「中山道」を歩く

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 2008.10.21(火) 中山道六十九次をスタート

久しぶりに朝の通勤ラッシュにもまれながら都心に向かい、約束の9:30a.m.の若干前に「日本橋」元標広場で村谷氏と合流。村谷氏は当初の約束時刻9:00a.m.に見えていたようで失敬してしまった。メール連絡を見落としておられたようだったが・・・。
26〜26日の滝澤・清水・村谷各氏との東海道餐歩のトレーニングにもなるだろうと考えての日程編成であるが、来月1日には、第1回日光道中餐歩もスタート予定だし、11月29日には「古代東海道餐歩」もスタート予定という、欲張り計画で、期待に胸躍るシーズンとなっている。贅沢なことに、きょうは天気が良すぎて暑くなりそうだ。村谷氏の半袖ルックが正解だったようだが、ともかく長袖シャツをまくり上げ、「道路元標」のレプリカを撮してスタートする。

日本橋・・・東海道や甲州道中餐歩時、既にお馴染みのため、見学は省略。東海道とは逆方向の北に向かって「中山道」のスタートを切る。

三浦按針屋敷跡・・・右手「室一仲通」商店街へと寄り道し、「タガワ宝石店(室町1-10-8)」前にある「三浦按針屋敷跡」の立派な石碑を確認する。江戸時代初期、徳川家康に外交顧問として仕えた英人航海士・水先案内人・貿易家で、ウィリアム・アダムス、日本名が三浦按針だ。

     
史跡 三浦按針屋敷跡
 ウィリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生れ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・数学等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通称の顧問となり、日英貿易などに貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に歿した。
 日本名三浦按針は相模國三浦逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。

芭蕉旧居跡・句碑・・・ついでに、室町1-12-13の「鮒佐」前にあるとの情報で捜すが、「鮒佐」は見あたらず、当該番地は郵便局になっていて、周辺にもそれらしき表示は見つからない。

街道に戻ると、右手の工事中箇所の囲い塀には、「古着売り」ほか、江戸文化を示す大きな看板絵が解説文付きでいろいろと架けられている。

十軒店跡(解説板)・・・「江戸通」の手前左手

五代将軍綱吉が、京都から雛人形師を十人招き、ここに長屋を十軒与えたのが始まりと言われ、中山道先行きの鴻巣・越谷と共に「関東三大雛人形」生産地として賑わったという。

            
十軒店(じっけんだな) 跡
                    所在地 中央区日本橋室町三‐二‐一五
 十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
 江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
 『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(一九一一)に十間店町となり、昭和七年(一九三二)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。
          平成十年三月
                       中央区教育委員会


石町時の鐘 鐘撞堂跡・・・街道に戻って「室町三」信号の先右手

         
石町時の鐘 鐘撞堂跡
                     所在地 日本橋室町四丁目五番地域
                            本町四丁目二番
 時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康と共に江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永八年(1711)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町5-2)に移されて残っています。
 鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町3丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。
 近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
                       中央区教育委員会


今川橋跡碑など・・・「室町四」と「今川橋」信号の中間右手

「今川橋の あと どころ 昭和五十一年五月 東山興業株式会社」の石碑

今川橋由来碑・・・同じく左手。由来碑の先の交差点名としてのみ「今川橋」の名が残る

村谷氏主催のYSCの河畔歩きで、2008.12.05と2009.01.09の2回に分けて、神田川河畔を源流の井の頭公園・井の頭池から江戸川公園まで歩いたことがあるが、その縁の橋跡である。

     
今川橋由来碑
 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に仮設されたのは天和年間(1681〜83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。
 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 昭和二十五年(1950)龍閑川は埋め立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
              平成四年4月吉日


−−−随所に「千代田区町名由来板」が各種あり・・・例:現代VS安政三年(1856)−−−
−−−神田駅のガードを潜り、先でまた中央線を潜って神田川河畔で昌平坂由来板−−−

昌平橋由来・・・「昌平橋」信号左手

            
 昌 平 坂
                        湯島一丁目1と4の間
 湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のようにような和歌に詠んだ。
       萬代の秋もかぎらじ諸ともに
             まうでゝ祈る道ぞかしこき
                       文京区教育委員会  平成18年3月


