Essay

別人格

 

少し前の話になるが。

「ネット上では別人格になる」などという記事が掲載された。

 

記事の要旨からすると見出しは明らかに間違いである。

杜撰な記事を掲載するのは新聞の常でもあるが、

呆れるほか無い「見出しの嘘」である。

大スポでもあるまいに。

 

ここを覗いている人には繰り返しになって

「もうええわ」という感じだろうが、

人間とはその精神領域において多面的、立体的な存在である。

 

他の動物より高度に発達した中枢の神経ネットワークは

複雑極まりないものであり、 それが複雑極まりない人間の行動

〜精神の活動をも含めた〜を、 生み出すのである。

考えるまでもなく自明の事であるとは思うのだが、

一つの事象を見て首尾一貫して一つの感想、感情しか涌かない人が人と言えるのだろうか。

 

例えば巨人-阪神戦で阪神が5-0で勝ったという情報がある、とする。

これを阪神ファンで自称爽やかで一見そうとも見えなくもない

イチリヤマくんは携帯で知った、とする。

イチリヤマくんは「勝った」だけの感想しか持たないかどうか。

誰が投げて、誰が得点を挙げて、誰が良い守備をして、

または誰を打ったのか、誰がミスをしたのか・・・・・

いろんな視点から見たくなり、把握したくなるだろう。

 

5-0という数字の羅列を見ただけでも、

間は多面的に捉えようとするものなのである。

それは人間の心が多面的なものであり、

様々な観点視点を持つからこそ生じるものに他ならない。

またそこで特に一点に、例えば「誰が打ったか」に重点を置く場合もあれば、

誰が抑えたか」に重点を置く場合もあろう。

イチリヤマくんは野球全体に詳しいが特にピッチングにうるさい人だとすれば、

「誰が抑えたか」を中心に興味を持ち、そのピッチングを考察するだろう。

 

さて、ここで「ネット上の人格」の話に戻るが、

上の例から言えば「ネット上の人格」とは、

その人物の中にある多面的要素の内の一面または幾つかの面を

突出させてできた人格なのである。

 

端的に言えば「デフォルメされた人格」なのだ。

 

イチリヤマくんの例で言えば、

「ピッチングにうるさい一面」のみが

強調されたものと考えれば解り易かろう。

 

となると、「ネット上の人格」とやらは

その人物の中に存在する一面であり、

全く別物であろう筈がないのである。

 

記事の主旨としては社会学者の言葉を引用し

このような「在る部分」が突出して出るであろうことは想像に難しくなく、

自覚されているよりも多くの人に デフォルメされた人格、

いわゆる「ネット人格」があるだろうという事である。

 

それを「別人格」などという表記を付ける者は何者なのだろうか。

ネットの経験が無く、またはネットを利用することすらできず、

ネットを楽しむ者に対する羨望とそれを誤魔化すための

屈折した蔑視に満ちた記者が書いたものなのであろう。

 

穿ちすぎかもしれないが、

まるで多重人格障害のように

他人を扱う傍若無人な輩が相手だから

これぐらいは言っても差し支えあるまい。

 

ネットにしろ新聞にしろ、

文章というものには人格とは言わないまでも

その筆者の品格は露呈する。

 

人間性の判断はできないにしろ、

品性と知性の判断は十分に可能である。

 

ま、わしに品性を指摘されるようでは人間とは言えんな。

 

2002.4.18

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ワールドカップを盛り上げよう?

 

千羽鶴ばらまいてワールドカップを盛り上げようという企画があるらしい。

これで盛り上がると考えるその思考回路は

茫然を通り越してむしろ驚嘆と敬服に値する。

わしの頭脳では思いつかない領域である。

 

これはまあ極端な例なのだが、

相も変わらずフットボールそのもの以外で盛り上げようという姿勢である。

Jリーグ開幕の時にも思ったことであるが、

コマーシャリズムに乗せて一時のブームによる

刹那的な利益のみを渇望する浅ましさはなんとかならないものか。

ならんじゃろうけど。

 

ジャーナリズム無視のコマーシャリズムは絶望的に不変かもしれない。

極マニアックなメディアでのみ、

フットボール、ワールドカップへの

興味をそそるような番組、企画はあるものの、

一般に観ることができるメディアでは、

千羽鶴やTシャツではい終わり、である。

 

この現状ではワールドカップバブルでちょっと儲ける人がいるぐらいで、

ロングスパンで活きるものは何も生じないだろう。

バブルにでもなれば御の字だろうが。

 

昨今の経済状況で、ワールドカップ程度の経済効果はたかが知れている。

終われば元の木阿弥、である。

 

イヤでも騒がれるワールドカップである。

自国が負ければ自殺者が出るほどの大会なのである。

それほどまでに人を熱狂的にするスポーツなのである。

 

