古代東海道餐歩
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  2009.02.01(日) 第三回目 防人見返りの峠を経て、「これぞ古代東海道」の三人旅は 古淵から関戸へ
 
 9:32にJR横浜線の古淵駅に着いたが、都合で遅着連絡の入った清水氏と電話連絡の上、10:02に村谷氏と二人で古淵駅を先行スタートする。
 今日は、晴天ながら関東地方は風がやや強いとの予報だったが、そのせいかやや冷たい。10:08に前回の終着地点である「大野小前」交差点に到着し、都県境である境川に向かう下り坂の古代東海道を進み、「境川橋西」信号へと出る。街道はここから広い道を右へ行くのだが、その前に少々寄り道スポットに向かう。

大日堂(10:15)

 まず、「境川橋西」信号で繁華な車道を横断し、先の細い道に入って間もなく、右手にある「大日堂」に立ち寄る。境内に入ると、左手に解説板と石塔がある。また、その左横には石仏や供養塔など、計6基がある。
(石塔)            
いでのさわ
 この付近にあった沢を「いでのさわ」といい、南北朝時代(十四世紀)「井出の沢」の合戦はここで行われたと伝えられています。
                    昭和六二年三月 相模原市

(解説板)           
大日堂
 このお堂は、もともとは南側の崖下にあったものを、江戸時代にこの地点に移したものと伝えられています。
 このお堂の由来については、地域の人々によって口々に唱えられてきた和賛(わさん)の中に伝えられています。これによると、南北朝時代にここで合戦があり、その戦死者を供養するために建てられたお堂であることがうかがえます。この合戦とは、北条時行と足利直義による建武2年(1335年)の「井出の沢(いでのさわ)の合戦」のことと考えられます。「井出の沢」とは、お堂の西側をながれていた小沢のことです。また、お堂の中の本尊は大日如来(だいにちにょらい)で、秘仏として信仰されています。
                    相模原市  相模原市観光協会


鹿嶋神社(10:20)

 更にその先の三叉路の右手に、「鹿嶋神社」があり、参拝する。
               
鹿嶋神社
 この神社はいつ創建されたかは不明ですが、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのおり祈願のために建立した言い伝えがあり、また、淵辺義博(ふちのべよしひろ)の子、義喬(よしたか)が建立した言い伝えもあります。
 古文書によりますと、文禄2年(1593年)に奉再建鹿嶋大明神一社一宮御修復とあり、その後、慶安3年、寛延2年、文政2年に再建した記録があり、明治34年5月22日に消失し、同36年に再建され現在に至っています・
毎年5月22日を『焼日祭』と言って祈願しています。
 境内の大ケヤキは千年を経ていると言われ、根元にある石は「カナメ石」と呼ばれ、境川のほとりにあった「田の神」とも言われています。
 祭神は「武甕槌神(たけみかづちのみこと)」で本殿右は「香取神社」、大ケヤキの横は「稲荷神社」を祭っています。
 遠い昔より村の鎭守様として守り今日に至っています。
                    相模原市 相模原市観光協会


木曽町の庚申塔と道祖神(10:31)

 街道の「境川橋西」交差点に戻り、境川を越える。この川は文字通り神奈川県相模原市から東京都町田市に入る都県境である。とりもなおさず、相模国と武蔵国との国境の故を以て名付けられた河川名である。
 その先の「境川団地中央」信号を渡って右手に「スーパー三和」を見たすぐ先の左折路を左折する。すぐ右手の「木曽市営住宅」の前(街道左手)に「馬頭観音」の石柱や「道祖神」「庚申塔」など計3基が並んでいる。その先は登り坂になり、10:38「木曾交番前」で町田街道を横切る。この辺りは村谷氏達が入社直後の研修期間に仲間たちと販売実習したエリアで大変懐かしそうだったが、当然ながら街並みは大きく変貌しているようで、感慨深げだった。

