鉄道旅行記 「周遊きっぷ 和歌山・高野山ゾーン」 からのシングルカット

さようなら伝統のブルートレイン「寝台特急あさかぜ号」 20051 (2005/1/16公開)

 

 2005年(平成17年)3月のダイヤ改正で、伝統のブルートレイン「寝台特急あさかぜ号」が廃止になる。2005年年始のUターン時に、大阪から東京まで乗車した。

 

今回のテーマは、

      1. 惜別企画:「寝台特急あさかぜ号」小史
      2. 夜行列車の衰退に対する私の思い
      3. 「寝台特急あさかぜ号」乗車

 

 

1.惜別企画:「寝台特急あさかぜ号」小史

 

 昭和31年、「特急あさかぜ号」は東京⇔博多間に戦後初の夜行特急列車として登場した。大阪地区を有効時間帯外に通過するという従来の常識を打ち破るダイヤであった。大阪の鉄道関係者の猛反対を押し切って登場したのだが、旅客には大好評であった。

 「あさかぜ」の輸送力を補うべく、「さちかぜ(後に「さくら」に改称)」など後発の東京⇔九州間の夜行特急も登場した。これらを凡例に倣って九州特急と呼ぶことにする。九州特急は「あさかぜ」・「さくら」・「はやぶさ」・「みずほ」・「富士」と増強されていった。

 「あさかぜ」は当初、在来客車や10系客車で編成されていた。昭和33年、固定編成で全車冷暖房完備の20系特急寝台客車が登場し、「あさかぜ」に充当された。濃紺の車体にクリーム色の帯を纏った華麗な姿は「ブルートレイン」と呼ばれるようになった。また、冷暖房完備の客室は当時の生活水準をはるかに上回るものだったので、この客車は「動くホテル」と絶賛された。

 「元祖20系博多あさかぜ」は他の九州特急よりも格上の編成で運転されていた。全室個室のナロネ20を占用し、編成の半分ほどを“ロ”とした超豪華編成だった時代も長かった。半室個室のナロネ22が集中配置された時期もあり、いつしか「殿様あさかぜ」と呼ばれるようになった。

 「あさかぜ」は昭和40年代後半には3往復にまで成長した。その後、他の寝台特急と同様に14系・24系へと車両の変遷も経た。「殿様あさかぜ」も昭和53年には「はやぶさ」・「富士」と共通運用の2425形編成に置き換えられた。

 国鉄末期の昭和62年、「博多あさかぜ」のグレードアップが行われた。東海道九州特急の中でひとつ抜き出た地位へと再び躍り出たのである。

 そのような寝台特急列車群も、新幹線や航空機および夜行バスとの戦いなど、輸送配分を取り巻く事情の変化に持ち堪えることができずに削減が進んだ。本当のことを言えば昭和40年代から寝台特急列車の衰退は進んでいた。昭和49年に24252段式B寝台車が登場したわけだが、これも旅客離れが進む寝台特急に新たな魅力を与える必要から生まれたものである。単純に計算して定員が3分の2に減るのだが、列車本数が増えるわけではなかった。料金据え置きの個室B寝台車が国鉄末期から次々登場した事もそのような事情によるのである。

 平成6年、「博多あさかぜ」と「みずほ」が廃止になった。これは鉄道趣味界に激震が走る出来事であった。「正統あさかぜ」の歴史はこの時に潰えた。現在残っている「あさかぜ」は東京⇔下関間の「弟分あさかぜ」である。元より「博多あさかぜ」より格下の編成であり、「名門あさかぜ」を名乗り続けることを訝しく思う向きも見受けられた。

