「中山道」を歩く

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 2009.11.07(土) 中山道第7回目-1日目 高崎駅~高崎宿~板鼻宿~安中宿~松井田宿(泊)

スタート(9:00)

 中山道歩きは、2008.03.08以来8ヵ月振りでの再開である。メンバーは、今街道シリーズお馴染みの西・清水・村谷の各氏を交えた4人、幹事役を村谷氏にお願いしての再開である。
 3月来の暫し中断理由は、日帰り可能圏から要宿泊エリアに変わり、仕事や家庭事情に伴う各人の日程調整上の問題だった。今後は山間部の積雪期に当たる冬季は別として、極力月一回程度、2~3泊程度を原則に継続しょうとの合意のもと、久々に再開の運びに至った次第である。

 この空白期間中に、「日光街道」と「川越街道」を完歩し、「水戸街道」もあと1日(翌週11月15日完歩済み)を残す迄にこぎつけている。
 この先の中山道は、山・坂・峠越えが多いにも拘わらず、山歩き中断後久しく、引力抵抗力衰退の懸念に加えて仲閒たちより5~6歳老体でもあるのだが、ともあれ、高崎駅西口から約400m西、今回の街道スタート地点である「新町(あらまち)」交差点へ向かう。

高崎宿(高崎城下)

 あらためて高崎宿について概説すると、古地名「赤坂」が鎌倉期に「和田」に改名、更に慶長3年(1598)の高崎城築城に際して、藩主井伊直政公の信任が厚かった後刻立ち寄り予定の「恵徳禅寺」の禅師に、「和田の名称を松崎に変えたいが」と尋ねた処、禅師は「松は枯れることがあるが高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」と進言し、直政公が大いに喜んで「高崎」と命名したと言われており、その由来が同寺に碑文として建てられている。

 以来、高崎は徳川譜代の城下町として栄え、中山道第13宿、日本橋から109.4km、江戸から4日目の宿泊地、三国街道や信州街道が分岐する交通の要衝として賑わった。ただ、城下町だけに大名や公家達にとっては何かと気遣う点も多く、ここでは宿泊しなかったと言われ、従って本陣・脇本陣がなく、一般客も堅苦しさを嫌ったため、旅籠は15軒にとどまり飯盛女も僅少だったという。
 宿の規模は天保14年(1843)の記録で、人口3,235人(男1,735人、女1,500人)、家数837軒だった。

 3つの伝馬町の本町(3日・8日)、田町(5日・10日)、新(あら)町(2日・7日)とそれぞれ六斎で18日市が立ち、絹(髙崎絹)・木綿・煙草・紙など近郷の産物が取引され、日用品・雑貨の店も並んだほか、江戸と信越を結ぶ問屋・仲買の大商店ができ、「お江戸見たけりゃ髙崎田町」と唄われた程の賑わいを呈したという。また、鍛冶町には鍛冶職人が、鞘町には刀の鞘師が、白銀町には金銀細工師らが住んでいた。

新町諏訪神社(9:05)・・・高崎市新町85-1

 今回の街道歩きの始点である「新町交差点」からほんの少し西に入った右手に、向拝の上に千鳥破風を付けた瓦葺のこじんまりとした社殿の「新町諏訪神社」がある。

               
高崎市指定重要文化財 新町諏訪神社本殿及び御宝石
 新町諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地誌「高崎志」によれば、慶長四年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことにはじまるという。本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造で、しばしば大火に見舞われた高崎の町にあって、大切な社を火災から守るための工夫だったとも考えられる。平入り・入母屋造の建物は一見すると二層のように見えるが、実は裳腰(もこし)をつけた平屋建で、外壁の下半は海鼠壁となっている。本屋根と裳腰の間には手の込んだ七賢人の漆喰彫刻が施されている他、波しぶき、飛龍、四隅の牡丹、正面の鳥居に付けられた躍動感あふれる昇り龍・下り龍など、随所に美事な漆喰彫刻を見ることができる。
 この神社は享保十四年(1729)、文化四年(1807)の二度に渡って火災に遭っており、近年の修復工事の際にも屋根材や彫刻の骨木の一部に、その痕跡が確認されている。礎石背面には文化十一年(1814)の刻銘があり、建築的な特徴などを考え合わせ、この建物が元の社殿の部材を利用して再建が行われたことが推測される。高崎城下の名所のひとつでもあったらしく、太田蜀山人の「壬戌紀行」の中でも紹介されるなど、当時から町の人々、往還を行く旅人達の目をなごませていたことがわかる。
 信州諏訪にゆかりのある御宝石は、重さ約八キロの鶏卵型の石で、宝篋印塔の屋蓋を裏返しにしたものを使った台座に安置されている。
                                   所在地 高崎市あら町八十五-一番地
                                   指 定 平成二年二月二十六日


 この御宝石は、重さ2貫700匁(8.125kg)、台座の重さ30貫400匁、総高4.57mあるそうで、中世の宝篋印塔の屋蓋を裏返しにした台座は、耳を四足にし、中央の窪みに御宝石を安置している。

高崎城の乾櫓と東門(9:12)

 近くに「高崎城址」があるが、三の丸外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っているだけで、現在は公園化されているようなので、方向的に僅かな立ち寄りで見学可能な乾櫓、東門を見るべく、諏訪神社前を西進し、220m程先、「市役所前」信号の手前を右折し、150m程先左手にある高崎城跡に立ち寄る。

 城は慶長3年(1598)井伊直政により築かれ、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭だったという。寛永10年(1633)、3代将軍家光の実弟・駿河大納言忠長が3代将軍の座をかけて争って敗れ、この城内で自刃している。その折の切腹の間の建物は、後刻訪問予定の「長松寺」に移築されている。

 元々、この地には平安時代の豪族・和田義信が築城した和田城があった。下って天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際、前田利家・上杉景勝連合軍に包囲されて落城し、廃城となった。その後、慶長3年(1598)、中山道と三国街道の分岐点にあたる髙崎に、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政が築城したのが高崎城で、郭内だけでも5万坪を超え、北は赤坂町長松寺から南は龍広寺迄の広大な城郭であった。明治4年(1871)の廃藩置県で廃城となり、現在は三の丸外囲の土塁と濠、及び昭和52年(1977)復元の「乾櫓」と「東門」が残るのみとなった。敵に矢や鉄砲を射掛けたという乾櫓は、県内に唯一現存する城郭建築で寛永年間の築造と言われている。

               
高崎城東門の由来
 高崎城十六の城門中、本丸門(萑門)、刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1843)の二度火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当時のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治の初め、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小島町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏よりうずりうけ、復元移築し、昭和五十五年二月、市に寄贈したものである。
               昭和五十五年三月
                              高崎市教育委員会


連雀町の由来碑(9:18)

 城跡のある角を右折して250m程東進すると、「新町」から北進してきた街道に復帰し、そこを左折して100m程北に行くと「連雀町」バス停があり、その傍(街道左手)に「連雀町の由来」が掲示されている。

               
連雀町の由来
 連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく)(荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手門前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された街で、町割りを決める時、最初に連雀町の位置を決めそれから南北に各町の地割りをした。
 さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主から決められていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
                              高崎の散歩道より


大信寺(9:20)・・・高崎市通町75

 その連雀町の三叉路を右に入ると、突き当たりに浄土宗の「願行山大信寺」があり、門扉には徳川家の三つ葉葵の紋章がある。
 参道入口には、駿河大納言の墓がある旨記した次のよう内容の解説板が建っている。

               
駿河大納言の墓
 徳川忠長(幼名国松)二代将軍秀忠の第三子として生まれ、父母に愛され世子に擬せられたが、春日局の運動が功を奏し、兄家光が三代将軍となった。忠長は甲・信・駿・遠・五十五万石の太守となり駿府城に入封した。後 寛永九年高崎城に幽閉され、翌寛永十年(1633)十二月六日二十八歳で自刃した。
 峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士
                              社団法人高崎観光協会
                              高崎教育委員会


 当寺は元亀元年(1570)の建立で、開山は総誉清巌上人、開基は 内藤大和守(北条氏房の叔父)。昭和20年の戦災で消失後、昭和23年に再建された浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。

 第2代将軍徳川秀忠の次男、駿河大納言忠長が乱行を理由に高崎城に幽閉され、高崎城主安藤重長は、屡々赦免を哀訴するも認められず、寛永10年(1633)28歳の若さで忠長は自刃させられたが、大信寺第十一世心誉上人により当寺に埋葬されている。法名は「峯厳院殿勝徹暁雲大居士」という。その墓の石扉にも、三葉葵の紋が刻まれている。

 墓は高さ2.3メートル余の五輪塔で、周囲には石の玉垣が巡らされ、4代将軍家綱の時(死後43年)に免罪され、漸く墓石を建立できたが、幕府に遠慮し墓を鎖で繫いでいたため「鎖のお霊屋」と呼ばれていたという。当初は廟によって覆われていたが戦災で焼失した。

 また、大信寺には忠長の姉である千姫が供養のために奉納した品々(葵紋付きの硯箱、自刃に用いた短刀、婚礼時に使用した金色の銚子、自筆の手紙、水晶のつぼ、仏舎利塔、豊臣秀頼縁の袈裟などが)が戦災から免れ、位牌と共に安置されている由である。

