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大阪民衆史研究会活動資料室

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 2017年資料

共謀罪(「テロ等準備罪」)法案を、許さず、何としても廃案に

渡辺倬郎

安倍内閣は、実際には起きてもいない"犯罪"について、二人以上で「話し合い、計画」しただけで罪に問う共謀罪法案を成立させようとしている。共謀罪法案は、2003(平成15)年、2005(平成17)年、2009(平成21)年と既に三度も廃案になったというしろものである。  第一に、政府は、東京五輪・パラリンピックの安全のために国連の「国際組織犯罪防止条約(TOC条約)」を締結するには、「組織的犯罪集団」を取り締まる国内法が必要だと主張している。しかし、そもそも「TOC条約」はテロ対策の条約ではない。マフィアや暴力団によるマネーロンダリング(資金洗浄:違法な手段で取得した財貨がカジノなど特定の場所を通過することで違法でない財貨となること)などの経済的国際犯罪を取り締まる条約です。また、TOC条約が、国連で採択されたのは2000年です。つまり、あの9・11米同時多発テロ(2001年)の前年のことである。すなわち、「テロ対策」は、後づけの理由・理屈に過ぎないということです。  国連広報センターのホームページでは「テロ行為を防止するために14件の普遍的な法律文書」が紹介されていますが「TOC条約」はそのリストに入っていないのです。そして、その国連がテロ行為を防止するための法律文書の中で、「航空機内の犯罪防止条約(東京条約)」「航空機不法奪取防止条約(ヘーグ条約)」「テロ資金供与防止条約」など発効ずみの13本のテロ防止条約すべてについて日本政府はすでに締結しているのです。  一方、日本の国内法では刑法として、殺人予備罪、内乱予備陰謀罪、身代金目的誘拐罪、凶器準備集合罪など、テロの実行以前の段階から取り締まる制度がすでに整備されています。その上、、日本では米国と違って銃や刀剣の所持自体が禁止されてます。すなわち、現行法で十分にテロ犯罪に対処できるのです。 東京五輪の安全のためというなら、イラク戦争など「対テロ戦争」に協力したことを反省し、憲法9条の精神を貫く平和国家として世界の信頼を得ることが肝要です。  第二に、政府が今国会への提出を狙う法案の原案の犯罪の要件に「テロ」の文字は全くありませんでした(この批判を受けると、慌てて「組織的犯罪集団」の形容詞と して「テロ組織その他」の文言を入れたそうです。「その他」を入れることで何にでも適用できるので、その狙いは明らかです。)。さらにまた、「組織的犯罪集団」の明確な定義もありません。安倍首相は、「一般人は共謀罪の対象にならず、従来の共謀罪とは全く別物」などと繰り返してきましたが、国会審議の中で、市民団体や労働組合、政党などの一般団体が「犯罪を実行する団体に一変したと認められる場合には組織的犯罪集団に当たる」との見解を政府は繰り返し答弁しています。 組織犯罪数を当初の676から277に絞り込んだから安心といっていますが、取り締まられる対象は、277の該当犯罪すべての「共謀」です。明々白々な「テロの共謀」に限定されてはいませんし、明々白々な「テロの準備行為」に限定されてもいないのです。  そして、「テロ等組織的犯罪集団」かどうかを判定するのは捜査当局である警察です。既に電話盗聴(傍受)の範囲は法改定で認められており、室内盗聴導入も狙われています。国民の日常的な会話や通信を監視するため、盗聴、盗撮や内偵などはもちろん、街頭のテレビカメラの拡充、高性能指向性マイクで街頭の会話までが監視対象になると専門家は警告します。メールやラインも当然、監視の対象です。人権侵害性の高い捜査手段が拡大され,警察権が大きく強化されます。  第三に、「共謀罪」法案の原案は、犯罪の計画にかかわった者の「いづれか」が「資金」又は「物品」の手配、関係場所の「下見」その他の「犯罪を実行するための準備行為」をおこなったときに処罰するとしています。このような「資金」、「物品」の手配や「下見」などは普通の人が犯罪とは無関係に行う行為です。「その他の準備行為」との規定とも相まって、どのような口実で犯人に仕立て上げられるかわかりません。「共謀罪」に当たるかどうかを判断するのは警察など捜査当局です。捜査当局の一方的な決めつけによって、「準備行為」をしていない者も一網打尽にできる仕組みだということです。「準備行為」は処罰の口実となる単なる条件にすぎません。「計画・合意」すなわち、「共謀」だけで犯罪は成立すると読み取れます。  さらに恐ろしいのは、実行に着手する前に自首した者の刑の減免を設け、密告を奨励しており、乱用されれば市民の自由に対する脅威になります  「共謀罪」で「心の中」を取り締まれば、安倍首相がすすめる「戦争する国づくり」に対して国民が異議を唱えられなくなります。紛れもなく「共謀罪」の導入は戦争国家、監視社会への道です。

 2016年資料

2016年総会における開会の挨拶

尾川昌法

はじめに
 ただいまより、会則に基づいて2年に1回の総会を開催致します。
 はじめに、前総会(2014年8月3日)以来の2年間をふり返って3つの報告をしておきたいと思います。
 一つは、後で事務局から詳しく報告されますが、この2年間、毎月1回の研究例会を開催し、毎月1回の「会報」を発行してきたことです。このほかに紀要『大阪民衆史研究』を発行し、いくつかの集会や研究会に共催団体として参加しました。研究会として当然のことではありますが、毎月欠けることなく研究例会を開催し「会報」を発行して着実な歩みを続けています。事務局担当者のご苦労に感謝するとともに、この持続する活動をこれからも引き継いで参りたいと考えています。
 第2に、研究会を支えてきた大事な方々を失ったことです。物故者には研究会設立以来22年間会長をされてきた向江強さん(2015年9月20日、86歳)、大教組執行委員などを歴任し会員として支えていただいた寺本敏夫さん(2016年6月1日、89歳)、そして「会報」の編集、発行を長期にわたり担当されてきた森紀太雄さん(2016年7月21日、85歳)たちがおられます。総会に先立って、これらの皆さんに対し謹んで哀悼の意を捧げるものであります。
 第3に、『大阪民衆史研究』別冊号として発行を決めた『島田邦二郎史料集成』の翻刻、解題、語註がこの2年間の作業でようやく終わり、後は研究論文を残すのみという段階まで来たということです。発行を決めてから時間はかかりましたが、期待に応えられる充実した内容になる、と思っています。

「歴史認識」の問題
 私たちは今、憲法を破壊する反立憲主義、戦後民主主義の潮流を覆し逆流させようとする安倍自公政権と対峙しています。戦後最大の危機であり、歴史の岐路に立っている、と言われることもあります。2012年12月26日発足後の第二次安倍自公政権は、消費税増税(2014・1実施)、特定秘密保護法(2014・12・10施行)、武器輸出三原則を撤廃し武器輸出を推進する防衛装備移転三原則の閣議決定(2014・4・1)、集団的自衛権行使容認の閣議決定(2014・7・1)、安全保障法制(戦争法)の強行採決(2015・9・19参議院)、など反民主主義政策を強行しています。
 この政治情勢のなかで、2015年8月14日に閣議決定し、翌日に発表された安倍首相の「戦後70年談話」に、注目したいと思います。政権の反動的諸政策の根底に流れている「歴史認識」が、そこによく現れていると思うからです。「歴史認識」を問題にするのは、今日の社会が歴史研究に何を求めているのかを考えてみたいからです。
 「70年談話」は、まず主語を曖昧にした文章で飾られ政権担当者としての主体性と責任が欠落しています。当時の国内外のきびしい批判の目を意識した政治的発言でしかありません。さらに、日本近代のはじまりから戦後70年の歴史をたどりながら間違った歴史像を伝えています。
 冒頭から「アジアで最初の立憲政治を打ち立て」、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」、と歴史を歪曲したように、近代日本の膨張主義、侵略戦争と植民地支配の事実と責任にふれることがありません。安倍首相らの主張する「従軍慰安婦」否定論や南京大虐殺否定論がこの「談話」に矛盾なくすっと入り込めることを考えてみれば、歴史の歪曲やその曖昧さにすぐに気づくでしょう。
 「談話」はまた、「計り知れない損害と苦痛」や「尊い犠牲の上に現在の平和」がある、これが「戦後日本の原点」だと述べています。安倍首相を含む靖国神社派の発想にほかなりません。「戦後70年」は、誰もが認めるように、ポツダム宣言受諾と新憲法制定にはじまるのですが、「談話」はこのどちらにも一言もふれることがありません。ポツダム宣言が日本国民の「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」の確立を要求し明記していたことを完全に無視しています。
 ではなぜポツダム宣言や新憲法を無視するのか。それは第二次世界大戦にどう向きあっているか、その歴史認識に関わっていると思います。同盟国であったドイツの戦後70年とくらべるとはっきりします。ドイツでは「アウシュヴィッツ解放70周年記念式典」や「ダッハウ強制収容所解放70周年式典」などが開催され首相、大統領が出席し「ナチズムのすべての犠牲者に対する責任」を語っています。「第二次世界大戦の終結」から連想されるものは何か、という問いに対して、ドイツ市民の世論調査は「強制収容所の解放」、「ナチズムからの解放」、「ナチス独裁の終焉」など「解放」の認識が上位を占めており、「1945年5月8日の無条件降伏によって、ドイツは忌まわしいナチズムから解放されたという認識は、ドイツで一般的である」、と報告されています(木戸衛一「ドイツの<戦後70年>――『解放』認識の定着と揺らぎ」、『唯物論と現代』55号)。「ナチズムからの解放」というドイツ市民の一般的な認識の存在が、メルケル首相が困難な状況のなかで国境を開放し難民受入れを明確に表明できる背景になっているとも指摘されています。  ドイツ人と日本人の「戦後認識」は明らかに違っています。日本では、国民の人権と民主主義が徹底的に弾圧された軍国主義支配から解放され、民主主義国家として再建を開始したという「戦後認識」はけっして一般的ではありません。第二次世界大戦の終結とは、何の終結であったのか、何から解放されたのか、多くの日本人の「戦後認識」から欠落しているように思います。戦後歴代の保守政権はこれを曖昧にしてきました。
 この「戦後70年談話」を支持し、この政権を支持する一定の勢力が存在することは、最近の国政選挙結果からみても明らかですが、その根元にこの「戦後認識」の問題があるのではないでしょうか。歴史教科書問題に端的に現れている保守的教育行政の効果だけでなく、もっと深い問題が隠れているのではないか。今日の歴史研究に求められている課題の一つがここにあるように思います。立憲主義、民主主義を拒否し憲法改悪を推進する政治を阻止するためにも必要な研究課題であろうと思います。  「歴史認識」問題の一つとして、歴史研究の課題について話させていただきました。議論のきっかけになれば幸です

出雲、神々の里巡り

中野 実

はじめに
 この度、出雲地方の神々を巡る旅をした。会員でもあり、日頃懇意にしていただいているS夫妻が、出雲地方の神話の旅に誘ってくださったのである。当方は神話の世界など大した興味がなく、宍道湖や日本海の海の幸や珍味を期待して同行したようなものだったが思わぬ感動を得たのである。

神々の地は豊かだった
 古代から人々の暮らしには様々な面での豊かさが必要だが、出雲地方はほぼすべてを満たしているように思える。浅く波穏やかなので、容易に漁が出来たであろう宍道湖やすぐそばに日本海が広がっている。また周囲の山々はなだらかで、山の幸採取に適して いたであろう。そして川が運んだ肥沃な平野があり、暮らし易い条件がそろっているようだ。数多い温泉地もその一つといえよう。出雲の温泉地では、私は玉造温泉ぐらいしか思い当たらない。しかし訪れてみて、あまり知られていないがこんこんと湧き出る温泉があちこちにたくさんある事でも驚かされた。

八岐大蛇伝説と須賀神社
 私達が宿泊した海潮(うしお)温泉もその一つで、八岐大蛇伝説の地に程近い、松江からバスで50分ほど内陸に入った所に湧く古くからの温泉で、『出雲風土記』(天平5年、733年編纂)に既に記されているということだ(冊子、「海潮温泉の今昔」より)。温泉が人々の暮らしに大切だったことは今も昔も同じだろう。
 また近くには、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した後クシナダヒメと作ったとされる「日本初之宮」である「須賀神社」がある。神社や敷地内はきれいに整備され、地域住民が手厚い保護をし、神話伝説に誇りを持っていることを感じさせられた。

何事も現地に行かなければわからない
 八岐大蛇神話は知っていたが、やはり現地に行ってみて、考えの及ぶことがたくさんあった。伝説ではあるが、何かもとになる事があるはずである。大蛇が住んでいたという斐伊川は暴れ川で小さな支流がたくさん流れ込んでいたという。古くから砂鉄が多く採れ、鉄文化が進んでいたという。斐伊川は宍道湖に流れ込んでいるが、太古の昔は日本海に注ぎ込んでいたという。
 それらから想像すると、海を渡ってきた人々 が斐伊川をさらに遡り住みつき、暴れ川に治水 のような工事をしたのではないか、さらにスサ ノオが大蛇を退治した時に川は真っ赤に染まっ たというが、鉄の成分で周囲の川が普段から赤 茶けていたのではないか、などとロマンを巡ら すことができた。やはり神々の里は、何か他と 違う雰囲気を感じさせるのであった。
出雲地方は、神話を通して神々の里として古くから知られていた。50年ほど前から、「西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)」や「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」に代表される貴重な遺跡が次々と発見されて、古代王国の存在ががぜん現実味をおびてきたようだ。私達の旅も、神話の里巡りから古代大国への興味とつながっていった。

 いかにも王国があったであろう西谷墳墓群
 出雲平野を見下ろす西谷丘陵で、1953年、大量の土器が発見され、その後の発掘調査により27基にも及ぶ墳丘墓が発見され「西谷墳墓群」と名付けられた。この墳丘墓の特徴は「中でも2・3・4・9号墓は弥生時代に造られた全国最大級の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)で、代々の出雲王たちが葬られたと考えられています。」(史跡ガイド冊子より)とあるように、四隅が、たこの足のように墳丘からつきだしている独特の形をしている(図1)。(注、弥生時代後期頃に各地にあらわれた地域色豊かなかたちをした「墳丘墓」と3世紀後半以後前方後円墳が各地にあらわれてはじまった古墳時代の「古墳」とは、墳丘を持つ墓でも区別されている。)
 確かにこの地方は小高いなだらかな山が続き、どれを見ても墳墓ではないかとさえ感じたのだ。
遺跡は公開されていて、実際に入って見学できる墳墓もあり、また併設されている「出雲弥生の森博物館」では、案内員が一つ一つていねいに説明をしてくれる。博物館は入館無料であり、一帯は史跡公園「出雲の森」として整備されていて、地域の人々の、出雲をクローズアップさせようという意気込みを強く感じた。

整然と並べられた358本の銅剣にリアル感!荒神谷遺跡
 この遺跡は1984年に発見された。小高い丘の斜面に358本もの銅剣が4列に整然と並べられた状態で見つかり、またすぐ近くで銅鐸6個、銅矛16本も発見された。全て国宝に指定されている。遺跡附属の博物館に展示されているものはレプリカだが、本物は出雲大社隣にある「古代出雲歴史博物館」に展示されていて、その数の多さは圧巻だった。
 大量の銅剣がしかも整然と並べられていたという遺跡を見た時、何かぞくぞくっとするようなリアル感があった。そこはどこでも見かけるような小山の斜面の一部にすぎなかった。なんの目的で埋められたのかは分かっていないそうだが、何千年もの前に確かにここに人々が住んでいて、その人達の手によって埋められたという 臨場感が伝わってきたのだ。またこの地から数キロしか離れていない「加茂岩倉遺跡」では、大小計39個もの銅鐸が出土し、国宝に指定されているということだ。

出雲大社の八足門(やつあしもん)内に入った!

 出雲大社は神話で、大国主大神を御祭神としている。今回たまたま「古代出雲歴史博物館」と「出雲大社、八足門内特別参拝」をガイド付きで巡る特別企画を見つけ参加した。出雲大社では普段入ることができない「八足門」の中で、30分ほど神職による出雲大社の由緒や遷宮についての解説を聞くことができた。中に入るとより本殿の全体が見渡すことができ、その重厚さ、神秘さに圧倒された。
  神職の話で興味深かった一つだが、本殿が建てられた時に、屋根の破風と棟を包む銅板部分を保護するために「チャン塗り」が施されていたという。それは現代での強力なペンキにあたるそうで、松脂、エゴマ油、鉛、石灰などを混ぜて作られ塗られていたということだが、先人の知恵や技術に驚かされた。

 おわりに
 「出雲弥生の森博物館」内の説明パネルの一つに「邪馬台国はここ?」という表示がされているのを見つけた。「邪馬台国は出雲であってほしい」、とロマンを巡らす人々の熱い想いが伝わってくる。今回、出雲の神々の里巡りをして、神話の世界だけではなく、多くの遺跡と数々の出土品から古代人の暮らしに出会ったような気がした。そして私も思わず、「邪馬台国は出雲地方にあったのではないか?出雲ほど古代大王国を築ける条件がそろっている所はないのでは?」と感じるほどであった

 2015年資料

大阪市の歴史と文化のシンボル、大阪市民の財産、大阪城天守閣、美術館、博物館、動物園など文化施設を府に移管・没収する「大阪市の廃止・解体」に反対するアピール

 大阪市の廃止・解体(いわゆる「大阪都」構想)の賛否を問う住民投票が5月17日に実施されます。もし賛成票が上回り、大阪市がなくなれば、大阪城天守閣、大阪市立美術館、大阪歴史博物館、大阪文化財研究所、大阪市立東洋陶磁美術館、大阪市立科学館、大阪市立自然史博物館、天王寺動物園など大阪市の重要な文化施設が、大阪府に移管・没収されます。移管・没収された後は、「二重行政解消」の名のもとに、廃止、統合、さらには売却されることさえ危惧されます。
 126年の歴史を持つ大阪市をなくし、大阪市の歴史、文化を象徴する市民の大切な財産が奪われることを見過ごすわけにはいきません。
 大阪市は古代から先進的で優れた文化を創造し、育み、発信してきた歴史があります。近世は「天下の台所」として栄え、経済的な繁栄をもとに庶民による上方文化を形成してきました。大阪の庶民は、進取と自治の気風をもち、自力で文化施設もつくり、充実させてきました。現在の大阪城天守閣は大阪市民の寄付で復興し、「権力の城」ではなく、「市民の城」として存在しています。市立美術館や市立博物館の所蔵品の中には、大阪市民と企業人が大阪市に寄贈したものが多く含まれています。天王寺動物園は今年で開園100周年を迎え、全国でも有数の規模をもつ大阪市の動物園として、多くの市民に親しまれています。 私たちは、大阪市民の財産である文化施設を守り、未来に継承していくために、大阪の文化を愛するすべての人に、「大阪市の廃止・解体に反対」の声を上げてくださることをよびかけます。

          2015年5月1日

よびかけ人 (50音順)

石部正志 (関西文化財保存協議会代表)
中川哲男 (元天王寺動物園園長)
吉村元雄 (元大阪市立美術館館長)
脇田  修 (元大阪歴史博物館館長)
渡辺  武 (元大阪城天守閣館長)

「マッカーサー記念室」見学記

戦後70年目の追憶

白岩 昌和

はじめに
 戦後70年という節目でもあり、外苑の第一生命館(現DNタワー21)内にあるマッカーサー記念室が3年ぶりに一般公開された。(2012年7月に、第一生命の創立110周年を迎えたことと、連合国軍総司令部(GHQ)によって1952年7月7日に返還されてから60年を迎えたことで一般に公開された。)
 5月の会報で、地元広川町(和歌山)で開催された小泉八雲のひ孫である小泉凡氏の講演に関する報告を させて頂いたかと思うが、マッカーサ ー元帥の側近であったボナー・フェラーズが小泉氏の名前の由来にもなっていることを知ったこともあり、日本占領時のマッカーサーの行動などにも関心を持っていたことから今回の見学を決めた。その他にも、GHQによる和歌山県の学校改革を進めたロバート・テキスター氏(母校「耐久校史」にもその名前が記されているが)によって書かれた「日本における失敗」(文藝春秋社 昭和27年)が伝える史実にも思いを馳せてのことでもあった。(スタンフォード大学を退官されたテキスター氏から数年前に届いたメールには、「日本における成功」というタイトルに変更された同氏がバージニア州にあるマッカーサー記念館での講演に使われた論文が添付されていた。同氏の考え方も時代とともに変わってきたことが伺える。)

引き出しのない執務机
 一階の左翼ロビーに設けられた受付で手続きをすませた後、エレベーターで6階の記念室の入り口まで女性職員によって案内をされた。(事前の見学の登録手続きの案内には、見学は20分と書かれていたようだが、自由に見学することができた。)写真などで見慣れた執務室に入る手前の通路右側には待合室として使われたと思うやや広めの部屋があった。最初に目が行ったのが、二重、三重になった執務室に入る鉄の扉。やはり、万が一の事態にも備えていたのではないだろうか。執務室に入って目に飛び込んできたのが、部屋のやや左中央に置かれた執務机とマッカーサーが 座っていたとされる表面の革が白く禿げあがった(以前は一般公開された際には、見学者が直接座れた)椅子。執務室で警備をされていた方から、マッカーサーは「即断の人」と呼ばれ、書類などを机の引き出しに溜めることもなかったとの説明があった通り、愛用された執務机はシンプルなものであった。当日頂いた資料にも記されているように、執務室はGHQに接収されていた当時の状態が維持されているという。戦後の日本に関わる重大事項が、この場で決められたかと思うと、感慨深いものであった。
 執務室の壁には、昭和13年(1938)の第一生命館完成時からイギリスの画家F.J.オルドリッジによって描かれた「アドリア海の漁船」、「干潮」が飾られていたようだが、ヨット好きであったマッカーサーは接収時も今日のように執務室に飾っていたとされる。また、平成8年には、川村吾蔵作のマッカーサーの胸像を複製したものが記念室に加えられたりしている。  執務室奥の一室には、第一生命の創成期の資料などが展示されていて、濱口梧陵とも縁のある森村市左衛門の名前が記された資料などが確認できた。(日本に於ける保険業界の歴史に関しても、機会があれば調べてみたいと考えている。因に、郵便局の簡易保険の仕組みは後述する和歌山の先人である下村宏によって創られたとされる。)

マッカーサーの回顧録から
今回の見学に備えて、以前アメリカの古本屋から取り寄せたマッカーサーの回顧録(”REMINISCENCES” 1964) の日本占領時代に関する章に目を通した。その回顧録を読んで感じたのは、マッカーサーは日本の復興に何を思い、行動をしていたかということが、あまり日本人には知られていないのではないかということである。
 「戦後70年談話」が安倍首相によって発信された。安保法案に関する議論が多方面で展開されている今。(新聞などでは、「砂川判決」以前のことは殆ど書かれていないように思うが。)マッカーサーの回顧録から、憲法9条に関する記述を以下に紹介したい。(簡略な訳を加えます。)

Article 9 was aimed at eliminating Japanese aggression. I started this at the time of the adoption of the constitution and later recommended that in case of necessity, a defense force be established consisting of ten division with corresponding sea and air elements. …
(憲法9条は、日本の凶暴性を排除するためのもの。必要であれば空、海の防衛の為に10部門の防衛組織をと助言した。)

Should the course of world events require that all mankind stand to arms in defense of human liberty and Japan comes within the orbit of immediately threatened attack, then the Japanese, too, should mount the maximum defensive power which their resources will permit. Article 9 is based upon the highest of moral ideals, but by no sophistry of reasoning can it be interpreted as complete negation of inalienable right of self-defense against unprovoked attack. ….
(世界情勢によっては日本にも人道的自由を守ることを許すべきである。憲法9条は、最上級のモラル規範であるが、予期せぬ攻撃に対する必要な自主防衛を放棄するものでもない。)

It must be understood, however, that so long as predatory international banditry is permitted to roam the earth to crush human freedom under its avarice and violence, its high concept will be slow in finding universal acceptance. But it is axiomatic that there must be always a first in all things. The great immediate purpose Japan can serve in the confusion which overrides all of strifetorn Asia is to stand out with striking and unruffled calmness and tranquility as the exemplification of peaceful progress, under conditions of unalloyed personal freedom. It can thus wield a profound moral influence upon the destiny of the Asian race.
(理解しないといけないのは、「私曲」によって他の地域自由が剥奪されるような情況に世界がなってしまえば、その合意を見出すことは容易ではない。しかし、何事にも始まりがある。アジア諸国が混乱する中で平和的に復興する見本となればこれ以上のことはない。それが、アジア諸国の未来の礎になれば。)
 マッカーサーが意図していた憲法9条と、我々が考えている憲法9条(平和憲法)とは若干違っているのかも知れない。尚、マッカーサーの回顧録には、日本側の交渉相手として幣原喜重郎、松本烝治の名前が記されている。そのことから、憲法9条を誰が作ったかとの疑問には、両名が関与したとされるいくつかの諸説があるようである。

日本の禍機
戦争を知らずに育った我々にも参考にできる考え方を日清、日露戦争の祖国日本の動きに憂い、アメリカから警鐘を鳴らしていた人物がいたことをご存知だろうか。イエール大学で教鞭をとっていた朝河貫一氏である。朝河氏の著した「日本の禍機」から、「戦後70年談話」を考える時に参考として頂けるかと思う記述を紹介したい。前述のマッカーサーの考え方にも通じるところがあるようにも思えるのだが。

「東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、正当の優勢を持して永く世の易敬を受くべき日本国が、かえって東洋の平和を攪乱し、世界憎悪の府となり、国勢頓に逆運に陥るべきことこれなり。清国と相信じ相助けて列強をして侵略の余地なからしめ、また諸協約のために今なお蝕せられつつある主権の一部分をも、完全に清国に恢復するの時到らしめ、かつ厳に機会均等の原則を遵りて、満韓においてこれを破らんとする他の諸国を警むべきの地位にある日本が、かえって自らこれらの原則を犯して世界史の使命に逆い、ついに清国をして我に敵抗せしめ、米国等をして東洋の正理擁護者たらしむべきことこれなり。日本もし不幸にして清国と戦い、また米国と争うに至らば、その戦争は三十七、八年のごとく世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、実に世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべからず。日英同盟といえどもまたその時まで継続するべきものにあらざるべし。」

不幸にして、朝河氏の忠告も空しく、日本は軍国主義への道を突き進むことになるのだが、朝河氏が著書を通じて我々に訴えかけているように感じる言葉がある。「私曲」(朝河氏のキーワードの一つとされる。よこしまで不正な態度の意。)と「不公平」である。「不公平」に関しては、あるテレビ番組のインタビューでアメリカ人に原爆の使用が正当だったかと尋ねた時に、真珠湾攻撃による「不公平」な日本の行動への対応と答える人がいた。このことからも、如何に重要なキーワードであったかということが理解できると思う。

朝河氏は、「日本の禍機」の巻末に結論として「日本国民の愛国心」と題された章に「戦後70年談話」でも注目された「反省」という言葉に関して以下のような興味深い説明を加えている。
「沈毅、深慮、反省。これ武士にありても希有の徳たることありきと思われども、その俤ほどは各人の胸中に存せざるはなしというを得べし。何となれば、名を重んずる勇気(valor)と、訓練に従う義理(discipline)と、自ら欺かざる常識(catholicity)とは、日本国民が建国以来あらゆる事情の下に錬磨したる三代特色にして、ここに云う所はその第三の諸形式を指すものなればなり。但し沈毅と深慮と反省とは必ずしも相伴わず、坐禅によりて沈毅は得るべきも、綿密周到の思考力は必ずしも得難かるべく、近世の学問によりて後者を得べきも、前者は得難かるべく、また静寂にして深慮ある人士にして自省の力乏しき実例ま少なからざるべし。」

「日本の禍機」は、朝河氏が自身の意見を押し付ける為に書かれたものではなく、読者に対して自身の考え方などに対する批判も含め、世論を展開させることを目的に書かれたものであることも付け加えておきたい。日本だけではなく他国を植民地支配した歴史にも触れているが、「戦後70年談話」が客観的だったと批判される人には是非読んでもらいたい著書でもある。

玉音放送をプロデュースした男
 マッカーサー記念室の見学を終えて、下りのエレベーターを待っている時に近くに置かれていた「日本のいちばん長い日」という映画のチラシを手に取った。後日、テレビでその映画のプロモーションビデオを見る機会があったが、昭和天皇、鈴木貫太郎首相、阿南陸軍大臣などが中心に描かれているようだ。ここでは、終戦を国民に伝える玉音放送をプロデュースしたとされる和歌山県の出身でもある下村宏を簡単に紹介して、今回の報告を終えたいと思う。(会員の中には、NHKのBSプレミアムで先日放送された「玉音放送を作った男たち」をご覧になったか方もいるかと思いますが、その主人公が下村宏です。)

下村宏は、濱口梧陵と共に和歌山県議として活躍した下村房次郎の子息である。(正妻の子供ではないが。)大正3年には、「南紀人材論」(梧陵さんに関しても書かれているが)という新聞連載をまとめた和歌山県人に発奮を促すように単行本を出版する。今年の高校野球の開幕式で、殿堂入りの表彰を受けた第一回大会が開催された当時の朝日新聞の社長である村山龍平と共に朝日新聞の発展に貢献した人物でもあり、後にはNHKの初代会長としても活躍した。鈴木貫太郎内閣では、情報局総裁として加わっていたことから玉音放送にも関わることになる。(拓殖大学の六代目学長ともされているが、収監の期間が延びたため実務的なことはしていないようである。) 戦前、大阪にあった和歌山県人会の「木友会」を通じて松下幸之助を見出したとも云われる。梧陵さんと同じく、殆どその功績が知られていない紀州の偉人の一人である。

 2014年資料

私たちをとりまく社会情勢について2014年度総会に当たって、開会の挨拶

会長 尾川昌法

 開会の挨拶をさせていただきます。前総会(2012・7・29)から2年間の私たちをとりまく社会情勢の変化と、私たちの直面している課題について考えてみたいと思います。
(1) この2年間をふり返ると、はっきりとした大きい政治状況の変化を指摘することが出来ます。2012年12月16日の衆議院選挙で政権与党の民主党は敗北し(308人から57人)、自民党が大勝利をしました(119人から294人)。その結果、12月26日、安倍晋三を首班とする第二次安倍自公政権が成立しました。翌年2013年7月21日の参議院選挙でも自民党は圧勝し、「自民一強体制」といわれる政権になります。すでに「憲法改正草案」を発表し(2012・4・27)、全面的な憲法改悪と「戦後レジームからの脱却」を党是とする自民党と安倍自公政権は、この参議院選挙後、いっきに反民主主義的反動的政策を強行していきます。国民生活の格差と貧困を拡大する新自由主義的構造改革と世論を無視する政策の強行です。
 政権成立から1年後の2013年12月は、この政権の危険な性格をよく示しています。特定秘密保護法の強行採決、南スーダンの国連平和維持活動で陸上自衛隊の弾薬1万発を韓国軍に無償譲渡、そして靖国神社参拝を強行したのでした。特定秘密保護法(12・6)は、思想・良心の自由など人権を侵害するものであり、政府の一方的情報が優勢な情報となる情報管理社会を作り出すものです。自衛隊の弾薬無償譲渡(12・23)は、武器輸出を禁じてきた武器輸出三原則の政策を破った戦後はじめての他国軍隊への武器提供でした。3ヶ月後の本年4月1日、ついに、この三原則を撤廃して、武器輸出を認める「防衛装備移転三原則」を閣議決定しました。安倍首相の靖国神社参拝(12・26)は、日本の侵略戦争と植民地支配を認めず賛美する歴史観を、またもや明らかにして、中国や韓国との外交関係をぶちこわし、国際社会に失望を与えました。
 世論を無視する安倍自公政権の政策は、次々と実施されています。消費税増税、生活保護法や年金制度改悪、労働保護法制の規制緩和、教育制度の改編のほかに、TTP交渉、原発再稼働、米軍基地の移転拡張、そして、へイト・スピーチなど排外主義的ナショナリズムを許容し煽動しています。
 本年7月1日には、またもや暴挙を重ねて、憲法の平和条項についての解釈を変更し、集団的自衛権行使を認める閣議決定を行いました。私たちは、昨年12月の特定秘密保護法について、「反対し廃案を要求する声明」を公表し(2013・12・2)、その問題点を指摘しました。ここでは、集団的自衛権行使を認める閣議決定について、その問題点を指摘します。ここに安倍自公政権の危険な性格が代表的に示されています。 
 @集団的自衛権行使とは、他国政府の戦争に参加することです。人を殺し、殺されることがない戦争は歴史に存在しません。戦争は最も深刻な人権侵害です。平和に生きることは最も基本的な人権であり、その侵害は許されません。そもそも憲法9条は、「戦争」、「陸海空軍その他の戦力」、「交戦権」を抛棄しているのです。
 A政府与党内の協議による内閣の「解釈改憲」は、歴代内閣の憲法解釈や国会論議を一 方的に無視した横暴な専制主義であり、近代民主主義政治の原理である立憲主義を踏みにじり否定するものです。
 B憲法の原則である平和主義を覆すばかりでなく、基本的人権尊重主義、国民主権主義を否定するものであり、さらに、長い戦争の惨禍の反省からつくられた憲法とともに、私たちが営々として築き上げてきた戦後民主主義を破壊し、国民の民主主義運動に敵対するものです。民主主義の進歩と発展という歴史の流れに逆行するものだといわねばなりません。
 要約すれば、平和憲法と近代民主主義政治の原理、そして戦後民主主義をいっぺんに覆そうという政策です。安倍自公政権の危険な性格が、ここによく現れていると思います。

(2)  今、私たちは戦後の歴史のなかで重大な岐路に立っているのではないでしょうか。19世紀ドイツの有名な法社会学者であるイェーリングは、「世界中の全ての権利=法は闘い取られたものである。闘争がなければ権利=法はない」(『権利のための闘争』)、と言っています。憲法を擁護し、憲法が保障する人権と民主主義を擁護し、さらにそれを発展させる闘い。この闘争が、岐路に立つ今の私たちが直面している歴史的課題だと思います。
 安倍自公政権に反対する国民的共同の闘いは日増しに強くひろがっています。 脱原発を要求する各地の運動、九条の会の運動、首相官邸をとりまく抗議行動、など新しい形態と規模をもって市民運動が起こっています。集団的自衛権行使を認める閣議決定に対しても、世論調査の多くが、反対者が過半数をはるかに超えることを示しています。新聞その他のジャーナリズム、学者、研究者、宗教者、文化人らの団体やグループ、個人が反対の声をあげ行動を起こしています。多数の地方議会が反対の意見書を可決し、158に達することを伝えています(6・28現在)。
 裁判所もいくつかの注目すべき判断を示しています。 最高裁は、婚外子の法定相続分差別規定を違憲とし、子どもの平等権を明示する判決を出し(2013・10・7)、明治以来の民法改正が実現しました(2013・12・5)。京都朝鮮学校のへイト・スピーチ裁判で、京都地裁は人種差別撤廃条約を適用して街宣禁止、損害賠償を判決し(2013・10・7)、大阪高裁は、この一審判決を追認、維持しました(2014・7・8)。福井地裁は、大飯原発差し止め裁判で、生存を基礎とする人格権こそが最高の価値を持つ、として運転中止を判決しました(2014・5・21)。これらの裁判に戦後民主主義の発展を見ることが出来ます。戦後、私たちが築き上げてきた民主主義は確かに前進、発展しています。なにより、解釈を変更しても憲法本文はそのままに存在していることに、この政権の追いつめられた弱い姿がうつしだされています。

(3)  反民主主義的反動的政策を推進する安倍自公政権の思想的基盤には、間違った非科学的歴史認識、いわゆる「歴史修正主義」があります。「従軍慰安婦」問題についての間違った理解、「ヒットラーの手口に学べ」発言、日本の侵略戦争と植民地支配を否定する歴史認識などが、この政権の閣僚や同調する維新の会の政治家たちによって繰り返されています。
 治安維持法体制下で思想・信条の自由、言論・集会・結社の自由を奪い取られ、共産党弾圧からエスカレートして自由主義者や宗教家が弾圧され、一切の言論活動が圧殺された情報管理社会の時代がありました。同時にそれは中国侵略戦争からエスカレートして東南アジア侵略とイギリス・オランダ・アメリカとの戦争、世界戦争に至る時代でもありました。それは紙の表と裏のようなひとつの歴史です。自民党と安倍政権の「歴史認識」は、この歴史を墨で塗りつぶし、隠蔽しようとしています。
 愛国心教育などの排外主義的ナショナリズム批判とともに、この非科学的歴史認識への批判を重視しなければならないと思います。私たちは、創立20周年の総会で、研究会の初心について、「民衆の視点から原則的に歴史を認識する」、と確認しました(2010・7・31)。「原則的に」というのは、科学の方法論に従って科学的に、という意味でした。
 私たちは今、『島田邦二郎史料集』の編集をすすめています。自由民権運動の民衆闘争と民主主義運動の歴史的伝統を掘り起こし継承する意義を持つものであり、ぜひとも成功させなければなりません。
 研究例会のいっそうの充実と会員の拡大も、重要な私たちの課題です。
 私のこの報告が、2年間の活動の総括、これからの活動方針の討議を深めるために役立てば幸いです。