「山並橋」と「鶴見川」

 「五小西」交差点の先は進路が二本に分かれるが、左前方への進路へ向かうべき処、村谷氏と話しながら歩いている内に右の道に入っていたことが次の大通りに交わった時点で気づく。遅れていた清水氏も追いついてきて合流し、進路修正をすべく「忠生公園大橋」陸橋の下に降りてそれを潜り、暫く行った先で右後方からの道(すなわち先ほど誤って歩いていた道の延長線)と11:00に合流する。

山崎身代地蔵尊

 そのすぐ先左手に、昭和3年6月造立の「馬頭観音」を発見したが、その先の「簗田南」信号手前にある筈の「山崎身代地蔵尊」は、某コンビニ建設時に撤去されたのか、発見できなかった。往時の運搬手段は「馬力」という動力単位になった程、馬の牽引力に負うところが大だったが、そうした供養が行われている歴史的遺物は、曾ての日本の良き風習と言えよう。一方で、この身代わり地蔵尊のように開発の波に埋没していく遺跡があとを絶たず、残念というほかない。

 その件の地蔵尊というのは、天明3年(1783を中心とした「天明の大飢饉」時、一家の長老達は「これからの一家を支えるものは若い者達である」として僅かに残っていた食糧を若者達に与え自ら餓死してしまい、後世の人達がこれら犠牲になった人達の供養のため建立したものだと言われているそうだ。そして、昭和58年に心無い何者かによって持ち去られたため再建されたものの由で、是非見たかったのだが残念である。

山並橋

 「簗田南」信号を1つ目として3つ目の信号を右折し、次で左折して道なりに進むと、11:13に想像よりも遙かに小さい鶴見川に達する。こうした道路の屈折は後世になってできたもので、古代東海道は見事な程直線上に構築されていたものだ。当時の測量技術などというものは一体どうだったのだろう?などと話ながら鶴見川に達した。「山並橋」で渡るのだが、左手を見ると、ここで左手から二つの川が合流して右手の下流へ向かっているのが判る。

昼食

 次の「並木」信号で「芝溝街道」を越え、二又の右手へ入ると登り坂が始まる。11:22に次の「日本ろう話学校入口」交差点で昭和8年3月17日造立の「馬頭観音」を見て、右の道を登っていく。野津田公園方面に向けて登りの急坂が続くが、何とか登っていくと、右手に広大な「野津田公園」があり、11:30から昼食タイムとした。園内高台に位置したスポットで、見晴らしがいいが、風もきつい。
 いつもなら、通りがかりの店で外食するのだが、今日のルートは「古代東海道」であり、事前に外食店の存在が期待薄だったので、事前連絡の上軽食を持参していたのが役立った。

小野路一里塚

 11:43、野津田公園沿いの道を今度は下って行き、左手の「南多摩整形外科病院」の前の右折路を入って道なりに進む。途中高齢のご夫人が一人で資料を片手に持ちながら歩いてくるのにすれ違ったが、大したものだと一同感心し合う。
 やがて到達した四叉路の左手角に「小野路一里塚」が見え、右手にも復元された塚や解説板が立っているのに出逢う。両側とも塚に榎が植えられているが、予て村谷氏たちとのYSCの散歩で既に承知済みのスポットなのに、あらためて感慨深く感ずる。
 一里塚の石標には、「おおやまみち小野路一里塚」とか「至府中」などと刻まれている。
               
小野路の一里塚
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。
 駿河の久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を江戸時代の初期元和三年(1617)三月に日光東照宮に移したときに街道の整備とともに小野路の一里塚は造られた。
伝承によると御尊櫃を乗せた輿が向坂を下ったときに壊れ、一行が難渋し鍛冶屋を呼んで修理した。このときの小野路村の労苦に対して、幕府は以後助郷を免除した。
この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸中期に盛んになった大山詣での道として小野路の宿は賑わい、幕末頃、旅籠が六軒あった。東海道の一里塚は五間四方あったというが、小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられており、ここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一里塚が残っているが、多摩師貝取にあった塚は現在残っていない。
                         一九九一・四・一  小島政孝稿