そこに本質的な興味、フットボールを楽しもうという意思を

多少なりとも植え付ける事ができれば、

ロングスパンでの経済効果が得られると思うのだが、どうか。

わしは経済に詳しいわけではないが、

経済が風が吹けば桶屋が儲かる的なものであることは知っている。

一瞬の暴風による効果も確かに必要だろう。

 

コマーシャリズムに乗せた刹那的衝動的なもの経済効果自体を

否定するつもりはない。

しかし、刹那的な経済効果の反動に喘いでいるのが

最近の経済ではないのか。

 

わしは予想する。

ワールドカップ終了から一年を待たずして再度景気が落ち込むことを。

ワールドカップ主催に際し作った負債は返せないまま、

新たな破綻が始まるだろうことを。

 

これがただ一つの例でないことは明らかである。

わしはジャーナリズムがフットボールにおいて希有なものであることに

不満だからこそこのように考えてしまうのだが、

他のジャンル〜スポーツに限らず〜においても同様である。

 

経済に限らず、政治においても。

政治は即ち安手のエンターテインメントに過ぎない。

 

せめて日本代表が活躍してくれることを祈る。

 

2002.4.27

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自己矛盾?

波人のレポートまがいを書きながら

ふと思い当たったことについて書いてみたい。

通常屁理屈をこね回して似非分析を書き連ねているこのわしが

音を楽しむ事が音楽の本質などと曰うのは

矛盾と受け取られかねないと思ったのだ。

 

このわしをよく知る人にはご理解いただいているとは思うのだが、

もしかしたら足跡を残さず眺めているだけの人もいるかも知れないので、念のため。

 

音楽の本質が音を楽しむことであるということに、

わしの中で疑いはない。

これまで”レポート”を何度も書いてきたが、

その中に、音に身を委ねた結果として

その曲の記憶が曖昧になっているものなど、幾らでもある。

音を楽しみ、演奏して楽しむアーティスト達。

それを眺め、またその音に浸ることこそが

わしがライヴ会場に足を運ぶ第一目的である。

 

逆に言えば、わしが音に浸れないと感じた

アーティストのライヴには行かない。

あくまでもこれは受け取り側である

わしの感性のみにより決まるものであることを

前提として名前を挙げるが、例えば中島みゆき氏である。

一度会場に足を運び、

わしの求める音ではないと感じて以来、

チケットを手に入れようと思ったことがない。

わしが十数年来聴き込み、

アルバムは必ず購入させてもらうアーティストである。

唄に浸り、ほとんどアルバム毎に泣いてしまう程のアーティストであるが、

ライヴには行こうと思わないのだ。

 

とはいえ「夜会」にはまた違ったものも

あるので行けるものならば行ってみたいのだが。

 

 

先程”第一目的”などと書いた。

中島みゆき氏の例で言えば、

「夜会」には「音楽」だけではない

何かがそこにあると思うから行きたいのであり、

「音楽」がメインとなる筈の〜とわしが勝手に決めつけている〜

通常のライヴにはわしの求める

「音楽」がないから行かない、 そういうことなのである。

 

では何故音楽そのものを楽しみに行った筈の甲斐さん絡みのライヴに関し、

レポートなどと屁理屈こね回して書くのか、ということになろう。

思い入れも思い込みも山程あるアーティストである。

そこにある音だけで十分だし、

実際そこに浸ることを至極の快楽とさえ想うのに。

 

なのに、何故、となろう。

 

それは端的に言えば”それ以外のもの”があるから、

という結論になろうか。

勿論それはわしがそう感じるだけの話であり、

そう感じるのはわしの勝手な思い込みが介在するに過ぎない。

音に浸った上で、何かが躰に残ったと感じるから、

その残滓について思い込みを基に推察しているだけのものである。

必然的にその残滓すらわしの思い込みの産物であるかも知れない。

 

則ち”それ以外のもの”とはわしの思い込みであり、

大げさに言えばこれまでの人生後半部分に

常に在った唄への想いそのものである。

幾度となく断ってきたが、”レポート”などとタイトルを付けているが、

あれはあくまでもわしの私見/感情論以外の何ものでもなく、

客観性など皆無なものである。

無論それはわし自身の想いとして一方的なものであり、

またその考察すらもまた一方的なものである。

ここには正解も無ければ、誤答もまた、無い。

 

ただ、わしの想いのみが在る。

 

その想いの結果として、あのような”レポート”があるだけの事である。

則ち、音楽を楽しむ中で、触発された〜多分に自発的な〜

わしの想いを 書き連ねたものがわしの書くライヴレポートなのである。

 

それはあくまでも音楽の延長線上にある。

音を楽しみ、音に浸った結果としてそこにあるものなのである。

 

原点は、あくまで音を楽しむ以外の、何ものでもない。

 

 

 

2002.5.22

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亡命

 

なんだかね、この事件。

釈然とせんことが多すぎる。

裏が何枚もあるとしか思えんね。

わしにゃ何かが仕組まれとるとしか思えん。

いずれにしても日本にマイナスポイントが付くようになっとるもんね。

 

阿南じゃったけ、あの大使もグルじゃないんかな?

