2008年7月6日(日) 旧道を歩いて餐歩また参歩! 大山街道 第二回目

【歩行起点】 東急田園都市線二子玉川駅 9:50発
【歩行終点】 東急田園都市線梶が谷駅 15:50 着
             正味 6:00 (昼食時間・途中休憩・旧跡等の立ち寄り時間を総て含む)

【きょうの歩行距離】14.0km・・・うち街道9.9km 街道左右への寄り道4.1km

【きょうの歩行行程】三軒茶屋駅〜目青不動〜駒留八幡宮〜松陰神社〜圓光院・大吉寺〜世田谷代官屋敷跡・世田谷区郷土資料館〜
       
 天祖神社〜用賀追分〜真福寺〜大空閣寺〜慈眼寺〜瀬田玉川神社〜玉川大師〜二子橋〜二子神社〜大山街道ふ
       
 るさと館〜二ヶ領用水〜溝口神社〜宗隆寺〜梶が谷駅入口〜梶が谷駅(当初予定の鷺沼駅までを繰り上げ短縮した)
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 きょうは、6回区切りよる徒歩大山詣での第2回目である。前回同様に明大前駅と渋谷駅で乗換え、自宅最寄駅から約50分で歩行起点駅「東急田園都市線三軒茶屋駅」に到着。今回は当初予定の4日(金)を天候事情と同行村谷氏の都合も勘案してきょうに変更したため、山歩&餐歩仲間の同氏と久々の旧街道餐歩となり、楽しさも一段とふくらむ。残念ながら、甲州道中でもお馴染みの清水氏は都合が悪く一緒出来ない。10時待ち合わせだったが予定より一便早く着いたら、村谷氏も先着済みで、早速きょう餐歩予定ルートの地図コピーを渡してあげる。昨年発行されたガイド本のコピーだが、多少の不満はあるものの概ね良くできた歩行者用の本で、この入手により大山街道歩きへの意欲が格段に高まった優れものなのだ。

 前回第1回目の赤坂御門跡を起点としての餐歩では、ここ三軒茶屋からは、江戸時代にできた「新道」の方を二子玉川まで歩いたが、きょうは、三軒茶屋起点でここから分岐している「旧道」区間を歩いて二子玉川経由、鷺沼駅までの予定である。この旧道は江戸時代前期までの大山道のことで、江戸後期になって現在の国道246号(以下R246と表記)沿いの道を新道として使うようになったようだ。蛇崩(じゃくずれ)川の谷筋を避け尾根筋に沿ったのが旧道で、次第に近道をするようになったとする説もあるようだが、距離は双方殆ど変わらない。どちらを通っても二子玉川まで約7kmである。

 さて、三軒茶屋駅を地上に出ると、前回も撮影済みの「大山道」の古い道標にカメラを向けてから出立。旧道・新道の追分北側に、当地名の由来になった三軒の茶屋の内の一軒、「田中屋」が陶器店として青色のビルで営業中だというので捜したが見あたらない。「三軒茶屋」の名は、前回餐歩記でも触れたが、「田中屋」・「信楽」・「角屋」の三軒の茶屋があったことからだと言われており、うち「信楽」は後に「石橋楼」と改名している。これらの茶店は、江戸時代、12代将軍徳川家慶のお狩場の休憩所となったほか、渡辺崋山・高野長英・坂本龍馬ら開国の志士達も休息、明治期には明治天皇はじめ陸軍大将たちも休憩しているそうだ。それにしても安易なネーミングの感がするのだが・・・

 追分の二股を左斜めに行ったのが前回の新道コースだが、きょうは右斜めの旧道を行く。
 すぐ先で少し街道を離れ、右手の東急世田谷線の北方にある、江戸五色不動の一つ「目青不動」(教学院)に行く。地図で図ると片道500m程度あり、往復約1kmの寄り道だ。「縁結び不動」とも言われ、特に若い女性の尊崇を集めている由である。

 10時到着の「目青不動」は正式には「竹園山 最勝寺 教学院」と言い、関東三十六不動霊場の第16番札所であり、江戸五色不動[目黒不動(滝泉寺)、目白不動(金乗院)、目赤不動(南谷寺)、目青不動(教学院)、目黄不動(永久寺・最勝寺)]の一つである。最初江戸城内で開基の後、赤坂・青山経由で明治42年当地に移されている。創立は、応長元(1311)年で、江戸城内紅葉山の位置にあった由。その後、太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移され、慶長九(1604)年に青山南町に3千坪以上の土地を拝領し、三たび移転。五世・岸能(中興開山)の代、寛永9(1632)年に移転を完了している。当初は赤坂日枝神社の別当寺である山王城琳寺の末寺だったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺の末寺となり、以後、相州小田原大久保氏の菩提を弔う寺になったという。

 不動堂は、銀杏の大木に囲まれ、いい佇まいをしている。不動本尊は目黒不動尊と同一作者で、慈覚大師・円仁だが、秘仏になっているため、前立ちのお不動様を拝する。また境内左手には、寛延2年建造の「夜叉」、巨大石の「獣魂塔」と石碑「獣魂塔のいわれ」、「戦争犠牲者慰霊之塔」、大小各一体の石地蔵尊などが厳かに安置され、静かに世の変遷を見守っている感がした。