 この一里塚から小野神社前迄の間には、左手に石仏や石塔などを数基まとめた祠や、独立した石仏が見られ、いかにも歴史街道らしい風情を残している。

小野神社(12:01)

 下りの古道は都道156号に合流する。右折してすぐ先左手の石段を登った高台に「小野神社」がある。社殿は、千鳥破風・唐破風で、彫刻も見事だ。昨年(2008.12.02)田幸・山岡・村谷の各氏と共に初めて立ち寄って以来の2回目の参拝になる。
               小野神社の由来
 小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵の国府の置かれた府中に通づる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁(たかむら)の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の霊を祀ったことに由来する。
 小野篁は、平安時代前期の人で和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたる篁の孫の小野道風は、平安時代を代表する書家で三蹟として有名である。
 なお、小山田氏の小野路城があった城山には、小町井戸と伝えられる遺趾もあり、小野氏との関連が深い地である。
 応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した。朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。
 戦国時代の文明年間(1469~87)に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に多摩市の塩沢貞氏によって復元寄進され、拝殿の右側面に設置されている。
 神輿は小野神社神輿保存会によって修復事業が行なわれ、昭和六十九年九月に奉納された。
                         平成十年十二月
                                    小野神社

 両上杉家は、もちろん「扇谷」と「山内」の上杉家であり、「小野路村の僧正珍」は異説では「正珎(しょうほう)という僧」であり、十郎四郎なる者に鋳造させたという。そして自快道人という人に依頼してこの梵鐘に銘文を刻んだと言われている。
 その梵鐘の銘文中に「朝夕扣撃し、夫の往来の人をして暁宿早発に其の時を知らしむ」、「民夢を驚き覚まし、群声を開き発す」、「宿客に暁を報じ、路人時を知る」などとあり、この梵鐘から小野路の地が宿場であったことが立証される。

 すぐ横の「小野神社前」三叉路信号を左折すればすぐ右手に「小島資料館」があるほか、門構えの立派な旧家が並ぶ小野路宿の面影に接することができるが、我々はそれを一瞥した後右折して東へ向かい、次の信号で左折して北進していく。

小野路宿

 「小野路」の地名の由来は、相模国の国府が置かれていた所が小野の里と呼ばれていて、武蔵国の府中にも小野ノ宮という所があり、共に都から役人が来て治めていた。この小野路の地はこの二つの小野の地を結ぶ途中の道が通っていたので「小野路」と呼ばれるようになったという。
 このように、小野路の歴史は古く、古代から交通の要衝であった。小野路は武蔵国の国司であった小野孝泰の領地であり、鎮守の「小野神社」は小野氏の先祖の小野篁を孝泰がこの地に祀ったものである。

 小野篁は平安時代前期の歌人で、学問の神様でもあり、菅原道真の先輩にあたる人であることが知られている。また名筆家の三蹟と知られる小野道風の祖父であるとも言われる。三蹟とは藤原佐里、藤原行成、小野道風をいう。
 余談ながら、小野道風が「書」を初めた頃、うまくならず、天分がなく止めてしまおうかと悩んでいた時期があったという。ある雨の日に傘をさして池のほとりを通ると、一匹の蛙が柳の枝に飛びついては落ちて、また飛びついては落ちて、しばらく見ているととうとう飛びついた。この有様を見た道風は、自分の努力のなさを悟ったという有名な逸話がある由。

 一般に街道の「宿」というと旅籠などが立ち並ぶ光景を想像するが、それは江戸時代になってからの宿場町の光景で、中世の鎌倉街道の宿はそれとはちょっと趣が違うようである。しかし現在の小野路宿は水の流れる側溝や板塀など、近世以後の宿場らしい佇まいが残されている。小野路宿の宿場の景観は、明治以降の八王子・横浜港間の生糸などの輸送に利用された頃のもので、中世の鎌倉街道上の道は今の小野路宿の北側尾根を通っていたという。

別所薬師堂(12:21)

