「中山道」を歩く

中山道トップに戻る

前回餐歩記へ

次回餐歩記へ
 2008.11.23(日)中山道第2回目 志村一里塚~大宮:氷川神社参道十丁

 三連休の中日、明日からは天気悪化予報の中、晴れ男2人組が地下鉄千代田線の志村坂上駅に8:45集合を約していたが、村谷氏は30分程早く着き志村坂上交差点側改札口で待っていたことが後刻判ったが、小生は8:38着で志村一里塚側改札口へ出たので逢えない。携帯に三度ほど連絡しても行程予習に余念なき同氏は気づかなかった由で、連絡不能。やむなく、一人餐歩を覚悟して8:52に前回の終点「志村一里塚」を出発し、志村坂上信号を渡って交番まで行ったら同氏から連絡が入り、志村坂上交差点側改札口から地上に出てきた同氏と漸く落ち合う。予て入手依頼していた栃木・埼玉エリアの日光街道地図を受取り、9:00丁度に交番横を出発。

■富士・大山道標と庚申塔(9:04)---最初の分岐箇所(左)---

 左手の交番から旧道に入り、少々進むと、その先左への分岐点(ここから下り坂にかかる直前、左への分岐のある箇所で富士・大山道標と庚申塔を二基発見。

               富士・大山道の道標と庚申塔
 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
 向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道 并(ならびに) ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。
               平成十七年三月
                         板橋区教育委員会

■清水坂(9:09)

 更に直進すると下り坂に差し掛かり、坂の上と下に各一基の平成二年三月造立の「清水坂碑」が目に入る。進行方向側に「戸田」、反対側に「志村」とある。清水坂を下り終えると清水坂の解説板や、歩道には富士山の絵が入ったタイル板が埋め込まれている。
               
清水坂
 日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合(あい)の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和三十年代頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。
               平成十二年三月
                         板橋区教育委員会


■R17や環八を越え、再び旧道から新道、また旧道へと進む

 旧中山道の道しるべに従って、街道が右後方からの道を併せる所で右折すると、地上に出た都営三田線を潜ってR17に合流する。R17に出ると、本来ならそれを斜めに突っ切ってその先の環八を越える旧道があったのだが、今では環八手前で行き止まりになっているため、R17に出ると環八との「志村3丁目」交差点迄進み、そこを右折してすぐ左斜めの旧道へと入る。

 暫く先で再びR17に合流する。「志村坂下」交差点を過ぎた先で、「蓮根川緑道」(暗渠化した遊歩道)と交差するが、坂下二丁目の陸橋を越えるとまた、「蓮根川緑道」を越えるという、面白い箇所を通る。新河岸川に架かる「志村橋」を渡ってすぐ右折し、最初を左折して国道と並行して進むのが旧道なのだが、一部がクランクになっている箇所があり、そこを過ぎると左側にブロック囲いした中に一本の解説板と、その足下に板碑類が複数ある。

■舟渡(ふなど)の板碑(9:36)
               
舟渡の板碑
 板碑(いたび)とは、室町時代に親の供養や自分の後生供養などを目的として造られた、石製の卒塔婆です。武蔵地方(東京・埼玉)では荒川上流で採れる緑泥片岩(秩父青石)を使い、最上部を山形に整形し、表面には仏を表す梵字や仏の画像、造立の願文、願主名、年号などを刻みます。
 ここにある板碑は、このあたりにあったものを集めてお祭りしたものでね破片を含み十基あります。そのうち四基には、文明九年(1477)、文明十七年(1485)、明応九年(1496)、大永(1521~27)の年号を読みとることができます。そして、最近まで子どものはしかの平癒に霊験があると信じられていました。
 このあたりは、最近の発掘調査でも鎌倉・室町時代の「まち」が見つかり、当事の賑わっていた様子が明らかになりつつあります。
               平成十五年三月
                         板橋区教育委員会

