HOMEおさそい機関誌紹介 例会案内例会資料室活動資料室リンク集

大阪民衆史研究会の諸活動

 このページでは大阪民衆史研究会の活動を紹介します。内容は会員や「会」の主張、意見、さらに小論文や資料の公開などです。

(掲載期間が満了した記事は「活動資料室」へ移動しています。「活動資料室」もご覧下さい)

色川大吉さん逝く―色川さんと「色川史学」

高島千代

 2021年9月7日、色川大吉さんが亡くなられた。Web上でこのニュースを目にし、「とうとう 来たか」という思いがあふれた。1925(大正14)年7月23日生まれの96歳。色川さんは、1960年代以降の「民衆史」「民衆思想史」研究を文字通り主導されただけでなく、水俣調査、ユーラシア大陸横断やチベット調査、「日本はこれでいいのか市民連合」の共同代表を務めるなど、幅広い活動で知られる。『山梨日日新聞』の追悼報道(2021年9月8日)によれば、1998年に山梨県北杜市に移られてからも、移住者を中心とした相互扶助グループ「猫の手くらぶ」を結成され、様々な地域活動をされていたらしい。色川さんは歴史研究者であるだけでなく、一人の「人」として最後の最後まで走り続けられた。今なお多くの人が、「色川史学」だけでなく、その人としての「語り」や生き方に惹きつけられる所以だろう。
  かくいう私もその一人だ。学生時代に『自由民権』(岩波新書・1981年)、『近代国家の出発』(中公文庫・1974年)や『新編 明治精神史』(中央公論社・1972年)などを読み、このような運動・思想、歴史が日本にあったことに驚くとともに、明治10年代の「人」、さらには色川さんという「人」自体がみえる叙述に魅力を感じたことを覚えている。当時の私は「日本社会の政治的な無関心」という問題に興味をもっており、最初に読んだ丸山真男『日本の思想』(岩波新書・1961年)のシャープな分析、知識人らしい叙述の「かっこよさ」にも魅力を感じていたが、それ以上に、丸山さんの簡潔かつ抽象的な構造分析には、本当にそうなのかという疑問が残った。また佐々木潤之介ら当時の民衆史的な歴史学についても、なぜこのように階級闘争の枠組や経済構造を前面に出さないといけないのか、当時の私にはよくわからなかった。そうしたなか、「自由民権」に関わる「人びと」の行動や意識として最も説得的だったのが色川さんの書だったわけだが、一方でそれは、「語り」の主体である色川大吉という「人」を常に意識させるものでもあった。その叙述には、北村透谷・大矢正夫、細野喜代郎や須永漣造など近代成立期、武相地域に生きた青壮年の行動や意識に全力で近づこうとする色川さん、史料を読んで感動する色川さん自身の存在が刻まれていたからだ。 言うならば、色川さんは対象を客観的に分析しつつも、決してつきはなさない。よって彼の歴史研究に接する者は、分析結果を読むというより、著者自身のエネルギーや人柄にも向き合うことになる。このように色川史学は、明治10年代の人びとの行動や意識を明らかにしただけでなく、色川大吉という「人」そのものと切り離すことができないもの、著者と明治の民衆との「交歓」として在り続けている。こうした「交歓」の書が成立したのは、色川さんと明治10年代の民権家たちの間に共通する経験があったからではないか。広範な社会活動で示された色川さんのエネルギーやユーモア、既存の社会・国家に対する根本的な批判意識は、明治期の民権家に示された「元気」、遊び心、眼前の社会・国家システムをものともしない秩序意識、その解放感・明るさに通ずるものがある。学徒兵として軍隊・戦争を経験し、敗戦で日本の国家秩序が崩壊する局面、その後新たな日本社会が生まれる場に立ち会った色川さんと、幕府が解体し、薩長政府のもと曲がりなりにも近代国家が成立する過程で、自らも近代国家を創出しようとした民権家の経験の間には、その秩序意識を方向づける共通点が多くあったはずだ。
 そして、こうした秩序意識は、私のような人間にはとてつもなく心地よいものだった。実は私がはじめて色川さんにお会いしたのは、オーバードクターの時だ。この期間を利用して実家の東京に帰り、国立歴史民俗博物館の研究生をしながら、東京経済大学の色川さんの授業にもぐりこんだのである。この手の非合法行為?は、おそらく色川ファンの多くが経験済みだと思うが、それはちょうど色川さんが定年を迎えられる年で、私は何とか間に合ったことになる。今思うと恥ずかしいが、「偽学生」のくせに、最終授業では色川さんに小さな花束を手渡した。最終授業の話は多岐にわたり詳細は覚えていないが、そこではやはり色川さんご自身の経験や社会批判と明治の若者たちの思想が、重ねて語られていた。「本当はオッペケペーでもやろうと思っていた」と言われ、それを実行されなかったことだけが残念だったのを覚えている。
 なお、ご退職後、色川ゼミの卒業生や周辺の色川ファンを集めて「フォーラム色川」が結成された時、私は迷わず参加し、そこで初めて直接お話しする機会に恵まれた。今でもはっきり覚えているが、私が秩父事件を研究していること、指導教員からも活字史料の豊富な秩父事件を勧められたことを伝えると、色川さんは概ね次のように言われた。「僕たちの頃は活字史料などなかった。すべて自分たちで地域に入って史料を発掘し、手で書き写した。活字史料があるから研究しろなどという歴史研究者を僕は軽蔑するね」。思ってもみない激しい言葉に驚いた。確かに苦労はされたのだろうが、そこまで言われるのかとも思った。しかし今考えてみると、この言葉は、自ら「民衆史」を切り開いてきた、色川大吉の自負だったのであり、甘い態度で研究に臨んでいた私への叱咤でもあった。
 実際、今回改めて『新編 明治精神史』を読み直してみて、漢詩文やメモ・断簡や所持品にいたるまで徹底的に史料を渉猟し、ご子孫から聞き取りを行い、さらに該博な知識を動員してそこから余すことなく読み取ろうとする姿勢、読み取りの際の様々な工夫、その結果を積み上げた分析には、依然として圧倒された。自ら語ること、文章を残すことの少ない「民衆」の意識を追いかけるからこそ、地域に入り、徹底的に手がかりを探さねばらない、その一挙手一投足を見逃すな、それができなければ民衆の意識に接近することなどできない―色川さんはそう言いたかったのかもしれない。
 9月20日付『朝日新聞』で成田龍一さんは次のように述べている。「色川さんは、社会史という、あらたな潮流に対しては峻拒の姿勢を取った。「民衆」への溢れる思いが、歴史の分析方法に関心を集中し、社会の全体像を描く視点といったことに議論を重ねる社会史を、頭でっかちで、理論過剰と認識したのであろう。」確かに色川さんの社会史に対する姿勢は、同じ時期に民衆思想史を担ったもう一人の巨人、安丸良夫さんとは異なる。安丸さんはフランス・イギリスなどヨーロッパの社会史、またI.ウォーラステインの世界システム論などを下敷きにして議論を組み立てている。色川さんは当然ながら安丸さんの通俗道徳論をふまえておられたが、社会史との接点はみられない。それはやはり、自ら模索してきた民衆史の方法に対する「自負」に裏打ちされた姿勢だ ったのだと思う。
  色川さんから投げかけられた言葉に、今の自分が応えられているとは全く思わない。また、立憲制樹立の政治運動に止まらない文化運動としての自由民権運動像、民権家の革新性だけでなく幕末の儒学的な世界観・秩序意識と明治の政治意識との連続性の指摘、さらに研究者は社会とどう関わるべきかなど、色川さんがその一身一生をもって提起した問題は、未だに自由民権運動・民衆思想史研究、また「人」としての課題であり続けている。自分はこの問いに応えることができるだろ うか。1994年11月、秩父事件110周年記念集会が吉田町(現在秩父市)で開催された際に、講演をお願いした色川さんは金髪で現れた。「昨日、金髪に染めてきました」と言って笑われた、その姿を思い浮かべながら、また自らを省みながら、今夜は一献傾けたい。
(2022年1月掲載)