山田家(旧山源漆器店)(9:33)・・・「本町三丁目」交差点を左折、すぐの左側

 「たかさき都市景観重要建築物」第6号(平成16年12月指定)に指定されている「山田家(旧山源漆器店)」がある。

               
山田家(旧山源漆器店)
                              平成16年12月27日指定
 この建物は店蔵及び主屋からなり、明治15年頃に建てられたと伝えられています。特に通りに面した店蔵は、慰斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に設けられた軸吊り形式の観音開き扉、そして漆喰で仕上げ、更に黒く塗られた外壁等、重量感あふれた外観を持ち、通行する人々が思わず足を止めるほど、印象深い景観を創っています。関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物として、貴重な存在といえます。
構造・規模  敷地面積  約213㎡
       構  造  店藏:土蔵造り2階建て、主屋:土蔵造り2階建て
       延床面積  店藏:約93㎡、主屋:約69㎡

               「たかさき都市景観重要建築物等」について
 文化、産業、生活の歴史を物語る建築物等を、まちなみの中に残していくことは、本市の景観形成において大きな意味を持ちます。本市では、これらを「たかさき都市景観重要建築物等」として指定し、その保全・活用を図っております。
                              高 崎 市


高崎神社(9:45)・・・高崎市赤坂町94

 街道に戻って600m程先の「本町三」交差点を左折すると、420m程先の「本町一」交差点辺りで高崎宿が終わる。その先80m程の左手に「高崎神社」がある。街道からは、左折&「堰代町」信号右折で社殿まで計170m位あるが、近道して行ったら、本殿前では、巫女姿での受付が設けられ、七五三詣での人達の応対をしている。

 高崎神社は旧名を「熊野神社」と称し、伊邪那美命、速玉男命、事解男命、ほか17柱をはじめ、合祀による天神地祇を御祭神として祀っている。
 鎌倉時代中期の寛元元年(1243)、和田城主和田小太郎正信が相模国三浦から城内榎森に勧請し、後に慶長3年(1598)井伊直政が高崎城築城の際、現在地に奉遷し、高崎の総鎮守となった。

 明治40年、境内末社12社及び両度にわたり市内17町に鎮座していた36社を合祀し、熊野神社を高崎神社と改称している。社格は明治3年に村社、同18年に郷社、大正14年に市域唯一の県社に昇格している。
 本殿右手には、「美保大國神社」、また、「五社稲荷大神」石碑などが鎮座している。
 天文3年(1534)の銘のある「鰐口」が社宝になっている。

<鰐口>

 「奉掛鰐口小坂下村菊水寺 武州秩父郡友恒名 内住侶荒船和泉守善慶 天文三年甲午九月日 本願之春」と刻されている鰐口がある。

               
高崎市指定 重要文化財 高崎神社の鰐口 (赤坂町九四)
                              指定 昭和六十年二月十四日
 鰐口とは寺社の軒下につるし参詣者が綱を振り打ち鳴らす金属製の道具。下辺の大きく口を開いた形からこの名が出た。
 この鰐口は鋳金したあと黒漆をぬり銘文を刻している。直径十七・五糎、厚さ一・八糎の円盤状、周縁に四十八字の銘文がある。
 「更正高崎旧事記」によるとこの鰐口は旧高崎城内榎廓の二ノ宮大明神社殿に掛けられていた。銘文によると武州秩父郡の住人荒船和泉守善慶が同郡小坂下村菊水寺に天文三年(1534)奉納したものである。しかし菊水寺から二之宮大明神社殿に移された経過は不明である。
 鰐口は仏像などと異り信仰の対象としてあまり珍重されず名品も少ないが中世の銘文が刻まれていることは極めて貴重である。
                              高崎市教育委員会

<和田の立石>

 高崎神社の拝殿正面の前に、「和田三石」の一つである「和田の立石」が置いてある。
 『高崎志』によると、「和田三石」というのは、「上和田の円石」「和田の立石」「下和田の方石」の三つを言い、高崎城主・和田氏はこの三石を大変慈しんでいたと伝えられている。高崎城築城に際しても、近くの大石がそれぞれ使われたが、この三石は和田氏が特に愛情を注いだ石であるという理由でその侭になったという。

恵徳禅寺(9:51)・・・高崎市赤坂町77

 街道筋で、高崎神社のすぐ先左隣に曹洞宗の「恵徳禅寺」がある。

               
曹洞宗 恵徳禅寺
由緒 天正年間(1573~1592)井伊直政公が伯母である恵徳院宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山恵徳院と號した。慶長三年(1598)直政公和田城入城の折に此の寺を城北榎森に移し松隆山東向院恵徳寺と改めた当時寺領二拾石五斗の御朱印地であった。後の城主酒井家次公の時慶長九年(1604)~元和二年(1606)の間に現在地「赤坂」に移る。
開山 群馬郡箕郷町瀧澤寺第四世勅特賜大光普照禅師龍山永潭大和尚に依り開山。この禅師は箕輪在住の頃より直政公の信任厚く、或る時「和田の名稱を松崎に変えたいが」の問に、「松は枯れる事があるが高さには限りがない。その意をとって髙崎はいかゞか」と進言した処直政公大いに喜び「髙崎」と命名したと云う
本尊 釈迦牟尼佛を安置し奉る
               平成元年五月吉日
                              恵徳廿九世 大峰達雄


長松寺(9:53)・・・高崎市赤坂町30

 更に100m程先に進むと、右手に曹洞宗で上州七福神のひとつ「赤坂山長松寺」がある。
 長松寺の庫裏は普段は居間として使われているらしいが、内部は高崎城の書院遺構を移築したもので、実はこの客間は先述の通り、3代将軍家光の弟、駿河大納言と言われた徳川忠長が高崎城において自刃した部屋を移築したものと伝えられている。

 長松寺の本堂は、江戸時代に焼失し、寛政元年(1789)に再建されたが、その時の作で、高崎市指定重要文化財になっている狩野派の本堂天井絵(龍)と向拝天井絵(天女)涅槃画像があるとのことだが、中に入れず観賞出来ないのが残念だ。本堂左手前に後記解説板が建っている。
 また、「県立高崎高等学校跡地碑」があり、曾て同校が当寺に置かれていたことが判る。

               
高崎市指定 重要文化財
               長松寺 天井絵と涅槃画像 (赤坂町三〇)
                              指定 昭和六十年二月十四日
大間天井絵(龍)
 寛政三年(1791)筆、間口五三八糎、奥行四四五糎の天井板に墨画された龍の絵。構図は雄大で大胆。筆勢は力強く躍動感がある。
向拝天井絵(天女)
 寛政元年(1789)筆、間口四四二糎、奥行二五二糎の天井板に岩絵具、胡粉、金泥で彩色した天女絵である。ふくよかな肢体、しなやかな衣裳であるが筆勢は力強い。
涅槃画像
 文化二年(1805)筆、横一九八糎、たて二一八糎の超大作、絵本に日本画絵具で彩色、八十一歳の作品であるが動物、人物の描画はゆたか繊細である。

 作品にはいずれも狩野探雲の署名、印、制作年月日が記されている。探雲は甘楽郡野上村(現富岡市)の出身、文化九年(1812)八十八歳没。狩野派主流の深林に学び江戸幕府画所に仕え江戸城西の丸の画作に従う。のち七日市藩の御用絵師として勤仕、絵師の最高位である法眼を与えられ「上野探雲」ともよばれた。

山田文庫(10:01)・・・高崎市常盤町25

 街道はその先「本町1」信号を過ぎて「赤坂通」に入り、「常盤町」信号を右折するが、信号手前左手が古い「岡醤油醸造」で、その右手がレンガ塀に囲まれた中の民家「(財)山田文庫」で、現在ミニ図書館風になっている。このレンガ塀は、曾ての高崎の商都性を物語る山田文庫の建物として、1998年「たかさき都市景観賞」を受賞している。

               
財団法人 山田文庫
 この建物は、明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎の居宅でしたが、1974年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在は一般に公開されています。
 屋敷蔵、土蔵二棟、明治16年移築の茶室、九蔵町の茂木銀行から移築されたと伝えられるレンガ塀などが近代商都高崎の歴史を物語っています。
構造・規模  敷地面積  1,215.07㎡ 煉瓦塀;組積造(イギリス積)
       延床面積  母屋 183㎡ 茶室 43㎡ 土蔵2棟 46㎡ 22㎡


清水家(10:08)

 「山田文庫」の角、「常磐町」交差点を右折して暫く行くと、間もなく、三層建ての屋根上に「鯱」が乗っている天守閣がある「清水家」の建物が右手に見えてくる。
 個人の趣味としか思えないが、門前まで行ってみるとなかなか凝った造りになっており、どんないわれがあるのだろうかと思ってしまう。

君が代橋親柱(10:12)

 更に進んでいくと道幅がやや広くなり「烏川」に出るが、明治11年に明治天皇が北陸御巡幸の砌に馬で木橋を渡られた記念として名付けられた「君が代橋」当時の親柱が手前に残っている。

 現在では、左岸側が国道17・18・354号のJCTになっており交通の要衝である。右岸側は国道18号と国道406号との交差点がある。両方向計5車線からなり、交通量の多い橋で、車の車線変更がとても多いので通行時には注意が必要である。実のところ、上流側が「新君が代橋」、中央の立体の部分は「君が代橋高架橋」、下流側が「君が代橋」と表記されている。これらをまとめた通称が「君が代橋」である。

