大阪府枚方市 200443日 200455日 公開)

 

 大阪府枚方市はとりわけ観光地というわけではない。ここは私の故郷である。旅行記というよりは、自己満足の「時空を超えた旅日記」と言った方が適切かもしれない。従って、公開を少し躊躇したが、「私の視点・ノスタルジックシリーズ」ということで公開しておこう。(住宅地が多いので、町の写真はあえて載せない。)

     

 

 

 この町を訪れるのは、前回で通ってから3年以上が経つ。公共交通機関と徒歩で巡るのは、およそ5年ぶりとなる。平成10年頃は頻繁に訪れていた。

 大阪駅で「寝台急行銀河号」から降り立った私は、京橋駅を経由して片町線で津田駅へ向かった。大学のイベントがあるらしく、津田駅のバス停は長蛇の列だった。

 私は津田駅から歩き、農業地域を通って、津田南小学校へ向かった。少林寺拳法の練習中に足を負傷してしまい、身体的には歩きたくないのだが、心は歩きたくて仕方がないのである。

 津田南小学校から野村元町、野村中町へと進んだ。それにしてもこのあたりは道が狭い。問題ある地域ではないのだが…。

 

    

 団地の廃墟。私が知る限りでも、二十数年以上このような姿を晒している。こんなのが数棟ある。私が子供の頃には「幽霊団地」と呼ばれていたような気がする。小学校時代、下校時にたまに男女十数人でここに侵入したものだった。そういえばあの頃、「水曜スペシャル探検隊」というのがはやっていて、みんなでいろんな所をよく探険したものだった。それにしても、事故が起これば怖い。一応立入禁止にはなっているが、ここは学校も近いので、早く何とかした方がいいと思う。“後輩”が事故にあったらやっぱり辛いからな…。

 

 

 さて、当時、父が会社をやっていた関係で、津田と野村には、持ち家が2軒と借家が2軒あった。ずっと津田を拠点に構えていたのだが、規模を縮小するにあたり、津田の大きな家を手放して野村に集約するようになった。オイルショックからの10年ほどは本当に苦しい時代だったのだろう。そのようなわけで、津田と野村が私のいた町となる。もちろんよき思い出の主役は津田である。

 

 津田幼稚園および、隣接する津田小学校へと歩みを進める。

 津田小学校も先程の津田南小学校も校門はかたく閉ざされていた。昔、大学入試の帰りに立ち寄った時には学校内に入れたのだが、近年は学校をめぐる悲しい事件が多かったからだろう。時代も変わったものだ。

 津田小学校は、窓枠こそ変わったものの、昔の校舎が健在であった。

    

 桜の季節にここを訪れるのはおそらく20年ぶりぐらいであろう。津田小学校の3号館前の二宮金次郎像の前で、入学式の写真を撮ってもらったことを鮮明に覚えている。ふざけたポーズをとって父から怒られたものであった。この桜も何年間新入生を迎えてきたのだろうか? もうすぐ、私の二十数年後の後輩達が1年生となる。

 

     

 これは津田小学校の前にある道路標識である。直進すれば生活道路を往くことになる。八幡も田辺も左折だと思うのだが…。田辺・穂谷方面へは、路線バスのように津田中学校前を右折すればよいではないか。

 子供の頃の通学路を通り、津田○町を目指す。私は東側の最遠隔地グループの1人だった。幼稚園へは京阪バスで通っていたが、小学校からは徒歩になった。この町は、大きな持ち家が建ち並ぶ新興住宅地であった。ここの保護者集団は校区内においては一大勢力を誇っており、府営住宅サイドの保護者集団とはなにかと対立していたように記憶している。

 そういえば、私はとても目立つ子供だった。断っておくが、○動性などの障害やアホでない。従って、PTA役員を決める時には私の母を推薦する者が多かった。そのようなわけで、クラス替えの後にPTA役員が決まるまでは目立たないようにしてほしいと両親から懇願されたものだった。しかしながら、父がちょっとした地元の名士だった事もあり、結構いい思いができたのも事実だった。

 

 さて、いつものように津田○町へと歩を進める。そう、いつものように…。ところが、とんでもない事態に遭遇した。ある一角に同学年の家が3件かたまっていたのだが、1件目も2件目も表札が変わっていた。3件目は家ごと無くなっていた。家族ぐるみで付き合っていた仲良しだった女の子の家は、家ごと無くなっていた。これはさすがにショックだった。よく私の父の車で一緒に出かけていたものだった。ピアノ教室も同じところに通っていた。よく私の家でご飯を食べていた。人には言えない○○なことをして遊んだ事もあった…。

 私は、この町をたびたび訪れていたが、決して特定の誰かを訪ねていくというわけではなかった。しかし、その場にあって当然だと思われていたものが無くなってみると、かなりの喪失感に苛まれるものである。

 小学4年で遠くへ転校して行った私は、昔の友達がどのようになったのか知る術がない。率直に言って、ものすごく興味がある。会いたいとさえ思う。願わくば、津田中学校の卒業アルバムなどを見てみたいものである。…私は、ろくでもない人生を歩んできたため、平成10年頃は昔の知人の前に出て行く勇気が無かった。しかし、一度ぐらい勇気を振り絞って訪ねてみてもよかったかもしれないと激しく後悔した。何やってるんだろうオレは…。目の前が少しかすんできた。

 

 打ちひしがれた心のまま、とりあえず彷徨った。さすがに1970年代の町並みらしく道が細い。私のメルセデスで右左折ができなかった箇所も多い。

 国道には新しい道ができていた。津田センターはすっかり廃墟になっていた。時代は移り行くものなのだ…。

 

 いつもは青春18きっぷなどのJR企画きっぷで訪れる事が多いため、津田駅ばかりを利用していた。今回は京阪枚方市駅を利用する事にした。バスの運賃を用意するときにふと気づいた。掌の中の硬貨には「昭和」の文字が…。こんな身近なところにも「昭和50年代ノスタルジックもの」が存在するのである。さて、前回訪れてから10年以上経つ京阪枚方市駅は、特急が10分おきに停車するようになっていた。

 大阪勤務時代に原付でこの地を訪れた事があった。しかし、国道1号線を原付で走る事にビビッてしまい、一度しか行かなかった。別の道を探してでも行っておけばよかったと酷く悔やまれる。さすがに徒歩では、子供の自転車の行動範囲には到底かなわない。

 

 誇れない人生を送ってきた自分自身が最もいけないバカだということはよくわかっている。しかし、時の流れは待ってくれないものである。できる時にできる事を、一か八かやってみる事も時には大切かもしれないと思えてきた。そういえば、私は高校の同窓会の誘いをかたくなに拒否し続けてきた。実家が移転した今ではさすがに連絡は無いが、もしかすると私に何か問いかけたい人がいたかもしれない。そのようにも思えてきた。

 

 学校も昔のままだし、町並みに大きな変化もない。しかしながら、再び訪れたいという思いがかなり小さくなった。「遠い昔に忘れてきたもの」の正体がよくわかった気がした。

 

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