「中山道」を歩く

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 2009.03.08(日) 中山道第6回目 本庄駅〜高崎駅
 
 日帰り餐歩可能圏最終区間のきょうも、いつも通り、西・清水・村谷氏たちとの4人旅である。
 今回は分倍河原・府中本町・北朝霞・大宮乗り換えで8:49に本庄駅に到着。身支度を調え、8:54出発し、約500m程で街道筋の「本庄駅入口」交差点に着き、早速街道ウォークをスタートする。

本庄宿

 本庄宿は、中山道第10番目の宿で、日本橋から21里30町40間(86.5km)、町並みは17町35間、天保14年(1843)の記録で本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒(大23・中24・小23)、家数1,212軒、人口4,554人の宿で、旅籠の数も多く、古くからの城下町だったこともあり、中山道最大級の宿場町である。深谷宿と共に歓楽街として賑わい、飯盛女の数も二百人を大幅に越えていたようだ。
 本庄城(注)は慶長17年(1612)に城主が古河城へ移封されて廃城になったが、城下町として発展し、利根川の水運を利用して河岸も賑わった。榛沢村にあった定期市を寛文3年(1663)に移し、二と七の日を市日と定めている。

 ところで、文久3年(1863)2月10日、京を目指す幕府浪士隊一行234名がこの本庄宿で一泊している。しかし、宿の割振り係の近藤勇が、何と芹沢鴨の宿の手配を忘れてしまい、怒った芹沢は本庄宿の中で大篝火を焚いて大騒ぎになり、近藤の平身低頭の謝罪で何とか治まったという。新選組の前身壬生浪士隊で内部抗争を繰り広げる両者の因縁を生んだ事件だが、こんな事件はこりごりなのか、現在の本庄宿にも諸資料にもそれを示すものは何もない。

(注)本庄城
 本庄城は、弘治2年(1656)に、児玉党の後裔本庄宮内小輔実忠が築城されたと伝えられる。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服し、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い、本庄台地の北端・字天神林に本庄城を築き、これを機に本庄村が誕生した。実忠の子隼人正の代に至って、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が敗れるや、本庄城も秀吉勢前田利家の前に戦うこともなく開城した。徳川家康の関東入封に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石で新城主となったが、慶長17年(1612)、その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃城となった。


開善寺(9:07)

 街道は交差点左折だが直進し、最初を左折した先右手にある開善寺へ行く。
                     
開 善 寺
                                        所在地 本庄市中央二−八−二十六
 開善寺は、山号を畳秀山と称し、天正十九年(1591)本庄城主小笠原信嶺が開基し、球山宗温和尚の開山で、本尊は聖観世音菩薩である。
 和尚は、城主信嶺の夫人久旺院尼の兄にあたる人で、武田信玄の弟武田逍遥軒の子で、仏門に入り甲斐国永岳寺にあったが、信嶺に招かれ当寺を開山した。
 その後、三世桃獄祖源の代慶安二年(1649)に徳川家光より朱印地15石が下されている。
 当寺に伝わる開善寺絵図は、その当寺の境内古地図である。西は旧伊勢通りから、東南は愛宕神社まで含まれており、その面積は、現在の約五倍ほどであった。
 なお、当寺には、本庄市指定の文化財である小笠原信嶺夫妻の墓、朱印状を収めた御朱印箱、開善寺境内地図、武田信玄公画像などがある。
                              昭和六十一年三月
                                        埼玉県
                                        本庄市

 
                   開善寺書院建設記念碑
 当山は聖観世音菩薩を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院である。
 開基は新羅三郎源義光二十二世後裔小笠原掃部大夫信嶺である。天正十八年(1590)徳川家康の命により信州下伊那郡松尾城主から本庄城主となる。当地は起伏に富み、緑陰豊かにして水清く菩提寺を営むにふさわしい地形から、旧領松尾の現長野県飯田市の小笠原家菩提寺開善寺にちなみ一寺を建立し、畳秀山開善寺(山畳秀色人開善気、という中国の古詩に由来するといわれる。)と号した。翌天正十九年(1591)甲州(山梨県)余村から武田信玄の弟武田逍遥軒の子で、徳川三代将軍家光の乳母春日局を叔母にもつ球山宗温和尚を拝請して開山とした。以来それが起縁となって徳川家光の帰依を受け、境内石高十五石に対し朱印状をを賜り、以後歴代将軍家の朱印を拝領した。

 ことに当山七世南州和尚は朝廷より勅使号を贈られ、寺運盛んにして香積界豊温し、禅会もしばしば催され禅堂も新築され法□いよいよ盛となった。しかし、宝永六年(1709)十二月災火に罹り堂宇悉く灰燼に帰し、翌宝永七年八世即印和尚再建を志し、享保三年(1718)竣工した。その後寺運盛衰の歴史を経て明治を迎える。
 明治五年(1872)八月学制義務化の公布をみ、本庄宿も翌六年六月二十五日小学校を当開善寺に開校した。以後明治二十年四月高等小学校設立、明治二十五年新校舎に移転するまで教育の場として、開善寺の大くず屋根の伽藍は子供たちを育んできた。故に当山は本庄市近代教育発祥の地として、市史に永くその名をとどめることになった。

 その後堂宇も頽廃したが、明治三十三年十八世伊寿和尚本堂・庫裡を改築した。
続いて十九世高崖和尚、二十世絶崖和尚二代にわたる崇佛護寺への精進と、檀信徒の御先祖菩提供養の信仰とが相まって、畳秀山開善寺の寺運も再び高まりそのたたずまいもいち段と風情を添え、み佛のみ堂にふさわしい趣を呈してきた。
 昭和四十六年の本堂の新築や、近くは山門寺標の建立、境内を囲ぐる白壁の塀、続いて大願の書院建設等々開善寺檀信徒の菩提心のふるさととして、また、臨済宗妙心寺は寺院として、世紀のあしたを担うにたる寺容を整えるに至る。
 このたび待望の書院建設を期に、畳秀山開善寺法燈のもとに多くの縁者が参集し、当山堂宇をもって永代にわたり菩提心の収容の場とされますよう、また、併せて書院建設に当って物心両面の御喜捨を賜った檀信徒をはじめ多くの方々に心からお礼を申し上げ、書院建設の大願成就の喜びを祈念碑設置によって永く世にとどめる次第である。                          飯野利衛起草
                              昭和六十二年秋彼岸    開善寺書院建設役員一同
(以下省略)


 門の手前の道を隔てた反対側の墓地(境内南側の古墳上)にはこの信嶺夫妻の墓がある。次のような案内板が墓地の塀に取り付けられており、墓域に入ると墓の場所は一見して判る。
               
本庄市指定史跡 小笠原掃部大夫信嶺公夫妻の墓
 公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年(1590)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年九月入城し、本庄領一万石を領した。慶長三年、(1598)二月十九日、五十二才にして逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。
                         昭和三十三年三月二十八日      本庄市教育委員会

 墓の礎石には次のように刻した金属板が貼り付けられている。
   
元和九年六月二十四日逝去
     久旺院殿月清永秋大姉
     小笠原信嶺公奥方
   慶長三年二月十九日逝去
     開善寺殿徹州道也大居士
     小笠原掃部大夫信嶺公
   昭和十七年十二月改修


本庄市歴史民俗資料館(元本庄警察署建物)

 「中央3丁目」交差点から北へ100m程入った消防署の裏手にある「本庄市立歴史民俗資料館」は、日曜日なのにボランティアの方だろうか老男性がいて入場できたが、本庄宿に関する資料も展示されている。
 館内には高札場の明和7年の定書に、徒党、強訴、逃散の類を申し出た者に銀百枚と帯刀苗字の褒美を下すこともあるという意味のことが平仮名主体の判りやすい文字で書かれていてビックリ。これならきっと効果があっただろうと想像する。
               
