梅沢写真会館
▲荒川線・三ノ輪橋駅の近くに今も残る梅沢写真会館。その前身は王子電気軌道のターミナルビルであった「三ノ輪王電ビルデイング」。昭和2年1月の竣工である。
「後になって東京電力が買って、まわりに会社の人の家もつくりました」。

 しかし現在、煉瓦塀の内部に建っているのは社宅ではありません。
『開校二十周年記念誌』に書かれたことが真実であるとするならば、煉瓦塀の内側にはある時期に東京電力の社宅が建てられ、それが撤退した後に今の住宅が建てられたことになります。

 手がかりとなったのは、昭和30年に荒川区土木課が編纂した『荒川区土木誌』でした。
 いささか長い文章ですが、重要なことが記述されているため抜粋します。

あらかわ遊園 明治五年石神仲右衛門氏によつて十二天の森と小台の渡しの中間、荒川の南岸沿いに小規模な煉瓦工場が建設された。この辺りはかつての藤堂和泉守高虎の館跡で屋敷山の池田とも云われていた。
 その後この工場は鳥井某の手を経て明治二十八年広岡幾次郎氏に謙譲され、一時は隆盛を極めたが、のち出火するに及んで全施設を焼失した。ここにおいて広岡氏は開通後間もない王子電車の状況に着目し、当時王子電気軌道株式会社の社長であつた金光庸夫氏の援助を得て、工場の敷地を遊園の創設に当てることを策した。専門家を招いて行われた整地、施設の築造、建造物の配置、植樹等に対する広岡氏の献身的な努力と周到な企画は巨額の資本の投入を促し、大正一一年に一部設備の完成をまつて、広岡氏個人の経営のもとに「あらかわ遊園」の誕生をみたのである。翌年九月の関東大震災における被害も少時にして復旧し、逐次拡充された諸施設は行楽地・避暑地として城北の名園と謳われるに至つた。
 ここに登場する広岡幾次郎という人物は、広岡勘兵衛の血縁者ではないかと考えられますが、広岡勘兵衛との続柄は不明です(没年からすると本人である可能性も高いと思います)。
 この部分が不明瞭であることを除くと、『荒川区土木誌』は荒川遊園の歴史における、空白の部分をすべて明らかにしてくれます。
 しかし広岡氏歿して後、昭和初頭の不景気に遊園の経営も困難を極め、昭和七年遊園の経営一切は王子電気軌道株式会社の手に委ねられることになつた。その後第二次大戦の勃発に際して遊園の施設は放置され、昭和一六年園内に高射砲陣地が設置されるに及んで全くの荒廃地と化した。
 東京都制の実施直後の昭和一八年(注3)、企業整備によつて王子電気軌道株式会社は解消し、電気事業は関東配電に、電車事業は東京都電気局に夫々併合され、遊園の敷地は残存施設と共に関東配電株式会社の所有に帰した。
 終戦後も暫く放置状態にあつた遊園は殆どその設備を失い、僅かに旧大浴場を改修した関東配電株式会社の寮と旧兵舎の戦災者住宅がみられるにすぎなかつた。
 私が誤っていたのはここでした。
 王子電気軌道の解散の後、その資産は東京府ではなく関東配電株式会社のものとなったのです。

 そもそも関東配電という会社自体が大戦中の企業整備で東京電燈(明治16年創業)などいくつかの配電事業社が統合されて誕生した会社で、王子電気軌道もこの流れの中に飲み込まれていったことになります。
 そしてこの関東配電こそ、昭和26年5月1日に発足する東京電力株式会社の前身です。