菅首相による学術会議会員の任命拒否に抗議し、その撤回を求める(声明)

1) 理由なき6名の任命拒否
 菅首相は、日本学術会議が推薦した会員候補105名のうち6名の任命を拒否した。首相は任命拒否の具体的な理由を明らかにせず、また臨時国会での所信表明演説では、この問題についていっさい触れていない。各世論調査では6〜7割が「説明不足」としている。

2) 法と従来の政府見解にも反する今回の任命拒否
 日本学術会議法第七条では「会員は第一七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」ちあり、第一七条では「日本学術会議は規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者ののうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦するものとする」とあり、学術会議会員の任命については学術会議の推薦が何より尊重され、内閣総理大臣の任命は形式的なものであることは、これまでの政府見解を見ても明らかである。1983年5月12日の参院文教委員会で中曽根弘首相(当時)は「内閣総理大臣による会員の任命行為というものはあくまで形式的なものでございまして、会員の任命に当たりましては、学協会等における自主的な選出結果を十分尊重し、推薦された者をそのまま会員として任命するということにしております。」名言している。  菅首相の今回の任命拒否は、首相が「法に基づく」と言った言葉とは裏腹の、法と従来の政府見解にも反する許しがたい暴挙であると言わなければならない。

3) 学術会議設立の精神と日本国憲法を踏みにじる任命拒否
 1949年、日本学術会議の発足にあたり中心となった科学者たちは、戦前の日本の科学者が、軍国主義体制に協力せざるを得なかったことを、例えば日本の原爆開発(未完成)に関わった仁科博士など体験も含めて反省し、「今後は化学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和復興と人類の福祉増進のために貢献せんと誓うものである」とし、「日本国憲法の保障する思想と良心の自由、学問の自由及び言論の自由を確保するとともに、科学者の総意の下に、人類の平和のためあまねく世界の学会と連携して学術の進歩に寄与するよう万全の努力を傾注すべきことを期する」『日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)1949年1月22日』と誓っている。
 6氏の任命拒否の具体的な理由を首相は明確にしないが、具体的状況から推測されることは、安保法制など政府の政策に反する見解を6氏が表明されていることにあると考えられる。時の権力が気に入らない意見、研究について、政府が排除するようなことは思想、良心の自由、学問の自由を否定することであり、戦前のファシズムに回帰することにつながりかねない。それこそ、学術会議設立の精神と、日本国憲法の原則をふみにじる行為である。

