●旧根岸競馬場
(注1) 五大クラシックレースの詳細
皐月賞 中山競馬場/2000m(第一回は横浜競馬場/1850m)
日本ダービー 東京競馬場/2400m(第一回は目黒競馬場/2400m)
菊花賞 京都競馬場/3000m(第一回は京都競馬場/3000m)
桜花賞 阪神競馬場/1600m/牝馬(めす)限定(第一回は中山競馬場/1800m)
オークス 東京競馬場/2400m/牝馬(めす)限定(第一回は阪神競馬場/2700m)
(注2) 三冠馬の成績比較
セントライト/主な勝ち鞍=皐月賞、ダービー、菊花賞 (12戦9勝)
シンザン/主な勝ち鞍=皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞・秋、有馬記念 (19戦15勝)
ミスターシービー/主な勝ち鞍=皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞・秋 (15戦8勝)
シンボリルドルフ/主な勝ち鞍=皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞・春、ジャパンC、有馬記念二回 (15戦13勝)
ナリタブライアン/主な勝ち鞍=朝日杯三歳S、皐月賞、ダービー、菊花賞、有馬記念 (21戦12勝)
(注3) 競馬の世界では、母が同じ馬同士を兄弟と呼ぶ。
 最近では、菊花賞馬ビワハヤヒデ(兄)と三冠馬ナリタブライアン(弟)=母パシフィカス。
 オークス馬ダンスパートナー(姉)と菊花賞馬ダンスインザダーク(弟)=母ダンシングキイなどが有名。
(注4) 昭和24年は1950mで施行。以降2000mに変更。
●荒川区の煉瓦塀
(注1) この煉瓦塀は文章として残っている記録が極端に少ないため、石神寅松氏の証言は重要な位置を占める。
 一方でこんな証言もある。昭和58(1983)年・荒川史談会発行の『郷土あらかわを語る』に掲載されている鈴木某氏(明治38年生まれ)の証言である。

「荒川遊園地の所に王子煉瓦株式会社というのがあったんですが、関東大震災の時にみんなこわれてしまったんです。それを王子軌道が買って遊園地を造ったわけです。」

 しかし同時代の文献である『新興の尾久町』によると、荒川遊園は大正11年5月13日に開園式が行われている。さらに奥付を見ると、『新興の尾久町』という書籍自体が大正12年4月1日発行… 関東大震災より前である。
 つまり、関東大震災により倒壊したのは「煉瓦工場」ではなく、「荒川遊園」でなくてはならない。この点を重視すると、鈴木氏の証言にはやや疑問符がつく。
 もうひとつ気になるのが、鈴木氏の証言の中に登場する「王子煉瓦株式会社」という名前である。
『王子電気軌道株式会社三十年史』(昭和15年)には、以下の記載がある。

「更に大正十一年三月、沿線尾久町王子煉瓦株式会社経営の、あら川遊園と提携し、遊覧客誘致の目的から遊園地へ諸種の設備を施し、実質的に乗客数の増加をもたらした」(一部旧字を新字に訂正しています)

 この「王子煉瓦株式会社」という名称は、私の知る限りでは『郷土あらかわを語る』と王子電気軌道の年史だけに登場する名前である。これがかつてこの土地にあった煉瓦工場のうち、どれを指すのかという問題だが、「広岡煉瓦工場」の正式名称であった、というのが最も可能性が高いのではないだろうか。

 つまり『王子電気軌道三十年史』は社史であるために正式名称で記載した。一方、「古老の言によれば」で始まる『新修荒川区史』は、「王子煉瓦株式会社」の通称であった「広岡煉瓦工場」を採用した。以降、『新修荒川区史』を出典として書かれた文章の多くに「広岡煉瓦工場」という名称が使われるようになり、現在ではこちらのほうが多数派となってしまった… という考え方である。

 これも文献が存在しないため結論を出すことはできないが、いずれにせよ、石神寅松氏の証言には、戦前の文献との齟齬が存在しないことは確かである。

(注2) 上記のように、『新興の尾久町』および『王子電気軌道株式会社三十年史』によると、荒川遊園は大正11年の段階では広岡勘兵衛の経営だったのではないかと思われる。この部分は執筆者の勘違いではないだろうか。
(注3) 『荒川区土木誌』では昭和18年となっているが、『東京電力三十年史』(昭和58年)によると関東配電の開業は昭和17年4月1日である。また『東京都交通局80年史』(平成4年)では、旧市内路面交通事業の統合は昭和17年2月1日、関東配電の開業は4月1日であり、『東京電力三十年史』の記述と一致している。