              
 君ヶ代橋親柱
 君ヶ代橋という名は、明治十一年九月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されました。
 この君ヶ代橋親柱は、昭和六年に木橋から鋼橋に架け替えられたときのものですが、昭和五十二年より十年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、君ヶ代橋も新たに架け替えられた為、ここに移設されたものです。
               昭和六十二年三月
                              建設省高崎工事事務所


<複雑な君が代橋の渡り方>

 国道354号線にぶつかると、「児童公園」前の横断歩道を渡り、左手にある「君が代橋」の一番右側の歩道橋を渡る。橋の長さは240m位で、橋を渡ったら70m先のY字路を右に入る。

道しるべ(10:28)

 君が代橋を渡り、「君が代橋西」信号で国道18号を左に分け、街道は右斜めへとカーブし、「下豊岡町西」信号で県道26号線を左に分け、その先で国道406号線を右に分け、旧中山道は左へと分岐していく。
 右側に小山酒店、真ん中に「八坂神社」がある所の分岐に、2m程の高さの
「下豊岡の道しるべ」があり、横に解説板が建っている。

 一つはY字路三角地帯の真ん中に立つ小さな自然石の道しるべで、これには
「右はるなみち くさつみち」と刻まれている。
 ここより右に折れる道は「信州道」と呼ばれ,草津温泉へと通じる道であることから「草津みち」とも呼ばれる。現在は長野県大町を起点とし高崎市君が代橋を終点とする国道406号になっている。

 もう一つは、分岐点から10数m旧中山道に入った右手の「だるま工房」入口角にある。高さ198cm、巾34cm、厚さ36cmの安山岩製の尖塔角柱で、正面に
「榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとのゆ」、左側面に「左中山道 安中 松井田 横川」、右側面に「従是 神山三里 三の倉五り半 大戸九り半」と刻まれている。

             
高崎市指定重要文化財
               下豊岡の道しるべ
                              所 在 地 高崎市下豊岡町四〇-三番地先
                              指定年月日 平成十年二月二十七日
 烏川を渡って中山道を西へ進み、この地より右に折れる道は信濃国(長野県)へ通じるいわゆる信州街道で、古くは「信州みち」と呼ばれていた。また、草津温泉へと通じる道でもあることから「草津みち」とも呼ばれていた。
 現在八坂神社のあるこの場所が、かつて信州みちが通っていた場所であり、二つの道しるべがあった。そのうちの一つ「下豊岡の道しるべ」は、高さ一九八cm、幅三四cm、厚さ三六cmの大きさで、安山岩でつくられた尖塔角柱の道しるべである。碑面の文字から草津温泉をはじめとする温泉地への案内を主な目的として作られたものとも思われる。なお、左側面のみ文字の彫り方が異なっているが、道しるべが建てられた後に彫られたためであろう。つくられた時期は江戸時代末期と推定される。
 もう一つは、国道四〇六号線と旧中山道との分岐点に移されている小さな自然石の道しるべで、これには「右はるなみち、くさつみち」と刻まれている。
 「下豊岡の道しるべ」は、、本来は中山道と信州みちとの分岐点であるこの場所にあった。明治時代に現在の国道四〇六号線ができた際に、一旦は今「自然石の道しるべ」がある場所に二つとも移された。さらに昭和三十四年頃の国道四〇六号線の拡幅に伴い、県道(旧国道十八号線)との分岐点にこの道しるべのみ移されていた。高崎市の文化財に指定するにあたって、本来の所在地であるこの地に戻したものである。
     右側面      神 山 三 里
         従  是 三ノ倉 五り半
              大 戸 九り半
     正面  榛名山  かわなか
      草津温泉 かわらゆ温泉
              はとのゆ
     左側面      安 中
         左中山道 松井田
              横 川
                              高崎市教育委員会


だるまの里

 街道沿いには、何軒かの「だるま売店」が並んでおり、高崎達磨発祥の地「少林山だるま達磨寺」が近いことをうかがわせている。

若宮八幡宮(10:39)・・・高崎市中豊岡町1428

 「道しるべ」のあった所から800m弱進んだ先の左手に、「若宮八幡宮」がある。永承6年(1051)、源頼義・義家父子が建立したと伝えられる神社で、境内には義家の「腰掛石」があるほか、社宝として市重要文化財に指定されている「蕨手太刀」がある由。
 また、境内には土俵があり、奉納相撲が行われていたと思われる。

               
若宮八幡宮御由緒
                              高崎市下豊岡町字若宮甲一四二八
 祭神 大鷦□命(オオサザキノミコト)(大雀命)
 諡名 仁徳天皇
 当社は平安末期、永承六年(1051年)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。即ち、前九年の役が勃発するや、頼義・義家勅命を奉じ奥州の安倍氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収り帰還の折りに再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したという。
 以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者、此の地におり当社を崇敬した。
 寛文二年(1662年)ニ月、幕府代官諸星惣左ヱ門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行した。
 江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などあり、常時参拝者が絶えなかった。
 境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀がある。
 なお当地区には、「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多い。(以下略)

上豊岡の茶屋本陣(飯野家)(10:55)・・・高崎市上豊岡町133-12 (左手)

 「上豊岡茶屋本陣」は、高崎宿と板鼻宿の間にあり、19世紀初頭に飯野家の居住用主家(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として増築された。
 大名等の休息する「お座敷」は夫々8畳の上段の間と次の間の2室からなり、書院造りの様式をとどめる違い棚・床の間、部屋の周りは幅一間の入側(座敷と濡れ縁との間の細長い通路。畳を敷いたものを縁座敷という)を回らしたもので、上段の間と次の間は江戸時代のまま一切手を加えていない。

 この茶屋本陣は、代々飯野家が務め、宝暦7年(1757)には日光例幣使として公家の五條宰相菅原為成が、文久元年(1861)には皇女和宮降嫁の際に一行が休憩した記録や高崎藩の関係資料等、多くの文化財が保存されており、建物を平成9年(1997)に飯野家から主家と共に高崎市が買い取り一般・公開している。

               
県指定史跡 上豊岡の茶屋本陣
                              指 定  昭和三十七年八月二日
                              所在地  高崎市上豊岡町一三三の二
 茶屋本陣は江戸時代の上級武士や公家の喫茶や昼食、あるいは関所の時間待ちのために、宿場と宿場の間に設けられた休息所である。この茶屋本陣は、旧中山道に面して位置し、居住部分である主屋(一八世紀初期建造)に接続して、別棟で離れ座敷として一九世紀初期に増築されたものである。
 平面は南北に八畳二室を高低差なく配置している。南側をツギノマ、北側をジョウダンノマと称している。ジョウダンノマには書院造の様式である違棚、床の間、書院を見ることができる。二室の北側及び東側に幅一間の入側を回らし、その外側を濡縁としている。
 八畳二間の部分を上屋、入側や床の間などの部分を下屋としている。
 上屋は瓦葺、下屋は板葺(当初)である。
 なお、県内に茶屋本陣はこのほか、松井田町に三棟現存するが、これらは当初から主屋と一体につくられたものである。
                              群馬県教育委員会
                              高崎市教育委員会


藤塚一里塚(11:17)・・・高崎市上豊岡町229-1

 「上豊岡町」交差点で左後方からの国道18号に合流するが、国道左手の碓氷川左岸沿いの土手の道を行くと、左手に日本橋から28番目の一里塚の南塚が、土手沿いに残っており、石柱と解説板がある。植えられているエノキは樹齢不明だが200~400年と推定されている。群馬県に唯一現存する一里塚として、県指定史跡になっている。
 なお、北塚は、国道18号線の拡幅工事のため原位置から移動しているが、中山道では唯一両側の塚が残るものとして貴重とされている。

<一里塚の概要>
 一里塚とは江戸時代に街道の両側に一里ごとに築いた塚で、距離を知る道標とも言える盛り土のことです。徳川家康は、慶長9年(1604)子秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする東海道と中山道、さらに北陸道の3街道に一里塚を築かせ、全国に広めさせました。
 一里塚は、5間(約9m)四方の盛り土をし、中央に榎を植えるのが一般的でした。街道を往来する旅人にとっては、行程の目安となるとともに。夏には木陰のあるよき休憩所にもなりました。
 ここにある一里塚は、中山道に設けられたもので江戸から28里(約112km)の距離にあります。南側のものは、旧状をよくとどめ、塚の上にある推定樹齢200年を越えると思われる榎の大樹が歴史の重みを伝えています。北側のものは、道路拡幅により原位置を移動していますが、中山道では唯一、両側の塚が残るものとして、全国にも全国的にも大変貴重なものです。

<一里塚の整備>
 南の塚の整備に先立ち確認調査を実施したところ、北辺の石積みの一部は後世のものの、もともとは一辺約9mの隅丸の正方形をしたものであることが判明しました。また、東辺の石積みの最下段からは、一里塚の築造当時と思われる巨石を用いた基壇部が検出されました。さらに基壇部を取り囲む幅30cmほどの犬走り状の石の列が巡ることも確認されました。
今回の整備では、これらの調査成果を基にできる限り一里塚が造られた当時の姿に近い形に復元整備しました。


(参考)少林山達磨寺・・・高崎市鼻高町(街道から)

 ダルマ市で知られ、「高崎ダルマ」発祥の地である黄檗宗の「少林山達磨寺」が直線距離で南へ300m、碓井川の対岸に見えるが、実際の道は往復1.4km程あり、かつ坂を登る必要があり、残念ながら立ち寄りは割愛する。

