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旧東海道餐歩記-1

右の写真下の矢印ボタンで画面手動切替え式のスライドショーをご覧ください。

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 2004.06.20(日) 日本橋~京急大森駅入口
 旧東海道餐歩「お江戸日本橋」勇躍スタート。街道制定400年、今なお歴史の香り 随所にふんぷん

 超大型台風6号が西日本へ接近中のきょう、山歩仲間の滝澤・村谷両氏と3人で、9時ちょうどに「お江戸日本橋」に集まった。
 予て知ってはいたが、橋の真上を圧迫感たっぷりの首都高が覆い、文化財よりもオリンピック意識・経済成長優先時代の遺物が今なお我が物顔に存在を主張している。

 いつの到着になるかは判らないが、京都・三条大橋までの53次(宿)492.1kmの旅立ちである。はたして、東海道400年の「時」の歩みを確かめることはできるのか?

 因みに、江戸時代の旅は12泊13日が標準日程だったという。13日間の平均距離は約38kmだから、現代の数倍険阻だった箱根の関所越えを初め幾つかの峠越え、あるいは川止めなどによる距離調整を考えると、概ね40km(10里)平均と考えると、当時の日本人のタフさは現代人の到底およぶとこめろでない。自分も、四国八十八ヵ所・1200kmを歩いて巡った時は、日により異なるものの多い時は44kmも歩いたけれども、それが連日となると完全に脱帽してしまう。

■ 日本橋

 まず橋の由来だが、1603(慶長8)年に、江戸幕府を開いた徳川家康の江戸の町割りと全国道路網整備計画に際し架けられたもので、翌1604年には中山道や奥州街道・日光道中・甲州道中などと共に「五街道」の基点とされた。
 “日本橋 何里何里の 名付け親” という川柳も生まれたそうだが、以来、時移りて400年だ。

 初代の橋は木橋で、室町一丁目と通一丁目を南北に結んでいた。以降、焼失などで度々架け替えられ、現在(第十九代)の日本橋は、1911(明治44)年に架けられたルネッサンス調の花崗岩の二連アーチ橋で、1999年に国の重要文化財に指定されている。橋の両端左右に唐獅子、中央左右の台座の上に麒麟が置かれ、獅子と麒麟の中間には、雪洞を洋風にしたようなランタンがあしらってある。
 「日本橋」という銘板の文字は第15代将軍徳川慶喜の筆とされ、以前の木橋に記したものをその侭写したものである。明治30年に静岡から東京に移り住み大正2年に77歳で逝去したが、木橋当時に書かれた晩年の書と目されている。

<元標の広場>
 車の行き交う橋の中央分離帯には、五街道をはじめとする全国主要都市への距離計測起点たる「日本国道路元標」が埋め込まれている。その丸い青銅版を真上から記念撮影したい処だが、車の往来激しく、甚だ危険極まりない。やむなく橋北西部の「元標の広場」にある複製を撮ろうとすると、今度は折からの朝日で我が人影が石版に映り込み、ご真影入り写真になってしまった。

<乙姫広場(日本橋魚河岸跡)>
 次に、元標の広場とは道を隔てた向かい側(北東)の「乙姫広場(日本橋魚河岸跡)」へ行き、またパチリ。魚河岸跡は、大正12年の関東大震災後「築地」に移転するまで、東京の魚河岸だった所だ。家康の関東入国後、摂津から漁民が佃島に移住し、幕府膳所に供するべく漁業を営んだ。のち、日々上納した残りの鮮魚を舟板の上に並べ、一般に販売したのが日本橋魚河岸の始まりとされ、関東大震災まで、江戸および東京の台所として活況を呈していたという。記念碑のあるこの広場を「乙姫広場」と称するのは「日本橋 龍宮城の港なり」、龍宮城の住人たる海の魚がことごとく日本橋に集まったという由来に基づいている由。この魚河岸で動いた金は一日千両だったというから、花のお江戸の面目躍如といったところか。。

<滝の広場(晒場跡)>
 日本橋川を隔てた反対側、つまり南東の「滝の広場」は往時の晒場跡だそうだが、今は何もなく、交番があるのみだが、晒場跡が交番とは、何かの洒落かと思わなくもない。当時は間口5間の小屋があり、処刑者は首かせをかけられて「晒し箱」に入れられ、庶民への見せしめにされたそうである。晒し刑とは、主殺し、女犯僧、心中未遂者をその小屋に入れ、3日間晒し、その後、死刑執行や非人に落とすなどの本刑を行ったそうである。
 ここ日本橋がにぎわった理由の一つは、後述の高札場とこの晒場があったからだと言われている。野次馬根性旺盛な江戸っ子たちは、晒しがあると聞きつければどこからともなく集まり、男囚はもちろん、心中未遂者が晒されたともなれば、押し合いへし合いの混雑ぶりだったとも言う。

