「中山道」を歩く

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 2009.01.25(日) 中山道第4回目 北本駅〜熊谷駅

 先週18日に続いて清水・村谷・西の各氏との4人旅の予定だったが、事情により清水氏が急遽欠席となったため、3人が8:30にJR高崎線北本駅改札口で待ち合わせ、東口に出て「中山道古道」を経由して「原馬室(はらまむろ)一里塚」へ向かう。

中山道古道と原馬室(はらまむろ)一里塚

 駅東口から50m程東で中山道の一本手前の古道中山道へと左折し、北方500m程で一旦JR高崎線線路を左側(西側)に越え、すぐ右手の小田急マンション手前の線路沿いの道を右折して100m程行くと左手に数m入った畑地の中に「原馬室一里塚跡」がある・・・筈だった。
 ところが、宅地化による開発進行のために撤去されたのか、三人で探しても見つからず、元の踏切を渡り返して中山道の街道へと戻る。
 本当なら、日本橋から11番目の一里塚となる「原馬室一里塚」が、明治16年(1883)の鉄道敷設時に東塚が壊され、西塚のみが残っていて、怩フ頂上に「史蹟一里塚」と刻まれた石碑と共に祠が立ち、昭和2年に県指定史跡になっているとの事前情報だったのだが・・・
 往時の中山道の道筋が鉄道敷設に伴って付け替えられたために、その後の中山道旧道と離れた存在にはなっていたのだが、朝一番のことでもあり殊更残念である。因みに、この付近には往時馬専用の室が沢山あったことが「原馬室」の地名の元になったと言われている。

東間浅間神社(8:48)

 先ほどの線路を渡り返して直進し、信号で街道筋に出て左折すると、150m程で左手に大きな鳥居が建っている。奥に周囲とはかけ離れた高みの怩ヨの石段があり、朝イチのこととて元気に登っていくと、瓦葺きの社殿が印象的な「東間浅間神社」がある。浅間神社と称するだけあって、昔は富士山がこの社殿のある高台からよく見えたであろう立地だが、今では向こうのマンション群が展望を遮ってしまっており、神様も苦笑しておられるのでは・・・と思ってしまう。
               
東間浅間神社の由来(抜粋)
当社御祭神木花開耶姫命は大山祇命の御女にして天孫瓊瓊杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神なり 今日日本の基礎を築き給ひし功徳は日本女性の範と敬仰し奉る
 古来、山火鎮護・農蚕の守護神、又婚姻子授・安産の霊徳神なり、初山に詣でる赤子は額に神宝の朱印を戴き無病息災を祈願し出世を願ふに崇敬極めてあつし


 当神社では「初山例大祭」が毎年7月1日に行なわれる。「初山」というのは、富士山の山開きに合わせ、前年の例大祭以降1年間に生まれた赤ちゃんの成長を願って、参拝する幼児の額に朱印を授け、お札と初山のうちわを戴いて帰る風習で、例年、全国各地から1000人近い赤ちゃんが参拝に訪れるというから驚きだ。

人形の街

 そこから2.2km程は淡々と歩くのみで、途中9:14「深井二丁目」信号で鴻巣市域に入る。
 信号を渡った先左手には「中山道・鴻巣宿加宿上谷新田」と彫った石標が建ち、地元の中山道への熱が窺われる。「人形町」というバス停や「鴻巣人形町局」という郵便局などがある人形の町「鴻巣」の始まりで、左右に人形店の看板や建物が目立ち始める。
 戦国時代に京都の人形師が移り住み、「鴻巣」と言えば「鴻巣びな」で知られる雛人形の産地として名を馳せ、「越谷」・「十軒店(江戸・日本橋・中山道沿い)」と共に「関東三大雛産地」の一つと言われた。
 街道の左右の目抜き通りには「人形」と名のつく町が4丁目まで連なり、その一帯を中心に今も多くの人形店が店を構え妍を競っている。雛産地となった由来は2説あるそうで、天正年間(1573〜92)頃、京・伏見の人形師が住み着いて人形作りを始めたという説と、日光東照宮修理の際に多くの人形師が住み着いたという説である。

雛屋歴史資料館(9:22)

 「深井二丁目」信号の二つ先の信号の先左手にある。江戸時代から現代に至る雛人形や、人形に関する貴重な古文書・写真などを所蔵し、江戸時代から営業を続けている。創業300年を超す老舗中の老舗「吉見屋人形店」の8代目当主関口敬二氏が店舗改装を機に雛蔵をそのまま使って展示・紹介したのがこの「雛屋歴史資料館」の始まりで、正に人形の町を象徴する存在と言えよう。1995年にオープンしている。
 蔵は元々3棟が横に並んでおり、明治30〜40年代に順次建てられたと推定され、いずれも間口9m、奥行き5m。この内の2棟を資料館に充て、もう1棟は喫茶室・ギャラリーに模様替えされた。
 屋根瓦が新しくなった程度なので、資料館とは言っても、入口の扉も内部の構造や雰囲気も重厚そのものの、まさに蔵。1棟目の2階の屋根裏には直径1m程の丸太の桁組が露出し、2棟目は8畳2間の座敷になっていて、嫁入り道具(タンスなど)も陳列台の役を担っているそうだ。
 展示されている雛人形は、個体で600体、組人形で700組にのぼり、江戸時代から吉見屋に収蔵されてきたもの以外にも、関口氏が30年に亘って各地で蒐集した鴻巣の雛人形や、古文書などがあるとか。
 そもそも資料館開設に至ったきっかけは、約40年前。関口氏が家業を継ぐ決心で美術大学に進んだ頃「鴻巣産の昔の雛人形が地元に殆ど残っていないことに気づいた」ことだという。
 この吉見屋では、人形制作体験や壊れた人形の修理(有料)も受け付けている。『雛人形製造沿革誌』などの古文書類約1,300点の内容は、鴻巣市発行の「諸家文書目録」に収められ、特に貴重とされる資料は市が管理・保管している。
 資料館は午前9時〜午後5時開館(木曜休館)で、入場料は一般500円(学生200円)なので、きょうの歩行距離が短くないこともあり、相談の結果入場は見合わせた。
その200m程先左手に「人形のふるさと化粧室」なる綺麗な公衆トイレがあり、利用させてもらったが、観光客向けにいろいろ配慮している様が感じられる。