 伝統のブルートレイン「あさかぜ」は、平成173月のダイヤ改正でその歴史の終着駅に到達することになった。

 現在、首都圏⇔九州間の旅客はおよそ90%が航空機利用であり、平成15年度の寝台特急利用者は昭和62年のJR発足当初と比べて4分の1以下に落ち込んだ。列車本数が削減されたにも関わらず通常の乗車率は30%程度である。現行ダイヤでは「富士」が単独運転であり、「さくら」と「はやぶさ」が併結運転を行っている。平成173月のダイヤ改正で「さくら」が廃止となり、「はやぶさ」と「富士」が併結運転を行う事になっている。すなわち、東京⇔九州間の寝台特急は実質的に1往復のみになるのである。

 

 

2.夜行列車の衰退に対する思い

 ブルートレインが好きだという思いがありながらも、それほど多く乗ったわけではなかった。私みたいな連中がもっと積極的にブルートレインを利用していたら、伝統のブルートレインを2つも同時に失う事が無かったかもしれない。廃止を聞いてから慌てて乗車する自分に嫌気がさした。ごめんね、愛しのブルートレインたち…。このような思いがあったからこそ、復路の「寝台特急あさかぜ号」のみならず、往路にも「寝台急行銀河号」に乗車したわけである。

 都会に住んでいると、列車の時刻に合わせて行動するという事が少なくなってくる。駅に着いた時に適切な列車を選べば事足りるのである。そのようなわけで、近年は私といえども、首都圏⇔関西間の移動では発車時刻が気にならない新幹線が主体であった。ブルートレインには申し訳ないと思いつつも、ついつい便利な新幹線に頼ってしまったのである。

 さてここで、僭越ながら、夜行列車や寝台列車の衰退について独自の見解も記しておこう。一般的に言われている事は記さないつもりだが、もしかすると重複するかもしれない。

 そもそも、新幹線との料金バランスと取る為に寝台特急の全車寝台化を進めた事も失敗だっただろう。安く移動したい旅客を完全に排除してしまったわけである。今となってはホテルよりも高額な寝台料金であの設備では、夜行特急列車の旅客離れが進んでも仕方があるまい。

 だが、寝台料金を安くしたからといって、夜行列車の旅客需要を本格的に掘り起こせるとは思えない。夜行バスや多客期における臨時夜行座席快速列車が人気なのは、低廉な旅行ができるからである。実際に、座席車編成といえども夜行の急行列車や快速列車は削減される一方である。客単価を下げてまで夜行列車を無理に維持する必要はどこにも無いだろう。

 また、航空機および昼行の新幹線や特急列車が発達した今日においては、翌日に大切な仕事を抱えた人が積極的に夜行列車を利用するとは思えない。日中に移動してホテルに宿泊する方がはるかに楽である。一方で早朝の移動よりも夜行列車の方がいいと言う人がいるという事も知っているが、残念ながらこちらは少数派である。つまり、現代の社会生活において夜行列車は実用的ではないという事である。

 遡れば、国鉄の分割民営化も寝台列車にとってはかなりの痛手であった。自社管内を走る昼行特急は目覚しく発展したが、自社の利益が薄く、足の遅い客車寝台列車は本格的に疎まれる存在になっていったのである。かつては、新幹線やエル特急と並んで国鉄長距離旅客輸送の要であったブルートレインであるが、残念ながら現代ではその当時の輝きが失われている。平成に入ってから寝台電車「サンライズ」が誕生した事自体が奇跡である。

 

 

3.「寝台特急あさかぜ号」乗車

200515()

大阪0:32→東京7:33 東海道本線6レ「寝台特急あさかぜ号」 24系客車9連 オハネ25-193

6レ 運転区間:下関(前日)16:50→東京7:33

  

