2008年6月27日(金) 「餐歩」と言うより 「参歩」の方がふさわしい!? 大山街道歩き 第一回目

【歩行起点】 地下鉄半蔵門線永田町駅9a出口10:20発
【歩行終点】 田園都市線二子玉川駅 15:20着
             正味5:00 (昼食時間・途中休憩時間・旧跡等の立ち寄り時間を総て含む)

【歩行距離】 16.9km・・・うち街道14.85km 街道左右への寄り道2.05km

【歩行行程】 地下鉄半蔵門線永田町駅〜赤坂御門跡〜牛啼坂〜高橋是清翁記念公園〜青山・梅窓院〜善光寺〜宮益坂〜
      渋谷ハチ公像〜道玄坂〜大坂〜上目黒氷川神社〜大橋〜池尻稲荷神社→三軒茶屋〜中里通り〜伊勢丸稲荷大明神
       〜宗円寺〜善養院〜用賀神社〜行善寺〜二子の渡し跡〜二子玉川駅
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 きょうは、6回区切りによる、「オール歩き」での「大山詣で」の第一回目である。明大前駅と渋谷駅で乗換え、自宅最寄り駅からは約一時間で半蔵門線永田町駅に到着。この駅がかなり深い地下にあることは承知していたが、目的の9a出口に出るのにすっかり手間取った。表示のみならず、駅員の説明も不適切で、結局トイレ立ち寄りも含めると20分近くの時間を要した。そのルートたるや、何のルート表示もない都道府県会館の地下を通り抜けるという、始めて通る者にとっては正に迷路だったが、何とか諏訪坂に入り込んだ9a出口から漸く陽光を見たときはほっとしたものだ。

 スタート地点の「赤坂御門跡」には直後の10:21到着。ここが「大山(街)道」の出発点である。「赤坂御門」は、江戸城外郭門の一つで、堀に沿った石垣の一部が残っている。二つの門を直角に配する「枡形門」形式をとっていたそうだ。寛永13年(1636)に筑前藩主黒田忠之が枡形石垣を構築、御門は同16年(1639)御門普請奉行を拝した加藤正直、小川安則によって完成した。
「江戸時代のこの門は、・・・大山に参拝する重要な地点でもありました。」とある。
 江戸時代の赤坂御門は、現・神奈川県の「大山」に参拝する「大山道」の出発地点だった訳だが、明治期に入って門が撤去され、石垣も大部分が壊されたものの、現在は一部が復元・保存されている。 その石垣の後ろには、40F建ての赤坂プリンスホテルが偉容を誇り、新旧建造物のアンバランスぶりが何やらおかしくもある。

 ここを起点にスタートすると、赤坂見附交差点の手前右手に堀に架かる橋があり、橋名を見ると変体仮名で、正確には読めない。橋を渡って反対側で確認すると「弁慶橋」とあり、本日の二番目の見所としてカメラに収める。橋名は、江戸開府当時のこのの設計者「弁慶小左衛門」に因んでの命名で「弁慶堀」とよばれているが、それに因んで、明治22年新たな橋に架け替えた時に「弁慶橋」の名前が付けられたそうだ。

 その横には、「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の石碑や和・英文併記の説明板があり、左横には「Grang Prince Hotel Akasaka 歩行者専用通路」とあった。尾張徳川家や井伊家の屋敷があった所からついた紀尾井町の語源にもなったようだ。

 橋を渡りかえして元の青山通り(国道246号〜以下R246と表記)に戻り、赤坂見附交差点を渡って僅かながら登り道になっている右手歩道を行き、歩道橋の先にある「豊川稲荷」に立ち寄る。大山道からは逸れた場所だが、現役時代に二年半ほど名古屋勤務した折、休日に妻と豊川市にある豊川稲荷に参拝したことがあるため、何となく親近感もあっての立ち寄りだ。この豊川稲荷は、名奉行で名高い大岡越前守忠相の子、忠宣が三河國から分院し、大山道の南側にあった屋敷内に祀ったのが起源で、明治20年にここに移されている。分社とは言え、社殿、境内などいずれもなかなかのもので、本日の歩き旅の無事を祈願した。