■鴻巣宿

 中山道第7宿で、日本橋から47.7km、熊谷宿まで16km。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒であった。元は北本にあった宿駅を慶長7年(1602)ごろに移してできた宿駅であり、平安、鎌倉時代の武蔵武士発祥の地とも言われている。
 徳川家康が鷹狩で1ヵ月も滞在することが多かったため、鷹狩用の御殿も造られ、街道も整備された。また、四・九の市が立ち、栄えたが、明和4年(1767)をはじめ、度重なる大火で宿の大半が焼失している。

 鴻巣の由来は、別名を「鴻ノ宮」と言われた氷川神社(注:後記「鴻神社」の項参照)の境内の大木にコウノトリが住み着き、その巣が名物になったからだとか・・・。なお、鴻巣市の路上のタイル模様もコウノトリである。

勝願寺(9:32)

 「本町」信号の手前右手の武蔵野銀行前を左折して200m弱行った所にある。約6万坪の敷地を持ち、家康の崇信を得て大寺となった浄土宗の寺院で、関東郡代の伊奈忠次・忠治父子の墓をはじめ、酒井忠次・榊原康政・井伊直政らと共に徳川四天王と称された本多忠勝の娘で、家康の養女となったあと真田信之に嫁いだ小松姫、真田信之の三男信重とその室、豊臣秀吉の家臣で後に家康に仕えた仙石久秀の墓などが本堂左手にあり、解説板が脇に立っている。楼門も大きくて風格があり、時代の重みを思わせる堂々たる偉容である。

 また、境内右手に門で閉ざされた墓域には、丹後国田辺城主牧野家累代の墓があり、次のような解説板がある。
                
丹後国田辺城主牧野家累代の墓
 天正十八年(1590)九月 牧野康成は石戸領五千石を領した その子信成は加増により大名に列し石戸藩主となる のちに関宿に転じた信成嫡子親成は京都所司代を勤めたのち 寛文八年(1668)丹後国田辺城主三万五千石の譜代大名として約二百年続き明治維新を迎えた ここには歴代の当主夫妻が眠っている
                                             当山

 余談だが、なぜここに遠国の丹後国田辺城主牧野家累代の墓があるのか、また石戸領とは何処なのかという疑問が生じたので、帰宅後調べてみたら、概要以下のようであった。

 父定成と共に今川家家臣だった牧野康成(1548〜1599)は、永禄8年(1565)徳川家に仕え家康の関東入府の際、武蔵國足立郡石戸領(川田谷村ほか7ヵ村)およそ5千石を拝領し、この地に陣屋を築いた。「新編武蔵風土記稿」の川田谷村の項によると、「陣屋 御入国以来牧野讃岐守康成及びその子内匠頭信成・孫佐渡守親成等住せし陣屋なりしが...」と記されている。なお、陣屋は慶安3年(1650)に知行1,500石の旗本として分家した孫の永成が承継した時点では存続していたようだが、その後寛永期の江戸旗本屋敷の整備進捗に伴い当主が江戸へと転居し、陣屋は廃されたと推定されている。別名を「牧野家陣屋」「川田谷陣屋」「牧野家本陣」等とも言ったらしい。

 ところで、「勝願寺」について調べていくと、実は鴻巣市には、勝願寺なる寺が2ヵ寺存在し、その両者が大いなる関係を有している。一つは、ここ本町8丁目の勝願寺であり、朱印状ほか数々の文化財を有し、市民の憩いの場・鴻巣公園に隣接する浄土宗の勝願寺。もう一方は、登戸地区にある新義真言宗の勝願寺で、こちらはこれといった文化財も無く、墓地に六地蔵石塔婆があるのみという大差がある。
 なぜ、同名の寺が2箇所に存在し、しかも宗派が違うのか。

 登戸の勝願寺は、鎌倉時代、第4代執権で、壇越(だんおつ:施主の意)北条経時が、鎌倉の光明寺開山の僧・良忠にこの地を寄進し、一宇を建立したことに始まる。この時の宗派は浄土宗で、良忠の師・勝願院良遍の名を寺号としているが、1240年代のことである。
 時代は下り、天正年間(1573〜92)惣誉清厳が良忠ゆかりの地として本町に勝願寺を再興する。良忠縁の地というのは、良忠は生前、関東各地を渡りあるいて教化活動を行い鎌倉に入るが、足立の地での談義を弟子の浄忍房が記した「散善義略鈔」があり、その際、現在の本町で教化が行われたと見られ、その地が選ばれたのである。

