「中山道」を歩く

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 2009.11.08(日) 中山道第7回目−2日目 松井田宿〜坂本宿〜軽井沢宿(泊)

スタート

 
6:30起床。7:30、松井田宿「妙角旅館」の見送りを受けて前日の街道歩き終点である「下町」交差点に戻り、第2日目を早々とスタートする。今日は難関碓氷峠を越えてのゴール軽井沢宿泊まりだ。

脇本陣(伝右衛門)跡・・・安中市松井田町松井田(「下町」交差点の少し先北側)

 数分先の左側の丁字路コーナーに、「妙義登山口」袖看板を掲げている「かんべや」があり、その向かい辺りに脇本陣の一つがあったらしいが、何の標識もない。所々、古い町並みが残っているが、宿としての遺産は淋しい方に属するようだ。

崇徳寺・・・安中市松井田町松井田325

 その先左手の丁字路入口に、上野34ヵ所札所の第14番札所・臨済宗「崇徳寺」の石柱がある。「貞松山」と号し、足利尊氏の開基と伝わる。
 境内には、仁王門の正面に聖観音菩薩像、両脇に千手観音菩薩像と如意輪観音像が安置されている観音堂があり、御詠歌が掲げられている。この観音様は子育て観音としても知られ、そのせいかどうか、崇徳寺は保育園の経営も力を入れており、保育園の中に仁王門があり、危険防止のためか柵が設けられていて通れない。
 本堂の前には老木が茂り、松や紅葉が優雅に整えられている。

 丁字路の頭上には「音楽装置付」信号機。他の信号機と同じ平凡なメロデーだが、何故この信号機のみ特別に表示されているのか意味不明である。

金井本陣跡・・・安中市松井田町松井田仲町(「仲町」交差点の一本手前左手)

 現在、群馬県信用組合と靴屋の間を左に入った所が、「金井本陣」のあった跡である。

外郎家・・・安中市松井田町松井田仲町<右側>

 その向かい(街道右手)に「山城屋酒店」があるが、ここが小田原の本家と同様に透頂香(とんちんこう)を扱った外郎(ういろう)陳道斎を売る店があった所で、かなり繁昌していたという。

(注) 外郎は漢方薬で、足利義満の時代に元の国から日本に逃れてきた中国人(元の札部員外郎陳宗敬という人物)によって広められたと言われている。当初は九州博多で創業され、後に子孫が京都で透頂香の名で売り出し、更に後に東海道の小田原宿に店を構えたという。
 当地は、小田原の外郎の店の分家で、松井田が小田原北条氏の勢力圏だった証左といわれている。
 因みに、外郎自体は黒っぽ九、主として頭痛・胃腸・口中薬として珍重され、透頂香とも呼ばれたのは当初の薬が烏帽子の中に入れて頭髪の消臭に使われていたからだとか。


松本本陣跡・・・安中市松井田町松井田上町

 もう一軒の本陣は、「仲町」交差点の一つ先の道辺りの右側辺りにあるらしい松本家が務め、上の本陣と呼ばれたそうだが、現在は「山田さん宅」になっており、井戸と庭園が残っているそうで、「ヨロズヤ書店」の辺りらしいが何の標示も見当たらない。
 偶々、通りがかりの人に露地を入って案内して頂いた。

みなとや(7:54)・・・安中市松井田町松井田560

 木造2階建ての往時の宿屋で、同時に両替商・質屋・塩を商うこともあったという。明治4年(1871)の大火で建物が焼失した後、築150年超の農家の建物を移築した建物で、現在、300年経っているとされる建物が30余年前廃業し、空き店舗を活用した無料休憩所「お休み処みなとや」として平成19年11月17日にオープンしているが、早朝の時間外のためガラス戸越しにカーテンが閉じられているのが見えるだけで立ち寄れない。

 ここは、商店街を訪れる人の無料休憩所として、松井田商店連盟が群馬県と安中市の助成を受けて整備したもので、旅館の風情が漂う店内には、座敷にお茶が用意された無料休憩所のほか、コーヒー・紅茶・ソフトクリームなどを安く楽しめる喫茶コーナー、地元工芸家の手作り作品の展示販売コーナーなどがあり、商店街の憩いの場になっているという。
 運営には松井田商店連盟と安中市松井田商工会が協力し、営業時間は午前10時から午後3時まで、定休日は月曜日である。

上の木戸・・・安中市松井田町松井田紺上町(松井田小学校の歩道橋辺り)

 松井田宿の京側の入口にあたり、高札場も設置されていた由だが、これまた何の表示もない。

脇本陣・・・群馬県安中市松井田町松井田上町(天満宮の向かい辺り)

(参考)松井田八幡宮・・・安中市松井田町新堀

 創立年代は不詳だが、建久8年(1197)に源頼朝が立ち寄った記録がある由。曾ては宿場の守り神として信仰を集めたが、杉木立の中にあり、今は荒廃し訪れる人も少ないようだ。

 本殿は三間社流造で、屋根は外部からは幣殿へ連なり、更に拝殿に続いている。一種の権現造りであり、神佛集合の名残を示す六角の太子堂がある。寛永年間(1624〜38)の建築とされ、桃山風の形式をよく伝えている。その後補修されているが、県の重要文化財に指定されている。

 建物の配置も佛教的で、境内に八角円堂を有し拝殿は護摩殿と称されている。本殿と均衡のとれた大きさであるにも拘わらず、その前方に割拝殿を称する建物を備えている。また、本殿、拝殿の周辺に敷きつめられた敷石は、敷方に特別な技巧を凝らしてあり、後方の石垣の取方と共に珍しい特色を有して神聖さを醸し出している。

(参考)松井田院不動寺・・・安中市松井田町松井田987(街道から北へ200m)

 高台にある真言宗豊山派の寺で、「龍本山松井田印不動寺」と号する。ここからの妙義山の眺めが素晴らしいそうだ。彩色の欄間を付ける仁王門が一段高く建ち、各御堂への参道が続いている。寛元元年(1243)の創建で、本堂のほか、不動堂や庫裡があり、鎌倉期の作とされる県重要文化財の不動明王像がある。

<仁王門>

 桃山時代の様式だが江戸初期に改築されたもので県重要文化財に指定されている。間口6.05m、奥行3.5m、柿葺、単層、切妻造り、3間1戸8脚門で、蟇股欄間などに、よく桃山期の作風を遺している。

<板碑>

 仁王門の前の参道西側の覆屋の中に三基並んでいる異形板碑で、安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだ越後形式のものである。文字は北朝の観応三年(1352)円観見性敬白等があり、異形板碑として有名で、仁王門と共に県重要文化財に指定されている。

松井田城址・・・安中市松井田町(宿の北の山の上)

 1km程先、左折すれば信越本線「西松井田駅」という四差路の右向こうに「松井田城址」の一部で石垣のようなものがある。この右奥の小山に城が築かれていたという。8:10「補陀寺」の山門前に「松井田城址」の解説板があるのを発見する。

               
松井田城址
城の位置 松井田町新堀(松井田市街地の北方の山なみ)
城について
 城は東と西の二つの郭から成る。
 東半は御殿山を中心に安中郭(町指定)と呼び安中忠政が本格的に築城したという。
 西半は本丸、馬出し、二の丸の三つの郭からなる。二の丸の北西部に土囲が遺存する。自然の尾根を巧みに利用し、 無数の堀切りや堅堀りを構築している。北条流の典型的な中世の山城として名高い。
               平成十七年三月
                              松井田町観光協会


 松井田上は、弘長2年(1262)に青砥左衛門藤綱により築城されたが、要衝の城ならではの、時代の波に翻弄され、豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、天正18年(1590)に廃城となる迄様々なドラマの舞台となった。最後の城主・大道寺政繁は後北条氏の家臣で、秀吉の軍に敗れ自刃したが、この名城も今は荒城の跡となっているという。

補陀寺(ふだじ)(8:10)・・・安中市松井田町新堀

 そのすぐ右手に、松井田城主大道寺政繁の菩提寺である曹洞宗の「大泉山補陀寺」がある。応永7年(1400)無極慧徹禅師の開祖とされ、現存建物は寛政8年(1796)の再建である。
 懸額が3面あり、僧門と本堂を結ぶ一直線上にある。僧門に懸けられている月舟の額には、関東一の道場という意味の「関左法窟」と記されており、大田南畝(蜀山人)もこの額を見た由。また、中門に「大泉山」・本堂正面に「補陀禅林」の大額がある。

