「中山道」を歩く

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  2009.11.09(月) 中山道第7回目-3日目 軽井沢宿~沓掛宿~追分宿~小田井宿~岩村田宿(佐久平駅)

スタート

 7:00a.m.からの朝食を済ませ、東海道ウォーク以来、久々の3日目となる今回の最終日をスタートする。
 「アパホテル軽井沢」を出、昨日のゴール地点「旧軽ロータリー(通算150.3km地点)」から、沓掛宿・追分宿・小田井宿・岩村田宿と歩いて、長野新幹線「佐久平駅」への街道最寄り地点となる「浅間病院西」(171.2km地点)までの20.9kmがきょうのネット街道距離である。

 考えてみれば、昨日が20.4km、一昨日が20.6kmだから、うまい具合に配分できたものだ。とは言っても、一昨日も昨日も泊まった所は街道から1.5km位は充分離れており、スタートの高崎駅やきょうの佐久平駅との連絡距離、更には随所での旧跡等立ち寄り距離を含めると結構な距離にはなるが、幸いにして昨日の碓氷峠越えの疲れもまずは無く、元気に最終日をスタートできて、ありがたい限りである。

離山

 旧軽ロータリーに向かう道は、地域住民達(殆どが主婦の人達)が総出で街頭の落ち葉掃除をして街路の美化にあたっている。流石は観光地だと感心しながら旧軽ロータリーに戻って、左折する。

 木々の生い茂った早朝の別荘地帯を行くが、左手の「東部小学校」を過ぎた先で、右手に「離山登山道入口」がある。
 この離山は、浅間山の寄生火山で、軽井沢と沓掛を分けているそうだが、皇女和宮の降嫁の際には、縁担ぎから一時的に「子持ち山」と改名された由である。このような縁担ぎは和宮降嫁に際していっぱいあるらしく、この先向かう「追分宿」も皇女ご通行時には「相生宿」と一時的に改名されている。東海道を選ばず、中山道を通った理由の一つが、東海道筋には縁起の良くない地名が中山道より多かったからだとか言う説もあるそうだが、果たして具体的にどこの何がそうなのか迄は知るよしもない。

市村記念館(旧近衛邸)・・・長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2112-21・・・歴史民俗資料館の分館

 しなの鉄道や長野新幹線にぶつかる手前で線路沿いに進むと、右手にある。
 この記念館は、大正時代に洋風住宅建築会社『あめりか屋』によって建てられた大正初期のアメリカ式洋館(木造2階建)で、

・ 大正15年に近衛文麿が軽井沢第1号別荘として野沢源次郎から購入、
・ 明治24年東長倉村開墾事業により明治政府最初の藍綬褒賞を受賞した天宮敬次郎の甥である市村今朝蔵(元早稲田大学教授・政治学者、1898~1950)・きよじ(1901~1994)夫妻が、前々から考えていた学者村(南原文化会)を拓くための拠点として、昭和7年にこの由緒ある別荘を購入、
・ 翌昭和8年に南原に移築されて、南原開発の活動拠点となり
・ 平成9年12月に現在の場所、雨宮池の東端に移築復元され、別荘所有者である故市村きよじ氏の意思をついた遺族が、「昭和期の軽井沢の別荘生活の再現資料として保存し活用願いたい」という主旨で、建物及び当時の多くの資料を軽井沢町に寄贈

されたもので、南原の別荘地としての開発に尽力した市村今朝蔵とその夫人で名誉町民となった市村きよじの資料をはじめ、雨宮敬次郎、近衛文麿の資料が展示されている。
 きょう月曜日が休館日に当たっており、残念ながら入館できない。

失われた旧道

 本来の旧中山道は「市村記念館」の前から「しなの鉄道」「長野新幹線」の踏切を渡って線路の南側に出るのだが、現在は道が無くなっているため、約300m先の「軽井沢中学校」前の信号を左折して踏切を渡り、すぐ右折する道を行く。

 しばらく道なりに行き、「湯川」に架かる「前沢橋」を渡った先で右折する。ここでも、元々の旧道は「中軽井沢駅」の先で、「しなの鉄道」を越えて右の国道に出るのだが、宿の移転(講述)により、駅より手前のガードを潜って右手の国道18号線に再び合流して左折していくことになる。
 その先で18号線から左折すれば「中軽井沢駅」へ行ける。

宮之前一里塚(9:13)・・・長野県軽井沢町長倉(中軽井沢駅の南側)

 「前沢橋」を渡った先左手に、日本橋から38番目の「宮之前一里塚」碑がひっそり建っている。古い墓石のように部分的に白くなった自然石に「宮之前一里塚」と刻まれている。

 当初の街道は、この一里塚の先へと延びていたが、安永2年(1773)の大火で宿ごと北側に移されたため、旧々中山道はこの先で消滅している。前沢橋方向へ戻って左折し、川の右岸側の道を「しなの鉄道」ガードを潜って国道18号に出る。

長倉神社・沓掛時次郎碑(9:18)・・・長野県軽井沢町長倉(街道から北へ150m)

 国道に出ると、ここから左方向が「沓掛宿」だが、立ち寄りのため国道を横断・直進し、天長年間(823~834年)創建と言われる縁起式内「長倉神社」に立ち寄る。本殿は江戸時代の建築という。

