■ 道の区間

           東端点          =多摩市 丘の上広場
           西端点(第1次開通時)=多摩市 唐木田口
           西端点(第2次開通時)=八王子市 別所配水場

■ 区間距離 と 開通時期

          丘の上広場-----<8.3km(2003/4)>-----唐木田口-----<1.7km(2006/7)>-----別所配水場・・・合計10km

          丘の上広場(東端)・・・京王相模原線若葉台駅へ約1.4km
               1.3km
          黒川散策路への分岐点・・・小田急相模線はるひ野駅へ約1.3km
               0.2km
          もみじの広場
               0.3km
          展望広場
               1.1km
          古道五差路
               0.4km
          鎌倉街道
               1.0km
          一本杉公園
               1.4km
          中坂公園
               1.3km
          Y字路
               0.9km
          小山田緑地への分岐路
               0.4km
          唐木田口
               0.7km
          正山寺・鶴見川源流の泉への分岐路
               1.0km
          別所配水場(西端)・・・京王堀之内駅へ約4km、南大沢駅へ約3km

■ 讃歩区間

           第1次・・・2007.10.11(木)  丘の上広場〜唐木田口〜「正山寺」・「鶴見川源流の泉」への分岐点
           第2次・・・2007.11.06(火)  丘の上広場〜唐木田口
           第3次・・・2008.05.09(金)  丘の上広場〜唐木田口

■ 道の名の由来など

「 赤駒(あかごま)を 山野(やまの)に放(はが)し 捕(と)りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ 」という、万葉集にある防人の妻の歌から、「よこやまの道」の名が生まれたという説や、多摩丘陵に横たわる横長い山という処から名付けられたという説がある。

「よこやまの道」の位置する尾根筋は、古代から武蔵野・相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶさまざまな交通の要衝として活用されてきた。

この尾根筋には、鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道、(仮称)軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道など、重要な歴史街道(古街道)が縦走・横断し、その痕跡やさまざまな伝説等が語り継がれている。

古代から中世〜江戸時代にわたって政治、軍事、文化、産業、社寺・霊地参詣などを目的として、東国−西国間の交易を行なう商人や鎌倉武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人、新選組が行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道である。

 「よこやまの道マップ」

    ホームページ(http://www.ur-net.go.jp/tama/yokoyama/)から詳細地図のダウンロードが可能

■ 案内板地図(3分割表示:その1・・・東側部分)





























■ 案内板地図(3分割表示:その2・・・中央部分)





























■ 案内板地図(3分割表示:その3・・・西側部分)

























■ 案内板に記された詳細な説明文
























説明板補足地図 その1
多摩と尾根道の古道マップ ■ 説明板補足地図 その2 関東の鎌倉古道マップ



★ 「多摩よこやまの道」讃歩記 (第3回目)(2008/05/09 金 )

10時前、スポーツドリンク一本だけ持って自宅を出発。妻は趣味の教室へ外出中で、娘に声を掛けるとOKの返事で同伴讃歩となる。自宅を出て、小野小町や明治天皇縁の対鴎台公園から向の丘大橋建設迄は旧川崎街道だった道に出て、春日神社前から春日通りへと入る。緩やかな登り坂の道で、高西寺、多摩みゆき幼稚園、神明社、連光寺小学校などを左右に見ながら多摩市立大谷戸公園へと進む。

さらに、そこから園内の遊歩道沿いに進み、広い都立桜ヶ丘公園を縦断して、公園管理所のある聖ヶ丘口から聖ヶ丘緑地へと進む。この季節、青々とした新緑の木々が眼に眩しい。起伏に富んだ丘陵地帯に立つ住宅群やマンション・アパート群を見ながら聖ヶ丘小学校・元気橋・馬引沢南公園・剣橋と進んでいくと、市立陸上競技場や多摩東公園が見えてくる。

競技場脇のトイレに立ち寄り、左折して尾根幹線道路(以下、尾根幹と表記)に架かる大きな弓の橋を渡ると、きょうの目的である「多摩よこやまの道」の東起点がある「丘の上広場」に到着。早速、標識に娘を立たせ、「弓の橋」入口に続いて2枚目の記念撮影。そこから右上へと登り道が見えるが、正面の石段を登って行くと石造りの高台があり、振り返るとニュータウンの展望が広がる。晴れていれば富士山も充分眺望可能なビュースポットだが、きょうは曇天で、その代わり涼しいのが良い。先日7日に町田のえびね苑・薬師池公園・ぼたん園に家族で行った時は、汗だくだくで参ったものだが、今日は絶好の感が強い。その高台から東方向へは、1.4kmで若葉台駅(京王相模原線)へ行ける旨の表示があるが、我々はその逆方向へと進み、石段下からの登り道とその先で程なく合流する。