 大道寺政繁の墓があり、前田家の大名行列が前を通ると、悔しさの故か汗をかくという伝説があるそうだ。
 また、この寺の鐘は鐘楼が2階建てのようになっており、設定された時刻になると自動的に鐘を撞く装置が付いている由。

新堀一里塚(8:20)・・・安中市松井田町新堀(民家の庭)

 右手の松井田警察署手前で左への細道に入る。8:19、右手貯水池手前に赤茶けた自然石の「道祖神」があり、左手に「一里塚跡」が見えてくる。日本橋から33番目の一里塚で、解説板が建っている先の細い道があり、奥に1m程の小山が残っているが、これが、南塚跡である。

 一里塚を越えると左右に古い家が見られ、昔はここでJR信越本線の踏切を渡って線路の左側へ出ていたのだが、その旧道が失われているので、今は線路沿いに右に進み、250m程先、送電鉄塔先に見える「第十中山道踏切」で左手に出る。
 折から、新前橋行きの2両連結の電車が来て、踏切待ちさせられたが、時が止まったようなのどかな風景である。

               
一里塚(江戸より三十二里目)
この場所は、松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
明治二十年代までこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。この立札の南方およそ十メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。
               平成十二年二月吉日
                              松井田町教育委員会


五料村高札場跡(8:42)・・・安中市松井田町五料

 往時、安中藩板倉伊予守領分五料村の高札場があった所に、「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡 松井田町教育委員会」の標識が建っている。公開されている筈だが時間的に9時前で早いと見え、門が閉じられているため内部見学は出来ない。

五料茶屋本陣(8:43)・・・安中市松井田町五料564−1(高札場跡から北進し、JR信越本線踏切を渡った所)

 2軒あり、両家とも中島姓なので西側の本家が「お西」、東側の分家が「お東」と呼ばれていた。宿泊施設ではなく、休憩などに利用されていたが、一年交代で茶屋本陣を務めたという。この先に横川の関所があったので、大名行列が重ならないようにする待機場所でもあったそうだ。共に内部は資料館になっている。

 両家とも代々名主役(二人名主制、天保7年=1836以降は一年交代で)を務めていたが、共に文化3年(1806)の大火で建物を焼失し、同年中に再建されている。松材・杉材が主材として、大黒柱などはケヤキ材を使用している由。両家とも書院造りの上段の間、下の間、表の間、式台のほか、土間、居間、馬屋などを備えている。明治天皇巡幸の時には「お西」を小休所として使った豪華な建物である。

 現在は復元され、共に資料館として公開(有料:大人210円)されており、群馬県指定史跡(昭和33年8月指定)になっていて、建物も立派だが庭園も美事で「お東」一階には「中山道六十九次続き絵」が展示され、「お西」二階は資料展示室になっている。

<五料の茶屋本陣>

 茶屋本陣は、江戸時代に参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休憩した所で、各宿場ごとにある本陣のような宿泊用施設ではなく、休憩や昼食あるいは他の大通行が関所にかかってる間の時間待ちなどに利用されていたため部屋数は少なく、両家とも上座と呼ばれる書院造の上段の間・下(次)の間・式台(玄関)・通り(入側)などを備えている。家族の生活の場は、勝手・茶の間・中の間・納戸からなり、また、茶の間に続く広い座敷は名主役宅として村役所の機能を果たしていた。

 五料の茶屋本陣は両家とも中島姓なので、土地の人は今も「お西」「お東」と呼んでいるという。両家の先祖は共に天文年中(1540頃)諏訪但馬守が松井田西城に城を構えたときの家臣中島伊豆直賢と伝えられている。お西に伝わる慶長六年(1601)の「五料村御縄打水帳」によれば、既にその頃五料村に土着し名主役を勤めていたことがわかる。

 両家とも代々名主役(二人名主制)を務めており、天保七年(1836)から明治五年(1872)までは、交代名主制となり、一年交代で名主役を勤めている。
 現在の建物は両家とも文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されている。使用材が松材と杉材が主で、大黒柱などはケヤキ材を使用している。
 東西に土蔵を配し鼓山を眺める南面の借景庭園が素晴らしく、裏庭の景観も良い。

<お西>

 お西は、昭和48年(1973)に中島公男氏から町に寄贈され、昭和57年から3ヶ年かけて保存修理工事を行い昭和59年秋に公開開館された。家族の居間などは江戸時代の再建当時に復元したが、上座の部分は明治11年9月6日に明治天皇が北陸東海道御巡幸の折「御小休所」として使われた。これを受けて昭和9年11月に文部省指定史跡となっているので、この部分は明治11年に大改修された状態のままに保存されている。
間口13間、奥行7間、総2階切妻造りで、上座の上部は2階に見えるが2階ではなく、壁で仕切られていて天井には入れないように造られている。

               
五料の茶屋本陣・お西
                                 碓氷郡松井田町大字五料五六四番地の一
                                 昭和三十三年八月一日指定
 五料の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
 この「お西」中島家は、十六世紀末から代々名主役を勤め、特に天保七年(1836)から明治五年(1872)までは「お東」と一年交代で名主を勤めていました。
 この建物は、「お東」と同年(文化三年)に建てられたもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんど同じです。
 白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時をしのぶことができ、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。
                              群馬県教育委員会
                              松井田町教育委員会


<お東>

 2軒並んでいる茶屋本陣のうち東側に位置しているのが「お東」である。
 お東は平成4年(1992)に中島徳造氏から町に寄贈された。復元工事は天保10年の住居絵図面・万延元年の絵図面と解体時の調査を参考にして平成4年10月に保存修理工事に着手し、同7年2月に完了し、建築当初の姿に復元整備された。但し、板葺きであった大屋根は防火上の配慮から板葺風のスレート瓦葺になっている。
間口13間半、奥行7間、総2階・切妻造りで、上座は建築当初のままの式台と表の間・次の間・上段の間、これに鍵の手の入側(畳敷きの通路)が付いている。便所も旧位置にそれぞれ3ヶ所復元されている。

              
 五料の茶屋本陣・お東
                                 碓氷郡松井田町大字五料五六四番地の一
                                 昭和三十三年八月一日指定
 五料の茶屋本陣・お東は、江戸時代の名主屋敷で、中島家の住宅として使用されていました。
 中島家は、代々名主役を勤めており、茶屋本陣としても利用されました。
 この建物は、間口十三間半、奥行七間で、当家に伝わる古文書によると、文化三年(1806)に建てられたもので、その後の大きな改造もなされず、書院づくりの上段の間をはじめ式台などに当時のおもかげをよく伝えています。
 また古文書などもよく保存されており、建物とともに江戸時代の農村、街道交通などを知るうえで重要であり、祖先を同じくする「お西」と共に並んで現存することは全国でもめずしく貴重な史跡です。
                              群馬県教育委員会
                              松井田町教育委員会
<お触書>
               御 触 書               群馬県指定史蹟 五料茶屋本陣
一、開門時刻 巳ノ刻(午前九時)
一、閉門時刻 申ノ刻(午後四時三十分)
一、本陣見分 お東・お西
一、休館日  毎週月曜日 祝日にあたる場合はその翌日 年末・年始
                              松井田町教育委員会

茶釜石(8:54)・・・安中市松井田町五料

 その先で急な登りになり、右手に「青面金剛塔」を見、沢の先左手に4体の石造物が並んでおり、右端に「夜泣地蔵」、その前左下に「茶釜石」がある。

               
夜泣地蔵
 昔、荷を運んでいた馬方が荷物のバランスを取るために、脇に落ちていた地蔵の首を乗せて深谷まで運び、不要になると捨ててしまった。すると首が夜な夜な「五科恋しや」と泣くので、哀れに思った深谷の人が五科までこれを届け、胴の上に乗せてやった。それ以来この地蔵を「夜泣き地蔵」と呼ぶようになった。

               茶 釜 石
 この奇石は、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまこゝを通った蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。
    五科(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人 と
 この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名がある。
 人々は、この石をたたいて、その不思議な音色を懐かしんでいます。
 五科の七不思議の一つに数えられています。