 昔、ある年の大洪水のあと、村人たちが碓氷川の中から香気のある古木を引き上げて霊木として観音堂に納めておいたところ、延宝8年(1680)頃、一了居士という行者が霊夢によって訪れ、信心を凝らして一刀三礼、霊木で達磨大師の座禅像を彫刻して観音堂にお祀りした。この噂は「達磨出現の霊地・少林山」として近隣に広まった。
 その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙公は前橋城の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄10年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創した。
 享保11年(1726)水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、水戸家の永世祈願所となった。

 このような謂われから「高崎のだるま市」発祥の地として有名な寺になった。また建築家ブルーノ・タウト夫妻が昭和9年(1934)から2年ほど過ごした「洗心亭」があり、助監督時代の黒澤明が脚本化した「達磨寺のドイツ人」の舞台にもなっている。

達磨寺縁起>

 昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光るものがあるので、里人が不審に思ってみますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂にお納めて置きますと、延宝八年(1680)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師の座禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山として知られると、元禄十年(1697)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
 享保十一年(1726)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の微章を賜い永世の祈願所とされました。
 のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。

<達磨堂縁起>

 縁起だるまは、江戸時代に庶民の縁起ものとして作られはじめました。それがたちまち全国に普及し、各地でそれぞれ風土の素材を生かして、張子・焼物・木・石などを用いて由緒ある姿に作られてきました。また達磨の名は七転び八起き、不撓不屈の精神にあやかって物産や商品の名前・商標あるいは屋号などにまで及んでおります。
 当寺は、縁起だるま発祥の寺として全国のだるま、およびその資料の収集保存に努めて来ましたが、この度、縁あって大阪在住の大山立修氏から永年収集されただるまのご寄贈を頂きましたので、収蔵する各地各様のだるま及びその資料を展示して、ご参詣の皆様に達磨大師信仰のひろがりを紹介し、更に達磨大師のご縁を広めるため、ここに達磨堂を開堂しました。  昭和61年10月

<タウトと少林山>


 
世界的建築家、ブルーノ・タウトは、ナチス政権を逃れるため、故郷のドイツを離れ、かねてから憧れていた日本に亡命した。はじめは仙台で工芸の指導をするが、高崎市在住の実業家・井上房一郎氏の知遇を得て、群馬県工業試験場高崎分場の嘱託として赴任し、エリカと共に、昭和9年8月から11年10月までの2年3ヶ月を少林山達磨寺境内にある洗心亭で過ごした。
 日本では建築の仕事はできず、高崎では木工家具、漆工芸、竹工芸、竹皮細工などの工芸指導を行い、また各界著名人たちとの交流や各地への旅行などを通して日本の建築やさまざまな文化に触れた。
 そして「日本文化私観」「日本の家屋と生活」「ニッポン」「日本美の再発見」など、数々の著作によって日本の文化の素晴らしさを世界に発表した。


<洗心亭>

 境内の東側にあり、六畳と四畳半しかない日本家屋である。日本におけるタウトの著書の大部分はここで執筆されたという。

(参考)上野国一社八幡宮・・・高崎市八幡町甲655 ・・・街道から720m北

 11:32、「八幡大門」交差点通過する。ここを700m余り北進した所に「上野国一社八幡宮」があるが、これまた遠すぎるので、街道から超略式のお参りでお許し願うこととする。

  この神社は、天徳元年(957)京都の石清水八幡宮を勧請しての創建と伝えられ、古来より一国一社の八幡宮として広く崇敬されてきたという。源頼義・義家父子が前九年の役(1051)で東北に向かう途中、戦勝祈願をし、大役を果たすことができたので社殿を寄進した。

 その後も、源頼朝や新田義貞・武田信玄などが信仰するなど、清和源氏一族の崇拝を受けてきた。江戸時代には三代将軍徳川家光から社領100石の朱印地を与えられた。通称は「八幡(やわた)の八幡(はちまん)様」である。宝暦4年(1754)から復活した「太々神楽〔だいだいかぐら〕」が市の重要無形文化財に指定されている。

昼食(11:35~)

 その先、街道左手に「ラーメン山岡屋高崎西店」があったので、入店して昼食タイムとする。

寒念仏(かねつ)橋供養塔・・・安中市板鼻2丁目39

 腹ごしらえが出来たところで再出発し、その先の「板鼻東」交差点から60m、水路に架かる橋の右脇に、享保17年(1732)銘の供養塔がある。
 旅人のために板鼻宿の念仏講中が寒念仏で集めた浄財で石橋を改修したので「寒念仏橋」と名づけたが、訛って「かねつ橋」と呼ばれるようになったという。
 碑の正面には
「坂東 秩父 西国 橋供養」とあり、左には橋を架けた経緯が刻まれ、右には「享和二年(1802)」の銘がある。

 
板鼻宿市の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金を蓄積して享保十七年(1732)に石橋を改修し、旅人の利便に共した。その後年月を重ねて破損したので、享和二年(1802)板鼻宿の木嶋七郎左衛門が亡父の意思を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建てて後世に遺したものである。地元ではこの橋を「かねつ橋」と呼んでいる。

(注)「寒念仏」とは、寒中30日の間、山野に出て声高く念仏を唱えること。後には、寒夜に鉦を打ち叩いて仏寺に詣で、または有縁の家や付近の地を巡行することとなった。

道標を兼ねた双体道祖神(12:21)・・・安中市板鼻2-8(板鼻堰用水路に架かる小さな橋の袂)

 台座に、京都・江戸・日光・善光寺などへの道程が刻まれている。

板鼻宿

 「板鼻下町」交差点のY字路を右に入り、すぐ先のY字路を今度は左に入って県道137号線を進む。JR信越本線の第九中山道踏切を渡ると間もなく「板鼻宿」交差点があり、板鼻宿へと入っていく。

 板鼻宿は、中山道の第14宿・日本橋から28里24町40間(112.7km)、京へ107里7町20間で碓氷川沿いに発達した交通の要衝に立地している。天保14年(1843)で宿人口は1,422人(男649人・女773人)、家数312軒で、本陣・脇本陣は各1軒、旅籠が54軒であった。旅籠が多かった理由は、碓氷川の大雨時の川止めとの関係や、隣の高崎宿が城下町で規制など堅苦しい雰囲気があったことが影響していたようだ。

 承安二年(1172)、源義経が鞍馬山から奥州平泉への途中に立ち寄った話が『義経記』に記されている。中世には碓井川・九十九川・秋間川の合流地点で筏交通による物資の集散地としても栄え、戦国時代に入ると、伝馬役を負担する伝馬宿になり、幕末には天領として幕府直轄地になった。旅籠の数のみならず、他に商店や茶屋が90軒もあって繁盛していた。また、旅籠の殆どは飯盛女や下女を擁していたという。

榛名道道標・・・安中市板鼻2-7(「板鼻二」交差点の右手前角)

 「やはたみち」と刻まれた文政3年(1820)建立のもので、「やはた」は上野国一宮八幡宮をさしている。右には「はるな くさつ 河原湯 かねこ 沢たり 志ぶ川 みち」と刻まれている。

板鼻宿本陣跡(12:32)・・・安中市板鼻1-6-20 (「板鼻宿」交差点のすぐ先右手)

 「板鼻宿」交差点のすぐ先、板鼻公民館前の植込みに、風化した「中山道←→板鼻宿」の標木があり、その左横には「板鼻宿本陣跡」の標木があって、側面には「皇女和宮宿泊の書院 山岡鉄舟書扁額 江戸時代の高札 荒木寅三郎書扁額」とある。

 板鼻公民館が本陣跡で、その右後ろに「旧本陣書院」があり、公民館に声をかければ内部の資料が見られるそうだが、開館は平日の9:00~16:00で、土・日・祭日は休館のため、きょうは残念ながら内部の見学が叶わず、外観一瞥のみである。

 木嶋家が務めていた本陣家は、奥州平泉の豪族藤原秀衡の末裔と伝えられており、慶長年間に板鼻に土着したと推定されている。現在は取り壊されているが、往時の本陣建物は、間口15間半、奥行30間、地坪465坪だったという。

<旧板鼻本陣書院(皇女和宮泊所)>(12:33)

 梁間5間半 桁行9間半、建坪52坪で、上段の間が皇女和宮資料館として公開されているが、和宮使用の草履・料理に使われた俎板・和宮の銅像写真・花嫁行列の様子を絵と文字で記した巻物・警護の伊賀者が潜んだという床下の穴などが残されている。
 また、花嫁行列は京都方1万人、江戸方1万5千人、京都からの通し人足4千人・長さ50kmにも及んだという。

               
旧本陣書院(皇女和宮宿泊所)
 この建物は、板鼻宿本陣に附属した書院であった。書院建設年代は、寛永説と寛政説とある。幕末に皇女和宮が十四代将軍家茂へ輿入のため、京都から江戸へ下向途次、文久元年(1861年)十一月十日に一夜をこの書院で過ごされた。
 本陣敷地が公民館用地となり書院はここへ曳移転され、外装等に補強の手を加えたが、昔日の面影が偲ばれるよう施工はひかえめとした。
                              安中市教育委員会

