「立った!立ったわ!!
クララえごJr.が立ったわ!!!」
というわけで本日初めて愛息が二足で立ちました。
ピテカントロプスエレクトスにまで成長しました。
愛息といっても所謂それではなく
正真正銘本物の我が息子です。
所謂それはもう日々(以下略
日々成長を続けるのは判ってる筈なんですが、
やはりこれは相当に嬉しい。
しかも。
喜びに輪をかける事実がありまして。
先日発表された甲斐よしひろのアルバム、
「翼あるもの2」の一曲目。
”「祭ばやしが聞こえる」のテーマ”がやけにお気に入りで、
リズムに手を振る躰を揺らす、と
購入当初から愛息はノリノリだったんですが。
今日はその躰を揺らす動作の延長で
「すく」と立ち上がりました。
飯を食う口もポカーン・・・ですよ。
わしの人生の中、あらゆる場面に甲斐さんの声、唄はありましたけど。
今回は感激もひとしお、という感じです。
こういう日は酒の美味さも格別です。
2003.11.5
石原都知事の発言の波紋をマスゴミが広げようとしてました。
要旨は、日韓併合を100%正しいとは思わないが
併合は朝鮮の総意に基づくものである、といったものでしたが。
多くのマスゴミは「総意」の部分を論って批判してましたが、
社会的な意味での「総意」であれば確かに間違いでしょうが、
というより社会的な意味での「総意」など特殊/異常な国家以外にはあり得ないでしょう。
ただし政治的な意味であれば、「総意」というのはあり得ます。
例えば日本も含めた民主主義国家=多数決至上主義国家においては、
多数決により得られた結論は「総意」により得られたものに相違ありません。
おっと洒落てしまった
いずれにしろ、日韓併合は朝鮮政府としての併合への意志が
その国際政治的根拠となったのであるからこの点に関し
異論はあろうが少なくとも誤った事を述べているものではありません。
端的な極論とも言えますが100%間違っているということではありまえん。
そんなわけで、笛吹けど踊らず、という雰囲気になったところで、
TBSはやってくれました。
「日韓併合は100%正しい」と石原都知事が断言したと
ご丁寧なテロップ付きでの報道です。
これに激怒した都知事に対しTBSは
「恣意的なものではない。誤りは訂正・謝罪した」の一点張りです。
恣意的なものでないとすれば、
日本語が不自由な人がテロップを創作しているとしか考えられないんですけどね。
前後の文脈からしても「正しい」と断言してしまうと
完全に日本語が狂ってくるんですから。
それとも単なるバカがテロップを作ったんでしょうか。
つまりTBSは日本語が不自由な人かバカのいずれかが
報道をうたった番組の制作に関わってるわけですな。
今後どういう言い訳をしてくるのか非常に楽しみです。
すげえぞ、TBS。
2003.11.12
今日起きたら箕面に行くのでちと思い出した。
箕面といえば名物は滝に猿に「紅葉鍋茶屋」。
わしはこの店ほどうどん屋、いや食い物屋として
インパクトを持つ店を寡聞にして知らない。
初めて職場の先輩に連れられていったのはちょうど8年ほど前になろうか。
そう、お前の就職先のな>Y野
って見てるかおい
データ入力に疲れたわしを誘ってくださり、
しかも車に乗せてもらい着いた先は
小汚いアパートの裏。
そのアパートの国道側には中華料理店があったのは右折前に見ていた。
しかし確か「うどんを食おう」と誘われた筈だった。
国道側に出てみると
巨大な狸。
そこには果たして動くのかと訊きたくなる汚い引き戸。
迷わず入ろうとする先輩。
目をパチクリさせながらついて行くと、中には
犬(瀑)
いきなり半泣きです。
一言。
「びっくりした?」(東京のイントネーション)
いやわし犬怖いんですけど(瀑)
店内を犬が歩く飲食店が世の中に在って良いのか?