 実際に試しはしなかったが、上に置いてある小石で石の何処を叩いても良い音(金属音)がし、皆が叩いている凹んだ箇所は特に良い音がするそうだ。

碓氷神社(9:08)・・・安中市松井田町五料

 再び線路に接した場所にある赤い両部鳥居を潜り、林の中のかなり長い石段を登った所に本殿がある。
 建久年間(1190〜99)、源頼朝が浅間の牧狩りの折、当神社に祈願し御所を置いたので、この地を御所平と呼ぶようになったという伝説がある。

               
碓氷神社
<祭神>
 速玉之男命(ほか16柱、掲載略)
<御由緒>
 創立年代不詳なれど碓氷峠熊野神社の御分霊を戴き碓井郷の鎮守産土神として従来より篤く崇敬せらる。
 慶安年間(1648〜52)御社殿を改築し碓氷峠山熊野神社の里宮として碓氷神社と呼ぶ。
 明治四十二年三月氏子の総意により許可を得て中木に祭祀せる菅原神社、小竹に祭祀せる波古曽神社、平に祭祀せる諏訪神社、横川に祭祀せる八幡宮、その他五科の郷にある諸社等々を合併合祀し今日に至る。大正三年村社に指定せらるもその後神社制度の改革等により現在宗教法人碓氷神社となる。
<伝説>
一、建久年間(1190〜99年)源頼朝公、信州浅間の牧狩りの際当神社に祈願せられ境内に御所を置かれしにより以来此の地を御所平と呼ぶようになった。
一、正應年間(1288〜93年)鎌倉北条氏此の地信州より関東の入口なるを以って碓氷郷総鎮守として崇敬せらる光明天皇(1337年)は碓氷郷一宮と定められ崇敬祈願さる。
<祭日>
(略)
                              名誉宮司 曽根恒季


 碓氷神社の鳥居脇には、寛政12年(1800)の「庚申搭」や文化5年(1808)の「二十三夜搭」が並び、その脇にある昭和2年(1927)の道標には、「碓氷神社ヨリ東 立野 西 高墓 松井田停車場ヘ一里 妙義町ヘ一里二丁」と刻まれている。

道祖神ほか

 線路と国道を左に渡り、臼井小学校の所から国道に沿った旧道を進むと、農業研修センターの向いの空き地には「南無阿弥陀仏塔」や「道祖神」2基、「庚申搭」2基、「馬頭尊」が置かれている。

百合若大臣の足痕石(9:28)・・・安中市松井田町横川

 その少し先右手に「百合若大臣の足痕石」があり、解説板も建てられている。その脇には「子育て地蔵尊」が祀られている。

               百合若大臣の足痕石
 この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、石のうえがへこんだといわれています。
 その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向うの山にむけ「よしあの山の首あたりを射ぬいてみよう」と思いつき、満身の力を込めて射はなった。その時、後足をふんがいたのがこの石と言われています。
 これを見ていた家来の一人も負けづと思い、腰にぶらさげていた弁当のむすびを力いっぱいほうり投げ、山には二つの穴があきました。
 それで今でも二つの穴が、ここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」とよぶようになったと言われています。
 百合若大臣がその時使った弓と矢が妙義神社に奉納されています。

峠の釜飯「おぎのや」(横川本店)・・・安中市松井田町横川399(横川駅前)

 横川駅前に、峠の釜飯で有名な「おぎのや(横川本店)」がある。明治18年(1885)に横川駅開業と同時に「荻野屋」として創業した歴史ある店である。

 有名な「峠の釜めし」は、昭和33年(1958)に発売された。当時「おぎのや」は業績が低迷していたが、峠の釜めしがヒットとなり、その後の隆盛へとつながる。発売同年には、天皇の富山国体への行幸列車へ積み込まれ、昭和42年にはテレビドラマのモデルになり、全国でも有名な駅弁の一つとなった。

 その後、モータリゼーションの進展で各地の駅弁業者は軒並み苦戦を強いられるようになるが、おぎのやは、昭和37年にこれを逆手にとって国道18号沿いに「峠の釜めしおぎのやドライブイン横川店」を設置し、そこで釜めしなどの商品をドライバーに販売することで、鉄道への依存を減らした。

 現在では長野駅・上諏訪駅など長野県内の一部主要駅や、山梨県にある清里駅、上信越自動車道横川SA上り線、長野新幹線「あさま」の車内販売にも進出している。他にも碓氷峠鉄道文化むら園内や土曜日、日曜日、祝祭日に限り、埼玉県の熊谷駅などでも出張販売される。

 なお、新幹線の車内販売では新鮮さ保持のため、高崎・軽井沢間の両駅に停車する列車のみ販売されている。また、全国各地の百貨店での駅弁大会の常連でもあり、現在は横川駅での売上は総売上の1%にも満たない由。

 荻野屋の食堂の前には荻野屋の資料館があり、また、横川駅前には「松井田町」の解説版と機関車の動輪が展示されている。

横川駅の傍に「碓氷峠鉄道文化むら」があり、鉄道ファンならずとも楽しそうだが、入園料は500円と安くない。また、ここから、峠の湯までトロッコ列車が走っているので、時間さえあれば温泉に入ることができる。

<松井田町>

 松井田町は,群馬県の西部に位置し、碓氷峠を経て、長野県軽井沢町と接し、東京から約130kmの距離です。
 上毛三山の一つ奇峰妙義山の裾野に175平方kmの面積を擁する、緑豊かな町です。町のほぼ中央を信越本線・国道18号線・上信越自動車道・清流碓氷川が並行して縦貫し、交通の便にも恵まれています。
 昔は松井田城を中心に栄え、中山道とともに、坂本宿・松井田宿が整備されると宿場町として栄え、古くから交通の要衝でした。
 碓氷峠手前の「碓氷の関所」は、箱根の関所と並ぶ重要な関所として有名です。この他にも町内には名所・史跡・文化財などが数多くあります。
 妙義山から碓氷峠にかけて「妙義荒船佐久高原国定公園」・「上信越高原国定公園」に指定され、新緑や紅葉など、四季を通じて自然を満喫することができます。このふところに妙義湖・碓氷湖・霧積湖などがあり、つりやポート遊びを楽しめます。麻苧の滝・仙ケ滝などの名瀑も有名です。また人間の証明で有名な秘湯「霧積温泉」も昔ながらのたたずまいを見せています。
 小根山森林公園は、国の見本林を解放したもので、園内の散策や鳥獣資料館を見学することができます。
 当地横川は、信越本線の難所碓氷峠を越えるため、アプト式鉄道の起点であり、旧国鉄の町として栄えてきました。峠のレンガ橋は通称「めがね橋」として知られ、平成5年8月17日に国指定重要文化財に指定されました。峠をひかえ、「峠の力もち」や「釜めし」などをぜひおめしあがり下さい。

<EF63−3号の動輪>

 全国JR路線のなかで最大の難所と言われた信越本線横川・軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した動輪です。


 今日は、食事処が見つかりそうにない予感がしているので、横川の釜飯ほか、各自好みの弁当の類を横川駅近辺で買い求め、出発したが、駅近辺は観光客が結構いて賑やかである。

庚申塔・二十三夜塔

 横川駅からすぐ先の「矢野沢橋」の袂(右手)に、「庚申塔」や「二十三夜塔」などが6基ほど並んでいる。

横川の茶屋本陣(武井家)(9:58)・・・安中市松井田町横川609

 現在、民家として使われており、非公開だが、大きな標柱と解説板がある。

               
県指定史跡 横川茶屋本陣
                                   昭和三十三年八月一日指定
                                   所在地松井田町大字横川六〇九番地
 この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣の方は二階を作らず天井を高くしてある。
 居宅と本陣との境は三尺の畳敷きの廊下で区切られ、襖がここまで通じている。
 本陣は型通り控の間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。
 裏庭は「皐月」を配した石組の平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。
               昭和五十六年三月       群馬県教育委員会
                              松井田町教育委員会

雁金屋茶屋本陣跡(9:58)

 少し先の左側に、同じ武井の表札のある町屋風の建物「雁金屋の茶屋本陣」がある。先刻の横川茶屋本陣との間は幾らもないが、横川関所を前にして大名や公家達が混雑回避のため待機した場所である。格式や面子のある人は、普通の茶屋で休む訳に行かず、こうした特別な施設が必要だった。

