「中山道」を歩く

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 2009.02.15(日) 中山道第5回目 熊谷駅~本庄駅

 前回と同じ電車に乗る。前回は北本駅8:26着だったが、今回は8:46熊谷着と20分遅いが、前回の餐歩が僅か電車20分相当だったとは・・・
 前回急遽欠席となった清水氏と車中で逢い、改札口で先着の村谷・西両氏と共に前々回通りの4人で8:50に熊谷駅を出発する。
 きょうは昨日ほどではないものの、最高気温16度程度が予想される絶好のウォーキング日和で、先週8日の村谷氏との日光街道歩きの時とは雲泥の差だ。

熊谷市とは

 熊谷の歴史は古く、縄文・弥生時代にまで遡る。8世紀頃敷かれた条里制が今も別府・奈良・中条・星宮地区に残され、平安から鎌倉時代にかけて関東地方で武士が台頭し始めるや、熊谷地方の武士は“武蔵武士”として目覚ましい活躍をしたようだ。
 中でも、一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実(駅北口正面に銅像・北村西望作)は特に有名である。
 江戸に幕府が移されるや、日本橋から熊谷を通り、長野・木曽を経て京都に至る中山道が主要街道になり、以後、熊谷は重要な宿場町として栄えていく。また、合わせて秩父街道への分岐点「熊谷宿」としても交通の要衝の役割を担い、商業都市としての形態も整え大きく発展した。特に、荒川その他の河川を利用した舟運によって、江戸をはじめ各地と交流し、現在の商業都市としての機能がすでにこの時代から始まっていた言える。
 明治16年7月に上野―熊谷間61.1kmの鉄道が開通し、中山道の宿駅であった熊谷は、交通手段が徒歩から鉄道へ移り、さらに発展を続けていった。昭和8年には県下2番目に市政を施行し、秩父や県北地域の広域圏の商業中心都市として機能していく。
 第2次世界大戦末期の戦災で市街地の大半を焼失したが、いち早く復興を遂げ、県北の中核都市、新幹線都市として発展している。

熊谷直実像(8:51)

 最初に、駅北口正面にある騎乗姿の「熊谷直実像」を写真に撮る。
 熊谷直実は、永治1~承元2(1141-1208)の人で、平安末~鎌倉前期の武将。武蔵国大里郡熊谷郷の住人である父・直定の早世により、兄の直正と共に久下郷の久下直光に養育される。
 保元元年(1156)の乱では源義朝に従い、続く平治元年(1159)の平治の乱には源義平に従軍。ついで平知盛に仕えた。治承4年(1180)の石橋山の合戦では大庭景親軍に属し、源頼朝と敵対したが、まもなく麾下に入る。平氏に寄る佐竹秀義追討戦で功を挙げ、熊谷郷の地頭職に復帰した。
 その後、源義仲や平家追討戦では目覚ましい活躍を見せ、特に元暦元年(1184)の一ノ谷の合戦では子の直家と共に先陣を切り、敗走する平敦盛を格闘の末に討ち取った。
 文治3年(1187)鶴岡八幡宮で流鏑馬の的立の役を命じられるが、これを拒否したため所領の一部を没収された。久下直光としばしば領地を巡る争いをしていたが、建久3年(1192)話し合いに敗れてそのまま出家。法然に帰依して弟子になり、法名を蓮生坊と称した。

熊谷宿

 熊谷宿は、中山道第8宿で、日本橋から64km、深谷宿まで10.8km 、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒 の宿であったが、空襲で市街地の7割を焼失し、宿場らしい景観は消えている。歴史的には、 一ノ谷の戦(1184年)で源氏方の勇将として名を馳せた熊谷次郎直実が領有していた地であるが、地名は直実の父・直定が熊を倒したのに因む由。
 忍藩領に属し、忍藩の陣屋もあった。二・七日に市が立ち、白木綿・太織物などが売買されていたほか、酒屋、肴屋などもあって賑わったという。

高城(たかぎ)神社(9:03)

 前回の歩行終点である「駅東」交差点への復帰は略し、真っ直ぐ北へ直進して「筑波」交差点で旧中山道(国道17号)に出、そこを左折する。「本町二」「市役所入口」信号の先、右手に「コミュニティ広場」なるものがあり、その先に鳥居と100m程の参道が右に伸びている「高城神社」に立ち寄り、本日の歩き旅の無事を先ずは祈願する。

              
高城神社略記(抜粋)
 御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
 由 緒
 平安時代延喜五年(905年)、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。
 現在の社殿は、寛文十一年(1671年)に忍城主、阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
 宝 物 熊谷絵地図、青銅常夜灯、蹴まり、絵馬、古文書等


              
高城神社由緒書
 四季折々、多くの熊谷住民に親しまれている高城神社は、創始奉斎は奈良時代以前と伝えられています。『延喜式神明帳』に「大里郡一座髙城神社」と記載されていることから、このことがうかがわれます。
 天正十八年(1580)豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際、忍城(現・行田市)も攻められ、髙城神社も災禍に遭い社殿を焼失しました。その後、寛文十一年(1671)に再建しましたが、忍城主、阿部豊後守忠秋が「髙城神社は式内社」であることから社殿再興を計ったのがきっかけでした。
 この時、再建された本殿・拝殿は今もなお当時の面影そのままに残されています。
 (本殿・拝殿・手水舎以外の建物は昭和二十年八月十四日の熊谷大空襲によって焼失)
 祭神は『髙皇産霊尊』で「縁結び」「家内円満」「商売繁盛」の神として崇敬されています。
 神事として、毎年六月三十日に「胎内くぐり」が行われます。国道17号に面した一の鳥居に直径4メートルもある大きな茅の輪を設置し、その茅の輪をくぐって厄災を取り除くというものです。
 また、毎年十二月八日には「酉の市」が境内で行われます。熊谷酉の市発祥の地として髙城神社には熊谷住民だけでなく多くの人たちが熊手や飾り物を求め、足を運びます。
 境内には樹齢六百年以上のケヤキが数本あり、御神木のケヤキにいたっては樹齢が八百年以上と言われています。

