2008.01.11(金) 日本橋(10:15スタート) → 明大前駅入口 (14:08ゴール) <第1区>13.8km 所要3:53

10:15、「お江戸日本橋」に到着。「旧東海道餐歩」を発願して2004年06月20日にここに立って以来だ。もちろん、きょうは旧甲州街道(甲州道中211km)完歩を目指してのスタートである。

■日本橋

ここ日本橋は、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康が全国道路網整備計画に際して架けられたもので、1604年に「
旧五街道」(東海道・甲州道中・中山道・奥州街道・日光街道)の起点とされた。現在も全国各方面への国道の起点であり、各方面への距離が「元標の広場」の石碑に刻まれている。

明治31年4月に、東京遷都30年を記念して日本橋の両端に、「緑門」という鳥居が建てられたが、初代の橋は、同年架けられた木橋で、室町一丁目と通一丁目を南北に結んでいた。以来、焼失等により度々架け替えられ、現在架かっているのは第十九代の橋で、1911(明治44)年の石造二連アーチ橋である。この第十九代の橋は、1999年に国の重要文化財に指定されている。


 ◆高札場跡

先ずは南西側「
高札場跡」で「日本橋由来記碑」を読み撮影。

  日本橋由来記

日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ

  昭和十一年四月
  日本橋區

 


説 明 版

国指定重要文化財

  日本橋
  所在地 中央区日本橋一丁目〜日本橋室町一丁目

日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

  平成十二年三月
  中央区教育委員会

 ◆魚河岸跡

続いて首都高速道下の橋全景、北西の元標の広場から北東の「
日本橋魚河岸跡(現・乙姫広場)」へ。魚河岸跡は関東大震災後「築地」に移転するまで東京の魚河岸だった所だ。

家康の関東入国後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営んだ。のち、日々上納した残りの鮮魚を舟板の上に並べて一般に販売するようになったのが日本橋魚河岸の始まりと言われており、関東大震災まで、江戸および東京の台所として活況を呈していた。「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味で、記念碑のあるこの広場を「乙姫広場」と称するのはそんな由来に基づいている。

 ◆晒場跡

南東の
晒場跡はいま「滝の広場」となり何もない。当時は間口5間の小屋があり、処刑者は首かせをかけられ「晒し箱」に入れられて、庶民への見せしめのために晒された。現在は、何の因果か「交番」が建っている。

 ◆元標の広場

橋中央に埋め込まれた「元標」にタッチしてスタートしたい所だが、車道中央で危険なため、「
元標の広場」のレプリカ撮影で我慢する。

旧東海道は、ここ日本橋からR15を南進するが、甲州道中は実は諸説というか時代により変化しており、半蔵門に至る過程ですら変遷しているらしく、詳細は省くが、元禄16(1703)年の大地震や直後の火災による変動があるようだ。

きょうは国土交通省東京国道事務所発行のマップに従い、橋南詰めから140m先の日本橋交差点を右折して外堀通りを経て皇居お堀端へと抜ける予定だが、その前に2ヵ所ばかり立ち寄る。

■一石橋の迷い子しらせ石

一つは呉服橋信号右折で
一石橋西詰め袂にある「迷い子しらせ石」(10:33-10:36)で、説明板もあった。

この辺から日本橋にかけては盛り場で迷い子も多かったようで、迷い子が出た場合には、その町内で責任をもって保護することになっていたいて、安政四年(1857)にこの石標が建てられている。
石標の四角い窪みに紙を貼って“尋ね”や“知らせ”をしていた。石標の左側には「たつぬる方」、正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」右側には「志(し)らする方」とある。ここ以外にも、浅草浅草寺や湯島天神などの境内にも同様のものがあったようである。

■一石橋の親柱

【一石橋の親柱】 中央区民文化財(平成14年指定)

 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。

 本橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。

                          (平成15年3月 中央区教育委員会)


■平将門の首塚

もう一つは大手町交差点右折で「
将門の首塚」(元酒井雅楽頭上屋敷跡、歌舞伎先代萩の原田甲斐殺害地)(10:50-10:53)である。

平将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれているが、
討ち取られた首は京都の七条河原に晒され、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言い、その声は毎夜響いたという。

そして、ある日首が胴体を求めて関東へ飛んでいったという。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がったが、最も著名なのがここ大手町の平将門の首塚であり、晒し首となった確認される最も古い確実な例が、この将門の晒し首なのである。

