敷が発見され、創建当時の基壇建物と確認された。現在発掘当時のようすを見ることができる。ここから雨に濡れる青いあじさいの花や木立の中を歩いて甘樫丘(あまかしのか)に向かう。

雨の中の暗殺劇
 そういえば「乙(いつ)巳(し)の変」(645年6月12〜13日)当日も雨が降っていた。最近は蘇我入鹿暗殺、蝦夷自害の蘇我本宗家が滅亡した事件を「乙巳の変」、孝徳朝(645〜654)における一連の改革を「大化改新」と呼んでいる(市 大樹「大化改新と改革の実像」)。
 『日本書紀(巻二四)』には、「佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。」  暗殺者たちが入鹿を斬り殺したその日、はげしく降る雨水が板蓋宮の庭にあふれるように流れていた。入鹿(鞍作)の屍はおそらくその下で、そまつなむしろを張った衝立のようなものでおおわれていただけという。入鹿の遺体が雨の中放置されている情景は、戦慄を感じさせるほど非常にリアルで事件が実際にそのように起こったことを彷彿とさせる。雨の中登った甘樫丘の展望台のふもとには火災に遭った建物の遺構が発見された(甘樫丘東方遺跡)。これは、中大兄らが入鹿暗殺後、蘇我蝦夷宅を包囲した際に焼け落ちた邸宅の跡と考えられている。

景観と自然環境を守ったシンボル、第1号歌碑
 甘樫丘の上からは明日香の四方と歴史の流れも見渡せる。丘の北に天香久山、そのさらに北に耳成山、飛鳥川をはさんで雷丘、西に畝傍山、劍池、東側に旧飛鳥村の集落と、その南が真神の原。傘をさしながらの山内さんのくわしい解説によると、1956年に飛鳥、高市、阪合の3村が合併する際に、「飛鳥」の名に統合されることをきらった他の2村を納得させるために犬養氏が助言して「明日香村」となった。今目の前に見える飛鳥村の集落は合併前の狭義の「飛鳥村」で、背後の音羽山、多武峰、八釣山の稜線にかぶさるように白い雲が立ちこめている。ここが飛鳥の中心部で、付近には飛鳥浄御原宮、飛鳥大仏のある飛鳥寺安居(あんご)院、飛鳥坐神社などがある。
 飛鳥時代もこれに近い田園風景だったのだろうと想像するが、甘樫丘は数十年前まで全く自然の丘で、駅まで尾根道が続いていたという。犬養先生は年6回「大阪大学万葉旅行の会」を主宰、学生を連れて現地での講義を行った。まだ草木が生い茂る甘樫丘を500名もの学生が登ったこともあるという。その後現地は住宅開発などで変化し、ホテル建設の計画が持ち上がったりしたが、景観と自然環境を守るための住民運動に犬養氏も協力、三名の地主も土地を売らなかったという。

 「采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」                 (巻1−51)志貴の皇子

 1967年、甘樫丘の中腹に犬養 孝先生の揮毫第1号の歌碑が建てられた(写真)。歌は天智天皇の第七皇子志貴皇子が古都飛鳥への追想を詠んだ和歌である。歌碑は明日香を景観・自然環境破壊の開発から守るために犬養氏と住民たちがたたかった抵抗のシンボルでもあった。この和歌に黛敏郎が曲をつけ、阪大の混声合唱団が歌った。学生たちは、この曲を「采女」の愛称で呼んだ。山内さんは、その混声合唱団の一員であったが、二回生から「万葉旅行会」の委員となって以来犬養先生の「書生」役を勤めてこられた。

犬養万葉記念館
 甘樫丘の明日香川をはさんで向かい側にある飛鳥村埋蔵文化財展示室は旧飛鳥小学校講堂跡で、上記の第1号歌碑の除幕式典があったところである。見学のあとわたしたちは車で明日香村中心部にある「南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館」を訪ねた。もと南都銀行であった建物を寄贈され、記念館に改装し2000年4月に開館した。門の横に犬養先生のすがたの手作り人形が坐って出迎えてくれる。
 記念館には開館記念碑「萬葉は青春のいのち 犬養孝」と生誕百年記念碑「あすか風」とともに「十市皇女(とおちのひめみこ)の薨ぜし時に、高市皇子(たけちのみこ)尊の作らす歌三首(の一)の歌碑がある。

 「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」(巻2ー158)

 歌にある山吹の垣根が記念館のエントランスにつくられているが、山吹の花の黄色は黄泉(よみ)の国を象徴しており、高市皇子が「山吹のさいている山の清水を汲みに行きたいが、(死者の国に)行く道はわからない」と亡くなった十市皇女(とおちのひめみこ)を悼む気持ちを詠んでいる。
 
山吹の花が咲く頃また記念館を訪ねたいと思う。館内では簡単な食事も可能である。2階は犬養孝先生の資料館となっている。資料中に台北高等学校の教授時代の写真、たばこの「光」「憩」などの箱でつくった萬葉がるたなどの珍しい資料のほかに阿蘇山が 噴火した際の溶岩の破片と阿蘇噴火の噴煙の写真という異色の資料が展示されている。犬養氏は熊本の第五高等学校に在学のころ阿蘇山の研究にも熱中していた。1929年1月の大噴火の時、学校を休んで火口に登り命がけで第4火口を覗いたという。「この体験が終生、『生』の原点となり、挫けそうになった時には阿蘇の噴煙を思い浮かべたという。」(山内前掲書)。

キトラ古墳壁画体験館
 高松塚に続いて、畿内において古墳石室に四神などの壁画が発見(1983年)されたキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)は明日香村の西南部、檜隈寺址のすぐ南側にある。檜隈は渡来系氏族の雄、東漢氏(古くは朝鮮半島南部の加耶地域から渡来し、のちに百済系の手工業者集団を統括したとされる)が居住した地域である。現在周辺は国営飛鳥歴史公園として整備され、 キトラ古墳壁画体験館・四神の館がオープンしたところである。 古墳は発掘調査を終えて古代の大きさと形、二段につくられた直径約13m、高さ約3.8mの円墳に美しく復元整備されている。期間限定で文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設(四神の館1F)でガラス越しに壁画実物を見学することができるが、あいにく今回は公開されていなかった。壁画は北壁の玄武、南壁の朱雀、東壁の青龍、西壁の白虎と天井に描かれた東アジア最古といわれる天文図や動物の頭と人間の身体を持った十二支の図である。天文図に描かれた星座は古代中国の夜空の星々である。

飛鳥資料館、山田寺址から飛鳥坐神社へ
 さて飛鳥中心部へ再びもどり、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館に向う。資料館入口前の広場に、巨大な「須弥山石」、「石人像」、「酒船石」などのレプリカが立つ。これらの石造物の正体はいまだ明確にされていないが、噴水の装置(須弥山石、石人像)のあることが確認され、斉明朝のころの迎賓館の施設、ササン朝ペルシャ渡来のゾロアスター教関連の施設など諸説が語られている。館内で最も注目すべき展示物は、山田寺東回廊が倒れたまま地中にうずもれていたものを発掘し保存処理(柱間3間分)して展示したものだ。7世紀当時の寺院のようすを目の当たりにすることができる。12世紀に興福寺にもってゆかれた日本史教科書で必ず見た丈六の仏像仏頭のレプリカも置かれている。資料館のすぐ東側、山裾に草原がひろがるところに山田寺址がある。蘇我倉山田石川麻呂の発願で建立され、讒言により石川麻呂が自害した後、683年天武天皇の頃に完成した。南門、中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ広大な寺院であったことが実感できる。発掘の結果、中門両脇からのびる回廊は金堂と講堂の間を通っており、回廊で講堂は僧の学びの場、回廊内は仏の空間とわけられていたことがわかった。飛鳥資料館で展示されていた東回廊が倒れていた場所も現地で確認できた。
 山田寺址からすぐ南に大原の里、大原神社がある。神社裏に藤原鎌足が産湯をつかったという伝承地があり、確かに神社裏手の谷に井戸が2つあった。行く途中、奈良大学の上野 誠先生が学生を数人連れて説明しているところに偶然出会った。  ここから最後の見学地、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)に到着。『書紀』には686年にすでに四座がまつられていたという飛鳥の神奈備(神の降臨する場所)で延喜式内神社。2月に行われる「おんだ祭」では天狗とお多福が夫婦和合の少しエロチックな祭祀儀礼を演じることでも知られる。境内には犬養揮毫歌碑51号がある。

「大君は 神にしませば 赤駒のはら ばふ田居を 都となしつ」(巻19-4260)大伴卿

 壬申の乱は、672年6月22日大海人皇子による美濃国での挙兵、不破の関の封鎖にはじまり7月22日瀬田橋の戦いで近江方が敗れ翌23日大友皇子(十市皇女の夫)の自害により終わった。この内乱に勝利して天皇となった天武天皇を神と讃える歌で、飛鳥浄御原宮に都を置いたころに詠まれた歌。作者は壬申の乱で功績のあった大伴御行。この歌碑は1998年の台風7号で倒壊した檜の巨木で押し倒され、2010年に元の場所に再建された。
  雨はすっかり止み、夕暮れがせまっていたが、これほど明日香を濃密に歩いたことははじめてだった。そして歴史に書かれなかったことを万葉集で知ることができるということも実感した。これも山内先生の万葉歌を朗唱しながらのくわしい解説のおかげだ。最後に村の人の親切なこころにもふれて本日のフィールドワークは終了した。(H)

「十市皇女(とおちのひめみこ)事件」(編集部)
十市皇女は大海人皇子(のちの天武天皇)と額田王の間に生まれた皇女で大友皇子(天智の皇子で大海人皇子の敵方)の妃であった。高市皇子は大海人皇子と胸形君徳善の娘の間に生まれた皇子(母親としては卑母=皇族ではなく身分が低いとされる)で壬申の乱の際、大津京を脱出して大海人皇子側に加わり同皇子から全軍の指揮をまかされた。『日本書紀』によれば、天武七年四月七日、天武が斎宮《天皇自ら神事を行うために籠もる場所》に向かうために群臣を率いて午前4時頃に出発しようとしていたときに十市皇女が急死した。その死因は不明である。このため、天皇の行幸は中止となり祭祀も中止となった。このことについて北山茂夫は以下の考察を述べている(『天武朝』中公新 書)。大友皇子自害の後、天武のもとに帰された十市皇女は、伊勢斎宮に送られるべく倉梯の河上に建てられた斎宮に赴こうとしていた。その日に自害を遂げたとする。その背景について北山は、まず高市皇子と十市皇女の間に恋愛感情があったとする。それは高市皇子が十市皇女の死後に三首の挽歌(一首は上記の歌)を詠み、抑えがたい思慕の情を示しており、井上通泰がこれについて「此三首の御歌によればいと親しき御中ならざるべからず。よりて思ふに、大友皇子崩じ給ひし後十市皇女は高市皇子と逢ひ給ひしならむ」(『万葉集新考』)とする意見を紹介している。そして、この事態を知った天武と皇后(のちの持統天皇)は両者の間に生まれた草壁皇子の立太子(皇太子として天武後の皇位継承者とする)に臨んで、皇親系の額田王の子十市と壬申の乱の最大の功労者である高市の接近、婚姻は有力な皇位継承の可能性を持つ者の登場でありなんとしても避けなくてはならないことであったとする。その解決策が十市の強制的な斎宮入りであった。伊勢の斎宮に仕えるということは神に嫁ぐということであり二度と高市とは逢うことはできない。これが斎宮に送られるその日の明け方に十市が急死し、遺骸は七日後には赤穂(奈良市高畑?)にあわただしく埋葬されるという異常な事態の背景であるとするのが北山の見解である。北山は「皇女の自害だ、と断言して誤りあるまいとおもう」としている。

7月例会報告 福田 耕さん「近代日本における乳業の発展−関東地方における一乳業家を例に−」

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牛乳と日本人
 日本人がはじめて牛乳を飲んだのは飛鳥時代にさかのぼるらしい。大化の改新で大王 なった孝徳帝(7世紀後半)が渡来系 の人から牛乳をすすめられて飲んだと のこと。しかし、その後天武天皇(7 世紀末)の「肉食禁止令の詔」などに はじまり江戸時代をつうじて、日本人 は肉や牛乳の飲食からは(表向き)遠 ざけられてきた。
 事態が大きく変わったのは、幕末開 国と明治以後の日本近代化の時期であ った。開国後、横浜などの居留地に住む外国人が牛肉や牛乳を求めるようになり、それに影響されて日本人も牛乳や肉食に関心を持つようになり、日本における乳業や食肉事業が開始されるようになった。
  今回の報告は、乳業の発展から見た日本近代の幕開けについての歴史である。