等とお思いの方も多数いらっしゃるでしょう。
そんな事で疑問を挟む余地はこの店にはありません。
見回してみると絶句も絶句。
丸木にホイールを乗せた椅子。
油に浸透させたかのような座布団。
モンキーマジック・ワキタ時代のスペル・デルフィンが載った週プロ。
加藤剛のサイン。
糸を引いて埃の垂れ下がる扇風機。
店の片隅にはプライベートスペース、というか完全に居間。
そして何より、親父。
あんな周囲よりも浮き立つ、いやその周囲のインパクトを
全て吸収し我がものにしたかのようなそのキャラクター。
見た目だけでも十分過ぎるのに店員=女房子供を
怒鳴りつける声が店内に響き渡ります。
客には優しいんですけどね。
まあわしも信頼する先輩に連れられて、ですから平静を保ちつつ
座って煙草を吸いながら仕事のこととかいろいろ喋ってたんですけど。
話が尽きるまで注文を取りに来ません(爆)
どうみても他の客は一組だけなんすけど・・・・
で、カツ丼と天ぷらうどんを頼んで更に待つこと・・・多分一時間ぐらい。
これがまた不思議と旨い。
夜寝れないほど濃い味ではありますが(爆)
油が古いという噂もあり
結構癖になって数ヶ月に一回は食いに行ってましたね。
いい酒も置いてましたし。
酒の肴もまた旨かった。
フカヒレとわかめなんぞ最高でしたね。
で。
この一年ほど、子供が生まれたこともあって行けなかったんですよ。
というかこんな環境に我が子を放り込むほどわしは鬼ではありません。
千尋の谷に投げ落とすより過酷ですよ。そんなもん。
そして先日店の前を通りました。
「貸店舗」という看板が・・・・・
店があった所はがらんどうになっていて。
寂寥感、って言うんでしょうね。
なかったら困るわけでもないし、
親父の体調も悪そうだったし、
まして社会的に存在を許されていたのが不思議な店ではあったし・・・・
当然といえば当然の帰結ではあります。
でも。
わしはあの店、好きでした。
親父の怒鳴り声も、食後眠れない夜も含めて。
犬を撫でた手でうどんを食うことも、
延々待たされることも、
鍋の中に天ぷらを放り込んだ「ジュッ」という音も、
洗面器のような丼も、
鍋焼きも天ぷらも・・・・
もう、喰えないんですよね。
寂しさを感じつつ、この言葉を送りましょう。
紅葉鍋茶屋は永遠に不滅です。
特に親父のインパクト。
2003.12.6
とうとう自衛隊派遣決定とのこと。
想う処はいろいろあるけど、既にゴー宣で小林よしのり氏が
言及した通りだと思うので詳しくは言いますまい。
ただ、自民党を惨敗させるしかないという言については、
一理あれどその代替が無いだけに・・・という気がしてしまう。
マスクラシーはポピュリズムに堕すのみ。
結局、破滅への道をひた走るだけ走るしかないのかなとすら想ってしまう。
で。
外交官二名の死に関して言うと、非常に痛ましいと心底想うし、
遺族の方々には謹んでお悔やみを申し上げるしかないんですが。
以後の政治的活動、言動は「死」または「死者」への想い、
というよりむしろ日本民族独特の感情を利用すること以外の何ものでもないとわしは想うんですよ。
日本民族固有の感情として、「死者に対する畏怖/恐怖」というものは
全世界的に視て異常に強いんですけど、
これこそが大東亜戦争の惨憺たる結末を招く元凶だった筈なんですよ。
「死んでいった戦友に申し訳が立たない」だの、
「英霊に合わす顔がない」だのと言い募り、
挙げ句本土決戦だの進め一億だのとエンドレスな状態に落ち込んだのは、
こんな民族感情があったからこそ、なんですよ。
ただし一応断りますが、大東亜戦争が避けることができたか否か、
と言えば避けられなかったと思いますよ、わしは。
避け得るにはクーデターを起こす以外になかったと思います。
民族性も政治制も全て転換するようなクーデターを起こすしか。
これが可能かどうかは、推して知るべし、でしょうが。
ただ、大東亜戦争に於いて、引き際を決める事はできたと想います。
民族的感情に流されず、且つ押さえ込むことができていたならば。
犬死ににはしないと曰い戦うことこそが、
結果犬死にと決めつけられることになったのは皮肉ですが、
それは当然の帰結なのかも知れません。
で、わしにはね、今回の一件もあの戦争の二の撤に見えてくるんですよ。
判りきった事ながら、教訓など何もなく、同じ事を繰り返しているだけに。
敢えて言うなれば、故人の遺志は忘れ去ってでも、
日本として、日本人として、やるべき事、避けるべき事を
真剣に考える必要がある筈なんですよ。
わしにゃ単純な話に想えるんですけどね。
派兵に筋が通っているかどうか。
派兵に筋を通してるかどうか。
わしゃ、どう考えても筋、違えとると想いますよ。
全然筋に一貫性ないですよ。
あるとすれば「アメリカ追従」という一貫性のみ。
そんなんで自衛隊員に「戦地へ行け」「死地へ赴け」とは、
わしゃよぉ言いませんわ。
それでも行かされるのが自衛隊であるならば。
無事を祈るしかないんですよね。一個人としては。
ドラマの主題歌になった中島みゆきさんの「銀の龍の背に乗って」という唄があります。
わしには冗長に過ぎて正直なところ好きな唄ではないんですが(笑)、
この曲のサビは正にあるべき自衛隊員、
そして日本人の心情を言い表しているような気がします。
みゆきさんがどんなつもりで書いた詩なのかは知りませんが。
銀の龍の背に乗って 届けに行こう 命の砂漠へ
銀の龍の背に乗って 運んで行こう 雨雲の渦を
実際の処は罪悪感と疚しさを抱いて表向きこう言わざるを得ないというのが情けない話ですが、ね。
純粋にこう想え、行動できる状況であれば、と臍を噛む想いです。
しかし・・・・・・国の補償が安過ぎると想うのはわしだけかいな?
2003.12.27
それはとある火曜日のことである。
仕事を終え着替えの最中、サンダルのマジックテープを剥がそうとしゃがみ込んだ瞬間。
いたひぃぃぃ.......