横川関所(碓氷関所)(10:02)・・・安中市松井田町横川乙573

 砂利敷き駐車場の手前に「碓氷関所跡 東門の位置(安中藩管理)」と記された木柱があり、その駐車場先の階段を登ると「碓氷関所の門」が復元されている。また、門の前には「おじぎ石」が置かれている。
 関所の東門が復元され、西門は残されていないが、この先で郵便局の所を左折してJR線路を越えるその郵便局辺りが往時の西門のあった位置の由である。

               
碓氷関所跡
                              所在地 群馬県碓氷郡松井田町大字横川乙573番地
                              県指定 昭和30年1月14日
<関所のおこり>
 醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取締まりのため、相模国足柄と上野国碓氷の2ヶ所に関所を設け、交通の監視をしたのがはじめである。
 類聚三代格に
 相模国足柄坂 上野国碓氷坂 置関勘過事
とあり、碓氷に関所を置いたことが記されている。

<関所の移り変わり>
 その後、正応二年(1289)鎌倉幕府の執権北条貞時によって関長原に関所がすえられ、以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。
 江戸時代になって、慶長十九年(1614)大坂冬の陣のとき、伊井兵部少輔直勝が関長原に仮番所をつくり関東防衛の拠点とした。
 江戸幕府によって、現在地に関所が移されたのは、元和九年(1623)三月である。横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山がせまって狭間となり、関所要害としては最適地だった。寛永十二年(1635)参勤交代制の確立後は「入鉄砲に出女」をきびしく取締り、関所手形を提出させた。鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰るのを防ぐために、これらを関所で調べたのである。
 幕末になると、関所の改めもゆるやかになり、明治二年(1869)二月に廃関された。

<関所の構造> −江戸時代−
 碓氷関所の構えは中山道の西門(幕府の門で天下の門)、東門(安中藩管理)の五十二間二尺(約94.54m)で区切り関門内とし、下図のようになっていた。(下図掲載略)
 関所は木柵などで四方を囲み、その外側は天然の自然林による阻害物に遮られ、忍び通ることも不可能な御関所要害が、近御囲・遠御囲と続き、碓氷峠山麓には堂峯番所を置いて通行を監視していた。
 関所の前には、三つ道具と長柄十筋を飾り、正面の軒に安中侯の定紋を染めた幔幕を中央で結び上げ、上り下りする通行者を取締っていた。

<関所役人>
番頭 2人 一日交替で執務、五十石の士分で有能豪気な人材を安中藩より派遣していた。上席者に決裁権があった。
平番 3人 番頭より若い士分で、番頭の配下として安中藩より派遣されていた。
同心 5人 定付同心ともいわれ、代々関所に定住していた役人で、手形の受付と案内、犯人の追捕などの実務についた。
門番 4人 幕府の門である西門は、代々定住の西門番が守っていた。安中藩管理の東門は領内採用の東門番が守った。
改女 2人 西門番の妻女が交代で勤めていた。
中間 4人 近村の藩領民を雇入れ、箱番所に詰めて、関所内取締り・雑務を行った。

               碓氷関所の門
 醍醐天皇の昌泰二年(899年)に群盗を取り締まるために、関所が碓氷坂に設けられた。
 この地に関所が移ったのは、元和年間(1615〜1623)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。明治ニ年(1869年)廃関されるまで中山道の要所となった。
 門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材六点と台石も当時のもので、昭和三十四年一月、東京大学教授工学博士 藤島亥治郎氏の設計により復元された。
 この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。
                              松井田町教育委員会

               おじぎ石
 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。
                              松井田町教育委員会

               関所通行と処刑
 碓氷関所の改め規定は、@制札三ヶ条 A掛板十六ヶ条 B古法申し継ぎ十一ヶ条 C平日の改め四十七ヶ条などがあった。特に“入り鉄砲と出女”の取締りに重点がおかれ、提出された手形は、再び安中藩から幕府に送られて調べられた。
 関所の門限は「明け六つから暮六つまで」と定められ、門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていた。関所を破った人は御定書により、磔・獄門の刑に処された。
                              松井田町教育委員会


鎮魂碑(10:07)

 その先に「アブとの道」の標識に従って横道に入ると、曾ての線路跡があり、覆屋の下に石碑が2基(招魂碑・鎮魂碑)、それぞれ解説板と共に建てられている。今でこそ横川駅以西が廃線となり、碓氷峠を大きく北回りする長野新幹線が開通しているが、遠い人達の歴史の中に埋もれていった人達の霊魂を鎮めんとする地元の有志の活動にあらためて経緯を表したい。

(右側)            
招魂碑由来
 碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称されていました。この地に明治十八年より碓氷アプト式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離十一・二K、二十六のトンネル、十八の橋梁、高低差五百五十三米の碓氷線が一年九ヶ月の短期間で開通しました。当時の技術を考える時、おそらく人海戦術であったろうと想像されます。この難工事に全国各地より工事人夫が集められ、多数の犠牲者があったと云われています。その慰霊の為、鹿島組の招魂碑が建設されたものと推測されますが、時久しく路傍の片隅で淋しく眠っておりましたので、この度鎮魂碑建立を機会に同地内に移転し、遠い異境の地で殉職した方々を合せて慰霊いたしました。
 遊子願わくは往時を偲んでもの言えず淋しく眠る久泉の人達の冥福を祈らんことを 合掌
うすいの歴史を残す会
 なお、この碑文にある五百名受難の真相は、現在においても多くの謎に包まれています。

(左側)            鎮魂碑由来
 碓氷峠は、古くから東山道と呼ばれ古代から中世にかけて都と東国を結ぶ重要な官道であった。その後、徳川期には中仙道として整備された旅人、馬子、駕籠、大名行列等で賑い、明治九年になって国道十八号線となった。その後並行して、
 明治二十一年馬車鉄道開通
 明治二十六年信越線アプト式の開通
 昭和四十一年複線電化と各種交通機関は幾多変遷を重ねて来ました。今、茲に信越線廃線に当たり各種交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊する為鎮魂碑を建立する。
 遊子願わくば一遍の回向を賜らんことを 合掌
                              うすいの歴史を残す会


薬師坂と川久保橋(10:13)

 近くに清澄な湧水があり、心太を商う店で旅人たちが憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場になっていた処から「心太坂」とも呼ばれ親しまれた。

               
川久保橋
碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は、正しくは碓氷御関所橋と呼んで中仙道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的かを優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。こりため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。細い麻縄を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を操り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。大名の渡河に際しては、番頭も川原に罷り出て見届けた。

川久保薬師(10:14)・・・安中市松井田町原

 川久保橋を渡り、バイパスの方へ行かずに、真直ぐの細い薬師坂を登る。その薬師坂を登り始めるとすぐ薬師堂があり、その隣りに小さな湧水がある。

               
薬師坂にお座す薬師堂
 元和九年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた。そこで無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところてん)を商う店があり旅人たちは、ここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場であった。このところから心太坂といわれ親しまれた。
 薬師如来は、治癒に霊験あらたかということで近郷からの参拝客も多くあり、例祭が桜の花咲く四月十八日なので市も立つほどの賑わいぶりであった。現在では、その影もひそめ地元で講を開き本堂を守っている。

白髭神社(10:20)・・・安中市松井田町原

 薬師坂を登りきると国道18号線に合流する。その地点で坂本宿まで0.9kmの標柱がある。合流したすぐ先の左に「白髭神社」がある。

               
白髭神社由緒
               −白髭の老人日本武尊を救う−
 十二代景行天皇の命により日本武尊は東国を平定し帰途、武蔵・上野を経てこの地碓氷嶺東麓川久保坂にさしかかった。その時山の神は、白鹿に化け尊の進路を妨げた。尊は蛭を投げて征せんとすると、濃霧たちまち起こり進退きわまった。すると剣を持った白髭の老人の現れ白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。尊は、白髭の老人の霊験をみたのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い石祠を建て祀った。時に景行天皇四十年(240)白髭の老人にちなみ白鬚神社の創立となった。なお尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び、そこから落下する滝を麻苧(あさお)の滝という。この滝と白鬚神社の前宮として飛滝大神を祀る。白鬚神社の祭神は猿田彦命・日本武尊・飛滝大神である。本神社は、約五十m奥にある。

水神(10:25)(左手)