日本最初の乳業
 現在の千葉県出身の前田留吉はオランダ人のスネル兄弟に雇われて搾乳業を学び、1866年に和牛6頭の牧場を開いた(図)。まだ攘夷論があって、牛乳には毒が入っていると言いふらす者もおり、先ず子供や病人から普及させ、3年後にはようやく商売が成り立つようになった。戦前の東京の搾乳業の大半は千葉県出身者であった。
 1871年、「殺生肉食禁止令」が解かれ、1873年、日本初の「牛乳取締規則」が東京で公布された。同年、牛肉商の組合が警視庁の内示により設けられ堀越藤吉が頭取になった。1887年には明治天皇に牛肉が献納された。1900年都市部から郊外へ牧場が移転され、地方の酪農業が盛んとなってゆく。それまでは東京都内にも多くの牧場があったらしく、今では想像もできない風景が見られたことだ。

牛乳普及をめぐるさまざまの見解
 松本良順は長崎で医学を学び、日本最初の私立病院「順天堂」を開設し、将軍の侍医、維新後は陸軍初代軍医総監となった人物である。彼は、1867年に出した建白書の中で、「新鮮の牛乳は、無比の滋養品にて、虚労又は絶食の病気に相用、誠に回生肉骨の妙効有之候。小児の母乳無之者を養育致候に於て天下絶て比類無之候。牛肉は人間食物中最第一の滋養品にて、人身を補ひ、身体を健にし、勇気を増候もの」と主張している。国学者の近藤芳樹は、1872年『牛乳考・屠畜考』で、日本で牛乳を用いはじめたのは「孝徳天皇乃御代」とし、天皇も飲んでいたのだから牛乳を忌み嫌う風潮はおかしいと主張している。維新後の政府にとって牛乳業は失業した旧士族救済と近代化の方向に添うものであったので、大久保利通は牧畜、乳業の推進を指示している。

乳業のはじまりと、ある酪農家の歩み
 1900年頃の東京市内には、牛乳業者が約300軒あり、ほとんどは牛10頭前後の経営であった。当時、乳牛は一頭平均250円(現在は一頭約50万円)で、1日7〜8升(12.6〜14.4リットル)の牛乳を生産できた。牛と設備をあわせて3000円ほどの資本が必要であった。平均的な乳業家の一ヶ月の利益は114円15銭ほどであった。  報告後半では、当時関東で乳業経営を行った松次郎という人物についての紹介があった。松次郎は、江戸時代に日光例幣使街道(江戸期に京都の朝廷から例幣使《幣帛を運ぶ勅使》が日光東照宮に向かう際に利用した街道で中山道から分岐、日光に向かう街道)で運送業を営む松の屋の次男で、横浜・東京・栃木・群馬で食肉業、酪農業を営んだ。
 彼は11歳の時に横浜へ行き、のちに東京・京橋区で河合万五郎の牛肉屋・牛鍋屋に勤め、肉の扱い方や西洋料理を学んだ。いったん故郷にもどるが、1871年、「殺生肉食禁止」が解かれ洋食ブームが起こると再び東京へもどった。当時故郷の栃木県でも酪農がさかんとなり、1878年に官立那須牧場が開設され、1897年頃から古峰ケ原高原や横根山高原一帯でも牧場経営が行われていた。
 松次郎は1880年までに東京から帰郷し、横根山に牧場を開き久治良に牛舎を持ち牛乳店を開いた。日光の下河原にも牛舎を持ったが1902年の洪水で流された。日光は明治期に外国人の避暑地として開発され、外国人専用のホテルや別荘ができていた。そこで、西洋料理や牛乳の需要が高まることとなる。1907年発行の『栃木県営業便覧』には、安川町の本町付近、石屋町に松次郎の牛乳搾乳所が記されている。「御登晃中両殿下御用」とあるので、皇族の日光訪問中、牛乳を献納していた指定業者であったことがわかる。
 1902年に養子をむかえ、日光の牧場をまかせて自らは足尾に移り、足尾銅山で活況を呈していた足尾で西洋料理屋と牛乳屋をはじめた。1916年、松次郎の出した広告には、「牛豚肉 牛乳搾乳 卸小売商 足尾町下間藤」とある。
 松次郎は、子どもたちに事業をまかせ、1921年頃には群馬に移り、そこでも新たに牧場経営を行っている。1931年に74歳で亡くなるが、晩年まで開拓した事業は子孫に任せ次々と新たな経営を拡大してゆくエネルギッシュな経営者であった。それは、まるで維新以後の近代化を旺盛にすすめてゆく日本社会のすがたとも重なって見えるようだ。
 質疑は活発に行われ、史料の不足という事情もあって日本の近代史の中で乳業の分野の調査がまだ十分すすんでいないことも明らかにされた。その意味で今回の報告は貴重な内容であり、今後よりくわしい調査研究が期待されるところである。

8月例会報告 横山篤夫さん(会員・元ピース大阪研究員)「シンガポールの忠霊塔」

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「戦没者慰霊」の意味するもの
 近代以後の日本の軍と政府が戦死者をどのように扱ったか、そのことを解明することで戦争と国家、国民との関係が見えてくる。横山さんは、そのような問題意識を持ちつつ戦没者慰霊、特に忠霊塔の歴史に注目した。戦没者慰霊には三つの類型があるという。@靖国神社に代表される「祠堂型」、これは霊魂の存在を前提として戦死者を神として祀る。遺体や遺骨は「穢れている」といいう発想から持ち込まれない。A「記念碑型」、B遺骨を祀っている「墓地型」、これは軍が祀るもの、遺族が祀るもの、家の墓地にあるものなどさまざまな型がみられる。ガダルカナル戦以後は遺骨はほとんど帰らず、木箱に石が入れられていたり、紙に 「○○の霊」と書いたものが送られてきたりした。現在、靖国だけが戦没者の慰霊の対象として特化される状況はおかしく、遺族の了解も取り付けていない。
 忠霊塔は「墓地型」に分類される(これについては質疑の中で意見が出されたが、後述する)。歴史的には日清日露戦争以後中国大陸につくられるようになった。日露戦争中、遺骨の一部は本国に返され、残りを満鉄路線の各都市に忠霊塔をつくり、そこに分骨した。1939年以後、陸軍大将格の軍人を先頭に準政府機関的な組織による忠霊塔をつくる運動がはじめられた。満州事変以後、巨大なモニュメントが顕彰碑としてつくられるようになった。満州地域に10基、上海以外の中国内では北京、張家口、南京の三カ所に設けられた。

 シンガポール占領戦
 シンガポールの忠霊塔については、まとまった研究論文が未だない。横山さんは、わかる範囲で調査し、まとめている時にさまざまな情報提供があった。そのなかに、シンガポールにも忠霊塔があることがわかった。  アジア太平洋戦争は、真珠湾奇襲攻撃で開始されたというのが一般の常識である。しかし、真珠湾よりも1時間半早くマレー半島のコタバルに日本軍が上陸していたことはあまり知られていない。シンガポールは、当時はまだ帝国主義世界支配秩序の中心にいたイギリスのアジア支配の拠点であった。日本軍は海上から攻撃してくるとのイギリスの予想に反して、日本軍の銀輪部隊がコタバルから南下して10日間でシンガポールを攻略した。日本軍(山下奉文麾下の第25軍6万人)は紀元節にあわせて攻略せよとの命令を受けていたという。イギリス軍(最多の4〜5万人のインド人、英人、マレー人 などの混成部隊で13万8000人)の先頭はインド人部隊で、後方のイギリス人部隊は逃げ腰となり、まっさきに崩れた。イギリス人部隊の腰砕けに対して頑強に戦ったのが、華僑の中国人からなる義勇軍「ダルフォース」であった。シンガポールの人口構成は現在、中国人75%、マレー系14%、インド系9%、その他2%で、当時とあまりかわっていない。孫文が現地で中国人の団結を呼びかけ、以後、シンガポール華僑は日本と戦う蒋介石に支援金を送っていた。「ダルフォース」とは、イギリス軍将校の指導下につくられた華僑の中国人部隊であった。華僑の部隊の粘り強い抵抗に驚いた日本軍は、この部隊に関わる不確かな名簿を手に入れ、名簿と中国人を照合し、敵対する華僑の掃討作戦を行った。このとき、華僑数千人以上が殺された。その遺体が、現在のチャンギ国際空港滑走路付近の海上に流れ着いたという。シンガポールでは、このような日本軍の行った行為が教科書にくわしく記述され生徒たちが学んでいる。一方で、日本からの観光客(最近は中国に次いで2番目の数)は、そのような歴史事実は知らずに楽しんでいる。

  忠霊塔の建設
 日本軍のシンガポール占領時の戦死者は、シンガポールで1500人、マレー半島で2000人の計3500人であった。一方、イギリス軍側は23000人でクランジ戦没者共同墓地に、すべての戦死者の名前が刻まれた墓碑が建てられている。
 日本軍は1942年2月15日のシンガポール占領後、同地を「昭南特別市」と改称し、「大東亜戦争英霊」の顕彰と占領者のシンボルとして「昭南忠霊塔」と「昭南神社」の建立を行った。これはアジア太平洋戦争(「大東亜戦争」)後の最初の忠霊塔建設と位置づけられた。しかし、同年6月のミッドウエー海戦、10月のガダルカナル島戦の大敗後は忠霊塔どころではなくなった。新聞記事からは大日本忠霊顕彰会の記事は激減し、軍用機の献納記事などが取り上げられるようになった。次々に建てられるはずだったジャワ、フィリピン、ビルマなどの忠霊塔は幻に終わり、「昭南忠霊塔」の合祀対象が拡大され、マレー・シンガポール占領戦の戦死者3500人に加え、アジア太平洋戦争初期の戦死者約6500人も入れて約10000人が合祀されたとも考えられる。

忠霊塔の爆破と遺骨の放置
 1945年8月15日の敗戦後、日本軍は撤収前の25日に「昭南忠霊塔」と「昭南神社」を爆破破壊した。敗戦直後はイギリス軍はすぐに来られず9月到着であった。それまでは日本の警察が治安維持を行ったが、日本軍が忠霊塔を爆破したのは、その間の出来事であった。その時期に忠霊塔から1万人近い遺骨を日本人墓地に移すことが可能であったのかはわからない。  第一次大戦後のヴェルサイユ条約に、戦没者の遺骨に関する協定が定められている。第225条に「各其ノ版図内ニ埋葬セラレタル陸海軍軍人ノ墳墓ヲ尊重シ且保存スヘシ」とあり、もっとも多数の戦死者を出したドイツ、フランスの兵士の墓は各戦地の埋葬地に保障されている(一方、トルコ兵士の墓地はつくられていない)。
日本の場合、奉天の遺骨数万人分は返送され、これらが東京千鳥ヶ淵の墓地の起源となった。外務省の方針は、日本の現地の墓地は撤去して返送するというものであったが、戦後GHQが米軍管理地の日本人戦没者の遺骨の状況を日本政府に報告しているが、日本政府は対応しないままであった。 日本軍が行った「昭南忠霊塔」の爆破、GHQの報告になにも対応しなかった日本政府の態度などから何が見えてくるだろうか。声高に「英霊」を祀りあげておきながら、忠霊塔を爆破した軍も、戦地の無数の遺骨に見向きもしなかった政府も、人をただ戦争のための捨て駒に利用するために様々な舞台装置をあつらえる魂胆だったのだ。我々は二度とだまされてはいけないだろう。靖国神社とはまさにそういうものの象徴ではないだろうか。

質疑から
 報告後、活発な質疑が行われた。まず戦没者慰霊について3類型ではっきり分類できるものか?たとえば忠霊塔は「墓地型」とされるが、これも「英霊」を顕彰する目的があるのではないか?忠霊塔が爆破される前に遺骨は移したのか?移さず爆破したのか?日本は遺骨回収に消極的なのか?アメリカは遺体を丁重に扱い、遺骨の回収は熱心に行うが、イギリスは現地で墓地をつくるなど、現地埋葬型と遺骨持ち帰り型など国によってちがいがあるのでは?などの疑問が出された。
 これらの疑問に対しては、3類型のように「すっぱりとわけることはできない」、個人の墓は、個人の人間としての個性をあらわしているが、合葬された墓碑は、「英霊」として一括されていると考えられる。日本はあまり遺骨にこだわらない国民性があったが、むしろ近代以後遺骨にこだわるようになった、など報告者からの回答があった。
 報告者も言われるように、忠霊塔の問題は過去にまとまった研究がなく、まだこれから調査研究を積み重ねてゆくことが必要な分野である。しかし、その解明は国家と戦争、国民と戦争の関係をあきらかにする上で重要な意味を持っている。横山さんの今後の研究成果を期待したい。