 

ま、以下はわしの妄想ということで書き連ねてみようか。

 

謎その1 

〜何故あの5人が日本大使館に亡命を求めようとしたか〜

日本大使館に亡命を求める必然性が判らない。

他に安全な亡命先なんかいくらでもあるのに。

わざわざ揉めるであろう、問題化するであろう国に亡命を求める

その判断基準が謎。

密入国に亡命と、命懸けの行動であるのに、

そこで日本に命をかけるだろうか?

安全どころか、一歩間違えりゃ銃殺じゃないか?

武装警官とやらが張り込んどるのに。

で、武装警官に撃たれないという確証をどこで得たんじゃろうね。

パッと見で外国人と判断できるならまだしも、

そう遠くない民族でしかも走り込んできたら

何人か判断できんでしょ。

中国人という判断なら、銃殺でもおかしくないのに。

亡命以外の何ものでもないと見なされる自信はどこにあったんじゃろか。

 

謎その2 

〜何故映像や写真があるのか〜

これは最大の謎じゃね。

亡命前の切羽詰まった状態で記念撮影するか?普通。

何か命の保証みたいなもんがあったんかな。

しかも、あのVTRね。

シャッター音の数を明瞭に捉えた。

カメラの数、どんだけあったんじゃろうね。

そこまで情報が流れとるんなら、

中国側、日本側も知る処だったんじゃないかな。

ま、知ってたんだろうけど。

あの映像が残ってもいい、

という判断でも双方のどっかにあったんかな。

ついでに言えば、あの女の子、カメラ探してカメラ目線で泣いてないか?

なんであの方向向いて泣いたんじゃろ。

 

謎その3 

〜何故武装警官は平気で立ち入ったのか〜

もし警官個人の判断とすれば、これは大問題よね。

個人の行動で国際問題になるんじゃけ。

中国みたいな国でそんなことしでかしたら銃殺でもおかしくない。

そんな個人の判断、あり得ないわな。

ということはやはり上の方の判断で侵入O.K.という指示があったんじゃろうね。

 

謎その4 

〜何故日本大使館職員は武装警官の行動を見逃したか〜

ま、鉄砲持った中国人が雪崩れ込んできたら、

わしなら逃げるんじゃけど(笑)

ただ、国家主権云々が頭に在るなら、

ああいう行動はおかしいわな。

武装非武装に関わらず、

一歩踏み込んだ時点でそれを拒絶しなければ。

でもね、マスコミが批判していた、

もみ合う武装警官と亡命者に向かって

ゆっくり歩いていったって事に関して言えば、

あれは正しいでしょ。

あそこで走っていったら、

余計にその場の収集がつき難くなるけえね。

冷静な対応を心がけたのであれば、

あれはおかしくない。

ただその冷静な対応っていうのも、

自分達は安全、という根拠があったのからこそ、

かもしれないけど。

あと、文書を持ってたって話があるよね。

もしそうなら、国家主権も守れず、

亡命者も守れなかった大使館の人間って何?

それは我が身可愛いどころの騒ぎじゃないでしょ。

なのになんでそんなことができたんかな?

ま、今の日本ならそんなに糾弾されることはないじゃろうけどね。

戦前なら国賊だわな。

国内は基より、対外的にも問題な行動でしょ。

なんでできたんじゃろ、そんな大それた事が。

 

 

もうイヤになってきたんでやめるけど、

この事件に関する謎は多すぎるね。

結果だけ見れば、

日本は国権も主張できず亡命者も守れない国で、

中国は多少行き過ぎたことはしたけれども、

それは日本大使館を守るためであり亡命もちゃんと認めた国だと。

 

ただね、これは完全なわしの妄想なんじゃけど、

「日本が国権を主張するのであれば、

不審船の引き上げは中国の国権の蹂躙ではないのか」

っていう非難が起こるような気がするな。

 

当たったら、情けない話だわな。

 

2002.5.25

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悔いはない

中村俊輔が代表に洩れた際のインタビューに答えて。

悔いという言葉も難しくて、いろんな捉え方があるだろうから、

その言葉尻を掴まえて云々を言うつもりはないが。

好意的に捉えれば、するだけの努力はした、

それで選に洩れるのは致し方ない、こういう意味であろう。

 