 国道に戻るとまもなく、左側に赤い鳥居と小さな祠があり、国道を挟んで反対側には「みんなのトイレ」と書かれた公衆トイレがある。

               
原村を潤した水神
当祠は水神を祀ってある。もとは、現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。坂本宿が整備される以前に原村は、四十戸あまりの集落があって、中山道分(間)延絵図によると、道路の端に流れてきた堀を屈折させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として利用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。
水神は川・井戸・泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることから、ともすれば粗略に扱い勝ちであう。水神を詣でることで水への再認識を深めたいものである。
清き水掬して喉を潤へり 峠越えゆく気のみなぎりけり 古歌


坂本宿・・・安中市松井田町坂本[上野国碓氷郡]

 中山道第17宿の「坂本宿」は、日本橋から34里14町47間(135km)、京へ101里18町13。宿の規模は本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠40軒・人口732人(男376・女356)・家数162軒と中山道の中でも規模の大きな宿場で、碓氷峠越えの旅人で賑わった。碓氷峠を前にして、宿の標高は465m、峠の1182m(見晴台は1205m)迄700m以上の差がある。

 この宿場は、3大将軍家光の時代、寛永2年(1625)に、参勤交代に伴う碓氷峠登り口に宿場設置の必要性から、幕命によって越えの拠点として松井田や安中などから人を移住させ、我が国初とも言える計画的都市計画造成による宿で、現在の「坂本」交差点のあたりが宿の中心である。
 東西に二分して17の板橋が架けられ、宿場を守るため家屋の屋根に斜角を持たせ、軒を接して建てられた計画的な町作りがなされ、家々の間口は、本陣・脇本陣・問屋場以外は,7間か3間半とされ、奥行きは8間から15間という鰻の寝床状になっていた。家の後方には、間口に応じて2反歩から4反歩の竹林(防風や裏手からの不審者出入り防止目的)が与えられた。家は平入り出梁の2階建てとされ,斜交(はすかい)に建てられた峠側の4軒を除き、総て街道に並行して建てられた。
 現在も国道を挟んで古い町並みが残っているのが特徴である。人口の割りに旅籠が多いのは関所と峠越えによる。また旅籠以外に女郎屋も6軒あった。江戸時代俳諧・短歌が流行し、商店や旅籠の旦那衆から馬子・飯盛り女に至るまで俳句に熱中した文化の高い宿場だった。

 宿には、幅八間一尺(約14.85m)、長さ392間(713m)の道の中央に幅4尺(1.2m)の用水が流れていて、現在は国道下に埋め込まれたそうだが、国道敷設の時、この広い旧街道が役立ったため、現在でも脇本陣や旅籠だった旧家など古い町並みが残り、各家には往時の屋号の記された看板が掛かり、宿の中程には、「坂本宿屋号一覧図」が掲げられている。これは、文久元年(1861)の皇女和宮降嫁時の資料により作成されたものの由。

下木戸跡(10:31)・・・安中市松井田町坂本

 坂本宿の江戸側の入口にあたり、一部が復元されている。木戸は、京都寄り(上木戸)と江戸寄り(下木戸)の両はずれに造られたが、下木戸は当時の設置場に一部復元したものである。
 木戸には軍事・防犯目的があり、開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)迄であった。

               
下木戸跡
 慶長七年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道百三十二里(約540k)が定められ、この間に六十九次の宿場ができた。その一つに坂本氏行くが設けられ宿二位の長さ三百九十二間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当時の設置場所に一部復元したものである。木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。文久元年の絵図によると、八間一尺幅(約14.8m)の道路に川巾四尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百六十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ


本陣・脇本陣

 「下の木戸」から少し行くと、左手に少し引っ込んで「金井本陣(下の本陣)跡」(10:37)があり、続いて「佐藤本陣(上の本陣)跡」(10:38)、その前の小竹屋(武井さんという民家)の前に、明治7年(1874)開校の「坂本小学校発祥の地」の石柱(10:39)と解説板がある。

               
金井本陣跡
 坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・大名・高僧などの宿泊する本陣が二つあって、当本陣を「金井本陣」または「下の本陣」と称し、間口十間半(約19m)、建坪百八十坪(約594u)、屋敷三百六十坪(約1200u)、玄関、門構え付きの建物であった。「諸大名様方休泊御触帳」によると中山道を上下する大名、例弊使のほとんどは坂本泊まりであった。本陣を泊まるのは、最低で百二十四文、最高三百文、平均二百文程度で多少のお心付けを頂戴しても献上品が嵩むので利は少なかったが格式と権威は高く格別な扱いを受けていた。仁孝天皇の第八皇女和宮親子内親王は、公武合体論のなかで十四代将軍徳川家茂に御降嫁されるために、京都を出発され文久元年(1861)十一月九日七ッ時(午後四時)金井本陣に到着され、翌十日朝五ッ時(午前八時)に出立された。御降嫁にあたりお付添い・迎え都合三万人ともいわれる人出で坂本宿はおろか中山道筋はたいへんだったであろう。
 都出て幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすゑ
 皇女和宮がご心中を詠まれた歌である。

               佐藤本陣跡
 坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」とも呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永十九年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では三十一大名が坂本宿を往来した。寛政ニ年八月八日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京太夫は帰国のため信州で擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊りが必然となり本陣ニ軒が必要だった。安政六年(1859)二月、安中藩主坂倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は安中藩の役人宅にお祝いに参上している。そして御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。宿割りは脇本陣はじめとして十六宿。板倉候はじめ藩士二百余名は七月十七日朝五ッ半(午前九時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例弊使、茶壷道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったがその反面難渋も少なくなかった。

               坂本小学校発祥の碑
明治八年四月十日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校された。
その後佐藤家は移住、現在の家屋はその跡地に明治三十四年三月、小竹屋の分家(「分家・小竹屋」)、通称「新築・小竹屋」として建てられたものです。
                              分家
                              新築・小竹屋 当主


 街道の右側に渡ると、「永楽屋脇本陣」と「永井脇本陣(脇本陣代理と宿の年寄役)」、「酒屋脇本陣」が順に並んでいる。前二者の建物はすっかり建て替えられ、酒屋脇本陣跡は現在「坂本公民館」になっている。この中で、「脇本陣永井」の表札が掲げられた建物は、豪壮な塀囲いの大邸宅で往時の雰囲気を醸し出している。

古い家並み

 続いて連子格子の美しい坂本宿の面影を残す代表的建物の「かぎや」、若山牧水が明治41年の夏、軽井沢から碓氷峠を越えてきた際ただ一軒残っていた旅籠だったという「つたや」、小林一茶の定宿「たかさごや」等が並ぶ。酒屋脇本陣の傍に「中山道坂本宿屋号一覧」の絵図(10:40)が掲示されていて、大変判りやすい。

かぎや(10:42)

               
坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
 「かぎや」は、坂本宿時代のおもかげを残す代表的籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれ、まず目につくのは家紋の結び雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸方に向かう旅人に分かり易く工夫されている。
 屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透し彫刻が施されている。
間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳二間に廊下、中庭をはさんで八畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。宿場は街道文化の溜り場である。坂本宿も、俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明、寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右兵衛門は、紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。

はすかいの建物(10:42)

              
 はすかいの建物
 この辺り一帯の家は道路に対して斜めに建てられている。斜角とか斜交と記して「はすかい」といっている。「はすかい」に建てられた理由として二つの説がある。
 その一つは、鬼門よけが上げられている。鬼門とは、鬼の出入りする不吉な方角艮(うしとら)で、道路に平行に家を建てると艮にあたるので、東向きに建ててある。
 もう一つの説として江戸城を防衛する軍事的目的から峠を越えて侵入してくる敵軍に対して「はすかい」に作られた三角屋敷にたてこもり迎え撃つためといわれている。何れの説を採るかは、今後の研究に待たれる。スエーデンの探検家ノルデンシェルドは、明治十二年秋来日し碓氷峠を人力車で越え坂本を訪れた。そのとき、動くアゴと恐ろしい歯をした怪物の芸(獅子舞?)を見たと旅行記にある。そこは、「はすかい」の建物辺りであったろうか。

若山牧水宿泊の「つたや」(10:43)

              
 若山牧水宿泊の「つたや」
 碓氷峠にアブト式鉄道が開通してから十五年後の明治四十一年頃になると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。
 この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を越えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋「つたや」に無理に頼んで泊めてもらうことにした。
 寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寒感を覚え口をついて出たのが次の歌である。
  秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂びし 坂本の宿の 糸繰りの唄