旧本城警察署の沿革(「見学のしおり」より抜粋)
 明治16年(1883)に本庄警察署として建設された本庄宿で初めての本格的洋風公共建造物である。木造2階建・瓦葺で正面2階ベランダにはコリント式列柱を配している。昭和10年(1935)に警察署は移転し、その後も消防団本部、簡易裁判所、区検察庁、公民館、図書館として利用され、現在は市立の歴史民俗資料館として公開され、生涯学習や郷土学習の場として利用され、昭和47年には県の文化財に指定されている。


田村本陣の表門(9:27)

 田村作兵衛が務め、北本陣とも呼ばれた田村本陣の門が、開善寺の西隣先の「本庄市立歴史民俗資料館」の敷地内に移築されている。皇女和宮も潜ったという重厚な表門である。田村本陣家には寛永19年(1642)からの宿泊記録が残されているそうだから凄い。本陣跡の場所は後刻確認した。

安養院(9:29)

 その北側の道を隔てた先に安養院がある。開善寺と共に本庄宿におけるご朱印地を得た寺である。
                    
安 養 院
                                        所在地 本庄市中央三ノ三ノ六
 安養院は曹洞宗の寺で、山号を若泉山、寺号は無量寺という。本尊は無量寿如来で、ほかに脇立として観音と勢至の二菩薩がある。
 寺伝によると、創立は文明七年(1475)という。武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟の藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたため、土地を探していたところ、現在の地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。以後、付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったという。
 なお、慶安二年(1649)には、徳川幕府より二十五石の朱印地を受けている。
                               昭和六十年三月
                                             埼玉県
                                             本庄市
 
戦国時代には本庄氏の衰退と共にこの寺も荒廃し、その後泰山が入寺して中興された。
 本堂は本庄最大の木造建造物で、見事な楼門があるほか、伽藍3棟が本庄市指定文化財に指定されている。注目すべきは、左手奥にある「小倉家墓所」と、裏手にあたる位置にある「普寛堂」である。立派な楼門は、屋根瓦が落ちてこないように金網でガードされているのが痛ましい。何とか修復して貰いたいものだが・・・

◇普寛堂

 ここには木曽御嶽講の祖といわれる木食普寛上人の墓がある。木食普寛上人は、享保16年(1731)秩父大滝村落合に生まれ、本名を浅見好八と言う。青年時代秩父直神陰流の達人として剣術に優れていたと言われ、34才の時、人心救済を決意して修験道に入り、名を本明院普寛と改め厳しい修行を経て神仏両道の奥義を極めた。また、行者として各地に登山道を開き、中でも木曾の御岳、武尊山は有名で、特に寛政9年(1792) 普寛62才の折に開いた木曾御嶽の登山口は、「王滝口」と命名され、その功績を今に伝えている。
 享和元年(1801)9月10日、信者であった泉町米屋弥兵衛宅で亡くなり安養院に葬られたが、大正11年(1922)の道路改修により霊堂と墓が現在地に移された。

◇小倉家墓所の句碑

 ここには、墓のほか、俳人の句碑(32基?)が纏められている。左奥の芭蕉ほか、門人の其角・千代女・その女などの句碑があるらしいが、どれが誰のだか、風化で判読が難しい。。

金鑚(かなさな)神社(9:48)

 9:41街道に戻って、「千代田三丁目」の信号手前右手にある本庄宿の総鎮守「金鑚神社」に行く。旧街道はこの4叉路で右折し、すぐまた左折して「新町宿」へと向かって行くことになり、本庄宿はこの神社迄である。四差路を直進できる道も出来ている。
 金鑚神社は、本社は児玉郡神川町にある武蔵二宮とも言われる由緒あるもの。ここの神社も楠や樅の巨木が鬱蒼と生い茂る古木の中にあり、長い歴史と風格を十二分に感じさせてくれる。
 総木製の鳥居は、前回立ち寄った「牧西八幡大(もくさいはちまんたい)神社」と同様に柱の前後に副柱がある「両部鳥居」である。右手にある大門も総欅造りで文化11年(1814)の建立。本庄祭りは、毎年11月2〜3日に行われ、絢爛豪華な9台の山車が金鑚神社を起点に市内を練り歩き、多くの見物客でごった返すそうだ。
 寛永16年(1639)に植えられた御神木の大楠は、樹齢370年、埼玉県指定文化財で、本庄城主小笠原信嶺の孫忠貴が献木したものと伝えられ、根回り9.8mもあり、樹齢およそ350年と推定され樹勢も盛んである。
                    
金鑚神社
                                        所在地 本庄市千代田三−二
 金鑚神社の祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、日本武尊の三神である。
 社伝によると、創立は欽明天皇の二年(541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また本庄城主歴代の崇信が厚かった。
 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
 当社のご神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社伝建立の記念として献木したものと伝えられる。
 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠筆建立祈願文がある。
                              昭和六十年三月
                                                埼玉県
                                                本庄市


木曾街道六十九次続き絵(9:55)

 神社の先は右折するが、信号を渡った側の右折歩道に埼玉県内の9宿が「木曾街道六十九次続き絵」のタイルになって歩道にはめ込まれているのが面白い。蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄と県内9宿の旅路をふり返ってほしいということだろう。他県管内の宿についても、その前後に順に文字盤タイルが埋め込まれている。

浅間山(せんげんやま)古墳(10:22)

 樹木の茂る間にある石段を赤鳥居を潜って登っていくと、左手に墳墓の入口があり覗けるようにはなっている。当古墳からは、直刀・鉄鏃・銅椀・耳環などが出土されている。「浅間神社」の社が建っているが、中を覗くとご神体らしきものは何も見当たらなかった。前に、浅間山古墳測量図入りの下記解説板が建っている。
                    
浅間山古墳         町指定文化財 昭和37年2月22日指定
 浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は、直径約38b、高さ約6bの円墳と考えられます。主体部は角閃石安山岩を使用した胴張両袖型横穴式石室です。石質の規模は、全長約9.48b、天井部高2.5bです。入口にあたる羨道は長さ約3b幅1.2b、高さ1.8bです。
 出土遺物は、昭和2年に玄室の一部が露出した時に出土した直刀2、鉄鉾1、金環(耳輪)5、鉄鏃多数(現在東京国立博物館収蔵)昭和63年から3回行われた範囲確認調査で、直刀4、鉄鉾1、鉄鏃多数、須恵器平瓶1、銅椀*1が出土しています(上里町立郷土資料館保管)。特に銅椀*は、仏教文化との関係から注目される出土品です。築造時期は、出土遺物などから古墳時代終末期の7世紀後半に築造され8世紀初頭まで墓として使用されていたと考えられます。
                                        上里町教育委員会

 (注)文中、銅椀の椀の字は金偏で表記されている。

泪橋跡碑と庚申塔

 その先、古墳の斜め向かい右手に「泪橋の由来」の石碑と庚申塔があるらしく、探したが見つからなかった。泪橋と言えば、刑場に引かれていく罪人を見送る家族達が別れの涙を流した場所と相場が決まっていると思っていたが、この辺りにあったものは、諸大名の通行の度に農繁、酷寒を問わず馬を借り出される街道筋の農民たちの嘆きの涙を流したことに由来するそうで、面白いと言えば不謹慎極まりないが、大変珍しいネーミングである。

庚申塔・二十二夜塔

 神保原駅駅への入口を過ぎ、10:39左手に庚申塔があるのを見つける。「日光・月光」と刻んだ石塔もあるが、紀年が見えず文字菩薩なのだろうか? その先「神保原一丁目」信号で左後方からの道と合わせて右折し、その先で10:45に国道17号を越えると、左手に庚申塔・二十二夜塔など十数基が広場に纏められている。風化しており文字が読み取りづらいが、庚申供養塔が多い。