実際、彼ほど正確なキックを身につけた選手は国内にいない。

それが才能のみならず日々の練習の賜物であろうことは容易に理解できる。

しかし、わしは選に洩れたのは当然だと考えている。

先日のスウェーデン戦のアレックスを観て、

わしの考えがまず間違っていないだろう事を確信した。

 

某所にても書いた事を詳しく書き直すが、

あのオウンゴールを生んだアレックスのパスの際、

スウェーデンの右サイドのDFはアレックスと距離を取り、

パスにもドリブルにも対応できる、

いわばニュートラルなポジショニングだった。

いや、むしろ下がりすぎでドリブルを警戒する

ポジショニングと言う方が正解かも知れない。

双方に対応できる位置と言えば聞こえはいいが、

逆に言えば中途半端なポジショニングである。

そして更に、別の攻撃の際。

ゴールから離れた位置ではどうだったかと言えば、

早めにアレックスとの距離を詰め、

ドリブルを仕掛けるアレックスを

オブストラクションという反則すれすれの行為、

すなわちアレックスとボールの間に躰を入れ、

前に走れないようにし、アレックスの突破を防いでいた。

 

何れにしろ、このDFはアレックスのドリブルを警戒してプレーしていた。

ゴールから遠ければ積極的に、

ゴールに近い位置では距離を置き、

躰の接触によるファウルを避けるように。

その結果、ドリブルではなくクロスを選択した

アレックスによりオウンゴールが生まれたのである。

 

では、仮に、同じ位置すなわちペナルティエリア右前方(守備側から見て)で

中村がボールキープしたとする。

あのDFが同じようにドリブルを警戒したか否か。

わしがもしスウェーデンのGKであれば、

迷うことなく距離を詰めるように指示する。

ゴール前へのパスコースをカットしろと指示する。

何故ならば、中村がドリブルでゴール前に切り込むことなど

あり得ないと知っているからだ。

彼があの位置からドリブルでゴール前に向かって切り込む姿は、

代表は元よりJリーグでも見かけた記憶はない。

彼があの位置からゴールを直接狙うこともなければ、

ドリブルで切り込むこともない。

 

パスしかしないのだ。

そう確信できるのだ。

守備側が一番恐れるのは、ペナルティエリアの隅から

ゴールに向かってボールを持ち込まれる事である。

そうなれば攻撃側の攻め手はいくらでもある。

直接シュートでもいいし、

反対側のサイドに流してもいい。

もっと近くまで持ち込んでボールを後ろに落としてもいい。

DFと接触して転んでもいい。下手にすれば警告ではあるが(笑)

要するに、なんでもできる、と言って差し支えあるまい。

この位置までボールを持ち込めば、

得点の可能性は飛躍的に高まるのである。

 

それをする選手、する可能性がある選手がアレックスであり、

しない選手、する可能性がない選手が中村なのである。

何しろ、当たり負けしない躰を作れと言われ、

接触しないでいいようなプレーをすればよいと言ったと伝えられる選手である。

それが本当に彼が言った言葉であるとするならば、

それはゴール前でドリブルしないと宣言するに等しい。

それは攻撃の最大のチャンスを作らないと宣言するに等しい。

 

そんな攻撃的MFが必要かどうか。

中村は決してドリブルが下手な選手ではない。

むしろ国内ではトップクラスと言える選手である。

しかし、それを自ら否定する言葉を吐く(吐いたとされる)。

 

このような選手に、攻撃のリズムを作ることができるか否か。

チャンスを作ることができるか否か。

ゴールシーンを作ることができるか否か。

 

確かに彼の正確なフリーキック、コーナーキックは大きな武器である。

しかし彼を用いることで、むしろその武器が使えなくなる可能性もある。

攻撃しなければ、そのようなチャンスは得られないのだ。

武器も使えなければただの重荷に過ぎない。

 

そこに気づかなければ、努力したところで、である。

 

できる事なら、彼に伝えたい。

お前は間違ってるぞ、と。

宝の持ち腐れという言葉とともに。

 

2002.5.29

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新車

生まれて初めて新車なるものを購入、運転することになった。

 

名前をValvo V69という。

 

俗称「ばるぼくん」である。

 

もちろんそんな車種があるはずもなく、

その形からそう名付けたものである。

 

日本車の常としてオリジナルが見え隠れというか

頭隠さず尻隠さずなのだが、

もうここまで行くと保守本流とでも呼びたくなるほどよく似ている。

 

いや、日本的もの作りの保守本流ね(笑)

 

本当はもっと高級な車に乗りたかったのだが、

いかんせん貯金が無く、 4駆やターボ付きにしようにもこれまた無理である。

従ってグレードの低い方から数えて何番目になったのだが、

それではあまりに悔しいので

 