アウシュビッツを訪ねた日 その8

林 耕二

 「優生学」とナチズム
 19世紀末、ダーウインの「進化論」を社会に適用した社会ダーヴィニズムをもとにイギリスでゴルトン(ダーウインの弟子)による「優生学」が成立した(1883年)。「優生学」は「子孫のよりよき発展のために人間の肉体的・精神的遺伝素質に関してそれを向上ないしは低下させる種々の原因を追求する」ものである(『世界大百科事典』平凡社)。ゴルトンの優生学には「常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限」も含まれ、その影響はアメリカの数州での「断種法」、移民排斥法(1924)、禁酒法導入にも及んでいる(佐野『ナチス「安楽死」計画への道程)。
 ドイツで1890年代からイギリス優生学の影響を受けて成立した「民族衛生学」は、人間の肉体的・精神的特徴の遺伝的原因を重視するところから、「進化論」の自然淘汰論を人間に適用して、社会問題の原因を人間の資質に還元し、治癒不可能な病人や精神病患者の断種や排除を提起した。そして同時に、ドイツ人(アーリア人種)を民族的に優位と考える立場から、その純血と健全性を追求した。  「民族衛生学」の立場から、カール・ビンデイングとアルフレート・ホーヘは、共著『生きるに値しない生命の根絶の許容』で、不治の病人の殺害や「痴呆症」患者を「厄介者」と呼び、経済効率の観点から安楽死の必要を説いている(佐野前掲書)。またエルビン・バウアー、オイゲン・フィッシャーらの共著『人類遺伝学と民族衛生学の概説』は「ナチス優生学のバイブル」とされ、その要点は「人間の行動は遺伝子によって決定づけられ、健常者よりも多くの子孫を残す傾向にある劣等な遺伝子保持者を排除することが、民族衛生にとっての最善の事柄」(佐野)であるとする。ヒットラーは獄中で同書を読み、『わが闘争』に、「肉体的にも精神的にも不健康で価値のない者は、その苦悩を自分の子どもに伝えてはならない」と書き、それは、のちに断種法(1933)と「安楽死」計画につながることとなった。

    ドイツ国民の閉塞感とナチスの台頭
 第一次大戦後、敗戦したドイツはベルサイユ条約で課せられた膨大な賠償金を、アメリカからの資金導入で戦勝国(英仏で全賠償額の75%を占める)などに支払い、英仏などはアメリカに戦時負債の返金を行っていた。1929年にウオール街ではじまった恐慌でアメリカに資金が引き揚げられたために、ドイツ経済はゆきづまり世界の資金の環流は止まり世界恐慌となった。ドイツではどん底の不況と超インフレ(1923年時、1Kgのライ麦パンの価格は3990億マルクであった。)により国民の生活は破たん、失業者が町にあふれた。そのような社会の閉塞感を背景として、ナチスが台頭した。同時にドイツ共産党も失業した労働者を中心に支持をひろげていった。
  ナチスは国民の鬱積した閉塞感を利用し、その時々に応じてドイツの敗北や不況、失業など経済的困難の原因となる対象をデマにより攻撃し支持をひろげていったが、当初は資本家も攻撃対象であり、一時は共産党と変わらない批判をしていたが、保守層、資本家と手を組み出すようになって次第に資本家批判は影を潜め、すべての災いはユダヤ人であり、共産主義者であると攻撃し、障害者や不治の病人、アル中患者なども社会に負担をもたらす「やっかい者」とした。中世においてペストがヨーロッパで大流行したときに、ユダヤ人がペストの原因であるとの噂が流され(これは実際にユダヤ人が拷問されてそのような自白をさせられた)、ユダヤ人の大量虐殺が行われたことと相通じる状況が20世紀に再現された。
 反ユダヤ主義は中世以来全ヨーロッパ的に存在してきた歴史であり、ヨーロッパ史の裏面は、ユダヤ人迫害の歴史である。各時代の歴史的条件と歴史を通底する反ユダヤ主義思想がむすびついて、その時々のユダヤ人迫害が起こった。
 反ユダヤ主義と障害者、少数者、社会的弱者攻撃の共通点は、社会の「やっかい者」 として、それらを「いけにえ」にすることによって、社会に存在する閉塞感、危機感の解決をすりかえようとするものである。ヒットラーはヨーロッパ史を通じて社会的危機の際に絶えず噴出する反ユダヤ主義を利用し、遺伝子学を中途半端に利用した未完成な「優生学」という学問を理論的根拠にして、アーリア人種の「純血」と「健全」を「汚す」ユダヤ人と障害者などの社会的弱者を攻撃して国民の支持を得、彼らを排除、抹殺したのである。

 「ファシズムの心理構造」
 ナチスのユダヤ人虐殺と障害者などの「安楽死」計画は、今日では多くのドイツ国民に知られていたのではないかとされている。1930年代の圧倒的なドイツ国民によるナチス支持、ヒットラー政権の成立と、その後行われていったユダヤ人や障害者の抹殺 がなぜ可能であったのか、それは当時のドイツ社会の特殊性なのか、あるいは私たちの社会でも起こりうることなのか。
 障害者などのナチスによる「安楽死」計画は、この問題で重要な視点を私たちに与えている。『灰色のバスがやってきた』(フランツ・ルツイウス)の翻訳者である山下公子は、この問題について的確な指摘をしている(以下同書「訳者あとがき」より)。
 障害者の「安楽死」計画とその後のユダヤ人絶滅にいたる一連の事実について「同じ一つの姿勢がある。つまり、相手を、自分とともに生きている同じ人間とは認めていないということである」そして、ヒトラーは「馬鹿ではない。むしろ卓越した感覚の政治家」であり、その理由は「人間が意識していない、いや、むしろ意識すまいとしている無意識の差別をスルリと取り出してきて、『これぞ民族共同体繁栄のための正義』と称揚してみせる。その洞察力の確かさである。」としている。そして、「遺伝疾患」の障害者と、その介護者を例にとって、「介護者は善意である。善意で考えて、自分一人でとても生活できないこの障害者が、このうえさらに障害をもった子供を世話できるわけがないと判断し、この障害者が『不妊措置相当』の判決を受け、しかるべく措置されるように計らったとする。その奥にはもしかしたら、これ以上負担が増えてはやりきれないという、自分の都合もあったかもしれない。しかしその介護者に、自分が世話をしている障害者本人を殺すつもりは、少なくともその時点ではまったくない。」ところが、「その後その同じ社会が、必ずしも合法的とは言えないかたちで(ヒットラーは「安楽死」計画の立法化を拒否していた。)障害者当人の生命を処理しているとわかった時、介護者はそれを、まったく潔白な気持ちで拒否することができなくなっているのである。」
 そして山下は次の結論に至る。「社会の側が、自分の心の奥にある差別を『正義』と認めてくれたのによりかかった瞬間、自分自身もその社会の罠にかかるのだ。全体主義国家においては、そうやって『共同体』から排除された者を待っているのは、多くの場合、現実の死刑執行であった。『共同体』の側にいれば勝ちだったし、そうでなければ自分の命が危なかった。」そして、現在の社会のもとでも「根底にあった心理的な構造そのものは、残念ながら変わることなく、『ナチ時代』のドイツでも、現代の日本でもそこにあり、機能しているように思われる。『差別』などと呼ぶにはあまりにも小さな『違和感』の次元から、すべては同じ構造をもっている。」として、例えば通勤電車の中で泣きわめく子供や、車いすで乗車してきて通路をふさいでいるような人という次元の異なる例をあげ、そこに、双方に共通する周囲の心の動き、「いやだな」「え、なんで」という感情の揺れという問題を指摘している。それは「『迷惑』だという感情が、その存在はいない方がよいという内的な意味の構造をもつことは否定できないと思う。そしてその構造そのものは、たとえば『ナチ』の障害者「安楽死」計画処理を支えたものと、本質的には同じものなのである。」としている。同時に、こうしたいつでもある個人の感情の構造、「自分の価値観に抵触するものを排除しようとする構造」は、「社会の側が一部のグループの価値や好悪の判断を社会全体に通用すべきものと認めたり、規範化すること」によって全体主義を支えるものに変化してしまうのである。

ふたたびあやまちをくりかえさないために
   ファシズムへの階梯は、経済問題などを背景とする国民の閉塞感をもとに、個人の「迷惑感」「自分の価値観に抵触するものに対する嫌悪感」の利用や、権力によるマスメデイアを利用した宣伝による国民意識・感情の操作などにより増長する。
 現在の日本では、ヘイトスピーチや一部のマスコミ、インターネットを利用した嫌中・嫌韓キャンペーンなどが行われて、安倍内閣の集団的自衛権容認、憲法改悪の動きを支える役割をはたしている。これらの大がかりな仕掛けによる世論操作のある一方で、橋下徹(大阪市長)が先日発表した「非行問題生徒の隔離政策」などが注目される。大阪市内の学校で問題を起こした生徒をランク分けして、非行の程度が高い者を当該の学校から隔離して専用の「施設」に「収容」し、「専門」の指導員が生徒一人に対して複数で指導するという案であった。
 橋下の提起は根本にある教育政策の貧困を棚上げにし、問題を指摘していかにも強力な指導のように市民受けを狙うというやり方である。提案は、多くの心ある教職員からは支持されないだろう。世界最長の労働時間を強いられている日本の中学校教員の定数をふやし、生徒一人一人の指導を手厚くすることこそ重要である。鑑別所と学校の間のような施設に送られる時点で、生徒の心にひびく指導は不可能となり、生徒は学校を辞めるか、その施設が同じような生徒の一大勢力拠点となってさらに反抗するかのどちらかであろう。
 提案の問題点は、それだけではない。街頭インタビューで提案に賛成する人もいた。「まじめに勉強する生徒がばかをみる」ということは、そのとおりである。「やっかい者」は隔離するのがよいと。このように思う人も必ずいるだろう。むしろ大部分の普通の人は、そのように思う心がどこかにあるはずだ。みんな心の底でひそかに思っていたが、「市長がそんなことを言ってくれた。それなら、そういうことでしょうがないじゃないか」と考える。橋下の言動は市民が「めんどうなこと」「やっかい者」と思っているが、排除するということは良心が痛むことを行政が引き受けてやってくれるということで、個人の良心の痛みを麻痺させてしまう。ここに、市民の心の奥に横たわるものと、それを取り上げて強引に政策とする橋下のような政治家とが共鳴する関係、「ファシズムの心理構造」とも呼ぶべきものが起こりうることを警戒すべきである。

府庁本館に残る特高警察跡

山崎 義郷

安倍内閣の歴史逆行にストップ
 安部自公内閣は2013年12月6日、憲法違反の天下の悪法「秘密保護法」を強行成立させました。そして安倍首相は盟友アメリカの自粛要請にも躊躇することなく12月26日には靖国神社 参拝に踏み切りました。
 過去の侵略戦争と植民地支配を肯定・美化し戦前に回帰するような暴挙に対して 2014年の年明け早々から「秘密保護法」の廃止を求める国民的共同行動が広がっています。そこで戦前の暗黒政治の象徴である「治安維持法」のもとで大阪府庁がどのような役割を果たしていたか、府庁本館に残されている特高警察跡からたどってみましょう。二度と歴史の誤りを繰り返さないため、退職者会でも語り継いでいく一助になればと思います。

府庁本館に今も残る「特高」の痕跡
 現在の府庁本館は1926(大正15)年に建てられた3代目の庁舎です。江之子島に ある2代目庁舎同様に正面玄関の最上部に「菊の紋章」が飾られていました。つまり天皇制による地方支配の象徴として掲げられたのですが、敗戦を契機に新憲法公府の 際「新憲法の主権在民の理念とそぐわない」と、当時の大阪府職青年部の指摘により取り外されました(府職労35年史参照)。
  大逆事件の直後、1911(明治14)年に特高警察は発足し、大阪府庁にも翌年特別高等警察課を設置。「特高」のことをご存知でない方も、小林多喜二が逮捕されたその日のうちに東京築地署で拷問を受け虐殺されたことをご存知の方も多いと思います。
  その特高警察は、府庁本館の4階、5階に置かれ(今の監査委員事務局辺り)、地下の北側に「取り調べ室」があったとの証言があります。
 また、地下の南側には留置場があったと伝えられ、今でも中庭から見ると窓際に鉄 格子が残っています。 GHQの指令で敗戦の年の10月6日内務省が「特高」の廃止を指示しましたが、現在まで公安警察などに姿を変えて国民監視の体質は継承されていると考えると、今回の強行採決の意図が何か明らかではないでしょうか・・・!!「悪法」は廃止しかありません。  ※ 府職労退職者会結成40周年記念文集より(一部編集を変えています)

2014年2月2日掲載

第16師団兵士、下村實の最期

―日記と妹・西野ミヨシ著『防人はゆく』をもとに―

小野賢一

はじめに
 下村實(以下、下村とする)は生きていれば当年96才であった。副題にある西野ミヨシさん(以下、西野)は、下村の末妹で下村日記の継承者である。75才、枚方市で10数年間、小学校の教師をし、国語の授業で平和教材「かわいそうなぞう」等をとりあげたり、戦死した兄の話をしたり子ども達に平和について語ってきた。そして、「防人はゆく」(下村の追悼文集)を30年近く、書き続けながら大阪府枚方市香里ケ丘地域の「平和のための戦争展」に参画し、「戦死した兄の日記より」の2枚文集をもとに語り部として歩んできた。
 本報告では、アジア・太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属230万人の中の血の通った一個の生命、下村を照らし、その生きざまを明らかにしたい。

突然の戦死公報
 下村一等兵、1941年(昭和16年)12月27日、フイリピン・ルソン島ルクバンにて戦死。

生い立ちと記憶
 918年(大正7年)4月29日、京都府・丹波地方にあった五ケ荘村(現南丹市日吉町)在、農家,下村喜次郎・こふさの長男として生まれる。日記・短歌や絵を描くのが大好きな少年時代を過ごす。1町5反と山林を持つ家業に従事する。その傍ら、こんな短歌を詠んでいる。
         「遠き音」 こほろぎの 親呼ぶ子呼ぶ 声にゆれ
                        畑のつゆ 音たてて落つ

 早稲田中等部の通信教育を受け向学心に燃える下村は、「兵隊は嫌い、戻ってきたら教師になる。」と言い残して福知山の第16師団第10聯隊に徴兵され、村を去る。

入 営
  20歳。1939年(昭和14年)1月に入営した後、千葉県習志野にある戦車学校に配属される。その年の9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻、ヨーロッパで大戦がはじまる。戦車学校修了後1940年9月、京都伏見にある第16師団中部三十九部隊若林部隊に入営。同月、日本帝国は日独伊三国同盟を結び、同時に北部フランス領インドシナに進駐。こうして東南アジアへ の侵出が始まった。1941年、ドイツは6月に突如ソ連に侵攻した。呼応するかのように陸軍は御 前会議の決定にもとづき、7月に南部フランス領インドシナに進駐。
  この頃、下村は軍隊日記にこう綴っている。(タイトルは下村が命名。なお、一部の仮名使いは現代表記に直す)戦争を推進する一個の歯車としての心境、思想を吐露している。

「光栄ある使命のために」                昭和十六年六月二十三日   
  かつて私は軽装甲車の中で敵弾を受けて爆発するときの私の状態を想像してみて、 果たして私が操向揮を握ったまま、ほほえんで死ぬる兵であるかを考えて、はなはだ 考えるところが多い。ぜひ私はそうあるべきを念じるものである。またそのようある 責務の存する私であると決心した。    
 如何なる任務に就くともこの不動の信念を堅持すべきである。光栄ある使命のため に、国防の第一線の兵士として、このような生活信条を持つことは誠に幸福である。 故にこそ、私は使命のために死なねばならないのだ。無条件な使命の遂行のために死 ぬ。唯光栄ある使命に終至すること、唯それだけである。         (中略)    
 軍隊での生活は、一切の世事を離れた私にしてみれば心の楽園である。何故となら ば、私たちが深刻に思考あることもなく、精神的な煩悩心がないからである。私たち にはこの生活が続く限り、思考も煩悩も忘却しているのである。我等には親もなく、 弟妹もない。私達は私達の死を考えねばならない。どのような立派な社会人で在った 人もどのような高貴な家庭に育った人でも、どのような財産の持ち主であっても、全 て、この光栄ある使命のもとに集いたる若者はその使命のためにこそ一元化されるの である。同じ軍服を着、同じ靴をはき、同じ食べ物をいただき、同じ教練にはげみつ つ、同じ寝台に枕を並べる。まさに徹底的な団体生活であり、そこには私たちの行動 を律する命令ある。そのことについては唯今のところ、私は何ら自らの意を語り記す べき自由を一切持っていない。                                                           昭和一六年 京都伏見の兵営にて

 かたや、祖母の思い出と共に、自らの心情を次のように語っている。(母は常に父とともに農作業に忙殺されていたため、祖母に幼い頃から育てられた。) 「トンボつり、今日はどこまで行ったやら」         昭和一六年八月一四日
  赤トンボが故郷の道の上を、田の面をすいすいととんでいることだろう。・・・この年になっても、トンボ一匹を採って殺したことがない。祖母の背中で幼い日、仏様が赤 とんぼに乗って来られるのだと聞いたことを少しも忘れていないでいるからである。今、 兵営にある私の身、私の報告は故郷で、先祖にたいして無言のうちに行われているであろう。 10月20日頃、急ぎの葉書を受けた両親は最後の面会をした。その1か月後に第16師団にフイリピンへの派遣命令が下る。当時の下村は次のように綴っている。
「父母上に」                              昭和一六年十一月一五日
 今、私は野戦に赴くべき命を拝し、目下出発を待命中である。・・(略)・・。動 かすことのできない、しかも絶やせない力で迫りくる波である。かく言う時も 「死」は直前に横たわっているのである。もっとも正確な現実の未来は「死」が あるばかりであるといえる。

「父母上に」                              昭和一六年十一月一五日
 日露戦争は国民の熱血をしぼって叫んだ「万歳」の声に送られて旗の波の中を征ったと記され、また砲弾雨とふる中においてもこのことがまぶたにうかんで自分たちを励ますとかかれていた。 明後日、私たちが出発する時に於いては、もち論真夜中である。暗黒に乗車し鎧戸を下ろして声すら出さない。無言から無言へ。・・・・(中略)・浄雨にけぶる東山よ、洛南の盆地よ、愛宕山よ、すべてはなつかしき日本の思い出をよみがえらせるために、最後の私たちの目にとどめていることだろう。

この後、日記はぷっつりと切れ、最後の日記となる。この日記について、西野は、自著「防人はゆく」(2010年8月)で次のように語っている。

兄が戦死したとき、私はまだ2才であり、この時のことは全く記憶にないが、小、中 学校時代玄関には「遺族の家」という札が貼られ、長男である兄を失った父母の落胆は 言い表しようもなく、家は暗い空気に包まれていた。・・・私の故郷は30軒くらいの 小さな村であるが、その中で9軒までが長男を失い、それぞれの家の運命をも変えて しまった。・・・・若干24歳で敵弾に倒れた兄が、今も生きていれば93歳になる。 日記の中の「果てしなく広い世界も、まことの愛なき為に、最も悲しい、また淋しい戦 いを、しかも、世界の中の一番霊長たる人類が敢行しなくてはならないのです。」(その十掲載)の言葉は重い。
夏草の茂る山道の奥、「陸軍伍長 下村 實」の碑はひっそりと建っている。

下村が出生した五ケ荘村では101名中、62名が東南アジアで戦没している。その多くは中国の東北から中支南支と転戦したあげく、配色の濃い時期に死地に赴いた人たちである(日吉町 史・上、1987年)。

  比島攻略作戦について
 日本陸軍は、1923年第1位の敵を対露から対米に変更、作戦計画の研究開始。1926年、アメリカの「オレンジ計画」に対応して、陸海軍統帥部は「大正十五年度作戦計画」に改変を加え、軍事戦略・作戦を策定。1927,88年頃、参謀本部将校をフィリピンに派遣し、米比軍を調査。これらにもとづいて、本間雅中将指揮の第十四軍隷下の約6万5千人が1941年12月に比島攻略を開始(1966年、防衛庁戦士研究室編・朝雲新聞社発行の「比島攻略作戦」)。12月8日、ハワイの真珠湾攻撃と呼応して陸海軍航空部隊がフィリピンを空襲。こうして日米開戦の火ぶたが切って落とされた。10日、先遣隊がルソン島北部要地を占領。

フィリピンへ
 日記の途絶えた11月19日の2,3日後に下村は、鎧戸を下ろされた列車に乗せられ京都を経ち、大阪の天保山桟橋から出航、12月3日に奄美大島の古仁屋(こにや)の基地に集結。そして台湾を経て、12月24日、第14軍下第16師団の本隊に参加し、フィリピン・ルソン島の東部にあるラモン湾アチモナンに上陸。マニラに向けて進軍。
 この時の上陸作戦の様子は、写真集(「比島作戦の思い出」、第16師団写真班作成、1943年発行)と従軍記録(「比島戦記」比島派遣軍報道部作成、1943年文藝春秋社発行)に詳しい。この写真集にはマニラへ進軍(ひょっとすると下村が映っているかもしれない)する森岡 師団長、松田聯隊長、将校達が映っている。

下村 實の最期
 フィリピンの派遣第14軍は、マニラを1942年の1月に陥落させ、5月には、バターン、コレヒドールを陥落させ、米比軍との戦闘を終えた。米比軍マッカーサー司令官は、”I SHALL RETURN. ”と言い残してオーストラリアに後退。下村は、フィリピン・ルソン島東部のアチモナンに上陸後、マニラをめざし進軍中、1941年12月26日にマニラ東方のルクバンで鈴木少尉らとともに被弾し、翌日、死去。
 この時の詳細な記録が偶然にも2つの文献に残された。その一つは、若林中隊長から翌年2月1日付の航空便戦死公報。併せて軍隊手帳が送り返されている。

謹啓仕候   ・・・(中略)・・・
 (以下当時の模様)伍長は十二月二十四日「アチモナン」上陸以来 数度の戦闘に参加常に前線に立ちて奮闘武勲を立てられ居候処十二月二十六日友軍部隊と連絡を有する鈴木小隊員として「ルクハン」付近に至り同地付近を占領しある敵に對し小隊は任務達成のため戦闘するに及び伍長は常に小隊長の付近に在りて猛攻中敵弾の為め右胸部穽透性貫通銃創及左大腿部骨折貫通銃創を負い假繃帯所に収容したるも翌二十七日十一時三十分遂に昇天す るに至れり。
 もう一つは、『比島戦記』の「マニラ・ロード」(アチモナン上陸部隊)−木下次郎−(この人物は新聞記者か)の中で鈴木少尉の死が描かれている。若林隊長の航空便戦死公報と符合する。
 ・・・(中略)・・・
 一方、鈴木小隊は、ルクバンに於いて、マウバンから上陸し進撃中の恒廣部隊と連絡せよと の命令を受けて、敵地をタヤバスから十五キロ北方のルクバンへむかつてゐた。・・・(中略)・・・ この時、鈴木少尉は少しも屈せず、・・・突撃を敢行せんとし抜刀して起ち上がると、そのとたん、数ヶ所に砲の破片創を受けて少尉は路上に倒れた。瀕死の重傷にあって、なほ「あとの指揮は山口伍長が執れ、ルクバンは必ず我が隊で取れ」と命じ、自身で水をのむと天皇陛下萬歳を三唱して壮絶な最期をとげた。
 この頃、ルクバンにむかって南下してゐた恒廣部隊が敵背面を突き、これに呼応して鈴木部隊も突撃、ルクバン占領は成った。これ以来、恒廣部隊は松田部隊と協力して、マニラ・ロードを驀進するのである。
 戦後、下村の戦友であった梅枝氏(和歌山在住、故人)は、下村の故郷、五ケ荘村を訪れその最期を看取ったようすを両親に語っている。下村の父か若林隊長へあてたお礼の手紙(写し)も現存する。
 下村の死以来、穏やかだった父・喜次郎は憤るようになり、家庭は暗くなった。母はよく泣いていたそうだ。「滅びの家」に。(下村の妹の記憶より)当時の戦死者の家庭の苦悩は、旧日吉町の磯部貞一の妻の思い出(旧日吉町史上巻より)等にも残っている。
 第16師団のその後 第16師団は大岡昇平の「レイテ戦記」に描かれているように、1944年10月のレイテ戦で京都出身の1万3千名の中、生き残ったのは約620名。ほぼ壊滅した(1941年開戦の比島攻略作戦時にいた中隊長以上の将官達は、レイテ戦時にはすっかり変わっている。開戦時の森岡師団長は、戦後、生き残り比島作戦の回顧談で発言している−「比島攻略作戦」より)。アジア・太平洋戦争の軍人軍属の戦死者230万人中、フィリピンでは最大の約50万人が戦死(Cの地図。藤原彰「飢え死にした英霊たち」より、新日本出版社刊)。フィリピンでは、なる惨禍」を受けている(吉岡吉典・新日本出版社「日本の侵略と『歴史教科書』より。1951年、サンフランシスコ講和会議でフィリピンのカルロス・P・ロムロ外相の演説)。

あとがき
 西野は2015年夏に、アジア太平洋戦争終結70周年を一つの節目として、日記と「防人はゆく」を編んで、「第16師団兵士、下村實の最期−日記と妹・西のミヨシ著『防人はゆく』をもとに−」を出版して、その霊前に捧げようとしている。そして、この書を多くの人々に広め、平和についてともに考える糧とし、兄の死を現代に生かそうとしている。
 映画監督の山田洋次は、2014年8月、しんぶん赤旗連載「黙ってはいられない」で次のように語っている。「69年前の戦争で三百数十万人が死んだ。一口に三百万というけどそれがどれ ほどの膨大な人数なのか、その一人ひとりにどんな人生がありどのような酷い死に方だったのか、家族の人たちはいかに悲しみ嘆いただろうかを考える、資料を調べ、想像する、イメージを懸命に思い浮かべる、そういう喪の仕事というべき仕事を日本人はくり返しくり返しするべきです。それが平和を守り抜く力になる。」というこの発言を、今を生きる私は大切にしたいと思う。

反戦不屈の兵士・阪口喜一郎碑前祭

森下 徹

 今年一番の寒波に見舞われた12月14日(日)の午後、黒鳥山公園(和泉市黒鳥町)の入口前に立つ「反戦不屈の兵士・阪口喜一郎顕彰碑」の前において、喜一郎没後81周年を記念した碑前祭が行われた。総選挙投票日と重なったうえ、寒風吹きすさぶあいにくの天候であったにも関わらず、50 人を超える参加者を数えた。
 阪口喜一郎は、和泉市黒鳥町出身の水兵で、日本が足かけ15年に及ぶ中国への侵略戦争を開始しようとしていた、まさにそのとき、海軍内で反戦活動を展開したことで知られる。喜一郎が責任者となって発行した『聳ゆるマスト』は、現役水兵向けに発行された共産党の新聞で、100部をこえる読者を組織していたという。1932年11月、喜一郎は東京で憲兵隊に検挙され、1933年12月27日、未決のまま広島刑務所で獄死した。享年 31歳の若さであった。
 1960年代はじめ、地元和泉市黒鳥における「女工」さんたちの労働運動の展開のなかで、喜一郎が「再発見」され、50回忌にあたる1982年 12月に顕彰碑が建立された。没後75周年にあたる2008年、しばらく途絶えていた碑前祭が復活し、以後毎年12月に行われている。
 碑前祭は、主催者のあいさつ、参加者からの挨拶、メッセージ紹介、献花・献納の順で進められた(投票日と重なった関係で第2部の交流会は中止)。今年の碑前祭にも、近年交流のつづく広島から参加者があり、喜一郎の妻・野村梅子の姪・藤井晴子さんの手紙が代読されたこと、また、主催者からは和泉市長のメッセージとともに、喜一郎の甥・阪口義信さん(96歳)のメッセージが紹介されたことが印象深い。
 最後に、昨年喜一郎の没後 80周年を記念して創られた曲「聳ゆるマスト ー阪口喜一郎 受け継ぐわれらー」(作詞松本喜久夫、作曲Kei.Sugar)と「千の風になっ て」を全員で合唱して,碑前祭が締めくくられた。  この日の総選挙の結果、戦争できる国づくりをすすめる安倍自公政権は、「圧勝」し、改憲発議に必要な2/3を占めた。平和を求める勢力も躍進したとはいえ、憲法9条や歴史認識をめぐる状況はいちだんと厳しさをますであろう。戦後70年を目前にして、喜一郎の活動をどのように受け継ぐことができるのかが問われているのではないだろうか。

韓国済州島4.3事件の跡を訪ねて

清水 圭子

 4・3平和公園・平和記念館を訪ねる
 2014年9月27日、遂に済州島に来た。成田から僅か2.5時間、あっと言う間に到達するところであるのだ。「遂に」とはいかにも大袈裟であるが、私共にとって大阪民衆史研究会の二宮レポート(注)をきっかけに、済州4.3事件とはどういう性格の事件だったのか、日本はこの事件に関わりが多少ともあったのではないか、現地ではこの事件はどう理解されているのかなど様々な想いが行き交わって、是非現地を訪れ確かめたいとの思いが強くなっていたからである。今回もN夫妻の尽力があり実施したことを心から感謝、感謝である。
 済州4.3平和公園(写真1)は果てもなく広い真っ青な空の下にじっと鎮まっていた。
 中央の慰霊塔を中心に12万坪余もある広大な敷地内には4.3事件の犠牲者や遺族を悼む位牌所、発掘遺体奉安所、行方不明者の標石などが整然として在る。
 済州4.3事件は日本の支配から解放された喜びも束の間、米国の軍政下におかれた1947年3月に発生し大韓民国建国(1948.8)以降を含め7年余に及ぶ、全島に亙って繰り広げられた島民虐殺の深刻・悲惨な事件である。  

 3万人の大虐殺
 朝鮮半島は1945年9月、北緯38度を境に米・ソの軍事分割統治下におかれた。以来朝鮮の人々は国の在り方について、統一選挙か南朝鮮単独の分断選挙か、相反する二つの激しい流れに呑みこまれた。米軍政は南朝鮮の単独選挙を推進していた。1947年3月1日、4.3事件の導火線といわれる事件が国民学校の運動場でおきた。三・一節記念集会に集まった群衆の内の幼児が、騎乗警官の馬の蹄に踏まれ倒れたが警官は見過ごした。これに憤激した群衆が投石し、警官が発砲し6人が死亡、重傷者が6人出た。そして以後7年余にわたり本土から大量の警官、官僚、反共青年団体西北青年会などを投入し未曾有の大虐殺(死亡3万人)、焦土化(島の三分の二、罹災者10万人)が行われたのである(写真2)。現場にいた米軍、本土から来た警官隊は事態を収拾せず、左翼の暴動と見なし片端から逮捕し拷問をはじめたの であった。
 当時の米軍資料では、「済州島は人口の70%が左翼団体の同調者や関係者であるような左翼の拠点として知られている」とある。済州島を「赤い島」と烙印を押したのである。

民主化後、国家犯罪の調査と贖罪が行われる
 初代大統領以降歴代の軍事政権はこの事件を歴史から完全に抹殺して来たが、軍事政権が終りを告げ民主的政権が誕生するとこの事件の記憶は徐々に発掘され、犠牲者の名誉回復・追悼・人権の尊重など、国家としての贖罪の動きが始まったのである。
 2000年には4.3特別法が制定され、平和公園の建設が始まり2008年に開園した。平和公園の基本理念は(以下抜粋)「・・・4.3事件による済州道の民間人虐殺と凄絶な生きざまを記憶・追悼し和解と共存の未来を開くための平和人権記念公園である」とパンフレットに記されている。
 半世紀以上を経て国が漸く国家犯罪としての罪を認め、国民に「和解と共存の未来」を呼びかける記念碑が平和公園である。

虐殺の先鋒は植民地時代の親日派支配層
 平和記念館はドーム型の巨大な施設である。日本語通訳に中年の女性がついて下さり丁寧で行き届いた説明で有難かった
。  見学者はまず暗い洞窟へ導かれる。埋もれた沢山の真実を探し求める歩みである。不安で頼りどころのない手探りの空間である。洞窟を抜けた所は一転、天窓から降りた白い光の中に無告の白碑(ペクヒ)が鎮まっていた。
  4.3事件は未だに正式な名称を持たないという。蜂起?レジスタンス?暴動?いつの日か碑文が刻まれるであろうがそれは未来に託された問題なのだ。
 展示は6段階に分けて分類展示されている。50年以上抹殺されてきた数々の資料が此処に漸く所を得て、さあ今こそ語ろうとしているように感じられた。
 「開放と挫折」の館には米軍政の指令書があった。米国公文書館から公開されたものである。人間の生き死など少しも顧慮することのないその内容は、当時米軍政下にあった済州島民がジェノサイドに至る状態を雄弁に語っていた。 更に済州島の焦土作戦と島民の大虐殺を行った急先鋒は反共・極右と化した親日派の青年団であり そのバックは未だ政治の底流にうごめく日本植民地統治に協力した旧支配層の親日派であったことも明らかになっている。なんとこれは、日本の戦後史の暗部と重なる部分ではないか。慄然とした。「歴史を見直す」とは瞬時も足を止めてはならない作業であること、「やり直す」ことは出来ないが少なくとも「繰り返す」愚は何としても避けなければならないこと、を改めて強く学んだ時間であった。
 最後に通訳の女性に二宮さんの調査結果を紹介したところ、「記念館の3階に済州事件の遺族たちの調査補償を行っている『済州4.3平和財団』があるので必要な場合は是非利用してほしい」との情報提供を受けた。二宮先生にお伝えしたい情報である。

(注)二宮レポートとは、『大阪民衆史研究第59号』二宮一郎「在阪済州島出身者の生活誌」

 2013年資料

特定秘密保護法案に反対し廃案を要求する声明

2013年12月2日
大阪民衆史研究会

 私たちは、国会で審議中の特定秘密保護法案に反対し廃案とすることを求めます。
 この法案は、政府の裁量によって「秘密」がいくらでも拡大される曖昧さを持ち、秘密とされた情報を取り扱う公務員や、それを調査し情報を提供する市民を重罰によって拘束し人権を侵害する危険 なものであり、政府による一方的情報が優勢な情報となるような情報管理社会を作り出すものであると言わねばなりません。
 私たちは、目も耳も口も封じられ侵略戦争へ総動員されていったかつての治安維持法体制と15年戦争の歴史を知っています。この過ちを反省して、戦争後の現憲法は平和・主権在民・基本的人権尊重を原理として制定されました。法案は、この憲法が保障している思想・良心の自由、集会・結社・言論・出版その他表現の自由、学問の自由などの基本的人権をないがしろにする危険なものです。また、主権在民を原則とする民主主義政治は、市民による政府の監視を前提として成立するのであり、そのために不可欠な情報公開の原則は世論尊重の原則とともに一般に認められていることです。  
 9月3日から17日の15日間、政府の行ったこの法案のパブリックコメントは、法制に規定する半分の期間でしかなかったにもかかわらず9万件以上の意見が寄せられ、その77パーセントが反対意見でした。11月25日、衆議院の法案審議特別委員会が行った全国で一カ所の福島市での地方公聴会は、7人の公述人全員が反対あるいは慎重審議を求めるものでした。この公聴会の翌日午前、衆議院の法案審議特別委員会は採決を強行し法案を可決しました。代表的全国紙を含んで地方紙ら新聞・ジャーナリスト、出版編集者、弁護士、作家、自然・社会・人文の諸科学を問わず多数の学者、研究者、宗教家などの団体、グループ、個人がこぞってこの法案に反対の意思を表明しています。法案に反対する広範な世論は、今も日ごとに広がっています。世論を無視することは許されません。いったい何故、今この法案が必要であるかさえ不分明のままに、性急に安倍政権は成立を急いで暴走しています。  
 私たちは、人権と自由、民主主義を擁護しなければなりません。  
 私たちは、この特別秘密保護法案に断固として反対します。直ちに廃案とすることを要求します。