 当初、24系ブルートレイン全盛期を彷彿させる数字の大きな号車を希望した。現在の「寝台特急あさかぜ号」は編成が短く、通常は客車9両である。しかし、多客期には13号車まで増結される。13号車は喫煙車なので、禁煙の12号車を望んだのである。しかし1224日、私が1月の代休を5日に充てる事が決まり、冬休みが1日伸びてしまった。乗車計画の変更が生じたのである。11月からマニアックな予約をしていた「寝台特急あさかぜ号の12号車」は変更を余儀なくされた。とりわけ今回は、「寝台特急あさかぜ号」が終焉間近という事もあって、空席が無いのではないかと焦燥感を抱いた。しかし、空席はあった。残念ながらこの日は増結が無くて9号車までしかなかった。12号車への乗車は幻になったのである。さすがに、12号車の為だけに実家を1日早く出発しようとは思わなかった。なお、「寝台特急あさかぜ号」には個室A寝台車オロネ25-300がついているが、これは国鉄時代を彷彿させるものではなく、また、乗車時間も短いので乗車対象とは考えなかった。

 実家を夜遅くに出発しても間に合うのがうれしい。しかし、乗り遅れを防止する為に時間に余裕を持っておいた。

 大阪駅では、「あさかぜ」の表示などを撮影する人がちらほらといた。なんとそのような女性もいた。

 それにしても寒い。大阪駅には改札内に待合室のようなものが無いという事に気づいた。

 大阪から東京へ向かうこのような便利な列車がある事は昔から知っていたのだが、寝台列車といえば、長い時間乗っていられる「銀河号」ばかりを利用してきた。1997年に京都→東京間で「寝台特急出雲2号」に乗ったのも、今回「寝台特急あさかぜ号」に乗るのも、どちらも特殊な事例であり、体験乗車の意味合いが強い。

  

 030 近い将来消えゆく大阪駅11番線に入線する、終焉間近の「寝台特急あさかぜ号」。

 EF66形電気機関車に牽引してもらうのは初めての体験となる。EF66は元々高速貨物用であったが、昭和60年から東京⇔下関・九州間の寝台特急を受け持つことになった。

 

 大阪駅11番線に停車中の「寝台特急あさかぜ号」の荷物室に新聞が積み込まれる。ブルートレインによるこのような荷物輸送も終焉が近い。

 大阪から10人ぐらい乗ったように思う。大阪を出ると、静岡、熱海、横浜、東京の順に客扱い停車する。

 

 京都駅を無停車で通り過ぎるのは初めての体験となる。0番線と2番線の間の中線をゆっくりと通過する。

 

 米原では、上り副本線の7番線に入線して運転停車をする。(1:46-1:52

 お隣8番線には、大阪を「寝台特急あさかぜ号」よりも5分後に発車した「寝台特急サンライズ瀬戸・出雲号」が到着した。その列車は、運転停車の後にこちらよりも先に発車していった。(1:49-1:50) 

 特急が特急を抜く、すなわち同格待避である。地方線区では電車と客車の動力性能差が顕著に現れる為、同じ方向に走る特急同士の同格待避は珍しくない。しかし、線路状況が良い東海道本線上でも起こっているのである。最古参「あさかぜ」が新鋭「サンライズ」に抜かれる・・・。実に象徴的である。

 「サンライズ」は、「北斗星」などのような夜を意識した名前ではなく、「あさかぜ」同様に朝を意識した名前である。それゆえに、寝台特急の原点である「あさかぜ」への回帰と言われた事もあったのだが…。 

 

 それにしても、客車寝台特急列車群は東京⇔大阪間で7時間もかかっている。線路状況が良い東海道本線上で無停車駅間距離が長いにも関わらず、この区間の表定速度は80km/hに届いていない。かつて「みずほ」が走っていた頃には、EF66の牽引で6時間40分ぐらいで走っていた列車もあったように記憶している。

 せっかくだから、東京⇔大阪間(現行営業キロ 556.4kmの最高速度と所要時間で面白い比較をしてみよう。

  (現行ダイヤ)  EF66形電気機関車 客車寝台特急群 110km/h 約7時間

  (現行ダイヤ)  285系電車 電車寝台特急 130km/h 約6時間30

  (現行ダイヤ)  M250系電車 最速電車貨物特急 130km/h 約6時間10分 (東京貨物ターミナル⇔安治川口間)

  (昭和33年)   151系電車「特急こだま号」 95km/h 6時間50分 (初の電車特急運転開始)