 元の街道に戻り、本街道を出発。1km程先の「若林」交差点付近には、交番もあるが警官の姿がちらほらし、サミットがらみの警備体制が窺われる。ここを左に200m位進み、右手の「駒留八幡宮」に立ち寄る。ちょうど今から700年前、鎌倉時代後期の徳治3(1308)年、当地の領主だった北条左近太郎入道成願が八幡大神を勧請。この時、自分の乗馬が留まった場所に社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったそうだ。祭神は応神天皇と天照大神。御尊像背部には「最明寺時頼公本尊 経恚留八幡宮北条左近太郎入道成願奉安鎮所 徳治三年戊申年十月廿三日」とあるというが、我らには見えない。明治5(1872)年村社に列格、同40(1907)年社号を駒留八幡宮と改称。同42(1079)年三軒茶屋の天祖神社を合祀。社殿左奥の厳島神社は、非業の死を遂げた常盤御前(後記)のために世田谷城主吉良頼康が田中弁財天を勧請して祀ったとされる。<(注)合祀の歴史的背景については前回餐歩記の用賀神社の部分参照>

 [常盤御前]昭和58年再建の慰霊のための常盤塚が、少し離れた路地の一画にある。吉良頼康の側室だった常盤御前は、頼康の寵愛を一身に受けたため他の側室達(12人)の嫉妬を受け、密通の讒言を受ける。これを信じた頼康は、部下に常盤御前の成敗を命じ、常盤御前は、この辺りで追っ手に囲まれ自害したが、城を脱出する直前に、白鷺の足に遺書を結んで放っていたのを頼康が射落とし、これを読んで冤罪と知った頼康は、讒言した他の側室達を全員処刑した由。そして、白鷺が死んだ呑川の畔には、いつしか白い可憐な鷺に似た花が咲くようになり、それが世田谷区の花、鷺草になっているそうだ。境内には、前述「厳島神社(市杵島姫神)常磐弁財天」のほか、「駒留稲荷神社」、「表忠碑」などもあった。

 「若林」交差点に戻り、「松陰神社入口」交差点に向かう。交差点手前左に往時の会社社宅「世田谷アパート」跡がどうなっているか確認したいと村谷氏が言い、立ち寄る。かつて業務部勤務時代、ここに入居していたS先輩(故人)宅に某夜一泊させて貰ったことを思い出すが、その場所がここだったとは土地勘もなく酔っぱらっていた身として場所や経路は全く記憶にないが、一夜のお世話をかけたことだけは乗った玉電と共に覚えていたので、大変懐かしかった。さて、交差点を右折して往復1.1km程度の寄り道になるが、同姓のよしみ?で吉田松陰留魂の地と言われる「松陰神社」に向かう。神社名だけは随分以前から知っていたが、折角の機会なので立ち寄ることにしたのだ。途中のストリートには、松蔭や門下の人々についての一言説明板が随所に立っていて、地元と神社の深い結びつきが感じられる。

 吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄中で30歳の若さで刑死した。その4年後の文久3(1863)年、松陰の門下生だった高杉晋作、伊藤博文らによりこの世田谷若林の地に改葬された。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩主毛利大膳大夫の別邸のあった所である。明治15年11月松陰門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いてその御霊を祀り、忠魂の鎮座するところとなった。今日の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたもので、近年は学問の神としても崇敬を集め、参拝者は全国各地に及んでいるそうだ。

 入口には、松陰神社の詳しい説明板。参道左手には、「松陰神社道」の大きな道標石。これは、先ほどの旧大山道(矢倉沢往還・現世田谷通り)
から松蔭神社に至る道の入口に建てられていた道標で、世田谷通り拡幅工事の際にこの境内に移設されたもので、明治45年乃木希典の寄進によるものだ。更にその奥には、若き「松蔭先生像」がある。
 境内左手には、門下生達に囲まれるようにした松蔭の墓所があり、当然参拝した。墓所には吉田松陰を中心に計15基の墓がある。そこへの入口に当たる神社参道とは直角に、左右計32基の石灯籠もあり、毛利元昭公はじめ松蔭門下生らが明治41年奉献したもので、乃木希典も入っていた。また、「禁門の変」で幕府に破壊された松蔭墓所を、明治元年木戸孝允らが修復したのを聞いた徳川氏から謝罪の意を込めて奉納されたという「葵紋入り石灯籠一対」と城内の「水盤」もあり、その説明板が脇に立っていた。

 また、萩の松下村塾を模した、本物そっくりと言われる「松下村塾」の建物が神社の右手にあり、見学できたのは嬉しかった。

 元の街道に戻って今度は、東急世田谷線世田谷駅前の信号を左折する前に、右手にある「大吉寺」と「圓光院」を訪ねる。(11:18)

 大吉寺は、境内に大銀杏が三本あり、うち二本は乳銀杏である。西隣には「大吉稲荷社」が祀られている。ただ、一見して雑然かつ殺風景で、寺院が持つ厳かな雰囲気が皆無なため、参拝は省略して隣の圓光院に向かう。
 圓光院は、玉川八十八ヶ所霊場の第49番札所寺である旨の看板がある。世田谷城主吉良氏による創立で、門の左手に庚申塔が一基、右側に「弘法大師降誕千二百年記念の碑」が建っている。門前には「桜小学校発祥の地」の碑。この奥の付属幼稚園まで境内を汽車が走っていたが、この幼稚園は残念ながら昨年(平成19年)夏移転してしまったそうで、それまでは境内を這うように豆列車のレールが奥の幼稚園まで敷かれていた由である。ただ、門前にはまだ幼稚園の看板が残っていた。