 この間にあつて、昭和二一年遊園の敷地は東京都々市計画決定に基づき緑地帯建設指定区域にされ、荒川区においても、東京都建設局の指導と援助の下に児童のための健全な社会環境の育成を目標にして遊園の再建運動を展開した。
 かくして昭和二四年七月、とりあえず東京都と関東配電株式会社との間に行われた遊園の敷地に関する貸借契約の締結をまつて、直ちに児童福祉法に基づき同年度の工事として着手し、ここに区立児童遊園の設置をみたのである。更に二五年三月建設省告示第一◯四号をもつて都市計画荒川公園として指定され、児童の綜合公園として逐次施設の拡充に努め、同年八月に「区立荒川遊園」として開園するに至つた。
※ブラウザでの出力が不可能なため、一部旧字体を新字体に改めています。
 東京電力(関東配電)がこの土地に関係を持ったきっかけは分かった。
 あとは社宅の建設および撤退の時期。
 ここまで時代が現在に近づけば、地図や航空写真による調べが可能です!
千住製絨所の煉瓦塀
▲サッポロビール荒川物流センター(南千住6-43)の脇にも煉瓦塀が残る。明治12年創業の千住製絨所の外塀である。
 昭和30年代に千住製絨所が撤去した後、跡地には都立荒川工業高校や東京スタジアム(現・区営南千住野球場)などいくつかの施設が建設された。荒川工業高校の西側にも煉瓦塀の一部が残っている。
 この煉瓦塀に使用された煉瓦には、小菅集治監で製造されたものが含まれており、集治監製に特有の桜のマークが刻まれた煉瓦が確認されている。
 まずは住宅地図を探してみました。
 国立国会図書館に所蔵されている住宅地図で最も古いものは昭和35年のものです。
 しかしこの時点では、すでに煉瓦塀の内部は現在の状態に近いものとなっています。

 航空写真にも目を通してみました。
 国土地理院関東地方測量部に問い合わせたところ、荒川遊園周辺の航空写真は昭和12年に陸軍が撮影したものと、昭和24年9月に米軍が撮影したものが存在するのみで、この後国土地理院が撮影したものは一気に昭和30年代になってしまうとのこと。

 昭和12年撮影分はまだ関東配電という会社が存在していなかった頃ですから、今回の調べには不適当です。
 そこで昭和24年・米軍が撮影したものを見てみますと…
 この写真には荒川遊園の内部に、等間隔で住宅が並んでいるのが確認できます。

 また、国土地理院の回答では次は昭和30年代とのことでしたが、民間会社(株式会社写真測量所)が昭和28年に撮影した写真を、荒川ふるさと文化館で偶然見つけることができました。
 ここでも荒川遊園の内部には住宅が確認できますが、昭和24年の米軍撮影のものと比較すると、住宅の数が増え、すでに昭和35年の地図に近い状態となっているように見えます。

『荒川区土木誌』によると、東京都と関東配電の貸借契約の締結は昭和24年7月。この時点までは荒川遊園の土地はすべてが関東配電の所有だったことになります。
 それからわずか2ヶ月後に撮影された航空写真に出現する住宅は、どう考えても関東配電の施設、つまりは社宅だったのではないか?
 そしてこの社宅が、関東配電の被災した社員のために提供されたものであったとすれば『荒川区土木誌』の「戦災者住宅」という記述とも一致するのですが…
 しかし何の記録も存在しない以上、あくまで推測にしか過ぎません。

 はあ…
 どうやら、このへんが限界のようです。

 米軍の写真に存在するのは、関東配電の社宅なのか?
 昭和24年から28年までの間、煉瓦塀の内部では何があったのか?
 結局、これらは謎のまま終わってしまいました…

 さて、最後に紹介するのは、衛生博覧会恒例の10年前写真
 煉瓦塀の途中に存在する、アーチのような部分の平成元年の姿です。

 このアーチの用途が一体なんだったのか、私は長い間疑問に思っていました。一見、通用門のように見えますが、いくら当時の日本人が小柄だったとしてもこれでは… と思う程度の高さしかないのです。
 そこで私は、アーチの用途も含めすべての疑問に答えが出ることを期待して、荒川ふるさと文化館の学芸員さんに電話をしてみたのですが…

 ところがこの煉瓦塀については、学芸員さんにも詳しいことは分からないのだそうです。
 広岡煉瓦工場王子電気軌道も、現在は存在しない会社であることが最大のネックとなっており、開園当時の文献がまったく残されていないため、その建設時期も「石神寅松さんの証言を信ずれば」、という留保つきでしか発言できないということでした…

荒川遊園の煉瓦塀〜その4
▲荒川区の煉瓦塀(平成元年撮影)
 いつか時間がありましたら、都電に乗って荒川遊園地まで出かけてみて下さい。
 煉瓦塀は、今もそこにあります。
(2000.1.5記)
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