               
延喜式内 長倉神社
一、祭神 誉田別尊 息長足姫尊 玉依姫尊
二、由緒 天長年間(注:824~834)當地方開発 當初守護神トシテ奉祭爾来一千七百有余年長倉郷一帯の鎮守産土神トシテ崇敬セラル 中世長倉神社八幡宮トモ奉稱セリ 長倉ノ駅長長倉ノ牧ト共ニ延喜式神明帳記載ノ神社ナリト云ヒ傅フ 現在氏子五百有余名
三、祭日 (略)


 70余種の樹木が繁る広い境内を有し、社殿左後方には、芝居などで有名な沓掛時次郎の碑がある。長谷川伸の筆によって生み出された人物だが、講談・浪曲・芝居などで幼少の頃からのお馴染みであり、この懐かしい「沓掛」の文字も今や容易には拝めない時代になってしまった。

               
沓掛時次郎の碑
   千両万両枉(ま)げない意地も 人情絡めば弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛時次郎
                              長谷川伸 書
 流行歌の一節が書かれている。剣をとっては滅法強いが義理と人情にはからきし弱い。男沓掛時次郎は、中仙道筋の古い宿場、火の山浅間に抱かれた「くつかけ」を背景に長谷川伸(1884~1963)の筆によって生み出された架空の人物である。
 「沓掛」が「中軽井沢」という名に変わったが、沓掛宿をしのぶよすがとなろう。
 高さ三メートルの自然石に、長谷川伸氏の筆を刻んだもので背後に浅間三筋の煙がながめられる。かたわらの湯川の清流に時の流れが感ぜられる。
 昭和二十八年五月に当時の沓掛商工会が中心となって建立されたものである。

沓掛宿・・・長野県北佐久郡軽井沢町長倉(信濃国佐久郡)

 ここは、碓氷峠を控えた軽井沢宿と、善光寺街道の分岐点で賑わった追分宿に挟まれ、それほど目立つ宿では無かったようだが、草津道の起点として、草津温泉往来の湯治客で賑わったようだ。

 中山道第19宿の「沓掛宿」は、日本橋から37里34町47間(149.1km)、京へ97里33町13間(次の追分宿まで4.3km)である。天保14年(1843)で人口502名(男244人 女258人)、家数166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒だったが、元々、江戸時代初期には現在の鉄道の南側に宿が位置していたのを、安永2年(1773)の大火により、140軒のうち104軒が焼失し全滅した。新しい宿造りのため737両2分の拝借金を10年年賦で借り入れ、宿全体を北側に移したという経緯がある。新設の宿は中央部に用水路があり、宿の長さは5町68間(668m)である。

 明治8年(1875)年に借宿村と合併して「長倉村」となり、同22年(1889)に軽井沢村・峠町等と合併して「東長倉村」となったが、軽井沢が避暑地として有名になったため、大正12年(1923)年の町制施行を機に「軽井沢町」と改称した。
 昭和26年(1951)の大火で町の殆どを焼失したため、往時の宿の佇まいは殆ど残っていない。昭和31年(1956)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に、地名も「中軽井沢」と改称し、以後は別荘地や避暑地として発展している。

 因みに、「沓掛」は元々は草鞋を履き替える場所の意で、人間のみならず往時は馬も履き替えたそうだが、自分の場合は、沓掛=沓掛時次郎という連想になってしまう。

脇本陣「桝屋」跡・・・長野県軽井沢町長倉(中軽井沢駅前)

 長倉神社から国道18号に戻り、中軽井沢駅入口交差点方向へ進む。この旧宿場通りは、前述の移転後の宿場通りということになる。
 左手に、「脇本陣満寿屋清兵衛」の看板がある現役旅館があるが、3軒あった「脇本陣跡」の一つである。

中軽井沢交差点

 左折すれば「中軽井沢駅」に行く左手前角に、「時次郎まんじゅう」を打っている和菓子店があり、その駅よりの隣に、沓掛宿の旅籠鍵本屋が明治初期にそば屋に転業したという有名な老舗の「かぎもとや」が信州そば屋として営業している。

脇本陣「蔦屋」跡・・・長野県軽井沢町長倉(「中軽井沢西」交差点の南東)

 「中軽駅入口」交差点先の左手にある八十二銀行の駐車場に「脇本陣蔦屋跡碑」が建っている。

本陣「土屋」跡・・・長野県軽井沢町中軽井沢10

 道路の反対側に「本陣土屋」という表札を掲げた家がある。皇女和宮が一泊した「沓掛宿本陣」である。小宿のため布団は草津温泉から借用したそうだが、運ぶのも大変だったことと想像される。

 土屋家は問屋も兼務し、建坪259坪、門構え玄関付、裏手の蔵には「本」の文字が刻まれ、本陣跡の面影を留めている。
 小宿のため布団は草津温泉から借用したそうだ。
 ここら辺り迄が沓掛宿の中心だが,昭和26年の大火で宿場の風情を伝えるものは何も無い殺風景な町並みである。

草津道道標・・・長野県軽井沢町中軽井沢7(上田信金の向かい)

 その先の三叉路の右手前角に「草津道」の道標がある。側面には「右くさつへ」とある。浅間山中腹の峰の茶屋を経て草津温泉へ10里の道のりだとか。宿場はここら辺りまでである。

古宿(ふるじゅく)

 <中軽井沢西>で国道を右に分け左手の道に入って行く。登り坂になっている。約1km程の間に佐久地方最古の村落だったとされる「古宿」がある。夫婦道祖神・十三夜供養塔・野仏などが点在するのどかな街道である。