 

サイドエアバック

 

BOSEサウンドシステム

 

を乗っける事にした。

 

前者に関していえば本当に付いているのか

ちゃんと動くのか確かめようもなく

一度は試してみたいものだがさすがに

購入から一ヶ月を待たずにぶつけるわけにもいかず、

とりあえず「付いている」事になっている。

 

で、後者なのだが、確かに音はいい。

多少爆音にしたところで音が割れることもなく、

音量を下げてもクリアーに聞こえる。

しかしつまるところ、カーコンポは所詮カーコンポである。

人が一人乗るだけで音のバランスは変化し、

独りで乗っていてもなんとなく音の位置がずれている。

これ以上求めるのは贅沢なのかも知れないが、

もう少しなんとかならんもんかな、と思ってしまう。

 

で、話はもの作りに戻すんじゃけど、

日本の民族性の特質として、創造が苦手だけれども

改造が得意というものがあるよね。

これは宗教だろうが政治制度だろうが、

機械だろうが建造物だろうが、

ほとんど全ての構造物、構築物に於いて該当するとわしは思うんじゃけど。

 

で、創造性を持たせるとかなんとか教育用語で使われたりして、

この日本的特質が否定的に捉えられることが多い、

というよりむしろほとんど全て否定的に評されるんよね。

 

芥川とかも指摘した事なんじゃけど、

如何なるものも「日本的なものに作り替えてしまう」

ということが この日本人的特質の本質であって、

良く言えば独自性を保つっていう事になるんじゃろうし、

悪く言えば自閉的ってことになるんじゃろうけど。

 

否定される側面はもちろんあるけれども、

肯定すべき側面もあるんじゃないんかな。

例えば仏教なんかは「作り替え」の最たるものなんじゃけど、

日本仏教でこそ救われた、救いを求めることができた人っていうのは

数限りなくおると思うしね。

 

実際にそういう人を身近に何人も見とるけえそう思うんじゃけど。

 

問題はその特質に対し無自覚に否定してしまう事ね。

逆に言えば二元論的に単純に物事を振り分けてしまう考え方も

日本人的な思考様式なんじゃけど(笑)、

結局物事の本質が掴めないがために

「オリジナリティがない」の一言に

反論できるはずもなく、だから否定しよう、

ってなってしまうんよね。

それが自身のアイデンティティの否定ですらあるという自覚も無しに。

 

というわけで、わしは日本人であるという誇りを持って

「ばるぼくん」を運転しているのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高級車とか外車が買えなかった言い訳では断じてないっっっっ!!!

 

 

 

 

わけがない(瀑)

 

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2002.7.8

 

 

お葬式

 

人のボードからのネタで失礼m(_ _)m

 

 

これを書いてしまうと更新中のストーリィのネタばらしにも

なってしまうんじゃけど、まあこういう考え方を

解ってもらった方があのストーリィも読み易いかなと。

 

まずね、日本人の死生観というか、死に対する考え方なんじゃけど、

井沢元彦氏の著述に詳しいように、

人が死んだら「御霊」もしくは「怨霊」になる、というのが典型的なんよね。

これは日本の特性的なものであって、原始的な宗教観でもあるんじゃけど、

それを支那からのものををはじめとした外来宗教によってマスクして来たんよね。

要するに人は死んで霊となり、 怨念を残した者は災いを為し、

そうでない者は福を為す、という考え方を、

外来宗教を変節させて体現してきたんよね。

 

一番メジャーで解り易いのは仏教なんじゃけど、

もともと仏教というものには「霊」というものはほとんど無関係であって

そのベースにあるのは種々の「苦悩」からの解放なんよね。

全ての苦悩から解放された状態を解脱といって

その境地に辿り着くための方法論が経典なんよ。

そして解脱するためには本人の所業を以て決定される。

 

これが仏教の本質である以上、いくら他人が拝もうがお経唱えようが

解脱にはなんの影響も成さない、というのは明白じゃと思うけど。

 

ここに一つのミソがあって、日本人には御霊・怨霊信仰があって、

御霊・怨霊に対する畏怖恐怖が最大の苦悩だったんよね。

 

おそらく、今現在でも無意識下でそうなんかもしれんけど。

 

その苦悩を取り払う、緩和する為の方法として仏教が国教となった訳。

自らが仏になれば御霊怨霊を恐れることはないという考え方なのか

怨霊となるべき人間が死して仏=御霊になれば災いはないと考えたのか、

それは推測する以外に理解のしようはないんじゃけど。

 

で、鎌倉時代に至って、親鸞が出現する。

彼は念仏を唱えることで阿弥陀仏にすがり、

解脱するための修行の場である

極楽浄土に行くことができると主張した。

 