<高札場跡>
 その向かい側は「高札場跡」である。高札とは、キリシタンの禁令等、法度や道徳上の掟、犯罪人の手配書等が書かれた木板札のことで、これを掲げておく場所を高札場と呼び、通常人目をひく所が選ばれた。ここ日本橋の高札場には、駕籠かきの人足賃や馬の駄賃にまつわる諸規定と、日本橋から各街道宿駅までの料金等も掲示されていたそうで、高札場めあてに日本橋を訪れる者も多かったという。
 今は、日本橋由来碑や解説板が立つのみで、それらを読んで次々とデジカメにおさめ、勇躍東海道(現・中央通り)を旅立った。

        
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ 其名四方ニ高シ 慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ 市街ヲ營ミ 海道ヲ通シ 始テ本橋ヲ架ス 人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル 翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス 當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク 橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス 舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ 徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ 魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス 富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ 日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ 本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル 茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
                      昭和十一年四月
                                     日本橋區


             
(説明版)
  国指定重要文化財
     日本橋
                所在地 中央区日本橋一丁目~日本橋室町一丁目
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
                       平成十二年三月
                                      中央区教育委員会


 江戸時代の旅立ちは、道中唄「♪お江戸日本橋七つ立ち・・・」にある如く、提灯に火を点し、現在時刻で言えば午前四時頃の出立だった。そして、提灯の火を消すのが明けかかった頃で、「♪・・・こちゃ高輪夜明けの提灯消す・・・」と、ちょうど高輪の大木戸辺りだったという。歩き旅の鉄則は、四国遍路の際にも完全実行したが、「早立ち・早着き」に尽きる。ましてや街灯もなく、現代以上に治安に不安少なからぬ当時は、明るい内に宿に着けるよう、かつ、それなりの距離(男平均約40km、女平均約30km)を歩くべく、早立ちが鉄則だったと思われる。

■ 安藤広重住居跡(左)

 八重洲通りを越え、左手のブリジストンビルの裏手に少々入った所で「安藤広重住居跡」を探しあて、早速その説明板をカメラにおさめる。それによれば、彼は、晩年の約10年をここで暮らしている。

                    
(説 明 板)
       安藤広重住居跡
            所在地 中央区京橋一ー九
浮世絵師安藤(歌川)広重(一七九七~一八五八)が、嘉永二年(一八四九)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。
広重は、幕府の定火消同心安藤源右衛門の長男として、八重洲河岸(千代田区丸の内二丁目)に生まれ、家職のかたわらで歌川豊広の門人となりました。「東海道五拾三次」以来、風景画家として著名となり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之図」、「名所江戸八景」等を遺しています。特に、「名所江戸八景」はこの地での代表作です。
定居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野屋敷の裏門外にあり、二階建ての独立家屋だったといいます。
                       平成七年三月
                                      中央区教育委員会

■ 江戸歌舞伎発祥地碑(右)

 頭上を交差して走る高速道路の手前右手に「江戸歌舞伎発祥地碑」を見つける。寛永元年(1624)二月十五日に、初代中村(猿若)勘三郎が「猿若座」を興したのが、ここ中橋南地というこの地(現在の日本橋通り二丁目付近)。その江戸歌舞伎誕生の地を顕彰し、松竹創業者、大谷竹次郎が昭和32年にこの記念碑を建立した。
 また、ここには、「京橋大根河岸・青物市場蹟」の石碑もある。

■ 擬宝珠つきの京橋親柱

                   
  (説 明 板)
     京橋の親柱
          所在地 中央区京橋三丁目/銀座一丁目
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和三十四年(一九五九)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治八年(一八七五)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正十一年(一九二二)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。
京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
                  平成四年三月
                                      中央区教育委員会

                    (碑  文)
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
                  昭和十三年五月

■ ガス灯、煉瓦銀座の碑
   
                 (説 明 板)
明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
                    昭和三十一年四月二日