 境内の末社には、熊谷の地名を産んだ「熊野社」、六柱の神をまつる「六社」、新生児のお食い初めの時に歯ぐきに当てると丈夫な歯が生えると言われている赤石が敷き詰められている少彦名神(医学の神様・歯の神様)をまつる「天神社」がある。

 高城神社は大里郡の総鎮守で、熊谷直実の氏神でもあった。入口右の青銅製常夜燈は、紺屋が奉納したもので市の文化財に指定されている。本殿左手には6社(右から白山大神・琴平大神・八幡大神・大国主大神・鹿島大神香取大神・伊奈利大神)が一つの社殿内に区切られた形で祀られ、その左後ろに、「末社天神社」や「熊野神社」が鎮座している。また、玉垣に囲まれ、幹周に注連縄を張られた古木も見事である。
               末社天神社
 御祭神 少名彦名大神
 御祭神「少名彦名大神」は医薬・子育ての守護神として厚く崇敬され、特に当社玉垣内の赤石は御神徳・御神威のやどった御石として、往古よりこれを拝借し「丈夫な歯がはえますように」との願いをこめてお食初めの儀式を行ない、赤石は二個(倍にして)、返却する風習が受け継がれております。

               熊野神社の由緒
 永治年間(注:1141~42)、この付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。
 明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪那岐命を祭り、明治四十年一月十四日に当高城神社境内地に遷し祭られた。
 また同年四月二十日に熊野神社地六十二坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。
 この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして圓照寺の関係は深く、直貞によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。

高札場跡(9:10)

 街道に戻ってすぐ、「市営駐車場入口」交差点左手前歩道上に「札の辻跡」の碑と解説板が建つ。
               
史跡「札の辻」
 札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目をひく所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間(1704~1711)に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。
 場所は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれているので、今の大露地と中山道の交差する この説明板附近と推定される。
 大きさは、
  一、高さ 一丈一尺(約三.三米)
  一、長さ 二間四尺三寸(約五米)
  一、横  六尺四寸(約二米)
とある。
 現在、高札は本陣であった竹井家に十四枚残っている。
               昭和59年3月                     熊谷市教育委員会


本陣「竹井家」跡

 「鎌倉町」信号手前左歩道上に、「本陣跡」の碑と解説板がある。本陣の別邸だった「星渓園」(回遊式庭園)が近く(本陣裏手)にあるので、後刻立ち寄った。
                
史跡「本陣跡」
(前略)
 熊谷宿の本陣は、明治十七年(1884)の火災と昭和二十年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永二年(1849)一条忠良の娘寿明姫 宿泊の折道中奉行に差出した 本陣絵図の控が 竹井家に残っており、その絵図によって模様が細々とわかる。中山道に面し、間口十四間五尺(約二七米)で奥は星川にまで至り、 上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など、全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に 屈指のものである。
               昭和59年3月                     熊谷市教育委員会


旧道碑・宮沢賢治詩碑

 街道右手に往時の中山道の道筋だった右手の「八木橋デパート」前(角)に、自然石に彫られた「旧中山道跡」の碑があり、右横に宮沢賢治詩碑「熊谷の 蓮生坊が たてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ  賢治」がある。往時の街道は、八木橋デパート内を斜めに横切っていた。デパート内には中山道に関するパンフレットも備えられているそうだが、開店前なので手前を右折して「熊谷寺」へ向かう。


熊谷寺(ゆうこくじ)(9:18)

 熊谷寺は、「浄土宗蓮生山熊谷寺」と言い、熊谷直実の出家後の元久2年(1205)開山の由。嘉永7年(1854)に焼失し大正4年(1915)に再建された。全てケヤキの赤味材を使用した大伽藍。熊谷直実一族の墓とされる宝篋印塔が残っているが、境内は門・柵共に閉じられ公開されていない。柵を開いて中に入ってみたが公開していない旨の張り紙があったので退散したが、威風堂々とした様は庭園の美しさと共に心残りである。なお、寺院についての詳細は、同寺のホームページに詳しく掲載されている。
  http://www.yukokuji.com/mt_annai/

 熊谷寺を見た後は、八木橋デパートの裏手を回って「中仙道道路元標」を左に見る。道筋はここを右折し、国道と並行する裏手の旧道(一番街)へ入っていくのだが、その前に、八木橋デパートの北西角にあたる「本石二丁目」交差点を西(上熊谷方向)へ150m程寄り道し、先述の「星渓園」に向かう。

星渓園(9:26)

 立体歩道橋で「本石二丁目」交差点を越え、左手にある「竹井本陣」の別邸「星渓園」を訪れる。入場無料なのに立派なパンフレットや資料がおかれており、「玉の池」を一周して見事な日本庭園の美を堪能したが、和装婦人達の茶会風景もかいま見ることができ、何やら琴の音でも聞こえてきそうな感がある。

 元和9年(1623)の荒川の洪水で、星渓園西方にあった土手(北条堤)が決壊して池ができ、清らかな水が湧き出るようになったので「玉の池」と呼ばれ、市内を流れる星川の源になったが、荒川扇状地における大量の砂利採取や都市化の影響等により、昭和30年代には湧水が枯れてしまう。そこで、井戸水や農業用水の補給で星渓園の景観を守ってきたとのことである。現在は、取水した荒川の水を流し込むことによって、四季を通じて安定した水位を保っている由。