一足飛びに解脱するのが難しいならば、

遠回りかも知れないけど確実な極楽浄土へ向かうべきだ、とね。

 

ならば出家も必要ないし、禁制を守ることもない、と。

ただ南無阿弥陀仏と唱えれば阿弥陀様が極楽浄土へ誘ってくれる、と。

 

でも、これだけで浄土真宗が普及したわけではない。

先にも述べたように、

「生きる人間の最大の関心事」である 「怨霊への恐怖」の解消はしてないのだから。

まして親鸞は自らの屍を打ち捨てろと言い残して死んだ。

死者への畏怖を重んじる日本人がこれに耐えられる訳がない(笑)

 

そして蓮如が登場し、更に変節を加えた。

死者自身が阿弥陀に縋るだけではなく、

他者、生き残った者も阿弥陀に縋る宗派とした。

これに加え、ボランティア活動のような「やりがい」をも

信徒に与えることで浄土真宗は国内最大シェアを誇る事になった。

 

要するに。

死に行く者本人が往生を願い死に対する苦悩を解消するという

「仏教本来の」方法論であったものを、

「周囲の生き残った人々の死者=御霊・怨霊に対する

畏怖恐怖という苦悩を解消するもの」に 変節させた瞬間、

浄土真宗は日本固有の死生観と一致することになり、

拡大の一途を辿ったわけである。

 

まあ蛇足的に言えば、こういった変節も日本人の得意とするところ、なんじゃけど(笑)

 

霊の存在を認めるという事は、それが意識的だろうと無意識的だろうと、

詰まるところ死者の人格、人間性を認めるという事に他ならない。

我々日本人には、そういう考え方が根付いている事に疑いはない。

 

これはわし自身の経験だが、敬虔に真宗を信仰していた祖父は親鸞に習ったのだろう、

自身の葬式は簡素に行うよう言い残していた。

実際に行われた葬式はどうだったかというと、

推して知るべし、

わしが見た中で最も盛大なものだった(笑)

 

死者に対しても最善を尽くしたいという想いは、

それが後悔の念の裏返し、

則ち怨霊への恐怖、警戒であろうと、

敬愛の念から出るもの、

則ち御霊への畏怖、尊敬であろうと、

葬式という場に於いて噴出するものなのだ。

 

そしてその結果、生者は死者への想いを遂げたというカタルシスを得るのだ。

死への哀しみを緩和しうるカタルシスを。

無意識下に有する観念を全うするカタルシスを。

 

反面この想いは、生者の独りよがりに過ぎないという逆説も生む。

生者の悲哀への緩衝剤であり、苦痛への鎮痛剤であり、

医学的に言えば原因治療となりうるものではないのだから。

しかし原因とは愛するべき人の死なのであるから。

この事実を覆せるわけがない。

 

そうである以上、

独りよがりでもなければ、生者は救われない。

生者の想いは、解消のしようがない。

そんな想いを解消せずに生活できるほどに人は強くない。

 

 

だから、葬式は必要なのだ。

解ったか?Joseよ(笑)

 

 

 

 

 

 

とはいえね。 信頼関係ができあがった、

少なくともわし自身が 信頼している人間が死んだ時はどうかとなると、

正直に言って葬式なんかどうでもいいやって思えるのは付記しておく。

 

 

 

わしの想いは伝わっている筈と思いこめるけえね(笑)

 

2002.7.13

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単車

二輪の免許を取って11年になろうとしている。

ちなみに車は8年なのだが。

通学バイト通勤のために単車に乗ってきた。

二輪の免許を取って大学当時からの連れ、

あぽちんを通じ SUZUKI RGγ 125を入手した。

ちなみに、あぽちんのサイトにある写真は別物である(笑)。

本物はオンボロという形容詞こそふさわしい。

速度はそこそこでるもののブレーキはエンブレ含めてほとんど効かないわ

クラッチワイヤーが錆び付いて握れなくなるわ(瀑)

バイト帰りの43号線で左腕を攣りそうにしながら帰宅した事は忘れられない。

しかしエンジンは結構元気よく、全開にすればそこそこに走ってくれた。

今だ2ストが恋しくなるのはこいつのせいである。

一年を待たずして知人が単車から降りるとのことになり、

事故車ではあったがHONDA CB-1を譲って貰った。

これはいい単車だった。

ずんぐりしたスタイルと尻の重さはあるもののエンジンはパワフル。

低速からの加速を楽しみつつ乗らせてくれた。

中央環状線で転倒した時、火花を散らしながらわしの前方へ転がって行くのを

眺めながら「ごめんな」と思いつつわしも道路で側転したいた事は忘れられない。

結局CB-1には6年ほど乗っていた。

当時それしか足がなかったこともあり、一緒に風雨にさらされてくれた。

そして三年半ほど前、SUZUKI Bandit 400 VZ(カウルはとっぱらった)に鞍替え。

原付も含めて初めての新車だった。

CB-1は3万円で友人に譲ることにしたが、

支払い前に盗難され 発見された時には修理不可能な状態だったらしい。

 