右側に「多摩よこやまの道」の説明板があり、前掲の全体のルートマップをはじめ、多摩丘陵の中での位置づけマップ、関東の鎌倉古道マップ、多摩と尾根道の古道マップ、前掲の万葉集の和歌、詳細な説明文、散策上の注意事項などが詳しく記されている。同じものがこの後何回か掲示されていたが、異なるのは「現在地」のみだ。

実は、この「多摩よこやまの道」は前述の「独立行政法人 都市再生機構 東日本支社 ニュータウン業務部」のホームページや、先人のウォーク記録のホームページを参考にさせて戴き、過去2回ばかり歩いている。

1回目は、それらの地図や先人の体験記(ホームページ)を印刷したものを持ち、それと首っ引きで丘の上広場から唐木田口まで歩き、更に第二次開通の道へと東へ進んだが、そちらの第二次開通区間は面白みがなかったので途中から引き返し、唐木田口までを最良の道と自己判定した。

2回目は同前ルートを山仲間の田幸・村谷両氏を案内する形で歩いた。本当はもっと大勢の参加を期待していたのだが、当日の天候が結果的には降られなかったものの、予報では降雨もあり得るとの予報が影響したためと思われた。

尾根幹を走る車の音を右下から聴きながら、適度なアップダウンを伴った尾根道を快適に歩いていく。道の左手には棒杭を金属チェーンで繋いだ境界線が続く。これは、尾根を境とした「都県境」(右=東京都多摩市諏訪、左=神奈川県川崎市麻生区黒川)および、その先が「市境」(右=同前、左=東京都町田市小野路町)となる。

間もなく右下方にビルが2つ見えてくる。地図によれば「鯉国」と「協和」とある。この辺り、左手から右手にかけてこの地下をトンネルで私鉄の線路が通っている。京王相模原線と小田急多摩線で、多摩線の方は、黒川駅と小田急永山駅の間にできた「はるひの駅」周辺に真新しいマンション群や戸建て群、更には開発工事真っ只中の様子が眼に入ってくる。

その先が「さくらの広場」で、時節にはソメイヨシノやエドヒガンが妍を競う所だ。コブシの大木もある。更に、尾根幹を挟んで右手に諏訪小学校がある辺りのやや手前に「根株移植の森」と称する所がある。これは、根株を根ごと堀り取って移植し育てる「根株移植」という方法で整備した森だそうで、その手順が説明板に詳しく記されていた。

多摩市の「エコプラザ多摩」が右下方に見えてくると、右手高台に「諏訪ヶ丘144.3m」の棒標識がある。別名「諏訪岳」とも言われるようだ。ここで手元の気圧高度計を145mに合わせる。すぐ先で道が十字路になる。もちろん総て土の山道である。そこに、「瓜生黒川往還」の標識があり、次のような説明文があった。

「瓜生黒川往還」

「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川炭」や「禅寺丸柿」などを八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。
また、武蔵六所宮(現大國魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前からこの尾根までの間に、「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。


瓜生側への往還は廃道になっているのか、見あたらない。この標識から右前方へと進んでいくと、右手に原っぱが見えてきて、腰の高さぐらいの石碑がある。「もみじの広場」である。石碑に近寄ってみると「多摩よこやまの道」と彫り刻んである。先ほどの瓜生黒川往還辺りから“いにしえとの出逢い”が始まっているのだ。

そのすぐ先の傍らに「古代東海道と丸山城」の説明板。この辺りは、東北から西南にかけての古代東海道跡と推定されているそうで、説明板によれば以下のとおりである。

相模の国府と武蔵の国府を結ぶ古代東海道

 「かつて日本の古代にも、ローマの道のように、全国から都に集まる大道(道の最大幅12m)が七本あった」これは、近年の研究で判明しつつある成果です。飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。この道は唐(中国)の制度にならって造ったと考えられ、防人や朝廷の軍隊、特別な任務を持った官人たちが頻繁に行き来し、税納物や朝廷直営の牧から運ばれた良馬が多摩丘陵から都へと運ばれていたと想像されます。
 古代東海道は、多摩市連光寺本村の打越山遺跡発見された道路跡(道幅9〜12m)や、馬引沢にあった「大曲」という谷、諏訪団地の中央を通っていた「沖の谷戸」という細長い谷、給食センター上の畑地や近くの「並列する古道跡(複線の古道跡)」につながるとみることもできますが、現在のところそのルートは未だ確定されるには至っていません。