民主主義の深化・発展のために

尾川 昌法

 12月16日の総選挙で自民党政権が復活したが、しかしそれは単純な歴史的回帰ではない。
 @民主党の大敗北(前回308人から57人)は、この3年余の民主党政治への失望と拒否を明らかにしている。
 A自民党の大勝利(前回119人から294人)は、党首自身も認めたように自民党の全政策を支持したものではない。「自民党が大きく議席を伸ばした」理由をたずねた選挙直後の世論調査では、「自民党の政策を支持した」7%、「民主党政権に失望した」81%であった(朝日、12・19)。
 B選挙結果は、投票者の意思表示ではあるが全有権者のものではない。3・11大震災後最初の国政選挙であったが投票率は戦後最低(59、32%)を記録した。いくつもの条件はあるにしても政治不信の広がりを示しているだろう。
 C今回もまた、各選挙区で一位の者しか当選しない小選挙区制度の欠陥を明らかにしている。自民党は、小選挙区の場合、約4割の得票率(43%)で、約8割の議席(79%)を獲得している。多くの死票があり不公平は明らかである。  要するに、争点をぼやかし、維新の会など乱立した政党の中で旧政権党が選択されたのであって、消費税増税、脱原発、TPP、米軍基地撤去、憲法改正らの直面する諸課題について自民党の政策が支持された結果ではない、といわねばならない。しかし、自民党はチャンスとして、党是とする改憲の道を加速させ、7月の参議院選挙を重視した様々な策動を展開するだろう。
 2013年の政治情勢がこのようなものだとすれば、改憲を許さず平和憲法を擁護する闘いは最も重要な私たちの政治的課題となるのではないか。それは平和憲法とともに私たちが戦後に築き上げてきた民主主義の成果を擁護し深化、発展させることにほかならない、と私は思う。
 この憲法の重要原則の一つは基本的人権の尊重である。そしてその人権の根幹にあるのは、前文と九条に示されているように、幸福と安全を追求獲得する手段を伴って生命と自由を享受するという平和的生存権である。
 したがって平和的生存権を現実のものとして獲得することは、とりもなおさず戦後民主主義の発展にほかならない、といえるであろう。民衆の視座から地域社会に根を張って歴史を学び研究する私たちに、今求められているのは、さらにいっそう丁寧に地域における民主主義発展史を探究すること、それを例会、会報、機関誌に反映してもっと多くの人々に差し出すこと、である。私たちはこうして歴史の発展に参加したい。

2013年1月12日掲載

箱作・黄金松に秘められたメッセージ

『稲むらの火』に語られなかった未来への教訓-(その1)

白岩 昌和

 今日、1月17日で阪神淡路大震災から18年目を迎えた。また、昨年末にはインドネシアでもスマトラ沖の津波災害から8年を期してのイベントが開催されたようである。東日本大震災から早や2年が経とうとしているが、被災地の一日も早い復興を祈りつつ、筆を進めたいと思う。

未来の防災に備えて
 昨年末、和歌山県田辺市で行われた関西学院の室崎益輝教授を迎えて和歌山大学が主催した防災?日本再生シンポジウムで「過去の災害に学び、未来の防災に備える」と題した基調講演に参加した時に、東日本大震災で津波に襲われた東北地方の沿岸地域でも、青森県八戸市のように比較的その被害が少なかった場所があったとの話に興味を持たされた。後日、どのような理由で津波からの減災が可能であったのかネット等で調べてみたところ、林野庁のHPに八戸市等での津波被害に関して以下のような記載が見受けられた。
 八戸市では、津波により20隻を超える船が漂流して海岸防災林をなぎ倒したが、全て林帯で捕捉され、背後の住宅地への侵入を阻止するとともに、背後の住宅地は3m以上浸水したものの流出しなかった。また、宮城県仙台市若林区では、9mを超える津波に襲われ、海岸防災林に甚大な被害が発生したが、林帯の背後にあった住宅は原形をとどめて残存した。さらに、茨城県北茨城市や大洗町では、それぞれ6m、4.5mの津波に襲われたが、人工砂丘等により津波が減衰されたため、人家等への直接的な被害が軽減された。
 今回の津波被害を受けて、検討会では、海岸防災林の有無による津波被害軽減効果の違いを確かめるため、青森県八戸市市川町の海岸防災林を対象とする数値シミュレーションを行った。その結果、海岸防災林の存在により、津波の内陸への到達時間が遅くなることが確認された。このように、東日本大震災の津波では、海岸防災林は、津波自体を完全に抑止することはできなかったものの、津波エネルギーの減衰効果、漂流物の捕捉効果、さらには到達時間の遅延効果等、被害の軽減効果を発揮したと考えられる。(*1)

日本に於ける防潮林の歴史と沿革
 今回の津波災害のあまりの甚大さに、防潮林によってその被害が軽減されたという事実はあまり語られていないように感じるが、津波からの減災に対して 有効な手だてとも考えられる防潮林の日本での歴史とその沿革に関して論じる事にする。
 民俗学者柳田国男に師事し、昭和8年(1933)の三陸沖津波の後、被災地を歩き明治29年(1896)の津波と合わせてその被害と復興の状況を調べた山口弥一郎が書いた『津波と村』にも、今回の震災で一本だけ残った陸前高田の松原に関して述べられている。三陸海岸では希有な高田の松原は、防潮の為に植えられたという。古くは砂漠のように砂が吹き荒み、潮風の為に耕作地が荒涼する状況を打破する唯一の防衛策として考えられたのが松樹の栽植である。記録によれば、伊達藩治の寛文年間(1661-1672)に、菅野杢之助と云う人物が一切の費用を捻出して行われた偉業である。明治43年に至るまで藩有或は官林として守られて来たが、その後民間に払い下げられ保安林として保護された。耕作保護の為に防潮林として設けられ、永く保護されてきた高田の松林が、その真価を発揮したのが明治29年、昭和8年の津波の時であった。高田町は勿論、その付近の耕作地が殆ど被害を受けなかったのである。砂丘の外側では4、5メートルの津波が迫っていたが、海水は高田平野の半ばにも達する事はなく、高田町の主要部分は標高が2、3メートルにも関わらず難を逃れたのである。(*2)
 では、砂防或は耕作保護の為ではなく、津波被害からの減災が真の目的として防潮林が造られたのは、いつ頃であったのであろうか。一昨年亡くなられた東北地方の地震津波の研究者であった山下文男氏が歴史地震誌に書かれた論文の中に、「昭和の三陸津波の後、和歌山県広村にある防潮林の教訓に学び、林学博士の本多静六博士の指導の下で、村の青年たちが7町歩の面積に植え付けた黒松もすくすくと成長し、今では見事な防潮林になって津波対策の一翼を担うたのもしい存在になっている。」と田老町(現宮古市田老地区)の取り組みに触れている。(*3)

現在に伝えられる「稲むらの火」
 東日本大震災以降、一部の小学国語教科書への再掲載もあり、再び注目を浴びている「稲むらの火」と云う物語をご存知だろうか。あの庄屋さんが刈り取ったばかりの稲穂に火を放って、秋祭りを祝っている村人達を安全な高台に誘導し、多くの人の命を救ったという物語と言えばお気づきになる人も多いのではと思う。主人公の名前等物語は史実と異なるところもあるが、実在した人物の安政津波(1854)の際にとった機転の利いた行動を小泉八雲が明治の三陸津波の惨状を知り書き記したものがその原典とされている。ヤマサ醤油七代目店主濱口儀兵衛(梧陵)、その人の物語である。しかし、物語では取り上げられていない被災地広村の復興の礎となった堤防の建設に関して知る人は多くないか もしれない。その堤防沿いに植えられたのが数百本の黒松であった。その目的は、砂防や耕作地域の保護ではなく、津波による減災を想定してのものだったと考えられている。防潮林を植える事によって、その地中に張り出す根が堤防をより強固なものにする事もできたであろう。また、今回の震災のテレビ映像からも理解できるように港に浮いていた船(当時は木造船だっただろうが)等が津波によって押し流され町中にある建物を破壊する事も防潮林によって防げると考えたのだろう。そして、津波でも最も恐れられる引き波による人的被害を黒松の枝を命綱として握る事で救える可能性を考えたとも伝えられている。何故、このような発想が身に付いたのだろう。その答えは、濱口家に遺されていた梧陵さん(広川町住民は今も愛称としてそう呼ぶ)も目を通したと考えられる古文書の中にも見出せるのではないか。貞観11年(869)に起こった東日本大震災規模の貞観の津波の状況が記録されている日本三代実録(1672)、日本書紀(1599)等、日本の史実は勿論、小川琢治の「支那地理歴史研究」の論文にも言及されている中国の地震を記した呂氏春秋(1788)、治水に関する参考ともされたであろう山海経(出版年不明)がその文献の中に含まれている。(*4)
 濱口家の蔵書の他にも、現在の和歌山県立耐久高校(1852年、その前身である耐久社が濱口梧陵らによって創立された)に保管されている古書が数千冊ある。先日、その一部を閲覧させて頂く機会があり、その中に小野蘭山(1729-1810) の著書と思われる『草木網目啓蒙』(1803)等が含まれていたように記憶している。当時、紀州藩には小野蘭山の弟子である小原桃洞を中心に本草学が盛んに学ばれていた。藩が和歌山に医学館を寛政年間に創設した際、小原は本草局を主宰し、「もう一人の熊楠」とも呼ばれる畔田翠山等の門人を輩出した。その医学館では、毎年春秋に物産会や薬品会を催していて、その興味は藩士だけでなく一般の商人等にも及んだとされる。(*5)また、ネット上の検索では海松子(朝鮮マツノミ)に関して蘭山の著書にはその詳細が書かれているのも確認でき、黒松に関しても詳しい説明がなされていたと思われる。 (つづく)
<参考文献>
(*1)林野庁HP 復旧復興に向けた森林、林業、木材産業の取組(2)
(*2)山口弥一郎著 「津波と村」 36頁
(*3)歴史地震 第19号(2003)165?171頁
(*4)出版年は広川町教育委員会が作成した蔵書リストによる。但し、その蔵書は既に県立 図書館に移管された。 尚、小川琢治の父浅井篤は、当時の耐久中学で教鞭を取っていた。
(*5)武内善信著 「闘う 南方熊楠」 35-36頁

箱作・黄金松に秘められたメッセージ

『稲むらの火』に語られなかった未来への教訓-(その2)

白岩 昌和

海外の林学事情と日本への影響
 では、海外の林学事情はどのようなものであったのだろうか。伊藤武夫氏の論文「佛国海岸松」の中にブレモンチェー(Bremontire)と云う人物の名前といくつかのフランスの地名が記されている。その論文の記述によれば、1784年(ルイ16世朝)にはボルドー地域の財務監督技師長に命ぜられた同氏が飛砂地の水路工事に従事したり、共和暦元年(1800年)乃ちナポレオン統領時代の内務大臣が組織した海岸砂防委員会の会長にも推薦されたとされる。(*6)後日、月刊『ポピュラーサイエンス』には、同氏の砂防実験が成功した事が伝えられている。(*7)また、当時のフィラデルフィアの博覧会等に於いて、松を含む多くの種子等が展示されていた事も非常に興味深い。(*8)

 前述の通り、濱口家の家業は醤油醸造業であり、赤穂、斎田の塩等醤油造りに必要な材料を全国から取り寄せていたようだ。また、銚子で醤油醸造を始める前には、漁業にも従事していた為、長崎の五島列島にもその活動の範囲を広めていた。事実、五島列島に醤油の販売所などが置かれていた事が、その店史からも分かる。(*9)徳川時代の鎖国政策から、タテマエから薩摩は中国と交易は行っていなかったとされる。しかし、関ヶ原で西軍についたがために譜代大名と差別され続けていた長州と薩摩はそのタテマエは守ったが、毛利氏は対馬の宗氏を取り込んで朝鮮と交易をしていたし、島津家もまた沖縄を拠点として中国からも多くのものを輸入したとも言われている。(*10)従って、五島列島を行き来していた濱口家にも海外との接触は可能だったとも考えられる。また、梧陵さんの実際に海外視察をして帰国した勝海舟、福沢諭吉、田辺太一(蓮舟)らとの交友関係からも海外事情にも通じていたに違いない。<参考:醤油の歴史からも、醤油の生産者は確認できないようであるが、ルイ14世が宮廷料理に日本の醤油を用い、コンプラ瓶で出島から輸出された事実もある。>

 以上の事を前提に、神戸大学の新聞記事のデータベースにある昭和9年3月17日付け大阪時事新報の「一粒の種子 むくむくと茂り 緑全土を覆ふ」と題された記事の内容を考えてみたい。その記事には、「松柏科の珍種葉の長さ一尺、松毬の大きさ長さ六寸と云う佛国海岸黒松の苗一千本が府下泉南郡下荘村箱作生田伊作氏から寄贈され府営四公園(住吉、住之江、箕面、濱寺)に珍奇な姿を誇ることになった、この松の我国に輸入されるに至った裏には明治初年アメリカで客死した邦人旅行家に絡る秘められた話がある」とあり、以下のように続く。「和歌山県有田郡広村濱口義平<儀兵衛の間違い>氏と云え ばヤマサ醤油の醸造家として知られているが、話は義平氏の祖父梧陵さんが明治十七年 欧米に遊び、翌十八年ニューヨークに客死したことから始まる。梧陵翁の死を伝え聞いた養子の善太夫さん(義平氏の實父)はせめてその遺品なりともと残された荷物を取寄せたところトランクの中から不思議な大きな植物の種子を発見した、善太夫さんは好奇心に満ちてその種子を養家の庭と自分の実家のある泉南郡下庄村泉福寺に蒔いたところが、数年ならずして珍らしや大きな松が成長し村人の好奇の目をそそった」。

箱作の黄金松と史蹟広村堤防
 この記事の中にも名前が出て来る生田伊作氏が書いた『佛国海岸松 黄金松』にも「黄金松の我が国渡来の沿革」として、次のような記載がある。「明治二十四五年の頃、和歌山県有田郡広村、醤油醸造家濱口義平(同上)翁が、当時醤油エキス及び瓶詰醤油の輸出を企畫せられ、之が販路調査の為欧米を視察せられた。其際仏蘭西に於いて、松樹の球果を得て持ち帰られたる種子が、即ち我が国へ渡来した最初の種子と思われる。該種子が、弊村大字山中新田(当時濱口家所有地)泉福寺境内に、二十有余本の生育を遂げたのであって、現在最大のもの高さ十二間位、樹齢凡そ四十年の生育を遂げている。」(*11)

 と云うことで、七代目濱口儀兵衛(梧陵)がフランスの海岸黒松を最初に日本に持ち込んだ人物であった可能性が高いと思われるが、大阪時事新報の記事と生田氏の著書の内容に関して検証したい。大阪時事新報に書かれている濱口儀兵衛氏は梧陵さんとの関係から九代目儀兵衛と考えられる。一方、生田氏の著書に書かれている濱口儀兵衛氏は、実際にアメリカ視察に赴いた梧陵さん自身の事を書いているようだ。ただ、梧陵さんは著書に記されているようにフランスを訪れる前にニューヨークで明治18年には客死しているので、少なくとも梧陵さん自身が種子を持ち帰ったとされるのは正確ではない事が分かる。では、全く根も葉もない事実が新聞記事或は著書に記される事になったのであろうか。

<参考文献>
(*6)伊藤武夫著 「佛国海岸松」昭和3年6月 (第574号)大日本山林会
(*7)Popular Science Monthly, November 1888, p.144
(*8)Popular Science Monthly, May 1882, p.8
(*9)ヤマサ醤油店史 100頁 梧陵の広村堤防等の救済事業の為、五島の店を閉店したとの記載。
(*10)有吉佐和子著 「日本の島国、昔と今。」461頁
(*11)生田伊作著 「佛国海岸松 黄金松」 1931年1月 2頁

箱作・黄金松に秘められたメッセージ

『稲むらの火』に語られなかった未来への教訓-(その3)

白岩 昌和

 安政津波の後、甚大な津波被害を被った広村には梧陵さんの百世の安堵を図る復興策として堤防が造られた。そして、前に述べた通り、その堤防沿いには防潮林として黒松が植えられたとされる。堤防の近くに昭和8年に建立された梧陵さん等広村を津波から守ってきた人々に対する感恩碑について記した『感恩碑の由来』には防潮林に関して次のような記載がある。「堤防の完成と同時に土堤の外面の堤脚に松樹数百株を栽え、土堤の内面及び堤上に櫨樹数百株を栽えました。今後たとえ、この堤を超すような巨波が来ましても、その波の猛勢をこの松並木によって大丈夫防ぐことが出来ることと思います。因に申します。この松樹は樹齢凡そ二三十年のものを山から持ち来って植えたもので、その之を植えるに当り、梧陵の注意により、山にあって成長した枝振の方位の通り植えましたので、一本も枯れるものがなく、よく育ちて今日の繁茂を見るに至ったものであると云う事であります。」(*12)このことから、植えられた黒松の種類(自生していた松或はフランスの海岸黒松であったかも含め)も、何処の山からこれらの松が移植されたかも定かでなかった事と共に事実を決して断定的に伝えよ うとはしていなようにも感じられる。また、これらの文献から広村堤防の竣工の時期は特定できても、その防潮林の完成がはっきりと特定できないとも言えるのではないだろうか。    

或る仮説から
 ここからは、一つの仮定をもとに話を進めたい。その仮定とは、梧陵さんが広村堤防に沿って植えた黒松がフランスから持ち込まれたもので、新聞記事等にもあるように現在の阪南市で育てられた苗木を移植したものであったとするものである。この仮定に至った主な理由は、数百本もの二、三十年ものの松が広村の住民らによって実際に山から持って来れたのかと云う単純なものでもある。今でこそ、伐採した樹木を山から切り出すのは簡単なように思えるが、近代的な機材も無い当時に山にあった巨木を根等に傷をつけずに持ち出すのはかなり難しかったのではないだろうか。況してや、数百本の松を一斉に移植する事は出来なかったのであろう。と云う事で、阪南の濱口家の所有地(現在の南海電車の箱作駅付近であったと考えられるが、泉福寺の存在が確認できていない)で育てられた松の苗を船で広の浦まで運んで来たと考えれば、かなりの疑問が解消される。特に、黒松であれば、潮風にも強く、海上の運搬にも問題は無かったのではと思う。
 ヤマサ醤油店史によれば、梧陵さんが七代目儀兵衛として家業を営んでいた時の帳簿に以下のような出費が計上されている。
    一、 泉州箱作山中善次より買入の田地
        養子梧荘(八代目儀兵衛)の実家改革の為 10,450円(*13)  

 おそらく、この出費で手に入れた土地が、後日新聞記事等で伝えられる事になる泉福寺になったのであろう。土地自然保護の観点から、森林樹木の保全の動きが明治初年に活発になり、「社寺境内ノ樹木猥ニ伐採スルヲ禁ス」(明治6年7月2日太政官第235号布告)等の伐採禁止令が出されるようになる。(*14)もし、梧陵さんが記事で伝えられている以前に密かにフランスの海岸黒松の種子を入手する事に成功し、その苗木を育てる場 所を選択したとすれば、機密保持に最適な場所が社寺であったと考えたのではないだろうか。現時点では、この土地を位置を特定するには至っていないが、箱作の地が海にも近い事からフランス黒松の防潮林としての有効性を試すにも、その苗木を船に積み込むにも最適な場所でもあったと思われる。
 明治37年9月7日附、森林法第16条により、農商務大臣から天洲の濱、中の町及び湊の町に亘る一帯の松樹は「防風潮保安林」に指定された。(*15)明治29年の各地での度重なる大洪水の被害(7月の木曽川の大洪水、8月30日と9月7日に襲来した台風は、淀川をはじめ西日本一帯、関東でも荒川、江戸川などが氾濫した)もあり(*16)、明治30年に成立したのが日本で最初の森林法である。また、6月15日には小泉八雲によって「稲むらの火」の原典でもある「A Living God」が生まれるきっかけとなった明治三陸沖津波が発生している。その津波において、各種樹木と海水との関係を報告したのが本多静六博士であった。本多博士の報告によれば、驚く事に黒松の海水に対する耐性を第一級(老幼樹共に海水に依って全被害を受けざりし樹種)と評価している。(*17)しかし、後日同博士が 書かれた「学校樹栽造林法」には以下のような黒松に関する記載もある。「日本全部ノ海岸潮風ノ強キ所ニ植ウベシ。特ニ海嘯其ノ浸潮ノ度アル地方ニハ此ノ樹に限ルベシ。」(*18)明治三陸沖津波で水に浸った黒松が日本に自生するものであった事から導き出された相違かも知れないが、森林法(明治40年に改訂されている)が施行されてからは、保安林が津波に対する有効な備えとして考えられるようになったと考えられる。梧陵さんが造った広村堤防の松林が「防風潮保安林」として指定された事によってその潮流が出来たのかも知れないが、「修正尋常小学読本教授細案巻10」にも次のような保安林の利益に関する記載がある。「森林は防風を支え、また其の力をそぐこと、飛来する土砂をさえぎること。及びつなみ等の害を防ぐこと(防潮林、防砂林、潮害防備林に)」(*19)

 残念ながら、濱口梧陵によって安政津波の後植えられた松樹は松食い虫等によって全滅した為、現在広村堤防に沿って植えられている松林はその後植え替えられたものであり、林野庁から示されている日本の主な海岸林 のリストからも既に外されている。和歌山県でそのリストに唯一含まれているのは、美浜町の煙樹ヶ浜の松原である。濱口梧陵が安政津波の後造った土堤に沿って植えられた黒松の防潮林が、フランスから持ち込まれて来たものか否か、現在の阪南市にあったとされる濱口家の所有地に植えられていた苗木が広村に持ち込まれたのか否か、その結論は今後の遺伝子検査 等の結果に委ねたいと思う。ただ、今は「木の国」の先人が遺した黄金松にまつわるその神秘的な我が国における沿革に思いを馳せながら『梧陵さん』と広村堤防沿いの松樹に関する顕彰を続けたいと思う。
<参考文献>
 (*12)濱口惠璋編集 「感恩碑の由来」 昭和8年12月5日発行 25頁
 (*13)ヤマサ醤油店史 第8章七代目儀兵衛梧陵 121頁
 (*14)小林正 「森林林業施業法制概説 −特に森林の自然保護に留意して−」   リファレンス2008.2 4頁
 (*15)和歌山県有田郡広川町役場 「和歌山県廣町 津波略史と防災施設」昭和27   年12月21日発行 41頁
 (*16)渡邉悟 「明治の大水害と成立並びに治山事業の開始」フォレストコンサ   ルNo.128, 2451- (2012)
 (*17)吉崎真司 「海岸林の機能と津波に対する樹木の応答について」 日緑工   誌 37(2) 281?285 (2011)
 (*18)本多静六著 「学校樹栽造林法」 1899年1月 5頁  (*19)野沢正浩、友納友次郎著 「修正尋常読本教授細案巻10」 大正7-14 254   頁

 2012年資料

誤った対応をした「校長の苦悩」を擁護する

NHKの放映に抗議の投稿

渡 辺 倬 カ

 作家の赤川次郎さんは、2012年4月14日付けの『朝日新聞』の「声」欄に投稿している。
 「大阪の橋下徹市長は大阪府立和泉高校の管理職をなぜ処分しないのだろう?教師の口元チェックをしながら、姿勢正しく心をこめて「君が代」を歌えたはずがないのだから。それにしても生徒のためのものであるはずの卒業式で管理職が教師の口元を監視する。なんと醜悪な光景だろう!橋下氏は独裁も必要と言っているそうだが、なるほど「密告の奨励」は独裁政治につきものである…」と。
 私はこの主張に全面的に賛同する。
  和泉高校の隔週定時制(定時制家政科)は、私が新任教諭としてスタートした、そして17年間も過ごしたかけがえのない大切な学校である。隔週定時制は、当時九州、沖縄など西日本の中学を卒業して大阪の繊維関係企業に集団就職して働きながら学ぶ勤労学生のための学校であった。今は、隔週定時制は生徒がいなくなって廃止されて、全日制だけの学校になっているが、和泉高校そのものは私を優しく励ましてくれた学校、厳しく鍛えてくれた学校である。再任用を含めた41年間の教職生活を無事に終えることができた一番の基礎は、和泉高校隔週定時制時代の様々な経験である。
  和泉高校へのそのような「思い」をもつ私が、8月15日の「NHKかんさい特集・夏『君 が代条例の波紋』」を見て、どうしてもこのまま見過ごすことができなくなり以下のような主張を郵送しました。

  NHK大阪殿
                    大阪の明日の教育を切り開くために

 2012年8月15日(水)、「NHKかんさい特集・夏『君が代条例の波紋』」を見た。
  NHKは「口元チェック校長の言い訳報道に徹した」と私は思った。何故そうなったのだろうか? それは「君が代条例」の違憲性、教育の条理への背反性をまったく問題にしていないからであり、日本国憲法を中心に置いた考察をしていないからである。

  例えば、小渕内閣時での「国旗・国歌法」成立の際の審議の不十分さ、国民的論議の不足は報道しながら、当時「この法律は国旗、国歌についての単なる定義法である。したがっ て、日の丸・君が代の歴史についての学習や教育は大いにすすめるべきだと考える。しかし、日の丸・君が代を国民に押しつけることはしないし、押しつけることはなじまない」という政府答弁はいっさい報じていない。まして、2011年の「君が代条例」は、大阪府議 会においてほとんど審議もなく「大阪維新の会」が多数を頼んで強行したものであるにもかかわらず、この暴走については何も報じなかった。

 こうした報道姿勢のなかで「教育現場での異常」を異常と感じない鈍感さを露呈している。その端的な例が、和泉高校生が、学校から自衛隊の駐屯所(か?)を訪問し、自衛隊の隊員から直接授業を受けていることである(「國」という言葉について教えている)。何のコメントもなく、疑問点もなく映し出されていた。自衛隊行事に個人が個人として参加するのは自由である。しかし、非武装を謳う第9条を有する日本国憲法の観点から自衛隊員が学校から正式に参加した生徒に直接授業をすることについては、もっと慎重であるべきであろう。自衛隊員の生徒への直接の「教え」は長崎の被爆体験を聞くのとは次元が違う問題だと気づかない鈍感さに背筋が凍る思いをした。

 憲法で保障された内面の自由に抵触する可能性のある「君が代条例」を具体化するために府教委が発した職務命令を忠実に実行しようとすれば、そのチェックポイントは際限なく拡大するであろう。そして教師不信のこの口元チェックという暴走を一度実行した校長が、次はどうするのか悩んでいる姿を報道することに意味があるとは思われない。

 日本国憲法に考察の中心をおいて、「君が代条例」を批判的に報道する視点に立ちきることが、それのみが大阪の明日の教育を切り開く展望を与えてくれることになるのだ。
                                               2012年8月16日
                                           岸和田市:渡 辺

 

愛国心教育

熊井 三郎

 私は愛国心教育に大賛成である。強力に推し進めてもらいたいと思っている。子どもたちにではない。いい歳した経団連のおじさんたちにである。井上ひさしさんのいう闇の枢密顧問官たちにである。
 彼らはいずれも巨大企業の経営者である。一にも二にも自分たちの利益しか考えていない。自分たちの利益というのは経営する巨大企業の利益のことであり、つきつめれば自分たちの保身のことである。なぜ保身かと言えば、株主のために利益を出せればだせるほど自分は安泰であり、出せなければクビだと心得ているからである。それが国民を困らせようが、彼らが好んで口にする「国益」を害しようが、お抱えの政治家や官僚や学者・評論家・マスコミを使って実現してしまうのである。
 原発が悲惨を極めている最中でもあくまで推進を主張し、言うことを聞かなければ企業は海外に逃げて行くぞ、そうなれば産業は空洞化し経済は停滞し雇用は破壊されるぞと、政府と国民を嚇し上げている。まさにいい歳をしたこの連中にこそ愛国心教育がいると私が考える所以である。
  今日も今日とて、これ以上ドル安円高が進めば、つまり政府が手を打たなければ、企業は海外へ逃げると、経団連御用達の大新聞さんが嚇していらっしゃる。法人税を下げないと逃げる、規制を緩めないと逃げると、まあバージョン多彩で言いたい放題だ。 じゃあ聞くが、円安になれば逃げた企業は出戻ってこなければおかしいよな。そして円高になればまた逃げるんだよな。そんな愉快な企業があるのなら暗い世相に明るい話題だ、ぜひ紹介してほしい。
 そもそも経団連とは、危険な使用済み核燃料を出しつづけ、その処理法さえ確立していない原発―核分裂発電所を、世界有数の地震・津波国に建て続けさせ、自分たちの利益のためには日本の子どもたちを絶滅させてもいいと考えている恐るべき陰謀団体なのである。こうなってくるともはや愛国心教育では間に合わず、国民の厳しい糾弾しかないのかもしれない。

2012年2月7日掲載

転換から前進へ―現実が提起する問題

尾川 昌法

 2012年は、大きな歴史の転換点、という予感がある。1月の台湾総統選に始まって、ロシア大統領選、アメリカ大統領選、韓国大統領選、中国共産党大会、など主要な国と地域で政権交代をかけた選挙が予定され、ジャーナリズムは「スーパー・イヤー」と呼んで、その変動に注目している。北朝鮮に発足した後継政権の動向が加わるアジア情勢は、さらに激動することも予想される。
 日本では、昨年11月大阪府市のダブル首長選を仕掛けてもくろみを達した「維新の会」の政策が本格的に展開される。府市の職員、教員に服従を強制する権力支配体制を作り上げるばかりではなく、市民・公共団体の補助金カット、保育・幼稚園や市営地下鉄等の民営化を推進しようとしている。世界経済の危機的状況に揺れる日本独占資本に奉仕するための新自由主義的構造改革路線にほかならない。これが大阪の問題でなく全国に連動した「草の根の保守運動」であるのは、「維新の会」代表である新大阪市長の施政方針演説も明言したことである。そし てまた世界にエネルギー政策の転換を迫った3・11震災は収束のめども見えないままに1周年を迎える。
 歴史は常に大なり小なり転換しつつ前進するが、2012年は大きい転換期に入っているように思われる。この転換期の現実が私たちに提起している問題は何か。現実が提起している問題を確認し、それを民衆の視座から研究しなければならない、と私たちは歴史学の先輩たちから学び、引き継いでいる。今、その研究課題は何か。地方自治、あるいは地域民主主義が一つの重要課題ではないか。保守運動の攻撃の焦点が地方自治にあり、積み上げてきた成果を壊そうとしているからである。
 明治憲法に地方自治は全く規定されていない。地方制度は全て法律で決められていた。天皇制の中央集権体制の末端機構でしかなかったからである。現憲法がはじめて「地方自治」(第8章)を規定して60余年、私たちは民主主義とともに地方自治を学び、発展させてきたのであった。用語はともかく「地方自治」は、もちろん近現代の問題に制限される問題ではなく、古代から現代までの問題として広く考察されなければならないであろう。民主主義が古代に発生し近現代へ発展しつながっているのと同様である。
 もう 安心して楽しく暮らせる地域社会を住民自身で築いていく運動は、地方自治の認識とともに広がり全国的な運動に成長している。3・11震災の被災地域の直面している重要課題でもあるのはいうまでもない。地方自治あるいは地域民主主義を発展させる住民運動であり、人権尊重を基本理念とする憲法を擁護し、民主主義の進化・拡大・発展を求める運動である。この運動の視座から、地方自治の歴史的形態と展開について、これまで以上に意識的に考察しなければならない。これが現実が提起する問題である、と私は思う

2012年1月11日掲載

 2011年資料

嵐の前のエジプトの旅

林耕二

激変の2週間前に帰国する

 今年1月4日から11日の日程でエジプト(ルクソール)を訪れた。今回で5回目のエジプトの旅である。帰ってから2週間後の1月25日から反ムバラクのデモと集会がカイロを中心にはじまった。最初にフェイスブックを通じてデモの呼びかけを行った若者たち(当初は「4月6日運動」)の予想さえ超えて、よく乾燥した草原に火のついたように、たちまちエジプト北部の中心都市(カイロ、アレキサンドリア、スエズ)に反ムバラクの抗議行動の炎がひろがった。

「ムバラクはきらいだ」と言ったタクシ ー運転手

 エジプト社会のほんの表面にしか触れることのない旅人にさえ、今回の事態を多少予感させることはあった。昨年の1月カイロから600キロ南の古都ルクソール(古代はギリシャ語でテーベ、古代エジプト後でワセト)を訪ねた際、タクシーの運転手が唐突に外国人の私に言った。「ムバラクはきらいだ!」。はきすてるように小声で彼が言ったので驚いた。警察の検問所で警官に呼ばれて、車に帰って来た時だ。暗い表情で帰って来た。そのときはよくわからず、その話にはあまり深入りはしなかったがあとで述べるような事情があったと思われる。
 エジプトのひとり旅でよくタクシーを利用する。日本より非常に安いのだが乗車前に必ず料金を交渉した上で乗る。外人には法外な料金をふっかけてくることがあり、半分くらいに値切る交渉をする。それでも日本と較べると相当安い。ルクソール空港からホテルのある市中心部までは7Kmほだが、40エジプトポンド(現在のレートで560円ほど)で行った。あるオランダ人女性は同じ道を20ドル(1800円ほど)取られたと嘆いていた。

白昼堂々の警察官のワイロ請求

 エジプトの公共交通の料金はずいぶん安い。たとえばルクソールのナイル川の東岸(市の中心部で生活区域)と西岸(王家の谷など古代遺跡の宝庫で農作地域)をむすぶフェリーは片道1ポンド(14円)である。カイロの地下鉄は料金は均一で1ポンド。しかし、外国人とエジプト人に料金差が設けられている場所もある。カイロ博物館は外国人は50ポンドでおよそ700円(少し前まではレート換算で1000円くらい)ほどだが、エジプト人は3ポンドで50円弱である。ある旅行者が現地の人に聞いたところエジプト人は最低で月に400(約6000円)ポンドあ れば生活できるという。一日2ドルほどの生活費の人も多いと報道されていた。
 警察官のワイロ請求行為は白昼堂々と行われていた。今回も同じルクソールを訪れ、南に120キロほどの所にあるエドフのホルス神殿を見るためにタクシーを雇った。運転手はアリババ氏である。ターバンを巻いて、首から足元まで覆う古びたアラブの服装をしているので、日に焼けた目鼻立ちの大きい顔つきからしてもアラビアンナイトの世界に出てきて不思議ではない人物である。ナイル川に沿って一本道を恐ろしいスピードで走り続けるのだが、村や町、要所には必ず検問所がある。ナイルの中流域は現在もテロや誘拐などの危険があるということになっ ていて旅行者は少し前まで一人では自由に行動できず、コンボイ(集団を組んで行くツアー)の方式でしか行けなかった。昨年はこの地域でガイドと運転手の2名を雇い高い料金を払った。日本の代理店を仲介したのだが、むやみに単独行動しないように注意してくれた。「なんと言ってもエジプトは警察国家ですから気をつけてください」と。
 最近は緩和されているが、検問所は鉄の柵を交互に並べ2〜3mほどのやぐらがあり、その上の銃眼から機関銃が脅すようにのぞいている。アリババ氏はルクソールを出発する際に、通行手形のような書類をもらってきた。 これにはもちろん費用がかかる。ところが、検問所を通過するたびに、警察官がアリババ氏にあきらかなワイロを請求している。毎回5〜10エジプトポンド(100円前後)の少額であるが、目的地に着くまでに50ポンド(700円ほど)になった。契約料金は60ドルであるので、日本円で換算 すれば約5400円の10%以上になる。彼の手元にあった小額紙幣の束がたちまち底をつきアリババ氏は嘆く。「日本ではこんなことはあるのか?」と聞くので、「いや、こんなことをすれば日本では警官も逮捕される」と腕をくくられるジェスチャーも交えて言うと、彼は「ウーム!」とうめくようにため息をついた。
翌朝、今度は北に160Kmほどのオシリス神の信仰の中心地アビュドスのセテイ1世神殿に行くのに同じ値段で同じタクシーを契約していたが、朝待ち合わせ場所に行くと運賃の値上げを要求してきた。100ドルにしてくれという。前日のワイロにまいったアリババ氏がごねだしたのである。一歩も退かずに、これは契約だから値上げはできない、とつっぱったら、とうとうアリババ氏は運転手を降りて別の運転手に交代した。昨年の運転手が「ムバラクは嫌い」と言った状況と同じだということを思い出した。そのときも検問所で止められて、彼だけしばらくどこかへ連れて行かれて帰ってきたときは情けない顔をしていた。昨年同じようなことがあったのだと思われる。今年はさらに堂々と警官のワイロ要求が外国人の目の前でも行われていたのである。 
 こんなこともあった。カイロ博物館で休息のために座ったベンチの横に警官がいて、水をやろう、と言う。警官なので好意と素直に受け取ってペットボトルを持ったとたん、手を差し出して金を請求された。あわてて返したが、びっくりした。天下のカイロ博物館で警官が水の押し売りをしていた。おそらくトップの腐敗が末端の警察官に、金額や事の大小はあれ蔓延しきっていたのである。他の発展途上国でも多かれ少なかれ公務員のけちなワイロ請求はあるように思えるが、エジプトの警察官ほど堂々としたワイロ請求や上記のとんでもない行為は少ないように思えた。タクシー運転手も、この警察官の理不尽な態度の後ろにムバラクの存在を見ていたから「ムバラクはきらいだ」と言ったのであると思う。