9月例会報告 後藤正人さん(会員・和歌山大学名誉教授)「神仏分離令の様相−高鍋藩を中心に」

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基礎的研究と各藩の様相
 1868(慶応4)年3月17日(改元は9月8日)に明治新政府から発せられた「神仏分離令(神仏判然令)」についての研究の基礎となったのは、辻善之助他編『明治維新神佛分離史料』(1926〜29年)と、この史料に基づく、辻善之助『神佛分離の概観』(1924年)であった。これによれば、藩知事が自ら関係する寺院を廃棄して範を示す(松本)、615寺中439寺が廃寺された(土佐)、廃仏が徹底され僧侶が兵員とされ没収財産は軍事費となった(薩摩)などの例があげられ、一方神仏分離に対する激烈な反対の動向や本居・平田派の国学の影響なども紹介されている。
 戦後の研究では、圭室文雄『新編明治維新神仏分離史料』 や安丸良夫「近代転換期における国家と宗教」(『宗教と国家』)は神仏分離が神社から仏教色を取り除くためだけではなく、「神道国教化」(圭室)、「新たな国教体制」(安丸)をめざすものととらえている。宮地正人は「太政官布告三三四号により無檀無住の寺院は廃止され、跡地処置の儀は大蔵省に伺い出るべしとされるのである」(『国家神道形成過程の問題点』)とし、これらの指摘は重要である。

個別藩の様相−高鍋藩
 従来の研究では個別藩に即した神仏分離令の研究が欠けていた。日本では神仏習合がすすんでいたため神祇信仰と仏教が融合し寺院は寺地の神を祀り、神社は神宮寺を建て、仏と神の関係を説明する「本地垂迹説」が普及していた。神仏分離令のもと、「神社から如何にして寺号を抜き、住職を廃止し、仏像・仏具を取り出したか、住職や仏像などはどうなったのか、また寺院から神道を如何に取り出し、神社へ神主が如何に任命されたか」などの具体的な問題の解明と神仏分離令は「信教の自由」とどのように関わるのかという問題の解明などが求められる。
 後藤さんは、神仏分離令との関わりで従来未検討であった明治初年の高鍋藩の日記「藩尾録1〜4」を中心に個別藩の状況を分析している。

(1)1868年(慶応4・明治元)の神仏分離の様相
 3月17日、神社から僧侶の追放を指示する通達、同年3月28日には神仏分離に関する法令、4月10日には、神社の仏像・仏具の撤去とともに社人と僧侶の間の不和、 いさかいが無いように指示する法令、同年9月18日には神仏混淆の禁令が出されている。高鍋藩では3月4日に、比木神社が「真言宗持」であったのが「唯一神道」とされ、神仏習合ゆえに「長照寺号」を廃止されている。仏躰・仏具は藩主と関係深い日光院へ納められた。神仏分離令布告の前後から神仏分離政策は始動していた。

(2)1869年(8〜12月)の様相
 1869年6月に版籍奉還が行われる。藩主は知藩事となり、太政官宛に@経営困難な寺を廃寺とする、A無住の寺院は撤去する、B仏葬から神葬に変え、邪宗(キリシタン)は厳しく取り締まること、の3つの伺いを出した。9月23日には、神道主義を藩政の重要政策とするため、堺県から神道家の名波大年を雇い入れ、藩校での神道の講義、藩内の神仏分離の監視、推進などが行われ神道の普及がはかられた。一方で、寺院の宗旨人別帳作成が止められ、寺院による民衆掌握の廃止につながった。

(3)1870年(1〜6月)の様相
 「円実院が還俗して・・・神主を命じられ」とあるように僧侶が強制的に還俗させられ、おまけに神社の神主を命じられたという事態も生じている。知藩事家の菩提寺である大龍寺と龍雲寺の住職は、その「悪事」なるものを理由に住職の位を剥奪され罰金を科せられた。知藩事家は葬祭について仏法をやめて、神葬祭に変更し、そのために神殿を造営することになった。大龍寺と龍雲寺の本尊諸仏などは檀家の祠堂に「当分始末する」こととなった、など。これらの動きに対し、江戸の崇巌寺(初代・2代藩主墓所)では1871年より廃寺の指示が出されたが、同寺院より嘆願書が出され、寺号廃止、復飾(還俗のこと)の儀は当該住職一代限り差し置かれることになった。ちなみに大龍寺と龍雲寺、安養寺の3つの藩主菩提寺は現在、墓地だけ残っている。

(4)1870年(7〜9月)の様相
 神道・「皇学」政策が各方面に浸透した。国学修業者が宮田社神主となり、小丸地蔵が仏体を取り除き堂をこわして愛宕神社が勧請され、盆踊りの休日が神祭の休日とされた。神社の祭礼から薩摩藩の例にならって能が除外され、招魂所では神事が予定された。藩校では「皇書」が試験科目となり、学生は「皇学所」に入寮して半給が与えられた。この時期に、大量の住職復飾(還俗)がなされた。住職が復飾(還俗)して廃寺となる例が20ケ寺をはるかにこえた。ただし、藩からの寺料は引き揚げられるが、苗字と身分(士族か卒族〔下級武士〕)、扶持米、もとの家屋敷が与えられた。このような「恩典」 により廃仏毀釈に「拍車がかかったことは想像に難くない」。

(5)1870年(10〜12月)の様相
 御目見得以上の住職であった昌福寺と就源寺は還俗後1代士族、1人半扶持となり家屋敷がそのまま与えられた。藩校での「皇道」学習には、貴賤を問わず人々を組織しようとした。藩は11月25日に太政官に対し、領内寺院の廃寺を藩の判断によって行ってよいか、また届けが必要であるかの伺いを行っている。これに対し、太政官は、「法類寺檀」の申し合わせに支障が無い場合は廃寺を認め、檀家は最寄りの同宗寺院に合併を申しつける、ただし廃寺が朱印地(幕府が朱印状をもって領地支配や地主としての租税免除を認定した所領で、特に寺社領)か面積の多少を取り調べ跡地の処分見込みにつき、さらに伺い出ることを指示している。報告者は「ここに現れた朝藩権力(版籍奉還から廃藩置県の間の政府を指す)の廃寺処置には近代的な『信教の自由』の萌芽すら窺うことは困難である」としている。12月、藩政庁は「驚くべき廃寺の有様を届けている」。古義真言宗の地福寺を含む15ケ寺、臨済宗妙心寺派の龍雲寺・大龍寺を含む20ケ寺、曹洞宗永平寺派の大平寺を含む14ケ寺、浄土宗鎮西派の安養寺を含むケ寺、時宗の昌福寺1ケ寺、一向宗西本願寺派の称専寺を含む7ケ寺、新義真言宗の高月寺を含む19ケ寺の計87ケ寺である。廃寺の理由は主に仏式の葬祭が不用であるからという理由であるが、いずれの場合も事実とは異なっていた。

  質疑交流と感想
 明治維新史で、まだ未解明の部分も多い分野の貴重な報告であった。現在は普通に存在する寺院、仏像などの仏教施設が、かつては明治政府の神仏分離令、神道国教化政策 のもとではげしい廃仏毀釈の攻撃にさらされ、多くの寺院、仏像などが破壊、消失の運命をたどったことがわかった。一方で、 奈良や各地に残る寺院や仏像は、なぜそこにあるのか?という素朴な疑問も出された。これについて、神仏分離と廃仏毀釈の被害状況は各県により、 その程度が異なっていたらしい。その原因は、各地の住民の抵抗によることも大きいと考えられる。ひとりの参加者からは、奈良での伝聞の情報として寺院の地 元の住民が寺の貴重な仏像を守るために隠したらしいという話が報告された。あちらこちらで、そのようなことがあったのではないだろうか?神道は宗教的には 一神教として十分な条件を備えていない原始的な宗教であり、国教として大きな力を持つことはなかったように思われる。もともと多神教的社会の日本では、 宗教の多様性を求める国民の意志も強かった。むしろ神道国教化の動きを背景に国家主義的な教育体制のもと天皇制イデオロギーで国民の思想統制がはか られていったと考えられる。神仏分離令の進行過程は宗教のかたちをとった明治政府の政治的な意図があきらかであり、一方で土着の日本社会が持っている 多様性の面をも逆に浮き彫りにさせているようにも思われる。

10月例会について

10月例会は台風接近のため危険を避けるため中止としました。急な決定で連絡の術もなく当日会場に来られた方にはご迷惑を おかけしたことをお詫びいたします。なお、当日の例会に予定していたテーマ「大阪府下での新たな空襲被害の発見−阪南市海岸部での米軍戦闘機による空襲」 は月を替えて行いたいと思いますのでご了承ください。(運営委員会)

11月例会報告 森下徹さん、福田耕さん(会員)「大教組文書の可能性」

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(1)大教組文書に見る戦後大阪の社会運動(森下 徹さん)

科研費による大教組文書の研究はじまる
 大阪教育文化センタ−の教育相談室として使用されていた上六の土屋ビルに置かれている大教組史料がセンター撤去のために散逸の危機をむかえたため、大教組書記をしていた(当時)松浦由美子さんから森下 徹さん(和泉市教育委員会所属)に相談の連絡があったのが2010年である。
 2011年3月下旬に松浦さんによる作業 が始まり、土屋ビルの書架に置かれていた史料を分類し、段ボールに詰めて大教組の地下駐車場に仮置きした(2011年3月31日)。膨大な段ボールに入った史料は次第に重みでくずれそうになり、2012年6月頃に森下、松浦、福田 耕、富山仁貴(関学院)の4名で史料の内容と年代を記録する作業を開始した。駐車場でのほこりまみれの作業であったが、これらの史料は現代史の第一級の史料であることが確認できた。その後、史料は一部処分や移転により80箱に整理され大教組の地下書庫に移された。作業の合間、近くの喫茶ガットネロでのお昼のお茶の時間が一同の楽しみとなった。史料の概要把握にもとづき、史料の目録化と史料的検討、報告書の作成をめざして2012年10月に文科省の科学研究費助成事業に応募した。第一次申請は不採択だったが、2013年の第二次申請で採択され科研費が出た。
 テーマは「戦後教員組合運動の地域社会的研究ー大教組所蔵文書の史料論的検討を通じてー」課題番号26370811 2014〜16の成果報告、大教組文書の概要紹介である。

大教組文書の概要と特徴
 ダンボール箱にして83箱+α、総点数5885点、年代は戦中(昭和15年の青年教師団の史料など)から1990年代まで、そのうち1950〜60年代が主である。来歴と特徴は、『大教組運動史』第1巻1990、第2巻1994編纂のために収集したり、関係者から提供を受けたものや調査成果などである。また勤評闘争時に警察に押収され、1982年に返還された史料(茨木小学校の職員会議議事録など)、執筆のためのノート、原稿、ゲラ、年表など。編纂事業事務局関係者の手許にあった1990年代の史料がある。これらの史料から大教組の形成過程、大教組の諸運動・教育実践(教研、勤評、平和教育、同和教育など)、戦後大阪の社会運動などが明らかになり、またそこから戦後大阪の地域社会構造、子どもや父母の生活実態に迫ることもできる。

今後の課題
 対象とした史料は大教組の保管史料の一部である。これらの史料は主に『大教組運動史』編纂のための生の史料である。これらを分析調査することによって何が見えてくるのか。『運動史』は「事実を以て語らせる」というスタンスで客観公正な記述をめざして編纂されている。しかし、なお聞き取りや史料収集が可能であり、『運動史』ゆえの、あるいは編纂時期故のある種の「せまさ」のあることを報告者は指摘する。
 今後、大教組本部史料とのつきあわせ、他府県との比較、生史料の分析からの歴史像の再構成、教員組合運動、教育実践から子どもや父母の実像に迫ること、大阪の地域史研究、大阪と京都、奈良、和歌山などとの比較研究、教育実践と社会運動との総体的把握などの検討を行い、報告書の刊行、公開、各組合、個人の史料として生かせるようにしたい。

 (2)東谷敏雄『運動史関係』ファイルについて(福田 耕さん)

レッドパージ史料
 史料は、大教組委員長であった東谷氏が『大教組運動史』第1巻編纂のためにつくったファイルである。執筆依頼分や会議レジメなどとともに、レッドパージや勤評関係の史料がある。
 運動史編纂のための第一回会議では、1987年の大教組結成40周年記念日を目途に戦前から1964年度までの運動史を発行することが決められており、編纂の基本方針として「事実を以て語らせる」ことを基本とし、客観的公正な運動史とするように努めることが強調されていた。聞き取り調査では、伏見格之助、東谷勝司、中川・井上・渡部、大津静夫氏らの名前が記録されている。レッドパージについては、東谷氏が当時何もできなかったと、悔いていたことが伝えられており、氏が各関係者にレッドパージに関する証言の依頼をする書面が残されている。