 古宿の集落を過ぎて国道に合流するが、200m先でまた左側の細い道を進む。

〈立場〉借宿(かりやど)と馬頭観音碑

 沓掛宿と追分宿の中間で、「女街道」との分岐点にあたる。往時は立場、茶屋、穀屋、造酒屋などがあり、賑わっていた由。旧家が二軒、かなり年数の経った杉玉を吊るした元(?)酒造家と千本格子の旧家がある。

 この古宿や借宿は、信州と上州を結ぶ物資輸送の中継点で、馬と共に生きてきた関係上、借宿には沢山の馬頭観音があり、特にここは立派である。源頼朝が巻狩りの際泊まった地でもあるという。

女街道分岐点(10:14)・・・長野県軽井沢町長倉

 「女街道入口」という解説板が左手にある。江戸時代、「入り鉄砲」に「出女」は特に厳重に取締まられていた。このため、取り締りが厳しい碓井峠を避け、入山峠を越える脇街道。左へ直角に入って行く道が「女街道」である。

               
女街道入口
 江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義を持っていたので女人の出入は厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
 この街道はこれより本街道と分れ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵ヶ原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
  「関所さけて 女人が多く 往来せし 女街道と いふは寂しも」


遠近宮(おちこちぐう・遠近神社)(10:18)・・・長野県軽井沢町長倉

 赤い両部鳥居の奥の社殿前にもう一つ鳥居があり、古い荒れた感じの赤屋根の社殿がある。神社の森には70余種の樹木があるそうだ。また、遠近の名の由来だが、浅間山一帯は七つほどの谷地形になっているそうで、その谷ごとに人家があって広い範囲に点在していたため、「遠近の里」と言われたという。

               
遠近宮由緒
一、祭神 磐長姫命
一、創立年代不詳なれど古来より当地区の鎮守産土の神として崇敬せらる 現存の棟札によると享保年間(注:1716~36)には社殿鳥居等整備せられたことがわかるが それより遙かに古く当借間地方開発の当初守護神として奉祀せられたものである
  信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん
という在原業平作の有名な歌によって遠近宮と奉稱せられたものと思ふ 祭神磐長姫命は浅間山の守り神であって富士山の木の花咲耶姫命の御姉神にあたる長寿健康の守り神であり 又特に安産の守護神としての御神徳髙く遠近よりの祈願参拝者が多い
一、祭日 (略)
               昭和五十五年四月廿七日    宮司水沢邦暠

標高1003m(10:44)

 街道右手に「標高1003m Above Sea Level」の看板を見る。結構下ったり登ったりと予想外に傾斜がある。

追分一里塚(10:47)・・・長野県軽井沢町追分

 借宿を過ぎ、国道18号線に合流し、右手にある道標「従是左上州」、「追分」交差点、「標高1003m」標等の先に、街道左・右に高原の木コブシが自生する塚「追分一里塚」がある。日本橋から39番目の一里塚で、「江戸へ三十九里、京へ九十一里十四町」と記されている。

               
史跡追分一里塚
 慶長九年徳川家康の命により江戸を起点とし、主要街道に一里ごとに塚を築造させた。この中仙道には一里ごとに街道の左右に塚がつくられ旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。
 今は此の街道の塚が大部分崩壊してしまったが、この追分一里塚はよくその原形を保って当時をしのぶことのできる貴重なものである。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会

 ここは国道18号線の最高地点に当たり、旧中山道は、その先で斜め右の細い道に入っていく。すると、やがて「追分宿」である。

浅間(あさま)神社(10:52)・・・長野県軽井沢町追分

 「御影用水」が前を流れる「追分公園」になっており、左奥に「追分郷土資料館」、右奥に「浅間神社」があり、公園内に「芭蕉句碑」と「追分発祥の地碑」、資料館の横に大きな「馬頭観音碑」がある。
 道筋に常夜燈が置かれており、神社と共に宿入口の典型的存在となっている。

<御影用水>

 
この川は御影用水といって下流の佐久平の用水路として作られたものです。(以下略)

 江戸時代、小諸市の東南に位置する御影・一つ谷・谷原地区に新田を開発するため、中軽井沢の千ケ滝と千曲川支流湯川の2カ所から引かれた用水路である。その任に当たったのが武田家臣団の一員で地方郷士の立場にあった柏木小衛門。徳川政権下では武士として取上げては貰えない時代となり、それならと農民として生きていくことを決意し同輩らと浅間の麓から3年の歳月をかけて水を引き、新田(御影新田と呼ばれる)を開発したという。現在、千ケ滝からの取水量は6t/分。

              
 浅間(あさま)神社
 本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で、大山祇神と磐長姫神の二神が祀られている。明治二年五月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年九月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。
 境内にある「ふきとばす石も浅間の野分けかな」の芭蕉句碑は寛政五年(1793年)春秋庵二世長翠の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分吹くころの風情がしのばれる。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


               
浅間神社本殿
 当社は、流造で、海老虹梁、宝珠の彫が大変良く、木鼻(象鼻)の出張りも応永様式(1394~1427)の室町時代初期の様相をよく残している。懸魚のさがりに六葉が付いていて室町時代のものである。
 南北佐久郡内では、臼田町の新海神社東本殿に次いで古い建築の神社で、町内最古である。

               芭蕉句碑
 この句碑は、大自然石に雄揮な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、芭蕉の百年忌にあたる寛政5年に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたものといわれています。
     吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉

               追分節発祥の地碑
 江戸時代、主要道路の一つ中山道を利用した旅人は、難所である碓氷峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事歌として「馬子唄」を唄いつづけてきた。この元歌は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛女たちの三味線により洗練され、追分節として成立した。馬子唄に三味線の手が入り、座敷歌になったことより。諸国に広く伝播され有名になったものである。追分、浅間神社に平成7年、石碑建立実行委員会により建てられる。


追分郷土資料館

 浅間神社の東隣にあるが、入館料400円とのことで、パスした。ここでは、「追分節」が聴けるのと、追分の語源になった「分去れ」付近の古い写真が見られるそうだ。

堀辰雄文学記念館(10:59)

 その先の「昇進川」を越えた左手にあるが、ここも入館料400円とのことで、格別の興味もないのでパスする。
 堀辰雄は、大正末から昭和初期にかけて30年余をここで過ごしたそうだが、彼の作品にはあまり縁がなかったことに気づく。

 堀辰雄は、大正12年(1923)室生犀星に伴われて追分を訪れて豊かな自然に魅せられ、以来毎年のようにこの地を訪れ、「ルウベンスの偽画」「聖家族」「菜穂子」「美しい村」「風立ちぬ」「大和路・信濃路」「曠野」など数々の名作を生み出している。昭和19年から追分に定住し昭和28年に没したが、敷地内には終焉となった家・書庫・辰雄没後夫人が建てた家(常設展示棟)を見ることができる由。

 また、この暫く先の右手にある泉洞寺に、堀辰雄が愛した「半跏思惟の石仏」がある。

追分宿本陣門(裏門)(10:59)

 「堀辰雄文学記念館」の看板の奥に移築された「追分宿本陣門(裏門)」と次のような解説板がある。

              
 追分宿本陣門(裏門)
<本陣>
 追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門が世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長七年(1602年)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に「定路次駄賃之覚(慶長7年6月10日)」の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。

<本陣門の移築>
 明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の門として役目を果たして来た。
 内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史遺産である事をご理解され、平成17年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。

<軽井沢町の歴史的建造物『本陣「門」』>
 軽井沢3宿の内、本陣の以降を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、中山道に面したこの地に本陣「門」を移築する。

<門の構造(追分宿郷土館に展示)>
 材料は全て欅材 一間冠木付き門・切妻造(棧瓦葺)・妻蟇股・二軒繁垂木・背面控柱。
棟札:維持 天保二 辛卯中秋二十四日・大工 越後国 片桐伴と明記され建築年と大工の棟梁名が分かる。

<本陣の見取り図 棟札>
 (略)
                              軽井沢町教育委員会


脇本陣(油屋旅館)(11:00)・・・長野県軽井沢町追分

 その先右手に「油屋旅館」がある。脇本陣だった油屋は、本陣と同じ構えで建坪239坪、旅籠が次々と姿を消して最後まで残っていた油屋も昭和12年(1937)の火災で豪壮な宿場造りの建物が焼失した。その対面に油屋の小川誠一郎氏が再建したのが今ある「旅館油屋」である。

 堀辰雄は昭和9年から油屋旅館で文筆活動を開始している。明治の文豪川端康成や堀辰雄らが愛した宿として有名だったが、これを慕って、立原道造、佐多稲子なども集った由。

土屋本陣跡(11:01)・・・長野県軽井沢町追分

 先述の通り土屋家が務め問屋業務と共に世襲し、貫目改所も設けられていた。建坪350坪で、加賀の前田家をはじめ、多くの大名が休泊し、 また、明治11年(1878)には明治天皇の行在所となっており、大きな石碑が建っている。
 岩倉具視・大隈重信・山岡鉄舟なども宿泊している。今は碑が建つのみで、代々引き継がれた古文書は、軽井沢町資料館に保存されている。

追分宿・・・長野県軽井沢町追分[信濃国佐久郡]

 歴史的には、古代東山道の道筋であったと考えられており、慶長7年(1602)に近世の宿場として成立した。宿の東入口にある「浅間(あさま)神社」前の歌い坂・泣き坂・笑い坂と呼ばれる坂を下り、自然の桝形をなす沢を渡って宿に入る追分宿は、標高980m~1000mに位置し、中山道では一番高い所にある宿場町である。
 その名が示す如く、越後へ通じる北国街道との追分で、交通の要所として幕府も重視した。元禄13年(1700)の記録では、飯盛女が200人いたとされ、歓楽地として賑わう宿場だったようだ。
 国道から離れているため、古い町並みが比較的よく保存されている。

 中山道第20宿目のこの追分宿は、江戸から39里21町14間(153.4km)、京へ96里30町13間で、次の小田井宿まで5.0km の所にあり、天保14年(1843)で人口712人(男263人・女449人)、家数103軒、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒、問屋1で、宿の町並みは5町42間である。男女比率では女が63%を占めている。

高札場跡(11:02)・・・長野県軽井沢町追分

 本陣跡に復元された「高札場」があり、現代語訳も添えられている。

               
追分宿高札場
 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を印、高くかかげた板札を高札という。
 寛永十年(1633)の古文書によると、広さ九尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は五寸角のものを使用し、駒よせ柱は四寸角で、高さ六尺の規模であった。
 昭和五十八年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
 ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会

