観戦スタンド側面
▲側面から見た観戦スタンド。
 昭和14年、横浜競馬場で行われた第一回の横浜農林省賞典四歳呼馬競争(後の皐月賞)の勝ち馬はロツクパーク。
 この時の距離は現在の2000mではなく、1850m。
 昭和12年頃の横浜競馬場の本馬場(コース)は1632mであったそうですから、ほぼ一周。
 もしかしたらこの半端な距離は、横浜競馬場のコース形態から割り出されたものだったのかもしれません。

 続く昭和15(1940)年の勝ち馬はウアルドマイン。
 ここまでは、やや馴染みの薄い馬名が並ぶ。

 しかし翌昭和16(1941)年、日本で初めての三冠馬が、この横浜競馬場で勝利を収めます。
 セントライト(父・ダイオライト、母・フリツパンシー)の出現です。

 この日の馬場コンディションは稍重曇り無風。定刻にスタート。ロープが上がるやミナミモアとセントライトとは接触して出足をくじかれたが、直ぐに立て直して両頭とも先行のオオトモの後を追う。---中略---ラスト・コーナーを回って最後の追い込み直線コースに入るや、ミナミモア鋭くスパート、決勝線二百メートル前地点でトップに立ったが、約三馬身後方三位につけたセントライトは内オオトモ、外ミナミモアの間を縫って猛襲し、二着ミナミモアを三馬身抜きさって堂々の勝利を占めた。このタイム1分59秒1。
※『優駿』第一号の記事として『日本競馬史』に引用されたものより抜粋
 この後、セントライトは東京優駿競争(日本ダービー)を八馬身差・2分40秒1で、京都農林省賞典呼馬競争(菊花賞)を3分22秒3で快勝し、三冠馬の栄誉に輝く。

 そして翌年の天皇賞には出走せず、4歳で引退、種牡馬(種馬)となります。

左手の塔
▲向かって左側の塔。
 三冠馬出現の翌年、昭和17年。
 この年の秋、10月18日を最後に、横浜競馬場での競馬開催は終わっています。
 名目上は昭和18年春季、および秋季開催が記録されてはいますが、実際に競馬が行われたのは春季が東京競馬場、秋季が中山競馬場でした。
 つまり、昭和17年春の横浜農林省賞典四歳呼馬競争が、横浜競馬場で行われた最後の「皐月賞」だったことになります。
 では勝ち馬は… と見てみますと、

「勝ち馬・アルバイト/騎手・小西喜蔵」
 もうちょっとサマになる名前の馬はいなかったんだろうか。

 でもまぁ… 調べてみるとこのアルバイトという馬、なかなかの良血です。
 アルバイトの血統は父・シアンモア、母・フリツパンシー。つまりこれはセントライトの弟です(注3)。
 成績の方もなかなかのもので、続く東京優駿競争(ダービー)はミナミホマレの2着に破れますが着差はクビ。秋には京都農林省賞典呼馬(菊花賞)に出走し、ここでも3着と健闘。そして翌年には東京競馬場で行われた秋の天皇賞に参戦し、見事勝利を収めています。
 しかし菊花賞に参戦した頃、もはやこの馬はアルバイトではなくクリヒカリという名前に改名されていました。
 この改名は、馬主が「クリ」の冠を持つ栗林友二氏(翌年のダービー馬・クリフジで有名)に変わったことが理由だったようですが…
 一方で昭和17年8月、当時の日本競馬会・安田理事長より、各競馬場場長にこんなお達しが届いています。

  ◇日本競馬会より各競馬場宛て8月7日付通知
自今馬名の選定は左記によること。
    記
(一)なるべく国語を使用し、英米語はこれを使用せざること。ただし父母の血統を表示するものにして、血統書馬名を使用するものはこの限りにあらざること。
(二)なるべく血統書馬名を使用すること。
右は出来得る限り血統書馬名と登録馬名とを一致せしめんとする趣旨に基づくものなるも、競馬施行規程による制限に該当するものは止むを得ず、他の適当なる馬名を選定すること。なお馬名にして意義不明なるものは、その選定理由を付記すること。
※『日本競馬史』より抜粋
 そんな時代であったことも、また確かなことのようです。
観覧席2
▲スタンドを別アングルから。
 前述した横浜競馬場の海軍接収により、昭和18、19(1943、44)年の農林省賞典四歳呼馬は、東京競馬場1800mで行われます。
 そして戦後、競馬が復活してからも、昭和22、23(1947、48)年は東京競馬場2000mで、さらに昭和24(1949)年には舞台を中山競馬場に移し、レース名も皐月賞と変更されます(注4)。

 この昭和24年の皐月賞を勝ったのは、父・プリメロ、そして母・フリツパンシーという血統を持つ馬。
 セントライト、そしてアルバイトの弟である、トサミドリという馬でした…

右手の塔
▲向かって右側の塔。
 横浜競馬場の運命も、戦争を境に大きく変わります。
 終戦後、進駐軍に接収された競馬場の敷地は、モータープール(駐車場)や米軍用のゴルフ場として利用され…
 そして横浜競馬場は、競馬開催地として競馬法だけに名前が残る、幻の競馬場となる。

 昭和44(1969)年11月。ついに旧競馬場跡地の返還が実現。大部分は横浜市の公園用地となり、一部は日本中央競馬会のものに。
 J.H.モーガンが残した旧一、二等観戦スタンドの返還はそれより少し遅れ、昭和56年に実現。昭和62(1987)年に、大蔵省より横浜市に売却されますが、残念ながら二等スタンドは昭和63(1988)年に取り壊されます。
 現在は残された一等スタンドのみが、セントライトが走った頃の横浜競馬場の生き残りであると言えます。

 しかし横浜競馬場で生まれた伝統あるレース「皐月賞」は…
 アルバイトの年を最後に、横浜で開催されることは二度となかったことになります。

夕暮れ時
▲夕暮れの根岸競馬場。
 かつてセントライトが、そしてアルバイトと呼ばれた馬が駆けたターフは、今では根岸森林公園を取り囲む道路としてその名残を残しています。

 もしも戦争がなかったならば、今でも横浜競馬場は存続していたでしょうか。
 そして皐月賞も、ここで行われていたでしょうか。
 海の見える高台の競馬場… 競馬観戦の後は、横浜の街へ繰り出すこともできる。
 今の皐月賞より、盛り上がったかもしれないな、などと考えたりもします。

(2000.7.9記)
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