カンボジア旅行記−その3 ('02/4-5)


3.シェムリアップ(1)

プノンペンからシェムリアップへはピックアップトラックで行こうか、かなり迷ったが結局ボートで行く。チケットはシアヌークビルから帰ってきてすぐにチケット売場で直接買った。チケットには$25と書いてあるが払ったのは$23だった。このへんはよくわからない。とにかく翌朝6時にホテルを出てトンレサップ川の船乗り場へ。行く途中にバイクタクシーから声をかけられ、名前を教えて欲しいと頼まれた。答えると「俺の友達が迎えに行く。船着場からホテルまで無料で送ってくれる。」という。なんのことかよくわからない。まあ、気にせず船に乗りほぼ定刻どおり出発。乾季で水深が浅いので慎重に進んでいたが、プロペラが底を打ったかなにかで運転手が大声で何か叫びUターンした。みんなどよめき、心配そうな顔を見合わせる。しばらくするとまたUターン。わけがわからないが大丈夫なようだ。すごい風が船内に入ってくるのでとても寒い。3時間ぐらい走ると海のようなトンレサップ湖にでた。そしてさらに3時間、シェムリアップの船着場に到着。浅いために岸まで行けず、小舟に乗り換える。そのとき私の名前を書いた紙を掲げた男が現れた。Kaba という名のバイクタクシー運転手だ。ここでようやく理解できた。朝プノンペンで声をかけてきた男と彼は友人で、お互いにシェムリアップまたはプノンペンに行く観光客を紹介しあっているのだ。そして船着場で捕まえて契約をするわけである。船着場からシェムリアップの町までは約12km。いくつかのゲストハウスの無料送迎バスも来ていたが、もうめんどくさいのでこれも運命と思って彼に身をゆだねた。結局そのあとの1週間を彼と彼のバイクで動くことになった。

シェムリアップの宿は、Kabaのすすめでオーキディア・ゲストハウス、1泊$3。どのGHでもそう大差ないだろうし、チェンラーやタケオなんていう日本人がうじゃうじゃいる宿に行きたくなかったし。ここの従業員達はとてもフレンドリーで、ぶらぶらしていると必ず日本語を教えてくれといってくる。熱心に日本語を勉強していた。「ありがとう」といってきたので、「“まいどおおきに”が正しい日本語だ 。」と教えてきたが、、、。

着いた日は、夕方にプノン・バケンへ夕日を見に行く。何時からか忘れたが夕方から無料になるのだ。アンコール遺跡の入場料は、1日券$20, 3日券$40, 7日券$60で、私は7日券を購入。7日連続で使わないといけない。アンコール遺跡関係は、写真集のページを見ていただくとして、ここでは遺跡以外の見物,出来事を紹介します。

アキ・ラの地雷博物館

この博物館は、カンボジア人のアキ・ラさんが、自分が撤去してきた地雷や不発弾を展示し、戦争の悲惨さを伝えるために1999年に開設したもの。おびただしい数の地雷や不発弾が展示してある。ここを知ったのは、カンボジア旅行の1年前の2001年4月18日の朝日新聞に「世界発2001」というコーナーがあり、ここで紹介されていた。館内にはこの新聞記事のコピーもあった。
地雷博物館
アキ・ラの地雷博物館
 アキ・ラさんは、1973年ごろの生まれで(正確な年はわからない)、5歳のときに両親をクメール・ルージュに殺され、自身はクメール・ルージュの支配下で集団生活を送った。10歳のころから銃や地雷の扱いを教えられ、ベトナム軍が攻めてきたときはクメール・ルージュの兵士として戦った。クレール・ルージュが敗退すると今度はベトナム軍に捕らえられ(13歳のとき)、ベトナム軍兵士としてポル・ポト派と戦い、ベトナム軍が撤退すると次はカンボジア政府軍に徴集されて、内戦終結まで戦闘に参加したという凄い人生を送ってきた人だ。内戦後は、国連といっしょに地雷除去作業を行い、現在も地雷除去作業を続けている。
 訪問して驚いたことは、シェムリアップ州政府や他の団体の妨害を受けているということだ。観光客が来て寄付をしていくことに目をつけた州政府から献金の要求が来たり、“地雷展示が儲かる”ということで、展示するためにアキ・ラさんが出かけているあいだに彼の博物館の地雷を根こそぎ持っていかれてしまったり、、、。2002年4月現在、1名の日本人ボランティアが彼のもとでいっしょに働いている。

地雷博物館内部地雷
地雷博物館の内部処理された地雷

プラダック村

お墓に続く土手の道
お墓に続く土手の道
1973年11月、「地雷を踏んだらサヨウナラ」と友人に手紙を書いて,当時クメール・ルージュの支配下にあったアンコール・ワット潜入を試みたが、捕まり殺害された戦場カメラマンの一ノ瀬泰造氏(当時26歳)。彼が殺され埋められた場所がこのプラダック村。1982年にご両親が来訪され、遺骨を確認。この様子は「一ノ瀬泰造 戦場に消えたカメラマン」や「わが子泰造よ」に詳しく書かれています。埋められていた場所には、昨年に墓が建てられ、1999年に封切られた映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」の影響で多くの日本人観光客が訪れています。かなり有名なスポットになっているらしく、バイクタクシーのほうから「TAIZO」と言ってくるぐらい。

 ここの地主であるTounさんという人がお墓を管理していて、訪問者ノートを準備したり、お供え物もあげているのだが、墓のまわりは柵で囲まれ鍵がついている。鍵を開けて中に入り、お線香をあげてお参りをする。そのあと、「お金を下さい。」といってきます、、、。Tounさん、見た目はとてもいい人で、善意でやってて「観光目的ではありません。」と言ってた。しかし、お金は人を変えますからねえ。ノートを見ると、1日数人の訪問者がいて、1人$1払っても毎日だとすごい金額になる。お墓の修繕にこんなに金がかかるとは思えない。お金は村の人達のために使って欲しいと思いました。学校や診療所を作るとか。Tounさんは、他の村人と比べると綺麗な服を着ていました。彼の善意が変わらないことを祈ります。

一ノ瀬氏の墓墓近くの小屋
これがお墓お墓の前にある小屋。屋根から掛っているのは一ノ瀬氏の写真(2枚)。机には訪問者ノートが。あと、本(地雷を踏んだらサヨウナラ)もありました。
右の白い服を着た人がTounさん。
自転車を押す女の子子供達笑顔の男の子
村の子供達
プラダック村の子供達。とても元気である。私がお墓に向かうとみんな着いて来た。
子供用自転車はなく、大きな大人用を器用に乗りこなす。

バンテアイ・スレイ レストラン

その一ノ瀬泰造氏がカンボジア滞在中に世話になったレストランがここ。私は幸いなことに、あのマダムに会うことができました。齢70ぐらいと思われますが、とてもお元気でした。そしてご子息のMr. Chanaさん(映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」では死んでしまいましたが)やMrs. Sivannさんにも。お話しを伺うと、「1981年にはまだ1つの机と6つの椅子しかなかった。それがいまや200ぐらいの椅子がある。」とおっしゃってました。ローカル向けのレストランですが、値段はやや高いです。しかし、一ノ瀬氏が「シェムリアップ一うまいレストラン」といっただけのことはあって、ほんとうにおいしかったです。

バンテアイ・スレイ レストラン
レストランの内部

次のページもシェムリアップ編です。


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