「中山道」を歩く

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  2009.01.18(日) 中山道第3回目 大宮駅~北本駅

 9:20、大宮駅中央改札口外側待ち合わせで、中山道初参加の清水氏と、初回から連続参加の村谷氏に加え、餐歩初参加の鴻巣の西氏との4人旅の始まりである。前回は「氷川参道」の「十丁」で終えて大宮駅に帰着した関係で、そこから歩き繫ぐ予定だが、その前に2箇所ばかり寄り道するつもりで、先ずは「東光寺」へと向かう。空模様が予報通り曇天で若干怪しい感なきにしもあらずだが、先日の村谷氏との日光街道歩きの時に比べると全然暖かく、全く問題ない。

■中山道大宮宿

 大宮宿は、中山道第4宿で、日本橋からの距離7里16町(約29km)、次の上尾宿まで約8km、家数319軒、人口1,508人、本陣1、脇本陣9、旅籠25という、五街道全宿場中、唯一脇本陣9軒を持つ大きな宿だった。氷川神社を中心に門前町・宿場町・市場町として栄え、中山道屈指の規模を誇ったという。五の日と十の日に市が立ったそうである。
本村・北原村・甚之丞新田・右衛門八分・新宿中町・新宿下町・吉敷新田の7組で構成され、今の大門町・宮町・下町・仲町・吉敷町の辺りで、大宮駅に出る中央通と交わる所辺りが宿場の中心地だった由。

 寛永5年(1628)、関東郡代伊奈忠次により周辺農民を集めて宿が起こされた。一の鳥居から北へまっすぐに直進させ、門前にあった町家を街道の両側に移住させて宿場町を形成している。近代になり、明治18年(1885)日本鉄道大宮駅が開業し、その後高崎線と東北本線の分岐点にもなったため、交通の要衝として更に発展していった。現代では、繁華街になってしまい、旧宿場の面影は霧消し、標識や説明板なども殆ど見られない。

■中山道と古代中山道

 中山道ができた当初は、一の鳥居から氷川参道を通り、神社本殿脇の池の裏を斜めに横切って現在の中山道に出ていた。その後、門前町・宿場町・市場町としての発展に伴い交通量も増え、神域を通ることが不謹慎とされるようになり、現在のように大宮駅前を通るルートが正式の中山道になったという。どちらを歩いても構わないのだろうが、我々は前回も参道である「古代中山道」を「十丁」まで歩いてところで中断し、今回に繫ごうとしているので、引き続き氷川神社に向けて古代ルートである「参道」を通ることにし、そこから先は後述の「土手町の椎の木」を目指すことにした。

■東光寺

 先ずは駅東の街道に出て左折し、「大栄橋」信号の先右手にある古刹に立ち寄る。
 「大宮山東光寺」は北関東の名刹として曹洞宗約15,000寺のうち十指に入るほど古い歴史を持つと言われている。元は今の大宮公園東駐車場の交差点にある大宮黒塚大黒院の辺りにあり、この地には、今から300年程前に中仙道誕生と同時に移転してきたとされている。
 平安末期(約八百年前)武蔵坊弁慶の師匠で、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃などで知られる『安達原』の鬼婆の話に出てくる山城国京都鞍馬寺の東光坊阿闍梨祐慶(宥慶)法印が、黒塚の鬼婆々を法力をもって退散させ、鬼婆々に殺された人々を葬るために、この地に庵を結び東光坊と名付け天台宗寺院として開創したのに始まる。

 その後、鎌倉時代に梁室元棟禅師が開山し曹洞宗に改宗、江戸時代中仙道開設と共に現在地に移転して今日に至っており、草創以来860余年の歴史を有する曹洞宗の古刹である。
 『新編武蔵風土記稿』巻一五三にも取り上げられ、中仙道を往還する文人墨客たちが足を留めた所でもあるという。漢学者上山寿山、近代漫画の祖である北沢楽天、大宮市発展の礎を築く駅の誘致に努めた白井助七ら名誉市民の墓碑も祀られている。

 秘仏とされる本尊は1尺2寸の"東光坊薬師"(東方薬師瑠璃光如来像)で、祐慶がこの鬼女と対決し呪伏した際の護身仏だそうで、平成に入り新たに本尊大の薬師如来を開眼し、元の本像は胎内薬師と共に、13年に1度だけしか見ることの出来ない秘佛とされたらしい。
 境内には庫裡、寺務所のほか平成元年12月落慶の檀信徒会館(東光殿)があり、地蔵壇には江戸期の地蔵尊が多数祀られ、御内佛の江戸初期の作“萬日堂馬頭観音”が「新秩父三十三観音霊場第二十一番札所」になっている。