 慶応年間から明治初年にかけて、熊谷地方の産業経済発展に数々の功績を残した竹井澹如翁が、ここに別邸を設け、敷地の約3分の1を占める「玉の池」を中心にそれを囲むよう木や竹を植え、名石を集めて回遊式庭園「星渓園」を造った。明治17年(1884)に昭憲皇太后が立ち寄られ、大正10年(1921)には秩父宮が泊まられる等、皇族や政界人などが訪れている。

 昭和25年(1950)熊谷市が譲り受け、翌年「星渓園」と名づけ、昭和29年(1954)に市の名勝として市文化財に指定された。平成2年から4年に庭園が整備され、建物も数寄屋感覚を取り入れ、復元された。園内には、星渓寮、松風庵、積翠閣の3つの建物があり、茶会等の日本的文化教養の場として、利用できるようになり、料金も入園は無料である。

 因みに、竹井澹如は、群馬県甘楽郡羽沢村(南牧村)の豪農市川家に生まれ、慶応元年(1865)27歳の時に、熊谷宿本陣を務めた竹井家の養子となり第14代当主になっている。県会や政府の要職を歴任し、熊谷地方の治水や養蚕業の振興・熊谷県庁の誘致・区画整理の推進・私立中学校の設立等、郷土に密着した事業を積極的に進めたという。
 
秩父道志るべ(9:49)

 元に戻って旧道を進み、9:39左手に臨済宗の「松岩禅寺」を見、その先右手で9:41小さな「八坂神社」に参拝した先の、石原の信号で再び17号線に合流する。その先「石原北」交差点左手前角に県文化財の秩父道道標が3基ある。

 一番左側のが明和3年(1766)正月造立の「ちゝぶ道、志まぶへ十一り 石原村」と刻まれている。「志まぶ」は秩父34ヵ所観音霊場第一番札所四萬部寺(しまぶじ)の意である。清水・村谷両氏と共に秩父巡礼をした数年前のことを思い出す。真ん中のは、安政5年(1858)正月造立の「秩父観音巡禮道、一ばん四万部寺へ、たいらミち十一里」と刻まれている。右側のは、弘化4年(1847)8月に江戸講中が初登山記念に建てたもので「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」と刻まれている。

植木一里塚と麻多利神(10:08)

 しばらく進むと、10:05「植木」で道は国道17号線を右に分け、その分岐左手に「梅林堂」がある所を左斜めの旧道に入る。間もなく右手に日本橋から17番目の一里塚が現れる。東側(右手)の塚が現存しており、高さ12m、樹齢約300年という一際大きな欅が立っている。別名「新島の一里塚」とも言うらしい。
               熊谷市指定文化財史跡 一里塚(抜粋)
 この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇〇年以上のけやきの大木が残っています。(中略)
西側の石原分の塚は残っていません。
 宝暦六年(1756)の「道中絵図」には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、「榎二本づつきづく」とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。
               昭和十二年九月                     熊谷市教育委員会


 その向かい側に判読不能の古い石塔と左横に「麻多利神 改修の碑 昭和四十一年七月吉日 上植木氏子」と刻んだ自然石の碑がある。

忍領石標(10:12)

 その先300m程の左手に煉瓦壁で三方を囲まれた中に、更に玉垣風に囲まれた内側に古い「従是南忍領」と刻まれた忍領石標が建っている。横に「旧跡 忍領石標」の標柱と解説板がある。
               
忍領石標(抜粋)
 「従是南忍領」と彫られたこの石標は、忍藩が他藩との境界を明らかにするため、藩境の十六箇所に建てたものの一つです。始めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石標として建て直されました。その後、明治維新の際に撤去されることになりましたが、昭和十四年(1939)にこの石標が再発見されると、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在にいたっています。
 また大字石原字上植木には、「従是東南忍領」と彫られた石碑がもう一基ありましたが、そちらは現存していません。
               昭和十三年十一月                    熊谷市教育委員会


玉井窪川越場跡

 「久保島歩道橋」で国道17号を右斜めに交差し、引き続き細い旧道に入った辺りは「玉井」と呼ばれているが、『五街道細見独案内』に「満水のときは、往来を人足にて渡すことあり」と記されている「玉井窪川越場跡」が右手にある。整地された原っぱに大木が塚上に二箇所植わっており、まるで一里塚かと見間違えそうである。今井金吾著「今昔中山道独案内」によれば、「筋交橋」バス停付近に昔大きな川が流れていて川越し(玉井窪川越場)も行われていたという。今は何の変哲もない細い水路があるだけで、信じられない感じだ。

アイス休憩(10:44~10:51)

 この先は暫く見るべきものはない。10:33「玉井南」信号で17号バイパスを越え、「余計堀」や「地蔵」「不動尊」「十二夜碑」等を右手に見ながら旧道を行くと、右手にセブンイレブンがあり小休止する。この時期にしては珍しく、昨夏以来のアイス休憩となる。村谷氏は昨日の散歩で今日以上に暑い中で既にアイス休憩済みの由である。

観音堂(10:55)

 その先右手に観音堂があり、3体の観音像が祀られている。その右手に「移築記念 清風千里夢山水日夕佳」の石碑がある。

明治天皇御小休所趾

 更に「庚申塔」などを経て、立場で賑わっていた「籠原」に入るが、籠原駅入口の交差点の先左手に「明治天皇御小休所趾」の碑がある。当然、天皇陛下御小休に相応しい由緒ある旅籠か何かがあったのだろうが、何の解説板もなく、雰囲気も残っていない。それからはまた、延々とした旧道歩きが続く。右手にはネギ畑も見られるが、これが有名な深谷ネギだろう。

