原付で帰省。
2002年12月30日(月)→2002年12月31日(火)首都圏の自宅→川崎港→那智勝浦港→国道
42・26号線→関西の実家(
2003/1/6月 公開)
単なる帰省なのだが、フェリーに原付を載せ、さらに原付で
1日に200km以上走るので、今回は旅行記のコーナーで取り上げる事にした。そういえば、旅行記のコーナーを作成するのは久しぶりである。”旅はたびたび”と言ったところか…。今回のテーマは、
1.
原付で帰省(含:愛車原付への熱い思い)2.
マリンエキスプレス (川崎港→那智勝浦港 フェニックスエキスプレス2等C寝台)3.
原付で行く紀伊半島国道42号線
1.
原付で帰省(含:愛車原付への熱い思い)社会に出ると、旅行や帰省の出発の日時はなかなか気ままに決められるものではない。しかし、今回の帰省は、しようかしまいか迷っていたため、結局決断するまでに時間が取れた。私はとりわけ年末年始に帰省する必要があるとは思っていない。
首都圏在住の私が原付を使うのは主に道場や病院に通う時ぐらいである。それらも歩いて行く時だってある程である。また、
原付で帰省するには、東京フェリーターミナル→徳島港→和歌山港→国道
26号線という方法もあったが、自宅からは東京フェリーターミナルよりも川崎港の方が行きやすい。また、徳島に定刻どおり到着して和歌山港行きの指定の便に確実に乗り換えられるかどうか心配だった。さすがに、川崎港→高知港→大阪南港だと遠回りしすぎである。他にも、途中で一泊してひたすら東海道などを走り続ける方法もあったが、この場合、もしも1日目に疲弊しきってしまったらどうする事もできなくなってしまう。このようなわけで、川崎港→那智勝浦港→国道42・26号線経由で帰省する事にした。しかしながら、原付での帰省には不安が多い。私は寒いのが大の苦手である。厳寒期に朝の
5時台から長時間の走行に耐えられるのか若干心配である。また、前日以前から計画して長距離を走るのも初めてである。学生時代には気が向いたときに1日200km以上走った事もあったが、今回はプレッシャーで前夜に眠れなかったらどうしようという思いがある。更に、乗用車の場合は眠くなれば後部座席で横になって眠る事も可能であるが、原付運転時に眠くなると本当に救いようが無い。日頃は主に乗用車に乗っているので、原付で長距離を走る事に技術面の不安も感じる。また、私は船に弱い。あの上下の”移動”を繰り返す揺れはなんとも言えない。マリンエキスプレスの川崎港発那智勝浦港経由宮崎港ゆきは川崎発が月・水・金である。事実上、選択できるのは川崎
12月30日発の便である。30日の東京と31日の大阪は晴のようである。当日、電話で空席状況を確認した。2等C寝台だけは少し空いているらしい。19:20発だが、出航1時間前の18:20までに港まで来るようにといわれた。しかし、その時点では予約しなかった。帰省しようか否かまだ迷っていたのである。とりあえず出発した。自宅の側の幹線道路をずっと進めば川崎港に行き着く。
この原付でもいろいろな所に行ったわけだが、あまりにも日常的な用事で乗っていたために記念写真を撮った事が少ないのが気にかかってきた。しかし、所定の時刻に川崎港に着くためにはもう引き返す事はできない。
この原付を実家に引き渡す準備として、前タイヤの交換とスペアキーの作成はつい先日済ませてある。…古いタイヤは記念に貰ってきた。
この原付は、大学生の時に購入して新車の頃から大切に乗ってきた。慣らし運転も行ったし、整備や保管にも気を使ってきた。就職して引越しするときには、後輩にでもあげてくるように母に言われたが、私はこの原付を非常に大切にしている事を母に説明して、結局手放す事はなかった。その後は転勤にも付き合ってくれた大切な相棒である。もう
18,000km以上走っているが、無茶な扱いをしなかった為なのか今でも元気である。また、はっきり言って原付は好きである。自分の身体と一体になって走っている感じが好きなのだ。夏に車の往来が激しくない山道をゆっくり走るのは最高である。川崎港には
17:20頃に着いた。どうやらまだ原付と2等C寝台は乗せられるようである。乗船名簿を書く紙を受け取ったのだが、まだ迷っていた。港では弁当なども売っていなかったため、再び港を出てコンビニまで行ってきた。港の職員に尋ねて最寄のコンビニまで行ってきたのだが、往復で7kmぐらいあった。不安材料は山ほど有るが、今までの人生を思うとたいていの事はちっぽけな事に思えてくる。また、なんと言っても安全な原付を一季節でも早く実家に届けたい。そんなわけで、
18時過ぎに乗船手続きを済ませて乗船した。鉄道模型のような大切な物を実家へ持ち帰る事はよくあるが、なぜか今回、原付を持ち帰る事にはなんとも言えない寂しさが伴う。別に他人にやるわけではない。実家で使うだけの事なのだが、いつものこの原付でいつもの道をもう走れないのかと思うととても寂しい気持ちになってきた。
2.