八幡宮と金窪(かなくぼ)城跡

 その先右手で10:57に{八幡神社}に参拝し、11:01その先「金窪館阯入口」を右手に300m程寄り道すると「金窪城跡」があり、現在は「金窪城址公園」になっているのだが、仲間たちは素通りしたいようなので立ち寄りは省略したが、情報によれば、往時の城跡を示す石碑と、その左右に新・旧2つの解説板があり、その後ろの民家裏に土塁や石垣が僅かに残るのみになっているという。
 その解説板によれば、平安末期の治承年間(1177〜81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家季が築城し、元弘年間(1331〜34)に新田義貞が修築、家臣の畑時能に守らせたという。金窪城は、神流川(かんながわ)に臨む崖上に残る平城で、別名「汰耶(たや)城」(「太揶(たや)城」)とも呼ばれた由。
 その後、室町中期の寛正年間(1460〜66)には斉藤実盛の子孫・斉藤盛光が居城したが、天正10年(1582)6月、滝川一益と北条氏邦・北条氏直の"神流川合戦"で一族悉く討死し、城も兵火により焼失して斉藤家が没落する。徳川家康の時代には川窪氏の所領になって陣屋が置かれたが、元禄11年(1698)川窪氏の丹波転封に伴い陣屋も廃された、という歴史を持っている。

陽雲寺(11:07)

 そこから少し行くと左手に「陽雲寺」がある。元久2年(1205)の創建で、1122年に新田義貞が「幕不動堂」を造立し、天文9年(1540)に斎藤定盛が諸堂を修復して「崇栄寺」と名を改めたが、神流川合戦で焼失した。
 武田家滅亡後、信玄の甥が徳川氏に仕え、川窪与左衛門と名乗って、この地に8千石を与えられた。元和4年(1618)に当寺で没した武田信玄の妻「三条夫人」(陽雲院)が晩年この寺の境内に住み、その墓もあるそうだが、その法号の陽雲院をとって「崇栄山陽雲寺」と名を改めている。三条夫人の墓の隣にはその夫人と縁があるという明治新政府の太政大臣三条実美の揮毫による「武田家遺臣招魂碑」なるものまで建っているというが、墓地への立ち入りはしなかった。
 なお、三条夫人の死は通説では信玄に先立つこと3年、元亀元年(1570)で、墓所は甲府の円光院ということになっており、全国各地に墓がある偉人同様、有名人は死後も忙しいことだ。
 門の右脇には、新田義貞の臣で金窪城主だった畑時能とその家臣児玉光信の墓、両者の頭文字を採った「畑児塚」があった。
                    
県指定旧跡 畑時能供養祠 一基
                                   昭和三十八年八月二十七日指定
 参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で、四天王の随一と呼ばれた金窪城に住した畑時能の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが暦応二年(1339)越前国で足利方に討たれた。
 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られ二石祠が建立されて、両者の姓を取り「畑児怐vと呼ばれている。
                              昭和五十八年三月二十四日
                                        埼玉県教育委員会
                                        上里町教育委員会
                                        陽雲寺

中山道解説板(11:14)

 その先左手の加美公民館の傍に街道絵入りの中山道解説板があるのを発見する。
                         
中 山 道
 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
 金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から二十三里余。文政期(1818から)の家数は一六二軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応二年(1653)頃です。
 勅使河原村(現上里町大字勅使河原)家数は二八〇軒。絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道十七号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺が見えます。
                                        上里町教育委員会


勅使河原一里塚(11:22)

 その先で国道17号に合流する手前の右手に、日本橋から23番目の一里塚がある。小さな堂が建ち、向かって左横に昭和49年1月吉日銘の「一里塚跡」と刻まれた石碑があり、その後ろに隠れるように昔日の風化した一里塚碑がある。

見透燈籠と大光寺(11:30)

 すぐ先の「勅使河原(北)」信号で左後方からの国道17号線を合わせると、横断歩道で左側に渡り、すぐ先で左折して「大光寺」へ向かう。JR高崎線を越えた先で、国道から約200m入った右手に「勅使山大光寺」がある。
 この先の神流川の両岸に昔「見通し灯籠」と呼ばれる有名な常夜灯があり、本庄宿側の灯籠がここ「大光寺」に保存されているので、訪ねた次第である。本堂への参道を行くと左手に文化12年(1815)銘入りの見透燈籠がある。これは、本庄宿の資産家戸谷半兵衛が神流川を渡る旅人のために建てたと言われている。

 神流川の流れはよく変わるため、その度毎に橋や渡船場の位置が変わったという。昼間でも道筋が判りにくいため、川の両岸に目印として「見透灯籠」と呼ばれる常夜灯を設置したが、新町側の燈篭建立資金は募金が募られ、新町宿に泊まっていた俳人の小林一茶も「高瀬屋」という旅籠に泊まっている時に夜中にたたき起こされ、常夜灯を建立するから12文寄付せよと強要されたというから面白い。受益者負担ということか?
なお、両岸とも現在はミニチュアになっていて、往時の物はここ大光寺と高崎市郊外大八木町の「諏訪神社」に移設・保存されている。
                         
大 光 寺
                                     所在地 児玉郡上里町勅使河原一八六四
 大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。建保三年(1215)に武蔵七党の一党である丹党の、勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧請開山は日本へ始めて禅宗を伝えた栄西禅師である。
 その後、応永十八年(1411)に原伊勢崎市の泉龍寺白崖宝生禅師により催行された。しかし、天正十年(1582)の神流川合戦により総門以外のみ残し焼失した。明治四十二年二月に高崎線の灰煙を被り全焼したため、本堂等を再建し現在に至っている。
 なお、当寺には栄西禅師直筆の扁額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った石憧、神流川の渡しの標準と旅の安全を祈った見透燈篭等が現存し、貴重な文化財として知られている。
 毎年四月二十三日に勅使河原氏の慰霊祭でもある蚕影山が行われ、養蚕の道具に加え、最近では植木市等がたち大変な賑いを見せている。
                               昭和六十年三月
                                             埼玉県
                                             上里町

 また、境内には「坂東三十三所、西国三十三所、秩父三十四所の百観音霊砂をおまつりした霊験あらたかな観音様」と記された「百体観音」が積み上げられた形で建っている。

勅使河原の渡し

 街道に戻って右側歩道に予め移っておく。武蔵国と上野国の境を流れる「神流川(かんながわ)」の渡しは、本庄側から中洲までは橋が架かり、上野国側へ渡る時に渡船を利用しており、英泉の絵「本庄」にもそのように描かれている。現在はこれを「神流川橋」で渡るが、結構長い橋で、歩道は右側しかないが予めそちら側に移っているので問題ない。
 前方180度に山並みが見える視界が素晴らしい。正面左手の山が浅間山、その左が妙義山か。前方右方向には多分、榛名山、赤城山、男体山あたりと思われるが有名な山々が見える絶景である。

神流川(かんながわ)古戦場跡の石碑と解説板(11:49)

 神流川橋を渡る途中に県境がある。渡り終えると武州から上州・群馬県へと入ったことになり、橋を渡ったすぐ右手に「神流川古戦場跡の碑」と「神流川合戦」と題した解説板がある。
                         
神流川合戦
 天正十年(1582)六月十九日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は五万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。