東方一里塚跡?(11:14)

 右手に赤鳥居の林立した「鬼林稲荷大明神」があり、その真向かい(街道左手)に空き地がある。恐らくここが往時の「東方一里塚」の跡ではないかとの推理話が仲閒から聞こえてくる。

昼食(11:35~11:55)

 「純手打 味膳」の看板を右手で発見し入店。渇いた喉に一人半本の麦酒と激旨の手打十割蕎麦の味がしみ渡る。一袋100円と書いた「菊芋」が置いてあったので、荷物にはなるがミニザックの中は脱いだウインドブレーカーしか入っていないので買い求める。調理方法のレシピも戴き北政所への土産にしたが、翌日天ぷらや煮物にして貰ったら、なかなかの美味で共々大満足だった。

国済寺

 再出発し、熊野神社・御嶽神社・愛宕神社が右手にあり、左手スーパーの先の細い路地を左に300m程入ると横の通用口から入れる国済寺がある。正門は更に先の国道17号線側にある。
 臨済宗南禅寺派の古刹で、「常興山」と号し、総門、三門、本堂が直線的に配置された禅宗伽藍は、江戸時代中期の簡素な美しい建物で、往時は寺域8万坪の広さを誇った由。三門は「貧・瞋・痴の三煩を解脱する境界の門」だそうだが、そんなことを忘れさせてくれる優美な門である。また、塀に囲まれた敷地は今でも超広大である。
               
国 済 寺
 関東管領上杉憲顕は十三世紀末、新田氏をおさえるため、この地庁鼻和(こばなわ)に六男の上杉蔵人憲英(のりふさ)をつかわし館を築かせました。憲英はのち奥州管領に任ぜられ、以後憲光・憲長と三代この地に居住しました。館は一辺一七〇米の正方形で、外郭を含めると二八ヘクタールあります。康応二年(1390)高僧峻翁令山(しゅんのうれいざん)禅師を招いて、館内に国済寺を開きました。本堂裏に当寺の築山と土塁が残っています。天正十八年(1590)に徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付されています。文化財に令山禅師と法灯国師の頂相、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されています。
     昭和五十七年三月                          深谷上杉顕彰会


見返りの松(12:34)

 旧街道に戻って再び西進する。国道17号と交差する「原郷」信号手前に「見返りの松」がある。残念ながら排ガス等のため2006年2月に枯れて伐採され、今は「深谷並木 みかへり乃松 深谷市長 安倍彦平書」と刻んだ自然石の碑と2代目の松が植えられている。
 深谷宿に泊まっていい思いをした旅人がここで振り返って遊女とのひとときを懐かしんだという言い伝えがあるが、江戸側の熊谷宿には遊女を置いていなかったので、深谷宿の人気が高く、江戸方面へと下る深谷宿泊まりの旅人達には後ろ髪を引かれる場所だったという。

深谷宿東常夜燈(12:38)

 国道と交差した少し先の右手に、高さ4mの大きな常夜燈がある。「東の常夜燈」と言われ、ここから「西の常夜燈」までの約1.7kmが「深谷宿」である。明治初期に「富士講」の人達によって立てられた常夜灯で、最近修復が行われている。

深谷宿

 中山道第9宿 で、日本橋から9里5町50間(75.1km) 本庄宿まで11.4km である。本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒、家数524軒で、古くは城下町だったが、寛永4年(1627)に廃城となった。
 深谷の地名は東部を北流する唐沢川が深い谷を形成していた事により名付けられた。上杉氏の城下町であったが徳川時代には中山道の宿場町として栄えた。江戸側から稲荷町、下町、仲町、横町、立町と続き、下町から仲町が宿の中心部だった。旅籠数80軒というのは草津や大津を除けば中山道最大という大きな宿場で、ほとんどの旅籠が飯盛女を抱え、遊郭もあり、それ目当ての客も多く、英泉の描いた「岐祖(きそ)街道 深谷之驛」にも多くのなまめかしい女性が描かれている。当時の男性なら二日目に草鞋を脱ぐ地点で、手前の熊谷宿が飯盛り女を置いていなかったために余計賑わったと言われる。また、毎月5、10の日に開かれる六斎市では生糸などが商われ、商人も多く賑わった宿だったという。

東源寺・菊図坊祖英塚(12:43)

 常夜灯の先の信号を右に100m程入った所に、今から500余年前の室町時代、文明18年(1486)に空蓮社真替上人によって開山・開基された浄土宗の「稲荷山東源寺」がある。
 本堂は幾度も火災に見舞われ、江戸末期の文久3年(1863)3月に第25世歓蓮社喜警信碩上人によって再建されたものである。御本尊は等身大の来迎阿弥陀三尊立像で、製作年代作者等は不明である。
 境内左手にある地蔵堂は、真新しいものに建て替えられていたが、正徳2年(1712)第13世信蓮社単警圓端上上人により、子供たちの健康を願う北向子育延命地蔵として深谷宿中仙道沿いに創建されたものを、大正初期になって東源寺へ移転してきたもので、老朽化に伴い最近建て替えられたようだ。曾ては8月24日に大祭が行われ、犬層な賑わいがであったようだが、現在では地蔵講も消滅してしまい、大祭もない由。
 また、山門前には、腰の高さぐらいの自然石の「菊図坊祖英塚」があり、傍らに解説板が建っている。市の文化財にも指定されている。
                