この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。

【都旧跡 将門塚】(昭和46年3月指定)

 平安時代、天慶の乱(〜940年)の中心人物。平将門にまつわる著名な伝説地。 
 通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。
 嘉元年間(1303〜05)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。
 故跡保存碑は明治三十九年五月に建立されたもので、裏面の阪谷芳郎撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。
                             (昭和46年10月 東京都教育委員会)

【将門首塚の由来】

 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治二年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の骨地をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情とは極めて大きなものであったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。

【将門首塚の碑】

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 明治二年(1869)より第二次世界大戦まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。 (平成3年3月 千代田区教育委員会)

【将門塚】

 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強気を挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる貴重な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭のときに同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。(江戸総鎮守神田明神)

【酒井家上屋敷跡】

 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。


元に戻って、水戸藩脱藩浪士による井伊直弼暗殺で有名な
桜田門までは現国道1号だが、ここからR1は左折となり、直進がR20の起点。いわゆる現甲州街道へと進んで半蔵門信号を左折(11:30)して新宿通りへと進む。

■四ッ谷見附跡

JR四ッ谷駅傍の「
四ッ谷見附跡」(11:46-11:47)はなかなかの石塁だ。

見附というのは、お堀の門を言い、城の見張所だった。四谷見附は外堀に掛かった四谷御門の枡形の跡で、江戸城外堀工事の際、毛利秀就が担当し寛永16年(1639)築造された。御門は全部で90近くあったと言われ、譜代大名や旗本が見附番所で24時間厳重に警備をしていたそうである。ここ、新宿区内の外堀は江戸城最後の工事として三代将軍家光当時、寛永13年(1636)から行われ、神田川につなげられた。長延寺谷が利用され、掘った土は、九段、麹町、番町に積まれ土塁にされた。牛込門は寛永13年徳島藩主蜂須賀忠英、市ヶ谷門は寛永13年津山藩主森長継によって築かれた由。


■四ッ谷消防署の消防博物館

この後、四ッ谷一丁目信号先のなじみ店「はなまる」(11:56-12:06)で好物の饂飩で昼食後、四ッ谷三丁目信号先(右)にある四ッ谷消防署の
消防博物館(12:17-12:29)に立ち寄り、江戸時代から現代に至る消防の歩みを見学。結構、子供連れ、孫連れ、恋人連れ・・・と雑多な見学者がいたのは予想外だ。

■四谷大木戸跡・玉川上水記念碑

続いて四ッ谷四丁目交差点先で「
四谷大木戸跡」や「玉川上水記念碑」(12:40-12:43)などを見学する。

四谷大木戸(間口2間半)は甲州道中を往来する人々を糺す目的で元和2年(1616)に当町(四谷塩町3丁目・現四谷4丁目)の西方(後の内藤新宿との境)に設けられたといわれ、大関戸とも記し、霞が関、旭の関ともいったという。大木戸際の北東にある馬改め番屋も同様の目的で徳川家康の江戸入り直後に置かれたといわれ、元禄年中(1652-1704)までは府内から付出す荷物はここで在町荷主問屋等の手形を改めた。
大木戸・番屋ともに寛政4年(1792)に取り払われた。なお大木戸撤去後は甲州道中の両側に石垣(明治9年撤去)が築かれた。承応年中(1652-55)の玉川上水工事の際数ヶ月町人達が商売が出来なかったため、一町の左右に五箇所ずつ井戸を許されたと言われており、町内には玉川上水石樋から分水を設けた井戸が甲州道中に五ヶ所ある。


【四谷大木戸跡碑】

 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、明治三十四年十一月地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。
 実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
                                (新宿区教育委員会)
【玉川上水水晩番所跡】 史跡

 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
 水番所には、水番人が一名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。

一、 此上水道において魚を取水をあび
   ちり芥捨べからず 何にても物あらい中間敷
   竝両側三間通に在来候並木下草
   其外草刈取中間敷候事
  右之通相背輩あらば可為曲事者也
   元文四巳未年十二月   奉行

【水道碑記(すいどうひのいしぶみ)】 東京都指定有形文化財(古文書) 昭和5年12月指定

 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460cm、幅260cm。上部の篆字(てんじ)は徳川家達、撰文は胆付兼武、書は金井之恭、題字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。
 碑の表面には明治四十八年の年記が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895)完成したものである(裏面銘文)。