 本町の勝願寺は、江戸時代に入ると徳川家康から朱印状を受けるなど、幕府の庇護の下、有力寺院として発展して行く。登戸から本町へ寺は移転したが、登戸の一宇は村預かりとなり、諸宗派の僧が住み替わる。2代将軍秀忠の頃、登戸の一宇に寺領10石が与えられ、堂舎を再建するが、当時住んでいた僧が真言宗だったことから、新義真言宗に改めたと伝えられている。現在の登戸勝願寺は、住宅地と生産緑地の間にひっそりと建っているそうだが、その山門は長い時の流れを感じさせるに十分で、少し傾き、扉は閉ざされているそうである。

 さて、訪れた本町の勝願寺だが、惣誉清厳がこの地に再興後、2世住職となった円誉不残上人は、学僧の誉れも高く、慶長11年(1606)に後陽成天皇から、僧としては最高位の紫衣を与えられる。
 この頃には名声も高まり、壇林(現在の大学のようなもの)として隆盛し、寛文年間(1661〜73)には関東十八壇林の一つとして固定されるに至った。

<勝願寺と徳川家康>
 徳川家康との関わりだが、家康は文禄2年(1593)、慶長2年(1597)、同6年(1601)、同9年(1604)と、何度も鷹狩に鴻巣を訪れ、文禄2年には勝願寺を訪問し、不残上人の学識に深く感銘したことから帰依し、その後様々な宝物を寄進したと伝えられているが、残念ながらこれらの宝物は度重なる災厄によって、殆ど残されていないという。
 家康の庇護を受けた勝願寺は、将軍家の家紋である三つ葉葵の使用を許され、現在でも軒丸瓦や仁王門にその紋を見ることができる。また家康は、腹心の牧野家、伊奈家などに檀那契約を結ばせ、勝願寺の地位安泰化を図ったため、勝願寺にはその両家の墓が残されることになる。

<勝願寺と結城御殿>
 家康は、信長の命による長男信康の自刃、秀吉の命で次男秀康を結城家に養子に出したが、関が原の戦いの後、秀康は越前北ノ庄など75万石を与えられ、常陸結城10万石から移封され、天領となった結城城は領主不在となっため、慶長6年(1601)に家康が来鴻の折、結城城中の御殿、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札、鐘などを勝願寺へ寄進した。
 移築された御殿は、桧皮葺、大入母屋破風造りの大規模なもので、本堂に向って右手奥に建てられていた。
 中は、114畳敷きの大方丈、96畳敷きの小方丈とに分けられ、大方丈には長押に金の葵御紋が貼り付けられたことから「金の間」と呼ばれ、東照宮の御像が安置され、小方丈には銀の葵御紋が貼り付けられたことから「銀の間」と呼ばれ、こちらには秀康の念持仏で、黒本尊と称する弥陀の木像が安置され、さらに獅子の間と呼ばれる本堂への廊下があったという。

 大方丈は、将軍が御成りの際に使用されたことから、「金の間」以外に「御成の間」とも呼ばれ、将軍以外には使用を禁じられていたと言われている。鴻巣御殿も、将軍の鷹狩の際に使用された建物だが、この御殿とは別場所にあったという。
 御台所は庫裏として御殿右手に建てられ、客間、応接間、僧の居室などがあり、御殿よりも大規模な建物だったという。
 太鼓櫓は手を加え、仁王門として利用された。仁王像は登戸の勝願寺から移されたもので、運慶作だったと伝えられ、その巧みな技をもって作られた像には「児喰い仁王」の話が伝えられているそうだ。仁王門の階上には、釈迦無仁仏、普賢菩薩、文殊菩薩が安置されていた。
 仁王門の左右に移築されたのが築地三筋塀で、表面に瓦の筋が三本見えたことから、この名が付けられたという。

 下馬札は総門の外、中山道に面した参道に柵が廻らされ、その真ん中に立てられた。当時、壇林の権威は高く、たとえ将軍といえども下馬しなければならない程だった。加賀の前田家はこの下馬札を見落としたことから、後述の如く法要寺という寺との縁を深めることになった。
 鐘は結城の「花蔵寺」にあったもので、応永2年(1395)鋳造という古いものである。
 勝願寺を描いた絵図によると、総門、中門、仁王門は朱塗りで、威風堂々とした門構えであり、また、御殿に面した本堂も桧皮葺だったと言われている。

<勝願寺の厄災>
 これらの建物群が現存すれば、間違いなく文化財となったであろうが、残念ながら明治3年(1870)の大旋風による被害と、同15年(1882)の火災により殆ど焼失してしまった。
 明治3年の風害は被害甚大だったようで、鴻巣全体でも、倒壊家屋は数知れず、屋根瓦が20〜3町は飛び、屋根がそっくりそのまま木の上にかぶさるほどの風だったというから、想像を絶するものだった模様である。勝願寺では、山内の巨木が多数根倒しになり、鳥たちの死骸で埋め尽くされる程の被害が出ている。金の間、銀の間は壊滅し、そのまま破却。三筋塀や開山堂と共に売却されてしまった。
 同15年の火災では、本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など、殆どの建物を猛火が嘗め尽くし、鐘もこの時に割れてしまう。幸い、総門が残り、仁王像も運び出され無事だったが、像は後日、何者かによって売却されてしまう。