■さいたま市立博物館

 前回の歩きでは「氷川神社一ノ鳥居」から氷川参道(中山道古道)を大宮小学校横の交差点まで歩いて大宮駅に帰着したが、東光寺参拝後は「氷川神社入口」交差点で参道の「十丁」に復し、ここを左折すれば氷川神社方向だが、その前に角の市立図書館東隣の「さいたま市立博物館」に立ち寄る予定にしていた。そこは9時から開館しており、入場無料でもある。
 歴史博物館では、郷土の資料が年代順に展示・紹介されており、大宮宿の復元模型もあるというので楽しみにしていたのだが、9:26に「氷川神社入口」に着いた途端にその参道の美しさに一同が感動し、しからばと記念撮影する内に博物館立ち寄りを失念して氷川神社へと向かってしまった。朝一番の大ポカだが、途中から引き返すのも躊躇され、そのまま神社へ向かってしまったため、結局、計画倒れになってしまったのは残念である。

■大宮氷川神社

 大宮市という地名は、平成13年(2001)4月30日をもって地図上から消滅し、翌5月1日、大宮・浦和・与野の3市合併による「さいたま市」が発足している。新生「さいたま市」は、その後、平成15年に政令指定都市に移行し、現在人口は105万を擁する県庁所在地になっている。
 曾ての大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えた所で、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来するという。

 門前町としての繁栄ぶりは、その参道の長さにも象徴されている。氷川神社の一ノ鳥居は、JR京浜東北線「さいたま新都心駅」近くの、旧中山道の脇に建っている。この鳥居から本殿までは、ケヤキなどが植えられた参道が延々と2kmに亘って続く。

 二ノ鳥居は参道の中間地点にあたる市立図書館前の「氷川神社入口」信号地点。木造では関東一の高さを誇る大鳥居である。二ノ鳥居から約1km歩くと三ノ鳥居に達する。三ノ鳥居から一歩境内に足を踏み入れると、そこには古杉や老松などの大木が厳かな雰囲気を漂よわせている3万坪の緑豊かな空間が広がり、一同が感動している内に、周辺の緑の中に「神橋」が鮮やかな朱塗りの欄干を「神池」に映しているゾーンに達し、その先に、やはり朱塗りの巨大な「楼門」が聳えている。 木々で画された右手には並立して2殿が並んでいたが、どういう建物なのかは判らなかった。

 大宮氷川神社の創建は諸説があるようだ。社伝では、今から2,400有余年の昔(紀元前473年)、第5代孝昭天皇の3年4月創建と伝えている。(倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。) 
 延長5年(927)作成の我が国神社の最古の戸籍簿にあたる『延喜式神名帳』では、日本武が東夷征伐の折にスサノオノミコトを勧請したとしているが、別伝もある。既述のように、第13代成務天皇のとき出雲族の兄多毛比(エタモヒ)という人物が、夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)を拝命し、一族を引き連れてこの地に移住してきた。その時、一族の祖神を祀る杵築大社 (きずきのおおやしろ、出雲大社の前身)を出雲国からこの地に勧請して祀った。それが当社の始まりだという。氷川神社という神号については、出雲国の簸川(ひかわ:肥川、斐伊川)の川上にあった杵築大社を勧請したところから、その川の名前に因んで名付けられたとされている。
 こうしたスサノオノミコト勧請説の他に、『延喜式神名帳』に載る氷川神は元々見沼に宿る水の霊で、これが後に農業神と信仰されるようになったとする説もある。上代のことは、真偽を詳かにできないが、奈良時代以前に、この地に鎮座していたことはどうやら事実のようだ。

 神社は7世紀後半に入ると官社制度の成立によって、律令国家の厚い保護を受けた有力な官社が諸社の中心的な存在になってくる。こうした時流にうまく乗ったのが、武蔵国造の保護を受けていた氷川神社だったと考えられる。聖武天皇の時代に各国に一ノ宮の制を定めたとき、当社が「武蔵国一の宮」に定められたと、社伝は誇らしげに伝えている。また、『延喜式神名帳』では、当社は名神大社に列せられ、破格の月次新嘗の社格が与えられたとしている。そして、土御門天皇(在位 1198~1210)の時代に、正一位の神階が当社に授与された。文字通り武蔵の国全体でトップの地位を占めるようになった訳である。

