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大山街道餐歩記 その3
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 2008年7月13日(日) 山歩に続き、酷暑の中を旧街道餐歩! 大山街道 第三回目

【歩行起点】 東急田園都市線梶が谷駅9:18発
【歩行終点】 東急田園都市線江田駅 13:05
       正味3:47 (昼食時間・途中休憩・旧跡等の立ち寄り時間を総て含む)
【歩行距離】 8.2km
【歩行行程】 梶が谷駅〜庚申坂〜宮前平駅〜小台坂〜鷺沼〜八幡坂〜うとう坂・血流坂〜荏田宿〜江田駅
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 きょうは、徒歩大山詣の第3回目である。前回の帰途ルートの逆である「分倍河原から南武線乗換で武蔵溝ノ口、溝の口から東急田園都市線で梶が谷駅」コースで、村谷氏と9:30待ち合わせの前提で向かう。一便(10分)早い準特急に乗ったら9:09に着いてしまったので、改札傍の駅周辺案内ボードで大山街道への道を確認していたら、もっと早く先着していた村谷氏が“喫茶店に入っていた”と言いつつ現れ、早速、9:18に駅から約200mの大山街道本日歩行起点に向かう。信号名はないが<梶が谷駅入口>といった所だ。

 前回は見どころが多すぎ?、当初予定の行程を約4km縮めて終えているので、その分は今日の行程に上乗せし、歩けるところまで歩こうということにしたが、昨日に優るとも劣りそうにない暑気が早くも全身に襲いかかり、到達目標が東急田園都市線「すずかけ台駅」とは言うものの、成り行き勝負・出たとこ勝負の気持でスタートする。昨日の久方ぶりの山歩で、鈍っていた太もも付近が筋肉痛気味で、駅の階段の登り降りも正直言って影響無しとしないありさまなのだ。

 きょうは見どころが前2回に比べて少なそうで、距離はそこそこ稼げるだろうが、20kmともなれば、時節柄100%自信ありとは断言しかねる暑さのきょうである。田園都市線の駅で言えば13駅目、軌道距離で15.8km、街道距離で18.5km、見どころへの寄り道等プラスで、総計19.9kmとなるきょうのコースである。

 前記<梶が谷駅入口>信号から大山街道を歩き始め、9:22、すぐ先の左手に「身代り不動尊」とその横に立つ「道標」を発見。道標には「西 荏田方面 東 二子橋方面」と漢字で彫り込まれており、江戸期のものとは到底思えない。ガイド本などには、「右 大山道 左 やうがすじ道」という道標があるそうだが、発見できなかった。国道246号(以下R246という)にぶつかった100m程左で、市民プラザ通りとR246が交わる「梶ケ谷」交差点を歩道橋で渡り、進むべき方向を確認してから歩道橋を降り、その先を斜め左方向へと入って行く。

 350m程先の「宮崎中学校入口」信号で街道から左横道に離れると、民家と隣り合ってこんもりした高台が見え、横手から立派な細い石段を登ると「宮崎大塚」と呼ばれる塚に着く。頂上に「馬絹大塚供養塔」と彫った石碑があり、よく目立つが、周囲は荒れていて、それしかないという感じだ。高さ5.5m、径25mの方墳と推定されているようだが、発掘調査未了で正確なところは不明らしく、築造目的も、死者慰霊・武器隠匿・物見場所など諸説あるようだ。、太平洋戦争中は陸軍東部62部隊の高射砲陣地が置かれていたという。そのせいかどうか、日章旗を掲げられるポールが一本奥の方に立っていた。いずれにしても戦時中の陸軍による接収や戦後の大規模宅地造成で、近辺の様子も一変したようだし、地元教育委員会の関心の対象にもなっていないように感じられた。。

 元の街道に戻りしばらく行くと、川崎市麻生区にある古刹王禅寺への「王禅寺道」を右に分ける。「宮崎団地」バス停先から「庚申坂」の下り道が始まる。あやうく「宮崎団地前」信号から道なりに左カーブするところだったが、事前に気づき、右手の旧道らしき細い道に進むが、真っ直ぐな下り坂は、銀杏並木が延々と続く素敵な道になっている。この「庚申坂」は、昔この坂近くに「庚申堂」があって、大山詣の人々が道中安全を祈願したのが由来らしい。