<勝願寺の再興>
 既に朱印地や山内の一部は明治政府によって国有地化されていたため、この災厄は勝願寺にとっては手痛いものとなる。当時の住職、了寛和尚は各地へ赴いて浄財を募り、その甲斐あって明治24年に現在の本堂及び庫裏を復興するに至った。
 その後、明治43年に鐘楼が建立され、勝願寺の末寺で鴻巣の時の鐘を知らせていた「五智堂」の鐘が移されたが、この鐘も太平洋戦争のあおりを受けて供出されてしまい、現在の鐘は昭和44年に鋳造されたものである。
 仁王門は大正9年の建立で、仁王像は秩父三峰神社より寄贈されたものである。

<現在の勝願寺>
 往時、栄華を極めた勝願寺の面影を残すものは総門くらいだが、再興された仁王門や仁王像はそれに相応しく力強い印象を与えているし、入母屋屋根や唐破風を持つ本堂も威風堂々としており、当時の姿が偲ばれる。11月には勝願寺でお十夜が催され、関東三大十夜として親しまれている。

<勝願寺に眠る武将達>
 前述のとおり、勝願寺には、伊奈家の墓以外にも、文化財登録はされてはいないものの、戦国時代に活躍した人のお骨が分骨され、墓石が残されている。

* 真田小松姫の墓と解説板
 小松姫は本多忠勝の女で家康の養女となり、真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)に嫁し、元和六年(1620)二月二四日没した。
 生前当山中興二世の貫主円誉不残上人に深く帰依した。
 そのような縁で元和七年(1621)一周忌に際し信之の二女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔した。
 本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

真田信重の墓、信重の室の墓と解説板
 信重は真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男。慶安元年(1648)二月二三日鴻巣で病没した。
 母小松姫の縁で当山に葬る。また信重の室は鳥居左京亮の第六女 慶安二年(1649)一二月九日に没した。
 長野県松城町の西楽寺には夫妻の霊屋があって位牌が安置されている。

仙石久秀の墓と解説板
 秀久は信州小諸(長野県小諸市)の城主。初め羽柴筑前守秀吉の家臣で淡路国須本城主であったが天正一八年18年(1590)小田原征伐の武功により小諸を賜った。のちに徳川家康に仕え慶長一九年(1614)出府しての帰途発病、同年五月六日当地で没した。当山にて殯し同年一一月八日小諸の歓喜院に葬る遺命により当山に分骨建墓。
 本廟は芳泉寺(長野県上田市)にある。

 ◇芭蕉句碑
 「芭蕉忌千句怐vの石塔横に、三角型の自然石に難しい崩し字で彫った句碑がある。文献によれば「けふばかり人もとしよれ初時雨」と読むらしいが、凡人には難解すぎる。句碑裏には「此の碑は芭蕉の百回忌取越の法要をつとめ、門弟たちの句千句を碑の下に納めた」とあるらしいが、これも読み取れない。

 大変長くなったが、「勝願寺」とはこのような歴史的いわれのある寺院なのである。
 なお、きょう見る3つの「権八地蔵尊」(後述)の一つ目が当境内にあるとのことだが、気づかなかった。

本陣跡(9:49)

 「本町」信号を過ぎ、街道を150m程行った左手歩道上に「鴻巣本陣跡」の碑が建っている。この碑も、先刻「深井二丁目」信号先で見た「中山道・鴻巣宿加宿上谷新田」の石標と同様、黒御影?の真新しいもので、ある時期に一斉に新設・建替えをされたものとみた。

法要寺(9:54)

 9:52に鴻巣駅入口交差点を通過し、次の三叉路を右折すると、前述の「法要寺」がある。
                    
法 要 寺
 法要寺は深井寿命院(北本市)の末寺で、寺号は慈雲山医王院法要寺と称し、長禄元年(1457)亮惠上人の開基と伝えられ、本尊には行基作と伝えられる大日如来が安置されている。
 法要寺は梅に鉢の寺紋で、加賀前田家と同じ紋を使用している。これは慶安(1648年〜51年)の頃、加賀前田候が参勤交代における鴻巣の宿所として法要寺を利用することになった際に寺紋としての使用を許されたものである。
 法要寺には市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、市神の狛犬、深井景周の碑、関弥太郎の墓等貴重な文化財が少なくない。


◇深井景周(かげちか)の碑
 
深井勘右衛門は三河国に生まれ、十五歳にて江戸へ出て起倒流柔術を学び、その奥義を得たが、夢想流鎖鎌の術もよくした。諸国をめぐり、ここ鴻巣に至って深井家に入婿し、八代勘右衛門を継ぎ、名を景周と改めた。後に邸内に道場を開いて多数の門弟を集めその指導にあたり、世に、無敵斉先生と称された。
 天保三年(1833)六月三日、七三歳にて入寂。寿命院に埋葬される。碑は弘化四年(1790)門人一同の志により法要寺境内に建てられたものである。

◇狛犬
 
境内不動様の前に一対の石の狛犬が見える。台座に市神街と彫刻され、かつて中山道に鎮座していた市神様の狛犬であったことを物語っている。
 市神社は鴻巣宿の繁栄を願って建立された古い社であったが、明治三年(1870)の突然の大強風によって壊滅し、狛犬のみが残されたものである。