イスラムの精神をもふみにじる警官の態度

 イスラム教徒に課される義務である五行の中に「喜捨(ザカート)」がある。これは裕福な者が行う慈善的な行為であるが、ザカートのもとの意味は「清浄」「純粋」などで、それが「慈善」「救貧税」「喜捨」などと訳されている。イスラム教が本来持つ相互扶助の精神が具体化されたものである。政府の税金や個人の任意の寄付でもなく、各人の財産を通じて信仰心を表明することだという。ザカートには割合が定められていて、金銀や現金、商品などの収入であれば、その25%が喜捨にあてられるという(平田伊都子「イスラム入門」)。これらは裕福な者が貧しい者を対象に行う行為であるが、これのねじれたかたちが「バクシーシ」である。エジプトを旅していると、タクシー料金 でも、レストランの食事代でも請求だけ払ったあとに、さらに「バクシーシ」と言って手を出されることがよくある。我々の理解する言葉ではチップである。料金をふっかけたうえにニヤニヤ笑って「バクシーシ」と言われると、我々にはまったく納得がいかないことである。「バクシーシ」は「ザカート」のねじれたかたちのもので、貧しい者が裕福な者によく言えば「チップ」、悪く言えば「せびる」行為である。ただし、適当な額で習慣通り払えば、相手のサービスなどが特段によくなる社会の潤滑油である。かげんを見て利用せざるをえない。警察官の白昼堂々のワイロの請求は、このような「バクシーシ」的な習慣が土壌にあるのかな?とも思えるが、これが権力をたてにして弱い者にたかり、イスラムの精神もふみにじり、いじめるような行為になっているのでエジプト庶民はみな怒るのだ。  

運転手は「新しい大統領がほしい」と言った

 「ムバラクは嫌いだ」の運転手のつぶやきはエジプト中に無数に広がっていたのだ。今年別の運転手に「ムバラクはどう思う?」とためしに聞いてみた。彼は即座に、「長すぎる!」「新しい(大統領が)ほしい!」と力強く答えた。自由が抑圧されている状態は観光客からはなかなかわからないが、ナイル川で乗ったファルーカというナイル独自の帆舟に掲げている小さな旗に、ゲバラの顔と「FREEDOM(自由)」の文字が描かれていた。舟のキャプテンのアフメド氏は、「自分はヌビア人(エジプトの最南端、アスワン付近に住む人々で古代エジプト時代に征服された。北のエジプト人より皮膚が黒く、貧困層である)だが」といい、「他のエジプト人からは嫌われているので私に会ったと言うことはホテルでは言わないでくれ」と語った。またコプト教会(エジプトの独自のキリスト教で古代エジプト人の伝統を継いでいると言われる、同教徒には上流層が多く人口の10%ほど)に対するイスラム教徒によると思われる大きな襲撃事件は昨年と今年もあった。エジプト社会も民族、宗教が異なり対立や皆それぞれの要求がある。ただ最近の教会爆破事件は、アフメド氏も「あれは外国人がやった。(エジプトでは)イスラム教もキリスト教も友人同士だ」と言った。
 タクシーでナイル川沿いに走る道路に、ムバラクの巨大な看板があちこちに立てられていた。自分がつくった道路だと誇るように、黒いサングラスをかけて立つ映画の看板のような姿は、どう見ても大統領より国民ににらみをきかし、たかっているギャングの親分としか見えなかった。そのムバラクは2月11日ついに辞任に追い込まれ、反ムバラク運動の中心場所であったカイロのタハリール広場を埋め尽くしていた民衆もそれぞれの職場や 家庭にもどった。リビアとは違って国民に銃口を向けなかった軍が暫定的に統治を行い、憲法改定国民投票(19日)、人民議会選挙(6月)新大統領選挙(7月半ば)など民政移管の日程が組まれている。独裁の30年間に耐えたエジプト国民の怒りと冷静な抗議行動に支えられた変革の力は、あともどりはさせないだろう。先日カイロでよく泊まるペンションのオーナーのエザット氏にメールで問い合わせると、「エジプトはもう大丈夫です。何もあぶなくないですよ。もちろんさくら(宿の名前)はやっています。ぜひ遊びに来て下さい。お待ちしています。」と返事が返ってきた(2月14日)。  (さくらは、あのタハリール広場まで歩いて10分ほどのところの建物にある。一泊1000円ほどでオーナーは日本語を喋るので便利。)

3月10日掲載 本文には写真がありますが省略しました

戦争と戦った三重の人々

−遠くでかすかに鐘が鳴る−

酒井一

夏の暑さの中でひとしきり思い浮かぶ俳句がある。
 八月や六日九日十五日
 1945年の日本の姿。忘れっぽい日本人の心にいくども蘇ってくる作者不明の俳句である。
 戦争は突然やってくるのではない。必ず予兆があり、それを見すごしたあとに惨憺たる事態がやってくる。終戦の日、あえて敗戦とはいわない。戦争の本質は勝敗をこえて存在するからであるが、大人たちのその後にみせた反省のない変身ぶりに、少年たちの心は傷ついた。その上、政府・国家は必ず崩壊するという歴史の教訓を学んだ。長じて、嵐の中で狂奔せず、時代の流れを見つめて、ときに烈しく戦争と戦い、ときに静かに人間としての生き方を求めた人たちのことを知ると、勇気づけられた。三重県にはこのような働きを残した人たちが少なからずいる。暗夜の光芒というべき存在で、嬉しいかぎりである。  治安維持法によって逮捕された民衆の中の学者河上肇は、1935年「除夜の歌」と題して、サブタイトルに記した詩を書いた。あすを信じるものの密かな確信である。
 少し古い記事だが、2003年12月31日付の朝日新聞天声人語は、この年に生誕百年を迎えた人たちの名を列挙した。小津安二郎・小林多喜二・林芙美子・草野心平・小野十三郎・棟方志功・知里幸恵(アイヌの神話集をまとめた)・山之口漠(沖縄出身の詩人)などである。これに私は「吉田肉腫」を発見してガン研究を飛躍的に発見させた吉田富三、新聞のアンケートで戦争犯罪人はだれかと尋ねられて、自分の名前だけを書いた英文学者中野好夫を加えたい。こう並べてみると一つの生年をスタートにしてそれぞれの生き方が浮かび上がってくる。
 小津安二郎は、現在の東京都江東区の生まれだが、9歳の時父の郷里である松坂へ転居し、県立宇治山田中学校に学んだ。当時すでに映画に熱中し、進学に成功せず、一年間松阪市飯高町の宮前尋常小学校の代用教員を務めたこともある。「地面ぎりぎりから撮影する低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィクスショット」に特徴があるといわれる。戦後ホームドラマの型を完成させた映画監督である。小津の名画に登場する原節子を思い出すが、戦前に限っていえば、1927年から松竹蒲田撮影所などで制作した映画は39点。親しかった吉田喜重監督の話では、小津は軍服が町にあふれていた時代にも、画面に一人の軍人も登場させていないという。かれの作品にやさしい伊勢の風土を感じるのは、私だけだろうか。
 老いて今聴けば不戦の歌ならん「スーダラ節」に口笛で和す 岡山市 佐藤茂広 
  2007年4月30日の朝日歌壇入選の短歌、選者は佐佐木幸綱。この人も鈴鹿市石薬師にルーツをもつ信綱の孫。この年3月27日に植木等が他界した。
 等の父は、植木徹之助、浄土真宗の僧籍に入って徹誠(てつじょう)と称した。つねづね「人間はみな平等」「戦争は集団的な殺人」と語っていた。日中戦争が始まった翌年(1938年)、小学校6年生になってまもない頃、先生に引率されて伊勢神宮へ参拝した時、号外!号外!と言う声と鈴の音が聞こえ、ばら撒かれた号外を児童たちが争って拾った。なんとそこに検挙された父の写真が載っていた。ションボリしてる等(この名には平等の思想がこめられている)に、担任の先生が「植木君のお父さんはけっして悪いことをしたんじゃない。立派なことをしたんだよ。ただ進みすぎていたんだ。今のご時勢に合わないだけなんだよ」と声をかけ、励ましたという(『80年代の日本国憲法ー私はこう考える』所収、植木等「父に学ぶ」岩波ブックレットNo.16、1983年)。徹誠の名は、三重県の三大民衆運動のひとつ「朝熊闘争」で伝わっている。いまは伊勢市に入っている度会郡四郷村朝熊区の山林解放を求めて差別撤廃に献身した。ユニークで権力を恐れない豪放な人生を送った。治安維持法によって何度も投獄された。等がこのビラに驚いた時は、四郷小学校に通っていた。彼を励ました引率者の先生の名を確かめたい思いに駆られる。随分勇気のいる行動だが、子どもを庇い、時代を見つめる澄んだ瞳が浮かんでくる。『夢を食い続けた男ーおやじ徹誠一代記』という植木等の本(朝日文庫、1987年)に、小学校の恩師上林貞治と朝熊の道端で話をしている写真がある。この先生だろうか。  等の妹婿で朝熊入会問題を調査した川村喜二郎氏によると、地区でデイミトロフの名を語るのに驚いたという。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の幹部で、ブルガリアの武装蜂起で死刑の宣告を受けて逃亡、1933年ヒトラーらファシストの謀略によってドイツ国会議事堂放火事件の首謀者とされた人物である。法廷で闘って無罪を勝ち取り釈放された。反ファシズム統一戦線論を唱え、第2次世界大戦後にブルガリア人民共和国首相に就任した。つねに民衆にわかりやすく簡明に具体的に呼びかけることを説き、劇的な生涯を送った。その名が朝熊の運動で語られていたのである。川村氏の推定では、コミンテルンの情報が密かに海員組合の手で伝えられたのではという。その通りであろう。戦争がグローバルに展開しはじめたとき、反対運動も国際的なものだった。
 朝熊の三宝寺に住んだ頃は、獄中の父に代わって檀家廻りをし、宇治山田署に父の差入れに行ったりして、いじめに会ったが、父と三重県下に広がっていた社会運動から学んだ教訓は大きいものがあった。兄の徹も型破りの青年だったが、1942年に岐阜県各務原の第67連隊に入り、翌年1月ニューギニア近くの海上で戦死、21歳。人権・反戦に生きた父の子でもこう追い込まれる。徹誠は、「わかっちゃいるけど、やめられない!」のスーダラ節に親鸞の教えがあると等に語って元気づけたが、77年弾圧時の苦しみをうわ言で語ったりして82歳で死亡した。「ハナ肇とクレージーキャッツ」の一員として爆発的人気を博し、60年代からの高度経済成長のもとで「無責任」時代をつかんだ明るさに満ちた魅力の背景に、この父の生き方が光っている。
 1937年1月21日、立憲政友会の代議士浜田国松は、第七十議会で、官僚を中心に組織された広田弘毅内閣に対して劇的な論陣を張った。前年に2・26事件が起き、軍部大臣現役制が復活、軍部の力が強化されてきた。振り返るとこの演説のあと半年を経ずして蘆溝橋事件が起こり、日中戦争が始まる。まさに戦火が臨界点に達しようとする重大な時である。  当時の宇治山田市出身の弁護士、三重師範学校を卒業し、一旦小学校教員を務めたあと、東京法学院(現・中央大学)に学んだ。いくつかの政党歴を経て、衆議院議員当選12回、この演説のすぐ前まで衆議院議長を務めた政界の大物、自由主義・反ファッショの担い手であった。
 「軍人は政治に関わってはならないはずである。」と述べて、政党政治を終わらせた5・15事件以後の情勢をふまえて行った演説に、寺内寿一陸軍大臣が反発、軍を侮辱した部分があるとした。やりとりの挙げ句、浜田は陸軍大臣が国家の公職者なら、私も陛下の下の公職者であり、「殊に九千万人の国民を背後にして居る公職者である」と反論し、侮辱に当たるようなことがあれば「割腹して君に謝する、なかったら君、割腹せよ」と結んだ。世に「腹切り問答」と呼ばれるものである。当時70歳、議員歴30年の重みを持つ発言である。その内容は、同年1月30日に早速『議政壇上に叫ぶ』(森田書房)として出版された。9カ所に及ぶ伏せ字があるが、迅速な対応に驚く。「広田内閣に告ぐ」「軍部万能を排す」「台頭する軍部の政治推進力」「軍民一致か、国民一致か」「寺内陸相に問ふ」など13項目にわたる鋭い舌鋒の演説である。
 寺内は1933年6月、大阪に置かれていた第4師団長時代有名なゴーストップ事件を経験していた。天神橋筋六丁目交差点で赤信号を無視して横断した一等兵を、交通巡査が制止したために起こったもので、「兵士は警官の命令に従わない」といったことから喧嘩になり、果ては陸軍省と内務省の対立にまで広がった。この事件は軍部が国民生活の上に立ち始めたことを象徴する出来事だった。
 腹切り問答の結果、軍部と政党の対立が深刻となり、閣内不一致で広田内閣は総辞職。この議会のあとすぐ、浜田は斎藤隆夫(立憲民政党)と加藤堪十(日本労働組合全国評議会、のち日本無産党)とともに『議会主義か、ファッショか』(第百書房、1937年)を発行した。三重県には浜田と同一選挙区から出た「憲政の神様」尾崎行雄(萼堂)がいるが、この時期、尾崎・斎藤・浜田の三人は輝ける反ファッショ先鋒の国会議員だった。斎藤は36年5月7日第六十九議会でこれまた歴史に残る「粛軍演説」を行っていた。伊勢市岡本町の私邸跡に浜田の顕彰碑が建てられている。

 竹内浩三「骨のうたう」  

  骨のうたう
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や 

 旧宇治山田市吹上町で1921年に生まれた竹内浩三の詩である。宇治山田中学校を経て日本大学専門部映画科へ。1942年久居の中部第38部隊に入り、45年4月フィリピン・ルソン島のバギオ北方1052高地にて戦死、23歳。
 『三重大学五十年史』通史編は、日本国憲法と教育基本法の理念に基づいて新制三重大学が設置される記述の冒頭に、この詩を掲げた。戦争を疑い戦争で死んだ、この伊勢人らしいやさしい気持ちを、新制日本の三重県における教育のスタートに位置づけたのである。
 「ぼくもいくさに征くのだけれど」と題した詩にはこう歌う。「街はいくさがたりであふれ/どこへいっても征くはなし 勝ったはなし/三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど/だけど こうしてぼんやりしている」「だれもかれもおとこならみんな征く/ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど」。詩「帰還」には「あなたは/かえってきた/あなたは/白くしずかな箱にいる/白くしずかな きよらかな/ひたぶる/ひたぶる/ちみどろの/ひたぶる/あなたは/たたかった だ/目は黒ずみ  くずれた/みな きけ/みな みよ/このとき/あなたは」(/は改行をしめす)。白木の箱に納められた戦死者の遺骨に自分を重ね、事実その通りになった。
 「鈍走記」と題する草稿には、「戦争は悪の豪華版である」「戦争しなくとも、建設はできる」「子供は、注釈なしで、にくいものをにくみ、したいことをする。だから、すきだ」と書いている。  
 浩三の小さな手帳に書かれた「筑波日記」は、宮沢賢治の本をくり抜いてその中に収められ、4歳年上の姉、松島こうの許に届けられた。宇治山田は空襲に遭ったが、浩三の記録は姉の嫁ぎ先である松阪市日野町の八雲神社で守り抜かれ、日の目を見た。ある本には「たまたま姉が松阪に引っ越していたため」とあるが、この神社の宮司で本草学研究でも知られた三重大学松島博教授の妻だった。
 二人姉弟を生んだ母は、小学校教諭を務め短歌を佐佐木信綱に学んだ。門人の死を悼んで信綱は弔歌を贈っている。浩三の姉は、弟の遺骨と称するものが届けられた時、「一片のみ骨さえなければおくつきに手ずれし学帽ふかくうずめぬ」と詠んだ。浩三は予想したように白木の箱に入って戻ってきたが、骨はなかった。姉の嘆きが聞こえてくるようだ。浩三関係の記録は、松阪の本居宣長記念館に寄贈されている。
 浩三の「戦死ヤアハレ」の詩が、1980年に朝熊山上金剛證寺の墓地に建てられた。その後5年ほどしてこの碑を見た時の感動は忘れられない。宇治山田出身の伝説の名投手沢村栄治は、1944年12月東シナ海で戦死したが、浩三と同じ墓地でほんの数歩のところに葬られている。ここからは富士山が見える。


−岩間光男−

 

今まで述べてきた小津・植木・浜田・竹内はよく知られ、一般の刊行物によって足跡を追うことができる。つぎに取り上げる2人、岩間光男と永田和夫はほとんど知られていないが、これらの人たちと同じ思いに立って平和に生きることを願い、戦争の根源に向かって戦争と戦った人物である。しかもともに心ならずも「国賊」「非国民」の名を背負って従軍し、1944年3月から始まった悪名高いインドのインパール作戦で命を絶った三重県人である。
 まず、岩間光男のこと。大阪の難波新地(南地)九郎右衛門町で、1910年8月に芸妓・四木部春栄の婚外子として生まれた。父は三重県出身のブルジョアとも元外交官ともいわれる。母も三重県出身で心が通ったのであろう。光男の出生届では1913年8月で3年遅れになっている。2歳のとき大阪市電気局勤めの岩間倉太郎の養子になり、実親の縁か少年期を津市で過ごしている。修成尋常高等小学校時代の写真が残っている。23年に養父母の元へ引き取られ、大阪府西成郡鷺洲第三尋常高等小学校などを経て、大阪市立都島工業学校電気科に進学したが、学費が続かず退学した。
 大正・昭和前期に大阪市周辺は紡績についで機械金属などの工業化が進展し、労働者が多く社会運動の拠点になっていた。岩間もその流れの中で大阪金属労働者組合に関係し、港区市岡に移り住み、勤めのかたわら「無産者新聞」の仕事に関係した。世に言う28年3・15事件の頃である。
 29年3月3日岩間は天王寺公会堂で開かれた第2回全国農民組合全国大会に参加、治安維持法改悪に断固反対していた労農党代議士山本宣治の「山宣ひとり孤塁を守る」云々の名演説を聞いた。この演説については壇上で書記をしていたNは、生前山宣はこんなセンチメンタルな表現をしなかったとしばしば私に語っていた。それはともかくその2日あと山宣は東京で暗殺される。そして4・16事件が起こり、岩間も最年少で逮捕された。  その後刑期を終えた34年2月から、かれの姿が大阪港に近い市岡に現れる。ここに一岡ビルがあり、その一角で「労働雑誌」関西支局の活動をはじめた。反ファシズム統一戦線の取り組みである。
 岩間の生涯は、松浦由美子さんの『闇のなかの光たち インパール作戦と「労働雑誌」記者岩間光男』(自家版、2002年)に実に見事に尋問調書、聞き取り、現地調査などによって浮き彫りにされている。忘れられた反戦の人への温かいレクイエムである。
 松浦さんは大阪の教職員組合の事務局に勤めるかたわら、社会派シャンソン歌手として令名高く、大阪民衆史研究会の中心メンバーでもある。「労働雑誌」を発刊していた一岡ビルの警察作成の入居者名簿をすら入手。岩間の本籍地が三重県鈴鹿郡昼生村三寺であることを確認すると、亀山に出かけて電話帳から岩間姓を追う仕事を進めた。
 1942年11月岩間は本籍地の関係で久居の歩兵第151連隊に入営、43年3月中国大陸に駐屯していた際第15師団歩兵第51連隊に転属、9月に同連隊第2大隊第6中隊の一人として南方に転進、船でサイゴンに向かう。ここからあのインパール作戦に参加、44年5月11日戦死。
 松浦さんは、岩間の分隊長だった度会郡南伊勢町神前浦出身の浜地利男を捜し出し、津の三重県護国神社で催されていた祭・歩兵第51連隊戦友による慰霊祭に参加、浜地の優れた手記を本に収めて、反戦運動家岩間の人柄と戦死の様子を伝えている。浜地はこれより早く70年に『歩兵第51連隊史(中支よりインパール)』にいくつかの文章を寄せていたが、松浦さんの本には岩間に光をあてて得がたい戦争の実態を描き出している。中隊長から秘密の話として岩間が「思想的な注意人物となっている」と伝えられた。隊の編成表には岩間のような補充兵について個人の経歴、家族の貧富の程度、入隊前の本人の考課表など詳細な「兵籍書類」が用意されていた。しかし久居以来の軍隊生活の中で浜地と岩間は上官部下の関係を超えて信頼関係が生まれていた。
 インパールの激戦と惨状はここではとくに触れないが、よりにもよってこの連隊に編成された三重県の兵士は不運だった。松浦さんの調査は、浜地ら生き残った旧兵士たちとともに、現地に追悼の旅をしている。研究はこうでなくてはならない。インパールでの苦闘を「靖国街道」として軍医の目で記録した京都の中野信夫は、社会人類学者の中根千枝氏が学術調査のかたわら、インパールのコヒマで現地人が葬ってくれた数百の「土まんじゅう」に合掌する姿に感涙を流している。このような思いでここを訪れた女性は数少ないのではないか。
 43年6月インパール作戦の参加以前、中支西湖箕橋で歩兵第51連隊第6中隊全員を撮った写真が浜地の手元にある。後日の書き込みによると、総員176名、インパールのあと戦死115名、病死36名、生存(負傷者を)20名、不明5名。死亡率は不明者を含めて156名、88.6%、生き残った者は文字どおり九死に一生を得たことになる。


―永田 和生―


 『新版きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(岩波文庫、1995年)に永田和生の手記が載せられている。1916年5月伊勢市古市町に古くからの酒屋の三男として生まれ、宇治山田中学校、第八高等学校を経て京都帝国大学農学部農業経済学科に入学した。京大の共産主義学生グループを指揮して、40年検挙、懲役3年、執行猶予3年で出所し、42年9月卒業。10月1日から直ちに久居の中部38部隊に入営、竹内浩三と同年の同部隊とみられる。44年7月インパール道標38マイルの地点でマラリアとアミーバ赤痢により戦病死した。28歳。かれの歩みに、多気郡多気町相可の酒造家に生まれて社会運動に献身した河合秀夫の影響を考えてみたくなる。
 永田の生涯を追った『聞こえますか命の叫び』(かもがわブックレット、2006年)が、当時国会議員だった児玉健次氏によってまとめられた。表題は永田の言葉からの引用である。
 在隊手帳などを見ると、「人はもっともっとたのしく働き、暮らすべきものを」といい、軍隊内に不平不満が充満していると指摘している。出陣前に帰郷し、同じ京大学生関係の治安維持法違反に問われた友人竹田恒男あてに、「老いた母は僕に涙をみせまいと婦人会の集まりに出ていった。そのうしろ姿を心の中に拝みつつ、僕は涙を流した」と書き送っている。軍隊では高学歴ながら思想犯のため幹部候補生になることなく一兵卒だった。しかしその目は時代を見つめ、出陣に当たって「船は南に行く、アメリカの生産力と日本のそれと・・・」と記している。世界情勢も的確に見抜いている。
   この時点で所属部隊は、歩兵第151連隊第6中隊。広島宇品港からビルマへ向かい、インド東北部に投じられた。
 母せいは、ビルマ戦線歩兵第151連隊第6中隊戦没者合同17回忌慰霊祭が三重県護国神社で催された時参列し、インパールの生存者から報告を受けた。1961年4月の第三回合同慰霊祭のことであろう。この席では軍医だった紀平正生(産婦人科病院長)や子息を喪った浜地文平(度会郡南伊勢町神前浦出身、三重県師範学校卒業、衆議院議員当選8回)らが挨拶している。せいは、子の苦しみを思えば「耐えがたき親ごころでございます。いつの日にか忘れられましょうぞ。『わだつみ』の『不戦のちかい』こそ実に望ましく、おねがいするものであります」(「わだつみのこえ」12号、1962年6月)と記している。
 岩間(前号参照)と永田、所属連隊は違うがともに久居からインパールへ。自ら反対した侵略戦争の犠牲になった二人に、松浦さんの言葉を借りれば、社会運動(光)と戦争(闇)という相反する二つの問題があり、進歩と逆流の中に歴史を統一的に理解して分析することが問われている。そして歴史の向う岸に、戦争への異議を唱え、戦前「遠くでかすかに鐘が鳴る」ことを祈った時代から、今こそ「より近くに」平和の鐘と戦争からの解放を期待することを実現しなければならないだろう。それが21世紀の人類の課題であり、底流として、無告の兵士に代って戦争と戦った人たちの足跡を想起することがもつ意味であろう。(敬称は現存者にのみつけた)   完


 (三重大学退職教員の会「春秋会」機関誌「春秋」第33号2010・11より転載)

2011年1月28日掲載 2月12日続き掲載 3月10日続き掲載 4月16日続き掲載 5月8日掲載完了

 2010年資料

大阪民衆史研究会設立20周年をむかえて

尾川昌法

 大阪民衆史研究会は設立20周年を迎えました。1990年6月17日、奈良の久保在久氏自宅で、大阪の民衆史編纂を目標に「大阪民衆史研究会」を設立、3名の代表委員と事務局担当者、運営方法などを決定しました。大阪の民衆史を編纂するという具体的な目標を持って出発したので、会報は「編纂ニュース」として翌月の7月10日に創刊されました。この時の会員は「執筆者」として13人が参加していました。それから20年後の現在、「編纂ニュース」は「大阪民衆史研究会報」となって193号(「編纂ニュース」31号と合算して224号)、研究誌『大阪民衆史研究』は64号を発行し、会員は130人に発展しています。
 この創刊号に代表委員の一人であった向江強氏(現在会長)は、「大阪の民衆史を叙述するという目標で一致はしたものの、何をどのような視点でどう描き出すのか、さらにいえば、民衆史とはいったい何か、という根本的な問題で必ずしも一致しているのではない」、と問題を提起した論考をのせています。そして向江氏は、特に民衆生活の日常性と非日常性という問題を取り上げ、「非日常的な事件は、それ自体として突如として発生することはありえない。日常性の中にこそその根拠が存在するのであって、存在の矛盾は潜在的に進行し発展し顕在化する」ことを強調しています。例えば、百姓一揆のような非日常的事件であっても、その根拠は日常生活の矛盾の中に潜在している。それが重要である、と強調しています。  
 私がこの論考を取り上げるのは、大阪民衆史研究会の初心がここに読み取れると思うからです。二点を指摘できると思います。第一は、原則的に考える歴史認識の方法です。歴史発展の本質を追究しようという姿勢である、といってもよいと思います。初期の「編纂ニュース」には、「民衆」や「民衆史」の概念を巡って真剣な議論がかわされ、きわめて原則的に考えていたことが記録されています。第二は、民衆生活の日常性を重視するという民衆的視点です。特別の大事件だけではなく、日常生活を深く探究することで歴史の発展を読み解こうとする姿勢です。歴史の全体的把握を目指している、といってもよいと思います。民衆の視点から原則的に歴史を認識しようとすること、これが大阪民衆史研究会の初心といえるのではないかと私は思います。この初心は、現在の「会報」や研究誌に引き継がれ流れているものですが、20周年の今、改めて振り返り、さらに深化、発展させなければならない、と思います。
 今年はまた、韓国併合100周年、現行の日米安保条約調印と未曾有の国民的運動となったその反対運動から50周年に当たります。100年、50年という節目は遠い昔を懐かしむためではなく、私たちの歴史認識を問い直す機会であることに意義があると思います。歴史認識を問うということは、私たちはどこまで来たか、どこへ向かって進むのか、当面する歴史的課題は何か、を確認することでもあると思います。
 この5月10日、韓国併合100年にあたり日韓知識人共同声明が発表されました。それぞれ100人余の知識人が署名した声明です。韓国では重要な新聞社の主筆、社長や学者研究者を含み、日本では歴史研究者のほか「9条の会」の呼びかけ人となっている作家たちを含んでいます。声明は、「韓国併合の過程は不義不当であり、併合条約も不義不当である」ことを明らかにし、「われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだろう」、と述べ、併合条約を未だに「有効」とする日本政府の公式見解の修正、歴史関係資料の収集と公開を要求しています。声明はまた、「罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられなければならない。苦痛は癒され、損害は償わなければならない」、と関東大震災における朝鮮人の大量殺害や日本軍「慰安婦」問題などの解決にも言及しています。「共通の歴史認識」に立って、100年後の現在の解決すべき課題を指摘したものです。
 日米安保条約も甚大な被害を日本社会にあたえ続けています。この条約から発生した米軍事基地は、人々の平和的生存権を侵害しています。沖縄県普天間基地の「移転」問題が当面の重大な政治問題になっていますが、この条約を廃棄することこそが、今こそ必要であり、根本的解決につながることが、誰の目にも明らかになっています。
 来年は、アジア太平洋戦争開戦から70年となります。この侵略戦争が生み出した人権侵害の諸問題は、未解決のままに残されています。たとえば、原爆被災者、空襲被災者、シベリア・中国の抑留者、従軍慰安婦(軍隊の性奴隷)、治安維持法犠牲者などに対する謝罪、補償問題があります。今も私達は各地で、謝罪と補償を要求して運動を進めています。「苦痛は癒され、損害は償われなければならない」、と日韓知識人共同声明は言っています。平和的に生存する人間の権利は現実のものとして保障されなければなりません。
 大阪民衆史研究会は20周年の記念総会を、韓国併合100年、現行日米安保条約50年の年に、来年にはアジア太平洋戦争開戦70年を迎えるという節目の年に開催しています。この機会に、歴史をふりかえることで様々な未解決の問題や私たちが当面している歴史的課題を見いだすことができますが、同時に、歴史教育と歴史研究の意義、役割の大きさを改めて私たちに教えています。その歴史教育、歴史研究にかかわる研究会として、私たちは誇りとともに責任の重さもまた痛感しています。民衆の視点から原則的に歴史認識を追求する、という研究会の初心を思い起こし、それをさらに鍛え発展させなければならない、と考えます。研究会の運営基盤を安定させるために、会員拡大も重要な課題です。そのためにも、若手研究者にとって魅力ある研究会でなければなりません。研究会設立20周年を越えて、私たちは、さらに前に進まなければなりません。

   2010年7月31日
   大阪民衆史研究会定期総会

喧騒の国 戦禍を引きずる国 ベトナム

開沼淳一

喧騒の国ベトナム

 ハノイ市であれホーチミン市であれ、ベトナムに来て誰もがビックリすることはバイクが道路いっぱいに溢れ、途切れることがないことだ。バスの窓を通して道路脇で警察官と何人かが話しているところをよく見かけたが、交通事故は珍しくないようだ。何列も隙間無く並んで/でイクが走っており、接触事故は少なくないのだろう。ベトナムの車両は右側通行で、対向する車線の大量のバイクが左折して来るときは、一斉にこちら側に押し寄せてくる感じで、ぶつからないか冷や冷やものだ。100〜150CC程度の排気量の小さなバイクだが、二人乗りはおろか子ども二人も乗せた4人乗りも見かける。10分も歩くと頭がクラタラするような排気ガスによる大気汚染の中、マスクを付けて運転する姿が多く見られる。バイクは大通りだけを走っているわけではない。ハノイ旧市街で経験したことだが、大人二人が並んで歩くのがやっとという幅の通路に沿って露店が所狭しと並んでいたが、その通路にバイクが割り込んで人ってくる。店のお客さんなのか、単なる通行人なのかわからぬが、バイクの通行規制はないのか、と思う。   バイクの大群が走る大通りを横断するのは勇気がいる。私たちは10数人のツアー客がまとまって横断したが、一人で横断する気にはなれない。ところが現地の人は慣れたものである。荷物を天秤棒に担いだ年輩の婦人がバイクの大群の中を横断していた。バイクの大群は暴走族の大群ではないということだ。ともかく、皆が若い。発展途上の国のエネルギーを感じる。
 大通りの雰囲気が一昨年行ったキューバとはまるで違う。バス停に人が溢れ、 通りのあちこちでヒッチハイクの人が手を振っていた光景を思い出した。同じ社会主義国だが、こうもまちの様子が違うのかと思う。

今も引きずるべトナム戦争の戦禍

 ツーズー病院の子どもたちに大きなショツクを受けた。枯葉剤によって奇形で生まれた子が入院している病院の一画に案内してもらった。ふくらはぎから下が欠損している予が私たち一行を迎えて廊下を歩き回っていた。通された部屋のべッドの中で寝転がっている子どもたちがいた。頭が異常に大きくいびつな形の水頭症の子、短い腕の先に指が2本ついている子、足が曲がっていて異常に細い子、全身が焼かれたような皮膚の色をしている子、顔の前面が異様に前に突き出た子。カメラを向けることができなかった。訪問した私たちのメンバーの指をシッカリ握って離そうとしない子どももいた。ベッドの外に出たいという思いとそれがかなわない悔しさを体で表していたのかもしれない。どの子も小学校に人るかどうかの年格好の子どもたちに見えた。戦争が終わって既に35年経過している。しかし、ベトナム戦争の戦禍は今も続いている。
  私たちがホーチミン市のツ一ズー病院を訪れたのは枯葉剤被害者の支援活動をしているドクさんに会うこととドクさんの主治医で枯葉剤の子どもたちの面倒を見ている平和村の村長でもある女医のタン先生の話を聞くことであった。タン先生の話では病院の中に平和村があり、60人の子どもが入院しており、その内30人は病院から学校に通い、残りの30人は病院生活を送っていること、全国で枯葉剤を浴びた者が450万人いること、しかし、実態は十分掴めていない。奇形の子どもを生んだことを世間に知られたくないと、隠そうとするから、とのことであった。この病院に入っている子どもたちはほんの一部で、家族の中で複数の子どもたちに障害があり、貧しくて子どもたちの面倒が見ることができないなど、厳しい家庭条件の子どもたちだけで、同じような境遇の子どもたちは他にいっぱいいること、などが話された。人が生きていくためには医療、教育、生活・生計、社会参加の4つが必要だがこれらの子どもたちの将来をどのように支えるのか、大きな問題があると語られた。
 アメリカの責任を問う裁判を行っていたが、負けてしまった。しかし、たたかいを続けるとも言っておられた。アメリカ国内ではべトナム帰還兵に対するアメリカ政府の枯葉剤に対する補償がされているのにべトナムの人に対しては何もしていないということであった。
 センターツーリストの松本社長とドクさんが10年来の付き合いということもあり、そのよしみで昨年10月に生まれた双子の赤ちゃんを家まで見せてもらいにいった。ドクさんはバイクを改造して3輪 にしたのを運転して案内してくれた。名前はフーシー(富士)ちゃん、ホアン(桜)ちゃんである。ドクさんと日本の結びつきを感じさせる名前である。二人の子どもは障害もなく健康に育っているということだった。ドクさんは年齢29歳で、もう立派なお父さんである。しかし、枯葉剤の被害者でドクさんのように家庭を持てたというのは例外的な事である。
  枯葉剤が何をもたらすのか。何故その被害を止めることができなかったのか。カメラマンの中村梧郎氏が「母は枯葉剤を浴びた」(1983年新潮文庫)で数多くの写真とべトナ各地だけでなくアメリカでの取材記事で告発している。27年前発行の著書で、生まれて11ケ月になるべトちゃんとドクちゃんの様子も書かれている。枯葉剤はi961年から1971年まで10年にわたって低空を飛ぶ飛行機からまき続けられた。解放勢力を絶滅させるため、見通しを良くするためジヤングルを枯らせるために、食糧を絶つため田や畑の食糧地帯にまかれ続けた。枯葉剤を扱っていたアメリカ兵の中にも被害を受けたものは少なくないが、アメリカ政府はその危険性を把握していなかったのか。著書によれば、アメリカ政府は既に1963年の段階でネズミの出産異常や奇形を引き起こすことを知っていた。67年には「作戦中の兵士やべトナムの農民に有害。ダイオキシンは遺伝障害を起こす恐れがある」という研究成果があったのを無視し、67〜69年に作戦がエスカレートした。197l年に枯葉作戦を停止したが、それは試験データが科学者の間に漏れ始めたことと、化学兵器に対する国際世論の反発が大きくなったからである。自国の兵士であっても、アメリカ政府幹部や軍産共同体にとっては所詮補充のきく捨てゴマ、消耗品目なのである。
 また、中村氏の著書に、ワシントンにあるべトナム戦争記念碑についての記述がある。57・939人の名前が彫り込まれた記念碑の中に「カズト・モリワキ」という日本人の名前があることをカソリックの神父が示し、「アメリカの市民権を得たいと考えたのだろう。彼にとっては本当に意味のない死だったと思う」と語っている。神父は横浜にある米軍岸根野戦病院でべトナム戦争の兵士が死の間際に「何のための戦いなのか。何のための自分の負傷なのか。」と問われた、というのである。
  祖国アメリカがべトナムから攻撃を受けたわけでもなく、愛する家族がべトナムの攻撃で危険に見舞われたわけでもない。戦場はアメリカから遠く離れたべトナムである。そこで300万人のべトナム人が犠牲になった。「共産主義の侵略からべトナムを守る」というのが兵士たちの戦うことの意義付けだったのだろう。しかし、守るべきべトナム人民の自由を奪い殺毅することでしかなかった戦場の体験は「ベトナムを守る」とは無縁の戦いであることを思い知らされる。枯葉剤を浴びなかった兵士にも精神疾患を患うものも少なくない。
 沖縄に駐留する海兵隊はべトナムだけでなくイラクやアフガニスタンにも派遣された。その部隊がクラスター爆弾や劣化ウラン弾を使っている。枯葉剤に対する暖昧な決着が今もクラスター爆弾や劣化ウラン弾で傷つく子どもたちを生みだしている。それらを防止する唯一の道はどれだけ多くの人たちが現実の姿を知ることになるのか、であろう。
(参考) ホームページ日本国際法律家協会(弁護士・梅田章二氏)より
  2003年10月枯葉剤のべトナム人犠牲者がアメリカの化学薬品会社を訴える
  米国地方裁判所2005年3月10日訴えを棄却
  最高裁判所・2009年3月提訴の聴聞拒否
(2009年5月15・I6日ベトナム枯葉剤国際民衆法廷パリで開催・今も被害者が生み出されており、また生態系に対する徹底的な破壊という点で明らかに国際人道法に反する)
民医連の月刊誌「いつでも元気」5月号に申村梧郎氏が最近のドクさんの様子を書いている。また、2009年5月にアメリカのカリフォルニアで「枯葉剤写真展」を開き、「枯葉南シンポジウム」で残虐兵器の使用正当化の論理との決別を訴えたが、共感の気持ちをスタンデイング・オベーションで表してもらったということである。