 圓光院の前で左折して150m程でまた右折すると通称「ボロ市通り」と言われる通りに出る。時刻は11:26、腹も空いてきているし、酷暑での汗による喉の渇きもあって、早く冷たいビールなども飲みたい。そろそろ昼飯どころを決めないと旧道に入ってからでは飲食店があるのかないのか不明なので、その旨村谷氏に話したら、彼はこの辺りを以前あるいたことがあり、11:32、その先左手(南側)の、「世田谷代官屋敷跡」の表で何枚かの写真取りの後、先ずは食事をと、すぐ先にある蕎麦屋「富士」に入店。ささやかにビール一本を分けて飲み、とろろ蕎麦大盛りやカレー南蛮蕎麦などで空腹を満たしながら汗を入れる。

 30分程で食事を終わり、「世田谷代官屋敷跡」に向かう。入場は無料だが、守衛さんに明るく挨拶して門内に入るが、門は「国指定重要文化財」の
寄棟造表門(長屋門)で、歴史的雰囲気充分だ。敷地内には、ケヤキ、アカマツ、たぶの木、クスノキほか年輪を刻んだ大樹が木陰を造り、時代を十二分に感じさせてくれる。「白州」、「白州出入門」、「大山道の道標」などを左右に見ながら進み、先ずは 同敷地内にある「世田谷区郷土資料館」に入館。

 資料館の中には、「玉川上水の木製の樋(太い物と、細い物)」、「三軒茶屋“石橋楼図”と建物骨格模型&解説文」、「彦根藩世田谷領農兵鉄砲隊行進隊列図(元治元年演習時)」、「吉田松陰と毛利家抱屋敷の説明板」、「世田谷の板碑(石製卒塔婆の一種)の説明板とその実物写真3葉」など、見どころたっぷりである。

 資料館を出ると、その前には、元の場所から移設された標石・庚申塔(4基)・供養塔・狐の石塚・地蔵菩薩立像・三界萬霊塔など10基の石造物があり、世田谷宿が交通の要衝だったことを示している。

 ここ、近江彦根藩世田谷領の代官だった大場氏の屋敷跡は、「都指定史跡」であり、有り難いことに屋内に入っても制限付きながら見学できる。寛永10(1633)年、彦根藩主井伊直孝は関東で2万石加増された。うち2300石余が世田谷領であり、世田谷村20ヵ村といわれた。大場氏はもと吉良氏の有力な家臣で、天正18(1590)年に主家没落後、世田谷に土着。寛永10年彦根藩世田谷領が成立するや、市之丞吉隆が代官役に起用され、合力米70俵が与えられ、以来明治4(1871)年の廃藩置県まで代官職を世襲した。10代弥十郎景運は天明飢饉の影響などで荒廃していた村々の復興に大きな功績をあげ、文政13(1830)年士分に取り立てられている。大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった盛政が元文2(1737)年に建築、宝暦3(1753)年に表門の建築など代官屋敷として大規模な改修を加えたものと推測されている。茅葺・寄棟造の主屋および同じく茅葺・寄棟造表門(長屋門)は「国指定重要文化財」だ。大場家に残る天正6年から幕末に至る文書1300余点も「都指定文化財」になっている。

 表門前には都指定無形民族文化財(風俗慣習)「世田谷ぼろ市」の説明板があり、天正6(1578)年北条氏政が世田谷新宿宛に発した楽市掟書に起源を持つとのことである。このほか、都史跡「世田谷代官屋敷」説明板、重文「大場家住宅」説明板などが並び、ここ「世田谷代官屋敷跡」が今朝ほどの「松陰神社」に続く二つ目の「本日のメインディッシュ」感を感じさせてくれる。

 代官屋敷跡の少し先右手に上町の「天祖神社」がある。社殿前は小さな広場になっていて、ここはボロ市でも有名らしい。区の保存樹林に指定されている大きな欅の木が見えるが参拝は略す。ところで、天祖神社というのは区内にも幾つかあるようだ。前回の餐歩で立ち寄った「用賀神社」も元の名は天祖神社だったし、他にもあるのを知っている。

 そこから約200mで一旦世田谷通りを突っ切り、また直角に突っ切り返して南西に向かうのだが、そこまで几帳面に車の往来激しい道をほんの僅かな距離で行き来することもないと話し合い、世田谷通りでつないで「桜小前」信号で再び旧道にはいると、右手の畳屋前に古い石碑があり、ここにあった道標が先ほど見た郷土資料館に移された旨、記されていた。いつ移したのか確認し忘れたが、ここにある石碑も結構時代物の感が強い。

 そこからはしばらく一本道だが、途中、道の左側街道沿いに昭和60(1985)年建造の「大山街道旅人の像」が「大山道児童遊園」にあり、横で休憩も可能だ。腰を掛け一服している風情の像が、遠目には本物かと思える程の出来である。早速横に並んで座り、村谷氏に一枚とって貰う。翌朝メール送信してくれたが、この旅人よりも疲れ顔だった。この辺りが蛇崩川の源流になるそうで、この公園開設時に「旅人像」が建てられた由。

 ここから「用賀追分」先の「用賀四丁目」迄の約1.2kmは殆ど一直線の道である。「弦巻四丁目」信号の右手にも馬頭観音(文字塔)地蔵尊像・道標等があった。そこにあるコンビニに入店し、冷たいアイスを買って生き返り、12:51再出発。「陸上自衛隊」・「上用賀1丁目」と信号を過ぎ、13:01に「用賀追分」に到着。前回の「新道」からの合流も可能な場所で、スリーエヌ日東ビルが確認ポイントだが、前回はその先の「用賀四丁目」信号の先の「用賀駅」で今歩いている旧道と合流している。