 この間の事情を概説すると、天正10年(1582)6月2日早暁、"本能寺の変"で織田信長が討たれ、"神流川の戦い"は、この直後の6月18〜19日の両日、ここ神流川流域において、滝川一益と北条氏邦・北条氏直が死闘を繰り広げた戦いで、戦国時代を通じて関東地方における最大の野戦と言われている。
 滝川一益は、織田信長に仕え、武田氏討伐の功績により、佐久・小県の二郡と上野国が与えられ、天正10年3月、甲府を出て、各地の緒将を掌握しつつ厩橋城(後の前橋城)へ入城した。一方、小田原を中心に関東に覇を唱えた北条氏は、北の要所として武蔵鉢形城に氏政(北条氏四代・氏直の父)の弟の氏邦を配し勢力を維持していたが、金窪城は両勢力が衝突する最前線にあった。
 信長横死の報が知れるや、弔いに上洛せんとする一益陣営と、これに乗じて上野侵攻を期する北条氏との激突は不可避の情勢となる。
 6月16日、北条氏邦軍が倉賀野表に出陣し、6月18日未明、戦いの火蓋は切られ、一益軍18,000と氏邦勢が激突、北条方の金窪城は落城し、北条の先遣部隊は敗退を余儀無くされた。翌19日、前日の緒戦では一益勢が優勢であったが、小田原を進発していた北条氏直の本隊が到着するや、北条勢を深追いし兵站線の延びた一益勢は、退くと見せて反転攻勢に出た北条勢に取り囲まれて総崩れとなり、3760人も討ち取られる惨敗を喫した。一益は一旦厩橋城に遁走するも、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰った。

新町側の見透燈篭

 その先の自衛隊新町駐屯地を過ぎると国道17号と別れ、再び右前方への旧道に入る。ここからが「新町宿」になる。その分岐点に復元された新町側の見透燈篭と解説板がある。
 元々の常夜灯は、高崎市郊外大八木町の「諏訪神社」に移設されている。この新町側の常夜灯建立に当たっては、前掲のように小林一茶も夜中に寄付を求められ、しぶしぶ12文を負担させられる羽目になっている。
                    見通燈篭再建之記
 上武二州の国境を流れる神流川は往昔より荒れ川で、出水毎に川瀬道筋を変え、夜道の旅人や伝馬人足の悩みの種であった。新町宿本庄宿の役人達は兼ねてより通行人の難儀を憂え、川の両岸に灯篭を建て毎夜火を点じて通行の安全を計ろうとした。新町宿ではほとんど十年間も建設費用を蓄え、文化十二年に灯篭を建立するに至った。遇々(注:偶々の誤りか)高瀬屋に泊まった俳人一茶の十二文寄進した話は七番日記に誌されて余りにも有名である。時の人々は見通灯篭と親しみ呼んで多年その恩恵に浴したのであった。
 この灯篭には江戸随一の詩人と自他共に許した大窪詩仏の手に成る常夜灯の字を彫り、当時好学大名と称せられた鍋島閑叟侯、安中の板倉節山侯に知遇を得た桑原北林の金毘羅大権現の手跡を刻んである。北林は児玉町在の吉田林村の出身で漢学の大家である。更に新町宿の歌人田口秋因の
   灯の 光にさすか 行かえの 人よ夜なよな 迷はすもかな
と一首を添えて文学の香り高い灯篭として中山道の名物になっていた。然し時流の転変は激しく明治二十四年に高崎市大八木村へ移されてしまった。 その後、新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報いられなかった。
 多野藤岡ライオンズクラブは創立五十周年の記念事業として見通燈篭の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道十七号線の要所に建立して長年の要望を実現された。ああ!遂に町民の夢は美事に達成されたのである。偉容新たに甦ったこの灯篭は永く文化財として後人に仰がれ、交通難時代に在っては交通安全の使命を遺憾なく発揮してくれるであろう。
今、請わるるままに見通燈篭再建の経緯を記しライオンズクラブの壮挙を称え、之を後世に伝えるものである。
                         昭和五十三年十一月五日
                                         新町文化財調査委員野口永撰
                                         土屋一男書


新町宿

 中山道第11宿 日本橋から97.6km 、本陣は落合新町側に2軒、脇本陣は笛木新町側に1軒、旅籠43軒の宿であるが、中山道開設当初は鄙びた寒村で、倉賀野宿から本庄宿までは対岸の玉村宿を経ていた。後に新町宿を構成することになった落合村と笛木村は寂しい寒村だったが、正保年間(1644〜1648)に、中山道を通る最大名の加賀前田家が、倉賀野から新町を通るルートを開拓し、加賀街道になったことで様相が一変したのである。中山道開通50年後の慶安4年(1651)、両村に伝馬役が課せられ、翌年落合村と笛木村の両村が合併させられて新町になり、承久3年(1654)にはこのルートが中山道になり、亨保9年(1724)、新町が正式な中山道の宿場になったという経緯がある。
 このような経過を辿ったため、新町宿は、京寄りの落合新町と江戸寄りの笛木新町とが、月前半の15日を落合新町、後半の15日を笛木新町で人馬役を負担するなど、分かれた行政だった。特に、笛木村は強制移動でここに居住させられたというから、封建社会における御上の権力の強大さや、街道や宿場を変える程強かった加賀百万石の力、当時の庶民の哀れが対照的である。
 元々はそのような寒村だったが、貞享二年(1685)に木曾路を旅した貝原益軒が「新町の民家は二百ばかり。町の出口に橋あり」と記しており、江戸中期にはかなりの町並になっていたと思われる。

昼食(11:59〜12:29)

 右前方角に「八坂神社」がある信号から左手直ぐに国道が並行しており、ラーメン屋の看板が見えたので左折したが、あいにく営業しておらず、国道を渡った角の和風レストラン「まるまつ新町店」でタイミング良く昼食にありつく。

八坂神社(12:30)

 右の旧道に戻ってすぐ右手にある。往時には、近くに「御茶屋」と呼ばれる名物茶店があり、そこの柳の大木近くに「柳茶屋の芭蕉句碑」がある。ここには、茶屋で一休みした松尾芭蕉が詠んだ句「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」という句が刻まれ、句碑は天保年間(1830〜44)建立のものだが、句自体は元禄7年(1694)頃の作だとか。
 但し、元々の茶屋と句碑は現在地とは反対側の八坂神社向かい側にあったが、明治期に入って歩く人が減り茶屋は廃業したらしい。
がある。
 なお、神社は赤鳥居の奥に白壁土蔵造りのような小ぶりの建物で、鳥居と扁額がなければ神社とは到底見えないような社殿である。

諏訪神社(12:35)

 その先右手に神社の入口を示す鳥居があり、入って行くと更に鳥居があり、その手前右手には「神明威赫」、左に「政清人和」と刻まれた石柱が建ち、奥に静かな佇まいの諏訪神社がある。「諏訪神社之由来」を刻した解説板や、境内図面入りの「高崎市指定文化財」と題する解説板もある。

 神殿には楠正成など南北朝時代の武将達の彫刻がある。境内の奥に元禄15年(1702)の古い鳥居があったが、老朽化に伴い新たに建て替えられた際、古い鳥居を上下分離して上部分が下部を埋められた状態で保存されているのが珍しい。新町最古で、形式は神明鳥居、境内北の神楽殿裏手にある。
 建物は、江戸時代に数回火災に遭い、その度に建替えられたが、明治39年に失火で全焼したため、拝殿は明治期、本殿は昭和期の築である。拝殿には彫刻が施され、拝殿前の常夜燈には文化12年(1815)の銘がある。なお、ここに伝えられる獅子舞いは、無形文化財に指定されている。直、三派維持に扁額を見ると「諏方大明神」となっていた。
 また、境内には、「嚴島神社」「三島神社」「火雷神社」「疱瘡神社」「天神社」が祀られている。
                    