湯島聖堂・・・「昌平橋」左折。「外神田二」右折、次で左折。緩やかな登り坂の左手

街道右手には、「大國屋冶助(飴屋)」や“旧湯島”の「旧町名案内板」が見えるが先に進む。続いて「神田明神」。既に1月に参拝済みなので進む。

昌平坂左手にある「湯島聖堂」は昭和10年再建の建物の四囲を覆うようにその頃築と言われる古い煉瓦積塀に囲まれている。前身を「昌平坂学問所」と言い、5代将軍綱吉が孔子を祀る「大成殿」を元禄3年に創建したのが始まりとされ、寛政2年(1790)からは明治まで続いた江戸幕府官立の学問所である。。建物は再建されているが入徳門は1704年築当時の侭のものの由。

−−−街道反対側が平将門縁の神田明神だが、2008.01.05参拝済みに付き立ち寄りは省略−−−

かねやす−−−「本郷三」信号手前左手−−−

               
かねやす  本郷2-40-11
 兼安祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。(御府内備考による)
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗家・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それから中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやす では江戸のうち』と古川柳にも歌われたであろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来、本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
                           文京区教育委員会   昭和61年3月

東大と赤門

かねやすを通過すると、右手は東京大学、加賀藩前田家の上屋敷だった場所に建つ。赤門は11代将軍家斉の二女・溶姫が前田齋泰に嫁いだときに建てたもので、国の重文に指定されている。正式名は「旧加賀屋敷御守殿門」というが、「赤門」とは、御守(主)殿門のことを言い、江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗りにしたために、俗に赤門と呼ばれた。この赤門は、火災などで焼失した場合は再建できないという慣習があり、この赤門はそうした災害を免れ現存する貴重なものと言える。建築様式的には、切妻造の薬医門で、左右に唐破風の番所を置いている。なお、この赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷に移って以来、明治17年(1884)の他学部の本郷移転迄の間、医学部の門として使われていたこともあり、医学部には赤門をデザインした紋章があるとのことである。
高二の時だったか、ある全国大会参加時に東大正門前の某旅館に泊まった折、見て以来の懐かしい場所でもある。気のせいか、前を通る若者達の顔つきは、やはりそれなりに見えるから不思議だ。

−−−言問通の先、東大農学部前で4km、街道は左の旧道へ入る−−−

本郷追分

東大農学部前で道は二手に分れ、その侭真っ直ぐ行くと日光御成道で、王子・川口を経て幸手で日光街道に合流するが、我々中山道ウォーカーは左に曲り、白山通へと入って行く。この追分前に一里塚碑があるとのことだつたが、左右いずれにも見あたらない。ここ迄で4kmだ。

追分一里塚跡界隈

その先で地図入りの面白い看板(解説板)を発見する。

               
旧 駒込東片町 (昭和39年までの町名)
 むかしは、岩槻街道と中仙道に沿って発達した宿駅で駒込宿の名があった。駒込村の内であった。
寛永年間(1624〜44)、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので、駒込片町といった。
 明治2年、徳性寺門前、九軒屋敷、追分町の残地を併せた。中山道の東側にあるので駒込東片町とした。
 同5年、大円寺、正念寺などの寺領を併せた。
 中山道と岩槻街道との分岐点が追分で、一里塚があった。東大農学部正門前の角に現在高崎屋がある。宝暦年間(1751〜64)の創業で酒屋と両替商を兼ねていた。


−−−「白山一」信号左折寄り道で浄心寺坂という急坂を下った先右手に円乗寺(八百屋お七墓所)があるが、立ち寄り割愛−−−

■大圓寺とほうろく地蔵尊−−−街道のその先右手−−−

石柱に赤塗り文字の大圓寺とほうろく地蔵尊に気づき、朱塗りの門を入る。曹洞宗の寺院で、ほうろく地蔵尊が境内にあるが、これは八百屋お七供養のための建立で、火に関係がある故か、やけどや頭痛直し等の霊験で有名の由。

                 ほうろく地蔵
                        大円寺(向丘一-十一-三)内
 “八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
 寺の由緒書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
 お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。
                          東京都文京区教育委員会    平成元年三月