 その両者の間の賑やかな用賀商店街入口付近左手に創業150年の老舗「鎌田酒店」が古い趣で営業している。その右に「三界萬霊」の石塔があるということだったが捜しても見あたらず、やむなく先に進むと100m程先右手の「真福寺」入口にあった。「三界とは?」ということで、帰宅後調べてみたら、今やWebサイトで何でも判る時代になったことを痛感させられた。
  【参考】 http://makasatsu.web.fc2.com/world.htm

<三界とは> 三界(サンガイ)は欲界(ヨクカイ)、色界(シキカイ)、無色界(ムシキカイ)の三つの世界のこと。

<欲界>
欲界は地獄道、餓鬼道、畜生 道、人道、六欲天(ロクヨクテン)までの五処を指す。
欲界の「欲」には四種類が有る。一つは情欲、二つは色欲、三つは食欲。四つは婬欲。この四つの欲が備わって有り、ほかのどの欲よりも色欲が薄いので、欲界という。

<色界>
色界は色天ともいう。色界は欲界の四種の欲の内、婬欲、食欲を断じているが、情欲と色欲は存在する。婬欲が無いので男女の区別が無く、食欲が無い代わりに禅定の楽を食とする。色界は色欲が強く情欲が薄いので、色界という。

<無色界>
無色界は無色天のことを指す。無色界の衆生には形体が無く、ただ識神と情欲のみ存在する。無色界は色欲と絶して情欲もまた薄いの、無色界という。


 また、先刻の「世田谷区郷土資料館」の前にあった「三界萬霊塔」の説明板によれば、
「三界とは、いっさいの衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とは、この迷いの世界におけるすべての霊あるものという意味である。真宗以外の寺で施餓鬼など広く無縁の有情を供養する際にもちいられている(以下略)」とあった。

 「真福寺」は、見事な朱塗りの山門があるところから「赤門寺」とも呼ばれたそうだが、小田原北条氏家臣飯田図書の開基と伝えられ、境内左手に古いお堂つきの庚申塔太子堂があり、その由来碑があったほか、二種類の六地蔵が手前と奥にあった。「みちの辺の木槿は馬に喰れけり」という芭蕉句碑もある。江戸時代から明治時代までここで近辺農民達の休息日に博打を行い、その所場代で経営していたという変わった寺なのだそうだが、本当だろうか。玉川八十八ヶ所の三十九番札所になっている。

 「用賀駅」から首都高を潜って「延命地蔵」のある分岐までは新旧両道共通の道で、前回既に通っている。安永6年(1777)用賀村の女念佛講中が建てたという、その延命地蔵を挟んで右の道へ進むと「環八」にぶつかるが、信号がないため若干右に迂回させられる。13:27、右手に、虚空蔵菩薩を祀っている「大空閣寺」。大正天皇即位を記念して深川で建立、平塚を経て大正10年当地に移転したそうだ。入口には、「大空閣寺」・「地蔵菩薩」・「虚空蔵菩薩」の石塔が立ち、本堂脇には石の観音立像、弘法大師像ほか、観世音菩薩堂などがあり、本堂前には左右に真新しい石の彫刻でおおきな虎と水牛?の彫刻があった。

 100m程先でカトリック瀬田教会にぶつかり、右折した坂上に真言宗の「慈眼寺」がある。徳治元(1306)年法印定音開山と伝えられ、元は崖下にあった修験所を瀬田の郷士長崎家が崖上に移し、長崎家の祈願所とした由。参道入口にはいかにも古そうな珍しい笠付庚申塔があった。

 その隣の「瀬田玉川神社」へ脇道から行く。この神社は街道の急な崖上に建っている。下を見ると凄い。平坦な武蔵野台地から多摩川沿いに下流に向かってきた国分寺崖線であり、Webサイトで地図を見ると正にここを通っていることが確認できる。歴史的には、寛永年間(1624〜44)創建の「御嶽神社」が明治41(1908)年に旧瀬田村の八幡神社・天祖神社・熊野神社などを合祀して現在の瀬田玉川神社になっており、ここにも例の「合祀令」の影響が残っていた。

 長い正面石段を下りて右折すると、瀬田玉川神社の先には「身延山関東別院 玉川寺」があるが通り過ぎ。街道反対側のNKせたデンタルクリニックの角を左に行った所の「玉川大師」に立ち寄る。弘法大師をお祀りする大師堂だが、地下には「遍照金剛殿」なる地下霊場があり、100円払えば入場できるということだったが、本堂の中を通る必要があるようで、しかもその本堂では大勢の信者達が読経中だったので遠慮することにした。

          
地下遍照金剛殿 玉川大師縁起

玉川大師は高野山奥之院の清流「玉川」に縁み 此の地に開山 龍海大和尚大正十四年大師堂建立 昭和三年より六年の歳月をかけ地下佛殿完成 地下佛殿は御本尊弘法大師の大慈悲を具現する遍照金剛殿にして本堂より境内一円に及ぶ地下の参道は巨大な大日如来の胎内、胎蔵界マンダラをかたどっている
特に奥之院には四国八十八ヶ所霊場及び西国三十三ヶ所霊場を悉く請来され四国遍路と西国巡礼さながらに順拝修行の結縁が授かる霊場である
(以下略)