和泉市いずみの国歴史館・冬季企画展

「描かれた戦争、創られるイメージ」

ー刷り物で見る日清・日露戦争と東アジアー

森下 徹

  「坂の上の雲」の時代、日本は、日清戦争・義和団事件・日露戦争という3つの戦争を通じて、植民地を領有するアジアで唯一の帝国主義国として成長を遂げた。 これら三つの戦争は、新聞や雑誌、大衆芸能など多様なメディアで報じられた。この企画展では、その中でも、錦絵や石版画、双六、豆本など多種多様な刷り物に着目し、戦争がどのように描かれ、語られ、伝えられたのか、また、当時の民衆の中国・朝鮮やロシアに対するイメージがどのように創られていったのかを明らかにするとともに、戦争が地域社会や庶民生活にどのような影響をあたえたのか、地元和泉に残る日清・日露戦争関係資料から浮かび上がらせることを目指したものである。
 企画展全体の成果や課題などについては、3月例会で報告させていただくとして、ここでは、韓国併合100年にちなんで、朝鮮・韓国との関わりに絞って展示内容の一端を紹介したい。 いうまでもなく、日清・日露戦争は、日本と清、日本とロシアが、朝鮮半島や満州をめぐって争った戦争であり、主な戦場は朝鮮半島であり、満州であった。 今回の展示では、200点を超える錦絵・石版画や絵本などを紹介しているが、朝鮮・韓国を主題としたものは実は余り多くない。
  日清戦争の宣戦布告は1894年8月1日だが、7月23日の朝鮮王宮占領事件から事実上戦争は始まった。戦争当初に描かれた刷り物をみると「朝鮮事件」、「日清韓戦争」、「三国交渉画報」などのタイトルを付したものもいくつか見られる。日本と朝鮮との戦争、もしくは日・清・韓三国の争いとみた絵師たちがいたのである。
 しかし、地上戦が本格化すると、刷り物のテーマは、日本と清との戦争にほぼ絞られていく。牙山,成歓・平壌・元山・九連城・旅順・威海衛などでの日本軍の華々しい勝利や数多の軍国美談が描かれ、朝鮮・韓国はその戦場として登場するにすぎない。しかし、実際には、日清の戦争だけでなく、再蜂起した東学農民軍と日本軍との闘いも続いていた。日本軍は、農民軍の 「殺戮命令」を出し徹底的に弾圧した。農民軍側は、およそ半年の間に3万から5万もの死者を出している。
 姜徳相氏は、王宮占領に至るまでを第一次日韓戦争、日清開戦後,農民軍再蜂起後の戦争を第二次日韓戦争と呼んでいる(姜徳相「錦絵の中の朝鮮と中国」岩波書店2007)。姜氏によれば、日清戦争勝利の錦絵が何百点にものぼるのと対照的に、第二次日韓戦争に関する錦絵は一点もない。それは、第一次日韓戦争を描いた絵師たちの視線が、日清戦争の進展とともに中国に移り、朝鮮に直接画題を求めることはなくなっていくからだという。こうした姜氏の指摘は、この企画展に出展している錦絵にもそっくりあてはまる。なお、日露戦争を描いた石版画においても、韓国は戦場として描かれるのみで、日露戦争下の日韓関係やのちの韓国併合にいたる過程は充分見えない。
 以上のような朝鮮・韓国の「欠落」は、絵師たちの認識の問題にとどまらず、当時の民衆の朝鮮・韓国観や戦争認識の一面を鋭く表現したものといえよう。はたして現代日本人の歴史認識と無関係といえるだろうか。そのような思いを強くしつつ、展示の準備にあたったのだが、どこまで展示で表現できただろうか。残りの会期はわずかだが、ぜひ会員の皆さんにも参加いただき、ご批判いたければ幸いである。

 2009年資料

石山合戦異聞

林 耕二

はじめに

 本州最南端近く、串本町古座(旧古座町)に雑賀衆の末裔が生きていると知ったのは、数年前古座川で行われる河内(こうち)祭の取材に来たときであった。四万十川より美しいと言われる古座川の川縁に佇む老舗旅館の神保館に泊まった際、主人の神保圭志氏から先祖が雑賀衆であると聞かされて驚いた。のちに氏から送って頂いた系図によれば、初代が雑賀彦兵衛で、その後しばらく間が空いて一代目が雑賀市兵衛、二代目が雑賀市右衛門、三代目が神保市右衛門となり、以下神保姓となって九代目が圭志氏の父親の神保欣一氏である。古座には雑賀の屋号を名のる家が現在神保家を含めて9軒あるという。雑賀衆とは、地縁でむすばれた集団であり、もともと雑賀という姓ではなく、鈴木や土橋などの異なる姓をもつ人びとが寄り集まったものであった。しかし、信長や秀吉との戦いに敗れて雑賀の地を離れた人びとが、自分たちが雑賀衆であったという誇りを残すために雑賀という姓や屋号を名乗ったことと思われる。
 地元の郷土史家中根七郎氏の書かれた「善照寺」によると、石山合戦が信長との和睦、本願寺側の石山撤退に終わって以後のl581(天正九)年頃、山本善内なる人物が雑賀衆の一隊を率いて、この地に落ち延ぴ、山本は現在ある善照寺という西本願寺派の寺院(当時は善内寺)を建立して祝髪(出家)し、その他の雑賀衆もこの地に住み着いたという。
 熊野水軍や捕鯨漁労の海人文化と出会い、熊野の森と古座川と太平洋に囲まれたこの土地の心地よい空気に癒されていた私は、この邂逅にも感動した。 私は石山合戦以後、各地に散った雑賀衆のその後について調べていたが、その調査を再開する機会が思わぬところから訪れてきたのである。そこで、その後神保氏とは文通などでやりとりし、後日この地を再度訪れることとした。
  そして再度古座を訪れる機会は、またしても偶然の縁がはじまりとなった。私の知人で同じ和歌山出身の府立高校教員の堀潤氏の先祖が古座の雑賀衆だということを本人から聞いて知ったのである。氏の父方の祖母の実家が雑賀姓である。堀氏自身もお父さんが古座高校教員をしていたため少年時代を古座で過ごしたそうである。堀氏と私は今年の3月末に古座を訪れ、再び神保館に泊まり(1泊朝食付きで4500円)、神保氏の案内で善照寺を訪問した。そして山本善内の消息について16代目の住職山本昭隆氏(65才)からお話をうかがった。そこでわかったことは、決して歴史の表面には明かされずに闇に葬られてきた意外な事実であった。タイトルに異聞としたのは、そのようなことが理由である。

1、信長上洛と石山合戦の開始

 この話は戦国時代の1570 〜1580 年の前後11年間織田信長と石山本願寺を中心とする反信長同盟との間で戦われた石山合戦が終わる間際に起こった出来事である。そこで本題に入る前に、石山合戦についての経過を少しまとめておきたい。
 織田信長は、1560 (永禄三)年の桶狭間の合戦以後、美濃の斎藤龍典を破り岐阜を拠点に「天下布武」一天下統一の意志を明らかにした。1568 (永禄十一)年上洛した信長は、三好氏など畿内の勢力を破り、足利義昭を第15代将軍職につけた。1570 (永禄十三・元亀元)年には浅井・朝倉の連合軍を姉川の戦いで破り、天皇と足利将軍家の権威を背景として中央での実権を握りつつあった。
  一方、信長に反感を持つ足利義昭を軸とする全国各地での反信長勢力の結集が行われつつあった。1570 (元亀元) 年7月20日、四国に撤退していた三好勢が摂津中島に上陸、野田福島に砦を築いた。そのすぐとなりにあった石山本願寺(現在の大阪城の位置)は、信長からの矢銭の要求や寺の明け渡しなどの「無理難題」に対して反信長の態度を固め、9月6日、本願寺第11世宗主頭如は信長と戦うように近江中郡の門徒に傲文を送り、天王寺に本陣を置いた信長に対して9月12日夜半、石山本願寺から鉄砲などによる攻撃が開始された。さらに、頭如は9月16日を期して全国の門徒に反信長の戦いに立ち上がるよう指令を下した。これがl0年におよぶ石山合戦のはじまりであった。石山の中心部隊は雑賀衆の鉄砲隊であった。朝倉・浅井連合軍が北近江から攻撃を開始したため、信長はいったん大坂を退陣し、天皇と将軍を仲立ちに和睦を行いこの危機を切り抜けた。

2、石山の主力部隊としての雑賀衆鉄砲隊

 1570(元亀元)年将軍義昭を軸に、本願寺、武田信玄、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好義継などの連携による信長包囲網が成立した。その司令塔である武田信玄は、1572(元亀三)年、32000人の兵を率いて甲府を出陣した。三方原で徳川家康を破り、野田城を陥落させた。しかし信玄は病のため甲府に帰国する途中、駒場で亡くなった。司令塔をうしなった反信長同盟はもろく、信長は1573(天正元)年槙島城の戦いで足利義昭を破り、義昭を追放し、室町幕府が滅亡した。信長はさらに朝倉義景、浅井長政、三好義継を討ち、松永久秀を降参させ、武田信玄を盟主とする第一次ともいうべき反信長包囲網は崩壊した。
 有力な大名が倒れる中で信長の前にたちはだかったのは本願寺と各地の一向一揆の勢力であった。信長は、1574(天正二)年、長島一向一揆を、I575(天正三)年、越前一向一揆をそれぞれ約三万人の老若男女の大虐殺という凄惨な攻撃で壊滅させた。 信長の攻勢に対して本願寺側も徹底抗戦のかまえをとり、再三雑賀衆鉄砲隊の出動を要請している。1575(天正三)年の本願寺下間頼廉からの書状は、雑賀衆に対して「織田信長が昨四日に京着するのが必定となる由・・・鉄砲衆五百人を早々に参らせられたい。・・・とくに雑賀衆の協力が肝要に思し召されている。・・・鈴木孫一も参られるよう仰せ出されている」との顕如の要請を伝えている。1576(天正四)年には、石山本願寺に雑賀衆の大部隊が入城したことが記録されている(真鍋真入斎書付)。このとき、馬上百騎、鉄砲隊千挺が入城し、その大将格として、中ノ島的場源四郎、雑賀孫市、木ノ本横庄司加仁衛門などの名があげられている。このうち、中ノ島的場源四郎は現在の和歌山市中之島にいた雑賀衆の鉄砲隊千挺組の大将であった。鉄砲の腕がすぐれ、のちに秀吉の紀州攻めの際、貝塚市二色の浜付近に在った雑賀衆の砦である沢城の大将となった。雑賀孫市は、本名を鈴木孫一といい、紀の川北岸の平井 (南海本線紀ノ川駅北側)に本拠をおき、雑賀衆の中心的な人物として石山合戦においてもっとも重要な役割を演じる。
 雑賀衆が人ってから本願寺側は士気が高まり、戦闘でもその鉄砲隊が信長軍を悩まし、戦線は膠着状態となった。信長側は、本願寺への補給路が海上から木津川を経由して行われていることに着目、この補給路を断つ作戦に転換した。しかし、木津砦への攻撃を事前に予測した雑賀衆は、三津寺付近 (南区三津寺町)で 「鉄砲構」による攻撃 (塹壕と土塁により射撃を行う)で信長軍を退却させ、逆に信長の本陣である王寺砦まで追撃、包囲することとなった。5月7日、雑賀衆の数挺の鉄砲から撃ち出される銃弾が雨のよぅに降るなかで信長自身足に銃撃を受けている。信長軍と雑賀衆らは、ついに槍による白兵戦で激突、雑賀衆は槍遣いでも優れた働きを見せ、信長軍を退却させたのであった。1576(天正四)年、本願寺の下間正秀から中嶋孫太郎にあて、「このたぴ、木津 (木津砦)に至って在城し、殊に粉骨を尽され、一昨日の十三日には、今官表において、一戦に及はれ、一番槍にて両度に (織田信長方の武士を)分捕ったことなど、高名は比類ない。その通りをつぶさに披露したところ、先ず頭如上人が感じ思し食された。たいへんなことではあるが、敵 (織田信長軍)が在陣中に出陣して、ますます戦功にぬきんじれば、とくに忠節となす由、よくよく心得申すべき旨を仰せ出された。恐々謹言。」(訳・松田文夫氏)という軍忠状が出されている。中嶋孫太郎は鈴木孫一の兄であり、木津の合戦で活躍した後、専光寺 (和歌山市専光寺町)住職となった。私の実家は、南海和歌山市駅近くにあるこの専光寺の檀家であり、この軍忠状を見せていただいたことがある。

3、木津川の海戦と石山への補給路の確保

 1576(天正四)年、足利義昭や頭如の働きかけで毛利輝元が反信長同盟の新たな盟主として木願寺救援、信長攻撃のための東征に乗り出した。部隊は三隊にわかれ、陸路は山陽道を京都へ、山陰道から京都の背後へ、そして海路を毛利水軍が摂津、和泉へむけて出陣した。毛利水軍は、村上水軍、小早川水軍、多賀谷水軍、能美水軍の約九百隻(兵糧船約六百隻、軍船約三百隻)で構成されてた。これを待ち構える織田側は九鬼水軍、和泉の水軍らからなる三百隻余りの水軍部隊で、木津川河口に巨船安宅船を本陣として中心に置き、周辺に中小の船を配置した。瀬戸内海をすすむ毛利水軍は、7月初め頃には淡路島の岩屋城に到着した。そして7月12日、雑賀孫一が鉄砲隊三百名を含む雑賀水軍を率いて貝塚で合流した。当時の雑賀には雑賀庄の湊、雑賀、岡の水軍衆と十ケ郷の松江、加太の水軍衆がいた。1576(天正四)年六月二八日の顕如から雑賀衆への書状には、「近日、中国(毛利氏)の警固船が(石山本願寺へ)差し上ってくる由である。それについて、紀伊国の警固衆と手合わせのこと肝要の由を申し越してきた。当然のことであるので、急速に、その心得を頼み入れる。」(訳・松田)とあり、両軍のチームワークについて気遣い、「他国(毛利)勢と喧嘩口論の乱暴などをおこすこと堅く停止すること」と細かく注意を述べている。 決戦の火蓋は、7月13日、雑賀衆の提起した正面突破作戦によって木津川河口で開かれた。関船や小早と呼ばれる小型で速力の早い船を多く配し、鉄砲で武装された雑賀水軍を先頭に毛利水軍は、大きな安宅船の並ぶ織田水軍の中に入り込むと「投げ焙ろくTという手瑠弾のようなものを安宅船に投げ込み炎上させた。さらに数に優る小型の戦闘船が織田の軍船を包囲して乗り込むという戦法で戦い、14日の朝には織田水軍は壊滅した。この時織田軍に参戦した和泉の勢力では日根野氏、淡輪氏(主馬兵衛尉、大和守、鉄斎)、田中氏らの名が記録されているが、現在の泉大津市助松にいた田中遠江守重景もこの戦いで亡くなり(石碑には石山川口で7月15日没とある)、大津市助松にある田中家の墓地(牛滝塚)に葬られている。田中家は江戸時代には大庄屋を勤め紀州藩主の参勤交代時の本陣となった。本陣跡は現在も助松町に残っている。本願寺側は、この勝利によって瀬戸内海から木津川を経て石山本願寺までの海上輸送ルートを獲得し、武器・弾薬・食料などが石山本願寺まで続々運び入れられたのである。

4、戦国時代の紀州と雑賛衆

 戦国時代の紀州は、九つの勢力圏にわかれていた。「伊都郡は高野山の勢力圏、那賀郡は粉河寺と根来寺の二つの勢力圏、名草郡・海部郡 (現和歌山市・海南市)は雑賀一揆の勢力圏、有田郡は守護畠山氏の勢力圏、日高郡は室町幕府の奉公衆湯河氏と玉置氏の二つの勢力圏、牟婁郡は同じく奉公衆の山本氏と熊野の二つの勢力圏」であった (「和歌山県史・中世、第一節」547P)。
 高野山、根来寺、粉河寺など宗教支配と世俗的権力を併せ持つ巨大な寺社勢力、紀北の雑賀衆 (惣国)や紀南の湯河氏 (領主制)などの勢力が分立する紀州は守護 (畠山氏)の介入のおよばない地であった。ルイス・フロイスは 「そこには一種の宗教(団体)が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在」と述べている(「日本史」)。このよぅな状況から紀州には一国を支配するような戦国大名が成立しなかったo
 そしてこの紀州の中枢部、紀ノ川流域の平野部を支配していたのが雑賀衆であった。雑賀衆は自治的な惣国を形成していた。ほぼ現在の和歌山市全域と海南市の一部にあたる地域に36の村があり、各村の連合体を組と呼び、雑賀庄、十ク郷、南郷、宮郷、中郷の五組があった。これを雑賀五組 (からみ)といい、五組をあわせて雑賀惣国を形成していた。惣国とは行政単位の国郡制の国ではなく、村々が結合してできた 「くに」であり、まさに民衆の力で形成された「くに」である。惣はl4〜15世紀頃から近畿地方など生産力の高い地域で形成された村落の自治的結合をいい、地侍や有力名主で構成された合議機関を中心に自治が行われた。年貢・公事の徴収の下請け、警察・裁判権の行使、荘園領主や守護大名などへの抵抗 (一挨)、戦乱期の自衛などが惣を中心に行われた。惣村は周辺の村々と結合してより大きな結合体を形成した。雑賀惣国内では、各村同士の紛争も幕府や守護が関わることなく惣国が独自に紛争処理を行った。有力な戦国大名がいなかった紀州で雑賀衆は民衆が主役の独自の世界を築いていたのである。
  雑賀衆の代表は上層農民が多く、1562(永禄五)年の湯河直春起請文に登場する三十六名のうち、稲井 (大野)、松江 (且来)以上現,海南市、田所 (三葛)、嶋田 (中嶋)以上現・和歌山市、の四名が名字を持ち武士 (地侍)であったとみられる (「和歌山県史・中世」589P)。五組の中で、小雑賀川(和歌川)をはさんで東側の地域の南郷、宮郷、中郷は肥沃な土地柄で農業生産力が高く、西側の雑賀庄と紀ノ川北岸の十ケ郷は海岸沿いで農業生産力が低く、漁業、貿易、手工業、製塩、造船業などの生業が主で雑賀水軍の中心はここにあった。雑賀塩は江戸時代にも赤穂、蛭浜とならび全国に知られた名産地であった。また雑賀湊地域の船大工は薩摩まで出かけ、「紀のみなとの商売人」たちは 「土佐前を船に乗り、さつまあきない計仕る」(昔阿波物語)とあるように鹿児島の坊ノ津を経て明国までも交易していたと考えられる。また紀州を拠点とする雑賀衆は現在の大阪府南部の貝塚市、泉佐野市や田尻町など泉州地域にも進出していた。一方で、雑賀惣国内部は経済的基盤のちがいから、時に利害を対立させることもあり決して一枚岩ではなかった。
 そして雑賀衆は鉄砲を自在にあやつる傭兵集団として知られた。その本領は、石山合戦でいかんなく発揮された。数千丁と言われる雑賀の鉄砲のルーツは、根来の津田監物算長が種子島時尭から1543年に伝わったとされる鉄砲の一丁をゆずりうけて根来に伝え、そのことは、いち早く雑賀衆の土橋家などが根来寺の坊院(小寺院)を通じて知る機会があったこと、また雑賀は雑賀鉢という独特の兜を製作する甲冑師がおり、甲冑製作をもとに鉄砲をつくることはむつかしくはないこと、などが考えられることから、雑賀で独自に鉄砲を製作したり、または堺から技術者が来て製作したことなどが考えられる。
  雑賀衆はまた浄土真宗門徒として本願寺を支えた。紀州と浄土真宗の関係は、1486(文明十八)年に蓮如が紀州を訪れたことが教団拡大の大きなきっかけとなったと言われている。しかし蓮如訪問以前にも浄土真宗の各派が紀州に入っていることが明らかとなっている。雑賀衆の門徒らは本願寺の「番衆」という警護役すなわち傭兵の役割をつとめた。ルイス・フロイスは、石山本願寺の顕如のもとに派遣された雑賀衆の兵が常時六,七千人いたとしている(「日本史」)。

5、信長の紀州攻めと雑賀衆の戦い

 信長は、木津川の海戦での惨敗から、紀州雑賀衆をせん滅しなければ本願寺は倒れず、また中国方面への侵攻も不可能であることから総力をあげて雑賀攻撃を行うこととなった。このとき、事前に信長のエ作を受けて根来寺と雑賀の南、宮、中の三郷は信長方についた。1576(天正四)年信長から三郷にあてた朱印状には、「(紀州)雑賀(一挨)の成敗について、忠節に励むとのこと神妙である。根来寺のこと、これまた無二の協カするよぅ申し遣わしている。・・・準備でき次第ただちに軍勢を出すこと。恩賞のことは、戦功により望みに従う。」とある。雑賀衆側は、十万ともいわれる織田軍を前にして雑賀庄、十ケ郷の二郷だけとなった。
 1577(天正五)年2月13日信長は京都を立ち、八幡から若江に東高野街道を南下、16日和泉の「香庄」に、l8日には佐野へ移動した。「香庄」の位置について岸和田市神於町とする従来の説(信長公記注、阪南市史なと)があるが、太田宏一氏は「香庄」の位置について堺市津久野町神野町を最有力候補地としている。
  22日には、志立(信達)に陣を置き、信長は、ここから軍を浜手軍(滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝、忠興・筒井順慶・大和衆なと)と山手軍(佐久間信盛・羽柴筑前守・荒木村重・別所長治・堀秀政など)の二手にわけ、浜手は現在信長街道と呼ばれている泉南市信達付近の熊野街道から阪南市内に入るルートを通り淡輪から三手にわかれて(孝子峠、平井峠、木ノ本峠付近を推定)山越えして和歌山側に侵人した。このうち平井峠は、孝子峠駅付近から山中へ人って、なだらかな峠をおよそ30分で越えると平井城のあった和歌山市平井付近に出る。山手は根来杉の坊(鉄砲を伝えた津田監物の津田家が建立した子院)と雑賀の三組(南、宮、中の三つの郷)の者が案内して、熊野街道筋を雄の山峠か風吹峠を越えて和歌山市田井ノ瀬付近(推定)で紀の川を越え、現在の和歌山市小雑賀付近で和歌川をはさんで雑賀の主力軍と対時した。
  当時雑賀軍の主な砦は、まず紀の川右岸に山手軍が攻撃目標とした中野城と平井城があった。中野城は和歌山市野にあり、孝子峠の和歌山側入りロから500mほど南側である。土入川支流をとり入れた平城で軍需物資などの輸送の水運にめぐまれていた。現在は城の遺構と考えられる石垣と堀跡がスーパー駐車場の裏にひっそり残されている。織田軍との緒戦の前線基地となったが、2月28日に信長が淡輪に陣をおくと城兵は降伏し城を明け渡した(信長公記)。平井城は和歌山市平井の蓮乗寺付近(南海線紀ノ川駅北側)と考えられる。平井は雑賀(鈴木)孫一の本拠であり蓮乗寺の西側に孫一の邸宅跡があった。その北側の山麓付近に城跡があったのではないかと推測されている。ちなみに蓮乗寺の住職は鈴木氏であり、同寺には鈴木孫一の名を刻んだ墓がある。孫一本人ではなくてその子供の墓ではないかと言われている。
 織田軍は3月1日、平井城を「竹束で弾丸を防ぎながら、やぐらを建てて日夜激しく攻めた」(同書)。信長は3月2日山側と浜側の中間にある鳥取郡(現・阪南市石田)の若宮八幡(波大神社)に本陣を移した。同神社は私の家の近所である。
 雑賀の主力軍は紀の川左岸、現在の和歌山市中心部から和歌川に沿って和歌浦まで各出城をむすぶ巨大な防衛線をひき、小雑賀川(和歌川)をはさんで織田軍を迎え撃った。まず北から、和歌山市中之島のJR紀和駅構内東側の付近にあった中津城は、周囲に堀をめぐらした面積二反ほどの砦で、大正時代まで堀のなごりの大きい蓮池が紀和町、天王町にあった。信長の紀州攻めの ときは市内の東にあった太田党が根来衆の応援を受けて中津城を攻め、このときの城主雑賀権太夫は討ち取られたということである(「藤橘の下かげ」島嘉穂著)。さらに南に向かって現在の和歌山城付近の吹上峰、原見坂、宇須山、東禅寺山、弥勒寺山、和歌浦に雑賀衆の拠点とされた雑賀城があった。弥勒寺山は、1550(天文十九)年に黒江(海南市)から本願寺の紀州御坊が移転し弥勒寺と呼ばれた。御坊は1563(永禄六)年には市内の鷺森(鷺森別院)に移ったが、信長の攻撃時は、雑賀衆がここに城をかまえて戦ったという言い伝えがある。雑賀城は、和歌浦の妙見山という小山の北側に置かれていたようである。頂上は千畳敷と呼ばれる小さな広場になっている。ここには居館があったとされ、土塁跡がわずかに残っている。
 宇須山、弥勒寺山と雑賀城をむすぶ線の対岸に小雑賀があり、ここから織田軍が小雑賀川を越えて攻め寄せた。この時の雑賀軍のようすを信長公記では、「敵(雑賀衆)は小雑賀川を前にし、川岸に柵を設けて支えている。そこへ堀久太郎の兵がどっと突っ込んで、向こうの川岸まで乗り越えたが、岸が高くて馬が上がれない、ここが大事と敵は鉄砲をもって防いだから、堀久太郎は、部下のすぐれた武者数人を討たれて、引き退いた。その後は川を境に追いつめ、対陣した。」と書かれている。実際は、織田軍の損害はもっと大きかった。雑賀衆は小雑賀川をいったん干し上げて川床に桶や壷を埋めて織田軍が渡河しようとすると河の中の障害物に足をとられて動けず、そこを狙い撃ちされた。不思議なことにこの時満潮が続き、川の水は干潮の時刻となっても水を満々とたたえて流れていたといわれる。孫一は勝利を喜び、神に感謝して矢の宮神社でびっこの足をひきずりながら踊ったといわれている。膠着状態となった戦線で、信長は3月15日、雑賀衆の七名(土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、松田源大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫)の代表にたいし形式的な降服の誓詞を出させ、「大坂の石山本願寺攻めでは、お指図どおり尽カする旨、約束申したので、お許しになった」(信長公記)として3月21日兵を収めて退陣した。「降伏文書」を出したといっても、同年7月には孫一らは、信長方についた雑賀の三組 (南、宮、中の各郷)を裏切り者として攻撃している。
  詳細に戦いの様子を見れば、この時信長は紀州と雑賀衆を攻め落とすことができなかったことは明らかである。ところが多くの歴史書、高校日本史の資料集などは信長に雑賀衆が降伏したことを2〜3行で書いているのみである。根来衆と雑賀衆を混同しているものさえある。リアルタイムでこの戦の情報を得たルイス・フロイスは 「要衝雑賀は難攻不落の観があった。・・・信長は雑賀が陥落するならば、多年包囲してきた大坂は自滅する外なきことを知っていたので、既述のように再度にわたって攻撃し、初回に一連の軍勢を投入した時には、兵数十万におよび、次回には七万人の軍勢をもってした。だが (雑賀の)地はあまりにも堅固であり、二度ともその試みは不首尾に終わったばかりか、味方はいくらかの損失を被った」と書いている (「日本史」)。雑賀衆の強さの秘密は、紀北の村々が連合し、現在の和歌山市内の各砦をつないで市域全体が巨大な城塞と化して、そこに暮らす民衆の団結の力で信長と名だたる家臣団のほぼオールスターキヤストがそろった戦闘集団に立ち向かって一歩も退かなかったということである。信長は上洛して本能寺で討たれるまでの十五年間の内十一年間を石山合戦に費やしている。全国的な一向一撲のネットワークとともに、紀州雑賀衆の戦いは戦国時代史を根底で大きく動かしているのである。

6、巨大鉄装甲船の登場と石山合戦の終焉

 信長は木津川口の第1次海戦で大敗した経験をもとに、九鬼嘉隆に命じて鉄板で装甲した大船 (巨大安宅船) を建造した。「多門院日記」には 「堺浦へ近日伊勢より大船調付きおわんぬ。人数五千程乗る。横ヘ七間(約13m)、竪へ十二、三間 (約23m)もこれある鉄の船也。大坂へ取りより通路止むべき用と云々」の記録が残されている。1578 (天正六)年六月に完成した大船七隻は熊野浦から堺へ、途中淡輪付近での雑賀衆による攻撃も大砲でけちらして大阪湾へ入り、石山本願寺への毛利方の海上補給路をふさいだ。十一月六日、毛利方が船六百隻で木津方面へやってくると 「六日の午前八時ごろから正午頃まで、海上で船戦がおこなわれた。・・・六艘の大船 (注・実際に建造された船は滝川一益のもの一艘を加え七艘であった)には大砲が数多くあった (注・一艘に3門の説あり)。そこで敵船を間近に寄せ付けておいて、大将軍の乗船と思われる船に見当をつけて大砲を発して打ち崩したから、敵船は恐れをなしてそれ以上寄せて来なかった。そのうえ数百そうの敵船を木津浦へ追い込んだ」(「信長公記」巻十一)。鉄板で装甲した巨大船には、第1次木津川口海戦で効果のあった「ほうろく火矢」も効果がなかった。こうして石山本願寺への補給路は断たれた。すでに l575 (天正三)年前田利家による残虐な越前一向一揆の鎮圧により北陸からの支援も困難となり、摂津の荒木村重による信長への反乱も高山右近らの寝返りなどで形勢は不利となり石山本願寺は次第に孤立していった。

7、信長・顕如の和睦と抗戦派教如の再籠城

 正親町天皇の勅命で、1580 (天正八)年閏三月、顕如上人は信長との講和を受け入れた。同年三月十七日信長が本願寺へ出した血判誓詞によれば、信長は顕如に対し和睦の条件として「『惣赦免』の代価として大坂 (石山)の退城、人質の提出を命じ、退城後に織田方が占拠した加賀南部の二郡を返却するなどの七か条を提示した」(「織田信長起請文」解説『西本願寺展図録』)。同年四月十日顕如は石山を退去して紀州鷺森(和歌山市)に移った。
 このとき新門主となった顕如の長男教如は「蓮如以来の聖地の放棄、信長の表裏別心への危惧、武田、毛利などの大名との和解放置のままの和平の不当性など」を理由として抗戦を主張し、再び石山本願寺に籠城した。教如に従った抗戦派は 「摂津富田の教行寺証誓、近江堅田の慈敬寺証智、毫摂寺善海などの一家衆や、本願寺坊官下間頼龍と紀伊雑賀衆の一部の門徒らであった」(「大阪市史第二巻 P667」)。教如は三月十三日付書状で紀州雑賀衆の長老達、岡了順、宮本平大夫、松江源三大夫、嶋本左衛門大夫、岡太郎次郎に籠城抗戦と雑賀一向宗の支援を求めている(「I580 (天正八)年石山本願寺教如書状」)。この五名のうち、岡太郎次郎は、岡了順の息子で、岡の若者の代表であり、嶋本左衛門大夫と共に徹底抗戦を主張していた。一方、宮本平大夫、松江源三大夫らは講和派であった。このように講和派と抗戦派に分裂する雑賀衆の中で岡了順は、苦渋の選択として講和を受け入れた、(薗田香融 「道心堅固」「思いで」念誓寺)。しかし、その後天正八年四月の雑賀衆起請文 (1580(天正八)年『雑賀衆起請文』)では、抗戦派も含めて講和の誓詞に名をつらねている。念誓寺は現在和歌山市東紺屋町にあるが、当初岡道場の名で現在の和歌山市鷹匠町珊瑚寺付近にあったとされる。七月二十八日付の顕如が奈良の惣門徒衆にあてた手紙の中で 「以後新門主 (教如)不慮之企、併徒者のいひなしニ同心せられ」とあり、教如の石山再籠城が「徒者(いたずらもの)」にそそのかされたためと書いている(「顕如消息」「西本願寺展図録」)。
 七月になって信長は再び本願寺出城への攻撃を開始、花隈などいくつかの出城が陥落した。前関白で公家らしからぬ武人の近衛前久が和平幹旋を行い八月二十日以内での条目履行を迫った (「近衛前久起請文」「西本願寺展図録」)。教如は八月二日に本願寺を前久に渡してさびしく紀州へむかった。退去後石山本願寺は炎上し三日まで燃え続けたという。
 「信長公記」には、石山本願寺と他の出城を明け渡し、雑賀衆など籠城していた人々が 「蜘蛛の子を散したるが如く、雑賀、淡路島、おのが様々に分散しつつ落ち行く形成、哀れなりし事ども也」と記録されている。

8、古座にやってきた雑賀衆と山本善内

 串本町(旧古座町)古座小字上ノ町に位置する善照寺(真宗本願寺派)は道路に面して白壁となまこ壁の重層の山門がそびえ、一見して砦か城のような印象を与える。寺の由緒には、同寺は山本善内之介弘忠という人が開祖で、弘忠は石山合戦の時、兄兵衛尉弘朝が戦死、また八木與十郎という者を討ち取って後、祝髪して善空と称し、1581(天正九)年同寺院を創立したとある。
 現在の住職山本昭隆氏は善内の十六代目の子孫である。氏は南紀州新聞に「石山合戦と善照寺」という記事を2007年4月から10回にわたって連載した。その中で、同寺に残る古文書(善照寺文書)にもとづいて石山合戦終熄時に起こった出来事を紹介している。以下は山本氏の連載記事と氏の話にもとづく内容である。

9、 山本善内に課せられた重大な使命

 顕如が鷺森に移った同じ天正八年、善内も一族と共に古座に来た。古座、高池、西向には善照寺の檀家で雑賀屋の屋号を称する旧家が巽、神保、浅川、中島、玉置、角、松本、関戸の9軒ある。神保家の現在の子孫は旅館神保館の経営者、神保圭志氏である。神保家の系図には初代が雑賀彦兵衛、その後一代目が雑賀市兵衛、二代目が雑賀市右衛門、三代目から神保市右衛門となっている。初代と一代目の間の間隔が空いていることが不明であるが、圭志氏が九代目である。9軒のうち巽家は古座の地元であるという。山本昭隆氏によれば巽家は地元側で、落ち延びてきた雑賀衆の受け入れ役となったのではないかといぅ。
  善内の出自は不明というが、古座に来た理由として当地が紀南の物流拠点であったこと、本願寺を支援する豪族、高川原氏や小山氏などを頼って来たことが考えられるという。 石山合戦の終了翌年 (158I年)、善内にある重大な使命が本願寺から課せられた。その内容が善照寺文書として紹介されている。
  「内々申し上げられ候旨趣、つぶさに上聞に達し候。彼の輩、深重に言を並ぶる儀に候。申し合わせの如く、その (証拠)これ有るに於いては、別して忠節比類なくおぽしめさるべく候。いよいよ、油断なく入情すべき事肝要の旨、能々申すべく候由。仰せ出され候。依って御印排べらるる所如件 (くだんのごとし)。刑部法眼、少進法橋 連署判。天正九年三月三日 古座山本善内殿」
 山本氏はこの書状について、最後に 「御印排べらるる」とあることから、門主の印を押すという形式をとるもので門主の直状 (花押)と同じ権威を示し、間違いなく門主の意を受けたことを示す重要文書であるとしている。内容は彼の輩が、八木與十郎を指し、この人物が本願寺にとって不都合なことをして、取り調べにもしらを切っていること、証拠もあるので討ち取ることもやむなしとし、申し合わせの如く油断なく首尾を果たせ、というものであるとされている。善内は四月十八日付書状で 「天正九年巳三月八日に八木與十郎うちに、四月十一日に上様より御使者下されなされ、善吉 (善内)けんちう仕り候。音物 (いんもつ)には米五石、樽一つ、小山殿へ樽二つ、(略)その時の御使者は寺内源二太夫殿なり。天正九年四月十八日山本善内介弘忠判」として、三月八日に八木を討ち取り古座に帰還して、本願寺門主からの贈物を受け取ったことを示している。
  善内に討ち取られたと思われる八木與十郎が如何なる人物であるのか不明だが、古座の郷土史家中根七郎氏は天正三年第2次和平の際に信長のもとに派遣された本願寺の使者の中に八木駿河守という人物がおり、これが八木與十郎ではないかと推測されている。
  山本氏は石山合戦終了翌年の未だ不安定な時期に、本願寺が八木與十郎に関して看過できない事態があり、この事態解決のために特命が山本善内に下されたと見る。特に與十郎は教団内で重要な地位にあり、昵懇の間柄であったと思われる山本善内以外に八木討伐の役目は果たせなかったのではないかと推測されている。善照寺明細帳には、善内は義のために情を忍びて之を討ち、祝髪 (剃髪)して出家した、とある。推理されることは、木願寺が抗戦派の指導者を身内により始末したということが考えられるが、その真相は未だ謎の部分が多い。その謎を明らかにするために今後、八木與十郎の消息などの調査もすすめるつもりである。