4) 6氏任命拒否の具体的理由を明らかにし、任命拒否を撤回することを求める。
 政府は任命拒否の具体的理由を明らかにしないばかりか、学術会議の「組織のあり方論」に論点をすりかえ、学術会議を政府の思う方向へと向かわせるような制度改変さえ企んでいる。現在の学術研究における学術会議の役割は例えば学術会議の勧告が国立文書館の設立につながったことなど大きなものがある。 私たちは、日本学術会議が日本の学術文化に果たしている重要な役割を確認し、今回の任命拒否を許さず、政府はその理由を明らかにすることと、任命拒否を撤回することを要求するものである。
                                                2020年11月14日
                                                大阪民衆史研究会運営委員会

「維新政治と大阪都構想 大阪が進むべき別の道を考える」

中山 徹さん

*2.27市民集会講演の要旨。会員の山崎義郷さんから紹介がありました。
 維新政治の特徴との関係で、都構想がどのような位置にあるのか?
1.維新政治の特徴
@ 呼び込み型の経済対策

 大阪経済活性化のための維新の考え方は非常にシンプル。大阪の経済低迷の原因を考えて対策するのではなく、とにかく大阪経済活性化に役立つものを呼んでくるという「呼び込み型の経済対策」になっている。
  大阪の成長戦略(2018年3月)であげられている経済活性化のための戦略の柱は、「健康」「インバウンド」「情報革命」「人材の強化」の4つで、それを実現するための方策として、当面維新がやろうとしているのが、万博・カジノ(IR)。万博は短期間のイベントなので、万博をきっかけとして、カジノ誘致で大阪経済を活性化させようというのが経済戦略の中心になっている。
 この中には成長のための5つの源泉が書かれていて、その一番目が内外の集客力強化。結局は万博・カジノによるインバウンド=外国人観光客の増加で大阪経済を発展させようとするもの。
  こういう考え方は昔からあった。大阪経済が低迷し始めた高度成長期には、大阪府や大阪財界は、大阪経済発展のためにコンビナートをつくらないといけないという考え方だった。大阪に足りない石油化学工業や鉄鋼業を誘致することが当時の大阪の経済政策だった。
  80年代には、関空誘致で大阪を世界的なネットワークの中心にしようとした。90年代に入ると、プロジェクト産業と言われる大型公共事業によって民間投資を誘発しようとした。そのあと、「パネル・ベイ」と称して、シャープの液晶工場を誘致したりした。要するに、大阪の経済政策は、その時々のリーディング産業を誘致して、経済活性化させるというものだった。それがいまでは最悪のリーディング産業としてのカジノに変わった。
A 医療福祉の削減と民営化
 医療福祉の削減だけでなく地下鉄・バス・保育所・幼稚園など何でも民営化する。
B 競争と自己責任
 競争は、学校教育に端的に表れている。その例は、チャレンジテスト。生活保護でも自己責任が強調される。
C ファミリー層への金銭給付
 比較的若い世代をターゲットにして、金銭給付をしている。たとえば、高校授業料減免、保育料無償化など、ただにするというわかりやすい施策を子育て世代に対しておこない、ここに財源をつぎこんでいる。しかし、施策を手厚くするわけではない。保育料を無償化しても、保育の質を上げるのではない。ただにするだけ。しかも、その財源は保育所の民営化で捻出したもの。今度は府立大学の無償化も打ち出している。
D イメージ戦略と組織戦
 維新は、統一地方選挙で「大阪の成長を止めるな」というスローガンを掲げたが、成長しているという根拠は何もない。「都」構想に端的な、根拠のないイメージ戦略を展開するが、同時に選挙においては、徹底した組織戦を展開する。
E 強権と分断、民主主義の軽視
 自分たちに歯向かうものに対しては徹底的に攻撃する。都構想の住民投票が民主主義軽視の端的なもの。
2.維新政治の頂点としての都構想とカジノ
*都構想の本質
 都構想は大阪成長戦略を実現させる仕組みで、前回の住民投票のときに叫んでいた二重行政の解消は最近言わなくなっている。大阪市を解体することで、開発に関する権限、財源を大阪府に集中させるのが狙いだ。
 大阪市を解体してつくられる特別区は半人前の基礎自治体で、権限が少ない。維新は、「中核市並みの権限」というが、それでは4つの中核市にすればいいのにそうせずに特別区にするのは、大阪府に権限財源に集中させるためだ。特別区にすることで、基礎自治体からまちづくりの権限を奪う。
 また、特別区は財政的に自立できない。大阪府に入ってくる財源をもう一度特別区に分け与える仕組みになっていて、どれだけ配分されるかは大阪と特別区の協議によって決まる。これが致命的問題だ。この結果、福祉施策の削減が進むことは明らか。
 いままでの区役所には窓口機能しか残らない。「二アイズベター」と言っているが、市民から行政が遠くなり、単なる行政の広域化に過ぎない。
  しかも、いったん大阪市をなくすと、特別区を市に戻す法律はないので後戻りできない。さらに、大阪市が特別区になったときには、周辺の市町村はそのまま特別区になる際は、議会の議決だけで移行できるようになる。
*2015年、維新にとってはよもやの敗北。なぜ阻止できたのか?
  維新は負ける気はなかったが、投票率が10%以上高かった。維新支持層は常に選挙に行くが、無党派層が大阪市がなくなると困ると考え投票に行ったことが最大の敗北原因だった。しかし、住民投票以外では無党派層が棄権して維新が勝ち続けてきた。