  (昭和35年)   151系電車「特急こだま号」 110km/h 6時間30分 (スピードアップ)

   

 

 今回、「寝台特急あさかぜ号」を見て驚いたのは車体の美しさである。外装が剥がれているようなことはほとんど無かった。それどころか輝きを放っていた。なんと、25100番台車は、全車両の飾り帯が昔ながらのステンレスであった。所属基地によって、手の加えどころが大きく異なるようである。

 内装も美しかった。79号車のオハネフ25は、洗面台も、寝台客室の床も、寝台灯も昔ながらの物であった。一方、私が乗車した8号車のオハネ25-193は、洗面台は三面鏡であり、寝台客室の床はじゅうたん張りになっており、寝台灯も新しくなっていた。ただし、ここでも背もたれにつけられるリネンは見られなかった。

 ここからは私の推測である。これらの美しい車両は、「寝台特急あさかぜ号」が廃止になった後には宮原総合運転所などの同じJR西日本の車両基地へ転属して、生き残るのではなかろうか。12日に「寝台特急日本海1号」を見たのだが、25B寝台車のほとんどが車齢の高い0番台車であった。走行距離が長く、かつ、自然環境が厳しい「寝台特急日本海14号」に250番台車を集中的に投入して、使うだけ使ってから近いうちに宮原総合運転所で廃車にするのではないだろうか。その代替として、「寝台特急あさかぜ号」の任務を終えた下関地域鉄道部下関車両管理室所属の比較的美しい車両を迎え入れるというわけである。これはあくまでも私の推測なので話半分に読んでもらえばよい。

 

 

 通路のカーテンは、開けっ放しにしていても車掌が閉めるという事は無かった。「寝台急行銀河号」ではすぐに閉められてしまう為に寝台から外を眺める機会を失う事が多いのだが、今回乗車した「寝台特急あさかぜ号」では寝台から外の眺めを楽しめた。このような扱いも車掌区によって異なるのであろうか。

 

 横浜到着の30分ほど前におはよう放送が入った。東京到着のおよそ1時間前でもある。

 東京駅への上り夜行列車の朝の到着時間帯は、昔から通勤ラッシュの前か後に限られている。また、列車本数が多い時間帯の東京⇔熱海間は、普通列車が寝台特急を待避する回数を減らす為に寝台特急の速度が抑えられている。通勤ラッシュの直前を走る上りの「寝台特急あさかぜ号」は、営業キロ104.6kmのこの区間を1時間39分かけて走る。これは、寝台列車の中でもひときわ遅く、日中の「快速アクティー号」よりも数分程度余計にかかっている。並走する京浜東北線の電車にも抜かれた。大阪→熱海間の表定速度85km/hに迫る高速運転とは大違いである。

 横浜駅では、既に多くの通勤客が上り列車を待つ列を作っていた。ガラガラなのに乗車できない寝台特急は、鉄道会社にとっても通勤客にとっても疎ましい存在に違いない。寝台特急に羨望のまなざしが向けられた時代はもう戻らないのである。

 客車列車特有の衝撃も無く横浜を発車した。

 品川を過ぎると東京到着を告げる車内放送が入った。「…あさかぜ号、またのご利用をお待ち申し上げて…」という言い回しが心に響いた。この放送を聞いている乗客のうち、何人ぐらいが再び「あさかぜ号」に乗車するのであろうか。

 733 東京駅10番線に到着した。鉄道愛好家や鉄ヲタの集団が「寝台特急あさかぜ号」を待ち受けていた。なお、この日は独特の節回しの構内放送は無かった。

 

 車内灯が消え、電源車スハ25のパンタグラフが下ろされた。昨夕の下関から約1,100kmを走ってきた24系客車は、EF65-1000に導かれて回送されていった。乗せてくれてありがとう。さようなら。

 2005年年始のUターンが終わった。いつまでもあると思うな、なんとやら…である。

 

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