丸山城と烽火台

 この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設していた可能性もあり、ここに続く中継地と考えられる南方の野津田上ノ原の高台には「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。

(注)武蔵國の国府は現・府中であるが、相模國の場合は諸説あるようだ。以下は、ウェブサイト情報の要約。

現在の神奈川県とほぼ一致する相模國は、奈良時代の初期相模国府は国分寺の跡が海老名市にあるので、海老名市にあったであろうとする説、小田原の千代廃寺を初期の国分寺跡と見て、小田原に在ったとする説があるが、いずれも決め手に欠け、平安時代に編集された倭名類聚抄やその他の古文書には相模国府は大住郡とするので、平安時代には現在の平塚市に移されたらしいとされてきた。しかし、最近の発掘調査から、相模国府は最初からこの地に営まれたとする明石新氏などの説が有力になってきた。さらに15世紀に成立した十巻本伊呂波字類抄には、余綾(ヨロキ)郡とするので、中世には現在の大磯のあたりに移ったと考えられる。
昭和54年(1979)から昭和57年(1982)にかけ、国道129号線拡幅工事に伴う発掘調査が行われ、平塚市の相模四之宮前鳥神社周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかり、ここ四之宮周辺遺跡が、大住郡にあったとされる相模国府の遺跡であることが、ほぼ確定的になった。

こんな道が古代東海道だったのかと思えば、古街道歩きの楽しみが一段と増してくる。

広場の尾根幹寄りの端からまた上に登っていくと、左手に畑地が現れる。以前、最初に通った時には田んぼの畦道を思わせるような、幅40〜50cm程の細い小径の両サイドに、背丈ぐらいのコスモスが百花繚乱の呈で出迎えてくれ、その真ん中を気分爽快、上機嫌で通り抜けたことを思い出す。きょうは、紫色の花が道ばたや畑地の中にちらほら咲いているが、多分「あやめ」だろう。農作業中の男性の姿も見える。

その先で右手前上にバックして登る感じで展望広場に出る。「多摩丘陵パノラマの丘(展望広場)」の解説板が、丹沢山系、秩父山系、七尾丘陵というまとめで、見える山々を高度と共に図示している。この広場は標高約145mで、ここからの眺望はこのルート上で最高だ。遠くの山々は薄日が射し始めたとは言え、今日の天候では見えづらいが、近郊の多摩ニュータウンの街並みはくっきり見える。

山々も、左は丹沢山系の大山から、三つ峠・滝子山・高尾山・大菩薩嶺ほか、そして右は、奥武蔵の丸山まで、曾て登った山々も含めて一覧できる案内図が懐かしい。傍らにはベンチもあり、以前、二回目に来た時には、山仲間とこのベンチで昼食をとったことを思い出す。

また、ベンチの横には「防人見返りの峠」と墨書した標木があり、横面に「平成十七年十一月廿三日 歴史古街道団建之 公益信託多摩まちづくりファンド助成之」とある。3度目の場所だが、直近は昨年十一月六日だったので見覚えのないのが道理だ。

ここからは気持ちの良い尾根道が続き、右眼下には給食センターが見えてくる。孫の「学校給食もおそらくここで作られているのだろう」と娘と話す。右下にトイレの設置されている場所に出たがそのまま通り過ぎ、「分倍河原合戦と県境の尾根」という説明書きの表示板に着く。

「分倍河原合戦と県境の尾根」

「梅松論」の記述やこの付近の伝説から、元弘三年(1333)五月十四日、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ分倍河原合戦の前夜、多摩川の北に陣取った新田義貞の大軍を迎え撃つべく鎌倉を出発した北条泰家二十万騎の大軍勢は当時小山田庄(荘)内であったこの尾根の川崎市側に篝火を焚いて息を潜めて野営し、翌早朝から多摩川で大激戦に突入したと考えられます。


右手に「ウメの園」。早春には古道沿いのこの道に彩りを添えてくれることだろうが、今は桜すら緑葉茂れる今日、全く目立たない存在である。また、次のような説明書きの表示板が現れる。