3.都構想の「バージョンアップ」で何が変わったのか
@本質は変わっていない
 都構想がカジノと直結していることが明確になり、そのための財源確保のための都構想という位置付けがはっきりしてきた。2025年には、特別区の設置、万博開催、カジノ開業を一体のものとして実現しようとしている。 「府」を「都」に変えるための府民投票を言い出している。政府が法整備をしないとできないが、イベント的に府民投票をするかもしれない。A公明党の意見を取り入れて迷走
 お互いの思惑で公明党は大阪市解体=特別区設置賛成に回った。維新は、そのため 公明党の4項目を丸ごと受け入れたが、そのことで都構想の迷走が甚だしくなった。 たとえば、公明党によるコスト削減の要求を受け入れて、新しく庁舎を作るのを減らし、区役所庁舎をそのまま使う、入りきれない職員をいまの市役所庁舎(中之島庁舎)に居候させることにした。その結果、淀川区の場合は特別区の本庁舎に84人、中之島庁舎に878人、天王寺区の場合も本庁舎152人、中之島庁舎583人というふうに、職員の大半はよその区で働いているということになった。これでは、自治体の体をなしていない。
B特別区設置でコスト増が明確に
 大阪市の大きな施設は大阪府に移行させるが、コストが大阪府に移るだけ。大阪市を解体しても大都市を支えるコストがなくなるわけではない。たとえば、議会を4つ作るので、議会事務局も4つ必要。結局、職員増で33億円、ランニングストで30億円が必要となる。
C都構想は究極のリストラ
 普通の財源だけでは、政令指定都市として実施してきた特別のサービスを維持できなくなる。したがって、公明党の主張を入れて10年間にわたって年20億円を特別区に渡すことにしたが、10年目以降の保障はない。協定書の中でも、10年後以降は「維持するよう努めるものとする」としか書かれていない。東京で再配分ができているのは財政的に豊かだから。東京より大阪は財源が厳しい。しかも、大阪府全体に占める大阪市の割合は東京23区より低い。政令市として独自に実施してきた施策が切り捨てられ、国基準の施策しかできなくなる可能性が高くなる。
D大阪府の変質
 一部事務組合を多数設置することに対する批判があり、かなり減らした。その結果、大阪府と特別区がかなりの部分を引き受けるようになった。大阪府が広域自治体の役割を放棄して、大阪市を中心としたインフラ整備や公共投資、経済対策を軸にやるようになる。
4.新たな大阪の展望
 前回の住民投票との変化を考える必要がある。前回は、大阪市の廃止・存続がテーマだったが、今回は都構想、万博、カジノを一体化し、「大阪の成長を止めるな」で世論を喚起しようとしている。だから、今回も都構想批判、大阪市存続だけで議論すると、維新に比べ消極的な印象を与えることになる。無党派層に働きかけるためには都構想、カジノ批判と同時にどのような大阪を展望していくか訴えていく必要がある。
@大阪の経済対策
 都構想とカジノで大阪はどうなるのか?カジノで大阪経済はさらに低迷するだろう。インバウンドの消費や雇用増はプラス面と言えるかもしれないが、地域での消費はカジノに吸い上げられる。大阪市周辺部は雇用増やインバウンド消費はあまりないので、ほぼマイナスになる。周辺の市民がどれだけカジノに吸い上げられるかによって、大阪市がプラスになるかは決まる。
・大阪経済低迷の原因
  大手企業は儲かっているし、カジノがなくてもインバウンドは増加している。しかし、個人消費の冷え込みと中小企業の収益落ち込みが、大阪経済低迷の最大の原因になっている。カジノはそれに逆行して、ますます個人消費が減り、さらに大阪経済を悪化させるもの。
 個人消費の回復、官製ワーキングプアの是正を考えるべき。失敗続きの誘致型ではダメで、地域循環型の経済をつくっていくべき。大阪でお金を回す仕組みが必要なのに、カジノではお金が海外に出ていく。中小企業や市民消費を軸とした循環型地域経済の確立のためには、今までの蓄積に依拠して、24行政区を経済対策の主体にすべき。これくらいの規模で考えていくことが決定的。
A医療、福祉の充実
 このまま2025年になると間違いなく介護難民が発生する。維新は、経済か福祉かという対立関係でとらえているが、福祉の経済効果は、人件費が中心なので、個人消費を拡大させる。今は、福祉をきっちりやることが地域経済にとって大事。もらった給料はほとんど地元で使う経済&福祉の両立を。福祉は市町村が決めることができる。
B学校を中心とした教育の充実
 競争、統廃合、塾ではなく、教育条件の整備が大事。いまは、わからん子がいれば塾のバウチャーを渡しているが、こんなおかしなことはない。少人数教育をやればいい。それができれば貧困の連鎖を断ち切ることができる。
C行政の地域化と日常生活圏の整備
 都構想は行政の広域化を意味する。そうではなくて、24行政区の充実が必要で、日常生活県単位に出張所を設置し、出張所で職員が地域課題の解決を図っていくことが必要。行政職員とコミュニティの協働、日常生活圏の整備、済み続けられる地域をつくっていこう。
D減災対策を抜本的に強化する
 今さら防災的に危険な地域を作り出さない。防災的に脆弱な地域の抜本的改善を進める。日常生活圏を基本に防災対策を進める。学校の統廃合は地域の防災力を低下させる。
E大阪の都市格を高める
 京都の企業が東京に本社を移さないのは、京都には都市格があるから。