日教組映画のデジタル化
報告の最後に、大教組に保管されていた日教組製作の記録映画をデジタル化したものが上映された。これは16mmフィルムをクリーニングしたうで、デジタル化されたものである。分裂前の大阪で行われた全国教研や教育塔前での教育祭などのもようが上映された。
  会場の関係で報告時間を十分確保できなかったことが残念であるが、なによりも膨大な史料を散逸から守り、第一級の現代史研究の史料として、ここまで整理された関係者 に敬意を表する。現代史、教育史、地域史などの研究対象として、公開のもと、双方の組合の、また大阪、日本、世界の「共有財産」として無限の可能性が秘められている。若い研究者の参加もふやしてがんばっていただきたい。

12月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会大阪府連副会長)「先進国への飛翔を夢見る中国ー中国共産党大会第19回大会をふりかえる」

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「中国崩壊論の崩壊」
 冒頭、書店に山積みされる「中国崩壊」本の画像が紹介された。明らかな右サイドからの攻撃は中国の体制批判から歴史認識の捏造も含めて繰り返し行われている。「南京大虐殺はなかった」などに代表される悪質な攻撃は論外であるが、一方で良心的な人々も持つ中国への率直な不安、懸念もまた無視できない。核兵器廃絶の世論の国際的な高まりに障害となるような現在の中国政府の動きや、南シナ海における覇権主義的、大国主義的な姿勢、国内の人権抑圧の問題など、それらは安倍政権や右翼的な潮流、メデイアがつけいるスキを与えているのも事実である。
 報告者は、1989年の天安門事件、「2008年のリーマンショック以来、多くの論者が中国の崩壊を予想したが、その期待を裏切って中国は成長してきた」という故・加藤弘之の言葉を引用しながら、ともかくも中国は成長をとげているという点で、「中国崩壊論」は崩壊しているとする。一方で後者の不安や懸念への答えはあるのだろうか?日中関係、環境問題、経済格差是正の三課題に焦点をあてて報告された。

中国共産党第19回大会−「格差」是正への目線
 2017年10月行われた第19回大会は、「習近平が『権力集中』を集大成し、混乱した世界で『中国モデル』を提示し、国際社会に影響力を拡大できる段階に到達し、それ故現在の中国は『自信』を持っている」(朝日新聞・天児慧早大教授)という。
 現在の中国経済についての前向きな評価としては、この間の政権がすすめた「反腐敗」政策により国有企業と役人の癒着が摘発され「民間企業の投資が促され」た。「一党独裁下の経済発展にも自信を深めている」(梶谷神戸大教授)。
 報告者が特に強調したのは、大会前後の「人民日報」がもっとも力を入れて報道していたことが、「反腐敗」運動と国民の最も身近な利害に関わる問題であったという。それは「『共産党の指導』『習近平への権力集中』の成果を国民の関心のありどころで、国民生活のレベル向上で示す」ことであった。かつて、習近平は「中国共産党が人民に見放される時、党は『統治の正統性(執政資格)』を失って、歴史の舞台から降りざるを得ない」(2016年7月7日人民日報)と言ったが、習近平の指導下における中国共産党は「国民の目線での『統治の正統性』を非常に気にしている」。したがって、今日の中国社会における「格差」の解消・「発展の不均衡」解決を正面に掲げたことこそ今大会の最大の積極面と評価しうる。

日中関係−政府と民間と
 日本のアメリカ追随の外交姿勢は今や国際的にも有名である。外交の基軸は、従属的な日米軍事同盟に置かれており、「日本の国家から国民に至るまで、主としてアメリカとの関係だけで戦争を終えたのではないか、・・我々が本当の意味で終えねばならなかった戦争とは中国における戦争であった」(子安宣邦)。安倍政権の「国際標準」からの脱落と一体のものといえよう。
 現在、中国がすすめている「一帯一路」政策、「AIIB」などの国際経済協力には、安倍政権は及び腰であるが、中国主導のこれらの提案を呑めば安倍流「中国脅威論」の一角が崩れかねないという懸念がある。一方で、ADB(アジア開発銀行)総裁は「AIIBとの強調は必要」との言明をしている。経済同友会、「日本経済新聞」、黒田日銀総裁なども「AIIB」には前向きの姿勢を示している。日本企業はすでに、石油天然ガスなどの共同調達、プラント建設など、中国との「競争」「連携・すみわけ」「下請け」などの選択肢を念頭に「一帯一路」構想に対し対応協議を開始している。

環境問題
 中国の大気汚染に代表される環境問題の悪化の大きな原因は、経済の量的追求の弊害である。日本や台湾、韓国と比較して中国の投資効率は低い。そのため高度成長を維持しようとすれば国民の消費の犠牲と環境負荷(=公害の拡大)を高めることになる。中国では、元CCTVの女性記者柴静の環境汚染をあつかった動画「蒼頂の下」がネット上で注目されている。動画では、中国石油化学集団などの中央政府直結の国有企業が環境保護政策の制定、執行の障害となっていることが言及されている。中国では2015年から中国史上最もきびしい環境保護法が施行されている。
 一方、中国では多様なEV(電気自動車)開発が先行的に行われており、この分野では日本企業も追い越されそうな勢いだ。中国は世界最大のCO2の排出量取引市場を設立し、日本の消極性が際立っている。

経済格差の是正
 ジニ係数は格差の度会いを示す数値である。1(完全不平等)〜0(完全平等)のうち、先進国平均が0.4である。0.5以上は社会的安定を失うレベルである。中国では2000年前後は0.42であったが、2009〜2011の高度成長の時期に格差が拡大し(この時期は統計が隠された)、2013年に0.489となった。人口14億の内、約6億7000万人が下位の階層で、労働者・農民で占められている。GDPに占める国民の経済的豊かさを示す民間消費支出は、2000年代に入って投資優先型の経済成長になってから低下を示し35〜6%まで落ちた。民間消費支出は先進国では、およそ60%以上を示す。日本は56.9%、アメリカは70%である。したがって、民間消費支出は改善傾向にあるとはいえ、中国では国民の生活水準は先進国となるまでは、なお道半ばというところである。
 国民生活の水準を上げるための努力として、中国では社会保障制度の拡大がすすめら れている。その軸となっているのが社会保障カードの普及で現在人口の79.8%にまで到達している。これは14億の人口中10億人が、健康保険や年金の社会保障を受けることができる段階に達していることを示す。社会保障制度は改革開放以前は公務員と国有企業の勤務者に限定されていたが、1990年代に着手されて反腐敗運動とリンクし、国民皆保険、皆年金の達成が2020年を目標にすすめられている。しかし実態は、職域や地域により保障の程度は異なり、農村部は任意加入で、都市部と較べて薄い保障額である。また豊かな省と貧しい省の格差もある。農村から都市への出稼ぎ者は都市では保障されないという問題点もある。これらの統合公平化が2035年までかかるといわれている。大西 宏は2033年には中国が先進国化すると考えている。

パクス・アメリカーナからパクス・シニカ(中国)へ
 中国の現在のGDP総額は11兆ドルで1位のアメリカに次いで世界2位、日本は4兆ドルで3位である。一人当たりGDPでは、中国は76位、アメリカは7位、日本は26位である。日本など先進国がゼロ成長となったように、中国も2033年ころに先進国並みにゼロ成長に到達すると大西は推測している。いずれにしても、今後中国は巨大な影響力を世界に与える国となるだろう。パクス・シニカということに不安、懸念を持つ人も多いだろうと思うがと、報告者は断りつつ、たとえば現在焦眉の北朝鮮問題でもトランプ政権が対話よりも圧力をかけようとしていることに対しても、中国が対話を重視していることなどを見ても、パクス・アメリカーナよりもましではないか、という。冒頭の中国への不安と懸念は解消されるだろうか。報告者は中国との処し方について、「現実を直視する姿勢と批判的精神を大切にする」ことが基本としつつポイントは「中国の発展のダイナミズムを見失わないこと」とまとめた。

たくさんの意見が出た質疑交流
 参加者からは多くの意見、質問が出された。
質問と意見
 中国の姿勢に対する生理的反発(報告中の話)とは何か?安倍サイドの攻撃との関係は?留学生と話していると、日本よりもアメリカなどへの期待が大きい。「中国崩壊論」崩壊について。社会保障カードが10億人に普及したことの意義は大きい。留学生との対話で中国政府への批判的意見が多い。市民社会の成長が感じられる。大国主義的な姿勢については彼らはどう思っているのか?中国の労組はどうなっているのか?東洋史を学んだ経験から多民族で広大な中国で市民社会的な統治理念は可能か?中央の党と地方の党の関係は?民主同盟の現状は?中国へひとり旅に行き、茨木市の姉妹都市の役所を、市報を届けるために訪問したが、管理統制が厳重で市に苦情を訴える部屋で見たのは上から目線で市民をなだめている役人の姿だった。街中には「公安(=警察)」の人がたくさんいて、常に監視されているようであった。中国人研究者の楊継縄が「(中国の)権力は制約なき上部構造、資本は制御されざる経済的基礎、これがすべての社会問題の 根源、もし民主的な改革を怠るならばカタストロフィー型の変事が起こりかねない」と言っているが、民主主義は政治、社会の問題であるだけでなく、社会主義経済建設に必要な条件と思うが、議会や労組などのチエック機関を育てるような方向はあるのか?

   これらの質問意見についての山本さんからの回答について要約すると
●「中国への生理的反発」は左翼陣営の中にもある。覇権主義や文革への反発など。これらは一般の「嫌中感」とは区別される。大西氏は、パクスアメリカーナよりもパクスシニカのほうが「よりましではないか」と見て良いという主張をする。●労組の問題について、中華全国総公会という公式の最大組織がある。労働者を共産党につなぐ政治主義的要素と、権益を擁護する要素とがあるが、政治闘争が優先される。権益優先は同時に民主化論につながるが、衰退している。NPOやNGO組織は、純市民的組織は当局がいやがり、中国共産党の指導の入った組織にする傾向がある。●留学希望先としては日本は3〜4番目。しかしアニメの影響などで日本を目標と考える「日本大好き」学生もふえている。●人権問題で先頭に立つ知識人にも伝統的な「読書人階級的」な特権意識は根強く、両者の乖離は小さくない。●民主化問題について、フランシス・フクヤマが中国のウイークポイントとして、「権力を制限するシステム(立憲主義)をこれまでに持てなかった」ことをあげている。中国の「法治」は「法の支配」の論理とはちがう。加藤弘之が中国社会の特徴として「あいまいな制度」をあげている。たとえば、中央集権的と言いながら地方政府はまるで企業のように、地方本位に経済成長を競い合っている。中央も中身はともかく成果を上げた地方の人材を中央に吸い上げていく。その結果、多くの問題を孕みつつ崩壊ではなく前進する中国が我々の目の前に現れてくる。まずはこれを直視することが大切と思う。民主同盟は、全人代とちがう機関である政治協商会議の幹部を出している。常識的に中国で生きてゆく上ではまず共産党である。それでも「民主党派」を選ぶ人がいるということは民主党派の存在はただの飾りとは言いがたいところがあるように思う。

2016年例会報告

1月例会報告 福林 徹さん(会員・戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会)「米軍が撮影した近畿関係写真資料の調査」