◇彰義隊士関弥太郎の墓
 
関弥太郎は明治維新に際して彰義隊士として上野寛永寺で戦った徳川直参の旗本であったが、敗戦後は榎本武揚らと五稜郭にて抗戦し、その後どのような経路をたどったものか明らかではないが、明治九年頃より鴻巣に居住し、名も岡安喜平次と改め長唄の師匠として風雅な生活に一生を送ったという。墓は薬師堂前にあり、門人一同と世話人によって建てられたものである。
                    昭和六十三年三月
                                   鴻巣市教育委員会


<加賀前田家と法要寺>

 法要寺の寺紋は、「梅に鉢」で、加賀百万石の前田家と同じ家紋である。前田家は、利家亡き後徳川家に仕えるが、江戸幕府においてもその勢力は衰えることがなく、参勤交代の折は中山道を通って、江戸と往復したが、法要寺との関わりは次のように伝えられている。
 慶安(1648〜52)の頃、参勤交代の折、加賀前田侯の行列は、当駅の宿所である勝願寺へ向かうが、御先が「門前下馬」の表示を見落とし、騎乗したまま山門に入ってしまう。これを見た坊主が住職に知らせたところ「門前下馬の浄刹ゆえ」と怒り、宿泊を断られてしまう。
 困り果てた前田家一行は、急遽ここ法要寺を宿所として利用するべく申し出たが、法要寺の方は当然そのような準備はなく、住職がなんとか手配して、宿所として利用することができた。前田候は、この住職の恩を忘れず、同寺に多大な寄進をし、前田家の紋の使用を許可したという。

土蔵造りの商家

 「鴻神社前」信号手前左手にある。この辺りは、道の両側に旧家や商家が現在も数軒の残されている。

鴻(こう)神社(10:02)

 「鴻神社前」信号を右に少し入り込んだ右手にある。鴻巣の地名の由来になった「こうのとり」の伝説のある神社。
                     
こうのとり伝説
その昔此の地に“木の神”といわれる大樹があって、人々は供え物をして木の神の難を避けていました。ある時、こうのとりがやって来てこの樹の枝に巣を作りました。すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたのでこうのとりは大蛇と戦い、これを退散させました。それ以後、木の神が、人々を害することがなくなったので人々はこの木のそばに社を造りこの社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになりました。


  
                   鴻 神 社
 鴻神社は明治六年(1873)にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したものでもとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。

「氷川社」
「鴻ノ宮氷川大明神」あるいは「端ノ宮(はじのみや・はたのみや)」ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神領は現在も鴻神社に残されている。

「熊野社」
 熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地三〇〇〇坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。

「竹ノ森雷電社」
 電神社は、現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(常勝寺末)となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。
鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治四十年四月八日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
ここには、鴻巣市の文化財に指定されている「香具拾三組御定免」「議定書」「商人講中連名帳並焼印」等貴重な史料が残されている。(以下略)
                     昭和六十三年三月
                                鴻巣市教育委員会


 神社の北側を東に行く街道は、往時「忍行田道」と呼ばれていた日光裏街道である。

箕田(みだ)観音堂(10:35)

 10:13「加美町」交差点のY字路を左の県道365号線へ入る。JR高崎線を信号待ちして越え、170m程先のY字路(真ん中に「そば処滝乃家」あり)を右に進む。暫くは歩道が殆ど無い2車線の道を進むことになる。「ふれあいセンター入口」信号から更に先の右手にある。
 ここにも、立派な黒御影の石版で「観音堂新築祈念碑」が建てられ、由来その他が詳説されている。
                    
渡辺綱守本尊吹張山観音由来
 当箕田観世音は、今を去る1000有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。
 この馬頭観世音は六孫王と言われた源経基公が戦いの折りに兜に頂いて出陣した一寸八分の尊像である。
承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢を見て、箕田の源仕公に譲りくだされた。
 箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵の守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の「怖畏軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散」のご加護の賜である。
 それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時、正に永延元年(西暦987年)の事であった。それ故に当観世音を「渡辺綱守本尊」と称し奉った。
 また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の「平等院」をここに移し「吹張山圓通殿」の別所と称したものである。
 当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月二日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また旧来より言伝えられていた一寸八分の尊像もこの度の本堂解体工事の際に無事見出され百数十年振りにその御姿を現しになった。
 更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音に当り、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言伝えられている。
数百有余年の風雪に耐えた本堂も老朽化が進み、この度「開山一千年の記念事業」として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。(以下略)
                                   平成三年二月吉日

 この観音は、別名「もとどり観音」と言われるらしい。

宝持寺(10:55)

 更に進んで、「宮前」「箕田小学校前」の各信号を過ぎた先右手にある「箕田氷川八幡神社」の裏手にある曹洞宗の「宝持寺」は、渡辺綱が父と祖父の追善のために建てたと伝えられる寺で、渡辺綱が使用していた刀と位牌があるという。また、山号は「曹傳山」と号し、院号の「美源院」は綱の法名である。
 朱塗りの山門を入ると、参道両側に椰子の木が林立していて、普通の寺院とは趣が異なる。
 ここも、「新本堂建立記念碑」と題した黒御影の大石版に由来その他が詳説されている。薬師堂や、鐘楼もある。