諏訪神社之由来
一、御祭神 建御名方命 八坂刀売命
一、諏訪大明神が緑埜郡笛木村の鎮守として今の元宮の地を卜して始めて奉祀されたのは天正の頃か
一、慶安四年(1651)室賀下総守により検地あり 中山道筋に町並の区画が行われ宿場町「新宿」が新たに造成された
一、承応三年(1654)諏訪大明神は村社に加列し 元禄十五年(1702)に石鳥居成る この頃には笛木新町が街道筋に繁栄してきた
一、宝永五年(1708)御神木が焼けた この時光物が飛び来たり落ちた処を神域と定め大明神を御遷座した これが現在の社地である由
一、享保九年二月(1724)社殿の中へ宮殿を奉納し 京都へ赴き吉田家に願い正一位の神位を授与され 御位をお宮へ納める
一、享保の頃二畝歩の土地を買いとり鎮守の大門を作るという 同十七年に石鳥居成る
一、延享四年正月(1747)新町宿の大火に遭い社殿 稲荷社 津島社等烏有に帰した十年後 宝暦七年(1757)にこけら葺の荘厳なる社殿再建成り 同年六月二十四日御遷座する 同十一年九月には銅葺の稲荷社成り全く旧態に復した
一、明治三十九年(1906)失火により社殿を全焼したが 同四十三年に先ず拝殿を再興し 昭和十年(1935)に至り御本殿が完成され 以来神徳はいよいよ明らかに氏子の尊崇は比をって篤く現在に及ぶ
                                        当所 野口高永撰

 なお、「高崎市指定文化財」の解説板には@諏訪神社の獅子舞、A諏訪神社の石鳥居 B小林穣洲先生寿蔵之碑 C諏訪神社の神輿 について述べられているが、Aの石鳥居については次のように記されている。
                    
A諏訪神社の石鳥居
 諏訪神社は新町の前身、笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られていたが、宝永5年(1708)現在地に移された。一基は元禄15年(1702)の銘のある新町で最も古い鳥居で、もう一基は24年後に氏子により建造された。ともに明神鳥居の特色である笠木の曲線が美しく、現在は境内に保存されている。                               新町教育委員会


 なお、鳥居の様式について某氏から質問されたが、これにも種類が多々あり、大きくは「神明鳥居」と「島木鳥居」に大別される。神明鳥居は「鹿島鳥居」と「黒木鳥居」に、島木鳥居は「明神鳥居」と「変形鳥居」に分けられ、明神鳥居は「稲荷鳥居」と「両部鳥居」に、変形鳥居は「春日鳥居」「八幡鳥居」「山王鳥居」「三輪鳥居」に分けられる。

専福寺(12:43)

 右手諏訪神社の先に「専福寺」がある。真義真言宗智山派の寺院で、山号を「笛木山」と称する。新町側の見透燈篭建立寄金集めの中心になったのが当寺の住職だったようである。山門脇に、元文五年(1740)と寛政十二年(1800)造立の庚申塔があり、その隣には四国・秩父・坂東供養搭と馬頭観音が祀られている。

高札場跡

 右手の新町郵便局から200mばかり先の宿中程の右手個人宅(笠原家)の敷地に「高札場跡」の碑が建っていると知っていたが、通り過ぎた後で見逃したことに気づいた。仲間たちが先行していたのでその侭先に進んだが、その高札場跡までが笛木新町で、その先からが落合新町になり、その境界に建てられていたことになる。元の両村は、明治22年の町村制実施で、合併して「新町」になったが、平成の合併で、新町も高崎市に編入されており、先刻立ち寄った諏訪神社境内の「高崎市指定文化財」の解説板も「高崎市」部分が後日修正された後が残っていた。

明治天皇新町行在所(12:52)

 その先右手角に奥深く「行在所公園」があり、「明治天皇新町行在所」の石碑や後記内容の解説プレートが設置されており、その奥に木造平屋建の明治11年北陸巡幸の際に泊まられた地味な建物が残っている。
                    
明治天皇新町行在所(行在所公園)
 明治天皇は、明治11年8月から11月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
 当時は木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
 昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定を受けました。

 新町宿における本陣はこの先に2軒(久保本陣・小林本陣)あったが、明治初期の本陣制度廃止に伴って、当地では明治天皇が来られた際に宿泊できる旧本陣は既に無かったと推定できる。

於菊稲荷神社(12:56)

 その公園の右手奥に、「於菊稲荷」がある。例によって赤鳥居が道奥に向かって林立し、左直角に其の3倍ぐらいの長さで延々と赤鳥居が続く様は感動的でさえある。
 戦国時代(天正10年)神流川合戦の際、白狐が現れ、北条氏の勝利を謝して社を構えたと伝えられるが、「於菊稲荷」と名付けられたのは江戸時代、宝暦年間(1751〜64)のことである。
 神社の由来によれば、
『 新町に住む於菊という美しい娘が重病にかかり、医者にも見放されため、稲荷に救いを求めたところ、病はすっかり治った。その後、於菊に夢で、「今後は人々の為に尽くすように」という神託があり、神社の巫女となり、人の吉凶、なくし物のありかまでさまざまな事を言い当てた。 ここから、「困ったことがあったら於菊に聞け、稲荷の於菊に聞け」と、言われるようになり、誰いうともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになった。』とあり、新町の名所として、遠くは江戸・相模・長崎からも参詣者が集まって賑わったという。
 神社境内には高崎市指定文化財の「遊女参詣」を描いた絵馬や、村上義光を題材にした「武者絵」などの絵馬が掲げられ、その解説板があるほか、文政6年(1823)に町人の浄財で造られたという精巧を極めた彫刻入りの水鉢のある「水屋」、もちろん写真入り解説板もある。

史跡旅籠高瀬屋跡(13:04)

 左折すれば行ける「新町駅入口」交差点の先すぐ左手の、第二区公民館の隣、駐車場になっている所に、立派な黒御影石版プレートの「史跡 旅籠高瀬屋跡」の解説板が建っている。ここが小林一茶が逗留し、新町側の見透燈篭建設資金を寄付させられたという旅籠の跡である。夜中に突然起こされ、「川渡りの助けのための灯籠を立てるため」と、神流川岸に建てる石灯籠の寄進を強要され、幾度と断わったが、根負けして、懐のさびしいところを十二文寄付したとあり、その時のことを「一茶七番日記」に書いている。
 本庄側では豪商三代目が文化11年に寄付したものがあったが、新町側の常夜灯は宿の専福寺の住職が発起人になって寄付を募り、そのとばっちりが一夜の宿をとった一茶にも及んだという次第のようで、川止めで泊まった宿で夜中にたたき起こされ、無理矢理寄付させられたのだから、余程悔しかったと見える。しかも、それから5年後に完成しているから、常夜灯は余程高価だったのだろう。
                         
史跡 旅篭高瀬屋跡
十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る かかることのおそれを思へばこそ 彼是日を費して門出はしつれ いまは中々災ひの日をよりたるやう也 道急ぐ心を折れて日は斜ならざれど 新町高瀬屋五兵衛に泊 雨の疲れにすやすや寝たりけるに夜五更のころ專泉寺をふとく染めなしたる提灯てらして枕おどろかしていふやう 爰のかんな川に灯篭立て 夜のゆききを介けんことを願ふ 全く少きをいとはず 施主に連れとかたる かく並々ならぬ うき旅一人見おとしたらん沖 さのみぼさちのとがめ給ふにもあらじ ゆるし給へとわぶれど せちにせがむ さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思ふ 十二文きしんす
     手枕や 小言いふても 来る蛍
迹へ帰らんとすれば神奈川の橋なく 前に進んと思へは烏川舟なし ただ篭鳥の空を覗ふばかり也
   とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
   山伏の 気に喰はぬやら 行蛍        
                    一茶七番日記より


久保本陣跡・小林本陣跡(13:08)