菊図坊祖英塚(きくとぼうそえいづか)
 この碑は、元は稲荷の地蔵堂の前(仲仙道南側)にあったが、後にここへ移された。この塚については文化二年(1805)に出た「木曽路名所図会」に、
 観音堂 深谷にあり、一本の柳のもとに菊図坊の碑あり
   其銘に曰
 我仏法に入りて風雅をさとり風雅にもとづきて仏法をさとる。
 死ぬ事を知って死ぬ日やとしのくれ
                  菊図坊
と記されている。菊図坊は、加賀国(石川県)出身俳人である。
 江戸時代の中ごろ、仲町の脇本陣杉田氏宅に、四・五年滞在し、深谷宿近隣の俳人を指導した。没後明和五年(1768)深谷の俳人南柳亭素山たちによって塚が建立された。塚の銘は加賀の俳人半化坊闌更の書である。
     平成六年四月                          深谷上杉顕彰会(第二十七号)


幻の三高院

 文化年間(1804~18)に架橋され、今は架け替えられている「行人橋」で「唐沢川」を渡り、「本住町」交差点を右に、次に左に曲がった先右手にある筈の「三高院」が見つからない。やむなく街道に戻ったが、徳川家康関東入国後の初代深谷城1万石の城主松平源七郎康直が創建し、その墓所がある寺だったのに残念。もっとも、徳川家康の甥の墓にしてはかなり質素らしいが・・・
 「深谷城跡(深谷城址公園)」もあるが、まだ街道から奥で、深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の外堀の名残をとどめるのみで城の遺構は全く残っていないようので、パスする。

深谷煉瓦の町・深谷駅舎(13:07)

 今度は、片道400mほど街道から左手に寄り道になるが、「深谷駅舎」を見に行く。「JR深谷駅」は、深谷煉瓦が東京駅にも使われていることから、「東京駅を模した駅舎」とされている。
 深谷は、かの偉大なる実業家「渋沢栄一」の生地であり、かつ渋沢栄一が立ち上げた日本最初の煉瓦製造工場があった地でもある。この駅舎の建物は「煉瓦の町深谷」を象徴する建物であり、駅前の「青淵広場」には「青淵 澁澤榮一像」が威風堂々建っている。駅舎の風格には仲間たちも一様に「これは凄い」とうなったが、間口・奥行きとも堂々たる歴史的建築物で、惜しむらくは駅舎へのエスカレーターの存在がやぼったく、折角の景観を大きく損ねていることだった。近くのホテルほかも駅舎を模した造りになっていて見応えがある。なお、深谷煉瓦は、東京では、東京駅のほか、迎賓館、日本銀行旧館などにも使われた由。

深谷本陣跡(13:23)

 13:19「仲町」交差点に戻って街道筋を先に進む。「深谷」信号の先右手に「深谷本陣跡」の解説板が「飯島印刷」の駐車場脇に建てられている。横の空き地から覗き見たが、その奥の飯島家が宝暦2年(1752)から明治3年(1870)まで代々本陣を務め、建坪160坪の同家には今でも「上段の間」「次の間」「入側」が残されているそうだが、残念ながら公開されておらず、古そうな建物の一端を垣間見ただけである。
 深谷宿の本陣は、当初、深谷氏の遺臣であった田中氏が務めていたが、当主の病弱を理由に本陣職の辞退を願い出、武田氏遺臣の飯島氏がその後宝暦二年(1752)以降引き継いで務めた。
               
深谷本陣遺構(部分)
 参勤交代制を定めた江戸幕府は権力者の休泊施設の運営を民間人に申し付け本陣と名付けた。
 現今本陣跡は江戸時代の交通制度を物語る記念の場所として扱われる場合が多い。
 飯島家は宝暦二年(1752)より明治三年まで本陣職を勤めた。
 上段の間、次の間、入側が古色を帯びてこの奥に現存している。
     平成八年五月                          深谷上杉顕彰会


田中藤左衛門商店(通称「七ツ梅酒造」)など

 右手にある。1716年に近江出身の商人田中藤左衛門が創業した蔵元で、現在は廃業し、大きな酒蔵と酒づくりの道具がそのままで残っているとか。
 その先左手には「清酒菊泉」の醸造元「瀧澤酒造」があるが、ここの工場の倉庫や煙突も煉瓦造であり、流石は深谷と言える。
その少し先左手には文久3年(1863)創業の「滝澤酒造」があるが、麹室や蔵の外壁、高さ30mの煙突も深谷産の煉瓦製である。「菊泉」などを醸造しており蔵見学もできるそうだが予約が必要なのでパスする。

西の常夜燈(13:30)

 左手に「呑龍寺」がある右手に、天保11年(1840)に建立した西の常夜燈がある。高さ4mで、先刻見た東の常夜灯同様、中山道筋最大級の大きさである。
 深谷宿はここまでである。逆に言えば、ここが深谷宿の京側入口にあたる。その向かいが子育て地蔵のある呑龍院だが、そう言えば宿の出入口にあたるここは、枡形のクランク状態になっている。大名行列の鉢合わせを避けたり、行列を整列させたりした所である。
               
旧深谷宿常夜燈(田所町)
 江戸時代仲仙道深谷宿の東と西の入口に、常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
 天保十一年(1840)四月建立。高さ約四メートルで、仲仙道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「三(丸に三)」はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明田三反が講の所有となっていた。
天保十四年には、深谷宿は約一.七キロの間に八十軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ仲仙道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。
     平成六年四月                          深谷上杉顕彰会(第二十八号)