 
当山は 今より一千年前に渡辺綱が 祖父(箕田源氏の祖源仕) 父(源宛)の菩提を弔う為に建立したと伝えられています
 渡辺綱は源頼光に仕えた四天王随一と云われ 大江山の酒呑童子退治や京の一条戻橋では 付近に出没する鬼婆の腕を切り落とした事で有名な武将で 渡辺氏を名乗り嵯峨源氏一統の総領となりその名を残した人物です
 永正年間(1504〜20年)に東松山市「永福寺」の第二代住職壑雲玄巨大和尚によって曹洞宗寺院として再興され徳川幕府より五石の御朱印を賜り伽藍も立派で勢力を誇っておりましたが 相次ぐ火災のため昔日の面影を失ってしまいました
 従来の本堂が 大正十一年に古材を再利用して改築されたもので老朽化も進み 床の軋みや天井からの雨漏りなどの憂うべき現状でありました
 このため 改築造立を発願し 平成十二年の檀信徒総会において決定を見 また平成十四年は曹洞宗の開祖道元禅師様七百五十年の大塩基にたり 高祖様への御報恩の為に この事業が実施されました。(以下略)


箕田氷川八幡神社

 その前にある箕田氷川八幡神社は、明治元年に、三士塚にあった氷川社を合祀して、氷川八幡神社になっている。門前に詳説した解説板が建っている。

 周辺には箕田古墳群が多くある。現状は直径23m、高さ3mの6世紀後半築造の円墳だが、昭和58年の発掘調査で、元は直径32mの大型古墳であったという。『新編武蔵風土記稿』には錆びた太刀が出てきたという記述がある。この墳墓、通称三士塚という。三士とはおそらく源仕(つこう)、源宛(あつる)、渡辺綱の親子三代を指すものとも考えられるが、源仕とその妻子の墓だされているようだ。なぜそんな伝説が生じたかというと、この箕田の地は箕田源氏発祥の地とされているからである。
 源仕(しこう)は、源経基に仕え、平将門や藤原純友の乱の鎮圧に武功があり、武蔵太守に任じられ、これを石清水八幡の加護に依るものとして、分霊し、祀ったのが箕田八幡神社で、その後、渡辺綱が旧領である箕田の八幡社を再興、土地を寄進し、深く守護神として崇めたため「綱八幡」と呼ばれるに至ったという。

◇箕田碑
 社殿に向かって右手前の屋根付き木柵の中にある自然石の碑で、宝暦9年(1759)造立。碑文は読みづらいが、解説板によれば、源経基と、箕田源氏の由来、当地が武蔵武士の発祥の地だったことを伝えようとしたもので、これまでの既述と重複するのでここでは詳説は略すが、箕田源氏の由来を書いており、源經基(清和源氏の祖)の徳と、箕田源氏の活躍、そしてこの地が武蔵武士の本源地であったこと等が記されている。
 また裏面には渡辺綱の辞世なども刻まれている。これらによれば、嵯峨天皇−−源融(とおる)−−源昇−−源仕(つこう)(東国に下り武蔵権守)−−源宛(あつる)(箕田に住み着き箕田源氏を称す。)−−源綱(摂津渡辺に住み源頼光四天王の一人となる。)と続く。清和源氏とは別系統だが、清和源氏の祖源経基とは、源仕(みなもとのつこう)が仕えたという接点がある。

〈立場〉箕田追分

 氷川八幡神社を出て少し行くと「武蔵導水路」を「中宿橋」で渡り、中山道はY字路となる「箕田追分(「阿弥陀堂」信号)」を左前方へ向かう。右前方は、三ツ木・川面を経て、忍(行田市)や館林城下(群馬県)へと向かう道で、この追分には「立場茶屋」があった。 現在は県道76号線()鴻巣川島線)が分かれるY字交差点になっていて、中山道の標石と解説板があり、「箕田源氏ゆかりの地」と題した詳細な解説文がある。左手には「箕田地蔵堂」が建っている。古びた祠が長い街道の歴史を物語っているようだ。

前砂一里塚(11:41)

 右手の新田遊園地に「六地蔵」がある筈だったが見落とし、その先から「吹上町」に入る。前砂バス停の先左手に、日本橋から14番目の「前砂一里塚」が侘びしそうにあり、「吹上町」ではこうした史跡保存に不熱心なのか予算不足なのか粗末な木の一里塚標柱と90%読み取れない解説板が建っている。江戸から13里26町である。

昼食(11:49〜12:23)

 その先で11:49に分かれ又で右の道に進む。その分岐に「中山道みち案内」が建ち、栄泉の「鴻巣吹上富士遠望」と題した画もある。右手にJR線路があり、11:54に右手にあった「大村吹上店」に入店し、ピリ辛の「天狗うどん」を注文。今日は風もなく快適に歩いてきたが、このピリ辛が更に体を温めてくれる。

妙徳地蔵堂

 再スタートし、すぐにNTTの高い塔のある所で線路を右に渡り、すぐ左折して行くと、三叉路の分かれ又に小さな祠があり、地蔵が鎮座しており、「妙徳地蔵尊縁起」と題した立派な解説板もある。

〈間の宿〉吹上宿

 吹上は、八王子から日光への往還
「日光火の番道」と中山道が交わるところで、交通の要衝だった。現在、県道66号線の高架下に「中山道 間の宿」の標石と解説板がある。

本陣跡(12:39)