見たくなくて全部連れにまかせたのでね(笑)<らしい

 

結局そのまま廃車となり、連れからの代金も断った。

そいつがプロデュースする時は全て招待という条件付きで。

 

全然関係のない話だが

たまにはプロデュースしろ

>鈴木田

ま、どおせここ覗いてないと思うけど

 

で、現在に至っているわけだがBanditもかなり気に入っている。

足回りは軽快でエンジンの吹き上がりもいい。

馬力ではCB-1に劣る筈だがそれを感じさせることもなく加速してくれる。

高速での安定度もCB-1とは比較にならない。

体感速度は20km/h以上も違うだろう。

購入当初は気づけば140km/hということが何度もあった。

最近やっと慣れてきたが(笑)

 

こうして結構な年数単車に乗っているわけだが

峠を走るという事などほとんど無かった。

街乗りOnlyだった。

で、近所にオフィスを抱えるあぽちんと会うことがあり、

そうこうしている内に峠を走ろうとお誘いいただいたわけである。

 

面子はわしとあぽちんの他にNOBUSIに名を連ねるV-魔さんとYASUさん

単車はあぽちんがSUZUKI GSX 650G

V-魔さんがYAMAHA V-MAX

YASUさんがSUZUKI GSX 1100SBE である。

要するに中型はわしのみであった。

とりあえずみんなの尻にくっついて走り出したのだが、

くっついてという表現ははっきり言って虚言である。

待ってもらわない限り背中は見えないんだな、これが。

待ってもらって一旦集合して走り出しても、

カーブが三つもあればもう置き去りである。

なんとか着いていこうとはするのだが、

一つ目はなんとか背中が見えて、

二つ目は横っ腹が見えて、

三つ目にはシャドウから尻尾が見えるだけといった塩梅である。

 

当然その後はロンリーライド(爆)

のたのたくねくね走った先にお三方が待っている、

そんな状態の繰り返しであった。

 

何度も待たせて申し訳なかったんじゃけど(笑)

 

後でNOBUSIの面々の中でも上級者だからとあぽちんに慰められたが、

凹むとかどうとかいうレベルの差じゃないもんね。

とにかくカーブでの倒し込みの角度は違うし、

もちろんスピードも違う。

で、ブレない。

わしのような下手くそは「この角度」って思っても 思うとおりに倒せないし、

倒せたとしても その角度では曲がれない。

設定が違うんよね。

既に。

従って調整するためにブレてスピードは落ちる。

背中は見えなくなる。

さすがに三人は上級者だけに姿勢はブレないし速い。

ほんの一時しか見えないけど(爆) 綺麗なんだわ、とにかく。

彼らのレベルまではともかくとして、

あんな風に綺麗に走れたらもっと気持ちいいじゃろうなぁ

とかなんとか思いながらのたのたと走っていた土曜の午後でした。

 

それでも、下手は下手なりに気持ちいいし楽しめるのが単車のいいところ。

「気持ちいいと思ったらそれは乗れているんだ」

守村大の作品中の台詞じゃけど、いい言葉じゃね。

 

 

 

 

 

ちょっと慰められたりして(笑)

 

 

2002.8.9

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ネタ

8/19、20には毎年祭りがあることを何度か書いてきた。

今年も本番には出られず、帰省を兼ねて稽古にだけ顔を出してきた。

 

どのような祭りか簡単に説明すると、

子供達にだんじりを引かせ、街のそこここで停止しては

若連中と呼ばれる者達がだんじりの縄を舞台に

風刺寸劇を演じて練り歩く、というものである。

 

稽古場で酒を呑みながら台本について話していたのだが、

そこである人が言った。

「政治をネタにできんよのう」と。

 

全くその通りである。

わしは毎年のように台本を作ってはいるが、

年々ネタが無くなっている事に苦心している。

 

「風刺」というものを本質的に捉えれば、

幾ばくの力をも持たざるものが

何らかの力を持ったものの揚げ足を取り嘲笑うことで

極僅かなカタルシスを得ることであり、

本質的な力の逆転などそこにはあり得ない。

それが権力者であろうが芸能人であろうが、

彼らの力には及ぶべくもないという処に依って立つのが風刺である。

 