マリンエキスプレス (川崎港→那智勝浦港 フェニックスエキスプレス2等C寝台)
川崎港で出発を待つ愛車。
自分の乗り物をフェリーに載せ込むのは初めてである。すでに大型トレーラーなどが多数積み込まれており、物流の迫力を生で感じる事ができた。乗用車もどんどん積み込まれていく。排気ガスで気分が悪くなりかけたが、写真を撮りまくる事は忘れなかった。
私の場合、グリーン車やスーパーシートによく乗るのだが、宿泊を伴う船舶においては1等や特等に乗る機会に恵まれない。それらは
2人部屋などになっている場合も多く、とても一人で乗れるものではないからである。夜行の航路に乗るのは今回が初めてである。学生時代に一度夜行のフェリーに乗ろうかと考えた事があったが、1等運賃に学割が無い事を知って、特に利点を感じなかったので結局乗らなかった。ちなみに、私は乗り物らしい乗り物が好きである。例えば鉄道のA寝台車の場合、ホテルのような豪華個室よりもプルマン式寝台やシングルデラックスのようにいかにも乗り物らしい工夫の見られる設備の方が好きである。このようなわけで、マリンエキスプレスの2等C寝台はなかなか好感が持てた。船内のレストランは激しく混んでいるようである。弁当を用意しておいて正解であった。
船内で風呂に入った。
売店のみやげ物は宮崎と東京の物が主体である。
面白い放送があった。この日は2等自由席を2等指定席として運行するとの事である。”2等は指定席”と言い切ってしまえばよいのではなかろうか? それとも、2等客室内に”自由席”と表記されているのだろうか?
私の船室は那智行きである。この船の指定券はどういう基準で発券されているのか私にはよくわからない。なお、この船室にはライダーが多かったように記憶している。
船の大きさが関係するのかもしれないが、激しい揺れに襲われなかったので、船酔いは起こさなかった。しかし、
23時ごろに左右の大きな揺れが来たときには不安になった。この場合、私の寝室では、横になっていると脳に流れる血液の量が不規則になるので快適に眠れなくなるのである。快適に眠れないぐらいならば構わないが、酔ってしまっては悲惨である。途中で降りるわけにもいかない。それにしても、船ってすごいと思う。ビルが水に浮いているようなものである。多くの人命や貨物を載せて海上を最高
50km/h近くで疾走するのだからたいしたものである。水泳の苦手な私としては、水上を進む事だけでも驚異である。結局、
23時ごろまでに2時間ほど眠っただけだった。私は、気になる事があると寝付けなくなるタイプではないのだが、さすがに、途中でリタイアできない状況の中、厳寒期に原付で200km以上を走行する事を思い出してしまうとなかなか寝付けなかった。他にも、最近の出来事などが気になっていた。とりあえず目は閉じておいた。31日の4時台には船の揺れ方が変わってきた。船内も慌しくなってきたようだ。まだまだ横になっていたいのだが5時頃に起床した。那智勝浦港には5:50に到着する。下船客は5:40までにロビーに集合しなければならない。
昨夜同様、厳寒にそなえて大量に着込む。下はタイツ・ジャージ・冬用スーツのズボン・防風防寒ズボンである。このスーツのズボンは生地間の摩擦を低減してくれるという利点もある。靴下は通常のものの上に厚手のものを重ね履きしている。数年前までは冬になると靴下を
3枚ぐらい重ね履きしていたのだが、これだと血行が悪くなり、余計に寒くなるらしいので、近年は重ね履きはしていない。靴は革靴なので、風雨でも冷たい思いをしなくてすむ。上は、首が長い服・スーツの時に着るような冬用のシャツ・ジャージ・さらに防寒コートの2枚重ねである。セーターを着るぐらいならば、コートを重ねた方がよい。これは、ここ3年ほどで10kg近く痩せたからこそなせる業かもしれない。他には、マフラーと2枚重ねの手袋である。眼鏡やマスクも重要な役割を果たす。さて、着込んで船内で待機するわけだが、はっきり言って船内ではさすがに暑い。しかし、ここで汗をかかないように注意しなければならない。汗は気化熱を奪うので、原付での走行には命取りとなる。
3.