余談だが、Y社における東京消防庁開拓の先駆者として名高い“今仁まき”さんの墓はこの大円寺にあるとの村谷氏の話で、同庁の某幹部の方の墓所もここにある由である。。

大円寺境内には、高島秋帆や斎藤緑雨の墓があり、次のような解説板も架かっている。

             
高島秋帆の墓 國指定史跡
 秋帆、1798〜1866(寛政10〜慶応2)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。
 翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命ぜられた。
             斎藤緑雨の墓
 緑雨、1867〜1904年(慶応3〜明治37)。三重の人。名は賢(まさる)。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
 かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。  墓碑銘は幸田露伴書
                                       曹洞宗 金龍山大円寺
                          文京区教育委員会   平成8年3月


駒込追分−−−「白山上」交差点の旧名で、岩槻道との分岐点だった所−−−

左に寄り道すると、「白山神社」があるが、これも「神田明神」などとセットで1月に参拝済みなので、見慣れた風景を懐かしみつつ直進。途中、中華店で軽く昼食を済ませ、旧白山通から「本駒込二」で左からの白山通と合流し、更に進む。

染井吉野の碑−−−山手線を越えた左手。巣鴨駅がすぐ右手−−−

曾て染井吉野の古木があったのだろうか、立派な石碑が建ち、若木が植わっている。

地蔵通−−−「とげぬき地蔵入口」で旧道(地蔵通)に入る−−−

おばあちゃんの原宿で有名な巣鴨の地蔵通が旧中山道である。ウィークデーにも拘わらず、曜日にあまり関係のない元ヤングギャル達で大変な人出である。サブ・プライム不況も無関係である。

眞性寺(江戸六地蔵)

入口に真言宗豊山派の醫王山眞性寺。「江戸六地蔵」の一つであることを知り、「江戸六地蔵」に大いなる関心を持つ一人として興味津々となる。因みに、「江戸六地蔵」は地蔵坊正元という江戸深川の僧が15歳の時に罹った病を地蔵祈祷で治したことに端を発して地蔵尊建立を発願、浄財を募って江戸の出入口となる六つの街道筋に旅人の安全を祈願して造立したのが始まりと言われ、宝永年間(1704〜1711)のものと元禄年間(1688〜1704)のものとがあるが、現在でいう一般的な六地蔵は、宝永年間のものを指すそうだ。
六地蔵は品川の品川寺(東海道)。東浅草の東禅寺(奥州街道)、新宿の太宗寺(甲州街道)、巣鴨の真性寺(中山道)、江東区白河の霊厳寺(水戸街道、別説で千葉街道)、深川公園に寺跡の標識を留めるのみになった永代寺(明治維新における廃仏毀釈で廃寺になり、地蔵尊は川口の鋳物工場に払い下げられたと言われている)の各寺である。なお、明治期に新たに台東区上野桜木の浄名院が新六番になったそうだが、地蔵尊の大きさは他五体に比し小ぶりの由である。

                  
眞性寺由緒沿革
 当寺は、醫王山東光院眞性寺と称し、真言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。
 当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(西暦1615年)祐遍法印であります。ご本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されて来ておりません。当寺は、江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。
巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺が御膳所とされていました。
                  江戸六地蔵尊 第三番 縁起
 当寺境内に安置されております江戸録地蔵尊第三番目の尊像は、地蔵坊正元が発願主となって、宝永三年(西暦1705年)造立の願を発してから、享保五年(西暦1720年)に至る十五年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で、正徳四年(西暦1714年)に完成されました。
発願主の地蔵坊正元は、若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば、世の中の人々に地蔵菩薩の御利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したことにより、誓いの通り地蔵菩薩像を江戸の出入口にある六ヶ寺に造立されたのであります。
                        平成十二年八月吉日     醫王山 眞性寺

芭蕉句碑−−−眞性寺境内−−−

     
“しら露も こぼさぬ萩の うねり哉”

巣鴨とげぬき地蔵(高岩寺)

通りの途中右側に岩寺「とげぬき地蔵」。それなりの年齢も心得る我々も参拝する。病気や自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗うと効き目があると言われる、通称「洗い観音」前の順番待ちは、押すな押すなの大行列である。以前はたわしで擦っていたため摩耗が激しく、今は2代目だとか。