 峠を越えて下った先の「別所」の三叉路信号で現代の「鎌倉街道」(都道18号)に出ると信号で街道東側に渡る。左折してすぐを右斜め前方への登り坂の旧道へ入ると、すぐ「別所薬師堂」が右手にある。およそ「名」に相応しくない外見の建物に看板が架かっているだけで、こんなのは初めての体験である。由来等は不詳で、街道際には「地神塔」ほか数基の石仏などがあるだけである。

東光寺(12:26)

 その先は延々と続く登り坂である。前方に本堂とその奥後ろに高々と聳える緑色の千手観音像が遠目にもよく見えてくる。曹洞宗の寺院「東光禅寺」である。
 本堂に向かって右手の道から裏に回ると、緑の千手観音塔の下部部分まで見えてくる。「多摩長谷平和観音」といい、建立趣旨が台石に刻まれている。一つ一つの積み石に漢字が一文字ずつ刻まれ、上の方の石には寄進者の名前も刻まれているが、見上げるばかりの巨大な塔になっている。

 その奥には石段があり、登って行くと、高台になっていて見晴らしがいい。遠くには大山や富士山がくっきりと見え、気分爽快である。昨年「大山街道(矢倉沢往還)」を歩いて、あの大山を目指したり、つい先日(2009.01.28)には中原街道餐歩の最終回で相模川付近から観望したこともあり、感慨深い。眼下には東光寺の堂宇が見える。

古道五差路(12:43)

 裏手の高台から更に北上していくと、「古道五差路」に出る。「多摩よこやまの道」における一地点であるが、解説板を兼ねた標柱が立っている。ここは、町田市と多摩市の市境であり、少し東北の国士舘大学迄行けば、川崎市麻生区との都県境になる。実は、「尾根幹線道路」に沿って「多摩よこやまの道」という素敵な尾根道の遊歩道があり、それが都県境ないしは市境になっているのである。この道はさまざまな古道跡と交差している。西から順に挙げると、「奥州古道」「鎌倉裏街道」「鎌倉古道」「現・鎌倉街道」そしてここ「古代東海道」「瓜生黒川往還」といった具合である。
 ところで、万葉集にも、次のように詠われている。
 『 赤駒を 山野に放(はが)し 捕(と)りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ 』
 この「多摩よこやまの道」は何度も歩いた所なので、その体験記も下記ホームページで公開しているので、ご高覧いただければ幸いである。
        http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~sanpoing-world/tama-yokoyama.html

               
古道五差路と軍事戦略的な鎌倉道
ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集る五差路です。堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や鎌倉時代初期(弘安4年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、野津田や金井、本町田へと続いています。交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。


 ここを右折して古代東海道の尾根道を東進していく。途中建てられている解説標柱には、鎌倉街道等と共に、古代東海道の道筋が「馬引澤」に向かって、ほぼ我々がたどって行く道筋で描かれており、今正に古代東海道を歩いているんだなという実感ができる。

大きく堀割った古街道跡

 
かつて地図のない時代の旅人や物資を運ぶ人たちは、自分の現在地や目的地の方向を知るため、また山賊・敵から身を守るために、なるべく尾根の高台を通りました。この後ろの山の中に、急坂をゆるやかにして同じ調子で楽に荷車や人馬が通行できるように道を堀割った工夫が見られます。「多摩よこやまの道」に沿って残る古道跡です。

分倍河原合戦と県境の尾根

 
「梅松論」の記述やこの付近の伝説から、元弘三年(1333)五月十四日、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ分倍河原の合戦の前夜、多摩川の北に陣取った新田義貞の大軍を迎え撃つべく鎌倉を出発した北条泰家軍二十万騎の大軍勢は、当時小山田庄(荘)内であったこの尾根の川崎市側に篝火を焚いて息を潜めて野営し、翌早朝から多摩川で大激戦に突入したと考えられます。

分倍河原合戦前夜の野営地

 
元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡の戦いで知られる「分倍河原の合戦」前夜、鎌倉幕府軍の北条泰家軍20万騎の大軍勢は、このよこやまの道の尾根で息を潜めて一夜を明かしたと伝えられている。