 「吹上駅前」信号を12:37に通過し、その先右手に「香川」という看板のある所を右に入ると「本陣跡」があるはず・・・というので行ってみたら、左の空き地のブロック塀ぎりぎりに「明治天皇御駐輦址」と刻まれ石碑があったが、周囲は往時の本陣跡を全く留めておらず、その碑の横に二つに割れた「聖蹟跡」の石標とともに辛うじて本陣跡だったことを証明している。。

東曜寺(12:46)・いぼ地蔵尊

 街道に戻って、「吹上本町」交差点を左折するのが「中山道」、直進は先で国道17号に合流する。右折するのが関東7名城の一つ「忍城」への忍道(旧道)で、日光を警護する八王子千人同心が500人ずつ通った「八王子千人同心・日光火の番街道」とか「八王子千人同心街道」と言われた道である。八王子から川越、松山を通って、そこから忍道を通り行田を通って日光へ行ったそうだ。

 左折すると、すぐ右手に「いぼ地蔵尊入り口」の石碑があるが通り過ぎる。宝暦年間(1751〜64)造立の「いぼ地蔵尊」は別名を「仲町のいぼ神様」と言われ、東曜寺の一画にあるらしいが、昔は馬頭観音で祀られていたらしいものの、この後も見つけられなかった。

 その先右手の「瑠璃山東曜寺」は、真言宗豊山派の寺院で、明治9年(1876)の火災で焼失した後再建された。正確な創建年も不明で、特筆するようなものは見あたらなかった。

吹上神社(12:47)

 その先、中山道は右に急カーブしており、カーブが終わった所右手に東曜寺に隣接して「吹上神社」がある。
                   
由 緒
 当日枝社は宝暦六年七月火災により焼失す その後再建年月不詳 明治六年四月村社に列せらる 同四十年四月十六日大字中耕地稲荷社 同境内八坂社 字下耕地氷川社 同境内内社琴平社 天神社の五社を合祀す
 当社は近江国大津市坂本の日吉(ひえ)大社(山王社)より神霊を分ち奉持して参りましたが明治四十年右五社を合せ吹上神社と改称す

■中山道間の宿碑

 100m程行くと、高崎線の歩道橋があり、その下に「中山道間の宿」の石碑と解説板がある。
 解説板には、先ほどの寄り大きな栄泉の画が「吹上富士」と題して大きく表示されているほか、「吹上『間の宿』」の説明書きがある。
 ここは忍道と松山道との追分で、立場茶屋があった所である。解説板によれば、吹上が重視されたのは日光東照宮を警護する武士達の日光火の番道(忍道、松山道)と中山道が町の中央で交差したこと、そして熊谷宿と鴻巣宿の距離が4里6丁余と長かったため、中間に休憩できる立場が不可欠だった訳である。
 また、ここは曾ての中山道がJR線路によって分断された地点である。中山道はそのまま線路に沿って歩くと、線路の左向こうに斜めに進む道路が見え、これが中山道であるが、線路があって進めないので、12:54ここの歩道橋を渡って右に行く。

榎戸怐E「吹上ふるさとの散歩道」案内板(13:02〜13:08)

 暫く先右手に公衆トイレ付きの小公園があり、小休止する。堰建設の功労者の碑などがある小公園になっており、近辺野坂歩道の案内板もある。

権八延命地蔵堂(13:12)

 しばらく歩くと、元荒川土手に突き当たる。その土手の手前にひっそりと「権八延命地蔵堂」が建っている。その昔平井(歌舞伎では白井)権八なる男がこの地蔵前で上州の絹商人を殺害して三百両を奪い、その現場を見ていたお地蔵に「このことを誰にも言うなよ。」と口封じをした処「わしは言わぬがおまえも言うな。」とお地蔵が答えたという伝説がある。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。銘文によれば元禄11年(1698)に火防のために建てたもので、権八はその前に鈴ヶ森刑場で処刑されている。鴻巣宿に入る手前の「勝願寺」境内にも「権八地蔵」があったが、権八地蔵は既述の「勝願寺」と「当地」、そしてこの先の「久下(くげ)村」と全部で3箇所あるらしいが、どれが本物なのか???らしい。

熊谷堤(13:13)

 すぐ先を登ると「熊谷堤」である。この堤は、天正2年(1574)に小田原北条一族で鉢形城主の北条氏那が荒川の洪水を防ぐために築いたという。元荒川に沿った堤防上の道で、景勝の地として知られた。明治16年(1883)の植樹を機に桜が1000本近くに増え、関東屈指の桜の名所になったが、その後戦災などで大半が失われ、現在は皆無になっている。
 遠く富士山が遠望できるほか、山名不明だが恐らく妙義山とか日光連山などと思われる冠雪の山々が見える素晴らしい風景で、往時の旅人達も旅の疲れを癒したであろうと想像してしまう。

 「海から71km」の表示が1km毎にあり、200m毎にも表示がある。

決潰の跡碑(13:26)

 暫く行った先に「決潰の跡」の石碑と解説板がある。昭和22年9月のカスリーン台風で荒川の堤がこの付近で決壊した跡である。右下に見える家々や街並みは低く、その大水害時の様が容易に想像できそうな地形であることが、景色の雄大さと対照的である。堤の川寄りでは、折からの無風に近い好天気の中、小型プロペラ機の離着陸訓練が行われていた。