清心寺(13:36))

 その先の信号の更に先の「清心寺入口」の案内看板に従って中山道を左に80m程入る。JRの踏切を渡った先に浄土宗「清心寺」がある。朱塗りの山門の前には右手に「浄土宗石流山八幡院清心寺」、左手には「史跡平忠度之墓」の石塔が建ち、山門を入って左手に、平家物語に登場し、また無賃乗車(只乗り)の代名詞にされた、薩摩守平忠度(ただのり)の供養塔がある。
 供養塔の脇に「忠度桜」の3代目があったそうだが見当たらなかった。
              
 清 心 寺
 この地は、荒川扇状地の末端で湧き水が豊富で、古代より人が住み、六~七世紀古墳が多く築かれました。十二世紀源平一の谷の戦いで岡部六弥太忠澄が平氏きっての智勇にすぐれた平薩摩守忠度を打ち、その菩提を弔うため忠澄の領地の中で一番景色の良いこの地に五輪塔を建てました。忠度ゆかりの菊の前が墓前でさした櫻が紅白の二花相重なる夫婦咲きとなり、忠度桜として有名です。
 戦国期深谷上杉氏の三宿老皿沼城主岡谷清英は、天文十八年(1549)萬譽玄仙和尚を招いて清心寺を開きました。江戸期幕府から八石の朱印状が下付されました。境内に忠度供養塔、腕塚、千姫供養塔、秋蚕の碑、岡谷繁実の墓がある。
     昭和五十七年三月                          深谷上杉顕彰会

 また、山門手前外側には、9基ほどの石造物が並んでいる。左から順に「三界萬霊塔」「観世音菩薩」「?地蔵」「馬頭観音」「聖観世音菩薩」「?」「馬頭尊」「庚申」「道祖神」である。

瀧宮(たきのみや)神社(13:53)

 元の街道に戻り、「宿根」信号で一旦国道を跨ぐ。右手にある「瀧宮神社」は明応5年(1496)にこの地方一帯が干ばつに襲われた時、水源地として掘ったところ水が湧き出したと言い伝えられ、2年後の明応7年(1498)に社殿が建てられたという。
 深谷が関東地方経営上の要衝と考えた上杉氏は、康正2年(1456)深谷城を築くや、城の西南に位置するこの瀧宮神社を坤門(裏鬼門)の守護神として崇敬すると共に、この湧水を城の堀に引き込み、歴代城主は領国安寧の御神徳を願って深く崇敬してきた。
 寛永11年(1634)に深谷城は廃されたが、深谷は主要街道の一つ「中山道」の宿場町として栄え、当社は仲町・本町・西島の鎮守「瀧宮大明神」或いは「大神宮瀧宮」として崇敬されてきたが、明治までは瀧宮山正覚寺が別当として祭祀を預かっていたようである。
               宿根総鎮守 瀧宮神社御由緒
 瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)は室町時代、後土御門天皇の御代、明応七年(1498)この地に鎮座されました。当社の裏手には昭和六十一年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていました。この湧水は、地内に点在する遊水池と共に当地一体に広がる十八町歩の水田を潤す水源でありました。
 社殿によると当地は応永二十三年(1416)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守源香丹の治めるところとなりました。明応五年(1496)六月、当地一帯が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しんだのでした。香丹は直ちに水利の向上を督励し、その水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したのでした。領民は歓喜し、これを神様のお恵み・導きとして、この遊水池に社殿を建て、瀧宮神社と奉称してお祀りしたのでした。「風土記稿」に「瀧宮明神社 村の鎮守にて 伝々」と記されるように、古くから当社は宿根地区の鎮守として信仰されてきました。
 御祭神 伊邪那岐命(男神) 伊邪那美命(女神)
 (以下略)


二十二夜塔(14:03)

 その先でまた国道に合流し、「岡部南」信号の先で右手に岡部六弥太公守本尊 子育て 安産 厄除け薬師如来が看板らしい「曹洞宗良告山正明寺」の参道があり、その入口に「二十二夜塔」を見つけた。「二十三夜塔」は是までに何度も各街道筋で見掛けているが、「二十二夜塔」というのは初めての体験だったので、帰宅後早速調べてみたら、概略以下のようだった。

 月待ち信仰は、特定の月齢の晩に講中で集まり、勤行や飲食を共にしつつ月の出を拝する民間信仰で、こうした月待ちの行事は、旧暦の十三夜から二十六夜まで各種あり、これを記念した塔が造られた。中でも、二十三夜塔は全国に普及し、特に関東地方や長野県に多く見られる。旧暦の二十三夜というと、月齢では約22の下弦の月になり、真夜中頃に東の空から半月が昇ってくる夜にあたる。
 古くは、月を神体と考えたようだが、やがて各月齢ごとに主尊が定められるようになり、例えば、十九夜、二十一夜、二十二夜の主尊は如意輪観音、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は阿弥陀三尊などとされる。神道系では月読命を主尊とする。
 如意輪観音を主尊とする月待ちは大半が女人講。これに対して二十三夜は、男性の講が比較的多い。女性は二十三夜に料理番などを務めさせられるので、その前日などに女性だけで「三夜待ち」の宴会を行うのが二十一夜や二十二夜だったようだ。

 なお、二十二夜塔はこの先でも見掛けた。甲州街道筋では二十三夜塔だったが、地域によって異なっていた面もありそうに思える。

漬け物の町「岡部」

 その先で旧道は国道17号線に合流する。岡部町の中心地で、漬物屋が並ぶ。14:06左手には「関東一の漬物名産地」の看板があり、漬物の匂いが漂ってきそうな雰囲気である。「岡部」の地名は岡部六弥太忠澄の出生地に因んでいるそうだ。