               定(さだめ)
一、 毒薬ならびに似せ薬種売買の事禁制す。若し違犯の者あらば其罪重かるべし。たとい同類というとも申し出るにおいては其罪を許され急度御褒美下さるべき事。
一、 似せ金銀売買一切停止す。若し似せ金銀あらば金座銀座へつかわし相改むべし。はづしの金銀も是又金座銀座へつかわし相改むべき事。
附-
 惣じて似せ物すべからざる事。
一、寛永の新銭金子壱両に四貫文、壱歩にし壱貫文たるべし。御料私料共に年貢収納等にも御定めのごとくたるべき事。
一、新作のたしかならざる書物売買すべからざる事。
一、諸職人いい合わせ、作料・手間賃など高直にすべからず。諸商売物或いは一所に買い置き、しめうり(占売り)し、或はいい合せて高直にすべからざる事。
一、何事によらず誓約をなし徒党を結ぶべからざる事。

右条々可相守之・若し於相背は可皮行罪科者也。
               正徳元年五月日
                              奉 行

               農商へ布告
此度東山道鎮撫総督ノ勅命ヲ蒙リ発向ノ次第ハセンダッテ朝廷ヨリ御触モアラセラレ候通ニ候へ共遠國偏土ニ至テハ自然行キ届キカネ候ヤモ計リ難キニ付尚又諸國ノ情実ヲ問イ万民塗炭ノ苦ヲ救イナサレ度キ叡慮ニ候間各々安堵シ渡世致スベク候
尤モ是迠天領ト稱シ来リ候徳川支配地ハ勿論諸藩領分ニ至ル迠、年来苛政ニ苦シミ罷リアリ其外子細コレアル輩ハ遠慮ナク本陣ヘ訴エ出ズベシ。
僉議ノ上公平ノ処置ニ及ビ候間心得違コレナキヨウ致スベク候事
               戊辰正月           東山道鎮撫總督
                               同  副總督


浅間山登山道(11:02)

 すぐ先右手に「浅間山道路弟一指石」(注:弟は第の誤り?)と刻まれた石標や、標高2,568mの浅間山への「登山の注意」を細々と記した掲示板がある。それによれば、浅間山登山は認められず、河口から4km以内は立入禁止、石尊山頂(注)迄の登山は認められるとか、登山者カードについてなど、細かな注意事項が記されている。

(注)浅間山の南麓にある標高1,678mの山で、南から見ると大きな浅間山の山容にまぎれて目立たないが、山頂から見る浅間山や麓の眺望が素晴らしい山。

泉洞寺(11:06)・・・長野県軽井沢町追分1259

 右手「諏訪神社」の先にある。「浅間山香華院泉洞寺」と号する曹洞宗の禅寺である。1598(慶長3)年3月に上州は常林寺(群馬県長野原町)の五世心庵宗祥禅師により開創された。境内には女流書家稲垣黄鶴句碑と筆塚がある。詩人の立原道造、作家の堀辰雄等も境内を散策したという。
 堀辰雄がこよなく愛したという石仏「半伽思惟像」が本堂横奥の墓地中程にあるそうだが、参拝・見学共にパス。
 村人には歯痛の神様として信仰されているという。
 門前には「御影用水路」に清冽な流れが見られる。

桝形茶屋「つがるや」(11:08)・・・長野県軽井沢町追分

 追分宿西出口は桝形となっている。桝形とは入口に直角に曲がった道と土手を築いて宿の警備に備えたもの。この手前に漆喰壁に「つがるや」と「桝形」の浮彫が施されている。

               
史跡追分枡形の茶屋
 寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約二・五メートル)を築いて宿内の警備取締りをした。
 今、その面影を見ることはできないが当時枡形の敷地内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


分か去れ(11:10)・・・長野県軽井沢町追分

 宿のはずれにある「つがるや」の所で一旦国道18号線に出るが、200m程先に北国街道との分岐点があり、中山道は、「旧中山道」の標識に従って左の細い道に入っていく。

 道しるべには「右 従是北国海道 左従是中仙道」と刻まれている。7基の石造物、寛政元年の常夜灯、森羅亭万象(平賀源内)の狂歌碑、子育て地蔵、元禄六年の勢至菩薩、安永三年の馬頭観音、寛政四年の廻国塔などがある。

               
史跡追分宿の分去れ
 中山道と北国街道の分岐点である。
 「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」
とうたわれているように、ここを右すれば北国街道月の名所の更科や越後路に、左すれば桜の名所吉野や関西方面に分れたところである。ここに幾多の旅人がさまざまな感慨をこめて左右に袂を分かったことであろう
 安置された石仏、石碑、石燈籠等に昔がしのばれる。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会

               分去れの道標(わかされのみちしるべ)
  [右、従是北国街道 左、従是中仙道]
 中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
 右は北国街道姥捨山の「田毎の月」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。
                              軽井沢町教育委員会
                              軽井沢町文化財審議委員会


ミニ中山道(11:14)

 入った三角地に江戸から京都までのミニ中山道が作られており、その中央に「中山道69次資料館」がある。中山道の全ての「宿」について沢山の史料が展示されているそうだが時間もかかりそうだし・・・ということで入館せず、館外のミニ中山道を一周するにとどめた。展示が充実しているらしいので宿場情報を得るにはお薦めと言えよう。
 ここから塩名田宿まで、街道は下り坂が続く。

昼食(11:25~11:55)