展望広場「防人見返りの峠」

 「防人見返りの峠」は丹沢に始まり秩父連峰や狭山丘陵迄一望できる見晴らし場所である。山々の名前の解説やベンチなどがおかれ、かの大山や遠く赤城山なども見える。
 万葉集に「多摩の横山」が謡われているというが、再び生きて戻れない覚悟の防人は、ここで故郷をふり返って家族との別れを惜しんだという。今は、眼下に多摩ニュータウンが広がっている。
               
東西に伸びる弓なりの尾根道
 この尾根の高台は、東西(左右)に伸びる多摩丘陵の長大な尾根の上にあり、その全体が弓なりになっているのが見えます。この尾根は、西は町田市相原町を経て津久井郡城山町の城山湖にある後方高台の「三沢峠」、東は多摩川に面した多摩市連光寺向ノ丘まで通じています。あわせて全長約24kmの尾根となり「多摩丘陵の背骨」とも呼ばれています。


               
富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、西武ドーム(狭山丘陵)も見られる丘
 この丘は標高約145mで、南西~北東にひらけた展望ポイントです。西方は夕景が美しく、富士山や丹沢・秩父連峰の山並み・北西方面には多摩川や浅川に面した七尾丘陵、広大な武蔵野の向こうには遠く狭山丘陵も眺望できます。ここから見る風景は、太古以来、多くの先人たちも繰り返し眺めてきたことでしょう。多摩ニュータウンの建設に伴い、約1千ヵ所の発掘調査が行われました。現代のニュータウンの下に、はるか昔、縄文時代のニュータウンが存在したことがわかったともいわれています。

古代東海道と丸山城

 
かつて日本の古代にも、ローマの道のように、全国から都に集まる大道(道の最大幅12m)が七本あった」これは、近年の研究で判明しつつある成果です。飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。この道は唐(中国)の制度にならって造ったと考えられ、防人や朝廷の軍隊、特別な任務を持った官人たちが頻繁に行き来し、税納物や朝廷直営の牧から運ばれた良馬が多摩丘陵から都へと運ばれていたと想像されます。
 古代東海道は、多摩市連光寺本村の打越山遺跡発見された道路跡(道幅9~12m)や、馬引沢にあった「大曲」という谷、諏訪団地の中央を通っていた「沖の谷戸」という細長い谷、給食センター上の畑地や近くの「並列する古道跡(複線の古道跡)」につながるとみることもできますが、現在のところそのルートは未だ確定されるには至っていません。

丸山城と烽火台

 
この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設していた可能性もあり、ここに続く中継地と考えられる南方の野津田上ノ原の高台には「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。

 古代東海道はこの先で「多摩よこやまの道」と分かれ、馬引沢方面へと進むが、その地点は、南へ延びる「瓜生黒川往還」との分岐でもあった。附近には、「諏訪ヶ丘」と呼ばれる「多摩よこやまの道」の標高144.3m地点があり、「防人見返りの峠」の145mと同標高である。

瓜生黒川往還

 
「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川灰」や「禅寺丸柿」などを八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。また、武蔵六所宮(現大國魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前からこの尾根までの間に。「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。

馬引沢へ

 「防人見返りの峠」から先は、下り道に入り、「多摩よこやまの道」から離脱する。尾根幹道路を跨ぐ立体歩道橋(「エコプラザ多摩前」信号箇所)で、尾根幹の西北側に渡り、「諏訪南公園」の東側から「諏訪中学校」の西側を抜けて「諏訪の台通」に出て、13:35に「馬引沢(まひきざわ)」のモニュメントや解説板がある「第三公園」に出る。
               