 更に進み、東北新幹線・埼京線高架を右に潜って左折し、最後の左折で高架を潜り戻し、坂を登って交番横でR17に合流し、9:45荒川(文献によっては戸田川と表記)に架かる「戸田橋」を渡り始める。渡る橋の途中で、行政区は東京都から埼玉県へと変わる。きたる12月7日(日)予定の日光街道2回目餐歩の途中でもって、「五街道東京都下完歩」というあまり聞いたことがない記録がマークされる寸法だ。

■戸田の渡し跡碑

 軍事戦略上、大河には橋を架けられなかった江戸時代は、戸田橋の右手(100m程下流)で一人六文(武士は無料)の「戸田の渡し(舟渡し)」を使っていたが、現代の旅人は戸田橋を渡って右折し、「戸田の渡し跡」へ行って左折し、R17と並行している一本右の道を行くのが旧道である。 東京都側には渡し場跡は残っておらず、橋を埼玉県側に渡って「歴史のみち中山道→」の浮世絵付き案内板に従って歩道無き車道左側を土手沿いに下流へ歩くと、左側に「中山道戸田渡船場跡」の碑が、右側に下記解説板が立っている。
               
戸田の渡し
 中山道は木曾街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長七年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え荒川は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防備の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
 この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保十三年(1842)では家数四十六軒、人口二百二十六人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)一人、船頭八人、小揚人足三十一人がいました。船の数は、寛保二年(1742)に三艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保十三年には十三艘と増えています。また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保三年(1832)には五軒の河岸問屋があり、近在の上人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曾街道六十九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治八年(1875)五月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。
               平成八年三月
                         戸田市教育委員会


■地蔵堂(10:03)

 水神社に向かって左の道を入った右手にある。墓地もあり、街道脇で見慣れた地蔵堂とは規模が違う。解説板には次のようにあった。
               
地蔵堂
 地蔵堂の創立についてはよくわかりませんが、お堂の建物はかなり古く、市内最古の木造の建造物と思われます。
 この地蔵堂は、江戸時代に造られた「中山道分間延絵図」にも記されており、建物は小さいのですが、お堂の規模からは不似合いなほど大きな木組を使用しての紅梁、斗栱、木鼻、釘隠しの形など注目すべき点が多い建造物です。
 また、お堂の軒には正徳三年(1713)の銘がある半鐘がかかっています。そのほか、境内には享保十六年(1731)銘の庚申塔、応永二十五年(1418)や永禄五年(1562)銘の板碑などもあります。
               平成七年三月
                         戸田市教育委員会


■川岸ミニパーク「歴史のみち 中山道」解説板

 街道を運河方向に進むと、「川岸ミニパーク」があり、絵地図入りの「歴史のみち 中山道」の解説板がある。全国共通のお役所仕事の慣例なのか、予算が余って使い切るためなのか、よく知らないが、こうした解説板の殆どは、ご当地に限らず「三月」作成が殆どであるから面白い。全国の教員委員会は、三月になると俄然やる気が出てくるのだろうか?

               
歴史のみち 中山道
 この道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。
 中山道は、慶長七年(1602)に整備が始められ、日本橋を起点に、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
 戸田渡船場から北に約二百メートルほど残るこの中山道の道筋は、文化三年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にも、現存する地蔵堂とともに描かれています。
 渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、その西方には、かつて羽黒権現宮がありました。街道筋には、渡船にも携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861)最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。
 しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道はしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、ほぼ現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。
               平成十七年三月
                         戸田市教育委員会


■しばらく新道歩きへ

 道はすぐ菖蒲川に遮られ、右の橋を渡ってしばらく行った所で左折し、「さつき通り商店街」を10:15に抜けてR17に出、オリンピック道路を越えて暫くは国道歩きになる。

■下戸田ミニパークと旧道

 「本町」信号を越えて左折すると、すぐ左斜めへの旧道がある。これが本来の旧中山道だが、ここまでは失われた道なので、僅かばかりのこの旧道に入ると、またR17に出るが、その手前右手に10:25「下戸田ミニパーク」が出来ており、先ほどの川岸ミニパークにあったと同様の「歴史のみち 中山道」の解説板がある。
               