 しかし、これも東京・多摩市の小野神社が元々の武蔵国一ノ宮だったのが後に当氷川神社に変わったと考えられる経緯がある。東京・府中市の「大国魂神社(六所宮)」の祭神や、南北朝時代の『神道集』の記述によると、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、大宮の氷川神社を三宮としており、今のところ中世までは(大宮)氷川神社を一宮とする資料は見つかっていない。しかし室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、氷川神社が小野神社に替わって武蔵一宮の地位を確立したと考えられる。

 鎌倉に武家政権が誕生すると、源頼朝は土肥次郎実平に命じて社殿の再建させ、社領三千貫を寄進した。治承4年(1180)のことである。頼朝以後も武門の信仰が篤く、執権北条氏、足利氏、小田原北条氏なども深く崇敬し、また徳川家も当社を尊仰したという。文禄5年(1595)、徳川家康は伊奈備前守忠次を奉行として、社頭を残らず造営させたという記録が残されているそうだ。

 明治元年(1868)、明治天皇が都を東京に遷すと、当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社に定め、天皇自ら行幸して祭儀を執り行った。次いで明治4年(1870)には官幣大社に列せられた。その結果、年々の例大祭(8月1日)には、勅使の下向があり、東游の奉納などの荘重厳粛な祭儀が執り行われ、昭和42年(1967)10月には、明治天皇の御親祭百年大祭も執り行われたが、それに先だって社殿その他の諸建物の修復工事が行われた。

 「氷川神社」の社名を有する神社は多い。その範囲は大宮を中心に埼玉県下、東京都下、神奈川県下に及び、その数は280社を数え、うち埼玉県下に160社以上あるという。このことは夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族に奉られ、一族の勢力伸張と共に、 武蔵国を中心に各地に勧請され、 広大な祭祀圏を形成して来たことを意味すると考えられる。

 三ノ鳥居から境内に入ると、緑の樹木に覆われるように朱塗りの欄干の神橋が神池に架かり、その先に楼門が聳えている。休日とあって、参拝者や境内を散策に来たと思われる人も散見される。
 楼門を潜って一歩中に入ると、そこは神域である。緑の連子窓をはめ込んだ塀が周囲を囲んでおり、巨大なクスノキに囲まれた舞殿が神域の中央に設けられている。祭神に舞いを奉納する建物である。舞殿の後ろに拝殿があり、社殿は更にその奥にあるが、拝殿の陰になっていてよく見えない。現在の社殿は昭和15年(1940)6月に建て替えられたもので、流造りである。

 社殿には、三柱の神が祀られている。高天原を追放されて出雲の簸(ひ)の川上に降り、八俣の大蛇を退治して草薙剣を天津神に献じたスサノオノミコトと、その妃だったイナダヒメノミコト、およびスサノオノミコトの6世の孫(異説では子供)であるオオナムチノミコトである。いずれも出雲神話で著名な神々である。

 ところで、『官幣大社氷川神社志要』や『新編武蔵風土記稿』によれば、明治維新前までは、この三座の祭神は見沼周辺の別々の場所に祀られていたとされている。現在の大宮氷川神社は、もとはスサノオノミコトだけを祀る男体神社だった。イナダヒメノミコトはさいたま市宮本にある氷川女体神社に祀られていた。オオナムチノミコトはさいたま市中川にある中山神社(簸王子社(ひおうじしゃ)ともいう)に祀られていた。これら三柱の神を現在のように一つの社殿で祀るようになったのは、明治以降のことらしい。

 別の説もある。古くはオオナムチノミコトを主神として祀り、スサノオノミコトとイナダヒメノミコトは奥院として、三神を祀っていたという。オオナムチノミコトとは、天孫降臨の際に豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)を明け渡した大国主命(オオクニヌシノミコト)のことだ。杵築大社(きずきのおおやしろ)を勧請して祀ったのが当社の始まりであるとの伝承が本当なら、オオナムチノミコトが祀られているのは納得できる。出雲の杵築大社はオオナムチノミコトを祭神として祀る神社だからだ。いつの頃かオオナムチノミコトの遠祖にあたるスサノオノミコトとイナダヒメノミコトを合祀するようになり、首座が入れ替わったとも考えられる。

■土手町の椎の木

 神社の横手から街道に戻った地点が、JR宇都宮線・東北本線及び東武野田線と交錯する交差点の手前の交差点で、北へ右折した左手先「JA共済ビル」先に2本の椎の木がある筈だったが、何故か発見できなかった。おそらく撤去されたとしか考えようがない。そこは、昔から街道筋の目印としてよく知られた存在らしく、街道を覆ってしまう程の枝振りを見せ、その木陰では商売をする人や、猿回し・角兵衛獅子等を披露する旅芸人の姿が見られたそうで、木陰で疲れを癒したであろう旅人達の姿も目の当たりに浮かびそうだが残念である。
 その先は東大成一丁目だが、昔の立場で大成村(おおなりむら)の家並みが続いていた。あの「大成建設」発祥の地だそうだが、全く知らなかったことだ。