5.さいごに
  公明党が政党として賛成で動いているため、前回と同じ運動だと負ける。「大阪市解体に反対の人」「カジノに反対の人」「都構想がよくわからない人」に対して、カジノ反対と都構想反対を一体のものとして訴えることができれば、これらの人が住民投票に行き、反対に投票すれば再び否決できる。反対だけじゃなく大阪の展望をもっと語って、無党派層を動かす運動を展開しよう。

2020年月2日掲載

ジャーナリスト柳沢恭雄の研究

赤塚康雄

柳沢恭雄の「日本の一番長い日」
 敗戦70年に当たる2015年から続けてきた柳沢恭雄研究を本年は終わりまで持っていきたいと考えている。
 柳沢恭雄の名が一般に知られるようになるのは、ポツダム宣言受諾を知らせるための天皇の録音盤奪取目指して陸軍の若手将校が決起した8・15クーデター未遂事件を『日本の一番長い日』と題して半藤一利(作家・当時文藝春秋編集次長)が著作発表しているからである。
 当時、柳沢は日本放送協会(以下NHK)国内局報道部の副部長で、上層部が「玉音」録音のため皇居へ出向いていたので、責任者の立場にあった。その柳沢のいる放送会館報道部へ、8月15日(1945年)早暁、侵入してきたのが反乱軍の畑中健二少佐らであった。皇居で録音盤奪取に失敗し、ラジオ放送を通して国民に総決起を訴えようとしたのである。
  その瞬間を柳沢は、自著『検閲放送』に「私の胸にピストルをつきつけた。『決起の立場を国民に放送させろ。さもなければ撃つぞ』私は無言でいた。放送させるわけにはいかない、とそれだけを考えていた。私は放送させるわけにはいかないという任務感、集中感で張りつめていた。私は彼に反抗しない。敵意を示さない。彼の心情を理解したいと思いながら、彼の眼とピストルを持つ手と指を見つめていた。ピストルは、森近衛第一師団長を射殺してきたピストルである。」と回想している。
 やがて、脅迫めいた言葉を発しなくなったので、空襲警報下ではスタジオが作動しないことを理解してもらおうと柳沢は畑中らを隣の第12スタジオ(ニュース専用スタジオ)に案内、館野守男アナウンサーに彼らを託した。
 『日本の一番長い日』は、この場面の柳沢と館野を逆に扱い、さらに柳沢恭雄の名に 「すみお」とルビを振るなどの間違った表現をとっており、柳沢からの取材不足を露呈していると筆者は感じたものである。もっとも同書は小説あるいは文学であって歴史書ではない。感動を高めるために少々のフィクションが用いられているのかもしれない。しかし、国民に与える影響は決して小さくない。例えば、同書の「自分はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」以下の昭和天皇の御前会議における言葉を紹介した下村情報局総裁の説明は国民の間で信じられてきたが、近年の歴史学者の研究(例えば古川隆久『昭和天皇』、鈴木多聞『「終戦」の政治史1943−1945』)では、ほぼ否定されている。映画では、この場面はもっと強烈な印象を国民に与えた。ここまでくると事実誤認であってフィクションでは済まされなくなる。

治安維持法違反で有罪判決の学生時代からNHK入局まで
 柳沢は奈良県と京都府の県境の現・木津川市の地主の次男として誕生、小学校から中学校時代に起きた村内の米騒動、小作争議に影響を受けたのか、中学校(現・京都府立桃山高等学校)2年でマルクス伝、エンゲルス全集等を読破、マルクスボーイを自認していた。浦和高校を経た東京帝大(文学部社会学科)在学中の夏休み、オルグとして労働運動に関わり、治安維持法容疑で特高警察に逮捕され、1933年12月15日、奈良地方裁判所で懲役1年2ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。
 事件の影響あるいは病弱ゆえか、東大を8年かけて卒業、かねてからジャーナリズム志望だった柳沢は、ラジオ放送の未来を有望視し、1938年NHKに入局する。懲役刑を受けながらNHKに入れたのは、当時の松阪広政刑事局長の保証があったからである。
 松阪広政といえば、社会主義者を弾圧した3・15、4・16事件を指揮した検事として知られている。その松阪が反対の位置にいる柳沢を保証した理由は、松阪家は宇治の大地主で、同じ南山城地方の柳沢家と親戚関係にあったからであろう。
 ついでながら暗殺された労農党の山本宣治代議士を検視したのは松阪で、山本と松阪は京都府宇治町立菟道小学校(現・宇治市立)の先輩後輩関係(山本は5年上級)にあり、当時地元では、「平等院の両翼のように左右の大立て者や」とはやしたてられていたと『松阪広政伝』は伝えている。なお松阪は検事総長から小磯内閣の司法相に任命され、終戦時の鈴木内閣でも留任している。