 この煉瓦の街並み造りは10年に完成したが、7年にはガス灯が灯り、15年には馬車鉄道、36年には路面電子ろゃが開通した。に続いて、

 さらに、銀座通りを越えた右手に「銀座柳の碑」、左手に「銀座発祥之地碑」、マロニエ通り、松屋通りを越えると右手に真珠王(御木本)記念碑と続く。その先左手の銀座三越屋上には「銀座出世地蔵尊」というのがあるらしいが、これは見学を省略した。

■ 銀座柳の碑(右)

 銀座煉瓦街ができた頃、風趣を添える街路樹として松、桜、まきの類が植えられたが、風塵のために育たず、次第に柳だけになってしまった。大正10年歩道幅縮小の際に抜き去られて銀杏に植えかえられたが、柳の風情を惜しむ声が強く、昭和四年には西条八十作詞、中山晋作作曲、佐藤千代子歌う”昔恋しい銀座の柳”の「東京行進曲」が一世を風靡し、同六年柳並木が復活、再び西条、中山コンビが「銀座の柳」を作り”パリのマロニエ、銀座の柳」と四家文子が歌ったものの、昭和47年に取り払われ、今は柳の姿はない。

■ 銀座発祥之地碑(左)

 銀座(銀貨鋳造所および役所)は、慶長六年(1601)伏見に設けられたのが始まりで、慶長十一年には駿河にも設けられた。伏見の銀座は慶長十三年に京都に移転。駿河の銀座は慶長十七年(1612)にこの地に(現・銀座二丁目)移転し「新両替町」、通称を銀座町と呼んだ。その後、役所は寛政十二年(1800)に蛎殻町(現在の日本橋人形町の一部)へ移転したが、新両替町という名はそのまま残り、明治二年(1869)、正式に「銀座」が町名になった。

■ 真珠王記念碑

         
銀座文化碑 碑文
御木本幸吉翁は本年九十五歳養殖真珠の創始者で真珠王の名は全世界に及んでいる當處南北十間の地は翁の店舗の場所である
                     昭和二十八年四月 銀座通聯合会

■ 銀座出世地蔵尊

 四丁目交叉点にある三越屋上のこのお地蔵さんは、元々は道端に置かれていたものの、路上から大きな百貨店の屋上に上り詰めたことから、出世地蔵尊と名づけられた由。その昔、この「銀座出世地蔵尊」の縁日は大変賑わってたそうで、その風俗文化の名残りを残す貴重なものだそうだが・・・

■ 新橋親柱

 日本橋、京橋と来て、いよいよ新橋だが、この橋も京橋同様、川は埋め立てられ、橋も今やない。親柱だけが残されているが、その立派な親柱を見るにつけ、この新橋も当時は結構重要な橋だったと思われるのである。

■ 新橋・鉄道創設起点跡

 「♪汽笛一声新橋を~」と鉄道唱歌にも歌われた旧新橋駅の鉄道創設起点跡を探して左手に入り込んだが見あたらず、結局諦めて元の東海道に戻った。後で調べてみると、新橋汐留駅内に記念碑と0哩標識などがあるそうで、惜しいことをした。事前調査不足を反省。

 東海道は、浜松町から第一京浜国道に入って増上寺への大門を過ぎる。
 金杉橋を渡り、芝5丁目で西郷・勝会見地碑のある元薩摩藩邸跡を見て、さらに札の辻、ホテル都イン角の元和キリシタン遺跡で合掌する。

■ 西郷・勝会見地碑(左)

 田町駅前信号手前すぐのところに、西郷・勝会見地のレリーフが埋め込まれている。
江戸総攻撃を目前にした慶応四4年三月、勝海舟と西郷隆盛の間で会見がもたれ、新政府軍の江戸総攻撃を土壇場で食い止めた歴史的シーンである。十三日は品川の薩摩藩下屋敷、十四日はこの場所にあった蔵屋敷で行われたそうで、その様子が神宮外苑の絵画館には油絵で画かれているとのことだ。

 慶応三年末、江戸では薩摩藩の扇動で略奪や破壊行為が頻発。それら暴徒を匿ったとして、幕府は薩摩藩邸を焼き討ち。これが鳥羽伏見の戦いの発端となり、やがて戊辰戦争へと発展していく。結局、この両巨頭会談により、戊辰戦争で江戸の街焼き討ちは回避されたが、その戊辰戦争の発端となった薩摩藩上屋敷もこの近くだ。

               
田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が 江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血 開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある 場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元 より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠く なりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
また人情噺で有名な「芝浜の皮財布」は、この土地が舞台です。