 その先、左手の「宮崎第二公園」辺りから登り坂に変わり、十字路で右折してちょっと下り、すぐ左折して登って行く。この辺りで左折・右折を繰り返して行くべき処、2人とも暑気でぼーっとなっていたのかどうか真っ直ぐ進んでしまったようで、どうも道間違いをしたらしいと気づき始める。10:08いなげやの前でたまらずドリンク休憩。

 宮前平駅が現れてもおかしくないのに、そうならないので通りすがりのご婦人に訊くと明快に教えてくれ、街道筋から大分ずれていることが判明。そこから登り一途の道を宮前平駅に進み、傍にあるはずの八幡神社参拝は省略させて貰うことにした。「八幡神社」は、急峻な石段が延々と続いていて、きょうの太ももの痛みでは石段登りに苦戦するところだろうが、助かったような気になるのは我ながら情けない。総ては闘志を鈍らせる酷暑のせいにしてムダ時間を取り戻すべく先へと進むことにした。ガイド本などによれば、その急石段を数段上がった左手に「小台庚申堂」と書かれた正徳4(1714)年の「庚申塔」があり、それは、往時の大山街道が今の道路より2m程高い所を通っていたことを示すものと推察できる。また、急傾斜の石段は左右半分ずつ、一方が旧土橋村、もう一方が旧馬絹村に属していたので、一つの社殿に両村のご神体が計二つ祀られている変わった神社だとのことである。

 宮前平駅の傍で進路がややこしいが、よく確認の上、東急田園都市線のガードを潜ると、その先は「小台坂」の登り道になる。現在は改良・拡幅され登り勾配も緩やかだが、昭和30年代前半迄は幅員狭隘・勾配急・両側土手からは清水湧出という大変難儀な道だったそうだ。小台坂入口のマンションを見ると、確かに5m程ブロックを積んでおり、この高さが当時の高さで今よりも急傾斜だったことを物語っている。坂を登り始めると左側に「イヌツゲの木」が植えられている。ここは元「稲毛領内33観音霊場第26番札所となる観音堂」があった所だそうで、江戸時代中期のお堂だったが幕末に焼失、幸いにして難を逃れた観音立像は馬絹の「泉福寺」に移された由である。
宮前平駅近辺から小台坂にかけては、最も開発で地形が様変わりした地区だそうで、事実右も左も前も後ろはマンションまたマンションである。

 多摩丘陵を横切る形になる大山街道は、大小の登り・下りを幾度か経験しなければならないが、この辺りのコースもその見本のような所だ。「元観音堂」の手前には曾て「下(しも)の店」があり「小台の店」と呼ばれて街道を行き来する人たちに茶・酒・草鞋などを売っていたという。元観音堂を過ぎ、次の十字路を越えると、右角が「上の店」があった所で、菓子類を売っていたという。更に急坂になると、前方に木立の見える「小台公園」。これは桜の名所の由である。男児連れの街道ウォーカーが休憩していたが、我々が近づき挨拶すると、一つしかないベンチを空けてくれ、ドリンク休憩をする。持参のペットボトルドリンクはもう残り少ない。公園を見下ろす十字路をマンションに沿って右折し、先の分岐を左折すると坂が穏やかになり、両側民家の綺麗な植え込みを見ながらゆっくり歩ける平坦な道へと続いていく。

 この辺りは「高山」と呼ばれ、付近一帯で最も標高が高く74.66mで、小台坂下(32m)より42mも高いそうだが、暑さがその水準点を捜す闘志を奪ってしまう。やがて旧国道246に合流し、「交番前」信号に来た。ここが前回のゴール予定駅、東急田園都市線「鷺沼駅」への入口だが、きょうはもう無縁の駅とて、直進し、みずほ銀行の角を左折する。