 きょうは曇り予報が好転し、早くも日差しがきついが、歩道の木々が暑さを和らげてくれる。少し戻って歩道橋を渡り、進行方向左手の歩道側へと入り、すぐ斜め左に入る旧道へと進む。この上り坂が「牛啼坂」。標柱の説明には、
「赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。」とある。近くに大きなサイカチの木があったことから「さいかち坂ともいう」ともある。大山街道のことを「厚木道」とも呼んでいたようだ。その標柱の傍には、「赤坂小学校」と言う文字と、細かい説明文付きの石碑が建っており、以前ここが赤坂小学校のあった跡地だと判るが、現在は、派手な「赤坂弓道場」の看板があった。

 牛啼坂には、前述の標柱と同じものが坂を登る途中にもう一本建っていて、餐歩者として快感を覚える。牛啼坂を登りつめた辺りの右手に「弾正坂」があり、先ほどの牛啼坂と同様の標柱が立っている。脇面の説明文に寄れば
「西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた」とある。左手は絶壁のような崖になっていて、急峻な地形だったことが判る。

 その先でこの旧道は、元のR246に合流するが、その手前左手にも急坂があり、「薬研坂」の標柱が立っていた。説明文は
「中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で何右衛門坂とも呼んだ」とある。向こうからタクシーが喘ぎながら登ってきていた。

 R246に合流すると、途端にこれまでの静寂の世界が喧噪な世界へと変わる。その喧噪世界を隔絶するかのように右手一体に森のように見えるのが「赤坂御用地」だ。三笠宮邸、寛仁親王邸、秋篠宮邸、高円宮邸などがあるのだが、通りすがりに見えた一ヶ所の門には制服姿の警官が厳めしく立っているのが遠目にもはっきりと見えた。ここは、先ほど見た紀州藩の中屋敷跡であり、封建時代の御上の力の大きさにあらためて思いをさせられる。

 その先左手に
「高橋是清記念公園」があり、立ち寄る。道路際には砂場や滑り台など幼児向けの施設があり、清潔な公衆トイレもついていたが、奥の公園は意外に広く、生い茂る木々の緑が照りつける夏の日差しを遮り、池や岩の配置された回遊式庭園になっていて、ベンチもそこかしこに置かれ、区民の静かな憩いの場所としても最適だ。奥には、高橋是清翁の銅像が建ち、現代政治家たちを監視しているかの如く感ずるのはひとり我のみか。
 反対側(西側)出入口付近に説明板があった。要旨とするところは以下の通りだ。

高橋是清(1854〜1936)といえば金融界の重鎮で、大正から昭和初期にかけて首相や蔵相を務め、「だるま宰相」とも称された人物だが、昭和11(1936)年、ここにあった自宅で青年将校らに暗殺(2・26事件)され83歳の生涯を閉じた人物だ。縁のある建物は空襲で焼失したが、母屋は故人の眠る多磨霊園に移築されていたため難を逃れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園に移築されている。戦時中撤去されていた銅像も昭和30(1955)年に再建。現公園面積はR246拡幅工事で若干狭まったが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残っている由で、鬱蒼と茂る樹木群は、かえで、もっこく、うらじろがし、くすのき等、種類も多い。

 11時ちょうどに高橋是清記念公園を出発。青山一丁目信号で右手の赤坂御用地の長い塀が終わり、都営大江戸線の通る外苑東通りに着く。さらにその先青山二丁目信号から右手が神宮外苑への道だ。
 地下鉄外苑前駅の左手にビル沿いに孟宗竹の茂った道があり、これが「梅窓院」である。美濃郡上藩青山家の菩提寺だ。そう言えば、その外苑前交差点から表参道交差点までの約700mが「青山百人町通り」と言い、天正18(1590)年徳川家康が江戸入城の直後、青山家が与力と鉄砲同心を預かった際の拝領地で、延宝6(1678)年に百人町としてまとめられたそうだが、「青山」という地名もその青山家から来ているのかと思いきや、郡上藩青山家の本家筋に当たる美濃篠山藩青山家の江戸屋敷が青山通り北側にあり、どちらも関係ありと見た方がよさそうだ。

 さて、この梅窓院はちょうど墓地の売却をやっていたようで係員が案内所前に立っていた。山門を通ったまではよかったがすっかり近代的な高層建物でどこが寺院入口やら雰囲気が全くなく、よく判らない。墓地の一角には、寛永20年(1643)没の初代青山幸成(よしなり)以来13代に亘って青山家代々の御霊が埋葬されているそうだが、ここは当時の下屋敷跡で境内は今の4倍もの広さだったという。豪華ビルを見てはもはや関心喪失と即退却を決める。通りに戻ったら入口に案内板があり、本堂・観音堂・祖師堂の位置を図示していたが、実際には参拝する気も全く起きない外観だった。梅窓院という寺名は、初代青山幸成の戒名に由来する由だが、四国歩き遍路時に参拝した第33番札所雪蹊寺の寺名が長曾我部元親の号に由来するのと同類項のようだ。 