「大きく堀割った古街道跡」

 かつて地図のない時代の旅人や物資を運ぶ人たちは、自分の現在地や目的地の方向を知るため、また山賊や敵から身を守るために、なるべく尾根の高台を通りました。この後ろの山の中に、急坂を緩やかにして同じ調子で楽に荷車や人馬が通行できるように道を堀割った工夫が見られます。「多摩よこやまの道」に沿って残る古道跡です。

散策路は、一旦一般道に抜けるが、やがて右手に国士舘大学が現れる。お得意の柔道の練習風景も垣間見える。左手には同大学のグラウンドが現れ、左右を尾根道の下を通るトンネル道で繋いでいることが判る。小さな交差点に出ると、ここは昔から交通の要衝だった所で、次のような説明書きが現れる。

「古道五差路と軍事戦略的な鎌倉道」

 ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集まる五差路です。堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や鎌倉時代初期(弘安四年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士恁テ墳)を乗り越えて、野津田や金井、本町田へと続いています。交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。

古代東海道は直進していたようだ。左(南)折すれば町田市小野路町だ。我々は順路標識に従って右折すると、多摩ニュータウン市場の近くへと降りていく。左手に広い鎌倉街道が通っていて、そちらに降りる道も見えるし、道の向こう側からまた先へと登って行けそうだが、交通量の多い鎌倉街道を横断することは到底不可能で、順路は鎌倉街道を渡る大きな陸橋を渡って行く。この道が、曾て大軍勢の通った道で、橋を渡った向こう側にある小さな広場に「大軍勢が通った長い谷」の解説板がある。

「大軍勢が通った長い谷」

<小野路と鎌倉古道>


 現代の鎌倉街道が南北に通るこの谷は、多摩市の乞田の五差路から古戦場伝説や大きな道路跡が発見された町田市の野津田の丘まで、約4.5kmに渡ってほぼ南北に真っ直ぐ伸びた自然の谷です。
 それと並行するように、この道の西側約400mの多摩市南野から町田市の小野路の宿にかけては中世武士の時代の幹線道路であった「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)」が通り、また東側の小野路町別所にも同様に鎌倉道と伝わる道が尾根の上を通っています。これらの中間に位置する時代の鎌倉街道の谷も、長い戦乱の時代には大勢の武士や兵士が通り過ぎていったことが考えられます。

<鎌倉や小田原への早道>

 治承四年(1180)十月二日、源頼朝は伊豆で旗挙げするも敗戦し、海を舟で渡って房総半島に逃げ、そこから隅田川を渡り浅草付近で千葉氏や江戸氏らの支援を受け体制を取り戻しました。その後、府中から一路この付近を通って鎌倉をめざし、我が国初の武士による政権「鎌倉幕府」を樹立します。しかし、この時にはまだ鎌倉街道は出来ていませんでした。

 幕府樹立から六年後にも頼朝は「奥州藤原氏征伐」の往復で、また十三年後の建久四年六月「那須野の狩」でも鎌倉から府中に向かっています。この頃には鎌倉街道と呼ばれた道ができ始めたと考えられます。その後も、新田義貞の鎌倉攻め、観応の擾乱での足利尊氏軍の通過のほか、上杉輝虎(謙信)軍の小田原攻め帰路での通過など、いずれも大軍勢がこの谷や鎌倉古道を通過していったものと思われます。


この小さな広場から、西に向かって再び登り階段があり、登り切ってから尾根の林の中を抜けていくと、左下に綺麗な霊園が見えてきた。区画毎に売り出しているのか、墓石の密集箇所と整地済み箇所とが判りやすい。脇を回り込むように降りていくと妙桜寺脇の一般道に出る。ここも南北に交わる鎌倉古道があった所だ。

都立南野高校を右手に、恵泉女学園大学の脇を回り込むように車道脇の閑静な歩道を進んでいくと、右手に買い物予定をしていた「ヤマザキショップ」があり、入店。直前に恵泉女学園の学生と思しき3人ずれが買い物袋を下げて出てきたが、お握りや弁当・サンドウィッチ売り場に行くと、十二時ちょっと過ぎだというのに品数が少なく、以前来た時に比べて何やら物寂しい店内風景に感じられる。