歴史のみち 中山道
 この公園の脇にある小道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。中山道は日本橋を起点として、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り。宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
戸田市内を南北に貫く旧中山道は、戸田橋の下流百メートル程のところにあった「戸田の渡船場」から始まります。
 埼玉県の旧中山道は、この渡船場から始まりますが、残念ながら市内の道筋の大部分は失われてしまいました。しかし、市内にもまだ一部にそのおもかげが残されています。
 その内の一ヵ所が、現在の国道十七号にかかる戸田橋下流の堤防付近に建つ「中山道戸田渡船場跡」の記念碑付近から、北に向かって約二百メートルほど残る道筋といわれています。しかし、菖蒲川を越えた先からの道筋は現在まったく失われてしまいました。旧中山道は川岸に残る道筋からしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、現在の国道十七号に乗っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。
 そして再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ脇道約八十メートルとつながります。ここは市内に残るもう一ヵ所の中山道跡で、川岸から北上してきた旧中山道が大きく西に曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再び現在の国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながって行きます。
                         戸田市教育委員会



■蕨宿東入口(10:39)

 国道右手のガソリンスタンド前に大きな「中仙道蕨宿」の石碑があり、その二股を右行くと、蕨宿の旧道で、。その入口に「中山道」と「蕨宿」と書かれた冠木門風の柱が建っている。そのしたに布製の横断幕があり、
「中山道蕨宿区域は「路上喫煙禁止」です」とあるが、ふと足元を見ると残念ながら守られていない。山に行ってごみや空き缶などを持ち帰らない人種と同類項が綺麗な佇まいのこの宿にも何人もいるようだ。

■休館日

 旧道に入ると、道の両側に中山道各宿の浮世絵のタイル画がはめ込んであったり、「蕨宿界隈史跡めぐり」の大きな案内絵地図があったりと、地元の力の入れ具合がわかる。ただ、残念だったのは、事前に立ち寄るべく予定していた「蕨市歴史民族資料館分館(10:45)」(左手)および「同(本館)(10:51)」(同じく街道左手)が、掲示している休館日が、月曜日と祝日は休刊日になっていて、日曜日のきょうは祝日でもあるので開いていなかったことである。

<歴史民族資料館 分館>(左側)

 明治時代に織物買継商をしていた家をその侭利用した「蕨市立歴史民族資料館別館」は、入館無料。 休日と月曜が休館で午前10時~午後4時が開館の旨の掲示がある。
 この建物はは、明治時代に織物の買継商をしていた家をその侭利用したもので、敷地は516坪(1,705㎡)あり、建物は床面積95坪(313㎡)の木造平屋・寄棟造で、中山道に面した店舗部分は明治20年(1887)築である。

■蕨宿

 江戸時代の蕨宿は、町並みが南北10町(約1,090m)で、周囲は用水堀で囲まれていた。日本橋から4里28町(18.8km)、京へ131里4町、天保14年(1843)の人口は2,223名、総家数439軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒だった。問屋場・高札場が各1ヵ所ずつあり、問屋3人・年寄3人・帳付4人・馬指4人の宿役人が交代で問屋場に勤務し、人馬継立や物資輸送等の業務を行っていた。

■蕨宿本陣跡(10:51)左側---蕨市歴史民族資料館のすぐ先左手---

             
 蕨市指定文化財 蕨本陣跡
 蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである
 慶長十一年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられる。その後その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた
 蕨本陣の建物は今は同家に残る本陣絵図面などによって知る外ないが公家大名などが宿泊し文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息場となりついで明治元年(1868)同三年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった
現在岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究には重要な資料が多数保存されている     撰文  大野晋
                         蕨市教育委員会