ギックリ腰の瞬間である。
これまでに経験のない痛みである。
ギックリ童貞であったわしには破瓜の痛みもかくあるやである。
痛みの持続はないものの、全身から力が
へにゃるん....
と抜けるような虚脱感を併せ持つ痛みである。
帰宅しても靴を脱ごうとして
いたひぃぃぃ.......へにゃるん....
子供を抱こうとして
いたひぃぃぃ.......へにゃるん....
飯喰って
いたひぃぃぃ.......へにゃるん....
風呂入って
いたひぃぃぃ.......へにゃるん....
というわけで久しぶりに酒を抜き鎮痛剤を内服して寝ることにしたのである。
しかし寝ていても寝返りの度に痛みで目が醒め、
両手で支えながらでなければ寝返りなど打てない。
ちょっと寝ては起きの繰り返しで朝を待った。
ら。
起床しようとしても動かないし動けない。
必至に俯せて手で起きようとするも力が入らない。
片足ずつゆっくり上に引き上げ所謂後背位の姿勢にまでもって来たはいいが
そのまままた動けない。
かような格好の女性を眺めたい願望は人一倍いや五倍ぐらいは好きであるが
男しかも自分では見たくもないし見られるのはもっと困る。
しかし仕事に行かなければ更に困るのでゆっくりそろそろと上体を押し上げた。
ら。
そこからまたも、いやこれまで以上に動けない。
正にワンワンスタイルのまま動けない。
どうやって起きあがればいいのかすら判らない。
腕に力を込め跳ね起きようにも力が入らない。
これ以上足を前に引き出そうにもまた力が入らない。
横に足をスライドさせベッド(マット)から床に足を着けようにもこれまた更に力が入らない。
壁まで這って行き壁に手を付けて這い上がろうにも必然這うことすらできない。
まさに。
手詰まりチェックメイト雪隠詰めである。
ややもすると襲い来る痛みの嵐の中わしは必死に考えを巡らせた。
今日は平日当然仕事しかもその量は量質ともに甚大ここで休むわけには行かないでも痛いし動けない午前中は立ち仕事だから立つことさえ出来ればなんとかなるし職場に行けばテーピングが出来るはずいやそれだけではなく整形外科があるじゃないか幸い午前の仕事は昼前には上がるはず終わり次第受診頼んで診て貰おう注射でもテーピングでもなんでもしてもらおうしかし今は動けないどうしたらいい子供はなにやら不思議そうな顔で見ている愛妻の力を借りようにもどう借りればいいかわし自身が判らないどうすればいいどうすればいいどうすればいい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僅か数秒の思案の後結論が涌き出でた。
痛んでもこの痛みは通り過ぎる筈。
ならば全身の力を振り絞り起き上がれ。
ジョーは最後まで立ち上がり
アムロはガンダムを立たせた。
愛息もまた両の足で歩き始めたのだ。
「わし自身」すら
毎日のように立ち上がってるではないか。
息子とムスコに負けてどうするのだ。
立て、立つのだえご。
行け。
力を振り絞れ。
自棄のヤンパチ火事場の糞力
努力とはおんなのまたにちからを込めるのだっ。
最後は関係ない
「ぐわおぉっっっ!!!」
思わぬ奇声を発しながらわしは起きあがった。
全身の力を奪う痛みに抗いながら。
ともすれば崩れ落ちそうになる躰を支えるために汗をかくほど肩と腹筋に力を込めて。
思えばそれは痛みに伴う冷や汗だったのかもしれない。
しかしわしは酔い痴れていた。
ギックリ腰に勝利したのである。
起き上がる時の奇声は勝利への咆吼だったのだ。
汗は勝利の証だったのだ。
その直後。
また新しい敵がやって来た。
洗顔という敵が。
これは片手で洗面台にブレーンクローをお見舞いし片手で顔を洗うことで瞬時に組み伏せることが出来た。
更にまた。
凶大な敵が現れた。
着替えという軍団が。
タンクトップとトレーナーは敵というには与し易くけんもほろろにあしらうことが出来た。
パンツは曲者だった。
ただわしの頭脳の方が一枚上手だった。
片足を軽く上げるだけで弱点である穴を突く事が出来、
蟻の穴から崩れるダムのようにその牙城を切り崩すのは容易だった。
ジーンズは長いだけでパンツよりもむしろ与し易い。
同じ手で簡単に切り崩せたのだ。
ここに於いて。
最大というには余りにも小兵な、
しかし小兵と謂うには余りにも与し難い最強の敵が現れた。
その狙いを絞らせない形といい大きさといい柔軟性といい
全てに於いて最高の守備力を誇る難敵である。
その名は。
ソックスである。
駿馬に跨る荒武者もかくあるやと謂わんばかりに名乗りを挙げ
わしに襲いかかってきた。
起床直後からの闘いに全身の力を振り絞って来たわしに残る攻撃力は僅かである。
一瞬愛妻という援軍を頼もうかと逡巡したが、
ここまでの孤独な闘いをそんな形で終わらせるほどの軟弱者に成り下がりたくはなかった。
わしは蒲田行進曲の平田満ではないのだ。
幸いフットボールで鍛えたわしの足は片足ですら全身を支える力を持ち、
更に足を挙げるだけの柔軟性も33歳にして十代並みに保たれている。