 間もなく「八幡坂」下り道に入る。往時はかなりの急坂で、荷車等が大変苦労したそうだ。坂の名前になった「八幡社」は左手の植村家に移されている由。坂の途中、中腹に「HAKURAKU」というアパートがあるそうだが、これまた暑さのせいか見落とした。昔は蹄鉄造りと馬医者をしていた「伯楽」があり、遠くは八王子あたりからも通院したそうだ。伯楽とは、本来、馬の善し悪しを見分ける(転じて、優秀な人材を見抜く)人のことだ。「大辞林」によれば、売れない馬でも、伯楽が道で一寸振り返って見ただけで価格が10倍になったというが、果たしてこの地の伯楽はどうだったのか?

 蛇行する八幡坂を下りきった「八幡坂下」信号を右折してR246に出る。喧噪な車道とは裏腹に、道の右側にひっそりと「阿弥陀立像」と元禄元(1688)年の地蔵尊の二体安置の「阿弥陀堂」がある。右下には、「有馬川」も見えるが、信号を無視して手前を横断。昔は、この阿弥陀堂から南西方向へほぼ一直線に延びるのが旧道だったが、今は消失しており、「鷺沼二丁目」信号で左折、有馬の住宅街を登りながら右折、そして左折、右折、左折とジグザグに行くしかない。

 左折ポイントの「鷺沼二」信号からは、緩い登り坂になる。すぐ右手に「馬頭観音」があり、傍に立つ菱形の石碑に長い説明文もある。道標を兼ねた笠付角塔で、先日3日に都内の人見街道を歩いた折多々見かけたタイプのものだ。曾てはこの先右手にある「有馬さくら公園」近くの「王禅寺道」との分岐点にあったものが、土地改良事業の影響で移設されたそうで、ほぼ一直線だった旧道がジグザグになった昭和40年代の都市開発とも関係ありそうだ。石塔はかなり損傷が激しく、「右 王禅寺道 左 大山道 文化二年」と書かれているのが辛うじて判読できる。この馬頭観音は後述の持田春吉氏が昭和46(1971)年頃の宅地開発時に一旦保管し、昭和53(1978)年に同氏宅門前に移設し、その横に由来碑を新たに立てたものだそうだ。

 その先40m程歩くと右上に建っている民家(川野家)の向きが昔の大山街道沿いの向きになっていて、現在の道とは斜め向きの関係になっている。その先で左手にあると思いこんで時間を食ったが、やっと右手に発見した「おなかま幼稚園」を右折すると坂の勾配がきつくなってきた。

 保育園の隣が「川崎考古学研究所」になっている。川崎の遺跡発掘を語る上で特筆すべき人が、先にも触れた「持田春吉」氏で、民間の考古研究者にして日本考古学協会の会員でもある。もともと農業だった持田氏は、ご自身の畑から土器のかけらが多数出てくるのに興味を抱いていた。昭和30年代から40年代にかけて多摩丘陵地域では、東急田園都市線の延長工事等に伴う大がかりな宅地造成が始まっており、持田氏の住む川崎市宮前区の有馬、鷺沼周辺でも開発に伴う発掘調査が頻繁に行われるようになった。氏は、そういった発掘調査に参加しつつ考古学への見識を深め考古学研究の世界へ入っていったそうである。そして、鷺沼遺跡の発掘を振り出しに研究を重ね、遂には昭和54(1979)年に自費でこの「川崎考古学研究所」を立ち上げたというから凄い人だ。同研究所には縄文前期の諸磯期の土器を中心に、弥生中期の宮の台式土器群や環状石斧など多数の優品が保管されており、事前に連絡すれば無料で見学させて貰えるそうだが、「そこまではちょっと」という身としては、心から敬意を払いつつも、当然の如く前を通り過ぎるのだった。

 登り切った十字路の右側が「有馬さくら公園」でその時節にはさぞかし美しいと想像される。園内には高圧線の鉄塔があり、近辺での最高地点(66m)だそうだが、手前で左折し、立ち寄りは略す。先ほど持田氏宅前で見た馬頭観音は元々はこの十字路近くの、今は別人宅の敷地内にあったそうで、今や王禅寺道も痕跡なく消えている由。