馬引沢(まひきざわ)
 「馬引沢」の町名は、大字連光寺字馬引沢の小字をとって、平成二年一月二十七日に新設された町名であり、現在、馬引沢一・二丁目が設定されています。
 新編武蔵風土記稿に「村の南をいへり」とある古い地名ですが、町名の由来は定かではありません。大字連光寺字沖谷戸の谷間から当地を通り乞田川に注ぐ沢があり、この沢沿いに鎌倉街道かつ諏訪神社前を通り川崎市黒川へ抜ける道があったようで、黒川境に至る辺りは険しい所であったといわれています。
馬引沢の中央には昭和四十一年に焼失してしまいましたが薬王寺という古いお寺があり、近在の人々より深く敬われていて、その前を通る時、馬から降りて引いて通ったといわれていろところから、この地名がつけられたともいわれています。
 なお、この彫刻は、「馬引沢」の町名にちなみ「馬」をテーマとしたものです。
                         平成八年三月   多摩市

第三公園~聖ヶ丘遊歩道

 そこから先は、多摩ニュータウンとして開発された住宅・アパート群を多摩市の詳細地図とにらめっこしながら通り抜け、それでも一部分は予定コースをやや外れてしまったが、迂回して軌道修正して進む。
 きょうの歩きは、次回の「寄り道予定」と「今回のコース内容」などを総合的に勘案して、ゴール地点を当初の「永山駅(京王線・小田急線)」から「聖蹟桜ヶ丘駅」に変更することにしてある。
 住宅街の登り坂を暫く行くと、高い石段を上って、聖ヶ丘二丁目の新興住宅街の中の聖ヶ丘遊歩道に入る。道の両側の並木が気持ちのよい素晴らしい道である。
 「聖ヶ丘」の名前の由来は、「聖蹟」すなわち明治天皇の行幸があったことに由来し、京王線の「聖蹟桜ヶ丘駅」の名前も、元々は「関戸駅」だったのが昭和12年に改名されている。きょうは立ち寄らないが、右手の小高い丘一帯にある「都立桜ヶ丘公園」には、明治天皇の歌碑や昭和5年に建設された「旧多摩聖蹟記念館」があり、無料で入館できる。

打越山遺跡(14:17))

 馬引沢から、詳細な「多摩市地図」を手許に見ながら「聖ヶ丘遊歩道」に入り、「ひじり坂」の通りを越えた先で左折し、「多摩中央病院」の西側の通りに出ようとしたが一本右手の大谷戸公園側に出てしまったので、連光寺小学校の北西側の交差点から回り込んで軌道修正する。
 今はマンションになっているが、多摩中央病院前の「連光寺二丁目33-1」とか「35」辺りが、幅12メートルの古代道の遺構が確認された場所だそうだが、残念ながら現地には何の表示もないらしいので、場所だけ確認する。これは、武蔵の国が東山道から東海道に所属替えになって以降、東山道武蔵路が上野国から一直線に南下し、武蔵国府(府中)・分倍河原を経て相模国に繋がった中世東海道と大いに関連するものである。

 なお、遺構概要は市報28および48号、遺物概要(土師器・須恵器・銭貨・煙管雁首ほか)については市報28号で発表されているほか、出版情報としては山崎和巳「東京都多摩市打越山遺跡の道路遺構」があるようだ。

庚申供養塔(14:19)

 その先、左折して、高西寺への下り坂に、古い桜の巨木があり、その下に享保16年(1732)と寛政4年(1792)の紀年入り庚申供養塔がある。年輪を刻んできた桜の巨木は独特の風情を湛えている。

高西寺(14:24)

 暫く先の左手にある。山号は「神明山」と言い、2007年3月に仁王門が新しくなっている。その前左手には六地蔵がある。本堂も結構新しい感じだ。本堂脇には枝垂桜があり、建て替えられた山門は、古くから龍の伝説で知られているもので、その龍の彫り物は新しい山門の右裏側に安置・保存されている。この彫り物にはある言い伝えがあるとかで、次のような解説プレートが横に置かれている。
                 
高西寺山門の龍
江戸時代に作られたといわれる旧山門の中央上に龍の彫り物があります。この龍の口の上よりのど元に釘がさされたあとが残っています。
伝説として言い伝えられているこの龍は「左甚五郎」が彫ったと伝えられておりますが、確かな文献は残っておりません。
釘の跡のいわれは、昔、この地のお百姓さんに大変な飢饉が訪れました。幾日も雨が降らず困り果てたお百姓は、天の水を高西寺の山門の龍が日夜天に昇り飲んでしまっていると考えました。
そこである日、山門の龍ののど元に雨の水を飲み込めないように釘を打ったそうです。すると不思議にもにわかに雨が降り出し飢饉を脱したという伝説があります。