久下(くげ)一里塚跡

 更に行った先の、土手をちょっと右に降りた所に、日本橋から15番目の一里塚である「久下一里塚跡」と「稲荷社」の祠と鳥居がある筈だが、三人で注意していたにも拘わらず発見できなかった。土手の上からなので絶対に見えるはずだという思いこみがあるいは仇になったのだろうか? 土手の中腹辺りが中山道の通っていた所である。

久下神社(13:50)

 気持良く歩ける土手道は2.2km程続き,久下(くげ)村で土手を降りて少し行くと、JAの手前右手に「久下神社」がある。久下村の鎮守で、明治43年(1910)に三島明神と周辺の10社を合祀、更に大正2年(1913)に14社を合祀し、この名になったという。「神社統合令」の影響は明治40年前後、神社界の台風だったことが今日一日の餐歩先でも鮮明である。

久下上宿道標(14:06)

 「ここは久下上宿 右吹上宿 左熊谷宿」の石柱とか、自然石の「此の街道、旧中山道」碑などの道標が、右手民家際にある。

権八地蔵尊(14:08)

 更に進むと再び荒川の堤に登る旧道の右手に3つ目の権八地蔵がある。この地蔵は元禄1年(1698)造立で先述の権八延命地蔵と同じ由来を持つが、どちらが本物かは定かでないという。
 往時は引き続きここから真っ直ぐに街道は土手沿いを伸びていたようだが、今は一旦左手の堤防に登って少し先で右に降りていくことになる。

元荒川と共に歩んだ久下(くげ)

 鎌倉時代に久下権守直光の領地だった所からこの地名になった。江戸時代、忍藩領だったこの地は幾度も荒川の氾濫による甚大な被害を蒙っているが、川筋の全面改修や護岸工事により舟便による交通が発達し、物資の集積地として栄えたという。

みかりや茶屋跡

 その先で堤を離れたすぐの所、右角の民家の塀の所に解説板がある。往時の茶店跡である。
  みかりや跡
 中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子(ゆべし)」が名物だったのだろう。また忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので「御狩屋」と呼ばれたという。

東竹禅院(14:19)

 その先左手を入った右側にある。「梅龍山東竹院久松寺」という曹洞宗の寺院で、「だるま石の寺」として知られている。寺の前に安政5年(1858)造立の庚申塔や馬頭観音碑・六地蔵のほか、弥勒菩薩などの石仏2体が安置され、現在まで29代の法灯を守っている。
 文禄3年(1594)豊臣秀吉から寺領30石を授けられ、以来徳川各将軍より幕末まで同じ石高の朱印地を賜っている。記録では、明治初年まで境内の敷地は20町歩(約20万u)もあった。こうした大伽藍も何度か焼失流出し、特に昭和20年8月14日の熊谷空爆では、建物、宝物、古文書等一切が灰燼に帰してしまっている。
 寺は建久2年(1191)久下直光の開創で、境内左手に直光とその子重光の墓や、荒川の洪水で流れてきたという達磨石が本堂に向かって左手にあるが、前面門扉が閉じられ、脇から入るようになっており、由来などの解説版も見当たらない。深谷城主の上杉憲賢が天文14年(1545)に再興し、天台宗から曹洞宗に改宗されている。
 墓地には久下一族(久下直光・重光など)の墓がある。久下重光は、熊谷直実と所領争いをし、負けた熊谷直実が遁世したことで知られている。
 綺麗な境内には、達磨大師が座禅を組んだような達磨石が置かれているが、これは寛文年間(1670頃)忍城主阿部豊後守忠秋の命により、秩父山中から禅宗の祖達磨大師に似たこの巨石を城中に運ばせるべく筏に乗せて久下まで来た時荒川河中に転落したもので、何度か引き上げを試みたものの成功せず、度重なる洪水で行方不明になる。それから260年程経った大正14年、この伝説の達磨石が荒川の東竹院の前の河原で偶然発見され、当寺の久下村では久下氏が呼び寄せて2kmも荒川を遡ってきたと噂され大変な騒ぎになったという。そして有史の手により川底から掘り起こされ東竹院に安置された由。

ムサシトミヨ(14:33)

 街道に戻って少し先の、川とは言えないほど細い元荒川を横切る。「ここは、世界で熊谷市にのみ生息するムサシトミヨがすんでいる川です・・・」と左手の川岸に立て看板があり、左横に詳しい解説板が建っている。ムサシトミヨは、埼玉県指定天然記念物の淡水魚であるが、川の水は実にきれいで、文明汚染にほど遠いのが嬉しい。。

八丁の一里塚跡(14:44)

 元荒川通りから更に歩くと、右手に見えてくる「曙公園」に、日本橋から16番目の「八丁の一里塚跡」の立て看板が建っているほか、園内には大きな石碑や祠も建っている。

熊谷駅でゴール

 その先で右手の秩父鉄道・上越新幹線・高崎線の先の線路北側に出る。すぐの信号で本日の歩き納めとし、左折して「熊谷駅北口」に向かうが、その途中右手にある「王将熊谷駅東口店」に入店し渇いた喉を潤して軽く打ち上げ、熊谷駅に向かう。熊谷駅北口には、騎乗姿の「熊谷直実像」があるらしいが、それは次回のお楽しみにして、普通便利用の西氏と別れ、15:59発の新宿湘南ライン特別快速に乗る。赤羽で村谷氏と別れ、17:10新宿発の京王線に乗車でき、スムーズな帰途になった。