 南青山三丁目外苑西通りを渡った先の左手にあるビルの地下に手打ち蕎麦の看板があったので、空腹と早め勝負で立ち寄り、「美濃屋 文右衛門そば」で低料金・低カロリーのメニューで軽く空腹を満たし、11:27〜11:41の15分休憩で再出発。

 表参道入口の手前右手に「善光寺」があり、立ち寄る。信州善光寺の別院で、家康が勧請して谷中村に建てたものをこの地に移転したもの。山門両脇の仁王像の裏側に「雷神」「風神」が祀られているのが珍しい。奥には、蕃社の獄で渡辺崋山らと捕らえられた高野長英が、逃亡して諸国を巡った後、江戸に立ち返った際に追われて自決を図った場所があるそうだが、柵をしてあり立ち入れない。

 その先が「表参道」交差点で、信号を渡りながら右手の通りをカメラで撮った。その先右手の国連大学の隣に派手な建造物があり、何だろうと近づくと、大阪万博の太陽の塔を思い出させるような偉容なモニュメントが「こどもの城」前に建っていたので、歴史的建造物ではないがカメラに収めた。もちろん、かの巨匠岡本太郎の作である。題して「こどもの樹」とある。

 「宮益坂上」交差点は五差路になっている。直角に交差する左右への道の間の二本の道の左方向がR246で、金王坂から玉川通りとなるが、大山道はこれと別れ、右の「宮益坂」の下り坂へと入っていく。この宮益坂の名前の由来となった御嶽神社が右手渋谷郵便局先のビルの谷間の右高台にあるが立ち寄らなかった。文献によれば、御嶽神社本殿前の狛犬は日本狼だそうで珍しい。境内には
芭蕉句碑「眼にかかる 時や殊更 さ月不二」や、延宝9年(1681)の古い勢至菩薩像、駒場での練兵行幸時の「明治天皇御嶽神社御小休所阯」碑もあるとか。

 やがて「宮益坂下」で明治通りと交差し、正面に見えるJR山手線のガードへと向かっていくが、右手街路樹に「宮益坂」と書かれた板が貼られている。宮益坂は、曾て富士山が見える景観から「富士見坂」とも呼ばれたそうだが、先述御嶽神社のご利益で益々栄える町にという願いで、正徳三年(1713)から渋谷宮益町と改名したそうだ。

 渋谷駅「ハチ公前広場」は、大勢の老若男女たちでいっぱいだ。実は、実際に「ハチ公像」を見るのは初めてだったので、カメラに収めたが、見ている周囲の人たちにはどう見えたことだろうかと思うと、なにやらおかしくなってくる。随分以前、映画で見たことがあるが、
大正12年生まれの秋田犬である。東京帝国大学農学部教授上野三郎博士の愛犬で出かける時はいつも渋谷駅まで同行していた。大正14年、博士が突然脳溢血で死去後も博士を慕うハチ公は渋谷駅に博士の帰りを待ち続けたという感動的映画だった。そのことが新聞で報じられると募金が集まり、昭和9年に銅像として建てられ、ハチ公はその翌年死去し、青山墓地に葬られたとか。以来、待ち合わせ場所としてこのハチ公像前が有名になったそうだが、そんな逸話を知らない世代が多くなっているのだろうと思いつつ「道玄坂」の登り道へと進んでいく。未だ、大山道はたかだか3.8km程度しか歩いていないというのに、もう時間は12:20だ。

 渋谷駅近辺と同様、雑踏の中を道玄坂を登って行くと、右手に「しぶや百軒店」(ひゃっけんだな)の大横看板が見える。大正12(1923)年の関東大震災被災店が集まってできた通りで、いつかテレビで見たことを思い出す。
 道玄坂上交番前交差点の左手前角に「与謝野晶子の歌碑」「道玄坂道供養碑」があるそうだが、勘違いしてその先の玉川通り(R246)との合流地点とばかり思いこんでいたので見つからず、帰宅して地図を精査して我が勘違いミスに気づいた。後の祭りというやつで、惜しいことをしたものだ。