そして攻撃方法はパンツやジーンズとの闘いで心得ている。
わしは足を挙げ、狙いを定めた。
親指を尖らせ一気に突き刺す。
ソックスはその柔軟性により素早く身を翻らせ、わしの攻撃を軽くいなした。
小癪な。
わしはもう一度その急所に狙いを付けた。
またもソックスは身を翻らせわしの攻撃をかわそうとした瞬間。
わしは足を捻り、急所を正確に捕らえた。
突き通る感触。
わしは手の指をも捻じ入れ、最後まで足を突き通すことに成功した。
大勝利である。
わしは次々と襲い来る難敵達に勝利したのである。
そして。
疼痛という最後の敵は呆気なくも消え去った。
ここに於いて援軍に頼らざるを得なかったのは至極残念ではあるが、
疼痛はわし自身の身から発するものでありこれを霧散させるための力はわしに残ってはい無かったのだ。
わずか三本のテーピングにより外壁を崩し、ステロイド&局所麻酔薬により内部は瞬時に崩壊した。
更に外壁の残党を掃討するために湿布薬、
内部掃討のためには鎮痛剤の支援を得た。
彼ら援軍によりわしは午後の仕事を無事片づけることが出来たのである。
しかしながら敵として天晴れであった。
これまでにも数多の痛みと闘い続けてきたわしであるが、
これほど屈服し一敗地にまみれそうになったのは初めてである。
更にその残党は今だわしの隙を窺い、再び襲いかからんと雌伏を続けているのである。
聴く処に依れば、ギックリ腰とは
幾度となく襲いかかり、人を苛ますモノであるという。
その時にわしが再度勝利を得ることが出来るかどうか。
願わくば二度と現れん事を願いこの項を終えることとする。
2004.3.7
平成16年4月8日夜、TV上にニュース速報の文字が踊った。
日本人三名がテロ組織に拉致/拘束されたと。
サラヤ・ムジャヒディンがどのような組織なのは知らないが、
実際にやっていることはテロル以外の何ものでもないので敢えてテロ組織と呼ぶ事にする。
責めるべきは、憎むべきはテロルであるという大前提をわしは変えるつもりはない。
しかしながらテロルの被害を政治的に利用し戦争と云う名のテロルを行う大国を更に否定する。
それに乗らざるを得ない日本、そして自衛隊派兵の是非はわしの中で未だ結論づけられてはいない。
道義的には無論非であるが、ならば同盟関係を無視して完全独立するしかなく、
そのためには諜報活動や軍備を含めた外交の強化を謀る以外にはないのであり、
世界的に見て最も諜報/情報活動が不得手な日本人にそれが可能か否かと考えれば 必然否でしかなく、
であれば日米同盟に乗らざるを得ないとなりメビウスの輪の如くの思考にならざるを得ないのである。
このような状態で不安定に揺れる日本を、
且つ以前から指摘してきたようにテロルに弱い日本を、テロ組織が狙わない訳がない。
むしろこれまで国内で何も起こらなかったのが不思議なぐらいなのだ。
わしがテロ組織に在る身であれば、日本を、日本人を必ず狙うと公言してきた。
この観点と、繰り返すがテロルは絶対に認めない立場を合わせ、敢えて問う。
被害者本人、また家族知人の方々の心痛も推し量りながら、敢えて問う。
何故そんな所にいたのだと。
テロルが明らかに行われ戦争とテロルの区別すら怪しくなっている現状の中、
何故無防備にそこに向かったのだと。
激烈な外交の場に、何故私人が足を踏み入れたのだと。
戦争という外交の場に望むこと無く巻き込まれるのならいざ知らず、
自ずから意志を持って足を踏み入れたのであれば
それは既に私人の性質を否定することに他ならない。
如何に高邁な道議心がそこにあろうとも。
自ずから政治的利用を被る立場になった以上、既に私人ではあり得ないのだ。
従ってテロ組織並びに日本国政府が如何なる立場、判断を採ろうとも、
これに反論/反対する事など物理的には言わずもがな道理的にすら能わないのだ。
もう一度、敢えて問う。
そこまでの覚悟があったのか否か。
己の生命存在全てを賭け、且つ委ねる覚悟があったのか否か。
そのような覚悟が在ったのであれば、
何かを変えること、伝えることは出来るかも知れない。
しかしなかったのであれば。
只の邪魔者大迷惑に堕する事に疑いはない。
無事を祈るのは、無事に安堵するのは詳細を解ってからとさせていただく。
〜後日談〜
約二名+二名は拉致られて良かったみたいね。
かろうじて発言権貰えたじゃん。
マスゴミにアホ面晒け出す権利は。
結局そういう権利得るのが君らの活動目的でしょ。
おめでとう。
飛行機代ぐらい払っとけよ。
その数倍のペイがあるじゃろぉよ。
まあ、その数十倍「アホ」の烙印押されとるけどな。
言うたらいけん(と日本民族的に思われることと)ことは言わんけど、
思うことは皆な思うとるんで。
他一名女性には同情しないでもないけど現実見ろよって。
2004.4.8
昨日仕事中、M警察署の交通事故係Fと名乗る人物より電話を受けた。
曰く。
「歯の怪我は(重傷度として判定が)難しいので
M警察署としては受け付けない。
それ以外の怪我について診断書を書いて下さい」とのこと。
元々「全治」という表現は医学用語ではなく法律用語であり、