■ 札の辻

 江戸時代、ここからは江戸湾が眺められ、絶好の景色だったそうだ。今はただの交叉点だが、江戸時代の初めは、ここが東海道の江戸府内の境で、東海道から江戸への正面入口だった。慶長九年(1604)に日本橋が東海道の基点になるまで「芝の口」といわれ、東海道はここから始まっていたという。

 1616(元和2)年には、芝口門が建てられ、1683(天和3)年には高札場は高輪(大木戸)に移され、芝口門は新橋北側に建て替えられたという経緯がある。後に日本橋と江戸城へ向かう分かれ路となり、高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたことから「札の辻」と呼ばれたという。

■ 都旧跡・元和キリシタン遺跡(右)・・・ホテル都インの南角

 札の辻の直ぐ先(府外)に、鈴ヶ森の刑場が出来る以前の芝の処刑場があったらしい。ここで元和九年(1623)家康の旧直臣だった原主水ら五十余人が、切支丹として火あぶりの刑に処せられた。

                    
  (解説板)
     所在  港区三田三丁目七番
     指定  昭和三十四年二月二十一日
徳川三代将軍家光が、元和九年(一六二三)十月十三日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実記によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウェス神父、原主水ら五十人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その地は恐らくもとの智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地になっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。この寺は昭和期に移転し現在は石碑のみが残っている由だ。
なお、寛永十五年(一六三八)十二月三日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
             昭和四十三年三月一日 建設
                               東京都教育委員会


 以上を更に詳述すると、幕府の切支丹禁教・弾圧は意外な処から始まっている。慶長十七年(1612)大御所家康の駿府城で、肥前国日野城主有馬晴信と家康の陪臣岡本大八間に生じた贈収賄事件の裁判があり、大八は火刑に、晴信は切腹させられる。

 この取調べ過程で両者の切支丹信者たることが発覚、拷問で岡本大八は、家康側近中にもいた切支丹信者名を多数白状。家康の銃隊長原主水ら十四人の旗本ほか、家康の愛妾阿滝の方まで含まれていて、驚いた家康は間髪を入れず禁教令を発布。高山右近ら切支丹大名も海外追放となった。阿滝の方は大島へ流罪、原主水は耳削ぎ・手足指切断、額に十字架焼印の上放逐となる。脚の筋まで抜かれた主水は歩行も出来ず、主水への援助・宿提供厳禁の布令の中、両手をつき、いざりながら江戸へ向かう。

 それから十年後、江戸の信者宅に潜伏・布教中の原主水宅に、かつて駿府の教会で主水も洗礼を受けたエロニモ師が江戸での布教のため密かに痩せ衰えた姿で来訪。師を慕う信徒も各地から集まり、出入りする者五十余人に達した。

 翌元和九年(1623)三代家光が将軍に就くや、潜伏する切支丹伴天連・信徒密告者に懸賞金を出す訴人奨励の制札を立て、欲に眼がくんだ原主水の旧僕某が主水の動静を奉行所へ密訴。彼等は根こそぎ逮捕となり、神君家康の旧直臣だった原主水は、とりわけ家光の憎しみの的となり、江戸市中引回しの先頭馬に乗せられ、芝の口の刑場で二人の伴天連と五十余人の信者と共に火刑に処せられた。なお、この元和の殉教碑は刑場跡から高輪の教会敷地内に移されているそうだ。

■ 高輪大木戸(左)

 地下鉄「泉岳寺」駅の少し手前左側に見える石垣が、江戸時代の高輪大木戸の石垣である。江戸時代の東海道はこの辺りで幅6間(約10m)、現在の片側3車線道路に比べるとやや狭いが、駕籠や牛馬の通り道としては結構広い。近くには、旅人送迎のための水茶屋や牡丹餅屋が並んでいたという。・・・古川柳 “大木戸の 牡丹餅安い 旅別れ”

 この芝、田町寄りには大木戸と高札場があり。高札は江戸六箇所の高札の一つで、天和2年(1682)芝田町4丁目(のちの元札之辻)から東側海手に移されたが、破損により正徳元年(1711)に西側に立て替えられた。大木戸は、宝永七年(1710年)、東海道から江戸府内の入口として設けられた木戸跡で、当初は札の辻に設けられたが、のち高輪に移転し高札場と大木戸が設けられた。木戸の大きさは両脇に長さ五間 (9m) 、幅四間 (7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣で、間に柵と門が設けられた。幕末伊能忠敬はここを全国測量の基点にしたとされる。