とげぬき地蔵の由来だが、ご本尊・延命地蔵尊(秘仏につき非公開)の絵姿のお札(御影。縦4cm、横1.5cmの和紙の中央に尊像が描かれている)に祈願もしくはその札を水などで飲んでご利益があるとされる由。江戸時代、田付又四郎という武士が夢枕に立った地蔵菩薩のお告げに従い地蔵尊の姿を描いた紙を川に流した処、妻の病が快癒したのが御影の始まりとされ、毛利家の女中が針を誤飲した際、御影を飲み込むと針を吐き出すことが出来たという逸話が決定打になったようだ。

たねや街道−−−眞性寺傍に解説板あり−−−

       
江戸・東京の農業  旧中山道はタネ屋街道
 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。
 旅人は農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後東京・江戸が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店もでき、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町に至る約6kmの間にタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。
寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れに来他記されています。
馬12〜3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。
                             平成9年度JA東京グループ
                             農業協同組合法施行五十周年記念事業
                             東京都種苗会


中山道庚申塚・猿田彦大神庚申堂−−−「庚申塚」信号手前右手−−−

               
庚申塚由来記(墨字板書き)
 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀二年(1502年)造立、現存していれば区内最古の石碑。
 昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり板橋宿の一つ手前の立場として上り、下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在り、人足や馬の世話もした。
 広重の絵にも描かれ、江戸名所図絵で見ると、茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
 ここに団子たどを売る茶店もできて、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、花の頃は、小林一茶も訪れて “ふじだなに 寝て見てもまた お江戸かな” の句がる。

               巣鴨猿田彦大神庚申堂 由来記(木製解説板)
 江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。
「武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なりよしず囲いの茶店あり団子茶屋と称す。石碑を見るに明暦三年と彫られ、又 古老からの聞き書きとして文亀二年(1502年」に塔を建立高さ八尺なり然るに明暦三年正月世にいう振袖火事の大災おこり江戸市中九分通りを焼き払う。復興資材をひさぐものひきもきらず、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、故に村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀二年の碑を怩フ下に埋めたりと言い伝えを物語る、されば巣鴨庚申塚というは文化十二年(遊歴雑記発行年)に至りて三百十四年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」と書かれている。
又、長谷川雪目の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」にはこの庚申塚に中山道の立場があり旅人が茶屋で休息している様子が描かれている。
広重の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑わいが見られる。
庚申塚を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社としては伊勢皇太神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道祖神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たのであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。
 前述のように文亀二年(1502年)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦三年(1653年)に作り直したものが現在ご本殿に祭る「庚申塔」である。
戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で消失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。
 ところで、庶民の間に庚申塔が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の碑に夜を徹して来世の降服を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過ごす、という祭りが流行した。今はすたれたけれども当庚申堂にもその名残が偲ばれる。
昭和四十六年に御本堂を再建し、以後四十九年には御水舎、平成三年には山門も形を整え荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。
年に六〜七回、庚申の日にはお祭りをして多くの信仰者を迎えている。
 御祭神は左の通りである。
         (略)
                          平成四年六月吉日     巣鴨猿田彦大神庚申堂 奉賀会

巣鴨庚申塚「延命地蔵尊」の謎、ほか−−−その先、都電荒川線・庚申塚駅近辺−−−

@初めにあった場所、A一時移転した場所、B延命地蔵現在地(西巣鴨2-33)を地図に示しての新聞(?)記事の拡大コピーが掲示されていた。また、「庚申塔の三猿は古い形」とか「延命地蔵は元禄期頃のもの」等と題した写真付き拡大コピーも掲示され、地元がこれらの文化財を大切にしているとの印象を強くした。

滝野川の種屋−−−明治通手前右手−−−

たねや街道を証明する古い建物が残っている。間口三軒半の民家様建物だが、あいにく正面の七枚のガラス戸は全て白カーテンが引かれていて、内部は見えなかったが、ガイド本と見比べるとこの旧家が往時の種苗の店だったと確信される。

近藤勇碑−−−「明治通」を越え、滝野川商店街を抜けた交差点の左に入った所、−−−

明治通を渡ると北区滝野川で、付近には幕末に刑場があり、新撰組の近藤勇がここで処刑された関係で、「新選組隊長近藤勇墓所」がある。その大看板から墓所に入ると、奥まった所に近藤勇と土方歳三の合葬墓や、近藤勇立像、近藤勇埋葬当初の墓石のほか、永倉新八の供養塔がある。解説板には次のように記されている。

