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甲州道中餐歩記〜2
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2008.01.14(月) 明大前駅入口 (9:13 スタート)→分倍河原駅入口 (14:33ゴール) <第2区> 17.5km 所要5:20

 きょうは寒い。最低気温はマイナス世界。幸い風は無さそう、雨の心配も無さそう・・・ということで、甲州道中ひとり餐歩#2決行を決断。朝の着替え時に何かの加減で左腰後部にピリッと痛みが走り、着替えやトイレでの立ち座りが若干難になったが、その程度のことで開店休業していては甲州道中踏破は不可能だし、旧東海道歩きに備えてのトレーニングにならぬので、躊躇無く先日の終着地点の最寄り駅である明大前駅へ直行。

 9:13、駅中央改札を出れば先日の終点迄はほんの数分だ。今日の第一立ち寄り場所が道路右側なので陸橋を上り下りして反対側に渡ると、そこは
明大和泉校舎正門である。
 そこから一路西へと進むが、R20は中央にガードレールがあり、上下二車線の真ん中に高井戸インターへの入退路があって道幅広く、別天地に来た感がする。

 やがて右側に見えてくるのが
築地本願寺和田堀廟所である。かなり大きい。石柱には何と「昭和十五年六月建之」と刻んであり、自分と同年月の歴史を刻んできたものに対して何となく親近感を覚えるが、相手が廟所では親しみも半減するというものだ。その先の道路際の駐車場からフェンス越しに中を覗いてみたが、たくさんの墓が広大な敷地内にある。何でも、樋口一葉とか古賀政男・佐藤栄作らの著名人も眠っているそうだが、探すのは容易ではなかろう広さだ。

 9:30、下高井戸駅入口信号を過ぎたが、道を横切る横断歩道は見あたらない。当初の予定では第1区間としてこの信号までを考えていたが、和田堀廟所立ち寄り後なら容易ではなかったことになり、明大前駅入口を区切り点にして良かったんだと思い直す。

 9:46、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺
「宗源寺」到着。宗源寺の左隣に本陣跡、本陣前が高札場、向かい側の少し新宿寄りが問屋跡だったというが、現在は何も残っていない。宗源寺境内には不動堂があり、曾ては高台にあった不動堂が高井堂と呼ばれていたのが高井戸の名の起源という説がある等と記されていた。

杉並区下高井戸2−3にあった本覚院は、明治維新の際、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって荒廃し、遂に明治44年に下高井戸4−2 宗源寺に合併され不動堂も同時にその境内に移築された。
杉並区郷土史の「高井堂の話」の文中に、「廃寺の堂内を清掃していたところ,不思議と宗源寺の額を発見した。宗源寺とは数丁(約800m)離れており、何等の交渉もないのに奇異を感じ宗源寺へ行きたいとの御神意であろうと解して、お堂ぐるみ宗源寺へ移した。」とある。

また、当寺の檀家で著名な地質学者・志賀重ミの記した「宗源寺開祖碑」によれば、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族・江戸遠江守太郎判官重永の孫で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのに因んで、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えている。その時期は慶長(1596〜1614)初年頃とされている。

 境内の不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治五年廃寺)のものだったが、明治四十四年に現在地に移し、昭和四十二年に改築したものである。

下高井戸五丁目信号で、頭上の中央高速道がやっと右前方に分離していき、ほっとする。

 10:06、上高井戸一丁目で環8高井戸陸橋をくぐり、左前方の旧甲州街道(千歳烏山の旧道)へと入っていく。やはり、こちらの方が人間に優しい道だ。蘆花恒春園に立ち寄りたい気持もあったが先へ進むと、左手の千歳ホテル先に
「大橋場跡」と「地蔵」があり、撮影。謂われの程は不明瞭。文字も不鮮明で解読不能だった。

 10:40、仙川に架かる橋を渡り先へ進むと
仙川一里塚跡が右手のコンビニ前にある。ここは昔三鷹街道との交点だったらしい。日本橋から五里の一里塚だ。ようやくの感あり。

 10:56,道はR20から右前方斜めの
「瀧坂旧道」へ入る。入口に石碑があり、そこに馬宿川口屋があったらしい。その先左手に薬師如来が安置されていて合掌。ずーっと下った先で再びR20に合流。

 そこから幾つかの見所があったらしいが見あたらず、11:23に野川の馬橋を越えると、やがて旧甲州街道入口の信号が見え、ここから左の旧道に進む。国領駅の先に
天然理心流原田道場跡があるとのことだったが、残念ながら見過ごしてしまった。

 11:41,
常性寺に着き境内道ばたの超最新清潔トイレに入る。常性寺は鎌倉時代の創建で、元々は多摩川沿いの、現・調布第三中学校近くにあったものが、慶長年間(1596〜1614)に現在地に移築されたものである。境内には本堂のほか、不動堂、薬師堂があり大規模である。特に不動堂には成田山不動尊の分身をまつり、布田のお不動さんとして近在の人々に信仰され、毎月28日の不動尊縁日には護摩たきを行っている。