その解釈は医師/歯科医師により異なるというのが現実である。
異なる解釈に基づく診断書により交通事故の際の罰金や行政処分は決定されるのであるから、
不公平が生じるのは自明であり、またそれはわし自身も経験しておりよく解っている。
更に歯一本の怪我で「全治二ヶ月」などという表現が正しいのかどうか、
わし自身判っていないことは認める。
「全治」という言葉にはこのような曖昧さ、
もっと言えばいい加減さがつきまとっている現実に異を唱えるべきであり、
わしは公私を問わずこの件について何度も意見してきた。
従って件の自称警察官の言う見解は十分納得できる。
「全治」という言葉を使う以上、極端な例を挙げれば、
歯が抜けずに動揺している脱臼という状態よりも
歯が抜け落ちてしまった方が機能の回復=見た目の治癒は早く軽傷ということになってしまうのだ。
このような矛盾とも言える複雑さがわしらの業界にはあるのだ。
明確なガイドラインが現実にない以上、
機能の回復と日常生活への復帰への期間を「全治」と書かざるを得ないのである。
ならばもし、正式な通達により、
「この怪我でこの程度なら全治何日」というガイドラインが明示されれば
わしは両手を挙げて賛成する事は間違いない。
ただ冒頭にも述べたように、その指示は顔も服装もましてバッジも手帳も見えない電話口で、である。
わしは未だこの電話が本当の警官なのかどうか判らない。
おそらくは騙りの類だと信じたい。
診断書という公文書の書き方を口頭しかも電話で指示するという事が
どういうことなのか解ってもいない警官がもし現実にいるとは思いたくない。
いずれにしろ不快な電話である。
騙りであれば騙そうとする人間の醜悪さを見せつけられたわけであり、
真実であっても暗愚な警官が在るという暗澹たる現実を見せつけられた事になる。
情けない話、である。
2004.4.16
以前にも書いたことの焼き直し/付け足しではあるが、
時事ネタでもあるのでもう一考加えてみたい。
断っておくが、真面目な内容である。
オカズとしてインターネットを用いる方法論ではない。
インターネットが「取得」と「発信」の二方向性を持つ
簡便な情報ツールであることに異論はないと思う。
書店に出かけページを捲り得たい情報を探り出す手間と
本を購入するための代金を省き、
キーボードへの数語の入力とマウスのクリックだけで
それなりの、場合によってはかなりの情報を検索、取得することが出来、
また何らかの情報を伝達したい時には
資格や文章力や知識などを要求されることなく
数多ある掲示板に書き込むなり自分のHPに記載するなりで
いずれにしろ容易に発信できる。
インターネットの普及に寄与するものは多くあろうが、
こういった簡便性こそがその最大のものであろう。
かくして老人から子供までがインターネットの恩恵にあずかる世の中と成り果てている。
安易、容易な情報ツールである反面、いや、安易さ、容易さに比例して
インターネットには類を見ない醜悪さがある。
醜悪なものが情報伝達手段に付随するのは確かに常であるが、
インターネット上に溢れる醜悪さほど広範性と愚劣性を併せ持つものはない。
こういった醜悪さが何に起因するかと問われれば
論じる必要もなく匿名性以外にはなかろう。
わし自身、晒す個人情報は最低限に控えている事を踏まえて言うが、
殊に情報の発信という段に於いて言及する限り、
匿名性はリスク回避の防御の要であり、
且つ発言内容の急先鋒でもある。
簡単に言えば誰かの恨み辛みを自身に受けることなく
好き放題のことが言える、ということになるのである。
言いたいことが思うように言える場は現実社会に於いてあり得ないほどに少ない。
わしが言うのも、であるが、
思ったこと言いたいことの半分も言えないのが現実ではあるまいか。
その残滓を吐き出す道具、場所としてインターネットが存在している、
というのは極論とは呼ぶべくもない一つの論理である。
そして匿名であるが故にその吐き出し方は制御され難く、
固い地面を突き破るマグマの如く噴出するものとなってしまうのは、
残念ながら、当然と言わざるを得ない。
匿名性とはつまり、自身の人間性を問われず、責任もないと言うことである。
となれば、後はイドの噴出へまっしぐら、となるのは致し方ない。
貯留したイドを噴出させ自己満足を得る事、に最も近いものと言えば、
それはマスターベーション、オナニー以外にあるまい。
膿むように溜まった鬱憤を晴らすためのネット上への書き込みと
腫れるほどに溜まった精液と性欲を噴出させるオナニーはあまりにも似ている。
わし自身、ネットを介しての文言なりなんなりは全て
「自己満足の為」とか「自分が勝手に悦に入る為」と自覚している。
極論すれば、射精を伴わないオナニーであると断言しよう。
勿論それはこの文章自体もその範疇に入る。
書きながら勃起させているわけではないので
その辺りは誤解無きようお願いしたいのではあるが。
従って、インターネットとは、この意味に於いて