 なお、蕨宿の成立時期には諸説がある。慶長11年(1606)、同17年(1612)、同19年(1614)、元和年間(1615~24)等の説だが、現存の史料からみて慶長17年説が有力視されているようで、前掲解説板の内容とは異なる。
 加兵衛家と五郎兵衛家の両家が代々務めた本陣は、宿中央部に中山道を挟んで向き合うように建っていたそうだが、五郎兵衛家の表示は見つからなかった。両家とも建坪が150坪(約395㎡)、門構・玄関附きで、加兵衛家は問屋と蕨宿名主を、五郎兵衛家は問屋と塚越村名主を兼ねていた由。
 加兵衛家(現・岡田民雄家)には、老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮等の大名・公家の休泊や、明治元年(1868)明治天皇の氷川神社行幸時ご休憩の旨の史料がある由。

■宿における助郷

 中山道各宿場では、常備人馬50人・50疋と決められており、各宿場で対応不可能な時は、助郷村といわれる周辺の指定された村々が人馬を動員させられており、交通量の増大に伴って負担が重くなり、村人のくらしを苦しめ、ために、宿場・助郷村間では助郷役の負担を巡り度々対立が起きている。
 蕨宿でも、元禄7年(1694)に周辺19ヵ村が助郷村に指定され、安永4年(1775)には改めて17ヵ村が指定されており、該当助郷村は重い負担に耐えかね、しばしば蕨宿と対立し、論争を繰り返していたという。

■蕨城趾・和楽備神社(10:56)

 本陣の先の交差点を右折し、落ち着いた佇まいの市役所前の先右手に「和楽備神社」と「蕨城址」があるので寄り道する。時恰も11月23日で、境内は七五三の家族でごった返している。江戸時代には「蕨八幡」と呼ばれていたが、明治44年(1911)に神社合併推進の国策で近隣18社を合祀、神社名に地名の「蕨」一字では重みがないため、万葉がなを用いて命名した由。

               
蕨市和楽備神社社叢ふるさとの森
                    昭和五十八年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社の創立の年代は明らかではありませんが、約六百年前の室町時代、神社の南隣に渋川公が居城をかまえ、蕨城の守護神として八幡大神を祭ったのが、はじまりと伝えられています。
 境内は、地域の人々の散策の場としてもなじみ深い「鎮守の森」となっています。
 林相としては、主にケヤキ・クロマツなどから構成されています。
               昭和五十九年三月
                         埼玉県


 境内に入ると、左手にある手洗い・口漱ぎ場が大きな水盤になっており、「和楽備神社水盤」の詳しい解説板が立っている。その右奥には、「乃木将軍の像」があり、昭和十一年(1936)の銘のある法学博士(高窪喜八郎謹詩)蕨町長(岡田健次郎書)の漢字カタカナ混じりの文が銅板に刻されている。
また、境内には「春水」の歌碑や、筆塚、天神社、常夜灯、中には「建築三神」の石碑もある。その解説板によれば、三神とは、
「手置帆負命(たおきほおいのみこと)」「八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)」「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」で、「主として建築関係の職人が守護神として祀るものである。通常は、聖徳太子を祀るが、当社では、比較的珍しいこの三神である。毎年建築関係者が集まり際礼する。」とある。また、巨大な石版塔には「和楽備神社誌」が刻まれている。神社右奥には池があり、蕨城「御殿堀」の解説石碑がある。

---街道に戻り、信号先右手の「さぬきうどん しこくや」で昼食(11:12~11:38---

 熱々の「けんちんうどん」が旨かった。早めなので空いている。

■三學院(11:42)---「地蔵への小径」へ右折し、超長く車道で分断された参道へ---

 10代続いているという煎餅店(前身は茶店)の「萬寿屋」を右折。山号寺号を「金亀山極楽寺」という。仁王門手前右手に珍しいものを発見。「三學院梵字馬頭観音塔」で、笠付きだが正面には梵字六文字だけ刻んだ珍しいものだ。
               