従って「政治家=偉い人」という図式が完全に崩れ、

「政治家=財産持って何か言ってる人」に堕した今、

風刺が成り立たないのは必然ですらある。

笑いが、その少なくとも大部分は、

価値の転換の提示により生じるものである以上、

馬鹿を馬鹿と罵り嘲笑っても笑いが生じる筈はない。

当たり前のことをそう言ったところで面白い筈がない。

 

これが如何なる病状であるのか、

国がひっくり返る頃には解るだろう。

 

解る人には。

 

余談だが、先日の「朝生」のタイトルが凄まじい。

「政治の劇場化は是か非か」じゃそうな。

 

これを題材に討論させるTV局も凄いが、

これを少なくとも見た目上真剣に討論できる人々も凄い。

ここまで転換してくれるとさすがに笑いも出るのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんまもんの嘲笑じゃけど。

 

 

2002.9.3

 

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ダンディズム

最近ケーブルTVで「探偵物語」を放映しとるので

必ず月曜9時からはTVの前に陣取って酒を干しながら観るようにしとる。

故・松田優作主演のドラマで現甲斐よしひろ夫人である

竹田かほり嬢が出演していることはここを覗くほとんどの人がご存じだろう。

 

”嬢”という敬称がおかしいのは先刻承知だが

ほんとに可愛いのでご理解いただきたいm(_ _)m

いや、マジで可愛いんだ。失礼ながら。

 

余談だが、以前某タ○ーレ○ードにて見かけた

探偵物語のBOXセットの紹介文はなかなか秀逸。

松田優作主演云々の後、

 

「ナンシー&チェニーの二人が可愛らしい」

等という文章。

 

 

 

 

 

竹田かほりはどこ行ったんじゃいっっ(爆)

 

 

 

一応。

ナンシー・チェニーという名前の女優さんが

竹田かほりとコンビなんすけどね。

 

それはそうと、故・成田三樹夫氏を初めとした脇役陣の芝居も素晴らしく、

またエピソード毎にゲスト的に出演する俳優女優陣もよい。

台詞は相当練り込んであるなあと感心もする。

もちろん、ディティールも。

演技、台詞ともほとんど隙の無いドラマで、

今こんなの作れねえよな〜と

毎回呟きながら観とるわけです。

 

で、このドラマの原案になった小説版探偵物語は

小鷹信光という人の著作なんじゃけど、

この人はハメットを初めとしたハードボイルド小説の訳者であり、

当然ハードボイルドには精通しとる人、なんよね。

 

わしの私見を言えば、「マルタの鷹」の訳はあまり好きじゃないし、

小説版探偵物語ももう一つ好きになれんかった(笑)。

 

ちなみにハメットの「マルタの鷹」は正しくは

「マルタの隼」じゃと思うんじゃが、

この辺はどうなん?>Jose

 

原案者の意向なんか監督、俳優陣のものなんかは判る由もないんじゃけど、

内容的に観れば、このドラマはハードボイルドを解った上で作られたものに間違いないと思う。

ハードボイルドの定義というのもいろいろあって(笑)、

「これ」と断言するのは憚られるんじゃが、

わしは「規範を持つアウトロー達の物語」じゃと思うとる。

従って漢とか侠とかで表現する男の話になるんよね。

もちろん男だけとは限らんのんじゃけど。

 

逆説的にいえば自分自身の規範を持てば公的な法とは

反目する事柄も増えるわけで、当然の帰結ともいえる定義なんじゃけどね。

 

ここでやっとこの文章のタイトルに関わってくるんじゃけど(笑)←遅えよ

要するにわしはそういう人々に惹かれるんよね。

格好いい、そう思うわけよ。

この探偵・工藤俊作は口数多いし、プレイボーイ気取り(古いなこの表現)

いろんなハードボイルド小説の主人公をパロったものかなとも思うし、

ほぼ一貫した服装(ボギースタイルっちゅうの?)も

今こんなん歩いとったらイタくてとりあえず道譲るんじゃけど(笑)、

この作品世界の中では格好いい。

 

規範を持つアウトローであれば、

その性格口調行動の如何に関わらず、

そこには格好よさ、ダンディズムが付随してくるとわしは思う。

言い換えればダンディズムの多様な方向性を描いた物が

ハードボイルドというものなのかも知れない。

 

 

 

「松本さん、人間って、

冗談か本気か解らない処で 生きてるんじゃないかしら」

 

 

そう呟いた後ナンシーとかほりにキスされながら戯ける工藤俊作。

全エピソードの中でも一番好きなシーンじゃね。

工藤俊作、いや人間そのものの陽と陰をたった二つのシーンで表現し、

それがまた娯楽TVドラマの中だった、というのが凄い。

 

 

もうこんなドラマも、役者もないんじゃろうなあ・・・・・

 

2002.9.10

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