オナニーの博覧会と呼べるものなのである。
匿名性により粛々とした部分をより失いやすく、
そしてその内容がオナニー的であるからこそ、
その書き手のネット上に晒す品格は露呈しやすいのかも知れない。
更には簡便で誰にでも用いられるものであるのだから、
オナニーであるという自覚がないものこそが大手を振って歩くのは当然の帰結だろう。
従ってわし、そしてわしの周りのように
「上品な」人、「上品であろうとする」人は
ネットの世界に於いて少数派であると考えざるを得ない。
「下品」であることを自覚している、
すなわち現実社会とは違う世界なのだから鬱憤晴らしも兼ねて
野放図な事ばかり敢えて論う者、
「下品」であることも無自覚で、
すなわち現実社会に於いてすら人と人との関係を作り得ない
先日の事件の少女のような者、
いずれにしろこのような者達が大多数であると認識せざるを得ない。
「品」ということについて一考だにしない人々が
増加していると考えざるを得ないのが現在の世の中である以上、
インターネットの世界が世相を増幅するアンプに成り下がってしまうのは
避けられない現実なのであろう。
先ほどわしは「ネットの世界に於いて少数派」などと書いたが、
そういう者は現実社会に於いてもやはり少数派、なのである。
要するにインターネットの世界が下品であるというのであれば
それは世の中そのものが下品であると言わざるを得ないのである。
「品」を保ち、教え、伝える事の必要性、必然性を自覚する者が
多数派に為らない限り、ネットの世界はもとより
現実社会に於いても下品な輩が横行することに変わりはないだろう。
「品」という言葉が死語になりつつある現況で
望むべくも無いことなのかもしれないが。
2004.6.28
アジアカップにて日本代表は無事優勝することができた。
国策/教育の成功例
〜国際常識的に成功と言えるのかどうかは知らないが〜
としての罵声を浴びつつも
優勝を為し得たことは大いに評価されるべきだろう。
どこの国で試合したとしてもあれ以上の罵声はあるまい。
プレイ中はともかく、対戦国の国歌にさえもブーイングを浴びせるのは
中華の親子以外にはあり得ない。
そのような環境で優勝できる代表選手の精神的な強さは尊敬に値する。
ただしわしは不満である。
アジア全体のレベルアップが成されており、
平均値が上がっている以上日本が苦戦を強いられるのは当然である、
その中で日本が優勝したことは素晴らしい、という評もある。
これを認めるならば日本は進歩・成長していないという事になるし、
日本が成し得てきたワールドカップ出場、ベスト16進出という高みにまで
他の国々がこぞって上がってきた、という事になってしまう。
わしが不満なのは、この評の半分は正しい事である。
後半部分の他の国のレベルがワールドカップ時の日本のレベルにまで
到達しているということなどはあり得ない。
ベースアップは勿論あるが、あのレベルには到底及ばない。
正しいのは、前半部分である。
正直に言って、現在の代表レベルはワールドカップ時に比べ落ちているとすら思う。
例を挙げれば、今大会の失点の仕方である。
決勝の失点で顕著なように、崩されての失点ではなく
「崩れて」の失点がやたらと眼に付く。
「しょうがない」失点ではなく、「しょうもない」失点なのである。
守備体系を整えてさえいれば防げたであろう失点が多いのである。
これは監督が替わって最も眼に付くようになった事象でもある。
この点において、いくらなんでも「レベルが上がった」などとは言えない。
さらに、前回大会において、わしは私見ながら「ごり押し」で優勝した、と評した。
要するに横綱相撲を取れるレベルに日本はあったのだ。
それが今大会では全六試合中の半分の三試合が引き分けである。
ただし一次リーグのイラン戦は引き分けで十分なのだからその点は考慮すべきだが、
それでもこの結果で横綱相撲とは言えないだろう。
結局、この大会は精神力と個人能力と運で優勝したのだ、としか言えまい。
チーム力を維持、または成長させての優勝ではありえない。
ワールドカップ予選を控え全力を出し尽くすようなことをしていない、
戦術も出し惜しみしたままでいい、
という考えをジーコが持っていてそれを実践しているのであれば
この内容は十分すぎるのだが・・・・・多分違うだろう。
それにしてもMVPが中村というのは笑えた。
確かにチャンスメークの場に於ける働きは素晴らしい。
彼ほどの精度、変化でボールを供給できる選手は日本にはいない。
世界でも数えるほどだろう。
この点は以前からもわしは認めている。
しかし相変わらずDFを抜いてペナルティエリアに切れ込む動きはない。
DFを待たしているだけである。
さらに裏を取るパスを狙い、それが得点に結びつく事もある。
が、カウンター狙いの相手、しかも「パスが出る」と読んでいる相手に
ギリギリのパスがそうそう通る筈はない。
中村のパスがインターセプトされてそのままカウンターを喰らう、という
ケースがどれだけあったことか。