太平洋戦争時に悔い残る仕事二つ
 こうして柳沢は1938年4月、日本放送協会へ入局。報道部国際課に配属され、一年後のNHKの愛宕山(現在NHK放送博物館)から内幸町の放送会館への移転に伴い、報道部ニュース課へ異動。前記報道部副部長に就任したのは軍務からの復帰(1943・1)後の1944年7月であった。
  戦時下の業務で柳沢が悔いを残した仕事が二つある。一つは軍属として徴用され、南方総軍司令部の将校扱いとして従軍したサイゴン(現ホーチミン市)での謀略放送である。仕事の中身は、ラジオサイゴン局の電波を使い、日本陸軍によるインドネシア(オランダ領)のジャワ島攻略戦を容易にすることである。
 もうひとつは、軍務からNHK復帰後、兼務した報道解説委員一人として、天王山のフィリッピンレイテ作戦に「いますぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが一億の御楯の神聖な勤め」と解説したことです。
 前者については、電波を砲弾として侵略の手助けをしたことに、後者については、補給を不可能だと知りながら解説したことを郷里に思いを馳せて「京都府の第16師団はレイテで玉砕した。私の甥も帰らない。町の英霊墓地には墓碑が林立している」(『戦後放送私見』)と嘆かねばならなかった。
 柳沢の嘆きや後悔は、戦争というものは、ひとたび始まれば、個人の良心や良識で止められないことを示している。

 柳沢恭雄 戦後の生き方と今年の私の研究課題
 戦争の反省の上に柳沢の戦後は始まる。生前、柳沢が成し遂げた仕事は多彩である。しかし、ジャーナリストの生きる道を示したという点では一貫していたといえる。本年の研究課題は、その柳沢の思想及び行動史を明らかにすることであるが、具体的に追求すべき対象は、ほぼ、次の7点と定めている。
  (1)戦後最初のニュース解説「放送の民主化」(1945・10・2)原稿の発掘と検討。
  (2)1946年11月に自ら結成した日本従業員組合(日本新聞通信放送労働組合放送部へ改組。1949・2・9)委員    長として政府から独立した放送本業の実現追求について。
  (3)放送スト実施(1946・10・5)に果たした柳沢の役割と停職処分の影響及び2・1スト準備について。
  (4)レッドパージによる解職の経過。
  (5)中国への密航と北京における自由日本放送の柳沢の役割と実情。
  (6)日本電波ニュース社の設立(1960・3・2)及び富士国際旅行社(1964・10)設立の意味。
  (7)ベトナム戦争取材時における日本電波ニュース社及び柳沢の役割と実際。
 以上の7点のなかで、ハイライトは何と言っても日本電波ニュース社を設立し、ベトナム戦争を取材したことであろう。柳沢も一記者としてベトナムを巡り、ホー・チ・ミン北ベトナム(ベトナム民主共和国)主席と会談している。62・5・28)。また、当時わがテレビ界で話題になった「ハノイ・田英夫の証言」(1997)にも日本電波ニュース社映像を提供しているし、柳沢自身、田英夫に同行したこともあったようだ。
 以上、元旦の夢に終わらせることなく、今年一年着実に研究を続け、成果を出したいと念じている。

日本労働運動史上に輝く金字塔をうちたてた東宝争議

1948年8月19日、そのとき何があったか

島田 耕

8・19前日の不審火
 1948年8月19日の東宝撮影所への弾圧は、争議団の一人で今も病身をかばいながら活動している田中慎之介(記録映画監督)と私の間では「8・19」で通じる。争議をたたかったなかまたちの間ではそう呼ばれている。
 今年の8月で61年がくる(2009年執筆)。宮森繁の証言によると、「8月19日の前日午前6時45分ごろ、撮影所の現像場の近くで火災が起きた。映画材料のセルロイドがうず高く積んであった部屋で全く火の気もなく、しかも煙が出るや否や、消防署、警察に電話が入っている不可思議」な事件があった。防衛のため泊まり込んでいた組合員中沢廉治が傷を負い乍らも奮闘してボヤをおさえこんだ。
 消防署がかけつけバリケードを解いて消防車を入れろと迫ったが、組合は泊まり込んでいた青柳盛雄弁護士なども参加して拒否し自力で消し止め、弾圧の口実を与えなかった。火災の原因も犯人も不明だが、宮森繁は「放火によって一大惨事を引き起こし国際的にも共産主義者の陰謀と宣伝する」松川事件など「実行したような機関が計画したのと似ている」と思っていると指摘する。
 そして19日当日の朝、撮影所の煙突の上に男がいるのを見つける。この日、これから起きる何かを予期したようなパフォーマンスであった。
 緑の旗を持って、「共産党は焦土戦術をやめろ」の垂れ幕をたらした。ヤクザの一員とも言われる俳優の男の行動だが不可思議な事件であった。
 日本の新聞はこの日の記事として「警察隊の強制執行」と「煙突男」をあつかっているが、米軍には一切ふれていない。(19日夕刊と20日朝日の記事)

米軍の出動−ロイター通信が世界に発信した「8・19」 
  米軍のデモンストレーションは、この日早朝、スタジオの周辺に到着した一個分隊の歩兵と6台のジープと、騎兵銃を持ったMPによって始まった。つづいて、一個分隊の歩兵と6台の装甲車が到着し、スタジオの外部のあちこちを哨戒した。まもなく7台の戦車がただちに正面に位置を占めた。日本の警察の主力が到着したのは、米軍が配置についてからずいぶん時間が経過してからであった。警察官たちは、米国製のトラックに乗り、ピストルをつけ、棒を持ち、掛矢ととびくちを用意していた。彼らは、かつて日本軍の使った鉄かぶとをかぶっていた。攻撃の先鋒は、旧日本軍の戦車を改装した戦車であった。内部の争議団にたいして、最後通牒が発せられると同時、この改装戦車は、エンジンのうなりをたてて、いまにもバリケードを破壊せんものと身構えていた。警官隊の攻撃準備完了とともに、第1騎兵師団のH・C・T・ホフマン准将は、米軍の先頭に立った。 頭上の偵察機には、同師団の最高司令官W・C・チマイス少将が乗り、全行動を統括していた。
 宮森繁は「日映演の情報宣伝部長をやっていて、中央委員長伊藤武郎と検討してジャーナリズム全般にこの弾圧の様子を訴えようと外国の特派員全部を招聘した」「しかし、さすがにこのような大部隊が来るとはわれわれも予想しなかった」と云う。
 前田実(カメラマン)は「私も前夜から撮影部の部屋に泊まり込んでいた。中央広場で誰かの『来たぞ!』と呼ぶ声がしたので、私はバルコニーに出てみた。『子連れの家族会の人たちは急いで退去して下さい』とスピーカーで叫んでいる。ふと見たら、今朝弁当を家から運んできてくれた私の妻が2歳の次女を背負い4歳の長女の手をひっぱって、他の人たちと急いで所外へ退去する姿が目に写った。これがいっそう私の闘志をかきたてた。」