 またそこを左折して静かな住宅街に入り、右折して最初の道を左折すると、やがて前方が開けてくる。1本目の道が川崎市から横浜市への市境の筈だが曲がり角を間違えたのか確認できなかった。ずたずたにされていた大山街道はこの辺りから元の旧道に復している。昨日の奥多摩「海沢三滝」への山歩で一緒だった滝澤氏のご自宅が確かこのちょっと西手辺りになる筈だ。前方に視界が広がり、造園業の皆川家の立派な植木や置き石を見ながら気持ちよく下って行くと四つ辻に出る。

 ここを左折して、皆川園(造園業)から「うとう坂」「血流れ坂」を下っていく。皆川園の右手階段を降りていくと「馬頭観音の碑」があるそうだが、簡略すぎて「あれっ」と思ってしまう程度のものらしく当初から素通りのつもりでいた。元は、これは、以前うとう坂と血流れ坂の境に三体あったものを集めて祀ったものだそうだ。左手あった造園業の「皆川園」が元立場の皆川家である。立場というのは江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設で、継立場(つぎたてば)あるいは継場(つぎば)とも言われた休憩場のことだが、往時の旅人たちも景色のよい峠にあたるこの辺が絶好の休憩所だったことだろう。

 急な下りの「うとう坂」から「血流れ坂」を降りていくが、「うとう坂」という名前の由来は何だろうかと思うが、「うとう」というのは「切通し」のことを言うらしい。「血流れ坂」は、おそらく鉄分を多く含んだ土が雨などで溶けた赤水になって流れたことに由来すると思われる。

 更に下って、県道102号(日吉元石川線)に出るが、ここは右に迂回して横断する処だが、街道歩きでの常套手段でショートカットする。この広い県道が港北ニュータウン北部を東西に連絡する幹線道路である。この坂下が標高40m、うとう坂の上が70mなので30m下った勘定だ。

 血流れ坂の延長線上にある道を少し登り、やがて下り坂になると横浜市営地下鉄3号線の高架橋を潜り、新興住宅街へと進む。左にこんもりした木立が現れ、傍にコップも備えられている円形の滝壺「不動滝」が現れる。一条の滝から落ちる冷水を渇いた喉に早速送り込んでやるが、格別に旨い味でもない。何故「不動滝」かというと、。隣の石段上に「老馬鍛冶山不動堂」があるからだ。その隣には「稲荷社」もあるそうだが、相談の上、登りは省略し先へと進む。

 その先100m程行くと「早渕川」の岸に出る。昔はここに橋があり対岸には「生麦事件」がきっかけで設けられた「番小屋」があったそうだが、今は橋が無く、200m程下流(左)に架かっている「鍛冶橋」を渡ることになる。この「早渕川」は、改修工事前迄はよく洪水を起こす暴れん坊川だったそうで、改修工事により流れを緩いカーブに改めて被害を無くしたらしい。その鍛冶橋から見た限りではコンクリートで両側を固めた直線川で、とてもそのな暴れ川だったという昔の姿は感じられない。

 鍛冶橋を渡って左に進むと右手のマンションのある場所に昔は荏田宿の目標になる「一里榎」があったそうだ。その向の小さなお堂に「庚申塔」があり、荏田下宿の女性達が寛政5(1793)年に建てた旨の説明板が立っていた。幼児安穏や健脚祈願をしていたそうである。ここが荏田宿の入口だが、荏田宿は江戸から七里、ここから下宿、中宿、上宿と続いていた。説明板に荏田宿は江戸を発った大山街道の旅人の1日目の宿場だったと書かれている。だが、考えてみれば、三軒茶屋から二子までの区間を新旧両道歩いたとはいえ、今日で3回目の途中時点だが、距離は赤坂御門から鍛冶橋迄で通算25kmである。