2009/8/5掲載

『蟹工船』発表八十周年にあたって

―競争や分断を乗り越えて社会的反撃の年に―

室谷 雄二

 今年は、『蟹工船』の作品が発表されて八十周年にあたります。現代の"蟹工船ブーム" の担い手である若者たちは、「派遣切り」撤回など、いま、社会的反撃に立ち上がっていま す。
 去る二月二十八日、大阪多喜二祭実行委員会は、"蟹工船ブーム"と現代格言社会"に 焦点をあて、「多喜二の火を継ぐ−2009年大阪多喜二祭」を開催し、三百五十人の方が参加 しました。講演は、尾西康充・三重大学教授が「現代格差社会における『蟹工船』−『てむかい』から『叛逆』ヘ―」のテーマで講演され、まんが「蟹工船」の解説者である島村輝 ・女子美術大学教授のコメント、「地域労組おおさか」の青年の訴えなどがありました。ま た、別室では「関西勤労協・戦前の出版物を保存会による「多喜二資料展」も開催されまし た。
 『蟹工船』が、発表されたのは、プロレタリア文化運動の機関誌だった『戦旗』の一九二 九(昭和四)年五月号に一章から四章、六月号に五章以下が掲載され、前作の『一九二八年 三月一五目』以上に全国的に大きな反響をよびました。六月号は発禁処分をうけましたが、 全国につくられた支局網を経由して、読者から読者へと手渡され、一万二千部が発行されま した。この年一九二九年、『戦旗』はこの六月号をはじめ、発行の半分は発売禁止という事 態となりました。
 こうした権力による弾圧に屈せず『蟹工船』は、すぐに、果敢に、「戦旗社」から単行本 として九月に発行されるのです。前作『一九二八年三月一五日』の削除・伏字十三ケ所を復元し、これを収録して<初版>『蟹工船』を出版。短期間に一万五千部を売りつくしました。 ところが、この初版本もたちまち発売禁止処分を受けます。このため、処分該当となった『一 九二八年三月一五日』をはずして、『蟹工船』だけを収録した<改訂版>『蟹工船』をこの年の十一月に発行。この本もすぐさま発売禁止処分。めげずに翌年三月、さらに該当文章を 削除し、総ルビ付き<改定普及版>『蟹工船』を発行したのです。
 三冊の『蟹工船』は、たび重なる発売禁止にもかかわらず、独自の配布網をつくって半年 間で三万五千部という驚異的普及を実現したのです。まさに、『蟹工船』最後の一行「そし て、彼等は、立ち上がった。――もう一度!」を地でいったものです。多喜二はその印税千円のほとんどを「戦旗社」に寄付したと言われています。
 多喜二と大阪は縁があります。『戦旗』のたびたびの発売禁止で、『戦旗』防衛三千円基金」募金運動の関西巡回講演会がもたれることになります。小樽から上京まもない多喜二が、 一九三〇年五月、江口換、中野重治、片岡鉄兵、貴司内治、徳永直、大宅壮一らと関西にや って来ます。一行は、一七日に京都・三条青年会館で講演。翌朝、宇治の「山宣」の墓に詣で、その足で京阪電車に乗って大阪入りします。一八日の夜、内本町・実業会館で講演会。 このポスターの弁士のトップには、多喜二の名前をつらねています。「とても盛況で、七時 半迄に早くも聴衆は場外にあふれ遅れて押かけた諸君は満員で拒絶された」と、一参加者か ら当日の模様が、『戦旗』七月号に通信されています。
 一行は、神戸、三重の山田、松阪で講演をすませ、多喜二が二三日大阪に戻ったところ、 高之内警察署(現在の南警察署)に検挙、十六日間拘留され、初めての拷問をうけることに なります。多喜二は、「中ではひどい拷問された。竹刀でなぐられた。柔道で投げられた。 髪の毛は何日も抜けた。何とか科学的取調法を三十分やらせられた」と友人の斉藤次郎へ書 簡を送っています。
 東京に戻った多喜二は、再び逮捕されます。『蟹工船』の作品のなか万、蟹缶詰の「献上 品」に「石ころでも入れておけ!」と書いたことから、皇室侮辱の「不敬罪」で追起訴を受 け投獄されたのです。
 小説『蟹工船』は奴隷的労働のもと、漁夫、雑夫、船員、船頭などが、分断、競争を乗り 越えて、反撃、団結、ストライキヘとすすみます。多喜二は、『蟹工船』の作品の意図を蔵 原惟人への書簡で次のように述べています。帝国主義の機構、帝国主義戦争の経済的根拠に ふれるためには「帝国軍隊―財閥―国際関係―労働者。この三つが、全体的に見られなけれ ばならない。それには蟹工船は最もいゝ舞台だった」。(一九二九年三月三一日小樽)。
 角川文庫の『蟹工船』巻末解説で、作家の雨宮処凛さんは、現代の「派遣」の若者の実態 は、「『蟹工船』に描かれる世界はあまりにも彼らの境遇と近い」と共通点を述べます。続 けて「偽装請負が非難を浴びると、キヤノンの会長で、日本経団連会長でもある御手洗富士夫氏は『偽装請負を合法化しろ』というような主張をした。『蟹工船』のこんな一説が思わず浮かぶ。『労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった』と告発します。
 総選挙の年。「多喜二の火を継ぐ」ということは、多喜二が『蟹工船』の作品などで、意 図したように、競争や分断を乗り越えて、国を支配する本当の"敵"にたいし、若者からお年寄りまで、「社会的連帯」で反撃し、政策そのものを転換させることだと思います。 (大阪多喜二祭実行委員会 事務局長)

2009/3/17掲載

「沖縄戦学習と教科書問題」シンポジウムに参加して

一歴教協近畿ブロック研究集会報告−

田宮 正彦

 歴史教育者協議会近畿ブロック研究集会、2008年11月29 ・30 日に参加しました。初日「沖縄戦学習と教科書問題」について三氏によるシンポジウムのテーマは、坂本昇氏(東京歴教協・都立田園調布高校)「教科書検定と沖細微学習〜執筆者として、歴史教育者として〜」、山口嗣史(沖縄県歴教協)「教科書検定意見撤回運動ならびに大江・岩波訴訟は我々を強くしたのか一今沖縄でやっていること、今後やりたいこと―」、平井美津子(大阪歴教協・吹田市立西山田中学校)「中学生の沖縄ノート―社会と向き合うようになった中学生たちとその後―」、教科書執筆者の検定の実態と沖縄戦学習の実践・課題についての報告とフロアーからの意見表明かありました。
 坂本氏の教科書執筆者としての発言を紹介します(氏のレジュメ)。2006年12月19日、教科調査官は教科書執筆者につぎのようこ検定意見を通達している。
 最近、集団自決に際して、軍の正式な命令はなかったというふうにほぼ固まりつつあるように考えている。……何らかの命令もしくはそれに準じた強制力のあるものが、軍からあったということを誤解されたら困るということで、意見を付け加えさせて頂いた。
坂本氏は、検定審議会やマスコミには、大江・岩波裁判の「梅沢陳述書」などを検定の根拠にしていたことがわかったとき、怒りに燃えたと述べています。
  2007年9月29日、沖縄県民大会(正式には「教科書検定意見撤回を求める県民大会」)には11万人が集まり、検定意見撤回(「教科書検定意見の撤回と記述の回復」)を決議した。執筆者とて高校生に2008年4月から、良い教科書を届けるためには、修正の準備を整えておく必要があった。12月4日、文科省は各教科書会社の役員クラスを呼んで、「指針」をロ頭で伝えている。
@ 直接的な車の命令に基づいて行われたかは、現時点では確認できない。 A「集団自決」には「複合的要因」があったことを明示しないと誤解が生じる(「複合的要因」とは、教育訓練や感情の植え付け、車による手榴弾配布の事実や壕の追い出し、住民を巻き込んだ地上戦末期の極限状況などのこと)。この「指針」は、後日審議会「日本史小委員会」の「基本的とらえ方」として公表された。
 11月1目、執筆者が提出した訂正申請は、おもに3点である。
@ 本文に「日本車によって『集団自決(※)』 においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」と書き、側注として「※これを『強制集団死』とよぶこともある」とした。
A 証言史料の中段に「軍から命令が出たとの知らせがあり、いよいよ手榴弾による自決が殆まりました。操作ミスが原因でわずかの手榴弾しか発火しません。そのため死傷者は少数になりました。しかし結果はより恐ろしい惨事を招いたのです」を挿入した。
B2007年の記述を追記して、「また国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の『集団自決』に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(※)」と書き、側注として、「※沖縄県では、同年9月には『検定撤回』を求める県民大会が、1995年の県民犬合(→P.24)を大きくこえる規模で開催された」。
 2007年12月26日、訂正申請の結果が発表された。「検定意見」は撤回されないまま「軍の強制・命令」は認められなかった。文科省・教科書調査官らは、自らの体面を取り繕った。検定の「密室性」はほとんど変わらなかった。審議会では「軍の命令・強制は×で、おいこまれた○」などというという記述の適否までは決定していなかったはずなのに、調査官の判断で、訂正申請内容を何度も書き直しさせた。「指針」や一部の識者意見などを最大限に利用して、調査官の考えに沿って「書かせる検定」になった。
 故・家永三郎氏はかつて第三次教科書訴訟で、「私は裁判所に歴史教科書の記述の是非を認定してもらうつもりはない。文部省による教科書記述への権力的介入の不当性の問題を訴えているのだ」と。歴史教科書の内容を決めるのは文科省でも裁判所でもない。歴史学の成果の共有財産にのみ依拠して、歴史の真実を記述すべきであることは言うまでもないと、まとめています。
 10月30目、高裁判決後、現在再訂正申請を検討中であるが、各社とも「修正されたので終わった」「現状では困難」という判断が多く、なかなか厳しくなっている。「このまま次回まで待てない」「何かやろう」ということで、執筆者間では2007年6月ごろから、意志統一して確認してきた。また「『検定意見』とその経過自体を教科書にきちんと記載することが、執筆者集団としての責務である」とう同僚執筆者の発言にも鼓舞された。沖縄の人たちのみならず、卒業生や同僚などからの激励も多いと述べています。

 (参考文献)「沖縄から見える日本―沖縄戦・教科書・基地・文化―」『歴史地理教育N0.727(2008.3増刊号)

2009/1/14掲載

歴史認識正す声をもっとあげよう

柳河瀬 精

 08年10月31日、アパグループが「真の近現代史観」懸賞論文で田母神俊雄航空幕僚長が最優秀賞を受賞したと発表。その内容が問題となり、その夜のうちに更迭されました。「日本が侵略国家だというのは濡れ衣だ」などという田母神論文は、史実に基づかない俗論を言い立てたものに過ぎないものであることは、多くの論者が指摘しています。
 問題は、今回明るみに出た論文にとどまらないことです。 これまでに明らかになったことを列挙します。
○ 田母神はこれまでにも自衛隊内の訓話、講話や、隊内語の論文で繰り返して述べていたにもかかわらず、放置されたまま、出世の階段をのぼっていたこと。
○ 田母神は「元首相二人」が理解してくれていると、政治家との交流も言っている。
○ 田母神が統幕学校長だった時、歴史観講座を開設し、全講師が侵略美化派で、その受講者は400人にのぼっていること。
○ 田母神とともに懸賞論文に応募していたものが多数おり、同様の論旨に満ちていること。
○ 田母神と別の空将が隊内諾に同趣旨の論文を発表していること。
○ 防衛大学教科書では、目本の過去の戦争をすべて「自衛が基本」との戦争観で書かれており、「大東亜戦争」と表記していること。
○ A級戦犯を祀る「殉国七土廟」で自隊幹部研修を計画していたこと。
○ 各地の自衛隊で、戦前陸海軍を継承する歴史が、幹部によって講話されていること。  
 自衛隊内部が歪んだ歴史観で汚染されていることは、きわめて根の深い問題だといわざるをえません。
 「靖国派」の日本会議国会議員連盟に属する議員たちは、ことさらに声をあげてはいませんが、共鳴し、同調していることは聞違いありません。麻生太郎首相は日本会議国会議員連盟元会長で、特別顧問です。安倍音三元首相は首相になる直前まで幹事長でした。毎年、多数の国会議員が靖国神社参拝を繰り返していますが、彼らの歴史観も田母神と共通しています。
 田母神には支援者、同調者がいます。田母神が更迭され、処分もされないまま6000万円といわれる退職金を受け取ったことも話題になりましたが、講演などで忙しくしているといいます。ヤフーの調査では田母神論文を支持するものが58%にのぼるといいます。身近なところでも、高槻の芥川公民館で田母神論文のコピーが配布されています。わたしが12月8日、太平洋戦争開戦の日、京橋駅で宣伝をしていたとき、「反日日本人の宣伝か。自分は田母神論文に共鳴している」と言う男がよってきました。
 【参考】衆議院議員松浪健太(高槻市)は日本会議国会議員連盟会員、大阪府会議員吉田利幸(高槻市)、高槻市会議員古田稔弘は日本会議地方議員連盟会員
 自衛隊内部で歪んだ歴史観が根深く、多年にわたって堆積している状況が明るみに出てきているとき、いまひとつあらためて注目しなければならない問題を思い起こします。
 日中歴史共同研究の近現代史分科会の委員の一人に防衛庁防衛研究所戦史部上席研究官兼第一戦史研究室長庄司潤―郎が加わっていることです。
 当時、わたしは問題提起を考えて、準備を始めていましたが、発表しないままになっていました。その準備を思い返しながら、改めてそもそもから説明したいと思います。

 2006年10月おこなわれた日中首脳会談(当時安倍音三首相と胡錦濤国家主席)で日中歴史共同研究をすすめることで合意されました。これを受け、ハノイで聞かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)閣僚会議期間中の11月16日日中両国外相会談(当時麻生太郎外相と李肇星外相)が行われ、実施枠組みについて協議がされました。
 合意は次のとおり公表されています。
1、日中共同声明などの三つの政治文言の原則および歴史を直視し、未来に向かうとの精神に基づき、日中歴史共同研究を実施する。
1、日中歴史共同研究の目的は、両国の有識者が、日中二千年余の交流に関する歴史、近代の不幸な歴史および戦後60年の日中関係の発展に関する歴史についての共同研究を通じて、歴史に対する客観的認識を深めることによって相互理解の増進を図ることにある。
1、それぞれ10名の有識者から構成される委員会を立ち上げ、「古代、中近世史」および「近現代史」の2区分で分科会を設置しそれぞれ日中相互に主催する。 日本側は日本国際問題研究所に、中国側は中国社会科学院近代史研究所に、具体的実施について委託する。
1、年内に第1回会合を関催し、日中平和友好条約締結30周年にあたる2008年中に、研究成果を発表することを目指す。
  日中両国の合意の目的とされていることは、きわめて明快です。
 しかし、日本側が委託した日本国際問題研究所とは、どんな団体なのでしょうか。 歴史の共同研究という主題と目的にふさわしく、国民の納得が得られる機関であるといえる団体なのでしょうか。まずここに疑問を感じました。
 日本国際問題研究所は、1959年12月に設立された「国際問題を研究することを主たる目的とした総合的な国際問題研究機関」です。外務省の外郭団体で、初代会長は吉田元首相です。日中歴史共同研究発足当時の役員は、会長・平岩外四(東京電力顧問)、顧問・平泉渉(鹿島平和研究所会長)、副会長・若井恒塔(東京三菱銀行特別顧問)、岡田明重(三井住友銀行特別顧問)服部禮次郎(セイコー名誉会長)、松永信雄(元日本国際問題研究所理事長兼所長)、理事長・佐藤行雄です。
 研究所の目的は「(1)国際政治・経済、国際法の諸科学の発展を図り、(2)国際問題の調査研究のための諸手段を設け、(3)国際問題の情報・知識・思想の交換を促進し、(4)全国の大学を通じて国際問題に関する研究を奨励し、(5)海外の諸大学・研究機関との交流を図る」となっています。
 歴史の研究機関といえるようなものではありません。強いて歴史に関係があるるといえるのは、顧問・平泉渉の父が皇国史観で著名な平泉澄元東大教授であるといえるくらいのものです。
 日本側委員として選ばれたのは、【古代・中近世史分科会】川本芳昭九州大大学院教授、菊池秀明国際基督教大教授、小島敦東京大大学院助教授、鶴問和幸学習院大教授、山内昌之東京大大学院教授、【近現代史分科会】北岡伸一束京大教授・前国連次席大使、小島朋之慶応大教授、坂元一哉大阪大大学院教授、庄司潤一郎防衛庁防衛研究所戦史部第一戦史研究室長、波多野澄雄筑波大大学院教授です。
 日本側座長は北岡伸一、中国側座長は歩平・中国社会科学院近代史研究所所長です。
 北岡伸一は、東京大学大学院法学政治学研究科教授、専門は日本政治外女史です。長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001年9月〜2002年11月)であったあと、2004年4月から2006年9月まで日本政府国連代表部次席大使です。現在、日本の集団的自衛権保持の可能性について考える三首相(当時)の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(2007年4月設置)の有識者委員です。この懇談会の人選について、秋山収元内閣法制局長官は「非常に偏っていると思う。従来の政府解釈に批判的な立場の人ばかり、安倍首相と異なる主張の人は見当たらない。」(朝日新聞07年5月18日)と指摘していますが、そういう人物の一人です。
 庄司潤一郎防衛庁防衛研究所戦史部第一戦史研究室長を委員の一人に加えているところにも、日本側のこの「共同研究」で、どのような主張をしようというのか、その立場が端的に現れているのではないでしょうか。
 山内昌之東京大大学院教授は専門がイスラム史で、著作の中に中国史研究のものは見当たりません。安倍内関のもとに内閣官房に設けられた「美しい国づくり」企画会議で座長代理となった人物です。
 日中外相会談の当事者である麻生太郎外相(当時)は「米国でも南北戦争を、南部地域の教科書は『北部の侵略』と書いている。同じ国でも一致しないものだ」(産経新聞06年12月3日)と語っています。それが事実であるかどうか、わたしには知識の持ち合わせはありません。麻生外相はこれまでも数々の放言で物議も引き起こした人物で、その放言は韓国で新聞漫画にさえされています。外相会談の合意があって、まだ半月あまりでのこの発言は、はじめから共同研究で一致を作り出そうという目標など持たないという、あからさまな表明と指摘されかねないものでした。合意に沿って努力する立場などまったく感じられません。
 座長北岡伸一は記者会見で「日中間には認識のギャップがある。強いて一致させようとは考えていない」「過去の歴史をめぐり議論が紛糾し、現在、未来の問題に取り組めないのは不健全。 日中があるべき仕事に取り組める環境をつくるのに役立てればうれしい」(共同通信06年12月18日)と語っています。


 第1回会合は12月に北京で行われました。第2回会合は3月、東京で聞かれました。
 第2回会合について、「来年6月までに提出する報告書を『古代・中近世史』『近現代史』の2巻構成とし、各章ごとに日中の学者がそれぞれ作成した論文を掲載することを決めた。また、『共通関心事項』を設定し、犠牲者致などで見解が分かれる南京大虐殺や靖国問題などについて必ず触れることでも合意した。」時事通信(07年3月20日)が配信しています。
 産経新聞は社説で「歴史共同研究で最大の争点になることが予想される南京事件について中国は相変わらず、「30万人虐殺」説を宣伝し続けている。新華社電によると、その数字を記した「南京大虐殺遭難同胞記念館」の拡張工事が来年4月に完成する予定だ。しかし、旧日本車が南京の捕虜や市民30万人を虐殺したとする説は、日本側の実証的な研究によって否定されている。歴史共同研究を通じ、そうした日中両国の歴史認識の違いがさらに明確になることを期待する。」(06年12月26日)と述べています。
 認識のギャップが最も大きく表れるのは、日中戦争にかかわる問題です。
 1982年、日本の文部省(当時)は教科書検定で、歴史教科書から「侵略」の言葉を「進出」に改めさせ、加害の事実を記述させないようにしようとしました。中・韓両国は激しく抗議してきました。当時の鈴木善幸内閣は宮沢官房長官談話で「アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」と言明しなければなりませんでした。
 中国では、この教科書検定問題がきっかけの一つとなって、日本の侵略戦争、中国の抗日戦争の歴史を記録し展示する記念飽が各地に建設されました。
 最大規模の、中国人民抗日戦争記念飽は盧溝橋事件(中国では七・七事変)50周年記念として1987年に建設されています。
 2007年6月13日、「中国の抗日記念飽から不当な写真の撤回を求める国会議員の会」が発足しました。意図するところは明白です。抗日記念館の展示内容を調査し、自分たちが「事実誤認」と思う写真などの撤去を求めていくというものです。会長となった平沼赳夫はあいさつで「たくさんの抗日記念館で反日教育が行われ、間違った歴史観を植え付けることを許すことはできない」 (「産経新聞」07年6月14日)と述べています。   この議連の役員は、【顧問】町村信孝(衆・自)、中川昭一(衆・自)、島村宣伸(衆・自)、玉津徳一郎(衆・自)、亀井静香(衆・国民新)、泉信也(参・自)、【会長】平沼赳夫(衆・無) 【副会長】古屋圭司(衆・自)、今津寛(衆・ 自)、西村真悟(衆・無)、中川義雄(参・自)、亀井郁夫(参・国民新)【幹事長】萩生田光(衆・自)【事務局長】稲田朋美(衆・自)【会計監査】西川京子(衆・自)、戸井田撤(衆・自)です。
 中国には盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館、南京の侵華日軍南京犬唐殺遇難同胞記念館、柳条湖の九・一八事件記念館を始めたくさんの抗日記念館があります。ここで展示されている写真を撤去させようという意図をむき出しにした議員連盟です。
 議連は「中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会」で、自民、国民新両党と無所属の国会議員計42人が所属しています。
  これに関連して、中国外交部秦剛報道官は定例記者会見で質問に答えました。
 「近代に日本軍国主義が発動した中国侵略戦争は、中国人民に重大な災禍をもたらした。この時代の歴史を銘記するのは、深い恨みを引きずるためではなく、悲劇の再演を防ぎ、すばらしい未来を切り開くためである。
 中国政府は中日関係の問題において、一貫して『歴史を鑑(かがみ)として、未来に向かう』ことを主張しており、いわゆる『反日教育』は存在しない。当該歴史写真は当時の痛ましい史実を記録しているのであり、こうした写真の撤去を要求することは、誤った歴史と決別する勇気に乏しいことを顕わにするだけだ。」(「人民網日本話版」07年6月15日)
  「前事不忘後事之師」は中国人民抗日戦争記念館に掲げられている言菓です。
 安倍元首相は官房長官時代に、先の戦争が侵略戦争とされる点や「従軍慰安婦」開題で旧日本車の関与を認めた河野談話に否定的な見解を示してきました。首相となって一転、侵略戦争を認めた村山談話と河野談話を受け入れる態度をとるようになりました。
 こうした経緯があるなか、2008年1月5日、6日に北京で第3回全体会合を開催、本年中にも研究成果をとりまとめる予定と合意されました。近現代史についていえば、以下の各章について日中双方1本ずつ、合計18本の論文執筆を予定していること。これまでの16本の論文について報告・意見交換することが確認しあいました。
第1部 アヘン戦争(1840年)から満州事変(1931年)までの時期  
 第1章 アヘン戦争(1840年)から日清戦争(1894年)まで
 第2章 日清戦争(1894年)から辛亥革命(1911年)まで
 第3章 第1次大戦(1914年)から1920年代まで
第2部 満州事変(1931年)から終戦(1945年)までの時期
 第1章 満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)まで
 第2章 盧溝橋事件(1937年)から目米開戦(1941年)まで
 第3章 日米開戦(1941年)から終戦(1945年)まで
第3部 戦後(1945年以降)の時期
 第1章 戦後(1945年)から日中国交正常化(1972年)まで
 第2章 日中国交正常化(1972年)から現在まで
 第3章 日中における歴史認識、歴史教育等について
 そして2008年3月14日〜16日、近現代史分科会を日本で開くこと、2008年6月後半又は7月前半第4回全体会合(東京)を行い、報告書を完成させることという作業日程を確認しあいました。
 2008年5月、胡錦濤国家主席が訪日した時、日中首脳間で歴史共同研究の果たす役割を高く評価するとともに今後も継続していくことで一致しています。
 しかし、第4回全体会合が聞かれたと二ュースはないままです。

 二国間の歴史共同研究で歴史を共有する先鞭をつけたのはドイツとフランスです。両国間ではすでに共用できる歴史教科書も作られて、一部で実際に使用されているというニュースに接しています。ドイツはポーランドとの間でも歴史を共有しようとしています。
 日韓歴史共同研究では、政府関与のものは両国間の歴史共有から程遠いものになっています。
 日中歴史共同研究では共同研究に入る前から、意見相違は当たり前と言う発言が当事者から飛び出しており、しかも担当者がふさわしい人物であるかどうか、という状況ですからよい結果など到底望めないものかもしれま廿ん。
 2008年12月、ASEAN(東南アジア諸国連合)憲章が発効し、2015年の共同体実現へ着実な一歩を進めました。この地域は1954年SEATO(東南アジア条約機構)という反共軍事同盟がアメリカ主導で締結されたところです。(77年解消)いまこの地域に軍事同盟はありません。  わたしの生涯のなかで起こっているこの激変は驚くばかりです。歪んだ歴史観に自衛隊が汚染され、日米同盟にしがみつく日本は、東アジアで一番遅れた国になってしまいます。
 歴史認識を正していくための共同の輪を、わたしたちのまわりでもっと広げていかなければならないと痛感しています。

2009/1/14掲載

 2008年資料

安藤重雄先生の想い出

   ―陸奥と庶民の香り

後藤 正人

 2006年3月21日(祝日)の深夜に職場から戻った小生は、安藤重雄先生(1928年生)が20日(月)に亡くなられ、21日に通夜が行われること、22日(水)に近鉄「奈良駅」の近くのカトリック教会で午前11時半から葬式が行われること、そして小生に「お世話になりました」との奥様からの伝言をワイフから受け取った。
 3月21日には、深夜失礼ながら、会員のK氏に奈良市のカトリック教会の場所を伺い、22日には会員のM君へは残念ながら電話は繋がらなかったが、雨のそぼ降る中を近鉄「奈良駅」へ向かった。少々まごついたが、案内の看板を発見することができた。奈良女子大学へ向かう途中に教会はあった。11時半から牧師の先導により厳粛かつ祝福の気持ちを込めた式が始まった(終了は午後1時)。祝福の意味は、この後で小生に判明することとなる。牧師は、安藤先生の業績に触れると共に、「ヨゼフ・安藤重雄」として神に祝福されて神の身許に召されたことを告げた。牧師は、会葬者たちと共に、数曲の賛美歌を歌った。会葬者の手元には式次第の冊子が置かれており、幾つかの賛美歌の歌詞が印刷されていた。教会の女性の方に、かつてカトリック系大学でのクリスマスのミサで聴いたことのあった共通の曲の名を伺うと、賛美歌657番「いつくしみ深き」(表記?)という曲であった。ちなみに、その後に教会形式の結婚式に参列した際にも、共通の賛美歌が歌われたが、それは賛美歌660番「神とともにいまして」だったようである。
 安藤先生のお見送りの前に、先生の最後のお顔をじっと拝見していたら、ある女性が「お父さん(?)、後藤先生ですよ」とおっしゃられて、沢山の蘭などの花を下さった。小生はそれを先生の体の回りにそっと置いたが、しばし立ち去りがたかったことを覚えている。その女性は、先生の奥様の妹さんであるという。
  大阪船場にある会社に勤めているという安藤先生の長男から伺ったところに依ると、先生は20日の午後7時11分に亡くなられたという。会葬に来ていた会員のK氏夫妻に依れば、先生の奥様の妹さん(英語教師)が以前からクリスチャンだそうであるが、やがて姉である奥様が洗礼され、そして先生も洗礼されたのであろう。昨年、長崎県の「五島列島南北の旅」では、自然環境や歴史・民俗と共に、キリシタン弾圧の遺跡や、美しいステンドグラスなどのあるカトリック教会などに痛く感動した印象も蘇って来たものである。
  安藤先生をお見送りした後、かつて先生に案内された奈良市の二つの店に寄ってみた。一つはカトリック教会近くの海鮮の店(M)で昼食をとり、その後でアーケード通りを少し脇に入った喫茶店(A)でコーヒーを味わった。やはり奈良市のM氏が撮ってくれた先生との丹後での写真を二つの店の二人のオーナーに見せた処、先生がこの10年ほどは来られていなかったにも拘わらず、記憶して呉れていたのである。

  3月21日は教授会や大学院の会議の後、ベートーヴェン第9「合唱」で外山雄三氏や小林研一郎氏などの指揮による和歌山県民文化会館での10回の演奏会(テノールの一員として。それまでは1977、78年に外山雄三指揮で京都会館で2度)に出演するにつき、合唱の練習を指導してくれた同僚のM教授が退職されるので、職場の歓送会でそれまでのお礼の気持ちを込めて、「オー・ソレ・ミオ」をアカペラの怪しげなイタリア語で歌って差し上げた高揚が一遍に冷めてしまった。急に、かつて「日本史」の非常勤を委嘱された大阪商業大学の近くの病院(2度。会員のMさんを誘う)、大阪市内の病院、奈良県田原本町の病院(ワイフと)、奈良市の病院(会員のM君を誘う)、同市の医療老人ホーム(4、5回)にお見舞いした際の安藤先生の様子が頭に浮かんで来た。このホームでは、偶然に慰問に来られていた方の演奏するハーモニカと合わせて、「荒城の月」などを歌ったことや、仕事で来られていた方に奈良駅まで送って頂いたことも思い出された。
  安藤先生との愉快な、かつほろ苦い思い出もある「丹後の文学旅行」や、おそらく憲法・政治学研究会などの後の20数回にわたる懇親会におけるアカペラなどや、奈良市の一夕でのカラオケによる10数曲に亙る「歌合戦」は決して忘れられないことであろう。ここで先生から数曲の演歌を歌えるようになる切っ掛けを作って頂いたことも感謝したい。
 安藤先生は陸奥(みちのく)をこよなく愛しておられたが、先生の同郷で文学サークルを主宰される女性は、小生宛の便りで「安藤先生は本当は故郷に帰って来たかったのかも知れません。『関西人には成り切れない』と話されていたことが有りました」と触れておられたことも伝えておきたいと思う。

  さて、安藤先生のことについては、@後藤編『法史学の広場』安藤重雄先生古稀記念・通巻第5号(和歌山大学法史学研究会、1999年3月)を出版して、そこには町田恵一「安藤重雄先生の講義のこと」、後藤「安藤重雄先生の人・教育・学風」が収められている。拙稿では、先生の多少の業績にも触れておいた。また、A後藤編・解説『安藤重雄「海棠」等所収作品集』(和歌山大学後藤研究室刊、2000年11月)が発行されている。@は関西啄木懇話会編・刊『啄木文庫』30号(68頁、2000年)にM氏によって、Aも同誌31号(166頁、2001年1月)に紹介された。現在、この『啄木文庫』は、残念ながら廃刊となっている。大阪商業大学の紀要や商業史研究所の紀要には、管見の限りでは、先生の業績目録は見受けられない。大塩事件研究会の『大塩研究』などに期待したい。
  そこで小生は、歴史専攻の会員の皆さんのために、敢えて上記の『啄木文庫』18号(10周年記念特集号、写真入り、1990年11月)と同誌31号(創立20周年記念号、写真入り)のそれぞれの総目次から、及び小生が気が付いたそれに漏れているものから、安藤先生の作品を以下に紹介して、先生の「社会文学」を追懐することとしたいと思う。

「序言」、「特集・啄木短歌との出会い 感性的なるものへの飢え!」(2号、 1982年4月)
「啄木短歌における『常民』性」(3号、1982年11月)
「懇話会詠草:短歌」(4号、1983年4月)
「書評:『播州平野にて 内海繁文学評論集』」(5号、1983年8月)
「ふるさとの駅に立つ唯一の木碑」(9号、1985年1月)
「啄木のひろば:丸谷喜市先生十三回忌に」(11号、1986年7月)
「啄木の歌この1首」(12号、1987年2月)
「啄木研究の画期にー会発足十周年に寄せて」(18号、1990年11月)
「書評・『啄木評論の世界』を読む」(19号、1991年8月)
「門川正雄さんをしのぶ・農民文学の友 門川さんを懐う」(20号、1992年4月)
「挨拶:「横一線」でさらに活性化を」(21号、1992年12月)
「人迷わせな啄木短歌」(23号、1994年4月)
「石川啄木の『国際性』について」(25号、1995年8月)
「十五年のお祝いを意義深く」、「『違うから良いのだ』ー寛容の会の伝統を」(26号、 1996年4月)
「本・紹介と批評:「石井勉次郎『林中放話』」(27号、1997年)

 安藤先生は、関西啄木懇話会では学閥とボス支配の克服や、会則の民主的改正に意欲を示され、また会長に選出されたように懇話会の諸活動に尽力されたこ とも指摘しておきたい。 (2006.6.14)

大阪府平野屋新田会所跡・保存の新段階へ

建物は破壊されたが、発掘調査で新しい意義を確認!

平野屋新田会所を考える会

 国会でも取り上げられ国史跡指定に向けて着実に進展していた平野屋新田会所の建物群が、開発業者に破壊されたのは今年1月のことでした。その経緯は『文全協ニュース』179号に書かせていただきました。

現地説明会の開催
 その後、開発業者はその跡地で宅地開発を模索しており、それに対応するために大東市教育委員会は国の補助金を得て範囲確認のための発掘調査を5月から実施し、その成果を広く公開するために現地説明会が6月8日(日)に開催されました。当日は700人を越える参加者により大盛況で、市民の関心の高さがうかがわれます。さらに建物解体の経過を踏まえて文化庁記念物課長と担当調査官が終日現場で待機し、3名の国会議員をはじめ府会議員・市会議員が多数訪れ、前代未間の現地説明会になりました。

調査の成果
 発掘調査によって明らかになったことは、@主屋、蔵をはじめとする建物跡、庭園、船着場などの施設、会所の敷地をめぐる濠が良好に遺存していること、A建物は数度にわたる建て替えや改築が行われており、18世紀前半の会所の設置から現代にいたる変遷を把握できる可能性があること、B庭園も保存状況が良好であり、その変遷を追うことができること、の3点にまとめられます。

新しい歴史的意味
 今回の発掘調査の成果からいくつかの会所の新しい意義を確認することがでます。@会所の景観と機能の全体像が明らかになり、A今後、会所の施設の変遷が詳細に把握できれば、新田経営の歴史的な変化を解明することができます。Bそのことは大和川付替えを契機とする日本近世を代表する大開発の中心である深野池(ふこのいけ・320町歩の面積)のその後の経営の実態を明らかにすることのできる可能性があります。Cそしてこの開発が大坂の豪商に担われたものであり、新田会所が大坂商人の経営と生活の中の意味を考えることもできます。D農業生産、農業経営の遺跡として、平野屋新田会所は、新しい価値をもつに至ったのです。

国史跡指定を要望
 建物は破壊されました。しかし発掘調査によって新田開発と経営の拠点としての平野屋新田会所は、その重要性がさらに高まり、国史跡の価値は失っていないとわたしたちは考えます。現場を見た多くの市民とこのことは共有できると思います。国史跡指定に向けての運動を、ただちに再構築しなければなりません。全国の皆さんのご支援をお願いします。

平野屋新田会所を国史跡に!