戦車の前を駆け抜ける
 録音助手(当時)の渡会伸は東宝に1938年の公募で入社、20歳(1940年)現役で入隊、南方戦線から1946年6月復員、東宝に復職する。第2次争議を体験して、第3次の争議では職場委員から組織部員になり、地方の映画館の職場オルグ、争議の支援と資金活動のための文化工作隊(移動演劇隊)の受け入れ準備などをして8月は撮影所に戻っていた。
 泊まり込みに持参した食糧がなくなり、18日の夜、会社寮にとりに帰り、19日朝8時半頃成城学園駅に降りた。
 「警官がいっぱいいて通さない。どこに行くんだって言うから寮へ帰るんだって言ったんですよ。(撮影所の近くにも寮があった)
 畑があってそれがずっと撮影所まで続いている。そこへ入って中腰になって走って行ったんです。でそれが途中から坂になって最後は崖になっているんです。約2mくらい。そこを降りる前に首を出してみたら戦車が2台止まっているのが見えるんです。こりゃえらいことになったと思って。しかし他には誰も見えなくてアメリカ兵が一人戦車から下りてブラブラしてるんです。で裏門の方を見たら、そこのバリケードの中にうちの組合員が黒山のようにいるんですよ。これは駆け出したりしたら必ず捕まると思って、それで崖を飛び降りてわざと戦車の方へ忍び寄って行ったんですね。ぼくは背が高いから砲身の中をのぞき込んだんです。そしたらアメリカ兵が怒ってむこうへ行けって訳ですよ。みんなが見て僕だってわかるから渡会そっちじゃない、こっちだって。静かにしろって思いながら2,3歩下がっていくと、アメリカ兵が安心してむこうを向いちゃった。そこでパッと後ろ向いて走り出して、持ってたボストンバッグを裏門越しに投げて、そしたら上から手を出してくれてそれにつかまって中へ飛び降りて入っちゃった。」

たちあがった女性たち
 このとき、宮森繁は「私が見て驚いたことは女性の強さです。米軍や警察隊が来て、正面にはアメリカの戦車がドンと据えられている大変ものものしい光景ですが、ニューフェイスの女優さんを先頭に十数人が腕を組んで日本警官の前に行って『帰れ』と言って『断固として一歩も退かない』と言うのです。これは自発的に取られた行動であります。」
 前田 実はこう書いている。「これでは、昨日から創意を凝らした我が方の防衛手段(大八車やリヤカーに五寸釘を打ちつけた板をはった戦車、暴風雨撮影用の大型扇風機の前に円筒を取り付け、敵が来たら砂利をぶっとばす仕掛け、屋根の上に美術部で使う塗料(あおたけ)を入れた桶を備え、警官にぶっかけ、東宝弾圧の警官だと世間に宣伝、糾弾する目印にすると言う作戦なども役に立ちそうにないと思った。その時、突如『弾圧反対!』『ダンアツハンタイ!』と黄色い声が起こった。家族会の婦人たちが組合で準備していた『民主警察諸君へ』のビラを警官の隊列の中に入って手渡しているのだ。女性の勇気、底力をみせつけられた一幕だった。」
 この日を、長野県松本で「資金の獲得と争議の実情を全国的に訴える目的で」移動映写班として活動していた宮下静江は、日劇の映写技師ともう一人の男子組合員と「三人で移動映写会を国鉄労働組合長野支部の協力で、各分会を中心に地域の人を集めてやっていたの。藤之井、長野、二本松日曹、高田、直江津、糸魚川を廻って最後に松本で大弾圧の一報をもって東京から駆けつけた日比谷映画の技師の人だと思ったけど、この人と合流して松本では急遽大集会が開かれて、弾圧の情況が報告されデモしたのを覚えています。」彼女の職場は舞台制作部、総務。