 1日10里(男の場合)と言われた昔人の健脚ぶりからすれば充分頷けるし、我が身も村谷氏も四国遍路では40日間の1日平均が30km、多い日は44kmも歩いたことを考えれば、驚くほどのことでもなかったが、この酷暑の中では、また、最近の東海道や甲州道中時の老骨体験から言えば、25kmというのは「順当」と言ってよかろうと思う。もっとも、自分の場合、街道から通算6.2km程度は寄り道しているので3回目のきょうの7.1km歩行時点での通算徒歩距離は31km程には達していたが・・・ともあれ、江戸を早立ちした旅人の宿駅として江戸時代初期から栄え、近在の物資集散地として道脇には足袋屋・古着屋・豆腐屋・旅籠等が並び賑わったそうだが、文政4(1821)年・明治27(1894)年の大火で衰微したらしく、今や往時の面影は全くない。地元の復元意欲も感じられない。

 天保2年(1831)、渡邊崋山も江戸を発った秋のある夜、荏田下宿の旅籠「升屋」に宿泊している。「游相日記」には、この近隣では有馬や荏田城趾に住んでいる狼が来て家畜などに被害が出ており、住民は夜間の往来をやめている旨書いてあるそうだ。

 元の街道に戻ると、その先右手の民家の庭に、中宿の「秋葉講常夜燈」がある筈だが、歩道左側を暑さにバテ気味で歩いていたせいか見落としてしまった。文政4年(1821)の大火後、文久元年(1861)に火難祈願のため秋葉神社を勧請して建立されたものだそうだが・・・
 その先「荏田」交差点でR246を越えると上宿に入る。セブンイレブンのある角を左折するが、曾てはこの角に高札場があったそうだ。やがて右手に雑木の茂った高台が見えてくるが、これが荏田城趾で40〜50m程度ある。街道と城趾のある高台の間を「小黒谷(おぐろやと)」と言い、バス停名として残っているのみだ。

 その小黒谷戸バス停の先で一旦R246に合流してすぐ右の細い道に入ると、右手の草むらに「庚申供養塔」がある。「旧大山街道 荏田宿 小黒谷 庚申供養塔 建立 寛保二(1742)年壬戌十一月五日」と紙に毛筆書きで説明板に貼っている。雨濡れ毎に書き直しているのだろうか。

 東名高速の高架を潜ると、「江田北3」の先の右手に「地蔵堂」があり、江戸中期に造られた三体の地蔵立像がある。「左大山道」の道標もある。
 その先が東急「江田駅」で荏田宿の「エダ」とは字が異なる。今朝ほど来、これで8.3km程の街道歩きをしたが、時刻はもう正午をまわっており、先ほどから食事処を捜しながら歩いて来て、駅前で見つかることを期待してここまできた次第である。今日の行程は、宅地開発の影響でか往時の遺跡・旧跡があまりなかったが、反面、登り下りの坂が多く、多摩丘陵の起伏に富んだ地形をあらためて実感させられると共に、久々に丘陵ウォークをしている感が強かった。

 折良く、駅傍で焼肉店が見つかり、他にはなさそうなのでそこに入店。身体は燃えるようにほてっているので、火の傍は避け、涼しい場所に案内して貰い、何はともあれ中ジョッキーを一気に流し込む。日射病になりそうな猛暑歩きはこの辺でひとまず中断して次週21日・27日に譲ろうということに意見が一致し、安心してそれぞれ好みのドリンクを追加注文。冷麺を食べ終わる頃には漸く身体から熱気が薄れ、生き返ったような心地になる。それにしても炎天下の道は暑い。恐らく、「きょうの歩きは10kmにも達していないだろうな」と言いつつ電車に乗り、溝の口で別れて南武線経由で帰途についた。途中で妻に「今分倍河原だけど、着いたらどうしょうかな?」とメールしたら、最寄り駅まで車で迎えに来てくれる旨の返信メールが入り、ヤレヤレ。帰宅したら風呂の準備も出来ていて、早速汗を流して氷菓と冷たいドリンクで疲れ癒しをした。