原付で行く紀伊半島国道42号線慣れない道を法定最高速度の
本当は、夏ならば国道
168号線経由で紀伊半島を縦断して帰りたかった。五新鉄道の未成線探険をやりながら帰りたかったのだ。しかし、今は真冬である。山間路は当然ながら気温が低く、路面凍結の危険性も高い。また、なんと言っても、山の天気は変わりやすいのである。従って、今回は国道42・26号線経由で帰る事にした。フェリー下船組がいなくなると、国道
42号線に後続車は見られなかった。すれ違う車さえ無かった。外はまだ暗いので、真っ暗な峠区間は不気味でさえもある。路面凍結に注意しながら高速運転を続行する。旧道なんかも点在しており、
探険家魂が刺激される場面も多いのだが、停車を繰り返すと想像以上に著しく表定速度が低下するので、今回は一瞥するだけに留めて本線をノンストップで駆け抜ける。国道
42号線には”テレフォンパーキング”なるものが点在するが、公衆電話機を備え付けている所は1ヶ所しか気づかなかった。はじめに見つけたテレフォンパーキングでマフラーをさらにもう1枚巻きつけ、手袋にカイロを挿入する。国道上には気温や風速が表示されている箇所がある。「気温
1℃、風速7m」。厳しい寒さの中、高速運転が続く。あまりにも寒くなると、5km/hほど速度を下げる。慣れてくると再び最高速度にまで復す。天気予報によると、本日の大阪は晴、最低気温は1℃、最高気温は9℃との事である。寒い中原付で走行すると涙があふれてくるが、これだと目に埃が入りにくいので目が痒くならなくてよい。
やや強い風の中を走るせいかエンジンの音があまり聞こえない。風を切る音が主体である。事実上の”さよなら運転”なのでこれはちょっと残念である。しかし、いずれにせよ強風には要注意である。
恐怖の強風。
国道
42号線の今回走る区間は、ほぼ紀勢本線に沿っている。 帰省なだけに紀勢本線。那智駅
那智駅に立ち寄る。ここはかつて特急停車駅だったが、現在は降格している。東京⇔紀伊勝浦間を結んで昭和
湯川駅
湯川駅を一瞥する。ここはかつて特急停車駅だったが、現在は降格している。しかし、
太地駅
太地駅に立ち寄る。ここは
串本町
本州最南端の町、串本を通過する。那智勝浦港から一度南下して、そこから北上しなければならない事がなんだかもったいなく思える。しかし、そこが紀伊半島である限り、やむをえないだろう。
周参見駅
周参見駅に立ち寄る。この駅は平成
実はこの駅には面白いものがある。今はなき「急行きのくに号」の表記がプラットホームに残っているのである。ちなみに、定期の「急行きのくに号」がなくなったのは昭和
60年、国鉄時代の事である。
大阪方面からの帰省と逆方向を走っているにもかかわらず、白浜→御坊間は他区間よりも自動車が多くてやや走りにくかった。御坊辺りから北には高規格幹線道路があるためか、有田市辺りまではわりと走りやすかった。
紀伊半島南部では高速道路やミニ新幹線を希望する看板が散見されたが、それほどの交通需要の発生や南紀の活性化が期待できるとは思えない。社会資本整備には難題が付きまとうものである。
道中で事故は絶対に起こしてはならない。私が死ぬぐらいはたいした事ではないが、遠方まで遺体確認にこなければならない家族への迷惑を考えると無事に帰着する事が第一である。また、事故によって介護を要する働けない体になったらもっと悲惨である。愛車を事故で廃車にするのも耐え忍びない。従って、常に気を引き締めて走行する。はっきり言って、何が何でも命が惜しければ、車の多い幹線道路を真冬に長時間原付で走るような無茶な帰省はしていない。
有田鉄道鉄道線最終日
終焉間近の有田鉄道鉄道線を訪れるために国道