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 1月31日、大阪府教育会館で、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員で本会会員でもある福林 徹さんに、「米軍が撮影した近畿関係写真資料の調査」と題して報告していただきました。NHKテレビや新聞数紙の記事に福林さんの調査活動が紹介されており、是非とも取り上げてほしいとの要望を受けての1月例会でした。
 福林さんは、10年ほど前からアメリカ公文書館に通って、(1回で二週間ばかり)膨大な写真資料を収集されています。そのうち、和歌山・大阪・奈良・兵庫・京都・滋賀の写真資料に区分して、パワーポイント・スライドで映しながら解説し、随時質問を受けるという進め方をしました。
 アメリカ公文書館の写真資料は米軍が撮影したものが多く、映像フイルムも収蔵されているとのこと。しかし、問題は、整理が不十分で箱にごちゃまぜに保存されています。さらに、無料で自由に閲覧できますが、閲覧する研究者が絶対的に不足しているのが現状です。
 さて、当日重点的に紹介されたのは、3万6千人の連合軍捕虜が、主に東南アジアから日本に送られ、全国各地130カ所に及ぶ捕虜収容所に収容されたという事実。そのため、進駐軍の先遣隊が真っ先に捕虜収容所に向かい、帰国させている写真映像です。たとえば、写真1)1945年9月14日の和歌山市駅の画面では、車窓に捕虜の姿が見えます。 大阪における捕虜の写真2)では、1945年10月、整列して中華民国国旗に敬礼する中国人捕虜の写真があります。港区に4カ所の捕虜収容所があったので、区内の小学校が背景に写っているのではないか? 隊列の後ろに写っている屋根に鳳凰が載っている建物は奉安殿(天皇皇后の写真と教育勅語を納めた)ではないか?等の意見が出されました。 次に、日本軍による捕虜の殺害事件について、幾例か写真で説明がありました。埋められた遺体を掘り起こして撮影。頭蓋骨に銃創の痕など、生々しくむごいものです。大阪城の南側に設置されていた城南射撃場では、8月5日、米軍飛行士たち14名を射殺。天皇の「玉音放送」直後の、8月15日午後、5人の飛行士を真田山陸軍墓地で、証拠隠滅のため処刑しています。国際法上の違反行為に対して、連合軍の戦犯追及は当然のこととしても、あまりにも非人道的な行為に、日本人として目を覆うばかりです。その他に、高槻地下倉庫(旧日本軍暗号名タチソ)の写真。洞窟内の工作機械などが写っています。また、強制連行の朝鮮人労働者集落も紹介されました。 随時質問は出されましたが、いくつか抜粋してあげてみます。
Q1,近畿以外のアメリカ公文書館資料は?
A1.北は北海道から南は沖縄まで、全国各地の写真がたくさん所蔵されている。中国地  方は広島・呉はあるが他は少ない。四国は発見できず。ネガは公開せず、プリントした写真がある。それをスキャンして撮る。 文書資料も保存されていて、写真がはさんである。GHQ文書は国会図書館にある。もちろん英文で、20年ほど前に初めて見た。 意見1:神戸の写真で、白人がリヤカーで食料をもらいに行っている写真に関して。神戸在住の外国人は、グループ毎にフードセンターを作っていた。脇の浜に収容所があった。イギリス人のフードセンターでは、彼らが聖ミハエル教会の再建に尽力したと聞いている。
Q2.町の人々の写真を見て・・・日本人は、米軍に抵抗していないのか?
A2.いったん、アメリカ軍に接すると、一斉にアメリカになびいていく。戦時中の「鬼畜米英」なんて、すぐになくなって、母親などは「あほらしくて〜」と言っていた。 意見2:45年11月に爆撃調査団の報告がある。大月書店から刊行され文庫になっている。マッカーサーへの手紙を見ると、「いつまでも占領してください」とか、若い女性からは「結婚してください」という内容まである。
A3.戦後の戦犯調査で、米軍機墜落事件については、場所によっては村人も竹槍を持って行ったので、「かん口令」が布かれたが、タレこみが多くすぐばれている。
意見3:終戦時、中学3年で淡路島にいた。母は英語が話せるというので案内役をさせられた。日本軍がした悪いことを、知らない村人が密告しに来る。中隊長は農民出身、次の位の兵士は教員と言っていた。米軍から上等な自転車をもらったり、ジープに乗せてもらった。一躍有名人になった!  報告と議論あわせて2時間半でした。いろいろな質問が出され、大変有意義な例会となりました。

2月例会報告 島田 耕さん(会員・映画監督)「記録映画『Report びわ湖・赤野井湾2015』制作現場から」

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 2月27日、大阪府教育会館で、映画監督で本会会員でもある島田 耕さんに、「記録映画『Report びわ湖・赤野井湾2015』制作現場から」と題して報告していただきました。
最初に、製作に至った経過と映画の趣旨を簡単に説明していただき、映画を上映。その後に質疑応答となりました。一部を抜粋して紹介します。
Q1 この映画には2年かかっているそうですが、その間苦労されたこと等、教えてください。
A1 ここに中江さんが彦根から来ていただいています。毎月「びわ湖通信」を出しています。ずっとびわ湖について、環境が厳しい中で何が起きているか、近くに住んでいて伝えてくれています。撮影の際、スタッフが個人でドローンを購入して、200mまで上昇できるそうですが、上から撮ってもらいました。4月17日に、大津で2回上映します。これを皮切りに、県民の方々に知ってもらいたい。
Q2 洗剤の汚染については?
A2 燐がびわ湖に入り、栄養化して汚染の原因となった。今は合成洗剤が燐抜きで作られています。
Q3 びわ湖の水を飲料用に使っている下流側の要求との調整は?
A3 微妙な問題です。びわ湖保全のための費用を、分担して集めている。下流での工業用水確保の問題もある。人工堤防を造り、上に道路を築いた。そのため、湖岸の葦帯が減り、鮒が減少する。ホンモロコは水位を下げたため、産卵場所が失われた。  近江八幡のびわ湖最大の内湖を埋めてしまった。農地を広げるためという理由で。しかし、今は元に戻そうという動きがある。ただし、県の優先順位にならない。
Q4 以前、滋賀大学の岡本巌教授のドキュメンタリー映画がありましたが・・・(注:『びわ湖の深呼吸』2011年制作 冬に琵琶湖の水が上下によく混合し、湖底の酸素濃度が回復することを深呼吸と呼びます)。
A4 岡本先生が漁業の方に、水質汚染のことを言われています。漁協には補償金が出たが、こんなに酷くなるとは理解していなかった。元に戻さないといけないという声があがっている。
意見1 沖島の人口が減っている。当時は環境のことを考えていなかった。開発がこれ だけ進むと国立公園になれない。
Q5 びわ湖の汚染度は?
A5 赤野井湾は6、他は3〜4。湾の切通しを元に戻せば、だいぶ回復する。北湖は2、南湖の西の方はまだきれい。東は汚い。護岸堤を造ってしまったからだろう。
Q6 びわ湖の周りの汚染は?
A6 草津市の埋め立て地に大きな工場がある。何キロも浄水パイプを通して瀬田に流している。
意見2 アユが減ったのは淀川の水門のせいだと思う。私の故郷四万十川では、塩と真水の境目が産卵場である。外来魚(ブルーギルやブラックバス)のせいだとは決めつけられないのでは。葦がなくなり、産卵場が無くなったのが大きい。葦に膜ができ、バクテリアがついて水を浄化する。
意見3 黒田さんが知事の時、メダカやホタルが帰ってきた。大村さんがノーベル賞をもらった時、細菌にあげて下さいと言った。自然の中の力を大事にしなければ。
意見4 TVで葦簾を作っている工場を見た。自然と共生して地場産業としている。パート2を是非制作してほしい。湧き水など、いい場所を紹介してほしい。
Q7 淀川区に住んでいるが、ペットボトルとプラスチックの破片が葦の間に挟まっている。2月、3月に掃除が大変である。
A7 漁協の人がゴミを回収している。ビニールが湖底に沈んでいると砂地が覆われて一番困る。大きな所で一致点をつかむことが必要。
Q8 沖縄のことが争点になりつつあって、一番面白い。撮りかけのフイルムがあったのでは?
A8 2月に完成しました。ドキュメンタリー『沖縄ぬ心』(1時間38分)。「オール沖縄」になるまでを歴史的にたどり、後半には菅原文太の集会での発言シーンや沖縄の人々の声を取り上げました。
 午後2時から映画上映(65分)・休憩の後、質疑応答と議論〜約2時間余の有意義な例会となりました。出席者が20名と、今までになく多数の参加でした。報告者が個人的に出席依頼をされたと聞きました。 弟さん夫婦が、遠路はるばる淡路島から参加されています。今までの例会参加への取り組みについて、反省すべき点だと思いました。

3月例会報告 隅井孝雄さん(元京都ノートルダム女子大学客員教授、ジャーナリスト)「今日本のマスコミは一体どうなっているか」

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 高市発言と放送法
 隅井さんは、かつて日本テレビに在職、退職後は大学に勤務し現在はフリーの立場で日本ジャーナリスト会議の代表委員などを務めている。最近の安倍政権によるメデイアへの介入について、テレビの報道番組映像を参考にしながら、問題点とくわしい背景について説明された。
 高市総務大臣の「放送法第4条」に関わっての「電波停止」という恫喝発言は、マスコミ界と多くの国民の怒りを招いた。テレビキャスターによる怒りの合同記者会見も開かれた。放送法は、放送の民主化のためにつくられたもので、放送法の編集準則は法的な規制ではない。高市大臣がそもそも放送法を曲解しているのだ。過去に放送法に関わる免許の問題が起こった例は2件ある。1989年京都KBSテレビに対してイトマン問題の許英仲らが150億円の抵当権を設定した際、組合員らが団結してボーナスや給料を担保に会社更生法を申請、放送を継続した。また1965年テレビ東京の前身科学技術財団テレビが倒産、日経資本が買収する際に放送免許が問題となった。いずれも、番組の内容で免許が問題になったことはなく、経営が行き詰まって放送免許が問題となった。番組内容が理由となって免許停止になることはない。

岸井、古館、国谷の3名の降板
 国谷さんの場合は、2014年12月に菅官房長官をゲストに迎えて、「集団的自衛権」問題についてインタビューが行われた(「クローズアップ現代」)。「第3国からの攻撃の恐れはないのか?」「国民の不安はどう払拭するのか?」という質問に対して、菅氏が「答えはない」「(国民には)ていねいに答える」などの回答を行って、「それでも不安がぬぐえなかったらどうするのか?」という質問のあと放送が終了した。放送の後、菅が「説明しに来たのに」と激怒したという。その後、「フライデー」記事によると、官邸サイドからNHKに「土下座して謝れ」という恫喝があったという。現場では国谷さんの続投が支持されていたが、上層部の意志で国谷降板が決まったという。岸井氏の場合、読売、サンケイに一枚ものの右翼的な批判広告、「安保法制に反対を続けると発言したのは偏向」がきっかけとなった。古館氏の場合、番組途中でコメンテイターをしていた古賀氏が政府や官房長官からの圧力があった内情を暴露し、「I am not ABE」という文字を書いたカードを示すという「事件」があり、テレビ朝日への攻撃が集中した。いずれのキャスターも信頼感があり、それぞれの報道番組も視聴率は高く、良心的で公平な報道を行っている。どうしてこの3名が降板しなければならないのか?

憲法「改正」と放送局支配のたくらみ
放送局に政府自民党や財界から圧力がかけられていることは、さまざまな情報から明瞭 である。なぜ安倍政権は放送局に圧力をかけるのか?その背景にあるのは安倍首相が政 権の目標として公言している憲法「改正」だ。  安倍首相と自民党が意図しているのは、第1に憲法9条2項(戦力の不保持、交戦権の否定)の「改正」、そしてさらに「自民党憲法草案」による憲法の全面改悪である。  しかし、日本国民の平和志向は強く、読売、サンケイを含む各新聞の世論調査はいずれも9条改正反対が賛成を上まわっている。安倍政権は憲法「改正」目的のためには、どうしても世論を変えたいのである。そのためにはマスコミを支配下に置くしかない。そこで第2次安倍内閣では、まずNHKに手をつけた。籾井会長の送り込みである。

籾井会長とNHK
 前会長の松本氏は「民主党政権下で選ばれた」ことで安倍首相が嫌い、変更したという。籾井氏の実家は九州の炭鉱会社だ。自民党の麻生氏とは友人関係で、三井物産を退職後、麻生氏の推薦で財界有力者から構成される「四季の会」が支持し、これに総務省や自民党も了解したという。NHKの予算6800億円のうち9割が受信料で成り立っている。その会長人事を政府、財界の一部の者で決定してよいのだろうか。籾井氏は、その後さまざま問題発言、行動を繰り返しているが、いまだ辞任という事態にはたち至っていない。
 籾井会長のもとで、「NHKの国際放送では日本の利益を守っている」と強調されている。現在、世界で信頼される国際放送はCNN(アメリカ)とBBCワールド(イギリス)である。日本のNHKの国際放送は中国のCCTVと同様、信頼されていない。中東訪問中の安倍首相が「イスラム国と戦っている国へ2億ドル拠出する」というスピーチを行い、NHK国際放送がこれを生中継した。その直後、「イスラム国」はこれを受けて後藤さんの身代金要求と殺害を実行した。NHK国際放送は今や国策の道具になっているから、このような悲劇が起きる。
 安保法の国会審議当時の国会包囲行動の報道などで、NHKと民放局のちがいは際立っている。8月30日夜の国会包囲のデモ集会の報道時間は、NHKニュースでは2回あわせて2分30秒、31日の報道ステーションでは20分であった。

マスコミの力は全国的には、おとろえていない
 政権側はNHKや読売だけでは不十分と考えている。そのあせりの発言が、「沖縄の二紙はつぶすしかない」や「マスコミをこらしめるには広告収入を減らせばいい」など、百田発言などにも見られる。その本音は、「朝日」「毎日」「東京」の比較的リベラルな三紙を何とかしたいらしい。なにかあるたびに、テレビ局が自民党に呼び出されている。選挙に関しても民放4局に、自民党から「選挙番組の出演者の選定、発言」や「街頭インタビュー」、「資料映像」などに「偏り」をなくすことなどの要望が出されている。 新聞では自民党、財界寄りといわれる読売、サンケイで部数1000万弱、これに対して朝日、毎日で900万強、比較的健全公正な地方紙1700万部を加えると、まだ国民の立場に立つメデイアの方が3:2ぐらいで優勢である。しかし、最近のニュースキャスターや記者の交替など、次第に現場が息苦しくなっていることも事実だ。