三學院梵字馬頭観音塔
 この石塔は、塔身正面に、梵字馬頭観音「ナム・カヤグリーバ」(南無・馬頭観世音)を、筆太に陰刻し、左右側面、背面に刻銘を有する。
 基礎正面を小判形に彫りくぼめて、馬の全形を斜めから生き生きと表現され、彫技の冴えを示している。
 銘文から、江戸時代後期、寛政一二年(1800)二月に「小宮忠次郎、徳丸馬右ヱ門」両氏が世話人となって、蕨宿の馬持講中によって、宿場の安全息災を祈って造立されたものであろう。
 また、三学院が、地域札所足立坂東二十番であることをこの石塔は示している。
 石塔本尊の馬頭観音を梵字で表現しており、例の少ない貴重な石造物である。
               昭和六二年三月
                         蕨市教育委員会

 その街道寄りには、蕨市指定文化財が列をなして鎮座・整列している。すなわち、「子育地蔵」「六地蔵石仏」「地蔵石仏(目疾地蔵)」があり、三學院梵字馬頭観音塔の後ろには、「仏足石」、元禄十四年(1701)の「常夜灯」など、それぞれ詳細な解説板付きで並んでいるのには驚いた。
仁王門に向かって左手には、広大な寺域の「三学院全体案内図」が地図で掲示され、左右を塀で仕切られた仁王門から中に入ると、塀の内側は工事中。右手には建物が新築中、左手の鐘楼堂・三重の塔前には銀杏の巨木、本堂手前右手には、修行大師の銅造・・・と、かなり裕福な檀家を有する財政力豊かな寺であることが感じられる。仁王門前は参道を遮る如く車道が走っており、これだけ広大な寺域なら、現代に於いては分断やむなしとの意見で村谷氏と一致してしまった。

■中山道ふれあい広場(11:59)---錦町三丁目信号(R17との交差点)手前左手---

 ここには、蕨宿に関する解説板、仕掛け人形付きの時計塔、中山道参勤交代絵巻と11月3日開催の宿場祭で行き交う人々の姿を各1枚のモザイク壁画にしたもの等があり、絶好の休憩ポイントになる。

---錦町三丁目信号を越えて間もなく、蕨宿は宿はずれになり、暫く単調な旧道歩きが続く---

---12:13「錦町5」手前の「宝蔵寺」前通過。12:21「辻一里塚」横公園で小休止---

 日本橋から五里目の一里塚である。碑の左隣に「弁才天」の小さな祠があり、由来書きの碑がある。
               
由   来
昔この辻地区は湿地が多く村人達は大変難儀をした この水難を守る為、水の神弁財天を安置し地区の守り神とすると共に中山道を旅する人々の安泰を願った 由来伝記の為有志相計り保存会を結成し祠を再建してふる里の道しるべとする
               昭和六十二年三月吉日
                         辻一里塚弁財天保存会会長中村春一
                         撰文 浦和市議会議員中村仙一
                         星野秀水書


---外環道を潜り、六辻公園に突き当たって右折し、R17を越えた先で左折。住宅外環道を潜り進む---

■焼米坂(12:43))

 本日最初にして最後の登り坂が現れるが、全然物足りない程度の坂であるが、頂上の歩道橋下左側に「焼米坂」の石柱がある。焼米坂は、江戸時代の記録で有名な坂だそうで、本名は浦和坂という。昔、焼米を売る店があったので知られ、それが名物となり、その名で呼ばれるようになった由である。

---12:50、田島通りとの交差点右手前の「スーパーライフ」でトイレを借用・再出発---

■調神社(つきじんじゃ)13:01(右側)

 再び七五三で賑わう大きな神社「調神社」に参拝する。
 神社なのに鳥居がなく、狛犬の代わりに兎の口から手洗い・口濯ぎの水が流れ落ちるのが大変珍しい。「つき」神社だから「ウサギ」なのかと考えてしまう。
               
由 緒 略記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする 延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる 倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為め当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取払はれたる事が起因となり現今に到る