ちょうちん屋・・・安中市板鼻1-6

 その先隣(街道右手)に花屋がある。曾ては「ちょうちん屋」と呼ばれていた店で、窓も戸も耐火を考えた幕末築の土蔵造りである。屋根の部分も大きくせり出すように建てられ、火事での飛び火を屋根だけで食い止める構造になっているほか、戸と戸の隙間には味噌を塗って防火したという。
 こうした土蔵造りは、今でこそ見慣れているが、建築当時は大変高価な建物だったそうで、かなり裕福な家だった証と言われている。

板鼻宿双体道祖神・・・安中市板鼻1-4

 その先右手にある。この辺りで「板鼻宿」も終わりを告げる。

板鼻堰用水路・・・安中市板鼻(街道北側の民家の裏手)

 板鼻堰用水は、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15km、灌漑面積150ヘクタールの用水路である。
 この用水路は今から凡そ四百年前の慶長年間中期から後期(1604~1614)に開鑿されたものと推定されている。

鷹之巣神社(12:45)・・・安中市板鼻

 「鷹之巣橋東」交差点を左折するが、その右手前の崖の上に、碓氷川を俯瞰する場所に鎮座しており、「金毘羅さま」と呼ばれ地元の人々から敬われている。往時はここで左折せず、50m程行った上流を徒渡しで渡っていた。

碓氷川の歩渡し(かちわたし)(12:46)・・・安中市中宿(鷹の巣橋の50m上流)

 架橋が禁止されていたため徒渡しが普通だったが、冬季に限り仮の土橋が架けられていた。しかし、宝暦2年(1752)からは常設の土橋が架けられたという。街道右手の橋の手前を右に入った所に「中山道板鼻宿渡し場」の標識のある古い建物と、その前に大きな解説文掲示板が建っている。

               
中山道の歴史
 東海道とともに江戸時代の五街道の一つとなった中山道は、この時初めて制定された街道というわけではなく、その前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な街道でもあった。
 この東山道というのは、文武天皇の頃(697~707)で「近江・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥」の八国を指し、和銅五年(712)にはこれに出羽が加えられ、宝亀二年(771)には武蔵がこれから外され東海道に移された。
 このように古くは国々を集めての総称だったのだが、その東山道が道の名としても用いられるようになったのは、おそらくは孝徳天皇の大化元年(645)に始まる大化の改新以降のことではないだろうか。
 この東山道は、しかし温暖な太平洋側に面していたために次第に整備され始めた東海道に対し、しばらくは裏道的な存在として生きてきた。
 やがて、戦国時代に入ると、群雄割拠の時代には小田原北条氏が倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の六宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・薮原・福島の七宿は武田氏が伝馬の継立を行っているなど、東山道から中山道への移行期にはすでに宿駅が設けられ始めていた。
 こうして天正十八年に至ると、八月一日に徳川家康の江戸入りがあり、以来十年を経て慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、事実上天下の兵馬の権を握った家康がまず手をつけたのが道路の整備であった。
 そして同六年の彦坂元正等による東海道の巡視を基にして五十三次が定められ、以来中山道・甲州道中・奥州道中などを幕府直轄下の街道と定め、万治二年(1659)には大目付高木伊勢守守久を初代の道中奉行とし、その管轄下に日光道中を含めた五街道を置いたのだった。
 さてこうして発展した中山道は、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として行き続けた。幕府の旗本などで大坂勤番の者は、往路は東海道、帰路は中山道を利用する例が多く、また東海道のように河留めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による困難がほとんどない故に女性の道中に好まれることも多く、幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用したのはその良い例といえよう。

               中山道 板鼻宿 碓氷の渡し場跡
 鷹ノ巣山下碓氷川渡場は、中仙道渡し場として、有名な場所であった。
 渡し場は九十九川・碓氷川の二川が合流する鷹ノ巣山の真下にあり、水流が鷹ノ巣山の断崖にぶつかって渕となり、方向を東南に変じて流下する処にあった。その流れは急で水かさも多く、少しでも増水すると川止めとなったと言われている。川止め間は多数の旅人が宿内に滞留することになり、板鼻宿にとっては繁栄の機会となったようである。
 現在 茶屋伊勢路(所有佐藤氏)の所在は 文政時代当時の鷹ノ巣茶屋の跡地であり、碓氷川が増水の際には川止めされた旅人で大変にぎわったところである。
 景色ここより西には浅間山、妙義山を望むことができる。風光明媚な場所である。国道十八号線が開通後は鷹ノ巣橋が架かり川渡には困難をきたさない場所となった。
       参照  文政当時の川越え貨   定碓氷川
 腰通水   人一尺四寸   人足一人   貨銭 十二文
 横越通水   二尺程     同        十五文
 脇下通水   二尺五寸    同        二十四文
 胸通水    三尺五寸    同        三十二文
 脇水     四尺三寸    同        四十八文
 但本馬一匹の荷物人足四人縣軽尻荷物同二人縣
 乗物山駕籠蓮台一挺につき人足六人
 右之通 元貨銭相定置候也
  文政十三念
(?)寅年九月(注:風化汚損により不明、文政13年=1830年=天保元年の干支は、庚寅)

間の宿・中宿

 50mほど上流にある徒渡し場が本来の中山道だが、今は手前の「鷹之巣橋」を渡り「中宿」信号を右折して突き当たりを左折する道が徒渡しの本来の中山道の延長線になる。

諏訪神社(12:53)・

 その「中宿」信号の角左向こうに「諏訪神社」がある。小さな神社だが、境内に立派な黒御影の石柱があり、
「明治天皇中宿御小休所腰掛石」と刻まれ、側面には、「明治十一年北陸東海御巡幸の際九月五日御小休所となったときお使いになられた」とある。丁度腰掛けるのに格好な自然石である。

 また、「御嶽山座主大権現(ほか)」と刻んだ自然石の石塔や、「庚申塔」がある。

蓮華寺(12:55)・・・安中市中宿甲789

 諏訪神社の直ぐ隣には、栄西の高弟・栄朝が創建した「蓮花寺」がある。栄朝がこの地に滞在したとき、厳冬で凍りついた池から音をたてて蓮の花がせり上がってきたため蓮華寺と名づけられたと伝えられている由。

<栄朝禅師像>
 開山堂にある写実的坐像で、昭和29年3月30日県の重要文化財に指定されている。
 木彫坐像で裳懸の様式をとり、総高108cm、座高70.6cmの寄木造。刀法は力強くかつ鋭い。全体的に極めて写実的で、鎌倉時代から室町時代頃の禅宗僧侶の肖像彫刻=頂相(ちんぞう)と共通する造り方である。
 栄朝は、永万元年(1165)上野国那波郡に生まれ、幼少にして仏門に入り、臨済宗の開祖栄西の門に入って、後に新田義重の子、徳川義季の招きで世良田長楽寺(太田市世良田町3119−7)を開いた。それ以前の宝治元年(1247)に安中蓮華寺を開き、長楽寺で入寂している。

庚申塔道標(13:02)・・・安中市中宿1丁目5-14(公民館向い側)

 藤野屋商店の十字路の左側角に建つ道標を兼ねた文字庚申塔で、左側面に「従是一宮 大日 街道」と刻まれている。一宮は上野国一宮(現・富岡市)の「貫前(ぬきさき)神社」を指している。

(参考)中宿公民館の糸操り燈籠人形・・・安中市中宿145

 この中宿には、安中市の無形文化財になっている「糸操り燈籠人形」というのが明暦2~3年(1656・7)頃から始められたと伝わっており、竹製の胴体に紙を貼り付け、糸で吊して操作するという風変わりなもので、下からカンテラで明かりを灯すという特徴がある。

 諏訪神社の例祭の際に行われていた農民芸能で、昭和4年を最後に途絶えていたものを昭和28年に復活した。昭和40年、ドイツのミュンヘン人形博物館に出品し、昭和43年には国立劇場に出演した。昭和52年に、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

 今日が土曜日で閉館日なので立ち寄りは略した。

寒念仏供養塔・・・安中市中宿1丁目(碓氷川の手前)

 大きな自然石に精巧な仏像のレリーフがある。寛政年間の作である。

安中宿

 戦国期の永禄2年(1559)、越後からやってきて当地に城を構えた安中越前守忠政が野尻(野後~のじり)を改め安中とした。更に昔は古代の東山道が通っていたようだが、その道筋は殆ど残っておらず、城はその後、武田信玄の攻撃を受け落城・荒廃した。慶長20年(=元和元年=1615)、徳川の重臣・井伊直政の子直勝が下野尻村から上野尻村迄の約407mの細長い町をつくり、ここに65軒の家を建てて伝馬宿としたのが、安中宿の始まりで、城下町として栄え、大名小路と呼ばれる通りには、曾ては安中藩士の家が並んでいた。

 中山道第15宿の上野国碓氷郡(現・群馬県安中市)安中宿は、日本橋から日本橋から29里18町40間(115.9km)、京へ106里13町20間で、次の松井田宿までは9.5kmである。
 天保14年(1843)で人口348名、総家数64軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒だったが、飯盛女を置かなかったために宿泊客は少なかった反面、子供連れや女性旅には人気があったようだ。

 人口も安政3年(1856)の記録で、高崎宿1,759人、松井田宿1,667人に対し、安中宿は僅かに383人(男162人)と小さな宿場だったため、中山道の定式人馬(50人・50匹)の役務達成が難しく、それぞれ半減の特例を受けていたという。
 なお、安中は天明3年(1783)の浅間山の大爆発で、壊滅的な被害を受けている。