小生も村谷氏も同じ四国歩き遍路体験者同士であり、弘法大師信仰者なので、残念だが諦めてここを後にした。

 元の街道に戻り、コンビニで二回目の「アイス休憩?」をとり、坂を下って行くと、「治太夫橋」が下を流れる「治太夫堀」にさしかかる。前回、新道で渡った「六郷用水」のことで、下流では「丸子川」と呼ばれているようだが、正式には六郷用水というそうだ。昭和20(1945)年に廃止され、大方は雨水の下水道になったり埋め戻されたりしたらしいが、この辺りから田園調布までの部分が丸子川として残っているということのようだ。「次大夫」とは、旧今川家の家臣小泉次大夫のことで、幕命により彼が開鑿した灌漑用水である。慶長2(1597)年から15年がかりでの工事だったというから凄い。

 たまたま、先日、杉本苑子著の“江戸上水物語「玉川兄弟」”を読み終わったところだが、曾て何度か行ったこともあり、取水口である羽村堰から現在開口部分の末端口(杉並区浅間橋跡)までの約30kmの上水沿い緑道を何度か歩いたこともあるが、その羽村堰(武州・羽村の多摩川からの取水地)から四谷大木戸までの約43kmを当時の技術や土木機具で、しかも8ヶ月余という超々短期間でやり遂げた工事の苦心惨憺たる過程の一端をほんの僅かなりとも間接的に知っている身として、この工事の凄さも十二分に理解できるのである。比較が適切かどうかよく判らないが、数ヶ月前に歩いた甲州道中での「徳島堰」という、江戸時代の先端的土木・治水事業の跡を目の当たりに見た者として、関係者のご苦労を特に多とする次第である。

 この用水も、多摩川の流水を現在の小田急線和泉多摩川駅近辺のちょっと上流から取水し、大田区六郷迄の全長23.2kmに及ぶ大用水である。橋を渡った右手に「右 むかし筏みち むかし 大山みち」と書かれた石碑がある。「筏道」というのが何なのかよく判らなかったが、事前にWebサイトで検索したら次のような解説があった。

筏道というのが、この「世田谷 玉川村名所物語」には何度か出てきます。筏道が意味することは、奥多摩方面で木材を伐採し、青梅市辺りで筏を組み、竿一本で操作し多摩川を下り、大田区の六郷、羽田付近で陸揚げして、回漕問屋に納める。この間、三日から四日にかけて下るそうです。問屋は、そこから更に東京湾を進み本所深川の材木問屋などに納める。そして、筏で多摩川を下った筏師は、問屋に納め役目を終えて、再び奥多摩の方へと向っていく。その帰りの道を筏道と言います。

 二子玉川小学校、R246を過ぎた所で、ちょっぴり道が判りづらかったが何とか正しく判明し、多摩堤通りに出ると「大山道の碑」がある。ここからちょっと脇道すれば、野川に架かる橋を渡って「兵庫島公園」に行けるが、ここは、南北朝時代、正平13(1358)年に新田義貞の子義興が鎌倉に兵を進めたおり、多摩川の矢口の渡しで江戸荘の領主江戸遠江守らの策略でさしむけられた船に乗ったところ船底の栓を抜かれ、騙し討ちに遭った義興は自害した。その戦いで壮烈な討ち死をした部下の由良兵庫助の屍が数日後に二子の島に流れ着き、爾来「兵庫島」と呼ばれるようになったと言われている所だ。ただ、大山道とは関係も薄そうだし、大分寄り道にもなるので、そこから200m程街道を歩いて前回餐歩時のゴールにした「二子玉川駅」へと向い、二子玉川駅前で不便な信号渡りの後、更に、野川・多摩川に架かる「二子橋」を左右の景色を眺めながら、約600m程で多摩川対岸(西側)へと向かう。涼しい川風が、ほてった頬や身体を快感の世界に導いてくれる。橋の中ほどが都県境で、いよいよ東京都から神奈川県へと変わる。橋には片側しかついていない歩道を行くが、左下の河原では折からの休日とて何百組ともいう家族連れがビニールシートを敷き、思い思いに飲んだり食べたり水遊びしたりと、家族サービスしている。14:21、橋を渡り切ると、すぐ左手に、大正14年完成の「二子橋の親柱」が二本ある。この橋の完成で、それまでの「二子の渡し」が歴史的役割を終えた訳である。傍に「二子の渡し」の説明板があった。ここから溝口にかけての約2kmは、いろいろと見所が多い。

 すぐ先の「二子の渡し場入口」交差点手前右手に下記のような「大山街道の案内板」を発見。

                   
 ←大山街道→
◇ 大山街道とは ◇

江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれ、寛文9年(1669)溝の口村・二子村が宿として定められた。江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になった。
江戸後期には、駿河のお茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸へ運ぶ輸送路として利用され、これらを商う商人達で大変栄えた。

◇ 納太刀の習慣 ◇

大山詣は、江戸を中心とした関東一円の地、遠江・駿河・伊豆・甲斐・信濃・越後・若代・磐城などにも及んでいたと推定されている。参詣の際には納太刀(おさめだち)をする習慣があり、自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる参詣者の姿が多くの浮世絵などに描かれている。


 「二子」という地名の由来についてだが、旧坂戸村(現高津区坂戸)近くに丸いお坊怩ニいう二つの怩ェあったためとか、二子の渡しを始めた親孝行の双子の話からついたとか、二子橋を挟んで世田谷側と瓜二つの「双子」集落を作っているからなど、諸説あるようで、決定打に欠ける。