メデイアに政権が介入する国家は民主主義国家ではない
 世界の民主主義国家を見渡して、政府がメデイア、放送にこのように露骨に介入して る国はない。政府がマスコミを支配している典型的な国家は、北朝鮮、中国、ロシアだ。
 先進国で、政府がこんな露骨な介入をしている日本は異常としか言いようがない。先進民主主義国では、放送の「免許取り上げ」という考え方はなく、客観的な立場の第三者委員会(フランスのメデイア評議会やドイツの放送委員会など)が放送の基準や免許のコントロールを行っている。日本は「BPO」が放送内容の倫理性など一定の基準の役割をはたしているが、政府・与党がNHKのトップを任命し予算を左右しており、高市発言にみられるような「免許取り上げ」という脅迫を大臣が堂々と行っている。最近似たような動きがポーランドで起こった。新たに発足した右派政権がポーランド公共放送の首脳人事入れ替えなど、介入の動きを強めたことに対して、国民が抗議する動きが拡がっている。これを支持する国際環境としては、EUが放送への政府の介入を許さず報道の自由とメデイアの独立性を守る「報道憲章」を持っており、ジャーナリストを抑圧する対象にしてはならないということを明確にしている。イギリスのBBCでは、かつて北アイルランド問題で政府が圧力をかけてきた際にストライキで抵抗した。イラク戦争の際にも政府の立場に反して報道の公正さを維持した。その結果、BBCはイギリスでもっとも信頼できる放送局とされている。

公正なメデイアを守るために
 欧米ではメデイアを監視する市民運動がさかんである。メデイアの批判とともに公正な活動を行っているジャーナリストを擁護する運動も必要である。現在のNHKをめぐる異常な事態に対して、NHKと籾井会長への批判の運動が全国(17都市)で起きている。民主主義の社会を維持するために公正・客観的なメデイアを守ることは重要な課題である。隅井さんは、現在行われている安保法廃棄を軸にした野党連合のスローガンにメデイアの民主化を掲げる必要があると言われた。我々も、現在のメデイアの状況に非常に不安感を持っているが、案ずるよりも、欧米のように公正なメデイアを守る運動をすすめるべきであろう。政府のメデイアへの介入を批判し、すぐれた番組やキャスター、記者の活動を応援し擁護する声を上げてゆくことが求められている。これは今すぐ出来ることである。
 当日は関心の高い内容であったので質疑も活発に行われた。ある参加者は某有力紙が主催した読者などの参加する意見交流会に参加し、従軍慰安婦問題に関して某紙に対して与党サイドから「10億円賠償せよ」など、やくざまがいの圧力がかけられていることなどを報告された。

4月例会報告 こうじや美規子さん「大阪で生まれた『国防婦人会』」

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 4月例会は4月23日大阪府教育会館の牡丹の間でおこなわれ13人の参加がありました。1980年代大阪府婦人会館の記念事業として「国防婦人会」の聞き取りをまとめられた?谷美規子さんに報告を依頼していました。ところが1925年生まれで90歳をこえるこうじやさんです。体調がすぐれずビデオレター報告に切り替える事になり、京都のご自宅へ撮影にいきました。
 レジメにそって4つに分けてお話しいただきました。@40年勤めた高校教師を退職した後、大阪府婦人会館で社会教育の講座を担当。婦人会館20周年記念事業として元「国防婦人会館」だった「会館のルーツを探ろう」と日本史学習グループと情報ボランティアグループで取り組んだ。A1931年の満州事変以降、大阪港は一大出征基地となり大阪港を抱えた港区で1932年「大阪国防婦人会」が発足する。会長三谷英子、副会長安田せい・山中とみ。陸軍との結びつきと消された副会長の山中とみ。B「国防婦人会館」の掘り起しに1000枚のアンケートを300枚回収。アンケートから分かったこと。63人の聞き取りと証言の重み。1942年大日本婦人会に統合。1945年5月か6月頃解散。C新聞報道への疑問の目。クエスチョンマーク?自分の頭で考える。再び軍国の母となるなかれ。
ビデオ終了後、90歳という年齢を感じさせない気迫のこもった語りに思わず拍手がおこりました。当日の進行は松浦が担当。参加者の感想と質問については後日、こうじやさんに届けるという事で交流を深めました。女性史では「国防婦人会」は大日本婦人会に統合されたと理解しているが、聞き取りのなかで「解散した」と答えた方がいるのは?年表には「大阪国防婦人会」が発足してすぐ「空中からビラをまいた」とあるが、軍部との関係は?などの質問がだされました。大阪でうまれた「国防婦人会」について、今後も系統的に大阪民衆史研究会の例会でとりあげてはどうかと提起して終えました。(松浦由美子)

5月例会報告 横山篤夫さん(本会会員・元関西大学非常勤講師)「新出資料・英第37機動部隊による泉州一帯の空襲」

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ピースおおさか問題
 横山さんは泉州の府立高校に勤めた時、生徒が興味をもつだんじりなどの地域の資料を調査して教材にした。各家庭の聞き取りをする中で空襲など戦時下の話にたくさんふれることがあって、それを「戦時下の社会」という著書にまとめた。
 ピースおおさかの平和研究所にいた頃、2010年大阪維新の会が「ピース対策委員会」なるものをたちあげ、「”西の遊就館(靖国神社附属資料館)”に作り直す」と暴言を吐いてピースおおさかに乗り込んできた。 その後、同館のリニューアルに際して、「府民・市民の声を聞きいれよ」との運動が「15年戦争研究会」を中心にすすめられるようになったとき、その事務局長になった。2014年8月、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議神戸大会」でピースおおさかの問題を報告することになった。そのとき仙台空襲研究会と出会うこととなり、今回の報告のきっかけとなった。

津波がもたらした新発見
 東日本大震災の時の津波により思わぬものがもたらされた。それは第2次大戦中の不発弾であった。宮城県を襲った津波が埋もれていた不発弾を掘りおこし、これらを調査すると、従来の米軍のシリアルナンバーと符合しない爆弾が見つかった。なんとそれはイギリスの爆弾だった。イギリスの機動部隊が終戦間際に日本本土攻撃に参加していたのだ。従来あまり知られていなかったこの事実を発見したのは、「仙台空襲研究会」で、その後会から横山さんに「資料の中に深日の空襲が出ている」との連絡が入った。

イギリス艦隊の対日本攻撃参戦
 1944年夏ドイツが敗北し、イギリスはアジア太平洋に進出してきた。それは、アジアで発言権を確保し、戦後世界での地歩を占めるためであった。
 しかしアメリカはすでにイギリスをはるかに凌駕する勢力を太平洋に於いて確保していたし、イギリスの補給システムが遅れていてアメリカにとって負担であったので、 1944年9月段階ではイギリスの参戦申し出を断っている。結局1945年の沖縄戦からイギリスは参戦した。
 資料によれば、オーストラリア・シドニーを根拠地とするイギリス第37機動部隊は、1945年7月16日にアメリカ第38機動部隊と合流して7月17日から8月10日(13日、15日も一部参戦)までの日本本土攻撃に参戦した。艦隊は東北沖から紀州沖、台風をさけるためにさらに東北沖へと進路を変えて移動している。艦載機が発進するために沿岸に近づき、特攻機の攻撃を避けるために攻撃が終わると沿岸から離れて退避行動をとっている。

多奈川(現大阪府岬町内)への攻撃
 イギリス機動部隊の航空母艦旗艦は空母ビクトリアで、攻撃に参加した艦載機は英国製スピットファイアー・シーファイアー機、ファイヤーフライ機、米国から借用したアベンジャー機、コルセア機であった。これまでの日本側の聞き取り調査では、ほとんどが「グラマンに襲われた」という答えで、冷静に機種を区別できたとは思えない。各機は艦に帰還した際に報告書を提出し、これらはまとめられているが膨大な量になる。パイロットの主観が含まれるのでチェックする将校がいるとはいえ、必ずしも正確とは言えない。たとえば、被弾した敵機にはかならず味方の機複数がさらに襲いかかる。「一機撃墜」が「複数機撃墜」報告にふくれあがる可能性がある。また市民を攻撃してはならないたてまえなので、攻撃しても報告されていないことがある。
 7月25日午前9時2分から11時38分まで多奈川地域で空襲があったことが日本側に記録されている。これに対応すると思われるイギリス側の記録では、同日、8時半に深日に向かって艦載機31機が発進している。日本側では「深日」は「多奈川」に、「31機」は「小型機50機」となっている。当日、尾崎警察管内では多奈川で28名の死者が報告されているが、川崎重工の朝鮮人宿舎の防空壕に250キロ爆弾が命中し、20名以上が亡くなったという。このとき、遺体は粉々になり、服の模様が唯一判別できる手がかりであったという。強制連行された朝鮮人の引き取り手は誰も現れなかったという。7月28日は朝から夕方まで攻撃が行われた。今回の資料により、攻撃時刻が17:30〜18:50から14:40〜17:20に訂正された。このとき岸和 田の漁船に乗っていた漁師が直撃弾を受けて亡くなっている。

岸和田大空襲の可能性があった
 徳山高専名誉教授の工藤洋三さんから横山さんが提供された米軍資料の中におどろくべきものが含まれていた。それはアメリカ第20空軍爆撃計画書で、8月15日以後戦争が継続していたら、岸和田を大規模に空襲するというおそるべき計画であった。もしその空襲が実行されていたら、多くの岸和田市民が被害を受け、だんじりも岸和田城も灰燼に帰して、その後の岸和田の歴史は大きく変わっていただろう。

大阪民衆史研究第70号に論文掲載予定
 報告には、資料の翻訳を担当した元ピースおおさか学芸員で現在は大阪教育大非常勤講師などを勤めている常本 一さんも加わり、英文資料をプロジェクターで投影しながら解説をされた。その際、これまで報告されている資料の翻訳上の問題点なども指摘をされた。なお、今回の報告にもとづき、大阪民衆史研究第70号に横山さんの論文が掲載される予定である。その際、常本さんの翻訳による資料も掲載されるのでご期待頂きたい。
 質疑交流では活発な意見が出された。イギリス軍が参戦した動機として考えられること、太平洋戦争緒戦の敗戦の屈辱をはらす意図はなかったのかなど。イギリスとアメリカの連合軍内部での確執はどうであったのか?これまでの泉州での空襲事件について再度見直す必要があるのではないか?など

6月例会報告 古の都・飛鳥のフィールドをわくわく〜ワークする案内・小宮みち江さん(奈良歴史遺産市民ネットワーク)

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 久方ぶりのフィールドワークは6月26日梅雨の晴れ間をぬっての飛鳥路めぐりとなりました。案内役は奈良歴史遺産市民ネットワークの小宮みち江さん。
橿原神宮前駅集合で石舞台まではバスを利用しました。近鉄が飛鳥日帰り切符を発行していて、バスの乗車券がサービスでお得です。
出発前に持統天皇の万葉歌碑をバックに記念撮影。梅雨時期のせいかバスの客足もまばらでした。 石舞台から蘇我稲目の墓の可能性を指摘される「都塚古墳」をめざしました。畑の中にこんもりとした古墳があり、横穴から盗掘された状態の石棺が見えます。墳丘を再発掘すると階段ピラミッド状の方墳だということがわかり、マスコミでも大いに話題になりました。案内の小宮さんによると稲目の娘・小姉君の可能性が高いと言います。古墳の上にみなで上がってみました。そう言われてみると女性的な感じがします。稲目ならもっと大きな墓でもよさそうな気がしました。
 ここから一気に祝戸地域を駆け抜け、有名な高松塚古墳をめざします。整備され過ぎて有難味が薄れそうな高松塚古墳を尻目に、すぐ近くにある中尾山古墳へ。別に宮内庁管轄の「文武天皇陵」がありますが、研究者によれば「中尾山古墳」こそ文武天皇陵とされています。周りを八角の柵で囲って、荒れ果てたまま石槨もむき出しになっています。文武天皇をめぐる「男女の愛憎劇」を小宮さんが、見てきたように大阪弁で再現してくださいました。みなさん大いにウケてました。
 本物と偽物の遺跡が同時に見られる史跡として、最後に案内されたのが於美阿志神社・檜隈寺跡でした。百済人が建てた檜隈寺の伽藍跡の礎石。黒いものは当時の本物、白いものは奈良文化財研究所が作ったレプリカとのことでした。この日のコースは健脚コースとのことで、足の弱い人に配慮して途中から短縮するコースも用意していました。しかし、全コースを無事終えることが出来ました。今回のフィールドワークは遺跡保存のあり方を色々考えさせるものでした。
◆感想 普通だと通り過ぎてしまうような中尾山古墳に行くことが出来て良かった。大学の研究成果だけでなく幅広い研究者の見解が聞けた。A都塚古墳を見学できたことは貴重である。B古代も現代も男女の感情に変わりはないと小宮さんの説明で身近に感じた。C街並みの保存のありように関心があり参加した。街並みがとてもきれいで、地域が千年以上存続していることに驚く。D楽しい飛鳥古墳めぐりだった。 E千数百年前の出来事が書物から、現代に蘇ったような小宮さんの説明。文語体から口語体に、古文から現代語に翻刻されているようであった。