 その先の神泉町交差点から400m位先の大坂上バス停の先にある「追分」を右へ入るのが旧道である。「上目黒大坂」とも呼ばれ、大山道の中で最も険しい坂の一つだった由。落とした団子が坂下まで転がるほどだったので別名を「団子坂」とも呼んだそうだ。確かに極端な下り坂だが、恐らく今は車も通る関係上当時よりはなだらかになっている筈だが、それでも下り道でよかったと考えるのが順当のようだ。逆だとしんどいことだろう。

 大坂を下りきった所がちょっとややこしく、道を間違えたかと思い、携行した二種類の地図をとっかえひっかえ精査したが、左に見えているR246の頭上を走る首都高から言っても間違っていそうにないので、もう一度旧道を登り返してR246に合流した。

 合流してすぐ右手の急な石段を登ったら「上目黒氷川神社」だ。境内には、見晴らしが良く、昔日の旅人たちも、ここから景観を楽しんだものと思われる。案内板によれば、

        氷川神社
                                          大橋2−16−21
 氷川神社は、急上目黒村の鎮守で、旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地にむかえたものであるといわれています。
 祭神は、素盞嗚命・天照大御神・菅原道真を合祀しています。
 正面の石段は小松石造りで、文化13年(1816)に建設され明治38年(1905)に改修されたものです。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下に「武州荏原群菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があります。道標には、正面に「大山道、せたがや通、玉川通」、右面に「みぎひろう、めぐろ、池がみ、品川みち、」左面に「青山、あざぶみち」背面に「天保13年寅正月吉日、上目黒坂上、願主徳兵衛」と彫られています。もと道路の向側に建てられていました。の前の玉川通りは、江戸時代に大山街道と呼ばれ、大山の石尊詣での道として有名でした
下りは鳥居の前に出た。鳥居横に天保13年(1842)に建てられた大山道の道標がある。正面には「大山道 せたがや通 玉川通」、右側面には「右 ひろう めぐろ 池がみ 品川みち」、左側面には「左 青山 あざぶみち」と刻まれている。
                       平成元年3月
                                         東京都目黒区教育委員会


とあるが、誤字が二ヶ所あり、誰かの手によって訂正されていた。また、神殿前に置いてあった小型の三折れパンフレットには、「御由緒」として次のように書かれてあった。また、表紙部分には
大橋 氷川神社 旧上目黒氏神とあった。

天正年間(1573〜1592) にこの地に迎えられた。昔よりこの氏子は疫病を知らずと云い伝えられている。
明治四十五年に北野神社を合祀し現在に至る。また大山道の石の道標もあり、目黒元富士から移した浅間の石祠、仙元講の碑が保存されている。


そのほか、

明治初期、旧上目黒一丁目から氷川神社に移された。氷川神社の境内を富士山の登山道と見立て、各合目に標識が立てられている。七月一日の山開きの日に氏子総代・崇敬者が登山道を登り例祭を行っている。

神まつる親の姿が子をつくる

などとあった。

 R246に戻って進む。その先の目黒川に架かる「大橋」を渡るが、通りの右手側は暗渠になっていて、川面が見えるのは通りの左側だったらしい。通り過ぎた先の信号でR246の左歩道に出て、ちょっぴりバックし、左の旧道へと入っていく。この信号上が首都高渋谷線、下側地下が東急田園都市線の「池尻大橋駅」である。長ったらしい名前だが、駅の真ん中が区境、すなわち東側が目黒区大橋、西側が世田谷区池尻というところからの命名らしい。・池尻大橋駅の所、左斜めに入っていくのが旧道だ。旧道に入ると途端に喧騒から逃れて静かになる。

 旧道を300m位行き、左手の網野クリニックの角を左に入ってちょっと行くと、右手に立派な庚申堂があった。
入口には石の鳥居があり、庚申堂としては大変なものである。地元の池尻庚申会による詳細な説明板も横に立っていたが、
世田谷区内で確認された205体の庚申堂のうちの2体がこのお堂に安置されており、1680年の庚申の年と12年後の1692年の造立だそうである。邪鬼を踏んづけた姿の青面金剛とその下に三猿を彫った石仏である。

 元の通りに戻り、その先右手の「池尻稲荷神社」へ行く。明暦年間(1655〜1657)に池尻・池沢両村の村人達によって建立された由。境内にあった薬水の井戸は旅人達や近辺の人たちにとって有り難い存在だったとのことである。入口には「旧大山街道」の立派な石碑が建っていた。