 当初は柵・門・土手・石垣・門番所があったが、たびたびの類焼で、文政11(1828)年当時は石垣・土塁を残すのみであった。「江戸名所図会」には旅人を送迎する宴が張られ、にぎわう茶屋の様子が描かれている。現在高輪大木戸跡として国指定史跡になっている。江戸時代後期には、木戸の設備は廃止され、また、明治初年には西(山)側の石垣は取り払われた。現在残されている東(海)側の石垣は幅4.5m、長さ7.3m、高さ3.6mである。

 その後、品川駅手前の京急バスターミナルで休憩。時に10:55で、きょうの蒸し暑い台風余波の風を受けてきた身にはクーラーが非常に心地よい。

 10分強の小休止で足の疲れもぐーんと軽くなり、品川駅前、更には八ツ山橋を越え、踏切を2つ渡ると「旧東海道品川宿」の看板が目に飛び込んでくる。いよいよ、今までの広い車道沿いの歩道歩きから、旧東海道の風情をたっぷり残す北品川の街中へと歩を進める。おそらく、東海道四百年を記念して造られたであろう品川宿の「お休み処」も設けられている。現代から江戸時代にタイムスリップしたかのような感さえある街並みだ。

 三代将軍家光と東海寺の沢庵和尚の問答河岸碑、高杉晋作・久坂玄瑞らが品川御殿山の英国公使館焼き討ちを密議したという相模土蔵跡、江戸から2里の品海公園などを見て、品川本陣跡の聖蹟公園で小休止。

         史跡
              高輪大木戸跡
                               所在地 港区高輪二丁目十九番
                               指定  昭和三年二月七日
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。
享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。
この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五.四メートル、長さ七.三メートル高さ三.六メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
        平成五年三月三一日 建設
                                   東京都教育委員会


■ 問答河岸碑(左)

 「三代将軍 家光」と「沢庵和尚」が問答した場所の碑がある。将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」 和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」 と、ホントのような眉唾っぽい逸話がある由。
  家光は沢庵を大変評価していたようで、ここ品川で東海寺を開基させたりしている。ここは河岸と呼ばれるとおり舟着場が近く、家光はここから江戸城まで舟で帰城したと言われている。

                     問答河岸由来記
 寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連つて輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度 法を聴き政治を問う 厚遇思う可し
 将軍一日天地丸 座乗し品海を渡り 目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る
 将軍乗船に臨んで禅師に参聞して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る
 時移りて三百年 地勢亦変し河海遠し 然れ共市人傅えて問答河岸と称す
 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み 石に銯して永亡芳を傅えんとす 亦可しからすや
                   昭和四十三年仲秋 
                               衆議院議員 宇都宮徳馬書


■ 相模土蔵跡(左)

 旅籠の相模屋があった。外壁が土蔵風のなまこ壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていた由。文久二年(1862)高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら長州藩の志士が御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちの時の集結地である。維新後に、新政府の高官となった伊藤博文や井上馨が世間に吹聴するまで犯人は分からなかったそうだ。
 また、桜田門外の変決行前夜、浪士たちが別れの杯を交わした旅籠でもある。昭和52年までホテル相模として営業を続けていた。

■ 品川本陣跡(左)

 品川宿本陣は当初南北両品川に一軒づつあったが、南品川宿が廃れ、江戸時代中頃からは北品川の本陣のみになった。品川宿本陣は明治五年の宿駅制度廃止に伴い明治九年その跡地に警視庁品川病院が建てられたが、昭和十一年に移転、昭和十三年以降、聖蹟公園となった。
 「聖蹟公園」と命名の由来は、大政奉還で京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)に品川宿本陣が使われたからである。多摩市連光寺に明治天皇が兎狩りした辺りの多摩の向の岡(むかいのおか)に「聖蹟記念館」(現・旧聖蹟記念館)が建てられたり、京王線の関戸駅が「聖蹟桜ヶ丘駅」と改名されたのと同じ類と思われる。

 さて、通りからちょっと左右に入り込めば、例えば、江戸湾に迷い込んだ鯨を将軍家斉が見物したというその骨を埋めた「鯨塚」がある「利田(かがた)神社」や、天保の飢饉に際して品川宿まで辿り着いて息絶えた人々を葬った「流民叢塚碑(るみんそうづかひ)」のある「法禅寺」、板垣退助の墓があるという「品川神社」、一休和尚で著名な「東海禅寺」などがあるが、“原則=旧東海道沿い限定”のわれら一行は、昼食場所を探しながら直進する。きょうは日曜日なので休業の店が多く、南品川宿で俗称:本陣「釜屋」跡を見たところで、中華店を見つけ、入店・昼食とする。