 14:23、交差点を右に入るとすぐ右側に「旧大山街道二子の渡し場入口」という白い標柱があり、進んで行くと、今は何もないが、往時には茶屋・料理屋・菓子屋・蕎麦屋などで賑わい、鮎漁舟が出たり鵜飼等も行われたというエリアがある。最寄り駅は行く手後方の「二子新地」だが、「二子新地」は東京の「深川新地」や大阪の「曾根崎新地」等の新地と同じく、昔の「三業地」(料理屋・芸者屋・待合茶屋が軒を並べた花街)だったそうで、裏通りには何軒かの料亭が往時の面影を残している。

 更に進むと左手に特徴ある記念碑が見えてきた。岡本太郎作の「誇り」と題した彫刻と「岡本かの子文学碑」(昭和37年、丹下健三氏の設計)である。文学碑には、「年年に わが悲しみは 深くして いよいよ華やぐ わが命なりけり」と刻まれている。なぜこの両岡本かというと、岡本太郎は岡本かの子の息だからであり、後述のとおり、岡本かの子は地元の名家出身だからである。
 周辺は「二子公園」になっており、ベンチに腰掛けてドリンク休憩するが、村谷氏はもう1.5リットル飲んだそうで、小生ですら1リットル弱の水分を摂取済みだが、この後新規にコンビニで追加購入をしなければならない猛暑の今日である。松林に囲まれて「二子神社」がある。寛永18(1641)年創建の旧二子村の村社で、境内には「出世稲荷」「念仏講の供養塔」が建っている。

 神社の正面参道から街道に戻る。街道筋は青っぽい石の断片を混ぜ敷いたカラー調の舗装商店街になっていて、「大山街道」の小看板が続き、随所に案内板や店先の「口上」等、「大山街道」を町づくり・町おこしに活かそうという強い意気込みが感じられる。ただ、歩道が狭いだけに車には注意が肝心だ。山仲間であり東海道や甲州道中の餐歩でもお馴染みの清水氏が入手したからと言って、以前呉れた「大山道歴史ウォッチングガイド」なるA3版四つ折れリーフレット(「川崎市大山街道ふるさと館」発行)を携行しているが、それには、この多摩川渡河地点から梶が谷駅近辺までの大山街道ガイド地図や解説コメントが詳しく掲載されている。東海道や甲州道中餐歩の際、一部の宿で目の当たりにした「宿」の心意気がご当地でも力強く感じられるのは街道ウォーカーとして大変嬉しく、心強い。

 街道左手の小公園前に「大貫家の人々」という解説板があるが、大貫病院があった所で近年まで土蔵も残っていた由。跡地の一部が「二子二丁目公園」になっていて、ここが「岡本かの子・岡本太郎母子の生家跡」で、太郎もこの実家で生まれている。かの子の兄・大貫雪之助は、東大在学中から詩や小説を発表する等、島崎藤村門下生の中でも逸材として将来を嘱望され、谷崎潤一郎や和辻哲郎らと同人雑誌「新思潮」を創刊したりしたが、床屋で誤って剃られた傷跡から感染したのが原因で、若干24歳で夭逝している。かの子は、漫画家岡本一平と結婚し次々と著作を発表、その息岡本太郎も前衛的な画家・彫刻家として、あまりにも著名である。

 斜め向かい(街道右手)にある「光明寺」は、手前の「大和屋ビル」(酒屋や農産物問屋をしていた大貫権之丞が大和屋という屋号で店を開いていた所)の先祖、二子村名主大貫家の菩提寺である。なお、岡本かの子の兄大貫雪之助もここに眠っている。寺は、慶長6(1601)年武田の落武者が二子本村に創建した浄土真宗の寺で、寛永18(1641)年から矢倉沢往還筋に移転している。本堂では、明治7〜9(1874〜76)年の間、「二子学舎」という学校が開かれていたそうだ。また境内の「時の鐘」が往還筋の村人に時を告げていたという。

 光明寺からおよそ400m程行くと、右手に「高津図書館」があり、その前の緑地の一角に「島崎藤村」の筆になる「国木田独歩文学碑」がある。明治30年に溝口を訪れ、元禄時代から旅人宿を営んでいた旅籠「亀屋」に宿泊しており、寂れ行く溝口の情景を物語っている「忘れえぬ人々」に亀屋の主人が描かれている。明治中期に建てられた亀屋の新館は、縁側の欄間にギヤマンをはめ込んでいたが、戦後の米軍用ダンスホール建設時に撤去されており、残念である。大山詣での時期には総檜造りの常夜灯が灯され、大正末期には電球灯明になっていたそうだが、その痕跡は皆無で、既に通り過ぎた酒屋・焼き鳥店・電気屋などのある辺りにあった由である。

 この町には蔵造りの家が結構多かった。その最初がその先左手の「ひらまや質店」だ。右手には「飯島商店」があり、その前に何と「大釜」が置かれていた。これはもちろん宣伝用に作成されたもので、NHKの大河ドラマ「黄金の日々」では「石川五右衛門」の釜茹でシーン撮影に使われたというから驚きだ。

 その先右手の「タナカヤ呉服店」は、江戸時代から続く老舗の「田中呉服店」で、明治44年築の数少ない代表的「蔵造り」の店だそうだ。太い欅の柱と梁が、釘などを使わないで鑿入れのみで組み立てられているそうで、箪笥や寝具・婚礼家具などを売っているそうだが、日曜日のせいかどうか表戸は総て閉まっていた。扇垂木造りという珍しい出窓があると聞いていたので注意して見たが、多分あれのことだろうという感触は充分にあった。