■大山御嶽山道標(9:57)

 暫く先の左手で「大宮郵便局北」信号の先に地図入り解説板と共にある。安政7年(1860)造立の道標で、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越 道」と刻まれている。ここから西へ分かれる道があり、大成町2丁目の普門院の東側から与野を経由して、大山(神奈川県伊勢原市)・御嶽山(東京都青梅市)へ続いていた。与野、引又〔ひきまた〕(志木市)、川越は交易の中心地として栄えていた。

■石上(いそのかみ)神社

 街道のその先「保健センター入口」信号左折で100m弱入り込んだ左手にある。解説板によれば、この神社は江戸時代の中山道の絵図にも掲載されている古い神社で、疱瘡の神様として古くから人々に信仰されたそうで、真新しい鳥居が目立つが、以前は木の鳥居で平成16年に石の鳥居が奉納されている。
 医学が発達していなかった時代には疱瘡の伝染は大変恐れられ、村人は疱瘡の村内への伝染防止や伝染時にも軽くて済むようにと神社を祀った。戦前までは露店が出る程の賑わいで昭和30年代迄は家々から米と小豆を持ち寄り「小豆入りの餅」を搗いて、子ども達や近所の人に配り、それを食べると「疱瘡に罹らないから」と伝えられていた由。

■東大成の庚申塔(10:20)

 その先の新幹線のガードの手前約100mの左手にある。元禄10年(1697)の建立で、高さ142cm、幅45cm。下部に地元の井上・清水・黒須・吉田・坪居・小川など14名と、おまつ、お加めなど女性22人の名が刻まれている。
 正面に青面金剛像・2鶏・3猿が陽刻されている。地元では耳や眼の神様として崇められ、病気の時には団子を供えるなどしてお参りしたという。赤い鳥居が立ち、「猿田彦大神」の額が掛かった祠に安置されている。今でも伝統を受け継ぎ、年1回の講を開催し昔からの伝統を受け継いでいる由。祠の屋根も平成6年に地元稲荷神社氏子たちの寄進で修復されている。

■天神橋跡(10:39)

 JR東北・上越新幹線や国道17号を越え、更にJR高崎線宮原駅前を過ぎた先の「天神橋」バス停そば左右に各一基ある。街道右手にあるのは「天神橋」と刻してあるのが鮮明に読み取れるが、左手にあるのは十文字ぐらい刻してあるものの読み取れない。現在は暗渠になっていて水流は見えないが、『中山道分間延絵図』に記されている天神橋の名を刻した石の欄干が道路脇に寂しく横たわっているのが侘びしく感じる。往時は加茂宮村の中心集落で立場茶屋が置かれ、島屋が加賀前田家の休憩所に使われたという。

■天満宮(10:39)

 道を隔てたその前に、石の鳥居があり、参道の奥に古びた木像の祠が建っている。学問の神様として全国で崇められている菅原道真公を祀ったもので、受験シーズンが近づくと俄然参拝者が増えるという。

■庚申塔(10:40)

 すぐ先左手。見ざる聞かざる言わざるの三猿が陽刻され、元禄3年(1690)の銘がある。

■加茂神社(10:43)

 その先右手にある。武蔵國延喜式内社足立神社の論社(注)で、神社名を加茂神社という。祭神は、別雷命・倉稲魂命・伊弉諾命・伊弉冉命・菅原道真で、京都上賀茂神社を勧請したと伝わる。加茂宮村の鎮守で村名の由来にもなった。石灯籠には宝暦3年(1753)、弘化2年(1845)、文政10年(1827)の銘がある。

 (注)論社とは・・・式内社の後裔が現在のどの神社であるのかを比定する研究は古くから行われている。神社の社名や祭神、鎮座地が変更されていたり、他の神社に合祀されていたり、また、一度荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になることがあり、その場合それぞれの神社を論社という。

 普通の村の鎮守さんという雰囲気で、街道沿いでもあり落ち着いた雰囲気もなく、境内に「式内」の文字が一つもないことから、論社を名乗ることもしていないようで、「村社加茂神社」の石柱が鳥居前に建っている。
大正8年(1919)の火災による拝殿焼失の際にも、この本殿は無事だったそうで、文化財にも指定されていないようだが、末永く大切に保存してほしいものである。