調(つき)の音が月を連想させるところから、月待信仰でも知られ、月から兎を連想してか至る所に兎の絵などがある。

■浦和宿

 当地名物の鰻の臭いを嗅ぎながら、13:08「浦和駅西口」信号手前左手に大きな「中山道浦和宿」の新しい道標(石柱)を発見。ここ浦和は大きな戦乱にも逢わず、有力な豪族も生まれず、江戸期は幕府直轄領や旗本知行地で、江戸を取り巻く軍事的緩衝地帯の性格を持っていた。中山道が整備されると浦和は宿駅となり、本陣が置かれて明治22年まで星野権兵衛家がこの役を果たした。天保14年(1843)の人口が1,230名、家数273軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠は15軒と小さな宿場だったが、今は県都で町並はすっきりと垢抜けした感がある。。
 13:11、信号先左手の「ふるさと館」に入館。いろいろな資料が入手できたり、街道歩きの掲示がある。

■玉蔵院(13:30)左側---街道から「門前通り碑」を左に入る--- 

 弘法大師空海創建の古刹。関東真言宗十檀林(僧の学問所)の一つとして栄え、門前町を形成した。市指定有形文化財で総ケヤキ造りの山門は閉じられ、境内は駐車場化している。右から道路に分断された奥に入ると、太鼓橋の左右に優雅な庭園を持つ本殿があり、その左横に樹齢100年以上と言われる大きなしだれ桜の見事な枝振りが目を惹く。本殿左には格天井で入母屋造り、市指定有形文化財の地蔵堂がある。

■浦和宿本陣跡・明治天皇行在所址(左側奥)  

 N生命前にあると思って捜したが、見つからなかった。市役所通の仲町交差点を越え、すぐ左側に見える「浦和幼稚園」の矢印が示す小道を入ると、本陣跡の説明板と大きな「明治天皇行在所址」の石碑が建っていると帰宅後知ったが、本陣を務めていた星野権兵衛家は明治時代になって家が絶え、建物は全て撤去され、表門が市内大間木の大熊家に移築され、現存している由。ただ、往時の浦和宿本陣所在地を正確に伝える土地として貴重であり、明治元年及び3年の明治天皇氷川神社(大宮)行幸の際には、ここが行在所になっている。

■浦和宿二・七市場跡(13:41)---その先左手「市場通り」の北側にある「慈恵稲荷」の社頭---

               
浦和宿二・七市場跡
 浦和の市場は戦国時代に解説されたものと考えられ、天正十八年(1590)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が「浦和市(いち)」に対して出されています。浦和市は月六回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日)、「二・七市場」といわれています。
 江戸時代、十返舎一九は「代(しろ)ものを 積重ねしは おもてうらわの 宿の賑い」と詠み、浦和の市の賑いを表現しています。
 また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠は、ある歳の暮れ、浦和の宿で萩、屠蘇、麹、膠、末醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。
 周辺では,蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)、大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになります。
               平成十九年三月二十二日
                         (さいたま市教育委員会)


 これに因んで、昭和55年9月に往時の歴史を偲ぶべく「市場通り」の愛称がつけられた由。もう一本の標柱にも次のように解説されている。

この場所では、中世から近世、近代にかけて、毎月六回、二と七のつく日に市が開かれ、農産物や布製品などが取引されました。これが「二・七の市」です。天正十八年(1590)に出された市に関する文書があるので、市の成立はこれより前ということがわかります。
                         (さいたま市教育委員会)