小林一茶の常宿「たかさごや」(10:44)

               
小林一茶の常宿「たかさごや」
 信州国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763〜1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が降盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより、馬子・飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 そこで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次ぎの句を残している。
  坂元や 袂の下は 夕ひばり

芭蕉句碑(10:52)・・・安中市松井田町大字坂本乙930

 この碑の建つ場所は、坂本宿の京側にあった上の木戸跡らしいが、特段の表示は見つけられなかった。

               
町指定重要文化財 芭蕉句碑
                                   昭和四十九年十一月二十八日指定
                                   所在地 松井田町大字坂本乙九三〇番地
 江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人達が、春秋白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ一、五m・幅 基幅一、二〇m・頂部〇、六〇m・厚さ約〇、二〇m、石質は刎石(安山岩)で刎石山頂にあったものを明治年間、廃道のため現在地に移設した。
 書体は「ちくら様」で句は元禄年間の「曠野」にあり、内容は木曽路下りのもので碓氷峠のものではない。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。
   「ひとつ脱て うしろに負ひぬ 衣かへ」
               昭和五十六年三月
                              松井田町教育委員会

(参考)八幡宮

 森に囲まれた本殿まで約30段の階段が右上に伸びているのが見え、坂本宿内では最高地点だそうだが、間もなく登り始める碓氷峠越えに備えて立ち寄りは止める。

 創立年代不詳なれども、当地開発の当初より碓氷郷の鎮守産土神として古来篤く崇敬せらる。伝承によれば、景行天皇四十年十月、日本武尊の勧請という。
 延喜年間(注:901〜923)、現在の地より東北の小高い丘に社殿を建立。江戸時代宿駅制度の確立、坂本宿の設置により宿駅の上なる小高い丘、現在の地に辻郷に祭祀せる、諏訪神社、白山神社、八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社等を合併合祀すと云う。 大正三年に村社に指定。

いよいよ山道へ(10:55)

 前方に円形のタンクが見えたら、ガードレールに取り付けられた「←中山道」の矢印に従って左前方への細い道「林道赤松沢線」へと入って行く。この辺りの標高は550m位らしい。
 草ぼうぼうの急坂の先で一旦国道に出るので、これを渡った左手の「中山道口」バス停の先から、右上に延びる「自然歩道」への本格的な碓氷登山への入口を登り始める。
 「安中遠足(侍マラソン)」のコース案内が熊野神社まで頻繁に立っているので迷うことはないそうだが、ここから三上の熊野神社まで8.3kmある由。

碓氷峠

 昔から「中山道の三大難所」の一つだった街道屈指の難関「碓氷峠越え」が愈々始まる。旧軽井沢迄の約11km、高低差700m程の山登りの開始である。
 坂本宿を抜け、右カーブする旧国道18号へは行かず、旧道は真っ直ぐ山道に入って水道タンクの左側を通過し、旧信越線1号隧道西坑口を瞥見して国道へ出る。ここが「C9」地点である。「C」は推定するに「curve」の頭文字と思われるが、旧国道は急カーブの連続する道であり、坂本から順に峠まで「C1〜CC184」の番号が付されているそうで、ここが碓氷峠越えの入口である。また、我々の通る道は「刎石坂」経由の旧道なので、この先で一度交錯した後は車道の北側を大きく迂回する形になる。

安政遠足(あんせいとおあし)

 別名、安中遠足とも言われるそうだが、安中藩主板倉勝明候が、安政2年(1855)に士族や住民の心身鍛錬・士気鼓舞のために始めたマラソンで、安中城(現・文化会館)を出発して松井田・横川・坂本を経て碓氷峠の熊野神社まで、七里余(約29km)を走るレースである。

 現在も「安政遠足侍マラソン」として毎年5月の第2日曜日に開催されているそうで、日本マラソン発祥の地と言われている。

堂峰番所跡(11:11)

 元和2年(1616)に開設され、明治2年(1869)まで「裏番所」と呼ばれ、碓氷関所を通らずに山中を抜ける旅人を取り締まるために設けられていた遠見番所である「堂峰番所」があった所に立て看板が置かれている。。

               
堂峰番所
 堂峰の見晴らしの良い場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。

昼食

 西氏は「峠の釜飯」、他の3人はコンビニで仕入れた弁当の類だったが、途中の見晴らしの良い所で昼食休憩する。

柱状節理(ちゅうじょうせつり)(11:55)

               
柱状節理
 火成岩が冷却・団結するとき、き裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。


 碓氷峠越えの道には、沢山の解説板が建てられているが、京側(軽井沢宿方面)から歩いてくる方向で書かれているものが多くようで、我々のように江戸側(坂本宿)から登っていく場合には、説明が前後しているの場合があるので注意する必要があるらしい。
 それにしても、この「柱状節理」というのは、なかなか見応えがある

刎石(はねいし)坂(刎石山)(11:56)

 「南無阿弥陀佛」の碑の横に「刎石坂」の解説板が建っている。

               
刎石坂
 刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸跡に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。(松井田町観光協会)

 道の両側の岩は柱状節理で、刀で刎ねたようになっていることから名づけられた由である。

上り地蔵・下り地蔵(12:02)・・・安中市松井田町坂本

               上
り地蔵下り地蔵
十返舎一九が、「たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて」と・・・
その険阻な道はこの刎石坂である。
刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。(松井田町観光協会)


 高い位置にあるほうが上り地蔵、低い位置にあるほうが下り地蔵である。室町時代の作と言われ、常夜灯と共に建っている。

覗(のぞき)(12:03)・・・安中市松井田町坂本(刎石坂を登り切った所)

 ここは約800m程の標高にある刎石の頂きにあり、坂本宿を一望できる。眼下に見える円形タンクの所からは、約550m程登ってきたことになる。

               

 坂本宿を見下ろせる場所で山梨の老木がある。
 一茶は「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。(松井田町観光協会)


風穴(12:06)

 「覗き」のすぐ先にあり、溶岩の裂け目に手を近づけると、もやっとした水蒸気を含む空気が噴出している。

               
風穴
刎石溶岩のさけめから水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数ヵ所ある。(松井田町観光協会)


弘法の井戸(12:11)

 新旧二つの説明板がある。この先にも新旧二つ並べられている所が沢山あった。水が出ており、柄杓が置いてある。
               
弘法の井戸
 諸国をまわっていた弘法大師が刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと教えたと伝えられている霊水である。(松井田町観光協会)

               弘法の井戸
 弘法大師から、このところを掘れば水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は大いに喜び「弘法の井戸」と名付けたという。

刎石立場(四軒茶屋跡)(12:15)

 漸く平らな道になった所に、石垣で囲まれた敷地が残っており、墓もある。ここから、しばらく平らな道になる。
曾ては4軒の茶屋があり、その中で茶屋本陣であったといわれる「玉屋小池小左衛門」では名物「力餅」を売っていた。

               
刎石茶屋跡
 ここに四軒の茶屋があった、現在でも石垣や墓が残っている。(松井田町観光協会)

               
四軒茶屋跡               
 刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。)(松井田町観光協会)

碓氷坂の関所跡(12:18)

               
碓氷坂の関所跡
 昌泰二年(899)、碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。


 ここに四阿があり小休憩する。標識には、左:坂本宿2.5km、右:熊野神社6.4kmとある。

堀り切り(12:42)

               
掘り切り
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。(松井田町観光協会)


               
掘切
 両側が深い谷で道巾が狭く、小田原勢の武将大道寺政繁(松井田城主)がこの道を掘って北国勢を防いだ古戦場跡である。

 旧信越線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」を見下ろすことができる。紅葉が綺麗だ

南向馬頭観音(12:45)

 寛政3年(1791)建立の、高さ65cm程の像塔である。

               
南向馬頭観世音
この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観音が道端にある。
               寛政三年十二月十九日
                              坂本宿 施主七之助

北向馬頭観音(12:47)

 文化15年(1818)建立の高さ143cmの像塔で、高い岩の上に安置されている。道路右側の崖下からは、せせらぎの音が聞こえる。

               
北向馬頭観世音
馬頭観世音のあるところは、危険な場所である。一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。
観音菩薩
文化一五年四月吉日
信州善光寺
施主 内山庄左衛門 上田庄助
坂本世話人 三沢屋清助