平野屋新田会所を考える会
〒574-0037 大東市新町10-5 小林義孝(大阪民衆史研究会会員)方
TEL 090・3860・5200

歴史的判決で軍の強制明らか

沖縄・集団自決の悲劇

山口 哲臣

 戦時真っ唯中の師範学校で徹底した軍国主義教育を受け、最後の現役兵として十九歳で帝国陸軍に入隊した体験を持つ私は、いかに軍隊の命令、強制が絶対で有無を言わせぬ至上のものであったかを、つぶさに見聞きし実践させられてきた一人である。
  だから、国内で唯一の地上戦がおこなわれ、非戦闘員であった高齢者・女性・子どもらが多くの犠牲を強いられた沖縄戦の歴史的経過は、決して人ごとではない。同胞日本民族のいつわりのない実態であり、悲劇であったことを、まず知ることではないだろうか。
  二〇〇八年二月二十八日、大阪地裁は、沖縄戦での「集団自決」に日本軍が深くかかわつた事態を認める判決を言い渡し、旧日本軍が住民に「集団自決」を命じたという岩波新書・大江健三郎著『沖縄ノート』の記述で、名誉を傷つけられらたとして、著者大江健二郎と出版元の岩波書店を訴えたのだが、大阪地裁の判決によつて、当時の隊長等のねらいが誤りであり、元隊長らが「集団自決」に深く関与していたことは「十分に推認できる」という認識を示した。
 大江健三郎の『沖縄ノート』では主として、座間味島で百七十八人、渡嘉敷島で三百六十八人の住民が集団死した事実を、現地の生き残りや住民たちが遺していた資料をもとに、いわば生き証人の証言を正確に編集したドキュメンタリー集である。
 この「集団自決」は犠牲者住民が手榴弾を爆発させて死に臨んでいる。その手榴弾は軍の守備隊が住民に渡さなければ絶対に手に入れることのできないもの。兵隊が勝手に渡したなどの言い訳は、旧日本軍の厳しい軍律を知る著者など想像すら出来ないウソと言えよう。
 元隊長らが起こしたこの裁判のねらいは、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦」問題で日本軍の強制した証拠はない、など侵略戦争を美化し、軍の蛮行を正当化する動向と同じ類の、歴史の敗北者の玩弄でしかない。
 昨年文部科学省は、この裁判原告の主張を理由に、高校教科書から、旧軍隊が「集団自決」を命令・強制したという文言を削除してしまった。彼らも歴史的敗北者の道を歩み続けている。

児玉花外作詞・小諸商業学校校歌について

後藤 正人

  はじめに
 児玉花外 (1874 -1943年) の作詞になる校歌は、原作詞者として明治大学校歌 「白雲なびく」など、若干は知られている。ここではあまり知られていない花外作詞になる 小諸商業学校 (現長野県立小諸商業高等学校)の校歌を紹介・検討し、同校歌をより深 く理解するために、作曲家・岡野貞一をめぐっても紹介・検討しておきたい。なお、同 校校歌の制定は1923 年(大正12)年10月、同校の前身は島崎藤村も教師を務めた小諸義塾である。

   (1) 小諸商業学校校歌の歌詞
 イギリスの大詩人・バーンズやウィリアム・モリスに譬えられ児玉花外は日本最初の 本格的な社会主義詩人であり、大塩中齋なども歌い、中齋を随筆にも残したことはすで に紹介・検討したことがある (後藤 「児玉花外『社会主義詩集と』大塩中齋顕彰―社 的ロマン派詩人の思想と行動」『立命館大学人文科学研究所紀要』70号、1998年)。
 小諸商業高校の校歌は次のとおりである。

   1  古城の月に照らしみる  小諸商史の輝きは
     代々の栄えを重ねつゝ  花とも匂う堅実の
     美徳囲むる吾等こそ  尚も光らん亀鑑なれ
   2  浅間烏帽子の意気を負い 力に燃ゆる若人に
    秀づ蓼科八ケ岳  いなづま映る千曲川
    道をたまわず進みたる  偉人の跡を教えずや
   3  雲のとばりの紫に  日本アルプス神の威の
    希望の影を遠くひき  積る文化の雪深く
    星を飾れる駒草が  高き理想に導かん

 花外が文化の役割を優れた言葉で歌った校歌は、徳育的なことがないばかりか、北信 の自然と文化の香りが調和して絶妙な気分を漂わせている一大傑作である。戦前の歌詞 でありながら、もちろん現在も花外作詞の校歌として愛唱されている。このことは花外 作詩の青森県法奥小学校の校歌と同じように、歌詞の持っている普遍的な優れた内容に 拠っているからである(後藤『歴史・文芸・教育―自由・平等・友愛の復権』和歌山大学法史学研究会、2005年)。
 花外が、大詩人のみならず、朗吟家であり、随筆家であり、歴史小説家でもあったこ とは、研究してみると初めて判明することであるが、歌詞の素晴らしさはこうした花外 の持っている諸要素が然らしめた結果であると考えられる。 作詞者としての花外の校歌では、原作詞の 「白雲なびく」(明治大学校歌)は余りにも有名であるが、これまでは青森県南部地方の小学校校歌や旧制中学校の祝歌が紹介されているにすぎない (前掲後藤『歴史、文芸、教育』)。

  (2) 小諸商業学校校歌の作曲家・岡野貞一をめぐって
  作曲者の岡野貞一(1878 ―1941年)は現鳥取市古市の生まれで、東京音楽学校教授 を務めつつ、文部省の教科書編纂に当たった。岡野は、作詞者の高野辰之とのコンビで、 馴染み深い名曲 「故郷」、「朧月夜」、「春の小川」や「紅葉」などを作曲した。また岡野は多くの学校校歌を作曲したことでも知られている。なお末見であるが、鈴木恵一『岡野貞一とその名曲』日刊、2005年) があるという。
  高野辰之(1876―1947年)は、現長野県中野市生まれの国学者で、1909年(明治42) に文部省の小学唱歌編纂委員に委嘱された。翌 1910 年には東京音楽学校 (現東京芸術 大学)教授、その後に文学博士、著書『日本歌謡史』・『日本歌詩集成』・『近松門左衛門全集』などがある。ちなみに長野県下水内郡豊田付永江には 「高野辰之記念館」があるという。
  小諸商業学校校歌の曲調は、音楽教室の同僚にお願いした演奏テープをじっと聴いて みると、文部省唱歌 「われは海の子」と少なからず共通点があるよぅに私には考えられる。なお、この演奏では行進曲としても魅力ある内容を有していた。
 さて「われは海の子」の初出は1910年(明治43)で、作曲者が不詳となっているが、 先の岡野貞一が関わっていたことは研究者に知られている。岡野は、「われば海の子」 の作曲について、指導的な役割を果たしたのではなかろうか。
  宮原晃一の歌詞 「われは海の子」は実に7 番まであり、5 番以降は軍国主義的な内容も含まれるために、省略されることも多い。宮原は現鹿児島市の出身で、同市内にある祇園之洲公園には「われは海の子」の詩碑があるという(『ザライ』13号付録、2006 年)。 ただし同冊子では、宮原晃一郎となっているが、晃一が正しい。
  なお鮫島潤「甲突川の思い出(3) ―天保山の周辺から(2)」(『鹿児島市医報』43巻 10 号、2004 年)によれば、宮原晃一は1872 年 (明治5)に薩摩藩士の子として加治屋町 に出生、後に北海道の「小樽で新聞記者をしていたが郷里鹿児島の天保山の海辺の美し さが忘れられず作詞して文部省の懸賞に出し文部省唱歌に当選したのである」という。
また「さわぐいそべの松原」も現在は面影がなく、「煙たなびくとまやこそ」の煙は当 時塩屋町 (現在は甲突町)の塩田で塩を炊く煙であり、それを裏付ける塩釜神社が現存 するが、その海辺情緒も失われてしまっているとのことである。祇園之洲は、広大な錦 江湾と秀麗な桜島を完全に見渡せる唯一の場所であるという。

   むすびに
  児玉花外作詞の 「小諸商業高校佼歌」を多少検討していくうちに、種々の事柄が見え てきた。小諸義塾は、かつて拙稿「信州小諸における馬場辰猪と木下尚江との遊説活動」 (本誌68号、2000年)で扱ったことがあるが、本校校歌の背景には多くの観念が内包 されていることが判明した。これからも花外作詞の校歌の掘り起こしの仕事にも精を出 していきたいと考えている。

「回顧と展望」について

尾川 昌法

 「回顧と展望」は年末年始の恒例である。マスコミが政治、経済、文芸、論壇などの分野別に特集するだけでなく、職場の同僚や友人との忘年会や新年会でも「いろいろありましたが、新年もよろしく」と回顧と展望が挨拶される。過去を振り返り当面する問題をうまく解決したいと願う人間の知恵の産物であり、おそらく人類の新年行事とともに古い貫例であろう。過去を歴史と意識する原点であるといえる力もしれない。
旧西ドイツのウ゛ァイツゼッカー大統領がドイツ敗戦40周年に連邦議会でした有名な演説の一節、「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも目を閉ざす」、 ということばはこの歴史意識の原点を言い当てている。
 歴史意識は、しかしまだ歴史学ではない。歴史学が成立するのは歴史における「発展」に気付いてからである。 何が発展したか、発展はどのようにして起こったか、どんな尺度ではかれるのか。そこに生まれた多くの歴史観の違いをこえて、「実事求是」は歴史学の基本的方法となった。 「実事求是」は事実の羅列ではなくことの真相を求め尋ねることである。多くの事実をふまえて歴史の流れ向かう本流を探究しなければならない。私たちは2007年に何を見た か。
 2007年の歴史で最も強く記憶に残るいくつかの事実がある。日本史教科書から日本軍が集団自決を強制した記述を削除したことが明らかになったのは3月であった 安倍晋三内閣は、前年暮れに教育基本法改悪を強行し、なおも「戦後レジームからの脱却」を呼号していた。沖縄の県議会をはじめ41市町村議会のすべてが次々と検定意見 の撤回と記述の回復を求める意見書を可決して文部科学省に提出した。7月の参議院選挙で自民党は大敗し、安倍晋三内閣は9月、臨時国会の論戦を前に突如として 辞職、福田康夫内閣に代わつたその9月、11万人の沖縄県民大会が検定意見の撤回を要求して開かれた。復古主義的「改革」路線に反対し、歴史的事実の歪曲を許さず、 立憲主義、民主主義を求める人民の意志を表明するものであった。
 国外では、旧日本軍の従軍慰安婦、性的奴隷強制について日本政府の公式謝罪を求める決議があいついでいた。 7月にアメリカ下院本会議で採択、11月にオランダとカナダの下院で、12月にはEUの欧州議会が、同様に公式謝罪と歴史事実の国民教育を求める決議を採択蟄ぼ音本政府の 国際的孤立状態を示したばかりでなく、人権の尊重や歴史的事実の歪由を許さない、という世界の世論を示すものであった。人権理念の世界的水準は、9月に国連総会が 「先住民の権利宣言」を圧倒的多数で採択したことにもあらわれている。70か国に3億7000万人をこえると見られている先住民の権利について、個人的権利とともに 「民族として必要な発展にとって欠かせない集団としての権利」を明記した画期的な宣言である。
 日本でも世界でも、歴史の歪曲を許さず、人権と民主主義を要求する 人類の意志が示されている、と言えるだろう。これが歴史の流れ向かう本流ではないか、と思う。歴史の発展をはかる尺度となる民主主義の深化・拡大の歴史は、 もちろん数十年、数世紀の長い時間の中で検証されなければならない。それが私の今年もつづく歴史へのまなざしであり関心事である。

坂口喜一郎・鶴彬・大阪商大事件の節目の年

柳河瀬 精

 2008年は、三・一五大弾圧80周年、小林多喜二虐殺75周年、坂口喜一郎虐殺75周年、鶴彬没後70周年、大阪商大事件65周年などの節目の年となります。
  坂口喜一郎は和泉市黒鳥出身で、呉海兵団に志願し、プロレタリア文学の読書から社会科学を学ぶようになり、31年治安維持法違反で検挙され海軍刑務所に収容、 不起訴のまま帰郷を命じられますが、そのまま呉で仲間とともに海軍内に日本共産党の組織確立を図つて活動、機関紙「聟ゆるマスト」を発行しました。党の指示で横須賀中心に活動中、33年11月東京で検挙され、広島刑務所へ送られます。未決のまま獄中で虐待のため同年12月27日獄死しました。黒鳥には顕彰碑が建てられています。
 いま呉に 「聳ゆるマスト」顕彰碑の建設計画があり、07年11月、募金活動をすすめるためのビデオ作りのため、呉から建設委員会の人たちがこられて、黒鳥の顕彰碑や坂口家の墓地を 撮影、坂口家の遺族や、顕彰碑建設の関係者などと交流されました。呉の運動にも呼応して、黒鳥での碑前祭を没後75周年の節目に行わなければならないと考えています。
  鶴彬(本名喜多一二)は石川県河北郡高松町(現かほく市)出身で、15才ころから川柳を始め、18才で大阪の町工場の労働者になったころから階級意識に目覚めプロレタリア川柳 を主唱するようになります。徴兵により金沢第7連隊に入営、隊内における活動が発覚、軍法会議で懲役2年の判決を受け大阪衛成監獄(陸軍刑務所)に収監されます。出獄後、 川柳・評論を発表していましたが、37年特高警察によつて治安維持法違反で検挙され、東京。中野区の警察署に留置中、赤痢に罹患するが放置され病状が悪イヒし、釈放されないまま豊多摩病院へ移されますが、38年9月、29才の生涯を閉じました。
 鶴彬の句碑は、故郷に「枯れ草よ団結をして春を待つ」、金沢市内に「暁を抱いて闇にゐる蕾」、盛岡市に「手と足をもいだ丸太にしてかへし」がすでにありますが、大阪衛成監獄跡にも句碑を建立する運動がすすみ、08年秋にも除幕できることになつています。
  戦争たけなわの43年3月から45年1月の間、大阪市立大学の前身、大阪商科大学の教員、学生ら約100人が治安維持法違反で検挙されたのが大阪商大事件です。半数近くの人た ちが45年10月6日前後の釈放にいたるまで、各警察署留置場、大阪拘置所、大阪刑務所で拘束されていました。実刑判決を受けたのは3名、40数名が未決のまま拘留され 、はげしい拷問と虐待のなかで獄死者3名、発狂者3名、釈放後の病死者数名あります。
 上林貞治郎『大阪商大事件の真相』(1986年。日本機関誌出版センター)は事件の概要を ご自身の体験の含めて詳しく明らかにされています。
 事件の関係者の中にはまだお元気でおられる方もいらつしやいます。65周年という節目の機会に、関係者から直接事件を 語つていただく機会を作り、あらためて事件のことを広く知らせていきたいと企画検討中です。
 08年に迎える坂口喜一郎、鶴彬、大阪商大事件の節目に、ともに先覚者たちを しのび、学びあえるようにお願いいたします。

 2007年資料

関東大震災に遭った穂積陳重

一和歌山大学附属図書館 「脇村文庫」から一

後藤 正人

(1)はじめに
 1923年 (大正12)9月1日に勃発した関東大震災は、死者不明14万人余り、全壊焼失57万余戸の大災害を引き起こした。たとえば生方敏郎「明治大正見聞史」(中公文庫、1978年)によれば、関東大震災の戒厳令に接した大ジャーナリストの見聞した厳しい人権状況が詳細に描かれている。とりわけ山崎今朝弥「地震,憲兵・火事・巡査」(岩波文庫、1982年)によれば、流言蜚語が流され、殺された朝鮮人の数は司法当局の取り敢えずの発表によると1O00人、同じく殺された南葛労働者は1000人あるいは2000人とも指摘されている。朝鮮人で命からがら上海に帰ったものは1万人近いという。
 東京大学明治新聞雑誌文庫の室長・宮武外骨が指摘していたように、一方では日本の旧民法典や明治民法典の作成に参画した磯部四郎 (1851一 l923年)がこの大震災の犠牲者となっていた (村上一博編「磯部四郎論文選集一日本近代法学の巨肇」信山社、2005年)。
 他方では、家制度が緩やかであった旧民法典の施行に反対した東大教授・穂積陳重 (1856一1926年)は神奈川県の葉山にある別荘で大震災に遭っていた。果たして、関東大震災に直面した陳重は如何に振舞ったのであろうか。
  かつて私は、従来殆んど見過ごされていた 1889年 (明治22)夏に西日本を襲った大水害 (及び地震)をめぐる状況と原因論を多少検討したことがあり、それが戦後の風水害の対策に余り生かされていないよぅに感じていた。 現在、地震の防災面に関するハード面の対策の重要性は指摘されるようになったが、大地震に直面する人々の精神面への対策や、被災後における精神面のケアーへの国家・地方自治体の対策は忘却されてはならない今日的な課題である。 大地震の実感について、近年には後藤編・解説「甲南大学生の阪神淡路大地震被災報告」(増訂第2版、和歌山大学後藤研究室刊、2007年)などがあるが、陳重の 「震災直後の書簡」は大学者の 「大地震の実感」を示すものとして有益な資料といえよう。

(2)大地震直後における陳重の重遠宛書簡
  この陳重の書簡とは、大震災中に葉山にいた陳重が東京にあった息子・重遠の派遣した牛込の八百屋の若者 (自転車で駆けつけた)に託した重遠宛の私信である。
 この臨場感ある書簡は、穂積重遠「父を語る」(自刊・東京市牛込区払方町9番、1929年[昭和4]4月8日付)に所収されてある。本書は、陳重没後3周年に際して、東大教授・穂積重遠(私法学者)が日本評論社の「経済往来」(1928年10月号以下)に連載した随筆を改稿して、親戚故旧に頒布した特別の作品である。陳重が、神伝流泳法の達人であったこと、ローマ字やエスペラント語(世界共通語)にも同情を持っていたことや、校正の赤ペンをもって臨終を迎えたことなども興味深いものがある。
  原文は旧漢字や旧仮名遣いであるが、当用漢字と現代仮名遣いに直した。また本文では敬称はすべて割愛してある。読者におかれては、諒とされたい。 ちなみに、本書は重遠が寄贈した神保氏(後考を待ちたい)を通じて、やはり東大教授の脇村義太郎(現和歌山県田辺市出身、1900一1997年)が入手したものである。現在は和歌山大学附属図書館の「脇村文庫」に所蔵されている。かつて「教授会クループ事件」で人権抑圧に遭ったこともある脇村義太郎の蔵書が、一部ではあれ、なぜ当大学附属図書館に所蔵されるようになったのか。そこには脇村の弟子たちの中から当大学の経済学部のスタッフとなった教員がかつて存在したことも、その重要な理由の一つであるよぅに思われる。
 ・・・昼食の為め別荘に帰り、縁側へ上るとたんに、突然身体が投げ出される様な心持がしたから、思わず側の柱をつかまえ体を支えると用げ瞬間に、空中に異様の響が聞こえ、体は激しく左右にふられて倒れんとするから、堅く柱をつかみ体を支えると、まさ(女中)は泣きながら足にしゃがみつき、いね(女中)は其側に倒れて、両人共悲鳴を挙げて、「旦那様どうしましょう」と泣声を出す。家屋のゆれる音すさまじく、戸障子倒れ、諸道具の倒れる音、棚より物の落ちる音、ガラス戸のこわれる音すさまじく、壁は落ちて土煙を立て、室内暗し、屋根より瓦なだれ落ち、あぶなくて戸外に逃れることが出来ぬから、声を励して「まだ逃げ出してはいけん」「大丈夫だから落ついて居れ」と叫び、はり(梁・・・引用者)の墜落を恐れて上を見れば、電燈球時計の下げ振りの如く南北に動いて殆んど天井を打たんとす。何分程であったかはっきりわからぬが、震動が梢々静になって庭の方の屋根より瓦が落ちぬ様になってから、三人とも庭に飛び降り、松の木をつかまえて静止を待つ。・・・地面三四尺づつの縞の如く大なる縦裂を為し、どろ水を吹き出して居る。・・・

(3)若干の解説
 この書簡によれば、強烈な地震に遭遇した陳重は、幸運にも側にあった柱を必死の思いで掴み、女中の一人に吾が足をしがみつかれ、女中たちの悲鳴や泣き声の中で、女中たちを指揮して沈着に振舞ったように思われる。また、この重遠の本書によれば、陳重の別荘の隣家といってよい所に男爵・松岡康毅の別荘があり、彼はここで圧死、女中が重傷であったことも伝えている。これらを拝読した私には、「日木法史」などの非常勤講師を委嘱されていた甲南大学が1995年1月17日に阪神淡路大地震に遭遇した際に、学生たちの80枚の被災レポートを読んだことと二重写しになって見えてくる。ちなみに熊谷 (開作)文庫内の穂積陳重著書の隣り合わせに「松岡康毅伝」が並んでいたことは奇遇であった。
  さて家族を全て東京に帰していた時に大地震に見舞われた陳重は、この時67歳ほどであった。それにしても数歳若輩の私は陳重のような沈着な行動が取れるであろうか、甚だ疑問である。一方で陳重は息子・重遠に余り心配をかけるようなことを叙述しなかったかもしれないし、他方の重遠も差障りのある内容があったとしても公表を避けたことであろう。当時としては老境に入りつつあった陳重には、この関東大震災は精神的に大きな意味を持ったのではないであろうか。

[関連文献]
後藤「権利の法社会史一近代国家と民衆運動」第4章「l9世紀のヒューマニズムと自然環境論一l889年大水害の森林濫伐原因論」(法律文化社、1993年)
脇村義太郎「わが故郷田辺と学問」岩波書店、l998年
後藤「平和・人権・教育」第4章「戦後変革期における大学職組一和歌山大学教職員組合をめぐって」(宇治書店、2005年)

村嶋歸之のまなざし

木村 和世

1 村嶋歸之をめぐる人々

 村嶋歸之と言っても、その名前を知っている人は少ない。最近でこそ、何人かの研究者がとりあげるようになったが、研究を始めた20年ほど前は、労働運動史のなかのごく一部分でその名前がとりあげられるぐらいであった。
村嶋は1891年11月20日、奈良県で生まれ、1965年1月13日、73歳でなくなった。村嶋は子どものころは豊かな環境で育ったと言ってよい。父・滝口歸一は式上、式下、宇陀、十市の4つの郡の郡長となり、その後、衆議院議員を務めている。彼の社会に対する関心は父の影響もあったのであろう。早稲田大学に進むと同時にさまざまな社会問題への関心をあらわにしている。この学生時代がのちの村嶋の思想のべ一スを形作っていたと考えられる。
 早稲田を卒業する直前に彼は母の実家の村嶋姓を継いだ。村嶋とはどのような人物かと問われたら、彼を表わすさまざまな名称が飛び出す。新聞記者、犯罪学者、社会学者、労働運動家、キリスト者、教育者、社会事業家。そしてさらに彼の特徴を示すものとして盛り場や路地裏のルポルタージュがある。 村嶋は大正期の関西の労働運動を牽引した一人であったが、彼の行動の根底をなしていたものは大阪毎日新聞記者としての自覚と誇り、ヒューマニズムであった。彼のまわりをとりまくきらびやかな人物群にも目を奪われる。関一、本山彦一、小河滋次郎、松岡駒吉、西尾末広、森戸辰男、馬島|、野坂鐵 (参三)、志賀志那人、さらに常に行動をともにした賀川豊彦、久留弘三らがあげられる。
 このなかでも賀川、久留とは労働運動を通して密接な関係を築いていた。のちに村嶋がキリスト教徒になってからは、賀川と生涯行動をともにしている。そして彼の行動を見るとき、忘れてならないのは、村嶋が学生時代に罹った結核であろう。この病気とともに彼は波乱に満ちた人生を歩んでいくことになる。彼が大阪毎日新聞に入社したのは 1915年である。1915年というと第一次世界大戦 (1914〜1918年)がおこった翌年であり、大阪には街路樹をもつ最初のメイン・ストリ一トとして堺筋ができあがり、三越 (1917年)、白木屋 (1921年)、高島屋 (1922年)・松坂屋 (1925年)がつぎつぎに開業していた時代だった。そして繁栄の表通りから隠れた路地裏にもうひとつの賛困に満ちた社会や喧騒にあふれた盛り場があった。 また、この年は東京で労働者の親睦、共済、修養を目的として鈴木文治によって結成された友愛会の大阪支部が北区に会員6O人で結成された年でもあった。
 新聞記者として村嶋が名をあげたのは同新聞1917年2月から3月にかけて連載された「ドン底生活」(1回〜24回)であったと言える。この下層社会をとりあげた記事から、「ドンちゃん」の愛称で呼はれていくのだが、社内では長くこの話が伝えられていたようである。「毎日新聞百年史」(1972年)でも項目を設け、村嶋についての記述をしている。

2 大正デモクラシーの高まりと新聞社

 1916年7月、「朝日新聞」には河上肇が「貧乏物語」を連載していた。それは大きな高まりを見せた大正デモクラシーの波が社会問題にも目をむけはじめたことを示していた。それを追かけるかのように「大阪毎日新聞」に連載されたのである。村嶋はこれに続いて「ドン底通信」(1917年2月 14回連載)、「見よ!!このダークサイドを」(1918年1月 10回連載)を発表した。
 河上肇がヨーロッパの賀困を取り上げたのに対し、村嶋は日本の、しかも大阪や神戸の貧困を取り上げた。これは多くの都市の中問層をひきつけていった。 村嶋がこれほど自在に連載を続けられたのは時代の要請に基づいて紙面を構成していこうとする新聞社の姿勢があったといえる。「大阪毎日新聞」に大きな影響力をもった人物として第5代社長・本山彦一がいる。彼の 「新聞商品主義」は広く知られている。1910年の大阪毎日編集者会議の席上で本山は新聞の販売部数拡大のためには 「俗耳に入り易いといふ心がけと、いまひとつは人気に投ずるといふものがなくてはならぬ」(「松陰本山彦一」大阪毎日新聞社 1937年) と述べている。村嶋の 「ドン底生活」に始まる一連のシリーズはこうした読者の社会問題への関心の高まりに応じた大阪毎日新聞仕の姿勢にあったといえよう。こうして彼が社内で立場を確固たるものにしていったころ、神戸では東京から久留弘三が友愛会の活動を拡げるためにやってきた。また、賀川豊彦も神戸新開地で路傍伝道を行い、新川に住み、救済活動を続けていた。
神戸で村嶋は 「ドン底生活」を書いた記者としてだけではなく、労働運動に積極的に参加する記者として登場する。村嶋と労働運動との接近により、大阪毎日新聞紙上にはいち早く、労働運動のニュースが掲載されるようになった。村嶋だけでなく、このころには何人かの記者は労働問題講演会の壇上に立ち、熱弁をふるうようになった。 新聞社と労働運動の蜜月時代である。
 1919年4月20日、大阪聯合会、神戸聯合会、京都聯合会三者による友愛会関西労働同盟会の記念講演会が大阪中央公会堂で開催された。労働者たちは、聯合会旗、支部旗が翻るなか、「目覚めよ、日本の労働者」の労働歌を歌いながら行進をした。「大阪朝日新聞万歳」「大阪毎日新聞万歳」と万歳を三唱しながら進んだ。公会堂では 「陛下万歳1、「友愛会万歳」を叫んだ (「労働者新聞」5月15日付)。このとき、村嶋28歳、またのちに戦前最大の争議と言われた三菱・川崎造船所争議団の指導部となった久留は27歳、賀川は31歳であった。非常に若い情熱が彼らを結び付けていたと言える。
 村嶋は社内ではすでに労働記者としての立場を確立していたが、その考えを署名入りの記事を掲載することにより立場を明白にしていったのは1919年9月15日、川崎造船所1万6000人の労働者が賃金値上げを要求してサ大阪民衆史研究サポタージュ闘争が行われたときであった。村嶋はこの争議に密接にかかわり、みずからも著書でこのサボタージュという戦術を教えたのは自分であると述べている 「(犬馬鹿三太郎の生涯)1991年」。「大阪毎日」もこの争議を大々的に取り上げた。村嶋の決意表明ともとれる署名の入った記事 「川崎造船所労働争議委員諸君に興ふる書一新聞記者の立場から一」(「労働者新聞」10月20日付)は、すべての労働者へのエールであった。彼はこのなかで、サボタージュが工場民主、普通選挙、運動の蓄積を労働者にもたらし、さらにサボタージュ続行か放棄か、同盟罷業かという選択を労働者自身の手で行ったということが普通選挙につながるものとして高く評価した。

3 運動の過激化

 賛困を背景とした社会が争議の後ろにはあった。1921年になると新聞記事には 「労働不安」、「生活不安」という言葉が頻繁に出てくるようになった。このころ争議は次第に過激化していった。大阪では大阪電燈株式会社、藤永田造船所争議が起こった。
 しかし、このころの紙面をみると、労働争議が続行している6月9日には 「公開映写を開始せる/東宮殿下御映画」のニュースが大々的に報じられていた。これは皇太子英国訪問の活動写真二ュ一スが公開されたことを報じたものであり、東京の日比谷公園では8日午後7時からおよそ13万人の観衆を集め上映されたと報じていた。この前日、藤永田造船所争議をめぐって友愛会は同情罷業の傲文一万杖を西区など大工場の密集する場所で配布していた。
10日には西尾末広、松岡駒吉などが検挙されたが、新聞は連日、「東宮の御英姿」を報道していた。18日になると、労働者のなかの強硬派が「最早穏健ナル運動ハ何等効ナキヲ知レリ決死の覚悟ヲ以テ最後ノ手段二訴へ直接行動二出ツルノ外ナシ」という過激な発言をしていくよぅになる。19日には職工服に梶棒という姿で武装した労働者の姿が報告され、労働者の妻たちは一隊をつくり工場主の自宅を訪問陳情するなどもはや家族をまきこんだ様相が示されていった。労働者1000人は「手にした梶棒、仕込み杖、木剣、金棒の類を揮って警官隊と入り乱れ肉の響き、血の呻きは随所に起こり全く修羅場を現出した」(「大阪毎日」6月19日)という状況になった。
 ここにいたって、争議はようやく報道され世間の注目を集めるようになった。こうした一連の報道から新聞社の労働運動に対する姿勢に対する変化の出ていることが見てとれる。村嶋はこのとき病気で臥せっている。こうした労働運動の過激化はこれまで運動の支援をしていた知識人層の一部の離反をうながした。この大電争議、藤永田争議のあとに続くのが三菱・川崎造船所争議であつた。これには賀川、久留が深く関わった。争議のきっかけは工場に勤務する労働者にほかの労働組合に加入する自由を会社側に求めるものであった。会社側からは労働者が組合をつくるのは自由だが、組合を認めることはできないという回答が返ってきた。会社側は交渉に現われる労働者を容赦なく馘首していった。
やがて6日に開かれた不当解雇糾弾の演説会には20O0人の労働者が参加した(「大阪毎日」7月7日付)。こうして戦前最大規模の争議はその発端をひらいていく。
 病気で臥せっている村嶋の自宅には頻繁に労働運動の幹部の出入りが見られるようになった 。 村嶋の思想と行動を見る場合、どうしても、この時期の労働運動に触れなければならない。実際に彼は労働者の小さな集まりにも参加し、行動をともにしている。村嶋の記事はそうした労働者からの聞き取りを行いながら、実際に足で収集したものに豊富な統計資料を裏打ちしたものであったといえる。
 7月8日三菱・川崎争議は、京阪神一帯から応援が集まり、労働者の数は3万7000人から4万人に及んだといわれる。これに対する当局の弾圧は苛烈をきわめ、最高幹部である久留、賀川を含め労働者を指揮していたと思われるものは片っ端から検挙された。8月12日、三菱・川崎罷業団は 「惨敗宣言」を出し、戦前最大規模の争議は終わった。

4 路地裏から

 争議のあと、分裂を重ねる労働運動から、次第に村嶋は遠ざかっていく。そして彼がふたたび帰ってきたのは、彼の記者生活の出発点ともいえる路地裏の世界だった。そこには変わらない彼のまなざしがあった。
「ドン底生活」から8年たって発表された「自由労働者の手記」(「労働文化」1925年)のなかで村嶋は大阪の新世界を描いている。新世界にはすでに 「電光」が輝いていた。輝きは以前より増しているのに、その下に拡がる世界は混沌としていた。「居酒屋から漏れ出る濁み声・・・此処数丁のドン底街には、明状し難い、ドス黒い雰囲気が漂う」(同上書)。 しかし、路地裏の悲惨を描くだけではなく、たぴたぴ彼のルポルタージュを色どるのは大阪や神戸の盛り場の風景であった。笑いや苦しみ、侮蔑などの感情を鮮やかに織りなしながら、社会の実相に迫っていく。
三菱・川崎造船所争議のあと、村嶋は「わが新開地 (顕微鏡的研究U)」(神戸文化書院 1922年)を発表する。このなかでも村嶋はデーターを駆使して論を展開する。そして数字にあらわされない色、臭い、手で触った感触までも文章のなかにちりばめていく。歓楽や工ロスという言葉で読者の興味を惹きつけながら、そこに住む人々の生活を取り上げていくのも村嶋の手法であった。
 本書の「序」で賀川豊彦は「あなたが如何に人問らしい人問であって、社会のドン底に流れる濁流にも猶救はる可き或る秘密の鍵のあることを教えてくれる立派な研究」と称えた。「秘密の鍵」とは統制されない庶民のエネルギーであった。村嶋はこうした希望やエネルギーを庶民の娯楽のなかにも見ている。彼は漫オを取り上げ、「安価な平俗な社会主義言動でもつて非常に観客をよろこぱせてゐる」(「道頓堀の考現学的研究」「雲の柱」第10巻第1号 1931年)と述べた。
 彼の姿勢の基本をなしているのは新聞人としての強烈な自己認識であり、労働運動への関心もそこから出発している。彼のルポルタージュは庶民の日常生活を等身大に描くことからはじまり、それを新聞紙上に発表することにより「社会悪の報告者」としての自己をつらぬいたといえる。

(木村和世氏の著書「路地裏の社会史」は「リンク集」のページで「神戸新聞」のサイトから紹介しています)

2007年9月30日掲載

中国江南の道教を訪ねる旅

林 耕二

 二宮一郎氏、A氏(都合により匿名)と私の3名で8月14日〜19日の間、江南の旧都(南宋の首都 臨安)杭州を中心に道教の寺院である道観を訪ね、道士の聞き取り調査を行った。 目的は現在和泉市周辺の有志を中心に続けている「信太伝承研究会」の1テーマである陰陽道のルーツを探ることであった。そのほかに、7000年前の稲作遺跡である河姆渡(かぼと)遺跡、寧波市、紹興市などを訪ねた。 今回は、道士の聞き取り調査のあらましを紹介する。

現地の道教研究者と合流

 上海空港に午後5時頃(現地時間)降り立ち、杭州市行きの長距離バスに乗り換え、高速道路を一路杭州に向かった。バスは運転手から車掌までどうやら一家で運営しているらしい。中国的な特色のある請負制度による商売らしい(上海〜杭州間104元=約1560円)。
 関空を出発して約7時間後、午後9時近く浙江大学経営のホテルに到着すると、同大学の研究者が一同で出迎えてくれた。地元の錚々たる研究者が顔を揃えているので恐縮した。民俗学者で浙江大学人文学院教授の呂洪年氏、同大学非物質文化遺産研究センター主任教授の頼金良氏、 浙江大学道教文化研究センター主任の孔令宏教授(彼は孔子の76代目ということを後に伺った)、そして大学院生の倪さんである。浙江大学は中国有数の、また最大規模の大学である。

経済と文化の中心地江南

西湖風景

 杭州市は、9世紀五代十国の呉越の首都となり、1129年漢民族の宋が女真族の金の圧迫で長江以南に南遷して南宋を建国、都(臨安)を置いたところである。以後長江流域の米作や茶の生産など江南地方の開発がすすみ、中国経済の中心が華北から江南地方に移った。
 景徳珍の陶器生産や商業貿易も活発となり、 臨安のほかにも寧波、泉州、広州など長江下流の沿海都市が貿易港として発展し、日本やイスラムの商人も往来することとなった。その流れは現在の社会主義市場経済の中心地域となって引き継がれている。
 市内には、宋の時代から喫茶の習慣の流行と商取引の場などに利用されて盛んとなった茶館など喫茶店の元祖が、今も清朝の頃の店の体裁を残して繁盛している。清朝最大領土を実現した乾隆帝が通ったという料理店が今も現存する。経済的に豊かな地域の伝統を街を歩いていて感じた。市の西側には中国屈指の観光地西湖があり、 街全体にうるおいと洗練された情緒をもたらしている(写真1)。南に銭塘江(せんとうこう)が流れている。この河は年に一度河口から水が逆流する不思議な現象でよく知られている。

道教について

 翌日2つの道観を訪ねた。道観は道教の寺院である。最初は玉皇山福星観(ぎょくこうざんふくせいかん)という道観を訪ねた。杭州市の南にある玉皇山という丘の上にある。 道教は中国固有の宗教で、老荘の思想、不老不死の神仙思想、シャーマニズム、民間のさまざまな信仰、陰陽五行思想、易経などのさまざまな信仰、思想、哲学が混じ りあって成立した。後漢末(3世紀)の太平道や五斗米道を源流とし、北魏(5世紀)の寇謙之(こうけんし)が国家的宗教として教団をつくり、以後広く普及するようになった。

青年実業家が道教に入ったきっかけ

福星観の道士

 34歳の男性道士の聞き取りを行った。現代的な風貌の好青年で、カンフー映画に出てくるような道士の衣装と髷がなかなか似合っている(写真2)。彼はもと上海でパソコン関係の会社を経営していたが、 ストレスなどで体調を崩し、太極拳や気功術で体を鍛えている内に、その効果に驚き、道教に関心を持ったと話してくれた。結局26歳の時に出家してこの道観に入ったという。流派は全真竜門派である。
士の日常の仕事は、個人の修養、信者の相談活動、法事(主に葬儀)、芸術活動などをおこなうという。