           
---案内板由緒---
 当神社の御創立は文化七年徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されてゐるが社前に宝暦三年四月、弘化二年十二月と刻まれたもの又、文政十年八月御迁宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来ました。幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌りその妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御札の為奉納したという幣帛は現存しています。昔から生産、安産守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛治村を始め近郷からの参詣も多い。明治四十一年附近数社を合祀して翌四十二年神饌、幣帛共進の神社として改めて村社に指定されました。祭神の合祀により衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正八年不幸拝殿を焼失しましたが本殿は御神威により御安泰であったので当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以来六十年、神楽殿も古びて危険となり、そのうえ社務所も時代の進展につれ手狭で不便となったため此の度氏子総代理人等相謀り氏子一同の賛意を得てここに昭和の大造営が遂行された次第であります。
                        昭和五十五年四月


■南方(みなかた)神社(11:03)

 「吉野町」信号の先右手。吉野村の鎮守で『五街道中細見独案内』にも諏訪社として登場し、小さいながらも朱塗りの鳥居と朱塗りの社殿をもつ。地元では「お諏訪さま」と呼ばれ、親しまれているとか。

■庚申塔(11:13)

 「馬喰新田」バス停の先左手にある。道標を兼ねており、「是より秋葉へ壱里十二町、ひら方へ壱里八町、川越へ三里」と刻まれている。側面には、「寛政十二庚申年」(1800)の銘がある。西へ行くと平方河岸を越え、川越へと続く。「中山道碑」や「馬喰神殿不動尊」もある。

■上尾宿

 中山道第5宿目で、日本橋から9里16町(36.8km)。後北条時代に宿駅として成立し、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降宿駅として整備された。中山道の中では比較的小さな宿場で江戸末期の戸数は182軒・人口793人・本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠41軒の規模である。複数の脇往還が交差する地点で、米の積み出し基地でもあった。江戸後期になると紅花の産地としても有名になっている。飯盛女が多く、川越、岩槻あたりからも川越藩士ほかがよく遊びに来たそうだ。
 町並みは十町十間で、現在の仲町一丁目付近が中心地で、本陣・脇本陣の建物も全て現存はしていない。この先訪ねる「氷川鍬神社」近辺に本陣・脇本陣が集中していたようだ。

 歴史的には、鎌倉時代は源頼朝の武将足立遠元、戦国時代は小田原北条氏の武将岩槻城主太田氏の支配下にあった。後北条時代に宿駅が成立していたが、近代の宿場は慶長8年(1603)に指定された以降の発展である。安政7年(1860)に大火があり、宿の相当部分が被災し、遺構などは殆ど見あたらない。。

 本陣(林八郎右衛門)は氷川鍬神社の向かいにあり、その両側に脇本陣が二軒(南側=白石長左衛門・北側=井上五郎右衛門)、鍬神社南側にもう1軒の脇本陣(細井弥一郎)があったと解説板にあるが、全て現存していない。

■愛宕神社(11:27)

 「上尾陸橋」信号の先左手にある。明治43年(1910)に東町辺りから移築されたそうだが、詳細は不明のようだ。また、「中山道分間延絵図」に川越道の常夜灯が移されたという記録があるが、現存していない。
先ず目に入るのは鳥居の先に聳える見事な大木である。境内は木の葉の落ちた大木同様閑散としているが社殿の小ささの割には広く、向かって手前左に屋根付きの祠に安置された「庚申塔」がある。銘は読み取れなかった。

■ゆず最中

 その先街道右手に「ゆず最中」を売っている和菓子店があったので、柚子味の好きな家族への土産として少々買い求める。仲間たちもそれぞれがそれなりにお付き合い買いしていた。

■氷川鍬神社・二賢堂跡(11:40)

 その先の「上尾仲町」バス停左手にある。寛永9年(1632)の創建で、明治41年(1908)に氷川女体社を合祀する以前は「御鍬大神宮」と称していた。小鍬をご神体とし、五穀を司る農耕神を祭神とする。ご神体は万治年間(1658~61)に「鍬祭り」として鍬を運び、祀ったのが由来とされる上尾宿の総鎮守である。
 境内には、中国南宋の大儒朱文公(朱子)と我が国の学問の神様とも言われる菅原道真の二人を祀る「二賢堂」跡もある。これは天明8年(1788)に学僧の雲室上人が境内に開いた学問所「聖正義塾」の学舎の名称だとか。
そのほか、「聖徳太子像碑」もあり、なかなかの見応えのある神社である。