一里塚跡(12:49)

               
一里塚
 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登って行った。その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている。

座頭転がし(12:59)

              
 座頭転がし(釜場--かんば)
 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので滑りやすい所である。

 長い登り坂で、刎石坂に次ぐ難所と言え、なかなかきつい坂である。登った先に車が捨てられていたが、西側からのものと思われる。それにしてもよく通ってきたものだと感心するような山道である。

栗が原(13:14)

               
栗が原
 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治八年群馬県初の「見回り方屯所」があった。これが交番のはじまりである。

入道くぼ(13:43)・・・安中市松井田町坂本(まごめ坂を過ぎた辺り)

               
入道くぼ
 山中茶屋の入口に、線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道になる。

山中茶屋跡(13:48)

 石垣や屋敷跡などが残っている。茶屋は旅人にとって大切な存在だったが、当然有料で、中には難所の碓氷峠や和田峠には「接待茶屋」と呼ばれる無料茶屋が個人の寄付で運用されていたというから、偉い人がいたものである。この有徳の人は江戸日本橋で錦糸問屋を営んでいた中村有隣(与兵衛)という人で、千両を寄付し、その利息100両で碓氷峠と和田峠に50両ずつ接待茶屋運営費として充てたという。

               
山中茶屋
山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(1648〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
寛文二年(1662)には十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。(松井田町観光協会)

               山中学校跡
明治十一年、明治天皇御巡行の時、児童が二十五人いたので二十五円の奨学金の下附があった。供奉官から十円の寄付があった。(松井田町観光協会)

山中坂(13:53)

               
山中坂
 山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。


 この辺りの坂は皇女和宮の降嫁の際に拡幅されたという。この坂の上にもバスが捨てられており、接待茶屋を設ける人とは対照的である。

一つ家跡(14:04)

               
一つ家跡
 ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。(松井田町観光協会)


 坂の右手に排水溝があるが、途中左手に見えるのが「一つ家跡」で、昔ここに老婆の商う一軒の茶屋があった由。ここには日本橋から36番目の一里塚跡でもあり、「一つ家歌」の碑が置かれていたそうだが歌碑は失われ、現在では長坂道(注:この先にある)を出た先に復元されている。

子持山(14:09)

   
子持山
万葉集巻第十四東歌中
       読人不知
児持山若かへるでの もみづまで 寝もと吾(あ)は思(も)う 汝(な)はあどか思(も)う (三四九三)


陣場が原(14:09)

 ちょっとした小広場になっており、解説板がある。この解説板のある所から左側の細い道へ入って行くのが古い中山道であり、真直ぐ行く広い道は遠回りになる安政遠足や和宮道である。旧道の入口はかなり細いが、やがて安心できる道になる。我々は当然左の古い道(少々危険?な道)へと進む。

               
陣馬が原
 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。

化粧水跡(14:18)

               
化粧水跡
 峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場である。


笹沢人馬施行所跡(接待茶屋)(14:21)

               
人馬施行所跡
 笹沢のほとりに、文政十一年、江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて人馬が休む家をつくった。(松井田町観光協会)


 江戸日本橋呉服町の豪商で錦糸問屋を営んでいた中村有隣(かせや与兵衛)という人が、碓氷峠と和田峠の険しさに驚き、文政3年(1820)に幕府に千両を寄付し、同11年(1828)に寄付金が尾張藩に預けられ、その利息100両で碓氷峠と和田峠に50両ずつ下付され、和田峠と共に無料の人馬施行所が設置されたのである。

 このすぐ先の沢を渡るのだが、沢の幅は季節や水量によって変わり、橋代わりの細い丸太三本の木が水没している場合は岩伝いに渡る必要があるそうなので、大雨の後などは足が濡れるのを覚悟する必要があるという情報を得ていたが、幸いにして大したことはなかったものの、その点では、和宮道を通った方が安全ということらしい。

長坂道(14:45)

 最後のきつい坂で苦しい。その先数十メートルで旧道は先刻別れた和宮道(安政遠足)と再び合流する。

               
長坂道
 中仙道をしのぶ古い道である。


仁王門跡(14:47)

 ここで頂上(峠)に到着。熊野神社まであと0.5km、8分の標識が建っており、漸くの感がある。

               
仁王門跡
 もとの神宮寺の入り口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。
 仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。(松井田町観光協会)

思婦石(おもふいし)(14:47)

 「仁王門跡」の左隣にある。
               
思婦石
群馬郡室田の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で、安政四年(1857)の建立である。
   ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら(松井田町観光協会)


碓氷川水源地(14:50)

 少し下った所にあるようだが、もう登り下りはしたくないのでパス。解説板が建っており、近くに、四阿・トイレなどがある。

               
碓氷川水源地
 明治天皇御巡幸の際に御前水となった名水である。(松井田町観光協会)


休憩

 左手のトイレに立ち寄った後、その先のお休所「見晴亭」で名物の力餅ほかで元気を付け、生き返る。元祖はこの先の熊野神社前の「しげのや」の由。
 実は、昼食を軽く済ませたせいもあってか、登りの最後では完全にスタミナ切れしてしまい、途中何度も立ち止まってしまったが、この力持ちで完全に甦り、途中で前後していた外人さん一行も全員到着したのを機に、明治天皇も呑まれたという名水をペットボトルに入れて貰って再出発する。

中央分水嶺

 そのすぐ先左手のお休処「いずみや」の所が中央分水嶺である。
 中央分水嶺(水の分去れ)とは、この地点に降った雨水が日本海側と太平洋側とに異なる方向に流れる境界で、旧碓氷峠の標高が1190m、経緯度が北緯36°22’07”/東経:138°39’23”である。

国境

 その先左手に上信国境の道標がある。ここで上州路が終わり愈々信州路へと入っていくことになる。

赤門屋敷跡(15:12)・・・「いずみや」前の駐車場

 次のような解説板が「いずみや」前の駐車場(街道右手)にある。

               
史蹟 赤門屋敷跡
 江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。此の制度の確立の為「中山道」が碓氷峠「熊野神社」前を通り、此の赤門屋敷跡には「加賀藩前田家」の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿「追分・沓掛・軽井沢」を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(1861)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。
 明治十一年明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道一八号線へと移った。上州坂本より軽井沢迄の峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町「峠部落」も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。
 此の屋敷は熊野神社代々の社家「峠開発の祖」曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門「御守殿門」及び格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている。
赤門の由来
 現在、東京本郷 東大の赤門が現存しており、此の門は文政十年(1827)今から約百七十年前、加賀藩主前田斉泰に嫁いだ十一代将軍徳川家斉の息女溶姫の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。
               平成七年五月十五日
                              熊野神社 宮司 曽根恒季


熊野神社(15:13)・・・安中市松井田町坂本/長野県軽井沢町峠町

 上野国(現=群馬県)と信濃国(現=長野県)の境にあたり、上信国境石柱がある。また、「安政遠足決勝点」の立て札も建てられている。
 この熊野神社は、「碓氷権現」または「熊野権現」と言われ、境内には3本社があり、中央の本宮は社殿の真ん中に県境が通っている。もちろん石段も中央に県境ラインが引かれており、大変ユニークだ。
 右手群馬側には新宮が、左手長野県側には那智宮がある。

               
熊野神社の由緒
<主祭神>
 新宮 速玉男命       群馬県鎮座
 本宮 伊邪那美命 日本武尊 県境鎮座
<御由緒>
 当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏の道案内によって無事嶺に達する事ができたことより熊野の大神を祀ったと伝えられる。
 碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶(あずまはや)」と嘆かれたという。(日本書紀より)
 これら御由緒より「日本太一」という烏牛王札が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている。
<歴史概略>
 鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文:注)が松井田より奉納されている。
 江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなった。
 「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わって行った。
                              碓氷峠熊野神社社務所

注:古鐘 群馬県指定重要文化財(昭和30年1月指定)
 鎌倉時代の正応五年(1292)松井田一結衆十二人によって、二世安楽を願い奉納された。群馬県内では最古の鐘で貴重なものである。
 上州の国境であった熊野神社の鐘楼から時を告げていた。
 高サ 八十五糎   口径 六十三糎