 11:56、漸く調布駅北口にさしかかったので、交差点手前の「高田屋」調布北口店に入り、寒さしのぎに熱々の野菜たっぷり湯麺を食する。
 
 12:12、再出発し、
小島一里塚六地蔵西光寺(近藤勇座像ほか)、飛田給薬師尊行人怐E原の石薬師、天台宗観音院などに立ち寄り見学・参拝のあと、西武多摩川線を越える。

 近藤勇は天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1−6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼いころより武芸に親しみ、嘉永元年天然 理心流宗家近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で、襲名披露の野試合を行った。
 文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月 浪士隊が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
 然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
 その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い 故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で 歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出発し村境まで歩いた。

天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることができたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに破れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として 西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時にわずか三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。

 会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠義大居士」の法号も贈りその功績をたたえている。

 調布市「近藤勇と新撰組の会」は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い 甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。

 奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の 招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

 (平成13年10月8日 近藤勇座像建立委員会)


 13:19、
上染屋石碑、更に常久石碑と見て、旧道の一歩の左側の品川街道沿いの常久一里塚を見る。元に戻って八幡宿石碑、境内広大な武蔵国府八幡宮と廻っていよいよ府中宿の中心地にさしかかる。

上染屋

 上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとり、 小字でいえば、龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、 度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いの白糸台一丁目の一部に移ったものといわれています。
 地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか,鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えています。
 古くは染屋という一つの村落であったものが、時期は不明ですが上染屋と下染屋に分かれたものです。寛永十二年(1635)の検地帳には上染屋の名が記録されています。
 幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』に 「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります。

武蔵国府八幡宮

 京王線東府中駅の西,徒歩5分。聖武天皇の時代に定められた一国一社の八幡宮として創立されたと伝えられているが,詳しいことは不明。
 現在は大國魂神社の境外末社のひとつで,旧甲州街道沿いにに一の鳥居が建ち,参道を進んで京王競馬場線の踏切を渡ると二の鳥居がある。境内はうっそうとした木々が茂り,その奥に小さな社殿がある。歴史のある神社だが,訪れる人は少なく森閑としている。

 14:03大国魂神社、札の辻・高札場跡から下川原緑道を越えて、古刹高安寺に到着。広い境内や由緒ある山門、堂塔などを見て弁慶坂の先から今日の終点「分倍河原駅入口」を14:33に曲がって駅へと進み、帰途についた。

大国魂神社

 当社のご祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神でむかしこの国土を開拓され、 人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、 天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵[ににぎの]尊にたてまつり、 出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。
 当社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一(111)年五月五日大神の託宣に依って 創立されたものである。出雲臣天穂日命[のおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて 武蔵国造[くにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕して その祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645-654)の御代に至り、 大化の改新(645年)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、 当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。
 又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、 これが即ち武蔵総社の起源である。
 後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・ 秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。

 寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、 その室、政子の安産の祈願が行われた。
文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
 又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、 社殿及びその他の造営に心力をつくされた。

 正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、 慶応年間に檜皮葺[ひわだぶき]が銅葺に改められた。 又、本殿は都文化財に指定されている。
 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。

 本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、 又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが 明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。

 当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、 関東一円に亘っている。五月五日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の 神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所に神幸するので、 俗に「闇夜[くらやみ]祭」といわれている。 現在では昭和三十六年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。

弁慶伝説が残る古刹高安寺

 南北朝の動乱で北朝方につき、室町幕府を開いた足利尊氏ゆかりの寺。もともとこの地にあった市川山見性寺を再興したのが、ここ高安寺。ムカデ退治や平将門討伐で知られる藤原秀郷が武蔵守を務めていた頃の館跡だとも伝えられている。
 足利尊氏は国と人々の平和を願って全国に安国寺を建てたが、武蔵国の安国寺が、この高安寺である。鎌倉末期〜南北朝の動乱の時期には、要害の地に建っていたこの寺は、合戦の本陣としても使われたようである。
 また、源義経と武蔵坊弁慶らがこの地に立ち寄った際、大般若経を書き写すために境内 にある井戸の水で墨をすったという伝説があり、「弁慶硯の井」と呼ばれる古井戸が残っている。高安寺周辺には、「弁慶坂」「弁慶橋跡」などの地名も残されていて、府中と弁慶の関わりを今に伝えている。


 途中、若干の風が出てきて、気温も上がらず、エキササイズウォーキングの身にとっては比較的快適な歩きが楽しめたし、多少は中距離歩行にも身体がなれてきたのか、疲れ具合が軽く感じられたのは、急性腰痛持ちの身として大変ラッキーだった。神仏ご加護のおかげと感謝する。