         
近藤勇と新選組隊士供養塔
                           北区滝野川七−八−一寿徳寺境外墓地
 慶応四年(1868)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、守旧派京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ三・六メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。尚、近藤勇の諱である昌≠ェ¥ケとされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
                    平成十六年三月
                              東京都北区教育委員会

平尾一里塚−−−街道に戻り信号を越えた所近辺にあったらしいが、現在は不明−−−

往時は一里塚辺りが板橋宿の入口だったという説もあるようだが、実際に歩いた感じ、その他から考えて疑問がある。旧道は埼京線踏切を渡り、板橋駅西口に至る。ここには「旧中山道」の標識が立っている。

板橋宿−−−JR埼京線(左手:板橋駅)を越えると、通りの上に「板橋宿」の大横看板−−−

板橋宿の「板橋」という名は、宿の中程を横切る石神井川に架かる橋を「板橋」と呼ぶことに由来し、江戸側から「平尾宿」「中宿」、板橋から先を「上宿」と称し、三宿を総称して板橋宿と呼んでいる。
中山道六十九次最初の宿「板橋宿」は、地元の宿としての街おこしの意気込みが強く感じられる町である。国道17号とその頭上を覆う高速道路を信号で横切ると、恐らくここからが実質的な板橋宿になると思われるのだが、街道両側に建てられたポールを支えにした大きなアーチに「板橋宿」の大看板が歓迎してくれ、更には、この交差点「平尾追分」から宿に入ったすぐの所には大立看板(解説板)があり、大きな切絵と次のような文言が掲げられている。また、その先には「板橋宿今昔みちしるべ」なる解説板もある。なお、「平尾追分」は、旧中山道から「川越街道」が左へ分岐する場所であり、近々予定している「川越街道餐歩」のスタート地点になる場所である。

          板橋宿
日本橋から北へ、中山道第一番目の宿場、中山道から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に、又ここから中山道へ旅立っていった。宿場は、南から平尾宿、中宿、上宿で構成され、本陣は一軒、脇本陣三軒、五十四軒の旅篭屋があった。この切絵は明治十六年に建造された旧板橋警察署で、昭和八年に新中山道が開通するまで中山道と川越街道の分岐点となっていた。
                             きりえ・佐藤廣士


品川・内藤新宿・千住と並んで「江戸四宿」と言われた板橋宿は、宿場町の雰囲気を濃厚に残した素晴らしい町並である。中心は本陣や問屋場・旅籠が軒を並べる中宿だったそうだが、日本橋が各街道への形式上の出発点であるに対して、実際は、品川・内藤新宿・板橋・千住の各宿が実質的出発点で、各宿は見送り人や飯盛り女目当ての人等で非常に賑わったという。

観明寺と寛文の庚申塔

              
観明寺と寛文の庚申塔
 当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝五年(1677)十月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
 明治六年、当寺の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。
 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和五八年度に板橋区の指定有形文化財になりました。
                      平成十二年六月
                                板橋区教育委員会


中宿の本陣・脇本陣跡
 信号名に「旧中山道仲宿」(現・地名=仲宿)の字が使われている板橋宿の中心地・中宿に入ると、通りの雰囲気がここまでとは一変する。右手のスーパーライフがある横の塀にひっそりと隠れるように立つ「本陣跡碑」を見つけたが、見つけづらく、見落としそうな場所である。2軒あったという脇本陣跡は、その先を左に入った所(飯田家跡)と、街道のその先右手の酒屋で、往時はその先の石神井川の川向かいにあったという。飯田家前には、解説板が立っている。

             
板橋宿中宿名主飯田家跡
 当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を務めました。世襲名は宇兵衛。
 飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ,その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には,当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和〜寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鷹狩りの際に使用されたと見られます。そして当家が御茶屋守としてこれを管理していたと思われます。なお、御林四〇町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
 江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。
 そのような中で、文久元年(1861)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(1868)の岩倉具視率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。
                     平成二十年三月
                               板橋区教育委員会

板橋

石神井川に架かる橋で、「板橋」の地名の起こりになっている。江戸期の架橋当時は、長さ9間、幅3間の緩やかな太鼓橋で、「江戸名所図会」にも描かれている。「日本橋から十粁六百四十三米」「距 日本橋二里二十五町三十三間」と書かれた標柱や解説板が立っている。