サンドウィッチを二人分買って目の前の一本杉公園に入場。池の周りで幼稚園生と思われる三十人ぐらいの集団が保育士に連れられて来ていて、池の畔で遊んでいる。池の奥の空きベンチに腰掛け、渇いた喉を潤しながら昼食タイムとする。

トイレを済ませ、園内の南側「旧有山家住宅」や北側の「旧加藤家住宅」を見学。後者の方には嘱託と思しき管理人が常駐しており、申し出により茶などが飲めるようになっていたり、訪問者の署名ノートやパンフレット・スタンプセットなども置かれていた。

<旧有山家住宅>
多摩市指定有形文化財、多摩市乞田の有山氏からの寄贈をうけ、解体・保管していたものを復元

 建築年代は不明であるが建築様式、建築手法などから十八世紀初頃と推定される。建物は桁行六・五間(11.83メートル)、梁行三間(5.46メートル)、寄棟造り、茅葺、平入りの農家である。間取りは閉鎖的な広間三間取り型、一間ごとに建つ柱、土間・床上境の伍平柱(柱断面のタテ・ヨコの差が大きい)、土間回りの手斧仕上げ柱、「ざしき」の竹簀子床など古式の特徴である痕跡が各所に遺されている。
 小規模な建ちの低い農家住宅であるが、文化的・学術的にも貴重な住宅である。
 なお、復元にあたっては茅葺屋根を茅葺形銅板葺に改めた以外は、できる限り原形に忠実に復元した。

見た印象は、「暗い、粗末、竹簀子の床は風が床下から吹き上げ、冬は特に寒そう」であった。

<旧加藤家住宅>

 建築年代は不明であるが、建築様式、構造手法などから十八世紀後半と推定される。
 建物は桁行七・五間(13.69メートル)、梁行三・五間(6.34メートル)、入母屋造り、茅葺、平入りの農家住宅である。間取りは広間三間取り型、一間ごとに建つ柱、土間・床上境の伍平柱(柱断面のタテ・ヨコの差が大きい)、「ざしき」前の縦格子腰高窓(猪窓)、「ざしき」の竹簀子床など古式の特徴である跡が各所に遺されている。文化史的、学術的にも価値の高い住宅であるが、茅葺屋根を茅葺形銅板葺に、「ざしき」の竹簀子床を板張りに、「おく」を茶室としても利用できるよう炉を切り、水屋を加える等、市民の憩の場として利用するため一部を改造している。

見た印象は、建坪広く、明るく、旧有山家住宅に比べて格上の感が強い。

さて、旧両家住宅を見終わって、先の階段を降りて右折していくと、石垣に「喧嘩上等」の落書きがあり、興ざめ。その先右手に前2回来園時には気づかなかったものがあった。大相撲の土俵のように、四隅に柱と上に天井だけの建物の真下に土で作った炭焼き窯があり、横に解説板があった。平成10年2月完成の岩手式標準釜窯といわれるもので、
<この窯は多摩ニュータウン30周年記念事業の一環として、住・都公団、多摩市さらに多くの市民参加を得ながら完成しました>
とあるが、何故ここなのか、どんな意義があるのかは不明瞭だった。

見終わって、先の鉄製階段を登っていくと、小野路道と鎌倉裏街道の解説板があった。

「小野路道と鎌倉裏街道」

 ここに残る杉並木の存在から、崖上に残る古道跡=通称「鎌倉裏街道」が確認されました。この道は、多摩市一ノ宮にあった渡河点(多摩川の渡し場)から愛宕団地の愛宕の切通し、豊ヶ丘北公園を通って小野路の宿に続く中世の鎌倉街道の一つで、関戸にあった関所を通る煩わしさを避けた道とも考えられます。江戸時代には日野往還や小野路道とも言われ、後に新撰組となる土方歳三や沖田総司らが小野路での出稽古に日野宿方面から通った道でもありました。

更に、箱根旧街道の石畳を思わせるような坂道を登っていくと、一本杉公園を南北に分断している一般道に出る。そこにも立派な解説板が建っていた。

「鎌倉道」

 多摩市の関戸にあった、軍事上の関所「霞ノ関」を通らずに鎌倉へ向かう、本堂の鎌倉街道よりやや西方の脇街道的な道路です。
 府中市四谷付近から多摩川を渡り、多摩市一ノ宮の小野神社から和田、「愛宕の切通し」を通り、豊ヶ丘北公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へと続くルートです。