源勝院(14:10)

 その先右手に曹洞宗の「源勝院」がある。
               
源 勝 院
 源勝院(曹洞宗)は、岡部の地を領地とした安部家の菩提寺としてつくられた寺で、境内墓地の一角に二代信盛から十三代信寶(のぶたか)まで十二基の屋根付き位牌形の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。
 天正十八年(1590)、徳川家康の関東入国とともに、初代安部弥一郎信勝に岡部領が与えられた。信勝は、亡父大蔵元真追福のため、人見村(現深谷市)昌福寺八世賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。初代の信勝は、当時徳川家康と石田三成との対立が激しくなったので、家康に従い大坂城に詰めていた。慶長五年(1600)に大阪城詰所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。安部家は、初代以降岡部の地を領し、大字岡部の一角に陣屋を置いた。
 源勝院表門を入ってすぐ左手に安部家の祖、安部大蔵元真(信勝の父)の碑がある。安部氏は信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安部川の上流、安部谷に移り住み、元真の時はじめて安部氏を名乗った。元真は、はじめ今川義元に仕えたが、後に徳川家康に仕え、甲斐の武田信玄、勝頼父子と戦い、おおいに戦功をあげた。
 安部家歴代の墓及び、安部大蔵元真の碑は、町指定文化財となっている。
     平成三年三月                           埼玉県
                                      岡部町

 本尊の千手観音は「乳房観音」の別名をもっている。また、明治天皇が明治11年(1878)9月2日北陸行幸の際の御休所にもなり、それを記念した自然石の碑も建っている。また、境内には渋沢栄一の筆による記念碑がある。なお、岡部藩は2万石だった。

岡部神社(14:16)

 その隣に「岡部神社」がある。以前は「聖天宮」と称され、明治12年(1989)に岡部神社に改称して現在に至っている。祭神は伊弉諾尊、伊弉丹尊で、本殿には歓喜天の本像が安置されている。岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182~85)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。徳川家康の関東入国と共に岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として毎年3月17日の例祭には参拝したと伝えられている。また、昭和20年以前の夏祭には御輿が出て、大変賑わったと言い、その御輿は町指定文化財に指定されている。

岡部陣屋跡(高島秋帆幽囚の地)(14:20)

 元の街道に戻って岡部神社前の信号を案内板に従い左に行き、更に右に行くと幕末の「蛮社の獄」で鳥居耀蔵らの中傷に遭い獄に投ぜられた「高島秋帆」が幽閉されていた「岡部陣屋跡」がある。安部氏の治める岡部には城がなく、ここに陣屋があり、江戸時代末期の砲術家高島秋帆が弘化3年(1846)から岡部藩預かりとなり、ここで幽閉されていた。自然石に刻んだ石碑と解説板が建っている。なお、ここにあった陣屋門が、この先訪れる「全昌寺」に移築されている。
               
高島秋帆幽囚の地
 高島秋帆は、寛政一〇年(1798)、長崎の町年寄りの家に生まれる。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄をつとめたが、傍らに広く蘭学を収め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言した。天保十二年(1841)、秋帆四十四歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸が原で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術、砲術を紹介した。
 その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術、砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし、翌十三年(1843)、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化三年(1846)より許される嘉永六年(1853)まで岡部藩預かりの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に幽閉されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永六年(1853)、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性から急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え砲術方教授となり、慶応二年(1866)、六十九歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
     平成三年三月                          埼玉県

                                    
岡部町

石造物群(14:30)

 街道に戻り、「岡部」信号の先右手で「普済寺」への入口になる道の左右角に石造物が林立している。「武州榛澤郡岡部」と刻んだ石標や、数基の「馬頭観世音」ほかである。
 なお、ここ岡部は、1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により榛沢(はんざわ)郡岡部村、榛澤村、本郷村が成立。1896年(明治29年)3月29日 榛沢郡が幡羅郡、男衾郡と共に大里郡に編入。1955年(昭和30年)1月 それまでの岡部村と、同じ大里郡内の榛澤村、本郷村とが合併し岡部村を新設。1968年(昭和43年)12月、町制施行により岡部町となり、2006年(平成18年)1月1日 深谷市、大里郡花園町、川本町と合併し深谷市を新設している。

普済寺(14:32)

 石造物のある角を右手に入って右折した左手に、岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を開山として建立したと伝えられる「普済寺(別名:玉竜寺)」がある。曹洞宗の寺院で、寺入口に「岡部六弥太忠澄旧跡」の碑があり、六弥太が臨済宗の僧・栄朝禅師の開山として建立したと伝えられる。
 栄朝は栄西に師事し、関東地方に禅宗を広めようと活躍したが、当寺はその後曹洞宗になっている。門を入ると見上げるばかりの高い樅の木が二本聳えている。
 この普済寺には、清盛の弟・平薩摩守忠度の辞世の句「ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよひの 主ならまし 忠度」の自然石に刻んだ歌碑がある。

岡部六弥太忠澄の墓

 なお、近くには岡部六弥太忠澄の墓がある。普済寺を出て右折し、県道に突き当たって右に行き、すぐ左手の農地の先に柵に囲まれている。三基並ぶ五輪塔の中央が忠澄で、左が夫人の玉の井、右が父行忠の墓とされる。 夫人の玉の井は、有名な畠山重忠の妹である。

雲雀塚(14:46)

 中山道はその先「普済寺北」の信号の350m程先で国道と分かれ、斜め右に行く。その分岐点のすぐ先左手に国道に面した高みに「原中や物ニもつ可す(ず)鳴く雲雀 者せ越」と刻んだ芭蕉句碑がある。