 その先で、街道の右手の国道に出て、食事処を探すと、折良く「浅間サンライン入口」信号の先右手に手打ち信州蕎麦の店「きこり」があったので入手し、舌鼓を打つ。


御代田(みよた)・・・長野県御代田町御代田

 街道に戻って一路進む。明治8年(1875)に、小田井・前田原・児玉(児玉新田)・池田新田という4つの田の付く村の四田を、明治の御代(みよ)に因んで「御代田村」とした。

大山神社(12:32)

 久保沢川を越えた先右手にあり、暫く歩きが続いていたこともあって立ち寄り、参拝する。

御代田(大久保)一里塚(12:38)・・・長野県御代田町御代田(街道から右手に離れた民家の裏手の畑の中)

 その先右手に入った所にある。日本橋から41番目の一里塚であるが、中山道の改修で街道筋から取り残された。つまり、道筋が少しばかり左手に付け替えられたのである。
 北西の塚には珍しく枝垂桜の古木があるが、南東の塚は民家の敷地内にあり、何も植えられていない。

               
長野県史跡 御代田一里塚
 中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。
 中山道は江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1602年)に整備され、寛永十二年(1635年)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径十三m、周囲四十m、高さ五mを測る。隣接するのは東塚で径十三m、周囲四十m、高さ四・五mを測る。
 これらは現中山道より七m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道十八号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。
               昭和三十九年八月二十日
                              長野県教育委員会 指定


龍神の杜公園(12:43)

 その先の「御代田駅」近くの線路を地下道で潜ると、左斜め先に「龍神の杜公園」があり、トイレも備わっている。園内の「龍神の館」には祭り用の龍が保管されている。

               
龍神まつり
 真楽寺の大沼池の「甲賀三郎伝説」を発展させた龍神まつりは、昭和57年から始まり、毎年7月の最終土曜日に行なわれる。
 町の観光行事の目玉になるものを作りたいという、当時の観光協会と青年団連絡協議会の青年たちが考え出した祭り。
 龍神は、体長が45m、太い所の胴回り約3.3m、担ぎ手50人で日本一大きな龍と言われている。
 まつりは、真楽寺の『龍神開眼式』から始まり、爆竹や太鼓の音が響きわたると、とぐろを巻いていた龍神が1年間の眠りから目覚め、龍神の舞を始める。

               甲賀三郎伝説
 むかし、『甲賀太郎、次郎、三郎』の3人の兄弟がいた。
 末弟の三郎は頼もしい若者であったので兄たちより先に美しい妻を迎えて幸せに暮らしていた。二人の兄は三郎を羨み、三郎の妻を横取りしようと企み、三郎を誘って蓼科山に登った。紫煙のかすみに立ち昇る深い穴ほとりに三郎を導き、穴の底には宝物がいっぱいあると偽り、三郎を籠に乗せ穴の中に降ろした。二人は頃合いを見はからって綱を切ったので三郎は地底深く転落してしまった。正気を取り戻した三郎は地下の世界をさまよい歩いた。そして、地下のある家の娘の危難を救ったことが縁となって、その家の婿養子となり、子どもまで生まれたが、地上の我が家が恋しくなって憂いに沈む日が続いた。
 妻が心配して事情を尋ねたところ、望郷の思いに苦悶していることを打ち明けた。妻は別離を悲しんだが、夫の心情を察して旅装を整えた。
 三郎は困難な旅を続けた末、ある日子どもたちの声を聞いて懐かしい地上へ頭を出した。そこは浅間山の麓、真楽寺の大沼池のほとりであった。池のほとりにいた人々の驚き、おののく様子に三郎は池の水に自分の姿を映してみて自分でも驚いた。
 いつの間にか自分の姿が龍になっているではないか。
 悲歎のあまりふるさとの妻の名を呼んだ。すると、蓼科山の彼方の諏訪湖の方から妻の返事が返ってきた。三郎の妻も三郎を探し求め、諏訪湖に身を投じて龍となっていたのである。三郎は喜び勇んで諏訪湖に行き、妻とめぐり逢って湖の中で仲睦まじく暮らした。
 それから二人は諏訪湖の守神となって人々から「お諏訪さん」として祭られ、現在でも御代田町の人々を暖かく見守っているそうな。

小田井(オタイ)宿入口(13:09)

 御代田駅入口から20分程で、江戸側の「中山道小田井宿跡入口」の木柱と「塩名田10.0km」の標識のある交差点に到着する。

 慶長七年(江戸時代前夜1602年)に中山道が整備された。小田井宿は、その六十九次のうち日本橋から数えて二十二次、江戸から四十里十四丁の距離にある。軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、婦女子が多く泊まったことから別名を「姫の宿」ともいう。本陣、問屋、旅籠等の建物が現在残っている。

小田井宿(13:11)・・・長野県佐久郡御代田町

 当地は、戦国期には小田井又六郎兄弟の支配下にあったが、天正18年(1590)からは小諸藩仙石氏の領地となった。 慶長7年(1602)に周辺諸村から集められた26戸をもとに「小田井宿」が形成された。
 天和2年(1682)からは幕府領、宝永元年(1704)からは岩村田藩内藤氏の領地になった。文政5年(1822)以後は飯盛女が置かれたが天保2年(1831)には廃止されている。追分宿が飯盛女を多数抱える歓楽地だったことから、大名の夫人や姫君はここで宿をとり、「姫の宿」とも呼ばれていた。