■中山道上尾宿標(銅板)11:44

 その先右手歩道上にあり、現在の「仲町一丁目付近が宿駅の中心で」あったと解説している。。

■昼食

 地元のマラソン声援の市民達の立つ歩道の先(「まるひろ」向い)で右手にラーメン店を見つけ、ラーメン・餃子セット\550に満足して、12:20再出発。

■遍照院・孝女お玉の墓(12:25)

 「上尾宿」バス停先信号を右(東)へ100m程入った所にある、室町時代創建の真言宗智山派のの古刹で「日乗山」と号する。比較的新しい本堂に向かって右手に弘法大師の修業大師像、左手に興教大師像が立ち、珍しいパターンだなと思ったが、帰宅後調べてみたら、本尊が興教大師作の不動明王と判り納得。「上(かみ)寺」の名でも親しまれ、「孝女お玉の墓」があるらしいが、一見したところでは所在の確認ができなかった。
 お玉は新潟生まれの大村楼の遊女で、孝女として評判が高かったが、病に罹り20歳で死んだのを悼み、大村楼の主が立派な墓を建てたと言い、「廓室妙顔信女」の戒名が彫られている由。

 境内に入って右手に薬師瑠璃光如来を本尊とする「薬師堂」が建ち、境内左手には「水子地蔵尊」「聖観世音菩薩尊像」と「聖観世音菩薩尊像造顕の記」「無縁仏を集めた巨大な仏塔」など、興味が尽きないが、勉強になったことがひとつある。
 それは、前記「聖観世音菩薩尊像造顕の記」に記された一節で、「・・・観世音菩薩は観自在菩薩とも申し上げ一心に念ずる者の為にその人に応じて三十三に身を変じて法を施し心の安楽を与えて下さるところから施無畏者ともいわれます。観音霊場が三十三ヶ所であるのもここに由来しております・・・」のくだりである。村谷氏達と共に秩父三十四観音(元は三十三観音だったが、坂東・西国の各三十三観音霊場と合わせて「日本百観音」とするために三十四ヶ所に変わった)を巡拝したことがあるが、「三十三」という数にそんな意味合いがあったとは知らなかった。

■庚申塔(12:33)

 街道に戻って、その先の「図書館西」信号手前右手にある。「延享二年乙丑三月」(1745)の銘が読み取れる。

■上尾宿案内板(12:38)

 その先250m程の右手の交差点手前にある。「中山道 上尾宿」とか「彩の国 平成の道標」などと刻した真新しい石標の傍に屋根付きの地図・写真入りの案内板がある。

■鍾馗様のある家

 案内本の地図に、「屋根に鍾馗様」とあったので注意していたのに気づかなかった。帰宅後良く見てみると、前記「上尾宿案内板」の屋根についていたらしいことに気づく。鍾馗様は古来より火災除けの守り神として各地で見られる風習で、火事が多かった上尾宿でもそんな風習があったことを後世に伝えるべく案内標識と共に屋根に鍾馗様を乗せていたらしいのに・・・。前記の「上尾宿案内板」の一節によれば、「鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で置いていたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることのできない上尾特有のものでした。鍾馗様は疫病神を追い払うといわれています。」と解説され、防火云々については言及していなかった。

 その先は、北上尾駅前を過ぎ、暫く単調な街道歩きが続く。「上尾宿」と次なる「桶川宿」の間は、当然ながら田畑などしか往時は無かったはずで、そんな所に残っているとすれば、道標・庚申塔・地蔵尊などのみだからである。神社仏閣とて、人里にしか存在価値がない訳なので、黙々と歩く。

■庚申供養塔(13:04)

 右手に「明和六年」(1769)の銘入りだが、再建されたと思われるコンクリート製角柱型の塔がある。

■桶川市域に入る(13:05)

■下の木戸(13:11)・・・ここから桶川宿

 「桶川駅前」信号の一つ手前の信号右手に「史跡 木戸址」と刻まれた石標が立っている。市の指定文化財になっているが、ここが往時の桶川宿の江戸側入口にあたり、朝夕の定時に開閉されていたという。

■桶川宿

 中山道第6宿の桶川宿は、日本橋から10里余(40.5km)、鴻巣宿まで7kmで、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠36軒 の宿である。寛永14年(1637)に58軒だった戸数は、「桶川臙脂」と呼ばれた紅花の名産地として取引されるようになった寛政12,年(1800)には247軒に達し、その後「中山道もの」と言われた麦や紅花の集散地として栄えた。天保11年(1840)頃には家数が347軒に増えている。明治18年(1885)には高崎線桶川駅が開業している。 現在では、穀物問屋だった土蔵造りの家があちこちに残っており、中山道の麦の集散地としての繁栄ぶりを証明している。