■「浦和レッズ」レディア像と手形・足形モニュメント---13:55眼下のJR線路(6軌道)を「浦和橋」を越え、「北浦和駅東口」信号手前---

■市立図書館の少し先左手、元治元年(1864)創業の「梅林堂」にて土産の和菓子購入---

■郭信寺(14:13)左側---入口に「紅赤の発祥地」の説明板---

               
サツマイモの女王 紅赤の発祥地
 江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカズル」、「アオズル」といういい品種を持っていた。
 ところが明治三十一年(1898)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
 発見者はここの農家の主婦、山田いち(1863~1938)だった。いちは皮が薄紅色の「八ッ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもが出てきた。八ッ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
 いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(1885~1938)がいた。この新しいいもいに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
 そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上がった。
 昭和六年(1931)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
 今年、平成十年(1998)は紅赤発見から百年になる。さしもの紅赤も最近は新興の「ベニアズマ」に押されて振るわなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある郭信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。
               平成十(1998)年九月吉日
                         川越サツマイモ商品振興会
                         川越いも友の会
                         浦和市教育委員会
                         郭信寺


■庚申塔(14:24)---大原陸橋(東)信号の分岐左側---

 正徳四年(1714)正月の銘が入っている。

■一本杉碑(14:26)左側 

一本の杉の下に道路に面して「一本杉」と刻した石碑があり、傍の電柱には
「文化の小径 一本杉の仇討ちの碑 ココ」とある。文久四年(1864)一月、この付近で仇討ちがあった所で、水戸藩士が父の仇敵として讃岐丸亀藩の浪人を討ち、討たれた浪人は先ほどの「郭信寺」に葬られた。

■半里塚跡(14:29)---「与野駅東口」交差点右側---

 大きなケヤキの古木がある。これは、一里塚と一里塚の間に作られた「半里塚」の跡だそうで、初めて見るものだ。左手には、さいたま新都心の高層ビル・高層マンションが目立つようになり、都市の変貌ぶりが眼に入ってくる。

■ケヤキ並木のさいたま新都心

 昭和42年(1967)の埼玉国体の際に植えられたケヤキ並木が500m程続くようになり、思わずカメラを取り出す。左手のJR線の向こうには「さいたま新都心合同庁舎」、「さいたまスーパーアリーナ」等が聳え、圧倒されるような景観に変わっている。

■火の玉地蔵・お女郎地蔵---再開発で撤去?見あたらず---(右側)

 「さいたま新都心駅」前辺りで、一旦ケヤキ並木が途切れるが、右手歩道上に小さなお堂が建っている筈なのに撤去されたためか見あたらない。ここには「高台橋のお女郎地蔵」「火の玉不動」があった筈なのだが・・・

■氷川神社一の鳥居・武蔵国一宮の石柱14:52(右側)

 いよいよ、きょうの餐歩行程のゴールが近づいてきた。進行右手先に、赤い鳥居と「武蔵国一宮」の石碑が眼に入ってくる。この大鳥居が氷川神社参道の入口である一の鳥居で、この参道は中山道の古道になる。丁石が道端に置かれ、「一丁」から始まる。武蔵国が概ね現在の東京・埼玉であることは先刻承知済みだが、武蔵国一宮がここだったとは不明にして知らなかった。
 ところで、街道が神聖なる神域を通るのは不敬なりと、寛永5年(1628)に現在の直進する中山道が造られ、それに伴って宿の人々も移動させ、新しい大宮宿ができあがったとのことである。
 参道は一の鳥居から三の鳥居まで約2kmあるらしいが、そうすると18丁ぐらいかと2人で話ながら歩いたが、帰宅後文献を見ていたら本当に18丁だった。参道右手の常夜燈下に「是より宮まで十八丁」の石碑があるとのことで、どうやら見落としていたようだ。

 明治期迄は鬱蒼とした杉並木だったが、環境変化や第ニ次大戦中の燃料としての伐採などから、現在ではケヤキが中心となっている由で、古色蒼然たる落ち着いた佇まいで、しかも長い参道なので雰囲気は満点だが、残念なことに車の通行が多いことと、歩道も自転車の通行が甚だ多く、神社の参道を歩いているような落ち着いた雰囲気に全くなれないのは残念極まりない。

---結局、左手「大宮小学校」の先、右手「交番」角を左折して大宮駅に向かい、駅前で軽く打ち上げ、武蔵浦和駅乗換の武蔵野線廻りで帰路についた。---