亀井文夫監督のポスター「暴力では文化は破壊されない」
 前田 実は女性のたたかいの次に「またまた私を驚かせる情景が目に入った。『暴力では文化は破壊されない』と大書した紙(新聞を広げた大きさ)を警官隊の面前に掲げて歩く亀井文夫監督の姿だった。」
 亀井文夫は「表門の警備隊長が花沢徳衛なんだよ。これがカウボーイみたいな帽子かぶっちゃって。でもう表門しめて、有刺鉄線巻き付けたりして。小さなクグリがあったんだけどそこも閉めて出ない訳だ。外側に鉄カブト被ったあれ機動隊かな。それから戦車持ってきたんだけど、これは表門のバリケードを戦車で潰すという考え方じゃなかったかな」「で、その時だよ、ぼくはふっと思いついてね。第2ステージだったかな、進八郎君(合成美術所属)ってタイトル屋が、ビラを書いたりなんかしてたんだよ。それであれ、ホラ。“暴力では文化は破壊されない”って言う言葉書いてくれって云ったんだよ。とっさに思いついた一つの言葉だよな。」
 シナリオライター植草圭之助は「亀井文夫と美人の名の高い菊地雪子(スクリプター) だった。二人は平然とした表情で、そのプラカードを掲げながら、落ち着いた足どりで占領軍や警官隊のひしめく、長い隊列の前面を右端から左へゆっくり歩き出した。 ーなんという平静な剛胆さか、そしてなんと不思議なことに色めき立っていた占領軍兵士、警官隊、指揮者以下、全員、声を失ったのか、この意表を衝いた沈黙の挑戦者の行為を、ただ、黙々と見守っているのだ」
 テレビ作家都筑政昭は植草の目撃談を引用しながら次のように続けている。  「一触即発の緊張状況の中で、この亀井のパフォーマンスは警官隊の戦意をそぐ効果を充分に果たした。労働歌を歌い興奮のるつぼにいるはずの組合側が、思いのほか冷静に『暴力否定』のアピールをしたのである。撮影所の態勢が決戦必死でないことを、暗黙にそして雄弁に語っていた。」

撤収
  裏門をよじのぼって、撮影所に入った渡会 伸は「中の様子は割合に陽気だったですね。あれだけの敵が来て弾圧しなければやれないところまでねばったという事ですかね。つまり、その時点では勝ったんじゃないかという気分がありましたね。」
 当時の撮影所の共産党細胞(当時、現在の支部)の責任者山形雄策(シナリオライター)は「撤収って方針は決まっちゃってんですが、一般にはもちろん発表してませんよ ね。ただとにかくここで激突しないで、犠牲を払わないで戦力温存するってことは、一つの戦術として前から討議されてますけど、だけどもやっぱり朝になってアメリカ軍が出てきたのを見て、いきり立つわけですよ。・・・アメリカに対する幻想っていうのはこれで全部なくなったということですね。」
  10時40分、執行吏は最後通告だとして、11時が過ぎれば強制執行を行う、あと20分待つと言ってきた。期限の11時に土屋は執行吏に執行の受諾を回答し、組合員の承認を得るための集会を開くことを認めさせた。11時15分、拡大職場会議が開かれた。撮影所委員長土屋精之は「我々がこれだけ団結を示したことは、日本の労働者階級の誇りであり、明日の闘争が必ず勝つという確信の基盤を得た」と執行部会議の報告をした。渡会 伸は言う。「30分から45分くらいかかったと思いますよ。それで中ですごくもめましてね。僕の記憶では撤退するって言ったときに大部分の人はほっとしましたよね。正直なところ。しかし特に朝鮮総連の人たちがすごく怒りましたね。」

我美子、岸 旗江ら女優たちもスクラムを組んだ
 都筑政昭著『鳥になった人間 反骨の映画監督、亀井文夫の生涯』(講談社92年刊)は植草圭之助の談として「日映演委員長の伊藤武郎が台の上から、集まってきた人びとに、闘争終結宣言を始めていた。手放しで泣き出している婦人部員や家族会の女性たち、怒りがおさまらず怒号を続けている男たちで、よく聞き取れなかったが、『・・・味方は全員、長期の闘争で肉体的、精神的にも限界にきている。この上、流血の惨事を起こすことは文化的闘争の取るべき道ではない。無念だが一歩後退、二歩前進の途こそ・・・』と涙ながらに語っていた。」
 各所の防備に就いていた人たちも持ち場を離れ、全員が中央広場に結集したのが11時40分、それから4列縦隊に隊列を組んでいっせいにインター(ナショナル)を高らかに歌い、整然たる撤退を始めた。先頭に組合旗を持った執行部、次に芸術家グループが五所平之助を先頭にスクラムを組んで続いた。女優の久我美子、岸 旗江、若山セツ子らはあふれる涙を拭いもせず、インターを歌いながら撤退していったと都筑は書いている。

製作再開
 そして、製作を再開する。「女の一生」も完成した。亀井文夫監督の持論である「革命的エロテイシズム」では印刷工場の昼休みの屋上で職場の仲間の視線を受けての岸 旗江、沼崎 勲の長い長いキスシーンや、岸 旗江が老いた父親と弟たちを残して嫁ぐ前夜、高島田に結い上げた髪形をこわさないようにして台所のタライで行水するシーンが話題になった。嫁ぎ行く娘の背を流しながらの父親(田中栄三)と娘のしみじみとしたシーンは恥じらいと希望に輝く裸体を、丹念に演出している。宮島義勇カメラマンが採用したパンフォーカスの手法は印刷の職場で働く人びとの動きを、奥行きある画面で手前から遠景まで鮮明に見せたことも話題になった。が、ここでは紙数もつきた。
 8・19のたたかいは60年を経た現在まで日本文化、日本映画の発展をめざすジグザグの歴史の中に生きている。親しく教えを受け、はげましてくれた多くの先輩の証言をひろいあつめ、かみしめながら、4回にわたって岸 旗江の輝いた時代の一端を紹介して終わることにする。