島護産泰(しまもりさんたい)神社(14:53)

 暫く先の右手に榛沢(はんざわ)郡の総鎮守で安産の神「島護産泰神社」がある。創建は東国征伐で当地を訪れた日本武尊とされる。この辺り(島護)は、利根川の氾濫で、深谷北部の島や瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)が常に被害を受けたが、その加護にあずかるように信仰されたことから名が付いたいわれる。皇女和宮も下向の途中参拝したといわれている。また、境内左手には「遙拝所」の石碑がある。
               
島護産泰神社
 当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内各村からの寄付によりさなれた。祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・木之花咲夜姫命という。
 当社を島護(しまもり、“とうご”とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一〇日の春祭りには、里神楽が奉納される。
     平成三年三月                          埼玉県
                                     岡部町


全昌寺(15:01)

 その先左手に前述の曹洞宗「大桂山全昌寺」があり、ここには先刻立ち寄った「岡部陣屋」の長屋門が移築されて現存している。寛政9年(1797)落成の二階建ての立派な鐘楼があるが、平成9年(1997)の暴風で損傷し、修復されている。

消え失せた中山道

 「岡」交差点でR17号深谷バイパスを横切り前方両サイドに広がる田んぼの中の道を進む。前方左方向に見えてくる山並みが「赤城山」である。ここが中山道で唯一左に赤城山が見える地点になるらしいが、きょうは霞んで見えない。
 「小山川」を「滝岡橋」で渡ると、ここから本庄市域に入る。この辺りの中山道は消えうせており、往時はこの滝岡橋のやや上流(150m程度左手)を徒歩(かち)渡りし、その先200m程行った付近で現在の道に合流していたようだ。滝岡橋を渡ると道は左カーブするが、両側には田んぼが広がり、上には送電鉄塔が見られる無味乾燥な道が暫く続く。

寶珠寺(15:33)

 暫く先の「藤田小学校前」信号の先に、入口に石仏の立つ「宝珠寺」がある。真言宗豊山派で、朱塗りの見事な山門に至る杉木立の道は歴史を感じさせる印象深さがある。この山門は2階に梵鐘を吊ってあり、鐘楼門をも兼ねている。慶安2年(1649)に3代将軍家光から御朱印を賜り、その後の代々将軍からも安堵されている。

牧西八幡大(もくさいはちまんたい)神社(15:33)

 その先左手にある。牧西(もくさい)村の鎮守。建久6年(1195)に児玉党の一派、牧西四郎広末が鎌倉の鶴岡八幡宮から奉遷し祀ったが、文明3年(1471)の兵火で消失し、廃社になったが、慶長17年(1612)に依田五郎左衛門によって再興されている。柱に副柱がある「両部鳥居」も目を惹き、また、拝殿の天井には花鳥絵が描かれていた。
 当神社は、市文化財に指定されている「金鑚(かなさな)神楽宮崎組」を現在に伝えている。この神楽に使われる面は正徳年間(1711~16)以前の作と言われ、それ以前から当地で神楽が行われてきたことになる。江戸時代には、信州の上諏訪などに出かけ、奉納してきたとある。
               
八幡大神社
 祭神 誉田別尊(応神天皇)・神功皇后・中比売神(応神天皇后)の三柱
 当社は、建久年間(1195)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(1471)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(1612)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興かく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神譔幣帛料供進社の指定があった。
 なお、当社奉納の宮崎組神楽は、市の指定文化財になっている。
 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており神をよろこばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金譔神楽・宮崎組の起こりについてはまだ明らかでないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(1711~1715年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。
     昭和六十一年三月                               埼玉県
                                            岡部町


子育て地蔵尊と庚申塔群

 「牧西(もくさい)」信号の先で、右手に小さな地蔵尊を祀った祠があり、その右手に8基程の石仏群や「塞神」があるが、解説板もなく、由来その他は不明である。

御堂坂(みとざか)

 「元小山川」を渡り、国道17号を越えると、「御堂坂(みとざか)」と呼ばれていた500m程のなだらかな登り坂が続く。先程来の話題は、各人共に大分疲れてきていると見えて、何時に本庄駅にゴールインできるかに集中している。要するに、みな喉が渇いていて、早く生ビールを楽しみたい訳だが、どうやら16:15頃には・・・との見通しに落ち着いてきたようだ。

本庄宿

 御堂坂を登り切った辺りが「東台」と呼ばれる地域で、なおも行くと「中山道交差点」という4叉路の信号に出る。この辺りが「本庄宿」の江戸側からの入口になる。

 本庄宿は、中山道第10番目の宿で、日本橋から21里30町40間(86.5km)、天保14年(1843)の記録で本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒、家数1,212軒、人口4,554人の宿で旅籠の数も多く、古くからの城下町だったこともあり、中山道最大級の宿場町である。深谷宿と共に歓楽街として賑わい、飯盛女の数は百人を優に越えていたという。
 本庄城は廃城になったが、城下町として発展し、利根川の水運を利用して河岸も賑わった。榛沢村にあった定期市を寛文3年(1663)に移し、二と七の日を市日と定めた。

ゴールイン

 ゴールイン時刻が不確定というか、厳密に予定していない街道歩きなので、ある意味気楽ではあるものの、寄り道抜きの純・街道のみで22km強なので、実質では25km程度になっただろう。
 16:30頃、運良く本庄駅南口の前で格好の店に入店でき、大いに心身を癒して18時過ぎの本庄発電車に乗ることが出来た。いよいよ次回は高崎行きだ。