 ここからR20は新宿御苑トンネルへと入っていくが、一の宿「
内藤新宿」への旧甲州街道は現新宿通りである。都市化の波に埋没して、宿場の面影は何もないが新宿三丁目交差点が「新宿追分」で、直進すれば青梅街道、左折すれば新宿四丁目交差点でトンネルから出てきたR20と合流する旧甲州街道である。昼時間のせいか人出が凄い

■寺院門前の言葉

相変わらず延々長期工事中の新宿南口を抜け、通算30有余年に及ぶなじみの勤務地「西新宿」を抜け(13:05)、西新宿三丁目信号先左の寺院の前の文字(左上写真)に眼を釘付けにされる。 “「私は正しい」争いの根はここにある”とある。戒むべき名言だ。寺名は「
諦聴寺」。

この辺りになると見学スポットは少ないが、環六を越えて右側に「
東京オペラシティ」(新国立劇場)。半蔵門手前で見た国立劇場同様凄い施設だ。
中野通りと交わる本町信号手前左の「
牛窪地蔵尊」に参拝。なかなか厳かな雰囲気がする。

■牛窪地蔵尊と道供養碑

牛窪地蔵尊は今を去る260年前(正徳元年拾月)に建立されたものである。庚申塔は享保9年十一月建てられた。以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地であったと伝えられている。この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり牛窪の地名と共に幡ヶ谷地方の雨乞い行事の場所としても有名であった。

宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやりこれが罪人の霊のたたりだと伝えられ子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵としてこの淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。道供養塔は中野通りから甲州街道につきあたりの場所で道しるべとしてもわかり易く当時行路者の行き倒れが非常に多く篤志家によって建てられたものである。

 昭和40年頃より急激なる自動車の発達に伴い交通事故死者急増、昭和45年5月甲州街道の拡幅により移転を余儀なくされ約18m後退の当所に地元正徳会各委員有志の尽力により移転建立し当地区の文化施設として永久に保存すべくここに其の竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。  1970年5月16日(昭和45年)


また、その傍には、道供養碑がある。

道供養碑 渋谷区幡ヶ谷1丁目10番

この道供養碑によって、江戸時代の道供養信仰を知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする全国でも珍しい供養碑です。中野通りの延長は鎌倉道の一部で、この道供養碑はもとそれに面してたてられていて、鎌倉道の供養碑であったことがわかります。なお、甲州街道に中野通りが交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所でした。  東京都渋谷区教育委員会


■代田橋近辺

大原交差点を過ぎた辺りは、娘が新婚時代に住んでいた関係上、何度か訪れており懐かしい。
やがて右手に現れた「
沖縄タウン」の商店街看板が注目をひくので思わずカメラを取り出す。代田橋駅付近では、ところどころ開渠している玉川上水の旧水路が一部だけだが顔をのぞかせており、懐かしい。というのは、以前、杉並区の浅間橋跡から約30kmに亘って最上流地点である羽村堰まで歩いたことがあるためで、ここでは小公園に説明板があった。

【玉川上水の由来】

 今から、300年以上昔、徳川四代将軍は、江戸の水不足を補うために多摩川から水を引くことを計画しました。
 そこで、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門の技術指導を受けた玉川兄弟によって、羽村から四谷大木戸まで武蔵野が掘り割られ、江戸八百八町に水を供給する水路が築造されました。これが玉川上水です。防火用水としても使われていたということです。
 現在では、その下流はほとんどが埋め立てられ、世田谷区内を通る、約950mの区間も上部が緑の散歩道として生まれ変わっています。

当初は松原二丁目信号まで歩いて本日のゴールにし、左折で下高井戸駅に向かう予定だったが、帰途の特急・準特急乗車の便を考え、その手前の明大前駅入口(14:05)をゴールにし、折良く入線の準特急に乗ったが、朝から趣味の教室に通って新年昼食会だった妻と帰着駅で合流でき、夕飯の買い物につき合う。

たかだか14km弱にしては信号待ちが多く、距離の割には所要時間・疲労感共に少なからずの感ありというところだが、距離消化率にすれば甲州道中の全体距離の僅か6.5%に過ぎない。

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甲州道中餐歩記〜1
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