カンボジア旅行記−その1 ('02/4-5)
<カンボジア編目次>
1.カンボジアへ、プノンペンへ
2000年にベトナム、2001年にラオスを旅し、最後に残ったインドシアの国がカンボジア。4月19日、仕事を終え、20日1時25分発バンコク行きのフライトに乗るため関西空港に移動を開始した。いよいよ旅の始まりで、興奮しながら空港に着いて驚き。ガランとして人はほとんどいない。店もすべて閉まっている。私は、関空は24時間オープンの空港だと思っていたのでショック。両替もできない。現金は多少持っていたのでよかったが、いきなり波乱含みのスタートである。
とはいっても、飛行機は定刻どおり早朝のバンコクに着き、ここで円をドルに両替。そして朝10時に無事プノンペンのポチェントン空港に到着した。ビザの取得もまったくスムーズに進行。ガイドブックなんかには「ビザ発給所には料金表示が無く、高い値段を請求された。」トラブルが紹介されていたが、ツーリストビザ:$20としっかり表示されているので、これから行く人も安心して下さい。
空港を出ると、例によってタクシー客引きの洗礼を受ける。市内まで$7。歩きながら値段交渉していると、バイクタクシーの運転手がやってきて、こちらは市内まで$1だという。決まり。タクシーを振り切り、ホンダのコピーバイクで出発。彼の名は Hang という。空港〜ホテルまでのはずが、そのまま2日間の契約に、いつのまにかなってしまった。
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プノンペンで見た英会話スクール。
あちこちにたくさんありました。カンボジアの人達はとても学習意欲が旺盛で、英会話をするために観光地で外国人が来るのを待ち、来たら英語で話しかける人もいました。
この写真は看板の文字がみにくいので、クリックすると拡大画像が見れます。 | お金持ちの結婚式に参加する人達の行列。
2日目の朝、朝食を食べにゲストハウスから出たら、この行列を発見。一番前まで行こうとしたら、列が動き出したので断念。
この時期は結婚式シーズンなのか、これほどの規模ではないが、式をよく見かけた。 |
ワット・プノン
ワット・プノンとは、丘の寺という意味。ここを訪れたのは夕方。入場料を払うところも無いので無料かと思って階段を登りきると、人が現れて拝観料($1)を取られた。 |
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階段の両側にあるのは、蛇神ナーガの像。7つの頭を持つ。 | 本堂の裏にある、仏塔。 | ワット・プノンの内部。壁の絵の修繕を行っていた。 |
2.プノンペンで見た虐殺の跡
プノンペンで行きたかった所は、トゥールスレン刑務所(博物館)とキリングフィールド。いずれも、1975年4月から1979年1月までの間に、ポルポト率いるクメール・ルージュによってたくさんの人命が奪われた場所である。
トゥールスレン刑務所
元々は高校だった。しかし、ポルポト政権下では教育は否定されたため、学校は不要になり、刑務所として使わた。組織“オンカー”に反抗するものを捕まえ、拷問し、殺した。もらったパンフレットによると、記録に残っている収容人員は、1975年:154人,1976年:2250人,1977年:2330人,1978年:5765人,計10,499人。しかし、これには子供の数は含まれておらず(約2000人)、また消失したリストもあり、合計約16,000人が収容され、生き残った人は6人のみということである。1978年の人数が大幅に増えているのは、政権末期になって人々への不信感が増し、疑わしい人間はかたっぱしから収容、殺害していったため。(カンボジア史研究の第一人者デーヴィッド・チャンドラーによると、推計約14,000人。)
ここには、独房や拷問に使われた部屋,拷問道具,収容者の生前と死後の写真が展示されている。2002年3月まで、頭蓋骨で作ったカンボジア地図が展示されていたが、撤去、供養された旨が新聞報道にありました。
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トゥールスレン博物館の外観。いかにも学校といった雰囲気。 | 独房の写真。0.8×2 メートルの広さしかない。こんなところに裸で拘留されたら、と考えるだけで頭が変になりそう。 |
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逮捕前、高い地位にいた囚人用の寝室のひとつ。もっともらしい供述書を書かせるために、ある程度健康にし、快適にしておこうということらしい。(死の監獄S21より)
| 収容され、殺害された人々の写真の一部。こういった写真がたくさん展示してある。 |
キリングフィールド
プノンペン市内からバイクタクシーで約30分の郊外にある、処刑場跡。トゥールスレン刑務所に収容されていた人達は、ここに運ばれて処刑された。埋められたところが掘り返されて、その穴がたくさん残っている。穴のまわりを良く見ると、服の残骸とか骨らしきものが見られて、かなり気味が悪い。まだたくさんの遺骨が土中に残っているという。バイクタクシーの運転手がやってきて、「クメールルージュの連中は、こうやって殺したんだ。」と教えてくれたが、、、。彼は40歳ぐらい。あの時代をどうやって生き抜いてきたのだろう。とても聞けるものではない。慰霊塔にはおびただしい数の頭蓋骨と衣服が安置されていた。
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キリングフィールドに建つ慰霊塔。 | 慰霊塔の中にはおびただしい数の頭蓋骨が。 |
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キリングフィールドの一部。このような穴がたくさんあり、そこには、処刑された人達が埋められていたのである。まさに MASS GRAVE である。 |