 また、2004年2月に2代目の「いろはかえで」が植えられた。境内に樹齢150年以上と言われ、市の天然記念物にも指定されていた「いろはかえで」の巨木があったが、2003年8月の台風で倒れてしまったことへの対応とか。毎年の紅葉を楽しみにしていた檀家や近隣の人々を残念がらせていた処、檀家の一人から「いろはかえで」の寄付の申し出があり、先代の跡地に植えられ、「2代目いろはかえで」として誕生している。高さ6~7m、根本が2枝に分かれた若々しい木である。

春日神社(14:30)

 坂を下り、都道41号の旧川崎街道(鎌倉街道「御幸橋」交差点と「向ノ岡大橋」を登った先の「向の岡」交差点の中間)に降りた右手先の左上にある。
              
   由緒及び沿革
 創建された年月は不詳であるが春日神社鎮座地、連光寺の地名は東鏡の治承五年四月(1177年)に小山田三郎重成に武州多摩郡の内吉富並びに一の宮・連光寺等を所領に加えたと記されているので、この頃すでに、村落が形成され村が開けると同時に現在の地に社殿が建造されて、大和国奈良に鎮座する春日神社の神霊を移して祀り、本社の東南約一町に若宮八幡社、西南約三町を隔てて神明社を祀り、境外末社として三社相向合ってあたかも奈良の社に倣っていると古来から伝えられている。
爾来数百年間に亘り国家鎮護、五穀豊穣の氏神鎮守として祖先より崇敬を集め且つ親しまれ現在に至っている。


 境内には、目通り幹周3mと4.5mの大欅が残っており、他の一本は枯れているが、そのけやきの解説板には、春日神社の創建は平安時代末期の治承5年(1181)頃と考えられている旨、記されている。

対鷗台公園(14:35)
                 
対鷗台公園
 この公園のある連光寺一帯は向ノ岡(むかいのおか)と呼ばれ、明治十年代、明治天皇が三十歳の頃、連光寺の山や多摩川に兎猟や鮎漁を行うために、四回ほど行幸されており、昭和五年(1930)には現在の都立桜ヶ丘公園内に多摩聖蹟記念館が建設され、その前年に明治天皇に縁の深い建物として隅田川河畔の橋場(台東区)にあった対鷗荘がこの地に移築された。
 対鷗荘は、幕末から明治の有力政治家であった三条実美が明治六年(1873)に建てた別荘で、岩倉具視から寄贈された茶室「松華洞」もあった。明治天皇は、「征韓論」をめぐる政争で病に倒れた三条実美を見舞いに橋場の対鷗荘を訪れている。昭和四年(1929)にこの地に移築された対鷗荘には、戦前に多くの観光客が訪れたが、戦後になると飲食店として利用され、昭和六十三年(1988)に土地開発のため取り壊され、現在は復元模型が作られ、旧多摩聖蹟記念館で見ることができる。「対鷗台公園」の名称は、対鷗荘のあった高台という意味で名付けられている。

 そんな由来から、この公園には現在「向ノ岡御野立所」の碑や、明治天皇が何度かお立ち寄りになられた際の「御駒櫻」碑が建つほか、小野小町歌碑・馬頭観音・庚申塔などもある。

□御駒櫻碑
     
    御駒櫻
    明治天皇明治十四年二月廿日
    同十五年二月十五日及十六日
    同十七年三月二十九日及丗日
    御兎狩行幸乃際御料馬金華山
    越繫可せ給ひ志櫻樹なり
     皇紀二千六百年奉祝式典之中
      奉建 伯爵 田中 遜謹書