 中山道第21宿の小田井宿は、日本橋から40里11町47間(158.4km)、京へ95里20町13間、次の岩村田宿迄は4.7kmに位置し、天保14年(1843)の人口は319名、総家数107軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒という小さな宿だった。
               
               
中山道 小田井宿
 小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東・西の入り口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁盛期であった文化・文政期には、文政五年(1822)で一九九戸・人口五二四人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場であったようです。町並みは寛延元年(1748)で七町二十三間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が残され、それにちなんで八月十六日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。
                              御代田町西軽井沢観光協会


本陣跡(安川家)(13:13)・・・長野県御代田町<右側>

 街道右手にある。代々安川家が務め、皇女和宮も宿泊している。町指定史跡

               
町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良好に残している。
 客室部は切妻造で、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは原型をよく留めており、安川家文書で宝暦六年(江戸時代1756年)に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる(長野県史編纂時の調査による)。また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861年)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は、大用所・小用所ともに二畳の畳敷となっている。
               昭和五十三年六月一日
                              御代田町教育委員会


■高札場跡に建つ小田井宿解説板(13:14)

すぐ先右手に次のような解説板が建っている。

               
町指定史跡 中山道小田井宿跡
 小田井宿は、中山道六九次の宿場の一つで、板橋宿から数えて二一番目、追分宿と岩村田宿の間に位置し、日本橋からは四〇里三一町(約一六〇キロ)の距離にあった。皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから「姫の宿」ともよばれた。
 天正一六年(1588)三月「小田井宿町割諸事之控(注:原文は扌に口)」によればこのとき町割りがおこなわれ、その家数は二六だったというから、このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、慶長七年(1601)には各宿間の「駄賃」などが定められているので、このころまでには宿場としての形態を整えたものとおもわれる。
 「中山道宿村大概帳」によりば、天保一四年(1843)には、一〇九軒の家があり、三一九人が住んでおり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、問屋場二か所などがあった。
 小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治三年(1870)だが、その遺構は現在も随所に残されている。
 現在地は高札場跡である。
               昭和五十三年六月一日
                              御代田町教育委員会指定

下の問屋跡(13:14)・・・長野県御代田町<右側>

 そのすぐ先に、木造二階建の千本格子の旧家安川家があり、前に「町指定史跡 中山道小田井宿 問屋跡(安川家住宅)」の木標が建っている。側面には、「江戸後期(享保・文化の頃)もの。切妻造りで、屋根はえ板葺。天保二年(1831年)道中奉行に差出した図面とほぼ変わりない旧状を呈し、荷置場・帳場・客室部・廐・土間などがよく保存されている。」と記されている。

脇本陣跡(13:15)・・・長野県御代田町<左側>

 尾台又左衛門が務めたが、建物は現存しておらず、民家の庭先に目標のみが建っている。「町指定史跡 中山道小田井宿 脇本陣跡」とある。

上の問屋跡(13:17)・・・長野県御代田町<左側>

 その先には、やはり木標で「町指定史跡 中山道小田井宿 問屋跡(尾台家住宅)」が旧家の前に建っており、側面には「明和九年(江戸時代1772)の大火以降のもの。切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室をそなえた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用した。」とある。

(参考)皎月ヶ原(こうげつがはら)・・・長野県佐久市小田井

 「小田井南」信号で右後方からの県道9号線に合流した右手にある。

 この皎月ヶ原には、6世紀にこの地に流されてきた皎月という官女が野原を散歩していると白い馬が現れ、官女を乗せて空を駆け回ったという伝説があるという。芝に輪乗りをしたような跡(皎月の輪)があって、草が生えないと言われ、ここで馬術を習得した押兼団右衛門の「皎月歌碑」が皎月ヶ原の奥に建っているそうだが、立ち寄りは略した。

 
皎月原は旧中山道沿い、小田井宿と岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は「吾は唯人ではない。白山大権現だ」と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶようになったと伝えられている。
 只「村上家伝」の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。


<胶月歌碑>旧跡

 享保七年(1723)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人が、当時の小田井本陣主安川庄右衛門に送った文書「夢想皎月記」の中に見られる。
 この古歌を昭和十年当時の御代田村が浅井洌氏に揮毫を依頼して建立したのがこの歌碑である。

鵜縄沢端(うなざわばた)一里塚(13:36)・・・佐久市岩村田(「桃の里横根入口」交差点の左の標識から少し上った所)

 日本橋から42番目の一里塚。中山道改修で街道筋から取り残された東塚が残っている。
「← 桃の里」の看板が出ている交差点を渡った左角の林に一里塚の説明板がある。
 手前には「中部北陸自然歩道」の案内板があり、左「小田井宿を経て追分7.4km」、右「岩村田を経て塩名田7.9km」と書かれていた。

               
市文化財 旧蹟 鵜縄沢端一里塚
 この一里塚は慶長年間(1596~1614)中山道開通の当初に設置されたものである。その後道路改修によって街道からはづれてしまったが両塚の間の道路は中仙道の旧い道筋を示すもので貴重なものである。
               平成二年三月三十一日
                              佐久市教育委員会

住吉神社(13:53)(左手)・・・佐久市岩村田

 古びた鳥居の脇に、樹齢400年というケヤキの木があるが、幹は空洞で、「住吉の祠」と言われている。境内には「双体道祖神」など多数の石碑があり、善光寺道標も移転・保存されている。

従是善光寺道碑(13:55)(右手)