 その先の「三宿」交差点で再びR246号に合流。左手の昭和女子大辺りで胸の携帯が鳴る。娘からのメールで嬉しい知らせ。お祝いにケーキでも買って帰ろうと、バス停のベンチで「オメデトウ」の返信。もう14:30だ。

 やがて三軒茶屋交差点(三軒茶屋駅)。昔、「田中屋、信楽、角屋」という三軒の茶屋があったのが地名の由来だそうだ。交差点で道は二股に別れる。右手前方が江戸時代の旧大山街道(矢倉沢往還)、左手前方は江戸時代の新大山街道(現R246)で、二股の所に不動明王を乗せた立派な大山道の道標があり、横には詳細な説明板があった。それによれば、

年代寛延二年(1749)、文化九年(1812)再建。
道標の銘文は、正面には「左相州通 大山道」、左側面には「右 富士 世田谷 登戸道」、右側面には「此方 二子通」と刻まれている。
備考として、
一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
     二、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
     三、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。

とある。

また、
伝来として、「大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。(途中略)この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和五十八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。」と書かれている。

 さて、本日の予定ルートは、「新」である。二子玉川までの距離は、旧道(上町・慈眼寺線)、新道(新町・行善寺線)いずれも7km程だが、きょう歩かない旧道は、第二回目のコースとして三軒茶屋起点で鷺沼駅までを予定している。そんな訳で、きょうはここ三軒茶屋から駒沢大学・桜新町を経由して用賀駅先でちょっぴりだけ次回コースと重複した後、再び行善寺を経由して二子玉川駅をゴールとする予定である。

 久々の餐歩で、鈍っていた脚が疲労を訴え始めるが、娘からの嬉しいメールにパワーを貰って三軒茶屋「追分」から再スタートする。ほぼR246沿いの、江戸時代の文化・文政期頃(1800年代前半)の開通と言われる新道ルートに入り、13:37「のらや」先を「中里通り」と呼ばれる旧道へ入って行くと、すぐ右手に「伊勢丸稲荷神社」がある。狭い境内だが石の鳥居にかかった額には「伊勢丸稲荷大神」とあり、境内左手には「大山道」の丸い石碑や、地元の名士だろうか「石川右三郎之像」などがある。石版に彫った神社の説明文もあったが、徳川初期からあった小祠から始まって以来の変遷が昭和初期の文体で彫り刻まれていた。

 この辺りには「蛇崩川(じゃくずれがわ)緑道」が走っているのだが、うっかり気づかず通り過ぎてしまった。中目黒付近で目黒川に合流する蛇崩川の緑道で、蛇崩川にまつわる次の如き伝説があるという。
1189年奥州征伐途上の源頼朝が、蛇崩川付近(五本木近くの鎌倉街道)で葦毛の馬が暴れて川の深みで死んだため、ここは馬を引いて渡るように指示したそうで、これが馬引沢村の由来となり、その後上馬引沢村、下馬引沢村等に分かれ、現在の上馬・下馬という地名に引き継がれているそうだ。

 緩やかな坂を登り詰めた辺りで、再びR246に合流する。その手前左手に庚申塔地蔵尊がある筈だが見つからなかった。撤去されたのか、それとも見過ごしたのか?

 13:46、上馬交差点を渡り、その先左手の「宗円寺」に立ち寄る。入口の寺名の石塔横に「旭小学校発祥地」という石標もある。寺は、曹洞宗で若宮八幡宮の別当寺だったが、寛永10(1633)年に喜山正存和尚が中興。境内には世田谷区内最古といわれる明暦4年(1658)の庚申塔や、悪事を天に告げられぬよう「見ざる 言わざる 聞かざる」の願いを込めた三猿の彫刻のほか、疫病除けの木造の「しょうづかの婆様」の小堂等があった。

 駒沢大学駅を過ぎ、14:05に右手の庚申堂に立ち寄る。「庚申様」の石塔、二基の庚申像、「新町庚申講」という名入りの電球入り灯籠、「庚申講」の大赤提灯などがあった。間もなく新町一丁目信号で、R246を左に分け、右斜め前方へと進む。300m位先の左手の「善養院」は、元和2(1616)年開基の豪徳寺の末寺だ。

 道は新町信号、桜新町駅と進み、途中、バス停で10分間小休止する。ベンチで靴を脱ぎ、靴中や靴下に外気を当て湿気を取ると共に、渇いた喉に持参のスポーツドリンクを流し込む。大分汗をかいているせいか、もう随分前からトイレとも無縁だ。