「気」ということ

 私たちが、日本の陰陽道との関わりで道教の調査をしていると言うと、陰陽道という言葉には親しみがわくと答えた。氏の説明では、日本の陰陽道にみられるような迷信的なことは原始道教にみられるが、 現在は医療においても漢方など科学的な面を追求しているという。また、一方でその教義と実践の中心には「気」ということが重視されていて、葬儀においては遺体にしばらく残っている気が「邪気」 とならないようにこれを「超度」する(はらう)ための祭祀を行うこと、また生きている人の悩みの相談では楽天的な方向へもってゆくことなどカウンセリングに似ていると思った。
自然の災害の原因も、 自然の大きな気の流れがぶつかりあって起こるという解釈であった。道教の実践は、この「気」の流れをとらえ、コントロールすることにあると思われる。

文化大革命の傷跡から立ち直る中国道教界

 今度の聞き取りで感じた特徴的なことは、文化大革命による破壊の傷跡がなお残っていることである。文革の時には道観がほとんど破壊され、今その復興につとめている最中という。孔氏(浙江大学)の話では、全国で破壊が行われたが浙江省はまだましであったとのことである。その理由は、こ の地域の文化的な基礎にあり、文化財の価値を理解する人が多かったことによるという。

「抱朴子」の道観

抱撲道院

 次に訪ねた抱樸道院は、道教の教典「抱朴子(ほうぼくし)」で知られる葛洪(かっこう)を祀る道観であり、晋の武帝の時代(3世紀)に建てられたという。杭州市の西にある西湖の北に隣接した丘の上にある。黄色い門を入ると木々の緑の間を長い石段が続く。石段を登りきった所に不老不死の薬“練丹” を作ったという装置(模型)が色鮮やかに彩色されて置かれている。
門をくぐると正面壁に道の字が。鮮やかな朱色に染められた堂の奥には極彩色の祭壇と神像が置かれている(写真3)。
しばらくすると堂の中から笛の音が聞こえてきた。日本の横笛よりやや太めの音である。 女性道士が笛の練習をしているという。
道観では女性の道士が行う主なことに楽器の練習がある。笛、二胡、琴、太鼓、鉦などを法事の際などに演奏するという。

日本軍の侵略暴行から市民を守った道観

高信一氏の写真

 冷房の効いた事務所のような所で、中国道教協会常務理事副秘書長の役職にある高信一氏のお話をうかがった(写真4)。
氏は1939年に、6歳の頃父親と一緒に道観へ入 った。戦時中は、日本軍が杭州市を占領し、市民7000人ほどが、さきほど訪問した福星観に逃げ込んだ。食べ物もなく、日本軍が道観に入ってきて暴行を加えるので、当時の道観の住持が憲兵隊司令部に直接要請に行き、 日本軍の暴力行為をやめさせたという。



文化大革命による抑圧破壊を乗り越えて再建にとりかかる

 戦後は、道士が200名ほどいたが、1950年代以後、毛沢東の指導する中国共産党の宗教政策により道教は抑圧され、氏の祖父は監獄に入れられ、氏自身1951年頃に3ヶ月収監された経験がある。1956年頃には道 士はいなくなったという。
 60年〜70年代の文化大革命の破壊を経て、1980年代以後道教界の再建が行われて現在に至っている。特に80年代には道士の希望者が多かったという。しかしその理由は、意外にも「少林寺」や「武当山」などの映画の影響が強いという現代的なものであった。現在は80年代と較べ停滞気味という。
 過去には、(1)幼い頃に道観に入った人、(2)30代〜40代の人生に挫折した失意の人、(3)老年で親不孝の子を持った人、などが道観に入った例であるが、最近はそのような事例も少なく、女性の場合は「駆け込み寺」的な理由が多く、 失恋などのケースも多いという。またあまり長続きしないことも特徴という。

おわりに

 このほか女性道士の聞き取りなど、今回は浙江大学の研究者の協力で貴重な調査結果を得ることができた。今回の紙面ではその内容を十分伝えられないが、今後よく整理してくわしい報告を10月以後の「信太伝承研究会」例会にて行う予定である。

2007年9月23日掲載

鞆港(鞆の浦)埋め立て計画反対にご協力を

池田 一彦

(福山市鞆の浦歴史民俗資料館企画部長・本会会員)

 「鞆の浦を世界遺産に」と題して、2000年11月に大阪民衆史研究会報に、歴史的港湾の保存を訴えさせていただきました。また、「朝鮮通信使と鞆港」をテーマとして報告させていただきました。
  広島県福山市鞆町は瀬戸内海の中央部に位置し、万葉集(八首)に歌われるなど、多くの歴史遺産の現存する港町です。江戸時代の港湾施設の波上場、雁木(がんき=積み荷を上げ下ろしする施設)、焚場(たでば=船底をいぶす所、修理場を兼ねる)、常夜燈、船番所が五点セットとして現存しています(写真)。
  鞆港を中心に、江戸時代の朝鮮通信使は"日東第一形勝"と絶賛し、港を囲む小さな島々は、1926年に名勝「鞆公園」として国指定されています。
  1983年、広島県が鞆港を埋め立て橋を架ける港湾計画を策定以来、反対運動などで24年が経過しました。今年、5 月23日、福山市は埋め立て免許を管理責任者の知事宛に申請しました。 7月2 日、広島県に埋め立て免許の差し止めを求める訴訟の第1 回口頭弁論が広島地裁でありました。鞆町の住民563人でつくる原告団です。次回は9月6日広島地裁の予定です。

鞆の浦の写真(1)

(鞆港)
南側に玉津島、津軽島、東側に仙酔島弁天島 があり西側は山になっていて、瀬戸内海の多 島海の典型、代表的な地形になっている天然 の良港であった。

鞆の浦の写真(2)

(鞆港の東側)
左側は大可島といい、南北朝時代(14世紀)の古戦場であり、東側の岬は鞆港を守っている。この大可島から出ている波止場は寛政期(18世紀末)のものであろう。

鞆の浦の写真(3)

(鞆港の西側)
南端の岬は淀姫神社のある明神岬といい、そこからつき出している波止場は寛政期(18世紀末)のものである。

鞆の浦の写真(4)

建物は国の重要文化財、広島県史跡鞆七卿落遺跡であり、港町の町並みの中核である。18世紀後半。

鞆の浦の写真(5)

建物は国の重要文化財、広島県史跡鞆七卿落遺跡。

鞆の浦の写真(6)

東南端からつき出している波止場。南に向かって3段積みに石垣をついている。寛政3(1791)年のもの。

「リンク集」のページで鞆の浦支援の会のホームページを紹介しています

先日、和泉市教育委員会に提出しておりました「マイ山古墳保存に関する要望書」への回答が寄せられました。


教委文第  24号

平成19年7月23日

大阪民衆史研究会  会長 向江 強 様

和泉市教育委員会

教育長 馬越 かよ子

マイ山古墳保存に関する要望書について(回答)

 時下、ますますご清祥のことと存じます。
 平素は本市文化財行政に対しご指導、ご協力を賜り、御礼申し上げます。
 さて、2007年6月28日付けで要望のありました件について、下記のとおり回答いたし ます。

1 開発計画並びに発掘調査の終了により、マイ山古墳の現状保存、旧状復帰は極めて困 難な状況にあります。よって現地を整備して一般公開することはできません。

2 調査により確認されました竪穴式石室を現地近くの公園内に移築し部分保存を図り、また、説明板等を設置しマイ山古墳の歴史的意義を顕彰できるよう調整しております。


和泉公民第 9 号

平成19年 7月23日

大阪民衆史研究会   会長 向 江  強 様

和泉市長 井 坂 善 行

マイ山古墳保存に関する要望書について(回答)

 時下、ますますご清祥のことと存じます。
 平素は本市文化財行政をはじめ行政各般にわたりご指導、ご協力を賜り、御礼中 し上げます。
 さて、平成19年6月28日付けで要望のありました件について、下記のとおり 回答いたします。

1、マイ山古墳の現状保存および遺跡公園化による整備、一般公開を行うこと。
【回 答】
   開発計画並びに発掘調査の終了により、マイ山古墳の現状保存、旧状復帰は極めて困難な状況にあります。よって、現地を整備して一般公開することはできません。

2.現状の保存が不可能の場合、現地付近に同規模の古墳を復元して小石室等の移築保存を行い、遺跡公園として整備し、一般公開を行うこと。
【回 答】
   調査により確認されました竪穴式石室を現地近くの公園内に移築し部分保存を図り、また、説明板等を設置しマイ山古墳の歴史的意義を顕彰できるよう調 整しております。

マイ山古墳保存に関する要望書

 和泉市箕形町および岸和田市東ヶ丘町に位置するマイ山古墳は、大阪府下では数少ない古墳時代後期の前方後円墳(帆立貝形)です。和泉市では現存する後期古墳はマイ山を含めて3例しかありません。
 そして尾根上にありながら自然地形をそのまま利用せず、基礎から土を盛り上げて築成している特異な例の古墳として非常に重要な遺跡です。
 また、4つ(または3つ)の埋葬施設のうち第2主体の小石室は、川原石を積み上げたその形状が舟形をしている可能性があります。全国的に舟葬に関わる遺構が増えている中で、今後時間をかけて調査検討する必要のある重要な遺構であると考えられます。
 私たちは上記の理由から、マイ山古墳が府下のみならず全国的にも重要な意義をもつ遺跡であると考えます。和泉市による発掘調査がおこなわれていますが、古墳が調査終了後に宅地開発のために取り除かれることは貴重な歴史遺産を失うことであり、また日本の古代国家成立過程の研究の上で重要な資料を失うことになります。古墳を保存し、後世に伝えてゆくことこそが私たちの責務であると考えます。
 私たちは和泉市に対して、マイ山古墳について以下の要望をします。

一 マイ山古墳の現状保存および遺跡公園化による整備、一般公開を行うこと。
一 現状の保存が不可能の場合、現地付近に同規模の古墳を復元して小石室等の移築保存を行い、遺跡公園として整備し、一般公開を行うこと。

   

2007年6月28日

和泉市教育委員会  馬越かよ子教育長殿

大阪民衆史研究会
会長 向江 強

平野屋新田会所を国指定史跡に

小林 義孝

 今年2月に発行された『大阪民衆史研究』60号に 「地域史像の更新―平野屋新田会所を考える会の活動から―」(上)を掲載いただきました。ここでは平野屋新田会所の現状と歴史的意義、そしてその保存をめざす市民と研究者の団体である 「平野屋新田会所を考える会」の活動の歩みを述べました。
 拙文を執筆し投稿させていただいた昨年末の時点ですでに、新田会所が大阪地方裁判所から競売の公告がなされていました。開発しにくい場所なので、応札する業者もほとんどないのではないか、という楽観的 な見方が大勢を占め、大東市も適正な価格であれば落札した業者から新田会所を購入したい、という意向をもって調整しているということも聞き及んでおりました。
 そし て今年1月のはじめに入札結果が発表されました。大方の予想に反して、奈良の宅建業者が思わぬ高値で落札してしまいました。それも5億円を越えるあまりにも高い金額 で。どうなるのだろうかとまったく暗中模索。
 その時、会所をなんとか保全したいという会所を長く所有されてきた高松家一族の方々から、競売結果について異議申し立てを行うので協力してほしいという連絡がありました。新田会所の建物の権利の半分を保有していることを根拠に、裁判所に異議を申し立てて宅建業者の手に落ちる時期を 引き伸ばし、何とか善後策をという方針による目論見とのことでした。この時の異議申し立ての論拠は、裁判所が新田会所の文化財としての価値を正当に評価していないというものでした。1回目 の申し立てによって決定が10日間延び、さらにもう一度異議を申し立てたところ2ケ月も決定が延期されました。そしてこの2ケ月の間に、驚くべき動きがあったのです。
  わたしたち平野屋新田会所を考える会としては、ともかく保存の要望書を関係機関に送ろうということになりました。これが、文化庁を動かすことになったのです。
  平野屋新田会所を考える会では、別記(資料)のような要望書を文部科学大臣、文化庁長官、大阪府知事、大阪府教育委員会教育長あてに提出しました。
 これに対して、文化庁では平野屋新田会所の意義を認め、直ちに前向きに検討いただいたようです。2月の中頃には、大東市教育委員会に対して府教育委員会を経由して文化庁から資料の要求がなされ、3月は じめには文化庁の担当官が会所を視察されました。国史跡指定と公有化に向けて具体的に動き始めたのです。まったく急転直下の出来事です。平野屋新田会所のもつ意義 は、身近にいるわたしたちの認識を超えていたようです。
 わたしたちは国史跡として、同じ性格の遺跡である鴻池新田会所をよく知っています。鴻池新田会所の本屋や米蔵などの建物 群は国の重要文化財に指定されて、整備され保存と公開がはかられています。鴻池新田会所と比較して、平野屋新田会所は、規模、保存状態、歴史性 (―平野屋新田会所 は歴史を明らかにする史料があまり見つかっていない―)などで種々の点で見劣りがし、現状では府指定史跡に相当するのではないか、ということが暗黙の了解であった ように思います。そしてさらに今後の調査と研究によって歴史性を一層明らかにできれば、国史跡への道も開けるのでは、と考えていました。
 しかし文化庁の担当官は、要望書に付し た吉田高子氏著『旧平野屋新田会所屋敷と建物』(大東市教育委員会 2002年)、岡村喜史氏編著『平野屋会所文書目録』(大東市教育委員会 2005年)などを検討され、直 ちにその意義を認め、保存の方向で動きはじめたようです。大和川付替えに伴い、大坂の豪商の主導した先進地河内の大規模な新田開発の遺跡・遺構として大きな意味を もつものと評価されたと思います。近くで関わっていたわたしたちより、日本史全体を見渡して判断される国の担当官の眼力には恐れ入ります。
 大東市はこの間、市の単独予算でも購入 を、という意向を固めつつあったようにうかがっています。その踏ん張りがまた国史跡を呼び込んだともいえます。このような一連の動きを受けて大東市議会も3月に会の保存を求める決議を、2000 年に引き続いて、全会一致で行い、また5月には 「平野屋会所等歴史的史跡保存に関する特別委員会」を設置しました。議会、行政、市民と研究者が一体となって保存に 向けて動きはじめたのです。
 さらに大阪3区選出の田端正広衆議院議員 (公明党)は、平野屋新田会所に深い理解を示され、現地を調査するとともに、平野屋新田会所を考える会の代表である佐久間貴士 (大阪樟蔭女子大学教授)からレクチヤーを受け、4月24日の衆議院決算行政監視委員会で、歴史的・文化的遺産としての平野屋新田会所の保存を訴え、迅速な対 応を求めたのです。
 これに対して、伊吹文明文部科学大臣は 「大東市が史跡申請すれば、文化財保護審議会にお願いして、重要なものであると認定されれば史跡に指定することは可能」との見解を示され、また高塩至文化庁次長は 「開発行為で遺跡が失われることは大変残念なこと」と述べ、今後、大阪府教育委員会と相談し、大東市に対し て、指導,助言を行っていく考えを示したとのことです 「『SSK二ュ一ス』より)。
 平野屋新田会所の保存が、政権与党の代議士に取り上げられて、一気に国政のレベルの問題とされ、その歴史的意義が広く認 知されることとなったのです。遺跡の保存は、現代の社会との接点で議論されます。"保存か、開発が'、"開発といかに調和するか"などなど。しかし平野屋新田会所は、国史跡指定という最良の形で 文化財保存の"長い険しい"道程をひと飛びにかけ抜けたようです。幸運の女神が微笑んでいます。
  これも長く会所を保全いただいた高松家の方々、地域で一体となって保護に努めて きた地域の住民、地域の歴史性を示す重要な象徴として保護に理解を示していただいた多くの市民、さらに日本の歴史の上での意義を明らかにしてきた研究者、これらの方々の総力が結集したたまものと思います。
 今後、国の文化財保護審議会への諮問、審議会からの答申、そして官報告示という手順を踏んで、国史跡となります。そして 市が国から費用の8割の補助を受けて公有化し、5割の補助金の交付を受けて保存と活用のために修理がなされることになります。保存された平野屋新田会所を、市民のもの、国民の共有財産として、どのように保 存と活用を行っていくのか。階段を一段上がった場所で考え続けねばなりません。従来のように何でも行政に要求して実現していくような手法は、良きにつけ、悪しきに つけ、ありえない時代に入っています。行政と市民、そして地域で活動するさまざまな組織や機関が一丸となって、より良い会所のあり方を考えていかねばなりません。 これが次の課題です。これからも平野屋新田会所を注視いただき、ご支援をお願いいたします。


(平野屋新田会所を考える会)


[資 料]

平野屋新田会所の史跡指定と保存に関する要望書


 大阪府大東市平野屋一丁目に所在する平野屋新田会所は、18世紀初頭に行われた大和川の付替えによって開発が可能になった深野池に造成された新田のうち、深南新田 と河内屋南新田の運営と管理を主に行う拠点として設置されたものです。
 大和川付替えにより開発された新田の多くは大坂の豪商が取得し、戦後の農地解放まで継持されており、当該の新田も平野屋、天王寺屋、助松屋そして銭屋 (高松家)と所有者が変遷するものの、新田会所は一貫して新田経営の中心として機能してきました。
  平野屋新田会所は、主屋、表長屋門、裏長屋門、屋敷蔵、道具蔵、干石蔵跡、庭園船着場、さらに地域に公開されている座摩神社など江戸時代中期頃の建物群が、新田会所の遺構として良好に遺存しています。さらに周辺には新田の人々の屋敷や舟による物資運搬や濯潮のための水路や舟溜まりなど、近世の新田の姿をよく留めており、 今も新田を生産や生活の場とした人々の子孫が生活を営んでいます。
  平野屋新田会所は、遺構のみならず、それを取巻ぐ歴史的環境と景観、そして新田と新田会所を支えてきた人々の子孫などが一体となって今も生き続けており、これほ ど往時の様子をよく残す新田開発の拠点遺跡は他にほとんど例をみないものです。
 東大阪市鴻池元町に所在する鴻池新田会所は、同じく大和川の付替えによる新開池 の新田開発のための会所で、敷地が国史跡に建造物が国の重要文化財に指定され保存と活用が図られています。しかし鴻池新田会所の周辺は市街地化がすすみ、会所を取り巻いた新田の景観はほとんど留めていません。この点からも近世の河内の新田開発という巨大な事業の遺跡として平野屋新田会所はかけがえのないものと考えます。
  深野池の開発は、日本の新田開発の最大級のものであり、池の埋め立てによるものとしては、鴻池新田の新開池埋め立てをしのぐ、日本最大のものといわれます。徳川 幕府が行った有名な干葉県印旛沼,手賀沼の新田開発も規模は大きいのですが結局成功しませんでした。高等学校の教科書には、鴻池新田と印旛沼・手賀沼の開発がのせ られていますが、本来深野池新田開発も日本を代表する新田開発として取り上げるべきものなのです。
 そうした意味で、平野屋新田会所は、日本の歴史を知る上でかけがえのない遺跡と して国指定史跡の価値をもっていると考えます。平野屋新田会所は、大和川付替えに始まる地域の歴史の始まりを象徴する遺跡であり、地域とその住民にとってかけがえのないものであります。さらに近世の新田開発 大都市大坂とその背後の地域である河内との関係、近世の豪商による新田開発など、日本の歴史を明らかにし、さらに豊にするために重要なものなのであります。
  しかしバブル経済の崩壊により200年近くも平野屋新田会所を運営,管理・維持してきた所有者の負債のため、大阪地方裁判所により競売が実施され、宅建業者等が深 い関心を示しています。貴重な歴史的遺産が存亡の危機に立たされております。平野屋新田会所の保存については、広く関心がもたれており、大東市議会において は買収と保存についての請願が、2000年3月に全員一致で採択されています。平野屋新田会所を国民の共有する文化遺産財産として永く保存・活用がはかられる ために以下のことを要望いたします。

(1)平野屋新田会所を国史跡に指定し公有化して下さい。
(2)宅地開発が行われないよぅに、早急に関係機関と協議の上、ご指導をお願 いいたします。

文化庁長官  近藤 信司 様

2007 年1月21日


平野屋新田会所を考える会代表

佐久間貴士

(大阪樟蔭女子大学教授)

2007.6.16掲載

「慰安婦」問題の真実

向江 強

 安倍音三首相は、アメリカの下院で審議中の「従軍慰安婦」決議をめぐって「官憲が家に押し入って人さらいの如く連れていく強制はなかった」「慰安婦狩りのような強制性があったという証言はない」として狭義の強制はなかつたといい、「決議があったからといって、われわれが謝罪することはない」(五日の参院予算委員会)と答弁している。
 安倍首相は「河野談話」は継承するといいながら、「慰安婦」が強制連行された証拠はないと、軍の関与を疑問視する発言を繰り返しているが、全くの矛盾で同一人の発言とは考えられない。
 一九九三年の河野洋平官房長官談話(抜粋)は、「…調査の結果、…数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、…軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。…募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、…甘言、強 圧による等、水人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接之に荷担したこともあったことが明らかになった。…慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。…政府は、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」とのべている。
談話は募集について、軍の要請を受けた業者に主として責任を負わせる形をとっているが、軍や官憲が直接強制的な連行を行った例が幾多もみられるのである。
 その一例を挙げると1940年の秋朝鮮の文三珠は満一六識のとき、「ある日、私はハルコの家に遊びにいきましたが、日がしずみかけたので、ハルコの家をでて自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄ってきました。彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何かいいました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、 私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れていかれました。‥・・‥連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。」と語った。彼女の行く先は中国東北の軍慰安所であった。
 中国の日本占領地の場合、軍が直接の指揮をとっている。1944年5月25日の洛陽攻略の後戦車第三師団経理部のある少尉は、後方参謀によばれて「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めてこい」という命令を受けた。
そこで、「これは、メチヤクチヤである」と思ったが、トラックに塩二、三俵をつんで洛陽に行き二、三軒まわって十数人の女性を集めた(新京睦軍経理学校醍醐規制記念文集編集委員会事務局編『追憶』上巻)。
この将校は、衡陽でも同年夏、慰安婦徴収業務を担当し、中国人女性一五名を塩と交換に売春業者から譲りうけている。中国占領地の場合市内や村の有力者に物資を提供したりして、女性を集めさせたり、「討伐」の際に女性達を連行している。
東南アジアの場合も軍による徴集に地元の有力者の利用、詐欺による連行の例が見られ、フィリピン・インドネシアなどでの暴力的連行が少なくなかったといわれている。
以上の例証はすべて「吉見義明著『従軍慰安婦』V章、岩波新書、1995年第一刷」よりの引用である。
 具体例としてはほんの少しの引用に過ぎないが、安倍首相の言う「強制は無かった」という言明がいかに事実をみていないか、強制には狭義や広義の区別はなく、強制という語彙は、「威力、権力で人の自由意志を押さえつけ、無理にさせること、無理じい」という意味であるから、強制の語には意味に幅などはなく、したがって狭義、広義の意も成立しないのである。
 安倍首相の発言は、当の米議会はもとより、韓国の6紙の社説による批判、韓国33国会議員の声明、中国外相の「適切処理を」の発言、東南アジア各紙の社説や論評での批判など「歴史の書き換えは許されない」等「国際社会の不信を広げただけ」である。
 安倍首相は、「国内外からの非難が集中」している現実を直視し、直ちに「慰安婦」発言を取り消し、被害者に国家として謝罪し、救済する義務かある。河野談話を継承するというなら行動で示すべきである。

2007年3月11日

2007.3.24掲載

 2006年資料

天皇の退位をすすめた … 三好達治

中村 勲

 2006年4月号の「大阪市政だより」に小さな記事で「第1回三好達治賞受賞者が決まりました」という記事を読んで、前々から思っていたことなので、高槻市上牧町にある「本澄寺」内にある三好達治記念館を訪ねることにしました。
  5月4日に妻が々高槻市成合にある「防空壕」を見学したいというので、大阪平和委員会の玉置敏次さんに案内を依頼し、防空壕を見学した後に記念館まで送って頂きました。
 本道寺は約500年前に建立された日蓮宗のお寺ということを住職の三好龍孝氏より聞き、以後3時間に及ぶ達治の作品について説明と懇談を行いました。
  三好達治については、西淀川区にあったハンセン病外島保養院のことを調べている中で、昭和5年と9年に、西淀川区大和田に住んでいたことが判明し、詩の中に外島保養院や善念寺というお寺のことが詩の中に取り入れられていたので、興味深く研究をしていました。
  今回の記念館を訪ねて、二つの発見をしたことがあります。一つは、三好達治賞は大阪市が設けたものではなく、関係者の努力で賞が設けられたこと。 二つ目は、日本の敗戦直後の1946(昭和21年6月に、日本再建のために昭和天皇に退位を進めた文章を残していたということです。
   その文章は「なつかしい日本」という題で、当時「新潮」という雑誌の求めに応じて書いたものです(筑摩書房刊、全集8)。
  三好達治は大阪市西区に生まれ、家庭の事情で一時、三田市のお寺に行っていますが、その後、大阪市で市岡中学から軍人になるべく、大阪陸軍地方幼年学校から東京陸軍中央幼年学校にすすみ、京都三高から東大に学んで、詩人になっています。 そして、昭和初期に「測量船」「日まわり」「神崎川付近」などの詩の中で、外島保養院などハンセン病患者についても詩の中に取り入れられています。
  その後、中野重治などとも交友関係が見られますが、戦後の早い時期に昭和天皇に退位をすすめていたことはおどろきです。
  もし、昭和天皇が三好達治が書いた頃に退位していたら、今日の情勢はもっと変化していたのではないかと思う次第です。 興味のある方は、一度、記念館を訪れられたらと思います。(事前に電話予約必要 住職三好龍孝)

三好達治は天皇退位について、どのように述べたか
 三好達治は、雑誌 「新潮」の依頼で「なつかしいにほん」というエッ一セイ風の文章を1946(昭和21)年6月に書いているが少し長くなるが、その一部を紹介しょう。
  明治以後の戦争責任について「すべて責任は、最重大責任者から、明確に潔ぎよく彼等の責任をとっていただくことにしたい。それでなければ一国の志風はいかにも振作すべき法図がない。戦後道義の退廃は、誰しもいうが如く、国家衰亡の第一原因をなしているが、救抜の途はない。即ち條理を匡すこと。たとへば上位の者から順当に責ある人が責に当たるの範を示して貰いたい。
 陛下も例外ではなく、一億赤子のお父さんとして立派に範を示していただきたい。これなくしては、道義は決して興らない。道義が興らなければ文化は整はない。ひいては百般の科学のみな興隆をみないであろう(筑摩書房・全集12冊8巻)。
 そして、天皇制の問題では、「天皇制の問題は、国体政体の問題として、今日最も明確なる理性の判断を要求している。事は専家のこれを考ふる人もあるべく私たちが凡庸の常一識を以て差出がましく杜撰の説をなすにも当たるまいものと考えられるが、近来法制家・憲法家等々の説をのべるをきくに、彼らの説くところも専門家らしき取柄のあるものはなく傾聴して従ふべきほどの卓論とても見あたらない。私の如きもこれに関連して、ここに一言を費やしておくことも必ずしも徒爾ではないものと信ずる。
けれども天皇制の問題よりも、まず差当り取り急ぎ開明を要するのは、この度の国運に関する陛下の責任、今上陛下の出処と進退でなければならない。陛下は、一国の元首としてこの度の戦争敗戦の責任をまず第一の責任者として、おとりにならなければならない。 これは申すまでもなきことである。
 重臣会議とやら御前会議とやらいふものの存じて、最後に国事を決定した建前から言って陛下は、席上至上判決者であられた意味合いを否む訳にはゆくまい。
 陛下もまた軍閥者流の横行を制止しきれずして、やむことを得ずして大勢の赴くところに身も亦従い玉ひしが如くに説くのは、近衛前宰相の手記に、くわしく語るところである。恐らくこれは事実に近て信瀬するに足ることであろう。 前後の事情より推して私たちにもそう判断される」と書き続けていますが、ここでは、あまり長くなるので省くことにします。三好達治は、このようにして昭和天皇に退位をすすめた文章を書いているのである。

ブレヒト没後50年

ブレヒ トと私

松浦 由美子

 「演劇を志ざす者、ブレヒトを知らずして演劇人にあらず」と演劇論をぶつ先輩。ブレヒトの名前を初めて聞いたのはこの時、高校の演劇部であった。
東京の大学に入学したり、演劇の道に進んだ先輩たちは帰郷すると、部室を訪ねてくれて東京の演劇事情と芝居の感想を熱っぽく語る。「セチュアンの善人」の台本を後輩に見せながらブレヒトの素晴らしさを説く。私たちは先輩を取り巻き、台本を回し読みしたが、もうひとつ良く分からなかった。
  マスコミは隣の中国の文化革命や大学民主化を求める学生達の姿を報道する、そんな時代であった。大学でも学生演劇に夢中になって大阪府内の大学演劇サークルに出入りしていた。演劇仲間から労演のチケットがまわってくると喜んで代わりに観にいった。俳優座の 「母(おふくろ)」をみたのはこの頃だろうか。「大阪労演の50年」年史をひもとくと、1972年らしい。
以来、自立劇団や商業演劇ふくめ多くはないがブレヒト劇を観続けた。「演劇人でも志す人」でもないのに。ちなみに大阪労演におけるブレヒト演目は50年代1本、60年代6本、70年代4本、80年代7本、90年代9本である。
  1975年、新聞の文化欄の 「民衆の力になる文化を」といぅ記事に触発されてシャンソンという分野を選び、歌うことで表現をする道を選びとった。しかし、ブレヒトソングには結びつかず月日は過ぎる。
 80年代の終わり頃か、シャンソンの友人から「三文オペラの海賊ジェニ一を歌ったら。ブレヒトの歌があう」とすすめられ、歌ったこともないのに衣装と白いブーツまでプレゼントされた。偶然か必然か書店で「三文オペラ」のドイツ語の楽譜集を見つけ購入したが、ただ大切に保管していただけである。90年代の半ばからシャンソンの彩りとしてブレヒトソングを取り入れるようになった。
  20世紀は戦争の時代だと言われる。21世紀は戦争のない時代にしたいと願って来たのに、東西の冷戦後の世界をめぐる情勢は予断を許さない。2000年過ぎた頃から、社会に無関心で「陶酔」する一部のシヤンソン愛好家は着飾ったままフアシズムの後をついて行くのではないかと危機感を抱くようになる。
もうひとつには、1930年代の大阪における「人民戦線事件」の掘り起こし作業を70年代から続けて来たことも大きい。ファシズムのドイツと日本における反ファッショ人民戦線。ブレヒトは近くにいた。「ブレヒトと向き合う」ことは必然だったのかもしれない。
  ブレヒトは難しく、分かりにくい。しかし、考えると新しい発見がある。論理的な思考が苦手だといわれる日本人のなかでどうすれば、ブレヒトをもっと知ってもらい広げることができるのだろう。高校生の私たちが目を白黒させて演劇部の先輩の傲をきいていたような風潮がまだ残っているのではないだろうか。
  2003午9月人形劇団クラルテの 「三文オペラ」 を観劇しながら、人形とのコラボレーションでブレヒトソングを分かりやすく伝えることはできないかと考えた。「ブレヒトと戦争」「ブレヒトと女」として2004年メイアターでの舞台となった。「茶色の朝」はフランスでネオナチが台頭して来たおりフランク・パブロフが寓話をもとにフアシズムの警戒を呼びかけたものである。
 2003年12月教育基本法改悪反対の集会が東京で開催され「茶色の朝」は書店に並ぶ前に販売されていた。出版社曰く 「この集会に間に合わせました」。帰りの新幹線のなかで読んでいると一人語り用の台本にできそうである。人形劇団クラルテの松本則子さんにお願いして脚本をつくってもらい、掲載の了承を得た。
  高校生の私がブレヒトの名前を初めて聞いたあの日から、40年近い歳月が流れた。ブレヒトは点から線につながり、閉塞の時代に座標軸となる。
 地下水脈のように命をつなぐ。ガットネロ実験劇場で井戸を掘ろう。

高校世界史の未履修問題について

偏屈 堂生

 高校で世界史を履修していなかったという「被害」にあった生徒たちは、テレビのインタヴュ一で一様に 「先生たちは、私たちを大学に進学させてくれるためにやってくれたこと。先生は悪くない」。保護者たちも然り。「(子供たちを進学させてほしい、という)私たちの要求を受け入れてくれた」。生徒たちのこうした声は、大学受験のために、塾や予備校に通うことが自明のこととされる大阪で教師をしているせいか、うらやましく聞こえる。高校での教育の原点を見たような気がする。
 学習指導要領に定められたカリキュラムどおりに授業をしていなかったとして、熊木県を除く540校 (11月1日現在)にものぼる高校が問題視されている。自殺者まで出した。文部科学省は、手抜きとも思えるその場しのぎの代替措置をとって、解決に導こうとしている。
  高校の地理歴史科 (かつては社会科と呼ばれていた)では、「国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う」(高等学校学習指導要領、世界史A・Bの目標より)ため、世界史は必修科目となっている。
 問題視されている学校は、ほとんどが4年制大学への進学率が抜群に高い、いわゆる進学校ばかりだという。また、集中している地域は予備校や進学塾がほとんど存在しないところのようだ。公立高校が予備校の役割を果たさなければならないのは、必然のことであろう。
 ご存じかもしれないが、今、学校は、校長は、そして教員は毎年、教育委員会に対して 「今年はどういう目標を立て、それをどう実現していくか」といった自己申告をさせられている。そしてその目標に到達するかしないかによって、何段階かの評価が下され、給与等に反映される。下手をすると、その職に就いていること自体危うくなる。成果主義が学校に浸透しつつある。
 目標には、「今年は何人を有名大学、難関大学に合格させる」といったものも含まれる。「何人」などと具体的な数値目標を出してしまうと、その数をクリアしなければならない、というプレッシヤ一にさいなまれる。これは私立でやっていることではない。公立の高校が、である。
 「被害」にあった生徒たち (高校3年生がほとんどだろう)は、2003年よりはじまった 「完全週5日制」によって、「ゆとり教育」の 「恩恵」に浴している。土曜日の授業が削減され、同時に学ぶ内容も削減されている。だからといって、大学の入学試験問題は 「ゆとり教育」にふさわしいものになったわけではない。
  学校も教師も困っている。授業時間の削減は、授業の内容はおろか、時間割編成に大きな支障をきたした。しかも、「進学実績を上げる」といった目標とその達成を至上命題とさせられている。生徒・保護者からの期待もある。板挟みにあった学校と教師はどうすればよいのか。時間割を従来の6時限から7時限に増やし、夏休みなど長期休業の日数を削減し、そして土曜日には「補習」というかたちでの学習の時間を確保するしかない。しかし、こうすることによって教師たちは間違いなく疲弊する。生徒も同じであろう。そのなれの果てが、末履修というウソの構築ではないか。
 なぜ、今こうした問題が取り上げられているのか。偏屈堂の目には、何らかの情報操作がおこなわれている気がしてならないのである。中学生たちのいじめによる自殺問題といい、安倍内閣のすすめている教育改革の伏線 (学校・教師がこんな体たらくだから、教育改革、教育基本法改正が必要)のような気がしてならない。杷憂で終わるといいのだが…。

司馬遼太郎没後十年に思う

山口 哲臣

 私は1996年5月号の民衆史会報に、「急逝した司馬遼太郎をめぐって」を書いている。本屋の店頭には司馬の没後十年を記念する、それらしい文献が新旧とりまぜてならんでいるのを見かけた。
それらのなかから「週刊・司馬遼太郎」といぅのを購入してきて、しばし下味を拾い読みしてみたところである。
 放映を終了したばかりのNHK大河ドラマ 「功名が辻」の裏話や、「菜の花の沖」のシンポジウムなど、時流に乗った記事が紙面に躍っている、と同時に司馬遼太郎のさまざまな活躍ぶり、原風景を多彩な執筆陣を配して語らせ、天下の各層の読者を魅了しようと、本を出す方も必死である。
 さて、私は十年前の会報に司馬遼太郎のことを、国民的声望の高い作家として好意的に書いた。例えば文化勲章を受章したときのテレビインタビューに応えて、司馬が「受賞したことを忘れることですね」、とひとこといい、多くを語らなかったことを、私は 「司馬さんの言外にふくまれた作家の心意気、受賞したことなど忘れて、今後も司馬遼の道をゆく」と言っているように感じられたと書いている。だが……。
 私のこのよぅな司馬遼賛歌に見識ある警告を発したのが、同じ時期 (97年6月)にやはり会報に書かれていた向江強の 「司馬史観」批判論である。それは私あてに書かれたものではなく、当時の司馬遼太郎プームにあやつられる巷の動向に、どうしても批判の眼を向けたい向江さんの、やむにやまれない良心と歴史観があったからである。
 いま、司馬が世を去って十年。世は強引に憲法を外にはじき出そうと画策し、自殺、いじめなどが常となり、全ての規範をファシズムに逆もどりさせる作用が加速している。
  中国侵略が拡大して、太平洋戦争への準備にうつつをぬかしていた頃、吉川英治の『宮本武蔵』が一世を風靡した。いままた、実に分かり易いヒーローを描く名手司馬遼が、没後十年を期して再度のブームを巻き起こすことがあっても不思議ではない。 読者、会員のみなさん、科学的視点に立った歴史観をみなぎらせる世論を、いまこそ最大限に喚起していこうではありませんか。