この辺りは尾根幹から大分離れているので、比較的静かだが、尾根道と違って昼過ぎから吹き始めた涼しい風があまりなく、喉の渇きを覚えてくるが、飲料スポーツドリンクはまだ大丈夫だ。右手の一本杉公園内に多摩市指定天然記念物のスジダイの大木があるらしいが、ルートからはちょっと外れるので先に進む。

しばらく進むと、今度はフェンスや木立に挟まれた小径になり、暫く高みの道を辿って行くと、今度は奥州古道(中尾道)と出逢う。
多摩センター駅から小野路へ抜ける道は、過去何度も通った道だが、そこに突き当たると正面は高い崖になっていて、回り道の標識に従って右折・左折・右折を繰り返し、「中坂公園」へと入る。地元老人会の人たちによる花壇があった。小さな寂れた公園だが、ほのぼの間を与えている。

中里公園は、高台にあり、小野路の緑の里山が見渡せる絶景ポイントなので、空気の澄み切った冬には、房総半島まで見渡せるらしいから、そんな時期にも来てみたい気がする。公園奥には解説板が立っている。

「奥州古道と石仏群」

 ここから約250m南の町田市の尾根上には小野路浅間神社があります。その先の中尾から大沢の白山神社前(小山田緑地東側入口付近)へと下る古道は座間や厚木への道であり、さらに奈良や京都の都まで続く「奥州古道(国府街道)」の一つでした。この地区の開発で行き場を失った江戸時代の石仏たちが心ある人の手によってこの古道筋に集められ、石仏群となって残されています。

その脇を通って右後ろにUターンするように登っていくと、再び尾根道に入り、やがて南野三丁目の住宅街へと降りていく。静かな落ち着いた佇まいの家々の前を人専用道のつもりで歩いていたら、民家の庭先駐車場に入る車が進入してきて驚く。

やがて、住宅街の道を抜け、尾根幹の歩道へと出るが、ほんの数十メートルですぐ左折し、人間ドックその他で何度も通院したことのある多摩丘陵病院への進入路を左に分けて右折し、尾根幹南側の車道に沿った綺麗な歩道を進んでいくと、やがて右手に入り込み、東京国際CCのクラブハウスが見えてくる。以前、一度だけだが親しい社友とプレーしたことを思い出す。なかなか良いコースだった。
そこにも、次のような解説板があった。

「古戦場伝説と勝負怐v

<伝説豊かな山里>

 昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が発見され、話題を呼びました。骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や古道があることから、元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言われております。近くにはこのほか、供養怐A勝負怐A大将怩ネど幾つかの怩竅A小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの伝説地が伝えられています。

<新田義貞激戦の地>

鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、新田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利したあと、「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられけるに六十万七千騎とぞ記されけり。・・・ここにて軍勢を三手に別け・・・云々」とあり、現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を明かし、ここで初めて大軍勢に膨れあがったこと、軍議を開いて翌早朝からの進攻を三手に分けたことがわかります。そのうちの右翼隊(西ルート)が小山田の現在地付近に進み、尾根の高台で、それを迎えた幕府軍と激戦になったことが想像されます。

クラブハウス前を通り過ぎ、ウイークデーで空いているグリーン上で元お嬢様組がプレイしているのを横目に見ながら進み、やがて多摩市営のスポーツ施設「アクアブルー多摩」の裏手に回り込む。広いゴルフ場脇を進んでいくと、奥州廃道と交差する地点に達し、それを縦断する形でそこから再び尾根道へと登っていく。当然、廃道はゴルフ場内に消えた訳である。その解説板が登り口に立っていた。

「奥州廃道(長坂道)」

 この先のゴルフ場の中には、かつて長坂道といわれた往還道がありましたが、元々この道は都びとが歩いた「奥州廃道(最も古い奥州古道)」であり、平安時代末期の都びとや官人たちは小山田氏の館(現在の大泉寺)に立ち寄って挨拶をしてから、この道で府中へ向かったともいわれています。頼朝の父祖の源頼義・義家の奥州征討伝説のある神社(箭柄八幡宮、百草八幡宮、大国魂神社)もこの道筋にあります。

登ると、右前方に東京ガス多摩整圧所の巨大なまん丸いガスタンクが眼に入ってくる。いよいよ今日の終盤が近づいたことが判る。広場に出てベンチの横を通り過ぎると、ショートカットの階段とつづら折りの道が見えてくる。2つある階段の第一番目を登ってショートカットし、解説板のある左上方向へ進むと、そこは曾て奥の方へ行ったことのある小山田緑地公園への入口に当たる。