7月例会報告 二宮一郎さん(会員・桃谷高校)「福島区海老江八坂神社の伝統行事〜冬座と春座の実態と変容」

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大阪市内に現存する宮座
 7月31日、大阪府教育会館において、二宮会員により大阪市内に現存する宮座について報告がありました。福島区海老江地域は、近世前期から田地開発が進み、水田耕作を中心とする純農村地域でした。しかし、明治中期の淀川改修工事を機に、新淀川河川敷にあたる当地区は、大規模工場地帯に変貌しました。大正年間には工業生産が99%を占めるのに対して、農業生産はわずか0.5%に止まります。その後、昭和20年の大阪大空襲より大半は焼失しましたが、戦後再び工業地として、また住宅地として復興し今日に至っています。
八坂神社の開基は不詳ですが、永徳三年(1383)に社殿が再建されたと伝わっているので、14世紀末には牛頭天王社として同地に存在していたと判断されます。明治四年に社名が「八坂神社」(祭神は素(す)戔(さの)嗚(おの)尊(みこと))に改められますが、京都の八坂神社との直接の関係はないとされます。

無形文化財に指定される
 海老江八坂神社の宮座は、昭和47年大阪府の無形文化財に指定されています。江戸時代から続く宮座は3座あり、1月17日(春座)、10月17日(秋座)、12月15日(冬座)に神事が行われていました。戦後になって、秋座は廃絶。春座は橋本家だけで運営。冬座は最も伝統様式を残し、かつては三十数軒を数えて女人禁制の無言神事として有名でした。
報告では、かつて頭屋(とうや)の家で行っていた宮座神事を、平成23年から神社で行うように変更した経緯を説明。頭屋(当番)の負担軽減と神事作法の簡便化(合理化)を主目標としたこと。直会(会食)に女性も参列出来るようになったことなどを挙げています。手伝いの女性や座衆の家族の反応は、概ね肯定的なことを、聞き取りから紹介。座衆など宮座関係者の念入りな議論が功を奏していることは明らかです。

民衆史としての宮座
 宮座儀式や神社との関係などに質問が集中しましたが、宮座が村の自治組織であって神社とは別個のものであることが、例会に参加した地元の方から強調されました。今まであまり取り上げられなかったテーマで、いわゆる民衆の生活に直接かかわる問題を取り扱っていると思われます。
 報告と議論あわせて2時間半。いろいろな質問が出され、大変有意義な例会となりました。

2016年度大阪民衆史研究会総会報告

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 総会は松浦由美子さん(副会長)の司会で午後2時からT部総会がはじまり、尾川昌法会長のあいさつ(以下要旨@)、林 耕二事務局長の経過報告と方針案の報告、滝川恵三会計担当より決算・予算案の報告と山崎義郷会計監査より監査報告が行われ、最後に新運営委員の提案と全体の承認が行われました。新運営委員は(カッコ内はその後互選により決められた役職)、尾川昌法(会長)、島田 耕(副会長)、松浦由美子(副会長)、林 耕二(事務局長)、二宮一郎(事務局次長)、滝川恵三(会計)、柳河瀬精、竹田芳則、福林 徹、田中隆夫、福田 耕、高島千代(新)の12名。(退任は小松 忠、齋藤信ェ、森紀太雄(死去)の3名。)会計監査は竹村三仁、山崎義郷の2名。以上の方々が信任されました。
 休憩後、講演と映画によるU部がはじまり、講演として島田 耕さん(副会長)による、「沖縄の心−オール沖縄闘いの原点」の報告(以下要旨A)があり、映画「沖縄(うちなあ)ぬ思(うむ)い」が上映されました(1時間38分)。

A島田 耕さん「沖縄の心−オール沖縄の闘いの原点」

 沖縄の変化を記録する
 島田さんは映画「カメジロー」を制作後6〜7年沖縄で暮らした。ここ2年ほどの沖縄の怒濤のような変化について、上地完道さんと話した。「なぜこんなに急激に沖縄が動いているのか?」と。「やろうよ」と上地さん。「オール沖縄」に結実した沖縄県民の歴史的なたたかいを(記録映画の)作品にしようとの話がまとまった。
 上地さんはカメラマンで、東京オリンピックのあった1964年頃に一緒に仕事をしていた。彼は軍政下の沖縄には占領軍にマークされていて帰島できなかったが、70年代に沖縄に帰り、「シネマ沖縄」プロダクションをつくった。島田さんも参加し、毎日コツコツ沖縄の映像を撮りだめしてきた。沖縄の自然、ジュゴンの姿、基地前での抗議行動、米軍機墜落事件の現場や米軍犯罪の報道、抗議集会、ヘリパッド周辺農村の生活、辺野古の座り込み、海上抗議行動、沖縄国際大学での米軍ヘリコプターの墜落、翁長知事誕生前の県民大集会での菅原文太さんの演説など、今回のフィルムには、それらの映像と、地上戦のようすは米軍撮影の映像を利用した。ほかに砂川闘争の記録映像を入れた。米軍駐留を憲法違反とした伊達判決は結局最高裁で合憲とくつがえされた。これで米軍が何をしても合憲という枠組みが作られ、その裏には最高裁長官の田中耕太郎らが米軍と密談していたことなどがあったことが最近明らかにされている。

「沖縄人をばかにするな!
 2015年6月23日の慰霊の日、安倍首相が知事にも会わないという異常な事態の中、会場で話す安倍首相に対する県民の抗議のヤジをマイクはかすかにひろっていた。
オール沖縄がかたちづくられてゆく経過が映画後半にまとめられていった。もともと保守の稲嶺市長が出馬する時、「基地をつくらせない」という一点で革新勢力との間で協定がまとまり、選挙となって稲嶺市長が誕生した。  教科書から「沖縄戦」の記述が削除されることになり、さらに少女暴行事件が起こり沖縄県民は保革を問わず10万人が結集する大集会を開いた。しずかな怒りが沸騰する集会だった。知事選挙直前の集会で翁長氏がマイクに向かって言い放った言葉「沖縄人をばかにするな!」が沖縄県民のこころを代表している。

9月例会報告 小林義孝さん(会員)「『戦争遺跡』の再分類」

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「軍都おおさか」
 この夏『大阪春秋』(2016年夏号)は、「軍都おおさか−71年目の戦争遺跡」と題する特集を組んだ。小林さんは、その編集責任者である。大阪砲兵工廠をはじめ大阪には数々の戦争遺跡があることは知られている。今回の同誌特集は「多くの将兵が集まる軍隊は巨大な消費を生みだし、軍の物資の生産には下請けや孫請けで多くの民間工場がかかわった。大阪という都市の発展に、軍隊は大きな役割を担ったのである。」(小林)という点に重要な眼目があり、「戦争遺跡」についての新たな視点を提供している。

「戦争遺跡」とは何か
 報告者は、まず従来の戦争および「戦争遺跡」認識についてステレオタイプの発想があるのではないかと疑問を呈し、戦争というものを身近などこにでも存在する軍や戦争の痕跡から考える必要があるのではないかと主張する。
 戦跡考古学の草分け的存在の池田一郎は「戦争遺跡」を「近代日本が繰り返した戦争と、その戦争の遂行のために民主主義や平和を否定し弾圧した事件を物語る『跡』や『物』を『戦争遺跡・戦争遺物』とよび、それにかかわる調査や研究を『戦跡考古学』と呼んでいる」(1994)と定義している。菊池 実は「戦争遺跡という用語は、考古学研究者の中から生まれてきたというよりは、歴史教育者協議会所属の教職員による地域の掘り起こし運動中から登場してきた」(2005)そして「戦争遺跡とは、近代日本の国内・対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」(2005)とした。

「戦争遺跡」の再分類−3つの区分
 戦争というものについてのステレオタイプの発想の見直し、戦争を身近などこにでも存在する軍や戦争の痕跡から考える必要、これらの点が報告者の言いたいところである。 報告者自身言われるように、軍隊や戦争を肯定する立場ではなくて、むしろ軍隊や戦争には反対の立場を明瞭にされている。
 そこで、「戦争遺跡」を(1)陸軍省や造兵廠、飛行場、軍人墓地、鉄道インフラ、靖国神社など国家の装置としての軍と関連施設の遺跡、これらは平時の組織であり兵力のストックととらえる。(2)「台場」、要塞、防空監視所など「国土防衛」のための施設の遺跡、(3)硫黄島、沖縄、広島など戦闘、戦闘被害の遺跡、の3つに区分することにした。小林氏は、この区分について、戦時か平時かの状況の加味、日本の近代史の中で軍の意味を考える、軍需と民需の関わりなどを条件として考え、「戦争遺跡」を「軍事・戦争遺跡」ととらえなおすことを提起している。ところで最近、「軍事遺跡」あるいは「軍事遺産」という言い方がされることがある。これについて「戦争遺跡ではなく て軍事遺跡(軍事遺産)と呼称される背景には、かつての戦争を肯定的にとらえようとする一部の研究者の思惑が感じられる」(菊池 実「近代の戦争遺跡」)との評価もされている。小林氏の主張、「軍事戦争遺跡」は、戦争肯定の立場ではないが、平時のものを軍事遺跡、戦時のものを戦争遺跡と区別し、再分類した3つの遺跡を、(1)は軍事遺跡、(2)は軍事遺跡と戦争遺跡、(3)を戦争遺跡としている。

報告と質疑を受けて
 「戦争遺跡」定義の議論は、なかなかむずかしい。質疑の中で、当然戦争の本質についても意見が交わされた。報告者は、「悲惨な戦争」論だけでは現在の状況に対応できるのか?という問題を投げかけた。これに対して、「戦争の本質は悲惨なもの」とする意見や、戦争の苦しい体験から、戦闘機に興味を持ったり、戦争と利益をむすびつけて考えることなどは感情的に理解できないとする強い意見も出された。それは、戦争を体験した真実の声であると思われる。一方で、戦争の原因論として、それは(資本の)利益をめざすものということが特に近代以後の大方の戦争の背景となっていることはまちがいないところであり、大阪が軍隊を核としてそれに付随する大小のさまざまな工業の発展によって経済成長を遂げてきたことを押さえておくことは重要である。なぜなら、安倍政権が今やろうとしていることは武器輸出の拡大、経済の軍事化そのものであり、その先には戦争をする国の未来がひかえているからだ。「戦争はだめだけど、武器を輸出するのは今の不況のもとでしょうがない。」という人に、その危険性を説く必要があるだろう。軍事経済で発展するとどうなるのか、過去の見本が足元にある。経済の軍事化は軍産複合体による戦争誘発をすすめるのみならず、「戦争したらもうかる」という一部のゆがんだ戦争支持の市民感情をもつくりだすことを警戒すべきだ。
 報告者の提起は、軍と戦争の把握の射程を拡げることであり、それは従来の戦争の悲惨な結果だけを説明して反戦を訴えるのではなく、平時の軍隊、経済と軍隊、戦争の関係の理解などを通して、国民が時には主体的にも関わることもありながら、戦争にまきこまれてゆくメカニズムを解明しようということではないだろうか。この問題提起は、その意味で新たな視点を提起している。ただ、「戦争遺跡」の定義の話が先行したので議論がすれちがい、もう少し大阪の軍事とむすびついた経済発展の具体的な様相についての説明があればよかった。そして、報告者の説明で、もっと検討を要すると思われる点もあった。例えば近代の日本軍は外征用であって平時の軍隊は兵力のストックという評価は図式的で疑問である。秩父事件(1884年)や士族の反乱、特に西南戦争(1877年)などを鎮圧したのは徴兵制(1873年)間もない日本の軍隊であった。近代の日本軍は台湾出兵(1874年)と西南戦争という外征(帝国主義戦争)と国内治安出動を経て軍事機構、軍編成を整備確立していったからである。軍隊の本質、平時と戦時の区別はそう簡単ではないと思うがどうだろうか。

10月例会報告 上山 慧さん「神戸における大逆事件関係者」

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「大逆事件」
 明治政府は、社会主義運動を弾圧するために1910年5月、宮下太吉による明治天皇暗殺目的の爆裂弾実験を利用して幸徳秋水以下全国の社会主義者数百人を検挙した。そして刑法第73条の大逆罪容疑で26人を起訴し、一審非公開の大審院で1911年1月18日、死刑24人・有期懲役2人の判決を下した。翌日天皇の特赦で12人が無期懲役に減刑された。欧米各国の抗議のなか同24日・25日処刑が実行された。「管野(*管野スガ)・宮下ら4人(*他に新村忠雄、古河力作)の暗殺計画はあったものの、それ以外は冤罪であり、社会主義運動は<冬の時代>を強いられた。」(岩波『日本史辞典』)。1947年日本国憲法公布の特赦により刑の効力が失われたが、冤罪が認められたわけではなかった。1961年坂本清馬(無期懲役)らが無実を訴えて再審請求を行ったが67年最高裁での特別抗告も棄却された。その後現在まで、各地で犠牲者の顕彰運動が行われている。