 「長野県鎮座左側 熊野皇大神社」の立て札の横には、軽井沢町文化財 石造物のこまいぬ(一対)の解説板もある。

               
狛犬(こまいぬ)
 室町時代中期の作と伝えられ長野県内では一番古いものである。向かって右側(雄)は口を開いた阿(あ)、左側(雌)は口を閉じた吽(うん)の像で、一対となっている。
 狛犬は、中国で陸前に魔物撃退のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としているが、ここの狛犬は極めて素直で大変親しみを感じさせている。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


 このほか、石の風車一対もある。

               
石の風車一対
                                          元禄元年(1688)建立
 軽井沢問屋佐藤市右衛門及び代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のため、当社正面石だたみを明暦三年(1657)築造した。
 その記念に、その子市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。
 秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ、
  「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」
と追分節にうたわれて有名になった。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


数字歌碑

 分岐手前の右手にある「碓氷山荘食堂」敷地の一角に「数字歌碑」と解説板がある。江戸時代の人はなかなか洒落た遊びをしたものだ。
    
「四八八三十 一十八五二十百 万三三千二 五十四六一十八 三千百万四八四」
    「世は闇と 人は言ふとも 正道に 勤しむ人は 道も迷はじ」


見晴台

 標高1205mだそうで、風光明媚な見晴台になっており、万葉歌碑やトイレもある休憩ポイントになっている。ここから軽井沢の別荘地方向へとハイキングコースを下っていくことになる。

ハイキングコース

 車道が右に曲がる付近に建てられている「旧中山道碓氷峠道跡」の標識から、往時は現在の車道に沿って軽井沢に向かって下っていたそうだが、旧道を歩く人が減り、消滅してしまったようで、一部は歩ける道も有るらしいが危険なのでハイキングコースを旧道とみなして歩くこととした。

              
 旧中山道碓氷峠道跡
 江戸時代五街道の一つ。江戸から、上野、信濃、美濃を経て近江草津で東海道に合する。
 この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は、
  「旅人の身を粉に砕く難所道 石のうすいの峠なりとて」
  「苦しくも峠を越せば花の里 みんな揃って身は軽井沢」
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。
 現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治十一年に改修された道である。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


 ハイキング道は、落ち葉がクッションになる快適な山道で、加えてなだらかな下り道でもあり、飛ぶが如きスピードで快適に軽井沢宿を目指すことが出来た。
 紅葉に染まる絶景のまっただ中、歩道橋や小さな沢・車道・吊り橋などを何ヵ所か横切り、別荘地を抜けて30分程で車道への出口に達する。出口の広い道は峠まで続く車道だが、ここから旧道に復することになり、「碓氷峠2.9km」の標識がある。

二手(にて)橋(15:58)

 軽井沢から江戸へ向かう旅人が、飯盛女に送られて名残りを惜しみながら東西二手に別れたことが名の由。この後、閑静な軽井沢の別荘地の間を下って市街地へと向かう。

ショー氏記念碑ほか(16:18)・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢

 二手橋右手に「ショー氏記念碑」と「日本聖公会 軽井沢ショー記念礼拝堂」「ショーハウス」がある。
 ショー氏の故郷スコットランドに似ていると多くの日本人に紹介し、軽井沢が「避暑地」として脚光を浴びるようになったのを讃えての碑である。

英国聖公会宣教師A(注:アレキサンダー)・C(注:クロフト)・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは、一八八五年(明治十八年)である。
師は翌年この地に暑さを避け、静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。
現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造の神を賛美し、静想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に解放されている。

               
ショー氏記念碑
 今日、保健休養地軽井沢があるのはアレキサンダー・クロフト・ショー氏、この人のおかげであるといっても過言ではないでしょう。それは軽井沢を見出してくれた人であるからです。
 ショー氏は1886年(明治19年)にキリスト教の布教の途中、軽井沢に立ち寄り、軽井沢が避暑地として最適な土地であることを広く紹介し、自らも別荘を構えて今日ある軽井沢の基礎を築いたカナダ生まれの宣教師です。その功績を讃えて地元民が明治36年にその碑を建立しました。
 また昭和61年、保健休養地100年記念事業としてショーの別荘が「ショーハウス」として復元されました。

ショーハウス

 明治十九年(1886)英国聖公会から派遣された宣教師A・C・ショー氏は、当地のすぐれた高原美と、清涼な気候を愛し。明治二十一年(1888)に、初めて避暑用に別荘を旧軽井沢に建てた。これがショーハウスと呼ばれ、軽井沢別荘の第一号となった。

 ショー氏は毎夏をこの別荘で過ごし、村民に善良な風習と美しい自然を守るべきこと教えた。また、この地を広く内外人に紹介して来遊を勧めた。現在、別荘や寮の数は一万を超え、年間の来訪者は八百万と言われているが、清潔で健康的な避暑地としての姿は今も保たれている。

芭蕉句碑(16:19)・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢<左側>

 ショーハウスのすぐ先左側にある。

   
馬をさへ ながむる 雪の あした哉
 松尾芭蕉(1644〜1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書に「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりではない。駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくよの意。
 (飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
 碑は天保十四年(1843年)当地の俳人 小林玉蓬によって、芭蕉翁百五十回忌に建てられたものである。
                              軽井沢町


御宿つるや・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢

 森が途切れた右側に豪壮なホテルとしてあり、この辺りから「軽井沢銀座」が始まる。江戸時代には茶屋であったが後に旅館に変わり、島崎藤村・芥川龍之介・谷崎潤一郎・室生犀星・志賀直哉・掘辰雄ら多くの文士が逗留した。

 
「つるや」は江戸時代にここで茶屋を開いていたが、明治から旅館に変わり、多くの文士が訪れるようになって繁盛した。
 大正時代には、島崎藤村・芥川龍之介・谷崎潤一郎・室生犀星・志賀直哉・掘辰雄らが逗留した。
 昭和47年(1972)に昔の面影を残すように再建された。


軽井沢宿

 中山道第18宿の「軽井沢宿」は、日本橋から36里29町47間(144.6km)、京へ99里2町13間(次の「沓掛宿」迄は4.5km)で、宿場は南北六町(約650m)で、東の桝形(「つるや」の少し手前)からロータリー辺り(かつて西の桝形があった)迄だった。
 天保14年(1843)で人口451名、総家数119軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で、元禄期に繁栄の頂点に達し、特に遊女が多かったという。最盛期には茶屋が12軒あり、旅籠は100軒、飯盛女も200人を越えたと言われる。やはり、難所の碓氷峠の前後の宿らしいと言えよう。

 浅間山の大噴火(1783年)で火山灰が1.3mも積もるという大打撃を受け、その後の大火、天明の飢饉にも見舞われ、宿は復興の力を消失し幕末頃には飯盛女が120人もいる遊女の宿と化した。加えて、明治12年(1879)に碓氷新国道(後の18号線)が開通すると宿場町は益々衰退していった。しかし、明治19年(1886)にA・C・ショーが避暑地に適していることを内外に紹介し、国際的にも周知され、再び発展していった。
 このため、現在は観光地として賑わい、往時の宿場の面影は全く残っていない。もうすっかり薄暗くなっているが、軽井沢銀座は相変わらずの人・人・人・・・である。新幹線が出来たせいか、軽井沢人気は健在であることを目の当たりにした感じだ。

脇本陣

 左手に、往時脇本陣があったという「軽井沢観光会館」がある。古い建物をその侭残しているように見えるが,実は平成7年の完成で、元の建物は、塩沢湖軽井沢タリアセンに移築され、「明治四十四年館」として残っているという。

本陣・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢

 向かい側の「土屋写真店」に続いて右手の漬物屋の角を曲がった「大禅」という十割蕎麦屋の敷地内に「明治天皇軽井沢御昼行在所跡碑」があるそうだが、人混みに気を取られて見過ごしてしまった。この辺りが本陣のあった場所とされ、土蔵が残っているそうだが・・・

軽井沢一里塚・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢(旧軽ロータリー付近?)

 日本橋から37番目の一里塚になるが、今は何の痕跡も残っていない。

桝形・・・長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢

 軽井沢宿の京側の入口にあたり、現在の旧軽ロータリーである。旧軽井沢と新軽井沢の接点にもなっている。

ゴール

 この「旧軽ロータリー」(標高960m)で中山道歩きは本日ゴールとし、左折して今宵の宿泊先「アパホテル軽井沢」に向かう。今夜は、外食だ。