敵に狙い通りに試合を運ばれ、日本は支配できずに苦戦せざるを得なかったのが
準々決勝、そして準決勝ではなかったか。
チャンスメイカーなのかピンチメイカーなのかわしには判断できない。
そんな選手にMVPとは、と苦笑いせざるを得ないが、
もしかすると調子づかせて中村をこのままの選手にしておこうという
陰謀だったらこれはちとまずいなと笑ってばかりもいられない。
それ以上に嗤うしかないのが中国のフェアプレイ賞である。
普通なら迷わず警告を取られるであろう反則ですら見て見ぬ振りをして貰えれば、
取られる反則など微々たるものだ。
ならばイヤでもフェアプレイ賞を貰えるだろう。
フーリガンに悩まされたイングランドがフェアプレイに徹したのはそう古い話ではないが、
それとは正反対にサポーターに強迫観念を抱いた審判がフェアプレイを誂えた、
とでも言うべきだろうか。
とはいえあの雰囲気に敢然と立ち向かう気概はなかなか持てるものではなかろう。
日の丸と一緒に焼かれる訳にはいかない、
そう想えば笛を持つ手も重くなるのは必然、だろう。
ただ気になるのは決勝で日本に負けてしまった選手達である。
彼ら、彼らの家族に何も起こらなければいいが・・・・
2004.8.8
オリンピック初日から谷&野村の金メダル、
更に柔道陣水泳陣その他競技での日本選手団の活躍には目を見張り、
諸手を挙げて歓喜にひたる昨今であるが、
それに引き替えとばかりに落胆せざるを得ないのが
我がフェイバリット・スポーツであるフットボール、日本代表だった。
叩きのめす文章はともかく、批判めいた文章はあまり書きたくはないし、
批判を叱咤と言い換えるのには更なる嫌悪を感じてしまうわしであるが
ここは敢えて書かせていただくこととする。
先に断っておくが、これは個人批判の文章ではない。
わしは結局、初戦であるパラグアイ戦の全てを未だに観てはいない。
ニュースの映像を見た瞬間、そこに映る試合時間を見た瞬間に
観る気力を失ったからである。
世界随一とさえ言える狡猾なフットボールを展開するパラグアイを相手にして、
絶対にやってはいけないプレイがそこにはあった。
わしはパラグアイのフットボールは、断言しておくが、好きではない。
最も敬愛するゴールキーパーであるチラベルが在たチームであるが、
あまりに勝利、否、「勝ち抜く」というリアリズムに拘り
美しさと楽しさは欠如していると言わざるを得ないフットボールを見せるのがパラグアイなのであるから。
ワールドカップフランス大会に於いてフランスが延長までもつれ込んだ試合然り、
一昨年のTOYOTA CUPに於けるオリンピア=パラグアイのトップチームが
レアル・マドリーの「崩す」パスワークを完全に封じ込めた試合然り、
勝ち抜くためにはとことん守り抜く戦術を愚直に守り通しているのがパラグアイである。
わしがよく使う「Men to Man」の守備戦術を完成の域にまで高めたのは
パラグアイをおいて他にない。
一言で言えば勝ち上がるという目的をリアルに追求しているのがパラグアイなのである。
地味であろうが、傍目に面白くなかろうがそんなことを構ってはいない。
二大会連続でワールドカップベスト16に残り、
尚且つ敗戦したのは98年大会で優勝したフランスに延長で0-1、
02年大会で準優勝したドイツに0-1、という結果を残したのがパラグアイなのである。
更に言えば、第二戦で戦ったイタリアもカテナチオ〜わしの中では死語に近いが〜
と呼ばれる堅守を誇るチームであり、勝ち抜くためのリアリズムを有するという意味では
アルゼンチンやパラグアイにさえも引けを取らないチームである。
わしが矛先を向けたいのは、そのようなリアリズムに対する姿勢が
成っていたか否か、なのである。
それほどにまでのリアリズムを日本代表が持っていたか否か。
問うまでもあるまい。
虎視眈々と隙を狙うであろう相手にあの位置、
ペナルティエリア内で、ゆっくりとボールキープして
ルックアップしてパスの出し先を伺う余裕があろう筈はない。
相手が格下であってもできるプレイではない。
しかも第一試合の試合開始直後である。
シドニー大会のアメリカ戦のようなのんべんだらりとしたペースに巻かれたゲームの後半ではない。
戦術を練る練らないの話の、遙か遠く以前の問題である。
監督選手を引っくるめて、チームがリアルに予選リーグ突破を意識しているのであれば、
絶対にあり得ないプレイ、結末である。
であるからして、五分で終わったという以前に、始まってもおらず、
五分で結末を迎えた、というのがむしろ正しい表現になるとすら思う。
重ねて言うが個人を批判しているのではない。
チームとしてリアルに勝ち抜くことを戦略として持っていたかどうかのレベルで批判しているのだ。
そしてそれがもしあったというのであれば、
それは大東亜戦争に臨んだ大日本帝国よりも夢想的であったと断じざるを得ない。
観れば判る程度の情報の処理ができていなかったというレベルなのであるから。
と、オリンピック代表だけを責めるわけにも行くまい。
更に上のレベルであるはずのフル代表が