下ノ木戸跡(13:26)・・・安中市3-23 標柱:100円ショップはす向かいの床屋の前

 現在交差点になっており、「中山道安中宿←→」の標柱と「安中宿下ノ木戸跡」の立て看板がある。ここが、安中宿の江戸側の入口だった。

熊野神社・・・安中市安中3-22(街道から北へ1050m)

 市街地の細い路を右に入った突き当たりにあるが、やや奥深いので立ち寄りは省略した。社殿に向かって進めば左手の石垣上に安中市指定天然記念物の大欅が立っているそうだが、落雷で樹身の2/3が崩れ落ちたという。元は、野後郷の鎮守であった諏訪社の御神木で、推定樹齢は1000年といわれているそうだ。

 社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなり、本殿は切妻造、桁行3間、梁間2間の大きさで前面に千鳥破風を付けた豪華な社殿で、安中市指定重要文化財に指定されている。本殿内には、文久元年(1861)に狩野法眼永秀知信が描いた絵馬が掲げられている。

 御祭神は、安中市の咲前神社のHPによると、大穴牟遅命・少名毘古那命・櫛御気野命とされ、勧請は、越後国新発田の熊野神社よりなされたとの記述がある。
 永禄2年(1559)、安中越中守忠政がこの地に築城する際、熊野神社を勧請して鬼門の守護神としたのが始まりとされる。明治以前は「熊野大権現」と呼ばれていたが、廃仏毀釈により「熊野神社」となった。

               
熊野神社
 
熊野神社は、明治以前は熊野大権現とよばれていたが、明治初期の廃仏毀釈により、熊野神社になり近郊の総鎮守となった。その紀元は、永禄二年(1559)安中越中守忠政が安中城を築城した時、ここに熊野神社を勧請して、安中城の鬼門の守護神としたのが始まりと言われる。以後安中藩歴代城主が厚く信仰し、また安中城下の総鎮守として地域住民の尊崇を集めた。
――中略――
 社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなる。本殿は切妻作り 妻入り桁行三間、梁間二間の大きさで前面に千鳥破風をつけ、向拝に流れ屋根をつけた春日造り。この本殿の七面の板羽目に鳳凰らしい鳥を中心に梅、楓などの樹木や霞様の雲を配した彫刻を施し、室町時代風で淡雅であり、写実を特色としている。
――以下略
                              安中市教育委員会


安中宿本陣跡(13:29)・・・安中市安中3丁目(「伝馬町」交差点手前)

 須藤家が務めた「安中宿本陣跡」の木製立看板と、古い「安中宿本陣跡」の石碑が道の左手の「安中郵便局」敷地内の駐車場脇の植え込みに建っている。

市川忠房の生祠

 続いてその先右手の「川上食堂」左横小路奥に、「市川忠房の生祠」がある。本当に小さな三社神社である。
 僅か男162人という小世帯の安中宿では、定められた宿駅機能遂行のために常時その3分の1を常置しておかなければならず、生死に拘わる窮状を嘆願された文政5年(1882)当時の江戸幕府道中奉行・市川忠房が、特例でその役を半分に減らして救った。住民は感謝して、「生」前に市川忠房の「祠」を建てて祀った。
 当時の中山道宿場の50人・50匹常備という役務は、小さな宿場においては正に生死に関わる過重負担だった。

旧碓氷郡役所(13:32)・・・安中市安中3-21-51(「伝馬町」交差点から北へ100m、大名小路)

 「伝馬町」交差点で寄り道のため右折し坂道を登る。13:29坂の途中左側に「使者場入口跡」の標札が建ち、坂の突当りに明治44年(1911)再建の「旧碓氷郡役所」が殆ど往時の侭残され、公開されている。休館日は毎週月・年末年始・祝日の翌日、開館時間は9:00~16:00、入館料は無料。

               
旧碓氷郡役所
                                   指定種類 安中市指定重要文化財
                                   所在地  安中市安中三-二一-五一
                                   指定期日 平成八年二月二一日
                                   構造   木造平屋建入母屋造瓦葺
 明治一一年(1878)七月二二日、郡区町村編成法が公布され、自治体としての町村が復活するとともに、郡も地理的名称から行政区画となり、郡長が置かれることとなった。群馬県では一七の軍が設置され、同年一二月七日には一一の郡役所が開設された。碓氷郡役所は旧安中宿本陣に置かれたが、約一〇年後の明治二一年六月三〇日に旧安中城内町口門北側(現在、旧碓氷郡役所があるところ)に碓氷郡役所が新築された。
 明治二三年五月一七日、郡制が公布され、郡に郡会及び郡参事会が置かれることになり、郡は自治体となったが、課税権はなかった。群馬県では明治二九年八月一日から施行され、県内の郡は一一に統合された。
 郡役所の新築から約二二年後の明治四三年九月二〇日、碓氷郡役所は原因不明の火災によって焼失してしまった。このため、翌明治四四年五月一六日に起工して、九月二〇日に竣工し、一〇月一日に開庁式を行った。これが現在も残る旧碓氷郡役所の建物である。
 しかし、郡は地方自治体としての歴史がなく、郡住民の自治意識もきわめて低く、自治体としての発達にも見るべきものん゛なかった。このため、大正一〇年四月一二日、郡制廃止に関する法律が公布され、郡制は廃止されることになり、その記念を兼ねて碓氷郡では大正一二年三月に「碓氷郡志」を刊行した。そして、同年四月一日に郡制は廃止され、郡は行政区画に戻った。大正一五年七月一日には各郡役所も廃止となり、郡は地理的名称に戻った。
 その後、この建物は碓氷郡農会、碓氷地方事務所(昭和一七年から)、安中農政事務所(昭和三二年から、高崎財務事務所、高崎教育事務所、安中農業改良普及事務所が同居)と移り変わったが、昭和四八年には空屋となり、翌昭和四九年に県から安中市に移管された。県内の郡役所はここだけとなり、この県内唯一の郡役所を保存するため、平成八年二月に安中市指定重要文化財に指定し、平成八~九年に修復工事を行い、当時の写真や建物に残る痕跡から創建当時の姿に復元した。

<旧碓氷郡役所の復元について>

 この建物は、創建当時の状態がよく残されており、当時の写真や建物の痕跡調査に基づいて、創建時の姿に復元しました。
・建築材はほとんど現在のものを修理して使用してあります。
・土台、柱、梁などはすべて当時のものです。
・外側の南側、東側、西側の腰板は当時のものです。安中杉並木10本が、材木として使われたと言われています。
・格天井などの天井板、窓枠、一部のガラスは当時のものです。
 当時のガラスは吹きガラスでゆがみがあります。
・屋根瓦、庇、床、畳は新しい材料を用いました。

■安中教会(13:33)・・・安中市安中3丁目(大名小路)

 郡役所の左側の道を挟んで、明治11年(1878)3月31日、湯浅治郎ら地元の求道者30名が新島襄より洗礼を受け創立された群馬県内最初のキリスト教会であり、かつ、日本人の手によって創立された我が国最初のキリスト教会でもある。登録有形文化財(2004年登録)。

<新島襄記念会堂(礼拝堂)>

 新島襄召天30周年を記念して建てられた会堂で、大正8年(1919)に竣工した。内正面をステンドグラスが飾っている。安中市指定重要文化財(1996年指定)。

(参考)安中城址・・・安中市安中3丁目 城阯碑:安中小学校の校門左側

 現地には行かなかったが、近くには安中城址があり、現在は「安中市文化センター」などになっており、「安中城阯」と刻まれた石碑が建っている由。

 武田信玄の進出で安中氏が軍事的圧力を受けることになったため、永禄2 年(1559)に安中忠政によって築城されたが、永禄6年(1563)には、武田信玄に攻められて落城している。その後一時廃城になっていたが、慶長19年(1614)に井伊直政の長男直勝が再建し、以後、井伊氏・水野氏・堀田氏・板倉氏・内藤氏・再び板倉氏と歴代城主が変わりつつ、行政的な陣屋形式のもとで、通算五家・一六代による藩政が明治四年七月まで256年間続いた。所領高は、変遷があったものの、概ね三万石であった。

高札場跡(13:49)・・・群馬県安中市(群馬銀行安中支店の横)

 「伝馬町」交差点に戻り、緩やかな坂道を登り始めると、右手の群馬銀行安中支店の横に「安中宿高札場跡」の立て看板がある。

下ノ木戸跡(13:50)・・・その先、安中地域福祉支援センター前

 その先の安中地域福祉支援センター前に、「安中宿上ノ木戸跡」の立て看板がある。何故か、「上ノ木戸跡」となっているが、これは間違いと思われ、正しい「上ノ木戸跡」は、この先で宿の京側にある。

安中藩郡奉行役宅(13:56)・・・安中市安中3-6-9(大名小路)

 その先を右折した次の四差路右手前にある。
 郡奉行(民政を司る役職)は、古くは藩主側近の山田氏が、その後幕末から明治初期にかけては猪狩幾右衛門懐忠が安中藩郡奉行として住んでいた。
 約6m南へ移転し、1993~94年度に復元し、公開されている。安中市指定重要文化財(1992年指定)。観覧料:市民は無料、市外の大人は210円ということで、外観してパスする。

