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▲大塚駅前より向原を目指す都電荒川線 |
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あの煉瓦塀は明治の煉瓦工場のもの。
あとは同時代の資料を見つけて確認を取るだけ… と足取り軽く出かけた荒川ふるさと文化館でしたが。
ところがどっこい。この煉瓦塀はそんな生やさしいものではありませんでした。
まず、荒川遊園の文献が、思っていたより少ない。
広岡煉瓦工場に関するものなど、皆無といってもいい状況でした。
広岡煉瓦工場や、荒川遊園の記述がある、数少ない資料のひとつがこれです。
平成3年に荒川区教育委員会より発行された『尾久の民俗』という本です。
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大正十一年には、広岡勘兵衛が船方の煉瓦工場を廃して荒川遊園を開園した。近くに住む石神寅松氏は荒川遊園について「道路境木材塀は全部煉瓦塀にして、南側一帯は土盛して滝も造り、水は井戸を掘った。お宮(稲荷様)の池は広く、貸しボートを浮かべ、水は荒川の水を利用した由。開園当日は、地元町会(小橋町会)として役員総出で交通整理その他を手伝った。---中略---途中から王子電気軌道株式会社が肩代わりしたようであった。大東亜戦争では軍隊が入って、高射砲陣地ができたため、南側植木の枝はそうとう切り取られた。これは、陣地から上空を見るために邪魔になるので切り落としたとのことだった」と述べる。
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広岡勘兵衛が荒川遊園を開園した?
荒川遊園は、王子電気軌道が開園したのではなかったのか?
さらに気になるのが、石神寅松氏の証言。
「道路境木材塀は全部煉瓦塀にして、南側一帯は土盛して滝も造り…」
この文章を素直に解釈すれば、あの煉瓦塀は煉瓦工場の塀ではなく、開園当時の荒川遊園の塀だということにならないか?
『尾久の民俗』の出典である書籍にも目を通してみました。
大正12年4月、下谷新聞北豊島支社から発行された『新興の尾久町』です。
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荒川遊園 一般市人に運動遊戯に或は天然の美に親しみ精神の慰安と身体の健康を得せしめ而も現在ブルジヨアの独占たる如き豪奢なものたらしめず安易に何人もが楽しめ得るやうとの趣意から広岡勘兵衛翁、横山氏、石井彌吉氏、石神與八氏、関口常右衛門氏等が尽力の結果荒川沿岸に二万余坪を画して創設したもので園内には山あり瀧あり躑躅、桜、松、杉等の樹木鬱蒼中央に七千余坪の大池あつて舟遊を自由にし幅三十間の大瀧を始め大小数多の瀧が流れ入り、四千余坪の運動場には種々の運動器具を備へ三箇のテニスコートを設け数多の動物を飼養し百畳敷の大広間には日毎に余興を演ずる等一日の清遊に此上なきものたらしめてゐる。十一年五月十三日開園式を挙行したものである。
※ブラウザでの出力が不可能なため、一部旧字体を新字体に改めています。
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私は、王子電気軌道が工場の跡地すべてを買収できなかったために、その外側に空き地ができ、そこに家が建ったのだと考えていました。
しかし荒川遊園の開園者が広岡勘兵衛だったとすると、この考えは根本から崩れてしまう。
広岡勘兵衛なら、工場の跡地すべてを利用することができたはず。なぜなら自分の土地だったのだから。
ここに石神寅松氏の証言を絡めると…(注1)
開園当時の荒川遊園は、現在の煉瓦塀の場所まであり、周りに民家などはなかったことになる。
それなら、塀の内側に民家が建ったのは… いつだ?
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▲ここが煉瓦塀の終点。このあと煉瓦塀は小台橋小学校と荒川遊園の境目の中に埋没してゆく。また、この辺が広岡煉瓦工場の正門であったという噂もある。 |
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さらにここで、追い打ちをかけるような資料の出現。
昭和54年11月、荒川区立小台橋小学校発行の『のびゆく小台橋〜開校二十周年記念誌』。
小台橋小学校は、煉瓦塀のちょうど終点近くに位置する小学校で、ここの記念誌ならば隣にある荒川遊園についても何か書かれているかもしれないな、と何気なく手に取ったのですが…
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レンガ工場
町屋から尾久のあたりは、荒木田といって、レンガを作るのに、とてもよい土でした。
明治の中ごろになって、尾久の村に、広岡レンガ工場、山本レンガ工場、鈴木レンガ工場ができました。
荒川遊えん地の所は、広岡レンガ工場でした。今よりも土地が高くて、土手もありましたが、この土をレンガ作りに使ったので、だんだんひくくなってしまいました。工場の近くののう家では、畑や田んぼの土を売る家もありました。できたレンガは、西洋館づくりの家や道、へいなどのざいりょうになりました。
今、まだのこっているレンガのへいの所は、むかしは二メートルぐらいの丸太がならべられていて、そこでレンガをほしていました。
工場の広岡勘兵衛という人は、土がなくなったので遊園地をつくることを考えました。
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この『開校二十周年記念誌』には、奥付の協力者のリストに石神寅松さんの名前があります。
したがって、ここに描かれている煉瓦工場や煉瓦塀の記述は、石神さんの証言による部分が多いのではないかと思われるのですが…
最後に気になる一文があります。
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荒川遊園
池は、ほってつくりました。ほった土は、今の住たくがある所に運んで、木を植えました。丸太のへいは、売れのこったレンガを使って、今のこっているような、レンガのへいにつくりなおしました。
池は今よりも大きくて、ボートをうかべ、たきもつくりました。遊びつかれた人は、大きな家で休んで、おとなも子どもも、楽しくすごしました。花火大会や、すもう大会もあったということです。
大正十一年になって、王電(今の都電)のものになりましたが(注2)、後になって東京電力が買って、まわりに会社の人の家もつくりました。
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と… 東京電力!?
この土地にはこのうえ、東京電力まで関わってくるというのか!?
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(2000.1.4記) |
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