□小野小町歌碑
               
小野小町歌碑
 この歌は、『新勅撰和歌集』巻十九(藤原定家撰、文暦二年=1235年完成)に収められている小野小町の和歌です。小野小町は平安時代前期・九世紀頃の女流歌人で、六歌仙(平安時代を代表する六人の歌人、小野小町・在原業平・僧正遍昭・大伴黒主・文屋康秀・喜撰法師をいう)の一人として知られています。和歌は、彼女が父を尋ねてみちのくに行く途中に、武蔵野の向ノ岡を詠んだものと伝えられています。
 碑は昭和十五年(1940)秋、わかもと製薬株式会社・社長の長尾欽弥が揮毫し、建てたものです。


     
題しら須(碑原文)                題しらず(書下し文)
          小野こま遅  小野小町
 武蔵 能ノ                     武蔵野の
  むかひの遠か農 具佐                 向の岡の草
    なれ盤                      なれば
 ねを尋ねて毛                     根を尋ねても
   あはれと所                     哀れとぞ
      於裳ふ                      思ふ
     昭和庚辰秋                    昭和庚辰秋
      長尾欽弥書并建之                 長尾欽弥書並びに之を建つ
  平成十七年八月  多摩市教育委員会

□馬頭観音・庚申塔

 天保七丙申歳の銘がある角柱型「馬頭観世音」と刻され、その右には庚申塔があるが、文字は読み取れない。

□道標など

 その先、「向ノ岡橋」の手前、右手のマンション前に道標がある。「北府中道」「西八王子道」「南蓮光寺村」と読めるが、「東・・・」が読めない。
 この「向ノ岡橋」の右(北)は、「乞田(こった)川」と「大栗(おおくり)川」の合流地点で、下を見るといつも鯉の遊泳やや亀の甲羅干し姿が見られる。

関戸古戦場跡(14:51)

 「鎌倉街道」の「新大栗橋信号」を渡るとその先で「旧鎌倉街道」の「大栗橋信号」を右折して大栗橋の歩行者専用歩道へと右折するのだが、その前に、そこを逆に左折して旧鎌倉街道を南進した先の右手(桜ヶ丘東通りへの進入口の先)に、その昔、鎌倉幕府軍と新田義貞率いる倒幕軍が戦ったことを示す「関戸古戦場跡」の木碑があり、その横の祠には石仏や石造物が安置されているのを見る。
              
関戸古戦場跡
最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘三(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、五月十六日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、六日後に首都鎌倉を制圧した。
                             多摩市教育委員会


古代東海道の今日の終着点 (14:54)

 「大栗橋信号」に戻って橋を渡ると、道は三方に分かれるが、古代東海道は直進する真ん中の細い道であり、そこを通って川崎街道に出る。街道の向こう側にも引き続き道が続いており、多摩川の堤防から先は往時は舟渡しとなったが、本日はここまでとし、左折して京王線聖蹟桜ヶ丘駅へと向かう。

関戸関所跡(14:58)

 その途中、川崎街道左手の「九頭竜公園」の入口に「関戸」の解説板がある。
               
関戸(せきど)
 「関戸」の町名は、かつて関所が設置されていたことからこの名がついたといわれています。
 この関は、一般に「霞ノ関」といい、吾妻鏡によれば建暦三年(1213)「武蔵国に新しい関を置く」とあります。現在、熊野神社境内に南木戸柵跡があのります。
 当地は、元弘三年(1333)に新田義貞軍と北条軍が戦った古戦場として有名であり、江戸時代中頃まで宿場として大いに賑わっていました。明和五年(1768)には大火もあり、時代とともにその賑わいを失ってしまいました。しかし、今でも屋号などに名残が見受けられます。
 また、多摩川の渡舟や鵜飼などでも親しまれていました。(以下略)
                               平成四年二月     多摩市


(注1)京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」も、昭和12年までは「関戸駅」と称していた。
(注2)熊野神社は、前述「関戸古戦場跡」木碑の場所から南方約700m地点(旧鎌倉街道沿い西側)にある。

 この後、京王線聖蹟桜ヶ丘駅に向かい、「スクェア」ビル1Fの蕎麦処「笹陣」で軽く打ち上げ、散会した。

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