小山田緑地は、本園・分園に分かれていて、ゴルフボールの飛来に気をつけながら歩かなければならない箇所もあるが、なかなか見応えのある緑地公園である。そちらへの分岐点に当たるここには、先にも触れた「小山田氏」や「大泉寺」についての解説板がある。

「小山田氏物語」

<小山田氏と朝廷の牧(牧場)>


 遠く平安のころ、このあたりには朝廷の管理する馬の牧(牧場)がありました。年間に何頭かの良い馬を選び出して奥州古道で都に運ぶのです。
 ある日この牧を経営する長官(別当)として、秩父から桓武平氏の一族の男が赴任し小山田有里と名乗りました。有里には六人(または五人)兄弟の息子たちがおり、幼い頃から牧で馬や弓の武芸に励んでいた彼らは、鎌倉入りした源頼朝に従って御家人となりました。なかでも三男の重成は怪物的な側近としても知られ、頼朝の妻・政子の妹を娶って現在の川崎市域を領地としました。横浜市域を領有した四男の重朝も、小笠懸けなどの競技、鎌倉の的始めの一番射手、流鏑馬の指導者としても知られ、この小山田兄弟の華々しい活躍ぶりは平家を西に追いやった一ノ谷合戦など吾妻鏡に数多く登場しています。

<小山田城(大泉寺)と山中の里>

 小山田有里の居城といわれる小山田の大泉寺には、一族の墓と流鏑馬や馬駆けの行事が行われた真っ直ぐに伸びる参道が今でも残っています。また大久保台には「小山田城主的場の址」の碑、小山田緑地の運動広場がある「馬場窪」は兄弟が競馬をした場所といわれています。この山中地区には、巡礼地蔵の残る代官坂、都人が往来した奥州古道跡など当時の古街道に沿う小山田の里の姿を想像させてくれる風景が残っています。

これらの解説板が立っている地点から右斜めに若干登ると、今度は唐木田口に向かって下り坂になる。この頂点からは鶴牧の街並み、多摩センターのビル群など、ニュータウンが見渡せる眺望場所であり、眼下には唐木田駅に隣接する広大な車両操車場が眼に入ってくる。降りきったところは広場になっていて、ベンチなども置かれ、ハイカーらしき男性が休憩していた。

そこから、眼前に見える坂を登って行くのが第二次開通の区間(唐木田口〜別所配水場)であるが、先述の理由で我らの本日のウォークはこの唐木田口までとした。尾根幹を渡る歩行者用信号は、駆け足で渡らないと向こう車線を青信号時間内に一気渡りできない所で、それが判っていたのに最後は猛ダッシュだった。大妻女子大生と思われる若き女性たちが唐木田駅方面から大勢来るのとすれ違って、漸く小田急線唐木田駅に到着。

ペットボトルのドリンクは既に空っぽで、冷たいアイスを食べたいと駅前のスーパーに入って捜すが適当なものが無く、紅茶飲料を一本買う。そこから多摩センター駅に帰り、多摩市役所経由のバスで帰宅した。

■ 追記

多摩よこやまの道は、自然が多く残り、丘陵ウォーキングコースとしては上々のコースである。自然が多く残り、動植物などに詳しい人なら、数倍多く楽しめることだろう。コースの途中でも次のような案内解説板がカラー画像付きであったことを付記しておきたい。(下記はその抜粋)
特に、散策の途中、何回もウグイスの上手な鳴き声に接し、「あれは求愛か」などと、心和みながら歩くことができたのも印象的だった。

★ 「多摩よこやまの道で見られる野鳥」
     秋から冬の鳥
  シジュウカラ コゲラ モズ ジョウビタキ ツグミ
     春の鳥     ウグイス メジロ ホオジロ

★ 「丘陵の尾根で出会う虫たち」
     蝶類   
   ルリタテハ キタテハ アカシジミ ミズイロオナガシジミ
     その他     アカスジキンカメムシ エサキモンキツノカメムシ

★ 「多摩よこやまの道 野草の素顔」
     在来種    タマノカンアオイ カントウタンポポ ヤマユリ フデリンドウ アマドコロ タチツボスミレ
     帰化植物   ミチタネツケバナ アメリカスミレサイシン フラサバソウ


多摩よこやまの道 (多摩ニュータウンの尾根筋) 讃歩記