               
安中市指定重要文化財 旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)
                                  所在地  安中市安中三丁目六-九
                                  指定期日 平成四年四月二十八日
                                  指定物件 長屋門一棟 木造茅葺平屋建
                                       母屋一棟  木造茅葺平屋建
 この建物は「旧安中藩郡奉行役宅」で、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右兵衛門懐忠が安中藩の郡奉行として住んでいました。
 郡奉行とは、安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には三人の郡奉行とその配下に四人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の治安・裁判などの仕事をしていました。
 このたび、猪狩芳子氏から安中市へ建物が寄贈されたのを機会に、安中市の重要文化財に指定しました。
 復元に際しては、都市計画道路を避けるため、約六メートル南へ移転し、現在の平面図と建物調査結果を参考に、平成五、六年度に復元しました。
 母屋は、県内では珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、茅葺き屋根、武者窓、砂ずりの壁など、いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。
 この役宅は、安中城址の南西の部分に位置しており、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形、役宅の長屋門の北には大名小路・袋小路や藩士の学校である造士館跡及び安中藩会所跡があります。
 先に復元した「旧安中藩武家長屋」とともに、この「旧安中藩郡部行役宅」が永く後世に伝えられ、安中の歴史を知る一助になれば幸いです。
               平成七年四月
                              安中市教育委員会


安中藩武家長屋(13:57)・・・安中市安中3-6-1(大名小路)

 奉行役宅の西向かいすぐの所にある。
 安中は、安中藩板倉3万石の城下町だったが、現在では城郭らしきものは一つも残っておらず、所々に市が建てた「大手門入口」などの標識で、凡その位置関係を知ることができる。
 安中市には国道18号と、それと平行して旧中山道が走っているが、両道に挟まれた区域、ちょうど文化センターや安中小学校がある附近が安中城跡地に当たる。平成に入って、ここ大名小路に武家屋敷と郡奉行役宅が復元された。安中市指定重要文化財(1992年指定)観覧料は市民無料、市外の人は有料。

               
旧安中藩武家長屋見学の皆様へ
この武家長屋は、復元前三軒長屋として残っていましたが、明治初期の間取図にもとづき、建築当時の四軒長屋として復元しました。
江戸時代末期に建てられたものと推定されています。なおこの四軒長屋の東には五軒長屋が続いていました。(中略)
一、指定  平成四年三月二十五日 安中市重要文化財に指定
一、所在地 安中市安中三丁目六番一号
一、規模  桁行 二六間(約四七・三m)
      梁間  三間(約 五・五m)
      建坪 七八坪(約二五八㎡)
一、開館時間 午前九時から午後五時まで(受付は三十分前まで)
一、休館日 毎週月曜日(祝日は除く)・年末年始・月曜祝日の翌平日
一、入館料 無料(市民)、市外の方は有料、受付は郡部行役宅へ(中略)
               平成四年五月         安中市教育委員会


便覧舎址(14:10)・・・安中市安中2丁目

 街道に戻り、上ノ木戸跡の先右手に天保3年(1832)創業の味噌・醤油醸造の「有田屋」がある。有田屋は、明治・大正・昭和3代に亘って日本の教育・社会・文化に貢献した多数の人物を輩出しており、3代目当主の湯浅治郎は明治5年(1872)に日本最初の私立図書館「便覧舎」を創設したことでも知られている。

 道の左側に明治20年に焼失た便覧舎跡碑がある。
 「便覧舎」は和漢の古書や西欧の新刊書約3000点を備えていたが、惜しくも明治20年(1887)に焼失してしまい、街道左側に「便覧舎址」の石柱が建っている。
 明治12年(1879)、新島襄は地元の約30人の人に対し、ここ便覧舎で洗礼を施しており、これを契機に先述の「安中教会」が発足している。

龍昌寺(14:12)・・・安中市安中2-7-19

 すぐ先の細い道を左折すると四阿風の休憩所があり、右に100m程の参道が延びる曹洞宗の古刹「龍昌寺」がある。
 明治7年(1874)に帰国した新島襄は、安中の人たちをここ竜昌寺に集め、講演している。

 参道の両側には日本で初めてという108の和合の鐘がずらりと建ち並んでいるのが特徴的で、大変印象深い。一金600円也で開運小槌を求め、「過去・現在・未来」と3回撞くと、澄んだ音色が重なりあい、その響きは恰も人の心を洗い清めるようだと言われ、例年大晦日は、善男善女で殊の外賑わう由。その開運小槌は各家の仏壇又は床の間に一年間お祀りし、翌年返却することになっている。

上ノ木戸址(14:26)・・・安中市1丁目19(左手の安中上野尻郵便局前の敷地内)

 安中宿の京側の入口だった所で、「史跡 安中大木戸址」の石柱が建っている。

新島襄旧宅(新島家)(14:36)・・・安中市1-7-3(案内看板から400m)

 その数分先の14:29に、左へ入る角に「新島襄先生旧宅入口」の立て看板や石碑があり、そこから少々入り込んだ西方向に新島襄の両親が明治9年(1876)迄暮らした家が公開されている。
 有名と見えて、観光バス用も停車可能な駐車場やトイレまで付設されているのには驚いた。

               
新島旧邸
 新島襄先生は1843年江戸神田一ツ橋安中藩邸に生まれ、21歳の春、危険をおかして函館から日本を脱出、翌年7月アメリカ合衆国のボストンに着き、フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーヴァー神学校を卒業、1874年11月26日横浜着、同月29日朝、10年余待ち侘びた両親をこの家に訪ね、互いに喜びきわまる。

 滞在約3週間、家人郷党に西洋文化とキリスト教を語り、時に龍昌寺を借りて演説し、上州伝道の基礎を置く。
 かくて、安中は当時開港場を除き国内キリスト教初伝の地となる。
 先生は去って翌年京都に同志社を設立し、教育活動に全力を尽くした。1890年大磯にて永眠、歳47、国内をあげて悲しむ。この家は、もと廃藩置県、江戸藩邸引き払いに伴い、この南東100メートルの地に建てられていたものである。昭和39年安中市は、有志とはかり、これをここに移し、修理復元した。


 その間、初代公使森有礼とも親交を結び、米国を訪れた岩倉使節団の通訳を務めたこともある。帰国して真っ先に目指したのが、両親の住む安中であった。この時の新島襄の安中滞在は僅か3週間に過ぎなかったので住んだというより滞在だが、その僅かな期間に安中の人々に対して西洋文化とキリスト教を語り、大きな影響を残した。

<新島襄先生之碑>

 新島襄旧宅の庭には、新島襄顕彰碑のほか、いくつかの石碑が建っている。新島襄の事績を簡潔に記したもの。撰文と書は湯浅半月(便覧舎を創設した湯浅治郎の弟)である。

天然記念物安中原市ノ杉並木碑(14:51)

 その先右手に「昭和八年文部大臣指定 天然記念物安中原市ノ杉並木」の石碑が建っている。
 杉は江戸時代初期に植樹されたらしいが、その時期は3つの説があるという。
 (1) 慶長9年(1604)説
 (2) 元和元年(1615)説
 (3) 安中藩主板倉重形植樹説

 天保15年(1844)には731(or 732)本あったそうだが、現在では全く無くなってしまっている。因みに、昭和7年(1932)には321本あったそうだ。 昭和8年に文部大臣が国指定天然記念物に指定した。

 杉のない元杉並木道を進むと、「安中実業高校前」交差点手前右側に「原市の杉並木 直進」標識があり、ここで国道18号線との交差点を直進していくが、道は僅かに登り坂になり、閑静な住宅地の中を進んで行くとやがて杉並木になるが、まだ樹齢の若い杉で将来が楽しみだが、杉花粉を思うと一概には喜べないものがある。
 東側杉並木の始まりと西側終りに石柱が建っており、「天然記念物 安中原市ノ杉並木」と刻まれている。

 この辺りの高台は「高別当村」あるいは「一里山」とも呼ばれていて、近くに30番目の一里塚があったらしいが、残念ながら所在地不明である。いつしか杉並木が途絶え、右側に「中山道 松井田宿6.4km 安中宿2.7km」の道標がある。
 そして、その先右側に杉並木の解説板、左側に「天然記念物安中原市ノ杉並木」碑がある。杉並木はここまで続いていたと思われる。

原市村戸長役場跡(15:23)

 少し先の右手にある民家(塀付きの立派なお屋敷)の門に、「原市村戸長役場跡」の表札が掛かっている

原市高札場跡(15:27)・・・安中市原市3-3

 「原市村戸長役場跡」から少し先で、左手に「原市高札場跡」の標識と「明治天皇原市御小休所」の石碑が建っている。石碑の側面には、「史跡名勝天然記念物保存法ニ□□□蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定」とある。
 門と塀に雰囲気が残っており、この家が「茶屋本陣」だった五十貝家(orその跡)と思われる。

眞光寺・・・安中市原市3-4

 街道右手に「眞光寺」があり、入口のすぐ右手に「眞光寺旧鐘楼の跡」の標識がある。安中市指定重要文化財(昭和52年12月指定)。

 
眞光寺の鐘は、板鼻の称明寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘とともに第二次世界大戦において安中市で供出を免れた三鐘の一つである。
 先に仁井興惣右兵衛門が眞光寺に寄付していた鐘を安中藩第十二代藩主板倉勝暁[在位安政九年(1780)~寛政四年(1792)]の代に時の鐘として許可されたので、鋳直して鐘楼を建て直し天明元年(1781)七月ニ日に撞初めを行った。(中略)
 天保三年(1832)に本堂、鐘楼が、焼失したあとも、時の鐘なので男二人を雇って昼夜怠らず時を知らせ続けた。こうした由緒をもって供出を免れることができた。
 なおこの鐘がつるされている鐘楼は現在は本堂の左側にあるが、元々は中山道からの入り口のすぐ東側にあった。