               
板  橋
 この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、既に鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から境りを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し,三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図絵」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため,昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。
                   平成十二年三月
                            板橋区教育委員会


縁切榎−−−少し先の右手−−−

江戸時代、ここに樹齢数百年の大榎があり、この榎の下を嫁入り行列が通ると必ず不縁になるという俗説が生まれた。皇女和宮ご一行が通過の際には、わざわざ迂回路を造ってここを避けて通ったと言われている。榎の木の傍には鳥居の奥に祠があり、縁が切れないようにお願いしておいた。

               
縁切榎  (板橋区登録文化財)
 江戸時代には,この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には,宴が短くなることをそれ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の子文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい,榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは,中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て,板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。
 なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は,その際に出された、不浄なものを筵で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また,近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
                 昭和十八年三月
                           板橋区教育委員会


南蔵院−−−環七を越え、泉町で新中山道(R17)と合流し、右手先の南蔵院へ−−−

宝勝山連光寺と号する江戸時代初期創建の真義真言宗智山派の寺院である。度重なる荒川の洪水のため、江戸期に坂下二丁目から現在地に移転している。境内のしだれ桜が「板橋十景」の一つに選ばれているほか、境内には「豊島八十八箇所 第二十四番 弘法大師霊場 南蔵院」「弘法大師千年遠忌供養塔」「弘法大師千百年遠忌供養塔」「地蔵堂」ほかの古い石塔・石碑があるほか、承応二年(1653)旧蓮沼村の庚申待講によって造られた丸彫り地蔵の庚申塔がある。
境内で、ボランティアの老男性が親切に解説してくれたり,資料類を渡してくれ、この先の予定を聞いて「是非、延命寺にもお立ち寄りを!」と,目下特別公開中の天然記念物などがあることを教えてくれる。

志村の一里塚−−−その先、左及び右−−−

志村警察署や志村坂上消防署などを右左に見ながら行くと、前方左右に見事な一里塚が見えてくる。これだけ立派な形で残っている一里塚は、東海道などでも数少なく、貴重な文化財である。

               志村一里塚
 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の怩ェ江戸日本橋を基点として一里(四km弱)毎に、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
 幕末以降、充分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に,周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され,現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(1922)に國の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。
                      平成十七年三月
                                         板橋区教育委員会


延命寺−−−街道を左に入って寄り道−−−

寺域に入ると,正面に長机を置き、一人の女性ボランティアが出迎えてくれる。先ほど立ち寄った南蔵院で、こちらへの立ち寄りを勧められたことを話すと大層喜んでくれ、後述の板碑や地蔵像などについて、いろいろと案内・解説して戴いた。
先ほどの南蔵院と同様、当寺も「豊島八十八ヶ所 第二十二番 弘法大師霊場」の碑がある。後記「こぶ欅」は寺域内幼稚園の中の一角にガラス越しに、残っている樹幹を拝見できたが、とてもカメラに収めきれない大きさである。また、新編武蔵風土記稿の延命寺の絵に色づけしたものを見せて貰ったが、当寺の寺域の規模やこぶ欅の巨大さが印象的である。

                
 延命寺とこぶ欅
 真言宗見次山松寿院と号し,創建は大永年間と伝えられる。大永四(1524)年、北条氏綱は江戸城を攻め、白を逃れて川越へ向かった上杉朝興はその途上、志村城下で追討にあい,その際志村城もこの巻き添えとなった。
 城主篠田五郎の家臣・見次権兵衛は庭先でわが子が討たれる姿をみて,戦国の世の無常を感じ、居宅を仏寺として自らが開基となった。
 当寺は、江戸時代将軍家お鷹狩りの小休所となり、御座所・御成門も備えられていた。境内には樹齢約八百年といわれる欅の大樹があり、樹幹に巨大な「こぶ」のあることから俗に「こぶ欅」と呼ばれた。昭和六年に天然記念物に指定されたが,近年枯死したため指定は解除され,今は樹幹のみが保存されている。
また、区内最古の建長板碑と、俗に切支丹灯籠といわれるマリア像を形どった地蔵像を刻んだ燈籠一基がある。
                  平成五年二月
                               板橋区教育委員会


一里塚のある街道に戻り、本日はここまでとして,近くの中華店で軽く打ち上げて、都営三田線志村坂上駅から巣鴨・新宿経由で帰路についた。