 神戸における事件犠牲者の調査
 上山さんは大谷大学の大学院博士後期課程に在籍、学部卒論に高木賢明(獄中で自殺した僧侶)をとりあげ、大学院ではその他の犠牲者の研究調査を行っている。大逆事件を研究する貴重な若手研究者である(24歳)。今回は神戸の関係者についての調査報告である。事件の捜査を指揮した検事総長代理平沼騏一郎は「被告は死刑にしたが、中に三人陰謀に参与したかどうか判らぬのがゐる。ひどいと云ふ感じを有ってゐた。」と回顧録に記している。「大逆事件」が権力がでっちあげた「事件」であることを象徴するような言葉で、ひどい話だが、この3名とは坂本清馬、岡林寅松、小松丑治と考えられる(神崎清)。上山さんは今回、事件に連座した岡林と小松、容疑者として取調を受けた井上秀天、中村浅吉、田中泰の地元神戸でもほとんど知られていない5名をとりあげ、各人の思想、人となり、事件後の生き方について調査した。
 ■岡林寅松(戦後復権)は高知市生まれ、大阪の医術開業前期試験に合格し神戸海民病院(船員や船客を対象とする)に就職した。『万朝報』の幸徳と堺の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持った。「神戸平民倶楽部」で社会主義の研究会に参加し、これには判事、検事、小学校校長、船員、質屋番頭、銀行員など多彩な人物が参加していた。1906年岡林は結成間もない日本社会党に入党している。1907年同倶楽部は元町6丁目の「元六倶楽部」で「第1回社会主義講演会」を開き、森近運平、武田九平、荒畑寒村、大石誠之助が参加している。報告者は、 岡林の思想について予審調書にある「無政府共産主義」ではなく中間的折衷派(直接行動、議会政策併用論)に近いものとしている。
 ■小松丑治(仮釈放)は高知市生まれ、郵便局に勤めたが官印盗用・官文書偽造などの容疑で禁固刑を受けている。のち神戸海民病院に岡林と共に勤めている。1907年「大阪平民社」で開かれた幸徳秋水歓迎会に参加した。報告者は、小松は「無政府共産主義」でも幸徳秋水を「崇拝」していたものでもないとしている。
 ■井上秀天(幼名秀夫)は鳥取県中北条村(現・北栄町)に生まれた。中学卒業後上京して曹洞宗大学林に入学、インド哲学を学び「秀天」と改名して景福治で住職陸鉞厳を補佐し、彼について台湾に移った。帰国後、『平民新聞』読者となり、非戦論にも共鳴する。日露戦争の従軍布教師兼通訳となり出征、肺結核で後送され神戸に移った。神戸女学院の講師を勤め、「神戸平民倶楽部」会員となる。未刊の雑誌『赤旗』に社会批判の文章を書いた。「大阪平民社」の幸徳歓迎会にも小松と共に参加した。井上は社会主義者らと交流しているが、自らを「無抵抗主義の人物」「平和主義の人物」と称しており、暴力とは一線を画している。
 ■中村浅吉は長崎県島原で生まれた。高等小学校準教員資格を得て看護卒として兵役に服し、1902年頃キリスト教の洗礼を受けた。『万朝報』の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持った。長崎で『平民新聞』を購読、社会批判の投稿も行っている。岡林や小松とも際を結んだ。本人はキリスト教社会主義者の木下尚江に親近感を持っていたが、1907年頃よりキリスト教と社会主義が思想的根底を異にしていると気づき、社会主義から離れつつあった。
 ■田中 泰は神戸市の生まれで、大阪や九州で暮らしながらさまざまな職を経て神戸新聞の記者もしていた。「大阪平民社」の人びととの交流があり、1909年頃千駄ヶ谷の幸徳秋水宅に居候をし、向島で「マルテロ社」を立ち上げるが、仲間と仲違いをして神戸に帰った。取調では「直接行動」(ゼネストなど)には賛成だが、「暴力革命」や暗殺を行う無政府共産主義とは違うと供述している。しかし内山愚童の『入獄記念無政府共産』を知人に送ったことがわかり不敬罪で逮捕・拘留された。懲役5年の判決を受けた。

犠牲者たちのその後の人生
 子安宣邦は「『大逆罪』は一二名の連座者の死を直ちにもたらしただけではない。仮出獄者に、出獄者だけではないその縁類者にも苦しい無残な死を強いて、最初の死刑判決をその周縁に拡大しつつ究極的に実行してしまったのである。」(『「大正」を読み直す−幸徳・大杉・河上・津田そして和辻・大川』)と述べた。上記五名は当初証拠不十分として起訴保留となったが、小山芳郎検事は強引に起訴を主張、岡林と小松が起訴され両名は「恩赦」で無期懲役となった。岡林は長男と父の死、妹の離縁、妻との離縁という不幸に見舞われた。仮出獄後はエスペラント語研究にうちこんだ。小松は仮出獄後も特高警察の監視を受けながら養鶏業を妻はると営んだ。1913年荒畑寒村が、はるを訪ねた事実は、従来大杉栄の訪問と誤解されてきた(神崎)が今回上山氏の調査で寒村の訪問と訂正された。彼の死後、森長英三郎は妻はるについて「その姿は大逆事件で、ながい年月いためつけられた老女という以外に形容のしようもないものであった。」と語っている。井上は「要視察人」として官憲の監視下にありながら 「新仏教同志会」の機関紙上で非戦論や社会批判の文章を投稿した。その後英米の総領事書記などを勤め仏教・東洋思想の研究を行い、『禅の文化的価値』などの著書がある。中村、田中については不明である。質疑では活発な意見交流が行われた。高知や山梨など現地にも旺盛に調査に行かれた成果も聞けてよかったが、国家権力の犯罪としてその実態、動機や意図などをもっとあきらかにする必要があるのではという意見、「元六倶楽部」など舞台となった場所の確認の必要など多くの意見が出され盛り上がった。

11月例会報告 上村修三さん(会員・大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員)「泉州地方における明智光秀伝承について」

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「明智光秀の子孫」との出会い
 上村さんは、ある新年交流会で「明智光秀の子孫」という柳別府武志さんと出会った。氏は東大阪の金型を作る会社の経営者で、「明智光秀の子孫」という一族の由来と伝承を後世に伝えるために文書化したい旨を上村さんに依頼した。
 その後、この話に興味を持った上村さんは、柳別府氏や姉の谷本英子さんの聞き取りを行い、資料の収集を始めた。

「鹿児島に逃れた」という光秀の長子光慶
 2009年、柳別府武志氏に鹿児島在住の叔母(父の異父妹84歳)から電話があり、柳別府氏は明智光秀・長子光慶の直系の子孫であるという一子相伝の話が伝えられた。その内容は、@柳別府家は明智光秀直系の子孫。A柳別府家がある敷地が道智城である。B柳別府庚申供養塔下の宝物とその処分。C太宰府と柳別府家との由縁、の4項目であった。
 戦国時代に日本を訪れたイエズス会士ルイス・フロイスの書状によれば坂本落城の際に明智の二子は死んだとされる(フロイス『日本史』第5巻第58章「明智の不運と十一日後の死去について」174頁)。また高柳光寿『明智光秀』には、「彼らは・・噂通り死んだのであろうと思われるが逃げたというものもある」と逃亡の可能性にも触れている。
 柳別府武志氏に伝えられたのは、本能寺の変後、光秀が山崎の合戦で敗れ落ち武者狩りで殺されたのち、光秀の長子光慶が鹿児島まで逃げのびて現在の大崎町に到ったという話であった。

幻の山城道智城と柳別府家
 光秀の長子光慶が落ちのびて子孫が構えたという城が道智城であるという。道智城は大崎町の下永吉柳別府村の小高い山頂にあったらしい。昭和50年代に山は削平されてなくなったが、そこには柳別府庚申供養塔(18世紀半ば)、菅原道真、明智光秀、柳別府の石碑があった。道智城の名前は、道真の道と明智の智の二文字に由来するという。村人はここにあった屋敷をどん(殿)、ふもとの平地はどんの下と呼んでいたという。1日と15日には坂の入り口にあった氏神どんに村人がお詣りしていたが、6月15日は坂本城落城の日でもあった。

長子光慶の逃亡経路と妙心寺
 柳別府氏が、その後資料を集めて考えた光慶の逃亡経路は、本能寺の変の際に亀山城にいた光慶は明智家に縁のある京都妙心寺に行き、次に妙心寺派の現・岸和田市にある本徳寺に入った。そこから日向国(現・熊本県あさぎり町上北柳別府)に海路渡り、秀吉の九州検地を逃れてさらに現・鹿児島県大崎町柳別府に到着し、そこに道智城を構えた。付近に大慈寺があり、信長が焼き討ちした甲州恵林寺にいた大慈寺の僧が光秀の計らいで逃れることができたので、光慶を匿ったという。

明智光秀ブームと民俗伝承
 1960年代頃から明智光秀が注目されるようになった。諸説ある中で、光秀が生きていたという話も多い。有名な話は光秀が徳川家のブレーンとなる天海であったという説である。光秀と関係する亀岡市、福知山市、長岡京市、岐阜市などの各自治体ではそれぞれの地域と光秀との関わりにもとづいて町おこしにもとりくんでいる。NHKの大河ドラマでは光秀の娘玉を主人公とする「細川ガラシャ」が取り上げられる予定だ。
 なぜ光秀ブームなのだろうか?関西を中心に各地で昔から語り継がれている明智光秀伝承があるという。「光秀が年貢を免じてくれたから、盆にガキボトケを明智光秀の霊ともいい、縁側にまつる」(京都府当尾村)「光秀が裏毛の年貢を免じてくれたかで、盆に軒先に燈籠を吊るのは明智光秀の霊のため」(奈良県榛原町初生・赤瀬)など、多くが光秀が年貢を免じてくれたから、という話が多い。庶民の心の中に生き続けている明智光秀像というものが感じられる伝承だ。光秀や長子の光慶が生きのびたという伝承がある一方で、殺された信長が(死体も見つかっていない)実は生きていたという話はあまり聞かない。どの戦国大名よりも民衆を冷酷非道に虐殺した信長は、少なくとも庶民の間では、誰も生きていてほしいと思わなかったからではあるまいか。

12月例会報告 フィールドワーク・見学地 西宮市満池谷町「『火垂るの墓』横穴壕を確定する〜野坂昭如氏を偲んで」報告・案内 土屋純男さん(満池谷町自治会副会長)・二宮一郎さん(会員)

 12月3日は、暖かな晴天に恵まれました。西宮市満池谷町の土屋純男さん宅に集合、今年二回目のフィールドワークです。初めてこの地を訪れる人もいて、途中道に迷って池を回っていたという話もありましたが、苦労しただけ充実した例会になったと思います。最初に、二宮会員が二つの横穴壕を確定するまでの経過報告をしました。随時、地元自治会副会長の土屋さんから、地元住民への聞き取り詳細が語られ、参加者から驚嘆の声があがりました。関係者への聞き取りに一部同行した者として、土屋さん(73歳)の踏ん張りには、頭が下がります。 また、地元住民清水孝一さん(87歳)の「野坂少年とよちよち歩きの妹さんを防空壕の前で見かけた」という貴重な目撃談を、報告レジメに記載できたことは大変幸運でした。さらに、前日の2日付朝日新聞朝刊(全国版)に、永井靖二記者の「火垂るの墓 ここが原点」という記事が掲載されたことは、グッドタイミングでした。用事で東京に居たという会員から、「たまたま、この記事を見て驚いた」との声もありました。マスメディアの影響力の強さを感じた所です。
 報告と質疑議論あわせて2時間余。ようやく、フィールドワークとなりました。土屋さんがガイド役で、おばさんの家、東側の崖に掘られた土壁の横穴壕跡、ニテコ池・下池の南側を巡り、最後に西側崖の上にあった金属加工会社社長宅コンクリート造り横穴壕跡まで歩き、ここで解散となりました。
  ニテコ池を望みながら、元甲陽学院高校教諭の山内英正さんが、万葉集の一首「我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ」(巻 三・二七九)を紹介。この辺り一帯がかつては、名次山(なすきやま)と呼ばれており、神域に当たることを強調されました。また西宮・芦屋研究所の蓮沼純一さんが、ニテコ池のかつての状況などを話してくれるなど、フィールドでも盛り上がり、大変実りある例会となりました。 今回は、共同通信社神戸支局から女性記者も取材のため参加しており、海外に「火垂るの墓」が発信されることになります。