 幅広の道と交差する高津交差点は、大山街道が府中街道と交わる地点だ。府中街道は、東海道と甲州街道とを結ぶ道路でもあり、大正7年頃迄は三つ角で、同15年に開通。それまでは、府中道は現在より100mほど西の旧道を通っていた。角には現在「ふるさと館」前に移された道標があったそうで、それには「是ヨリ北 高幡不動尊道 南川崎道」「東青山道」「西大山道」等と刻まれている。高幡不動尊とは懐かしいというか、つい先だって迄の28年間住み慣れた所で、そこから転居後の現在も毎月一日には妻共々定期的不動尊に参拝しているので、思いがけぬ所で思いがけぬ道標を見たものだと一瞬じーんとなった。

 高津交差点を渡るとすぐ右手の角に「田中屋秤店」があり、店の前には「大山街道」の案内板や、田中屋が嘉永年間(1846-53)創業である旨の看板が架かっていたが、初期にはよろず屋で、後に茶と秤だけの販売店になったようだ。当時の秤商は幕府直轄の免許事業で川崎では当店だけだったが、現在の建物は新しく、歴史を刻んだものではなかったが、今でも「お茶と秤」を売っている。隣に田中屋の蔵が残っていた。

 その先右手の「灰吹屋」も明和年間(1764〜1772)創業の老舗で、240年以上続いている薬屋だ。土蔵は明治期の築造で昭和35(1960)年まで店として畳の上で薬を売っていたという。明治20年頃まで、大山街道には薬屋がなかったため、結構繁盛していたとか。

 左手に道のような、広場のようなスペースがあり、大勢の街道ウォーカーたちがいる。後で聞いたところでは、世田谷区の街道歩きのグループだそうである。「大山小径」と入口に石標があり、奥の方には「大山」への絵巻物風の絵図が畳一畳分以上の石版に納められていたりするが、もうひとつピンと来ない所だった。
 右手に前述の「大山街道ふるさと館」があり15:01から10分ほど立ち寄った。。旧高津町役場があった建物で、入場は無料。大山街道や溝口周辺の歴史等が写真や道具等で展示されている。展示そのものは地域色の強い内容で、街道全体的な展示ではないものの、地元の心意気は充分感じられ、街道ウォーカーとして嬉しい限りである。いい地図が展示されていたのでできれば入手したいと思い、事務所に聞き合わせたが在庫がないとのことで残念。館内には、「近世神奈川の主要道と矢倉沢往還(大山街道)」と題する説明文や絵地図のパネルがあり、横には、墨痕鮮やかな「大山街道」というカメラには収まりきらない大きさの墨書もあった。

 道路際に大山街道の道標がある。ここが旧府中街道との交点で、先ほどのは新道だ。「是ヨリ北 高幡不動道 南 川崎道 東 青山道 西 大山道」とあり、ここまでの大山道が青山道とも呼ばれていたことが判る。

 その先右手の「ケーキ大和」は江戸時代からの和菓子の老舗「大和屋」である。当初は宮前区有馬の大山街道付近で和菓子を旅人達に売っていたが、幕末期に当地に移ってきている。店内には現在よりも古い時代の大和屋を撮った写真が飾ってあるそうだが、買う予定のない人間としては入りづらい。店の前には、「陶芸家で、我国最初の人間国宝でもある陶芸家浜田庄司の家」と書いた説明板が立っている。益子焼に高い芸術性を与えた浜田庄司(1894〜1978)(本名=象二)は、溝口の母の実家で生まれ、祖父の家だったここで少年期を過ごし、後に益子に移住している。1955年人間国宝、1968年文化勲章受章、享年83歳である。

 斜め前の「岩崎酒店」の隣には「丸屋」鈴木七右衛門の屋敷があったというが、今は面影はない。代々溝口の名主の家で、溝口・二子宿の人馬等を提供する問屋場の役を持っていたが、本業は秦野の煙草や厚木の麦等の卸問屋だった由である。

 丸屋の先の「二ケ領用水」は、先に「治太夫堀」の項でも触れた代官「小泉次太夫」が潅漑用水開発奉行として開削したものである。「二ケ領」は現・川崎市のほぼ全域にあたる稲毛領・川崎領を指し、中野島取水口から多摩川の水を引き、橘樹郡の田に給水。慶長4(1599)年に川崎領から始めたが軟弱地盤があり15年もの歳月をかけて同16(1611)年に完成している。用水は、久地の円筒分水(分量樋)で四分、本流は大山街道と大石橋で交わるが、久地には各堀への適切な分水のための昭和16年製「久地円筒分水」(国登録有形文化財)が残っているそうだ。
その大石橋は耐久性の高い二枚の大きな石で架けられていたので「万年橋」とも称されたというが、常夜燈も建つ風情ある石橋で見応えがある。

 大石橋を渡るとすぐ左手に天保年間(1830〜44)創業で薪・炭・米等を江戸の大名屋敷に納め、現在は建築用金物屋家庭用品を販売の「稲毛屋」や、右手の「太田家」(蔵)も古い情緒のある建物である。更にその先左手には、武田信玄の家臣だった多田家の祖先が江戸時代前期に当地で人形店を開業したのが始まりという「甲州屋」があり、現在も営業している。