八本木立場茶屋(山田屋卯兵衛)(15:40)・・・安中市原市

 原市小と安中第二中学校を過ぎるとすぐ左手にある。
 「八本木延命地蔵堂」の向かいにあり、「八本木旧立場茶屋」の立て看板が掲げられている。
 今は民家となっているが、ここが旧立場茶屋山田屋であった。ここは、往時、「志がらき茶屋」の名で知られた「八本木旧立場茶屋跡」があった場所で、解説板が建っている。

八本木延命地蔵菩薩像(15:40)・・・安中市原市(山田家の向かい、街道右手)

               
安中市指定重要文化財 八本木延命地蔵尊縁起
 当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1525)松井田小屋城主安中忠明が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かつての故郷越後国新発田より、近戸明神・米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。
 像は木造寄木造で、総高一.一五米、金箔半跏趺坐像で室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。
 なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。特に江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年~元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。
 参勤交代の為中山道を往来の諸大名も、下乗下馬(騎乗のまま通れば、仏罰より落馬するという)して参詣したと伝えられる。
 御利益は、除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。

                              上州原市八本木
                                延命地蔵尊奉讃会

(注)日本三大地蔵
 日本三大地蔵と呼ばれる者は各地にあるようで、現在一般的に言われているのは滋賀県の木之元地蔵、京都の壬生寺地蔵、徳島県の立江寺地蔵を三大地蔵と呼ぶことが多い由。


               
説  明
 八本木地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(剃った坊主頭)で体には袈裟と衣を着用し普通の僧侶の姿をしている。秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。
 様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。
                              安中市教育委員会

 また、境内には地蔵像と誤解されて涎掛けが奉納され、首にかけられていることが多いと言われる聖徳太子孝養像がある。手に墨壺を持った優品で、全高295cm(台石175cm、像高93cm)、立像で後ろ、上段には「天保六年歳次未冬11月、信州伊奈石工講中、満福寺現住俊澄代」と三行に記され、その一段下の左、右、後の三面に合計五十二名(内一名は名前の部分がかけて不明)の講中の氏名が刻まれている。

 このほか、境内右手には近くから寄せ集められたと推測される庚申塔ほかの石造物が約10基並んでおり、中には安中最古と目される庚申石祠もある。

500m毎?の道標

 地蔵尊から20分程の所に美事な石垣があり、「中山道 松井田宿3.4km 安中宿5.7km」の道標が建っている。
どうやら0.5km毎に建てられているようで、きょうは松井田宿泊まりの予定なので、大変励みになる。

八本木戸長役場跡(15:48)

 「八本木戸長役場跡」の標識を見つける。

日枝神社(16:03)・・・安中市郷原字北宮林2804

 その先右手に、参道を挟んで新しい石鳥居の村社「日枝神社」と「自性寺」が並んでいる。「日枝神社」は、古文書の絵図にも記載されているが創建年代は不祥で、現社殿は明治44年に再建されたものである。

               
日枝神社の沿革(注:摘記)
<創建・社殿>
日枝神社は旧号山王と称し、古文書の絵図にもその所在が明示されているが、創建の年代は不詳である。現在の社殿は明治四十四年に再建され、拝殿、向拝殿共十三坪六合余、総工費は、参道入口の朱塗りの鳥居(現在は白御影石製に再建され礎石のみ現存する)共、一金弐阡四百参拾弐円五拾五銭であった。尚他にも多くの住民のおてんま(伝馬)と云はれる労役の奉仕がなされた。
向拝殿には、享保五年(1720年)山王宮の掲額が有り、社務所東にある一対の庚申塔は、延宝八年(1680年)建立とあり、又参道奥の石製の鳥居は元文元年(1736年)氏子中寄進の銘がある。
<神楽殿>
社殿の真前にあり、くぐって参詣する様式は珍しい。
<御祭神>
主祭神は大山咋神で明治四十年代には神社統合により、村内の字諏訪西、白山神社(菊理比咩神)、字名山諏訪神社(建御名方神)、字大坂琵琶ノ窪諏訪神社(建御名方神)を合祀し、大正三年には社格が指定村社となり、日枝神社と呼称されるようになった。

自性寺

 また、隣にある「自性寺」は、新島襄の先祖の菩提寺で、渡米して英詩の和訳で知られた地元出身の磯貝雲峰の墓もある。街道のこの先右手に磯貝雲峰の旧宅跡がある。

妙義山

 道は緩やかな登り坂になり、この辺りから道の正面に夕日をバックにした独特の険しい表情の「妙義山」の姿がはっきり見えるようになり、相当内陸深い所に来たことを実感する。

(注)妙義山

 「妙義山」とは、白雲(1081m)・金洞(1104m)・金鶏(856m)の三山で象徴される「表妙義」と、谷急(1162m)・烏帽子岩(1105m)・赤岩岳・丁須の頭・御獄山等の山々で構成される「裏妙義」とを総称した呼び名である。
 奇勝奇岩石門群が形づくる奇勝裏妙義山には中木川をせき止めて造られた妙義湖があり、その少し上流には「国民宿舎裏妙義」がある。

道祖神・百番供養碑・磯貝雲峰旧宅跡

 路傍の右手に、安永3年(1774)造立の「道祖神」と「百番供養碑」が並んでいる。
 供養碑脇に「中山道 松井田宿2.9km 安中宿6.2km」の道標があり、愈々きょうのゴールが近づいてくる。

 右側の民家外壁に、先述の「磯貝雲峰旧宅跡」の標札があり、如何に地元で大切に扱われているかがわかる。

妙義道常夜燈・・・安中市郷原(国道18号線合流点)

 この常夜燈は、文化五年(1808)に、地元の碓氷郡郷原村(現安中市郷原)を中心とする「妙義講」の人々が、当時、原市村(現安中市原市)に仮住まいしていた「信州伊那郡手良郷野口村向山民吉」という石工に建立させたものである。

 常夜燈の露盤の四面と笠の正面には十六弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化五年戌辰四月七日」、西面に「当所講中」と刻まれている。

 また、台石には「是より妙義道」と刻まれており、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。切石積みの台座には、妙義講中六十七名と石工の名前が刻まれている。当時の妙義山への深い信仰心を示している。
 なお、元々この常夜燈はここから東へ50mの中山道から妙義道への入り口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。

逢坂・・・安中市郷原(国道18号線の北側)

 昔は、ここから少し歩くと国道左手に入る道があり、碓氷川沿いにあった「逢坂」と呼ばれた急坂があったが、今では地震や崖崩れで道が失われている。
 従って、今は300m位先の左への分岐に、「郷原村戸長役場跡」の標識が建っている所から左の旧道に入るが、昔は逢坂を登ってこの付近に出ていたらしい。その証拠が国道右手に残っている石碑群で、これらは「逢坂の神明」と呼ばれていた由。
 「明治天皇道」と呼ばれるこの道もやがて国道から分岐した県道33号線に合流し、900m位で松井田宿に入っていく。

松井田宿・・・安中市松井田町[上野国碓氷郡]

 松井田宿は、中山道第16宿で日本橋から31里34町40間(125.5km)、京へ103里33町20間の、上野国碓氷郡(現・安中市松井田町)にある。宿内の往還は全長6丁13間(約700m)で、人口は天保14年(1843)で1,009名、総家数252軒(うち通りに約150軒)、本陣2軒(問屋場兼)、脇本陣2軒、旅籠大5軒・中14軒・小6軒だった。

 江戸時代における宿場成立前から、「松井田の庄」として開けていた所で、戦国時代は関東の守りの最前線としての役割を担い、天文20年(1551)頃、安中越前守忠政が松井田城を築城した城下町である。
 ただ、この先には旅人泣かせの「横川関所」が控えていたので、『雨が降りゃこそ松井田泊まり、降らにゃ越します坂本へ』とも唄われ、天気がよいと素通りして行く旅人が多かったという。

 そんな関係から、信州各藩の城米を江戸へ送る中継地となっていて、「米宿」と呼ばれて繁栄した。また、妙義山への追分でもあるところから、妙義山詣での人々でも賑わった。毎月三と八のつく日に六斎市がたっていたという。
 宿の構成は、京側から上町・中町・下町と、全長6丁13間(約700m)の宿であった。宿内における街道幅は6間半(約12m)で、両側には堀があった。
 佇まいとしては、旅籠に見られた出梁の家が所々に残っており、「旧中山道の宿場町」の看板やパンフなどもあるようだが、宿場に関する標識や解説板は殆ど無い。

下の木戸・・・安中市松井田町松井田(下町信号を渡った左角)

 「中山道 松井田宿→」道標があり、宿の江戸側の入口にあたる「下木戸」があった辺りと言われている。宿場通りの始まりであり、高札場もあったらしい。

一日目のゴール

 17:05、本日の第一日目のゴール地点である「下町」交差点に着く。左折して坂を下ると、途中でジョギング中の男性が松井田駅への近道を教えてくれたので、近道して急坂・階段を登り、閑散とした駅の歩道橋を越えて、JR松井田駅近くにある今宵の宿「妙角旅館」に17:20に到着。
 宿泊客が我々4名のみだったことと、事前の村谷氏の手配りよろしきを得て、1~2Fの各個室に泊まれたのが有り難かった。