リアリズムの権化とも呼ぶべきアルゼンチンに容易な失点を許しているのだから・・・・
ドイツ大会への不安は更に募るばかり、である。
2004.8.22
とうとう9/18、19のプロ野球がストライキにより中止されるという事態になりました。
今ではさほどに野球に愛情を持たないわしではありますが、
ちょっと思う処を書いてみたいと思います。
まあ、どうしてもフットボールとの比較になってしまうんじゃけどね(^^;
ちなみに愛情たっぷりのこの件に関する文章はCRYの記憶の新コンテンツ
わしは心情的には選手会側、ファン側なんで、
経営的立場なんか知ったこっちゃないという文章にしましょう。
9/17付けの会見で機構側は「構造云々」と言ってたのでこの揚げ足を取ります。
日本の野球界ほど構造が世界標準で視ておかしいものは無いんですよ。
客が増えても赤字が減らないというのは経済的構造の過誤なんでしょうけど、
この辺はわしゃよぉ知りませんのでクエスチョンマーク付けるぐらいにしときますが。
どんなスポーツでも、音楽や芝居すら含めてもいいんですけど、
プロ=客にプレイを見せてお金を取るのは客の夢の延長線上にある筈なんですよ。
わしはフットボールだけではなく、格闘技にしろ野球にしろ、
自分の夢、果たせる筈もなかった夢、夢のようなプレイ、
そんなものを観たくて観るんですよ。
自分だけの夢ではなく、友人や彼女の夢でも同じ事で。
だからわしは夢を観せてくれる選手やチームが好きで応援するのであって、
夢が観れない選手やチームは糞味噌にするんです。
翻って、今の日本プロ野球界。
夢の延長線上にありますか?
確かに夢のようなプレイを見せる選手はいます。
ただし、それが「自分(に近い人)の夢」の延長線上にありますか?
ないですよね。
そういう夢の延長線上にあるチームを、「おらが村のチーム」と言うんですよ。
おらが村のチームなんて、一昔前の広島カープ以外にないですよ。
カープは現在でもそれを自認した立場を採ってはいますが。
ちなみにわしは広島で生まれ育ったにも関わらず巨人ファンでした(自爆)
他のメジャースポーツを観ればこんなのは当たり前の事なんですよ。
メジャーリーグにしろフットボールにしろ。
みんなおらが村のチームでやってるんですよ。
それが極端に出た例がここ数年のバルセロナとレアル・マドリーのスペイン・ダービーでしょう。
豚の頭を投げ込んだバルセロニスタは確かにやり過ぎで決して褒められた行為ではないですが、
おらが村から敵対する村、しかも征服した側に請われて行ったフィゴを
蛇蝎の如く扱うのも心情的には理解もできます。
ポルトガル人のフィゴがスペイン国内でどこに移籍しようが本来は関係ない筈です。
それでもそういう行動に出てしまうのはバルセロナというチームが
カタルーニャ地方の「おらが村のチーム」であり、
更にはレアル・マドリーがカスティーリャ=寄せ集めの征服者のチーム、だからこそ、なんです。
バルセロナの例は極端すぎるとしても、
何故ここまで「おらが村のチーム」と思い込めるかと問われれば
答えるまでもなく、地域に根付きその地域出身の選手を育てている、からです。
はっきり言って有力なチームになればなるほど地域出身の選手は少なくなります。
続けてバルセロナを引き合いに出せばレギュラークラスに
スペイン国籍の選手が何人いることやらなのが現状です。
にも関わらず、バルセロナはバルセロナの人々にとって
「おらが村のチーム」なのです。
だからこそ、高年俸の選手を集めているにも関わらず
バルセロナはスポンサーの名前をユニフォームに付けなくとも運営できるのです。
まあこれも極端な例ではありますが。
さてもう一度翻って国内最大のメジャースポーツであるプロ野球。
あくまで企業主体であり企業倫理とやらがチーム消滅の理由になる日本の野球界。
歪としかわしには見えませんね。
全くもって地域との連続性を欠いているとさえ言えるでしょう。
この構造こそがわしは最大の問題だと思います。
なぜこんな歪な構造になったかといえば、
それはアマチュアとプロフェッショナルの垣根が厳然と聳え立つ現状に他ならないと思います。
新聞社の圧力のせいだか企業球団のせいだか知りませんが、
歪なアマチュア/プロフェッショナルイズムを建前にそれぞれの利権を守ろうとする構造が
一般人である我々と夢の存在である選手を断絶してしまっているのですから、
当然夢の延長戦上に選手やチームが来る筈はなく、
何処とも知れぬ遊離した場所にプロ野球チームが存在しているのです。
こういう本質的な構造を棚に上げて経営的な構造を論うんですから、
木を見て森を見ずというか語るに落ちるというか・・・
まあ要するにバカだと思います。
まあこんなバカな事を真面目腐って言えるような経営陣じゃ、
そりゃ経営難にもなりますわ。
わしゃいっそ、プロ野球機構から選手がぜ〜〜んぶ脱退して
全く別にリーグ作った方がええと思いますよ。
これはまあ極論ですが、本来在るべき形にするためにはこれしかないのかな、と。
2004.9.18