 用賀四丁目の手前左に入った所に「用賀神社」があり、参拝。今朝ほど来から何回目の参拝になるのだろう。気持ばかりの賽銭も大分投げ入れたように思える。御祭神は、應神天皇、天照皇大神、菅原道真公と石碑に刻まれている。大きな神社だが説明板などが無く、詳細は不明だったが、帰宅後に調べてみると、曾ては天祖神社と称していたが明治41年に周辺の神社を合祀し、地名をとって用賀神社となったようだ。また、その合祀についていろいろ調べていくと
、明治39(1906)年12月に「神社合祀令」なる勅命が発布され、原則として一町村一社に統廃合されることになった。当然、反対運動もあったし、府県に推進を委ねた経緯もあり、進捗度合に府県別格差が生じたが、所管の内務省は以後数年かけて整理事業を行い、大正3(1914)年までに約20万社あったものが7万社も減ったそうなので、ご当地用賀神社の合祀も時期的に完全符合するのである。

 用賀駅の「追分」で、別ルートから来た大山旧道と合流し、その暫く先の「延命地蔵」がある二差路で再び左右前方へと別れる。延命地蔵で旧道を右に分け、直進する。瀬田の信号は、環八と246号、427号が輻輳する六叉路の大交差点なので、歩道橋に上がって地図と進むべき進路を十二分に確認してから歩道橋を降り、R246から斜め左先の瀬田交番の二股で、左斜めへと細い道に入っていく。超喧噪だった先ほどの大交差点が嘘のように感じられる。

 静かな住宅街になり、行く手右に「行善寺」を見つける。荘厳な雰囲気の寺であり、時に15:00ジャストだ。入口の説明板の下に
「せたがや百景 瀬田の行善寺と行善寺坂」と書かれており、その上部に「本寺の開基は長崎伊予守重光(法名・行善)、開山は法蓮社印誉上人伝光和尚であり、永禄年間(1558〜1569)に建立された。本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師があった。この地は展望に恵まれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。」とある。本堂の裏手は絶壁になっており、びっくり仰天だ。桜の枝越しに多摩川が見え、見晴らしはよいが、今やビルも建て込み、絶景とは言い難くなっている。

 ここから道は下り坂になる。左手に「行火坂」と書かれた石碑が建つ三叉路があり、左に登っている。どうやらこれが「法徳寺」への分岐らしいが立ち寄りはやめ、そのまま「行善寺坂」を下っていく。坂を下りきって「六郷用水」を渡り、すぐ左へ少し行って右折する。どんどん進んで東急大井町線の高架を潜ると玉川1丁目の信号だが、周辺は二子玉川駅方面にかけて道路工事をしている。何だろうと思いつつ正面の切り通しを抜け、広い河畔に突き当たった。どうやら先ほどの切り通しは、往年の堤防だったと想われる。

 手前が野川でその向こう側を流れる多摩川とすぐ左で合流する。昔は、ここを「二子の渡し」で渡ったのだが、少し右手の区立福祉作業所前に「二子の渡し跡」の石碑がひっそりと建っていた。。
瀬田村にあった2つの発着所の一つだそうで、「二子の渡し」は、大正14年の二子橋完成で永年の役割を終えたそうだ。

 ここから、先ほどの玉川1丁目まで戻り、本日の歩行終点とした後、二子玉川駅から帰路につく予定だったが、工事中だったことと、通りかかったご婦人に駅への近道を尋ね、工事箇所を迂回して15:20に二子玉川駅に帰着した。

 なお、この「二子玉川駅」や「野川」は、曾て妻と「野川河畔散策」で来た所で、懐かしい。
  H.17.04.10(日) 野川散策 第二回目 (京王線柴崎駅〜馬橋〜二子橋〜二子玉川駅)
  H.17.01.10(月) 野川散策 第一回目 (JR武蔵小金井駅〜野川:丸山橋〜野川:馬橋〜神代植物公園立ち寄り〜京王線柴崎駅)
と2回シリーズで歩いた時のゴール地点だからである。

 帰途は、15:25発中央林間行き急行に乗り、溝の口でJR南武線に乗り換えたら、随分スムーズに帰れ、分倍河原乗換で片道44分後には自宅最寄り駅に帰着できた。
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大山街道餐歩記 その1
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