 溝の口駅や武蔵溝ノ口駅への入口になる「溝口駅入口」の交差点を越えると右手に「溝口神社」がある。元は皇室と対立している赤城大明神を祀っていて「赤城社」と呼ばれていたが、村社の資格取得のため天照大神に祭神を変更した溝口村の総鎮守で、明治の廃仏毀釈により、この後訪れる「宗隆寺」から分かれて、名前も「溝口神社」となっている。この神社には、勝海舟自筆の大幟一対(幅1.75m×長さ13.44m)があり、曾ては9月の祭礼の日に立てられていたそうで、文言は以下の通りだとのことである。

  
一郷咸蒙明神之霊(いっきょうことごとくしんめいのれいをこうむり) 萬家奉祝太平和(ばんかほうしゅくたいへいのわ) 明治29年(1896)9月1日

 その「宗隆寺」は、神社のすぐ先右手にある「七面山」という丘陵の麓に七面天女を祀って建っている。元々は天台宗の寺で、約500年前日蓮宗に改宗しており、立派な山門を有する。山門右側には「大山街道の道標」や前掲の陶芸家浜田庄司の墓、同人自筆の
「昨日在庵 今日不在 明日他行」という名言の碑芭蕉句碑「世を旅に代かく小田のゆきもどり」もある。尾張の国で詠んだ句を、さっきの「灰吹屋」の二代目で俳人の宝永が自分の境遇に似ているとして建立したもので、当初は六軒町にあった由。また、道標は旧府中(川崎)街道と大山街道の交差場所から移されたものだそうだ。また、この寺では御会式が古くから行われ、その賑わいは池上本門寺に次ぐという。今でも十月二一日の夜、近くの寺や講中から担ぎ出された万燈が灯りの列を作って集まってくる由である。

 15:25、次のかなり広い道路と交わる「栄橋」交差点を渡ると左角に「さかえ橋の親柱石」があり、説明板も並立している。栄橋は、平瀬川本流と六ヵ村堀の交差していた場所で溝口村上宿と下作延村片町との境だった処から「境橋」と呼ばれていたのを縁起の良い「栄」に変えたという。この近辺は溝口でも一番の低地で、平瀬川も古くは谷川と呼ばれていたのが川底が浅いので平瀬川になったと言われている。

 南武線の踏切を渡ると、「片町」の十字路だ。手前右手に「川屋」なる屋号の家があり、質店と呉服店をやっていたが、呉服類は戦前まで日本橋横山町から、銘仙は八王子から、布団皮などは青梅から仕入れていたそうだ。斜め向に小さな祠だが地元では有名らしい「片町の庚申塔」がある。この四つ辻が溝口・久本・下作延三村の境で村に疫病が侵入しないようにと建てられたものだとか。この庚申塔は、道標も兼ねていて「東 江戸道 西 大山道 南 加奈川道」と刻まれていた。
 庚申塔の手前には先述の人間国宝浜田庄司の生家跡を記念する碑があり、その碑には「巧匠不留跡」と書かれているが、横の説明板には何故か[碑意は「陶匠は跡を留めず」]と書かれ、一字違いになっている。

 片町十字路を越えると道は右カーブし始め、緩い坂ながら上にもカーブ?し始める。カラー舗装された道を250m程登るとマンションがあり、ここを左折するのが「ねもじり坂」の旧道である。道なりに左カーブすると新道だ。マンションの向かいに「ねもじり坂」の案内柱があり、この曲がり道かどうか不安だったが多分そうだろうと八分通り確信して登り始めたが、ここからが旧道「ねもじり坂」の急登坂の始まりである。昭和30年代迄は道の両側が崖で雑木や笹竹の茂る寂しい所だったとか。説明板によると昔は今よりも急坂で、東京へ野菜を運び、帰りには下肥を積んでくる牛車・荷車などにとって別名「腹減り坂」とも呼ばれた難所だった由。車は、左折しないでもう少し緩やかな大回りの坂を登って先で合流する。

 村谷氏がすいすい登っていく後を、何とか老骨にむち打って、漸く坂を登り切った三叉路にある「笹の原子育地蔵」に15:41に着く。子どもの欲しかった夫婦が四国八十八ヵ所を廻って願掛けし、めでたく子どもが授かったお礼に建てたものだとか。子授け・子育て両方の意味で信仰を集めているようだ。笹の原という地名は曾ての寂しい場所を連想させるが、右には弘化4(1847)年の「秩父・西國・坂東供養塔」、左には昭和19年の久本の空襲による死亡者慰霊の地蔵もあった。

 ところで、きょう予定の行程は、この先まだ3.9kmばかりあるが、寄り道距離が長かったこと、見どころが多く見学に時間がかかったこと、既に時刻が16時前になりつつあること、酷暑の中での歩きで喉が打ち上げをまだかまだかと待ちわびていること、等々を勘案し、相談の結果「梶が谷駅入口」をもって本日の歩行帰着点にすることとした。

 左折して、梶が谷駅に向かい、小生が溝の口で南武線に乗り換える予定であることと、当駅周辺より賑やかな溝の口駅前の方が店も多かろうという村谷氏の提案で、一駅バックの電車に乗り、駅前で生ビールと焼酎少々で本日の反省会と四国遍路時の思い出話などしている間に、夏の夕暮れが近づいてきたので散会し、次回以降も村谷氏の空き日程を勘案して、行程再調整の上継続餐歩することを約し、帰路についた。
 前回の1回目に続き、きょうも見どころたっぷり、かつ、同行者最高に良しということで楽しい1日になった。 合掌

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大山街道餐歩記 その2
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