■ 俗称:本陣「釜屋」

 釜屋は南品川にあった建場茶屋の一つで、東海道往来の人々が休憩したり、見送り・出迎え人たちが宴会を開くなど、大変繁盛したので、後に本陣のような構えに改築したため、俗に「本陣」と呼ばれたりした。幕末動乱の世情を反映して、慶応三年(1867)には連日の如く幕府関係者の休息・宿泊記録が残っている。長井尚志ほか奉行・代官・歩兵隊長ら、旗本達が多く利用した。新撰組復調土方歳三も隊士を連れて慶応三年十月二十一日に休息している。また、慶応四年一月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊士らは一月十五日に品川のここ釜屋に滞在したという。

 生ビールと食事で元気をつけ、さらに進むと、鈴ヶ森刑場で処刑される罪人と親族らの涙の別れ場所「涙橋」に着く。

■ 涙橋

 涙橋の先には鈴ヶ森刑場があり、当時の罪人は家族との面会も許されず、橋付近の物陰からひそかに涙しつつ見送る縁者の別れの場所だったのだそうだ。慶安四年、鈴ヶ森に刑場が設けられ、ここで処刑される罪人達は裸馬に乗せられて江戸府内から護送されてきた。この時、親族らが密かに見送りに来て、立会川に架かる浜川橋の上で涙ながらに別れたということから涙橋と呼ばれるようになったものである。  

■ 鈴ヶ森刑場跡

 涙橋から700m程で、「鈴ヶ森刑場跡」へ着く。慶安四年(1651)開設以来、明治三年(1870、別説では明治四年)まで、約220年の長きに亘って多くの人たちが様々な極刑に処せられた所である。処刑者数も、年数に比例して非常に多く、その数は10万人にものぼるというから、地方中核都市人口に匹敵するその数を想像しただけでも恐ろしい。しかも、品川区の郷土史資料によれば、処刑者の何と4割が冤罪だったそうだから驚きも数倍するというものだ。

 有名どころでは、由井正雪の乱に加わった丸橋忠弥が磔台での最初の処刑者だそうな。その磔台跡や、八百屋お七らを火炙りにした火炙台跡、などに合掌。天一坊や白井権八らもここで処刑されている。首刎ね後の胴体から血を絞り出すというおぞましい処刑光景も、幕末期の英国通訳アーネスト・サトウの見聞録には記されているとのことだ。

                 
都旧跡 鈴ヶ森遺跡
      所在 品川区南大井二丁目五番地六号 大経寺内
      指定 昭和二十九年十一月三日
寛政十一年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安四年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄八年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74メートル)、奥行九間(16.2メートル)であったという。
歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄六年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。
ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。
江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。
                  昭和四十四年十一月一日 建設
                                     東京都教育委員会

   磔台
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された 真中の穴に丈余の角柱が立てられその上部に縛りつけて刺殺したのである
                  鈴ヶ森 史跡保存会

   火炙台
八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまゝ焼き殺された 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛り付けて処刑されたのである
                  鈴ヶ森 史跡保存会


 この様なおぞましい史実にも拘わらず、ここ「鈴が森刑場跡」は、夏の日差しに輝く緑の木々に囲まれ、今という平和な時がそんな史実を忘れたかの如く流れている・・・そんなよき時代に自分が生まれたことへの安堵感と同時に、何とも物悲しい、冤罪だった人たちの憤りや嘆きが感じ取れる・・・そんな気がしてならないひとときだった。

 そこから再び出発し、第一京浜国道に合流する。しばらく先でまた旧道の三原通りへと入り、約900m先で再び第一京浜国道に出る。日陰を歩こうと道路の(進行方向)左側へ横断するが、気温は一段と上がり、通算13.5kmぐらい歩いたところで本日は中断とし、京急大森町駅近くの蕎麦屋で軽く打ち上げ、続きは次の機会に譲ることとした。

 初めての旧街道歩きだったが、歴史的な面影がまだまだ多く残っていることにうれしさを感じつつ、また、舗装路が距離は大したことなくても、歩きには結構疲れるものであり、毎週山歩している足にやさしい土の道・山の道のありがたさを更めて確認した一日になった。