 暫く行った右手に往時の「久保本陣」があったが、今は何の痕跡もない。その先左手に「小林本陣跡」があるが一本の木標「中山道新町宿 小林本陣跡」が建っているに過ぎない。敷地は当時のままで、日記や宿帳が残っているらしいが、外観的には全く往時の面影がない。

芭蕉句碑と弁財天(13:10)

 この小林本陣の先は既に宿はずれだったそうだが、正式には「温井川」が宿の境になっていたようだ。その橋詰め(手前)左手に「弁財天」があるが、建立された天明3年(1783)当時は、温井川の中の島に祀られていたそうだ。た。また、その周りには右手に庚申塔が2基、左手に道祖神が1基ある。
 その境内に、「むすぶ(掬)より はや歯にひびく しみずかな」の安政2年(1855)に建てられた芭蕉句碑が自然石に彫られている。それにしても、宿の出入口双方(八坂神社とここ)に芭蕉の句碑があるというのは、当地が俳句の盛んな土地柄だったことを示しているのだろう。「紀元二千六百年記念植樹」と記された大きな欅もある。
                         
弁財天由来
 温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和四十八年に現状となったが七福神中の女神であり音楽弁舌福徳財宝を司る神として信仰を集めている 社は天明三年五月に建立された 石の祠で本年は祭祠二百年に当るので参道改修大鳥居を地区有志により奉納した
 例祭は毎年春巳の日に行う 境内には芭蕉の句碑があり この島には清冽な清水が湧でていて旅人の喉をうるおしたとの句である。
                              昭和五十八年三月六日巳の日
                                             新町第一区


新町ガイドマップ・スリーデーマーチ発祥の地碑(13:13)

 その向かい側の奥(温井川に架かる橋の手前右手)に、「新田河原よりの展望図」と題した、ここから見える山々の展望図がある。浅間山、妙義山、男体山、赤城山、榛名山と著名な山々ばかりだ。
 その手前には、中曽根康弘元首相の書になる「日本スリーデーマーチ発祥の地」碑があるが、“歩け歩け運動”の発祥地が当地だったとは知らなかった。ここ新町で第一回と第二回が開催されたそうだ。

遠望図(13:13)

 直ぐ脇に「新町河原よりの展望図」がある。天気の良い日はここから男体・日光白根・赤城・谷川・榛名・草津白根・浅間・妙義・蓼科・北八ヶ岳などが一望できる。

伊勢島神社(13:21)

 すぐ先右手にあり、元稲荷神社だったため、狛犬の代わりに狐が置かれているのがユニークである。「狐は「鍵(稲倉の)」と「巻物」と「宝珠」の3点セットをもつ」とのことだったが、どう見ても本殿に向かって左手の狛狐は子を伴っているように見え、稻倉の鍵を持っているとは到底思えない。
 境内には天保5年(1834)の常夜燈があり、その前後には多くの石造物がある。寛政4年(1792)の道祖神や万延元年(1860)の庚申塔、御嶽山大神・蟲影山大祖・榛名山満行大□□など山岳信仰関係のものや、大己貴命・猿田彦大神・巳待など神を祀るもの、そして、二十二夜講や庚申講に纏わるもの、宝筺印塔など、多岐に亘って多くの石造物がある。恐らく、近在・街道筋にあったものがここに纏められたものと推定する。

上州櫓造りの家

 温井川を渡ると、道は国道17号を左に分け、右斜め前の旧道に入って行く。やがて左手あるいは右手にもそうだが、屋根の上に小屋根が2つ乗った立派な屋根が見えてくるが、ご当地上州特有の「上州櫓(やぐら)造り」というものだそうな。

川端家住宅(13:25)

 右手に白壁の土蔵と重厚な塀に囲われた豪壮な旧家が見えてきて、目を見張る。江戸時代の豪農「川端家」住宅で、明治期には絹を扱う貿易商だったそうだ。現在は「川端保全社」なる法人所有になっているが、19棟全てが国登録有形文化財に指定されている。内訳は、居住用の建物としての主屋・別荘のほか、奥蔵・質蔵・大門・南穀蔵・東穀蔵・番頭部屋・味噌蔵・物置・木小屋・湯殿・井戸屋形・南塀・西塀・中門・東内塀・南内塀である。
 主屋は内部は造り替えられているそうだが、江戸時代後期の建築で、その他の建物も明治〜昭和初期の建物であり、建築当時の状態で残されている由。外見できただけでも素晴らしく、先の伊勢嶌神社の狛狐の台座にも「願主川端張正」と刻されていたが、恐らくこの川端家と推察する。

川沿いの道〜サイクリングロード〜無くなった旧道

 右手の「信迎庵」を過ぎ、道が「烏川」沿いに出ると、急に眺望が開けてきて、浅間山や榛名山、赤城山等が一望できるようになる。ここから続く高崎伊勢崎サイクリングロードが、河畔沿いの素晴らしい道になっている。
 「関越自動車道」を潜って烏川の堤防に出る、ここからは堤防に上ってサイクリングロードを烏川沿いに暫く歩いていく。河川敷なので視界が広く、気持ちが良い。左の県道が離れていく所で堤防を降りるのが旧街道らしいが、気持ちの良い風景を引き続き堪能すべく衆議一決でそのままサイクリングロードを行く。

お伊勢の森(13:35)

 途中、右前方下に少し降りた先に小さな社が見えてくる。曾て「お伊勢の森」と呼ばれ、往時の伊勢島村北端に当たる処から村の鎮守として伊勢大神宮を建立したが、神社統合令により、明治四十二年(1909)に立石新田の伊勢嶋神社に強制的に合祀させられ、往時の面影はないので、立ち寄りは省略した。
 寛文年間(1661-1673)の初頭、洪水のため廃村になり立石村に合併したが、再開発し天和年間(1681-1684)に分村して、立石新田村となり、現在に至った。中山道は、以前は神宮の北側を通っていたが、文化九年(1812)頃から、南側を通るようになった。三百坪程の境内には、巨大な御神木の杉、榎、欅などが生茂り、道中の目安にもなったようで、広重の中山道六十九次の絵の「倉賀野宿」は、この付近を描いたものとも言われている。

 更に行くと、往時の中山道は「柳瀬橋」の下流300m付近にあった「柳瀬の渡し場」から舟で対岸に渡河していたので、我ら現代人はここを右折し「鳥川」に架かる「柳瀬橋」を渡らなければならない。橋を渡れば、“岩鼻のお代官さま”と股旅もので言われる「岩鼻町(高崎市)」である。
その先の「岩鼻」交差点を左折するのが順路だが、往時は舟渡しで渡河した後にこの交差点に右手から直進して来たことになる。

子育観音

 寄り道で、右折40m弱の右手にある。北向観音とも赤城大明神とも呼ばれているらしい。おそらく、神仏混交時代の名残だろうと思われるが、特に何も無さそうな佇まいだったので門前からの黙礼にとどめ「岩鼻」交差点に戻る。折良く角近くにいたご老人に行き方を確認の上「岩鼻代官所跡」に向かうべく、進むべき街道方向に対して右折し、「日本化薬」の看板が右手にある箇所を左折してその先で左手に見える高台方向へと更に左折すると「岩鼻陣屋跡」のある広場に出る。左手一帯は日本化薬の社宅や研修センターらしい。

岩鼻陣屋跡(14:13)
                   
岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡
 寛政五年(1793)徳川幕府により此の地に岩鼻代官所が設置され、初代の代官に吉川栄左衛門と近藤和四郎が任命された。
 慶応元年(1865)には木村甲斐守が関東郡代として着任し、上野の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預り所と武蔵国六郡を支配し、世直し一揆の鎮圧に江戸の北辺の守りの中心となる。
 慶応四年(1868)岩鼻陣屋崩壊するや新政府は六月岩鼻県を設置し、大音龍太郎を軍監兼当分知県事に任じ、旧代官所跡が岩鼻県庁となり、旧代官所時代とほぼ一致する地域を支配した。また明治二年(1869)には吉井藩を併合した。
 明治四年(1871)十月二十八日岩鼻県は廃止され第一次群馬県が成立し、県庁を高崎城内に移された。


 広場が岩鼻陣屋跡で、鳥居に続いて階段で登る小高い丘の上には「天神社」があるが、これは「天神山」という古墳である。今、ここには製薬会社の研修センターや社員寮が建っている。

観音寺

 岩鼻陣屋跡からはショートカットして街道に戻り進んでいく。そのため、「岩鼻町」交差点にあった「観音寺」に立ち寄れなかったが、その観音寺には、岩鼻の初代代官の吉川栄左衛門の墓がある。

例幣使街道との追分(14:42)

 「新柳瀬橋北」交差点で国道17号を越え、更にJR高崎線を陸橋で渡ると、「下町」交差点手前で右後方からくる道との三叉路に、大きな常夜燈や道標・解説板・焔魔堂などが建っている。
               
高崎市指定史跡
                     例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
                                   所在地 高崎市倉賀野町二二三〇
                                   指 定 昭和四十八年一月三十一日
 江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
 この辻には、常夜灯と道しるべ及び焔魔堂がある。
 常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八人も含まれている。
 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五科料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
  常夜灯
     正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
     裏面「文化十一年甲戌(注:1814)正月十四日 高橋佳年女書」
     総 高 三七三センチ 台石高    六七センチ
     灯籠高 三〇五センチ 灯籠屋根幅 一〇五センチ
  道しるべ
     正 面 「従是 右 江戸道 左 日光道」
     裏 面 「南無阿弥陀仏 亀涌水書」
     総 高  一七二・八センチ 台石高 八・八センチ
     石柱幅 一辺三十三・七センチ
                                   平成八年三月
                                        高崎市教育委員会

                    例幣使街道と倉賀野常夜燈
 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、焔魔堂がある。
 道しるべには左日光道、右江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。
 日光例幣使街道は十三宿中、上州五宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州八宿となっている。正保四年(1647)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応三年(1867)の最後の例幣使派遣まで、二百二十一年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化十年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。
                                        高崎市
                                        (社)高崎観光協会

 隣にある「焔魔堂」は、江戸時代は「阿弥陀堂」だったが、明治初年に焔魔様に替わった由。元の阿弥陀像はこの先右手にある「九品寺」に安置されている。なお、焔魔堂の右横には、「馬頭観世音」ほか大小9基の石造物が並んでいたが、これらも旧街道筋にあったものが拡幅工事などの際に撤去され、ここに集められたものと推定した。
 また、例幣使街道は、村谷氏共々何れ歩いてみようと予定済みの街道であり、マークしておく。

倉賀野宿

 「追分」のすぐ先の「下町」交差点辺りがいわゆる「下の木戸」があった所で、江戸時代にはここが江戸側からの倉賀野宿入口だった所である。
 倉賀野宿は江戸日本橋から12番目の宿場で、長さ11町38間(約1.2km)の間に京側から上町、中町、下町の三町があり、中心は中町だった。天保14年(1843)当時の人口は2,032人、家数は297軒で、本陣が1軒、脇本陣2軒、旅籠が32軒あった。また、享和3年(1803)には家数が453軒、人口は2,156人、旅籠64軒に増えている。

 街道左手を流れる烏川の共栄橋の手前辺りに、江戸時代、「倉賀野河岸」があった。この岸は烏川と利根川を利用した江戸通いの通船の最上流の河岸で、往時は近くの高崎藩や安中藩の外港として、また松本藩や飯山藩など信州や越後の諸大名・旗本42家の回米を江戸に運んだ他、西上州や信濃・越後から集まった煙草・織物・木材等を江戸に運び、帰り舟で油・茶・砂糖や行徳(千葉県)の干鰯や塩などを持ち帰った。「烏川が逆さに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる」と言われたほど繁盛していたが、明治17年(1884)の高崎〜上野間の鉄道開通によりその使命を終えたという。昔の水運や荷駄の施設も、時の経過と共に消滅してしまい、今では橋の袂に倉賀野河岸跡の石碑が残るのみだとか。

「皇太子殿下御降誕記念」碑(14:47)

 その先、右手に石塀とコンクリート塀に挟まれて建つ古い木の門の前にあるが、道の向こう側で折悪しく車の往来が多いタイミングだったので詳細な確認はしなかった。

上州櫓造りの家

 その先すぐ左手に、先刻も見た当地独特の上州櫓(やぐら)造りの家がある。

五貫堀の太鼓橋跡

 江戸側の下町と京側の中町の境に流れる五貫堀には、昔、木橋が架かっていたがちょっとした増水の度に流失するお粗末さだった。これを見かねた宿の飯盛女たちが、享和2年(1802)に200両もの大金を寄進し、江戸の石工に依頼して、翌年8月に石の太鼓橋を完成させたという言い伝えが残っているそうだが、今はコンクリート橋になっていて、往時の面影は皆無である。
 その石橋には寄進した飯盛り女達の名が刻まれていたそうだが、果たして自主的な寄進だったのかと思いたくなる。というのが、飯盛り女は旅籠一軒当たり2人との決まりが守られず、この頃はその数が一番多かった頃で、お上の目から見て弊害があったのか、享和3年(1803)には手入れが行われ、刑に処せられた者が出ているらしいので、客商売継続黙認の口実で寄進させられたとも想像するのだが・・・

倉賀野資料館・小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地(14:48)

 その先左手に倉賀野史跡文化芸術保存協会の運営する「倉賀野資料館」の看板が出ている建物があったが、「開館 毎週金・土・日の 時間 午後十二時三十分より三時三十分迄」と表示されているのに閉まっており、残念。その前に、「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地 倉賀野資料館」と刻まれた立派な石標が建っている。

 当人に関する史実や功罪は別として、小栗上野介は徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えたが容れられず、慶応4年(1868年)罷免され、領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとして学問塾の師事や水田整備の日々を送ったが、薩長軍に逮捕され翌日烏川のほとりで斬首になったらしい。

本陣跡(14:53)

 太鼓橋を渡ると中町で、「中町」交差点を14:51に過ぎ、倉賀野交番先の左手「ベイシアマート(スーパー)」の駐車場中程の道端に「本陣跡」の小さな碑がある。注意していないと見過ごしそうな大きさで、「勅使河原家」が本陣を務めていた。
 先ほど触れた「九品寺」はここを右折した先にあるが、やや離れているので立ち寄らない。

中町御伝馬人馬継立場跡(14:55)

 その先左手の小金沢医院の辺りが継立場跡で「中山道倉賀野宿 中町御傳馬人馬継立場跡」の立派な石標が建っている。先ほどの「本陣跡」の碑より数倍立派である。
 その横に「倉賀野中町山車倉」がある。

須賀脇本陣跡・高札場跡(14:56)

 その先右手に、連子格子の二階建木造家屋があり、先刻の本陣跡と同じ形の「中山道倉賀野宿 脇本陣跡」の碑が前にある。ここが須賀(喜太郎)脇本陣跡である。いずれの碑にも左下に小さく「雁会」と刻まれており、「雁会」なる団体が設置したものと推定したが、普通は自治体の教育委員会とか、せいぜい観光協会あたりの仕事だろうに、あまり例のない設置の仕方のように思える。
 旧中山道を挟んだ向かい側にも、もう一軒の「須賀(庄兵衛)脇本陣」がある。
 また須賀(喜太郎)脇本陣跡の隣が「高札場跡」で、復元された高札が立っている。