■武村旅館(13:13)

 その先左手にある。江戸時代末期創業の宿場で唯一現存する旅籠で、格子の玄関や立て看板に往時の趣がある。直木賞作家の安藤鶴夫が書斎にし、桶川を舞台とした小説『不二』を発表している。少し前まで往時の佇まいで営業を続けており、当時の間取りがほぼ引き継がれているそうだ。  2008.12.19の夜、東海道赤坂宿の「旅籠大橋屋」に泊まった時のことを思い出したが、ここも近時まで営業を続けており、歴史的価値が高い。国登録有形文化財に指定されている。

■浄念寺(13:17)

 すぐ先の「桶川駅入口」信号手前左手にある。1360年(南朝の正平15年、北朝の延文5年)頃、朗海上人修行のために建てた庵を元に、天文15年(1546)に開創されたと伝えられる古刹である。
 正式名は「清水山報恩院浄念寺」と言い、赤い鐘楼門の奥に平成16年(2004)新築の現本堂がある。
 当寺のシンボルとも言うべき朱塗りの仁王門は、「清水山」の扁額が懸けられ「新編武蔵風土記稿」に「仁王門ハ楼門ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄十四年ノ銘アリ」と記されているように、同年(1701)の再建である。残念ながら寛保元年(1741)鋳造の梵鐘は第二次世界大戦の際に供出され、現在は昭和40年(1965)鋳造のものが懸かっている。楼下に安置の仁王像は明和5年(1768)開眼である。
 門を入って右手にお堂が二つ並び、左が不動明王を祀った不動堂、右が聖徳太子を祀った「太子堂」である。この不動明王は、廃仏毀釈で南蔵院が廃寺になった明治2年に当寺に移座している。
 逆の左手には、板石塔婆が十基程ある。最古のものは正和4年(1315)、最新のものは天文19年(1550)だから、かなり古い。中央の一番大きなものは朗海上人を供養するためのものである。
 また、境内には京都の紅花商人・吉文字屋彦市ゆかりの墓石があるそうだ。

■穀物問屋の島村家住宅土蔵(13:25)

 「桶川駅前」信号の先右手の建物の裏手にあり、通りに案内標がある。島村家は本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家である。天保7年(1836)築の木造3階建土蔵で、桁行6間、梁間3間もある。屋根の両端にある鬼板には当寺の屋号の一字をとった「木」の字が刻まれている。
 また、この土蔵の建築工事は、天保の大飢餓に喘ぐ人々に仕事を与えるために建てられたことから 「お助け蔵」と言われたと解説されている。国登録有形文化財だ。

■御茶処「島村茶舗」(13:26)

 島村家の北隣にあり、嘉永7年(1854)創業の店で、現在茶舗として営業している。古い家屋になかなかの味わいと歳月の重みを感じさせる建物である。

■旅籠「小林家」(3:29)

 その先左手。江戸時代の旅籠で、現在は材木商と喫茶店を営んでいる。間口の広い旧家で内部は多くの部分が改修されているが、外部は旅籠の面影が残っており、国登録有形文化財になっている。

■穀物問屋「矢部家」(13:29)

 その先右手。屋号が「木半」の穀物問屋で、現在、蔵造りの建物が残っている。

■府川本陣跡(13:30)

 右手。府川家が世襲し、屋敷は1000坪余、建坪も200坪あった。加賀藩前田家の宿所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭も利用した。 皇女和宮も江戸に至る2日前の1862年1月2日(旧文久元年11月13日)に宿泊したという。
 現在、門構えはあるが、数寄屋造りの本陣屋敷の一部が保存されているものの、内部は民有なので公開されておらず、前に「明治天皇桶川行在所」の石碑が建っている。

■中山道宿場館(13:32)

 左手。商店街の空き店舗を利用して開設されており、中山道や桶川宿に関する資料が充実していて、絶好の立ち寄り・休憩場所になっている。
 係の女性がいろいろと解説・サービスしてくれる。桶川宿解説DVDを見たり、「おけがわ散策ガイド」なるパンフレットや、熊谷・深谷・本庄の各種くの観光案内が掲載された「ちょっくら」なる小冊子を戴いたほか、「紅花の種」や「記念品」まで戴いた。

■「市神社(いちがみしゃ)の跡」標柱(13:51)

 左手の東和銀行桶川支店前にある。五と十のつく日に路上で農産物の取引きが行われた「五十(ごとう)の市」と宿内の人々を守る神として祀られた。明治9年(1876)に交通の妨げになるとの理由で「稲荷神社」に移され、「八雲神社」として祀られた。現在、「市神社の跡」の標柱が建っている。