田殿口駅に行き着いた。鉄ヲタだと一発でわかるような連中が散見された。この鉄道線がまもなく廃止になる事は知っていたが、本日が最終だとはすっかり忘れていた。
まもなく藤並行きがやってくるようである。藤並からすぐに折り返すとの事なので乗る事にした。なお、車内で精算はできないようである。
レールバスに初めて乗った。雪があまり降らないにもかかわらず、車体の安定の為にスノープローを外さなかったというのもハイモ
180の大きな特徴である。藤並から乗る為には
50人限定の整理券が必要なのだが、隣の田殿口に原付を置いたままだと告げたら乗せてもらえた。藤並駅で記念乗車券を購入した。これで、必要な運賃は十分すぎるほど払った事になる。田殿口駅では有田鉄道の社長に会った。国産の高級車に乗っていた。地方においては、現実的に車が移動には欠かせないのだろう。なお、本日は臨時便こそ多数出ているが、派手な儀式は行わない。これは社長の方針のようである。
有田鉄道の終点である金屋口駅まで行ってみた。そのスジの客がたくさんいた。
金屋口駅から少し東へと向かい有田川を渡る。国道
42号線の対岸にある国道480号線を進む。しばらくは車の往来の激しい国道42号線から解放されてのんびりと走る事ができる。再び国道
42号線を走る事になるのだが、有田市辺りは紀勢本線も一般の国道42号線もかなり西側に大回りしている。さすが紀伊半島である。海南市・和歌山市と進むにつれて当然ながら終点が近づいてくる。終点が近づくほど、集中力が途切れないように自分に強く言い聞かせる必要がある。また、長距離長時間走行においては、疲労状態にある事を常に認識しておく事が肝心である。運動神経や運転技術にどんなに自信があっても過信は絶対にいけないのである。
道中には長いトンネルがいくつかあったが、トンネル内で車に追いかけられる恐怖を味わう事は一度もなかった。私は無理をせず、後続車が怖いと感じる場合にはいつも先に行かせるようにしている。
さすがに海南市・和歌山市の辺りまでくると、早く無事に到着したいと思うと同時に、愛車と離れる事の寂しさがこみ上げてきた。涙があふれてくるのは寒さだけが原因とは言い切れないかもしれない…。日没までには帰宅できそうだったので、和歌山市内では幹線道路を避けて四輪車等が走らない道をのんびりと走る事にした。紀ノ川に架かる河西橋を渡る。この橋はかつて南海加太線であった。
南海旧加太線探険
せっかくなので、南海旧加太線の廃線跡を撮影する。
南海加太線東松江駅の側で旧加太線の廃線跡を撮影する。土入川を渡る電車が走っている所は現加太線である。旧加太線は島橋・北島・和歌山市駅方面へ直進しているが、現加太線は紀ノ川駅の方へ大きく回っている。現加太線の紀ノ川⇔東松江間はかつて貨物線であった。
無事に実家にたどり着く事ができた。何回か帰省しているが、今回実家に到着した時は、過去の帰省で味わった事が無いほどの大きな安堵感を得た。同時に、無謀で投げやりな最近の自分を反省した。
本当に原付で帰ってきた私を見て、家族は驚いたようである。以前、原付で帰省する事を話したら怒られた。母が心配するといけないので、自宅の最寄のフェリーターミナルを出て実家の最寄のフェリーターミナルに着いた事にしておいた。合計
300km近く走ってきたなんてばれたら怒られるだろう。さて、那智勝浦港から実家までの走行距離は
200kmを軽く超えている。具体的な数値は記さないが、東海道にたとえると、東京駅から静岡県西部までの距離である。原付での1日の走行距離としては、人生史上1位か2位であろう。和歌山県内だけでも230kmは走った。おそるべし、紀伊半島国道42号線!