倉賀野神社(15:02)

 少し先の「倉賀野神社入口」で左に入ると、右手に倉賀野の総鎭守である「倉賀野神社」がある。この神社は見どころや掲示された解説板が多く、全てを紹介し難い。
 先ず目につくのが入口左右の玉垣や常夜灯に飯盛女の名前が刻まれていることだろう。
     神社に向かって左側・・・「金沢屋内 りつ ひろ きん」
     神社に向かって右側・・・「舛屋内  はま やす ふじ」
 ここの飯盛女は、とくに裕福だったのか、それとも新町で泊まった小林一茶のように半ば強制的に寄付させられたのか。いずれにしても結果的には後世に名を残したことにはなる。
 倉賀野宿には寛保弐年(1742)、宿場女郎屋の鑑札が許可され、64軒の旅籠ができ、2百人ほどの飯盛り女がいたという。旅籠一軒に飯盛り女は2人という定めがあったが、3人平均以上いた計算になる。このように、飯盛り女が一番多かった頃で、その数が多すぎて弊害があったとみられ、享和3年(1803)には手入れが行われ、刑に処せられた者が出ている由。境内には、次のような解説板が建っている。
                    
常夜灯、玉垣と倉賀野宿
 中町下町境にある太鼓橋は享和二年(1802)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出しあって石橋にかけ替えたものである。
 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺統合令により明治四十二年(1909)倉賀野神社に合祀された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き、常夜灯と玉垣は倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
 天保時代(1830〜1843)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜灯は文久三年(1863)「三国屋つね」が寄進したもの。玉垣にも「金沢屋内 りつ ひろ きん」「舛屋内 はま やす ふじ」「新屋 奈美」など数多く刻まれている。
 また、元紺屋町の「糀屋藤治郎」、田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀感を物語る貴重な石像文化財である。
(狂歌)「乗こころよさそふにこそ見ゆるなれ 馬のくらがのしゅくのめしもり」   十返舎一九
                    
<倉賀野神社の由来>
 倉賀野神社は旧社名を「飯玉宮」と言い、「飯玉大明神」「飯玉社」などとも呼ばれていたようである。その後、明治10年に「大国魂神社」と改称し、1906年(明治39年)の勅令(神社統合令)により、同43年に近郷諸社を合祀して現社名「倉賀野神社」になっている。
 創建は崇神天皇四十八年、皇子豊城入彦命が東国経営に当たり、斎場を設けて、松の木を植えて亀形の石を祀ったことから始まる。日本書紀によれば、豊城入彦命は上野国の一大豪族上毛野君の祖である。大和時代から、上毛野国安堵のために建立されたという古い神社で、御祭神の大国魂大神は、大国主命の荒魂と言われる。
 本殿は一間流れ造り、銅板葺き、元治2年(1865)上棟、社殿は総ケヤキ造りで本殿正面には種々の動物の見事な彫刻が飾られ、豪商らの寄進の多さの現れだと言われている。

 境内奥、社殿右裏手には、飯塚久敏の「橘物語」の石碑もある。飯塚久敏は倉賀野宿出身の文人で越後の歌人、良寛の非凡さに着目し、没後12年に良寛初の伝記を書いたのが「橘物語」である。 碑文には、橘物語の書き出しの部分が以下のように刻まれている。
                    
橘 物 語
 いまはむかしゑちごの国に良寛とゐふ禅師あり 梅さかりなる頃人のもとに
  こころあれバ たづねてきませ うぐいすの こづたひちらす うめの花見に
  天保十とせせまりよとせというとし
                          飯塚久利
                            しるす

 なお、文中の「天保十とせせまりよとせというとし」とは、天保14年(1843)のことである。 
 社殿裏手には末社が列座し、「風神社」「雨神社」「海神社」「火神社」「金神社」「山神社」「木神社」「土神社」「水神社」「大蔵御祖社」がある。
 北向道祖神の幟がはためく先には小さな祠があり、「上町惣子供 施主大島三右衛門」「 文化二年(1805)乙丑正月吉日」と刻まれた一体の双体道祖神が祀られている。安政3年(1858)の倉賀野の大火の時、延焼をくい止めた火伏の神とされ、倉賀野城跡にあったのを昭和12年(1937)に移転したと記してある。
 また、太々神楽の舞台や脇本陣須賀庄兵衛家の妻・円が浪速から買い付けたという天明神輿が境内にあり、往時の倉賀野宿の繁栄振りが窺われる。そのほか、庚申塔など多くの石碑もあったが、街道の道路工事などでここに集められたものと思われる。

安楽寺(15:14)

 中山道に戻り、少し行くと右手に「安楽寺」がある。倉賀野宿の京側外れがこの安楽寺を出た辺りで、出口には「上の木戸」が設けられていたという。
 安楽寺の本堂裏手のこんもり盛り上がった小山は「安楽寺古墳」で群馬県指定史跡である。直径約30m、高さ4mの円墳で7世紀末の築造。石室内の奥壁と左右両壁には鎌倉時代末に彫られたと推測される薬師仏7体が残されているが、公開はされていない。
 街道筋にはこの先にも古墳があるが、この地帯はそういう所なのだろうか。

 また門を入った左側の囲いの中には、将棋の駒の形をした「異形板碑」が、屋根付きで安置されている。風化のため紀年は不明だが南北朝時代(1300年代)をくだらないと見られている旨の解説板が建っている。一時は天平時代のものと言われ、最近14世紀のものと判定されたらしい。大きさも充分あり、これまで見た板碑の中ではトップクラスと思われる。

 安楽寺の本堂は、7世紀後半に造られた古墳(円墳)の南半分に建てられているが、石室の壁に、7体が彫られている仏像が当寺のご本尊で、「七仏薬師如来」と呼ばれ、奈良時代天平9年(737)、行基作と伝えられるもので、12年に一度(巳年)に開帳される秘仏である。

 本堂前には、常夜燈と安永4年(1775)の銘入りの大きな庚申塔が建っている。
 また、境内には小さな御堂もあり、「勝軍地蔵尊」や「二十二夜堂(観音堂)」があり、これらにも夫々解説板が付されているが、この観音堂は、国定忠治一家の代貸空ツ風(小山)の長四郎が、「幻の火伏の名号」の巻物一巻を授与された所である。

倉賀野浅間山古墳(15:25)

 その先右側にホンダと日産のデーラーがあり、左側はマルエドラッグがある所で、マルエドラッグの手前を左裏前方に行くと田圃の先に小丘が見え、「倉賀野浅間山(せんげんやま)古墳」がある。昭和2年国指定史跡で、県内では太田市の太田天神山古墳に次ぐ第2番目の規模を有する巨大前方後円墳である。
 全長171.5m。木が茂り薮が深いので上に登るのを断念して降りようとしたら、先刻通りがかりに挨拶した農作業中の人が「上に登った方がよい」と合図してくれたので、藪こぎ道を上って向こう側に降りたら、解説板が道路際に建っていた。
 往時は街道からよく見えた筈だが、今は建物が視界を遮るため、知らないと通りすぎてしまう所である。その奥にも、十分ほど歩くと、「大鶴巻古墳(全長137m)」、その隣に「小鶴巻古墳」があるそうだが、これはパスした。この辺りは古くから「烏川」沿いに集落が生まれた地帯らしい。

ゴール(16:05)

 あとは延々と歩き、上越新幹線の下を潜り抜けて高崎市街に入り、上信電鉄の踏切を渡っていく。その少し先で高崎駅への近道をし、17時頃から駅前で軽く打ち上げ、知人宅泊まりの村谷氏と別れて、3人で17:58高崎発列車にて帰路についた。