■大雲寺(13:53)

 左手。弘治3年(1557)開基の寺で、「龍谷山」と号する禅寺で、立派な鐘楼がある。本堂左手にある三体の地蔵尊の内の一体が「女郎買い地蔵」という変わった地蔵尊である。台座に正徳3年(1713)の銘があり、夜な夜な宿内の飯盛女を買いに出かけたので、怒った住職が背中に鎹(かすがい)を打ち込み鎖で縛ったという。
 若い僧たちへの諫めの意味があったと考えられ、「葷酒山門に入るを許さず」ではないが、「僧職女郎買いに行くを許さず」との如何にも戒律厳しい禅寺ならではの戒めだったのだろうが、恐らく「飯盛り女」と称される女郎が宿に沢山いたことも無縁ではなかったろうと推測する。背側の首下に鉄の鎹が確かに打ち込まれているのを確認したが、鎖はついていなかった。ともあれ、風変わりかつ判りやすい教えではある。

■上の木戸跡(14:00)

 そのすぐ先右手(「桶川市役所入口」交差点の南)。宿の京側入口にあたり、「木戸址」と刻まれた石標と祠が建ち、解説板もある。ここが桶川宿の北端である。
文久元年(1861)に皇女和宮の通行を向かえる前に木戸を建て直したという記録もあるそうだ。

■「北本宿」の碑(14:40)

 3kmばかり淡々と歩くと、「本宿」交差点に出る。その信号手前左手に石碑と解説板が建っており、往時この辺りが立場下茶屋だったことを示している。中山道の初期から慶長年間(1596~1615)の頃まで宿駅として栄えたが、鴻巣に宿が移されたため本宿村と呼ばれるようになり、その後、本宿村から北本宿村となったが、正和34年(1959)に北本村となった。もちろん、現在は北本市であるが、「北本」というネーミングは「本宿の北」の意ではなかろうか。

■多門寺(14:48)

 次の「多聞寺」信号手前右手にある。真言宗智山派の寺院で門の脇から入ると、大きな老木が目に入る。これが、埼玉県指定天然記念物「無患子(むくろじ)」だ。見上げると、先端が折れ、胴太の幹から、枝が出ている。
 樹齢約200年、高さ27m、幹周3.6m、根回り7.6m、枝張り14.5mの老大木が竹垣に囲まれ、傍には石碑があり「天然記念物多聞寺無患子」と刻してある。解説の石版には「多聞寺の無患樹」と刻まれており、「子」と「樹」で厳密には何が異なるのだろうか? 昔はこの木の実の皮をはぎ、石鹸として使用したらしいが、果実は球形で黄褐色に熟し、黒色の種子は追い羽根の玉や数珠に使われたということを知り、納得!の感がする。
境内には弘法大師像、興教大師像、十三佛などもある。

■天神社(14:52)

 多聞寺に隣接して横には「天圀蔵五柱稲荷大神」の幟が林立した「天神社」がある。菅原道真を祀った神社である。
 江戸時代中期からの鎮守で、2月と10月の15日の祭の日に「ささら獅子舞」というのがが行われている。ささらは「簓」と書き、民俗楽器の一つで、20cmくらいの竹の先を細かく割って束ねたものだとか。
 学問の神様を祀った神社らしいというか、面白い掲示があったので下記しておく。
               北本市指定 有形の民俗文化財 算額
                         昭和五十三年三月十五日指定
 算学は、中国から伝来した数学を、わが国の関孝和(1643~1708)らによって改良発達された独自の学問である。
 県内で算学が行われるようになったのは天明年間(1781~88)頃からと推定され、これら算学を学ぶ人々が問題の解法などを記録して神社・仏閣に奉納したものが算額である。
 当神社に奉納されている算額は、時代もぐっと降って、明治中期のものである。これには、「奉献額 関流算法 明治廿四季四月吉日 発起者 当所 清水和三郎 林専蔵」として、市内十一名、市外一名の計十二名よる問題と解答が記録されている。
 算学は、明治五年(1877)の学制で採用されなかったが、この算額は前代に引き続いて民間ではかなり盛んであったことを証明する資料としても貴重である。
                    昭和五十七年三月
                               北本市教育委員会


---次の「北本駅前」信号で本日の歩きを終え、左折して北本駅に向かい、駅反対側(西口)の「鳥越」なる鰻&鳥料理の店でささやかに?打ち上げ、駅で鴻巣在住の西氏と別れ、16:41発の新宿湘南ライナー帰途についた。---

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