 住吉神社を過ぎた右側に大きな「従是善光寺道」の大きな石柱が立っている。これは平成8年に建立されたもので、古いものは住吉神社に移転されている。

(参考)龍雲寺(左奥)

 帰途列車発車時刻との関係で立ち寄りは割愛したが、「岩村田本町」交差点の先左手の奥にある曹洞宗の寺院で、武田信玄の遺骨が出土している由。
 正和元年(1312)大井美作守入道玄慶の開創。大井氏の滅亡後も武田信玄の帰依が厚く、寺領を寄進し堂宇を再興、更に越後雲洞院から北高禅師を招いて住職とした。天正元年(1573)4月12日信玄が駒場で病死した際、遺命で喪を秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り密かに埋葬したという。昭和6年骨壺が発見され、中から骨と島田助宋作の短刀、「大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝」と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された。

 
当寺院は鎌倉時代の初め、地頭天井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが。その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地に移った。
 時あたかも甲斐国主・武田信玄が、信州の経略が一段落した永禄三年(1560)中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。
一、 信玄公の遺骸が霊廟に安置されている。(昭和六年五月二十九日境内にて遺骨発見)
一、 武田家三代(信虎・信玄・勝頼公)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。(長野県史跡)
一、 正親町(おおきまち)天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
一、 信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠もって行われる宗教上的大行事)を元亀三年四月から七月にかけて執行した。
一、 武田文書を中心に、三十八通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。

(参考)西念寺(右手奥)・・・佐久市岩村田

 龍雲寺から400m程行った先を右に入った右手にあるが、龍雲寺同様に途列車発車時刻との関係で立ち寄りは割愛した。
 西念寺は龍雲寺と同じく由緒ある厳かな雰囲気の寺で、本堂、古い鐘楼、数多くの円柱で立てられた珍しい楼門、巨大な五輪塔など、どれをとっても凛としていて、信濃にある寺はみなこんな雰囲気を持っているのだとか。

 ここは、岩村田藩内藤氏の菩提寺でもあり、七代目岩村田城主・内藤美濃守正国の墓がある。また小諸城主・仙石権兵衛秀久の墓もあるという。仙石権兵衛は出府しての帰りに埼玉県鴻巣市で発病して亡くなっており、鴻巣市の勝願寺に分骨され、墓が残っている。なお、仙石権兵衛の本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

岩村田宿・・・佐久市岩村田[信濃国佐久郡]

 中山道第22宿の「岩村田宿」は、日本橋から41里18町47間(163.1km)、京へ94里13町13間で、次の「塩名田宿」迄は5.0kmある。規模は、天保14年(1843)で人口1,637名、総家数350軒、本陣なし、脇本陣なし、旅籠8軒である。
 戦国時代は武田氏の支配下で、江戸時代に小諸藩また幕府領となった。元禄16年(1703)には内藤正友が1万6千石の大名として武蔵国から入封している。城下町の堅苦しさの故か、本陣・脇本陣はなく、旅籠も少なかった。新町・中宿・下宿で構成され、中宿と下宿に問屋があって半月交替で務めていた。
 特徴としては、善光寺道、大仁田道が分かれていて、物資集散の地として商業が盛んだった。毎月三と八のつく日に六斎市がたっていたが、中期ごろから衰え、年2日だけとなった。
 今、アーケードのある商店街になっている。

相生の松(14:16)(左手)

 「相生町」交差点を右折して小海線の踏切を渡り、右手岩村田高校を過ぎ、左手浅間総合病院に沿って左へカーブすると突き当たりに「相生の松」がある。
 もっとも、往時の松は枯れてしまい新たに植えられているが、この「相生の松」を有名にしたのは、皇女和宮が下向の折に休憩(野立)された由緒ある場所であることである。

 皇女和宮東向の行程表(板橋区教育委員会の資料による)では、前日宿泊した八幡宿を出発し、午前の休憩を「相生の松」で、昼食を小田井宿で、その日は沓掛宿に宿泊された。八幡から岩村田まで約8kmあり、岩村田から沓掛まで14kmあって、一日22km進んだことになる。

 
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、休憩されたと言われている。「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。
 初代の松は、樹齢二百年以上。男松女松が一緒に植樹され、地上1mで双幹になり、高さは13mにもなった。しかし、昭和40年に枯れ、現在では高さ約1.3mで残されている。昭和42年には二代目を植樹するが、2年で枯れた。
 三代目は、昭和58年に相生町公民館の盆栽教室のメンバーを中心に植樹。以来、年に2回の草刈りと手入れをしてきた。三代目も初代にふさわしい成長ぶりで、高さは約15mで、胴回りもしっかりとしている。(小諸新聞より)

ゴール=「浅間病院西」交差点(14:17)

 その先の「浅間病院西」交差点を今回のゴール地点とし、そこを右折してJR線路を越え、「佐久平駅東」交差点を左折すると、突き当たりに長野新幹線「佐久平」駅がある。時刻は14:40近かった。

 最後の1時間半位は、帰途の列車時刻に合わせ、先頭を切って快足歩行したので、仲閒から恨まれた(?)が、結果的には、14:50発のあさま530号(次便は15:51発)に間に合い、感謝された(?)。時間の関係で、打ち上げは缶ビールを買っての車中持ち込みで喉を潤さざるを得なかったが、自由席は結構満席に近く、何とか全員座席確保が出来たからよかった。次の軽井沢駅では、ホームに長蛇の列が待っており、相当数がタチンボになったと思われる。自宅着は17時20分過ぎだった。