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古代東海道餐歩
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 2008.12.28(日) 第二回目 相模国分寺跡を起点に直線的古代東海道を北進
 
 9:30小田急線海老名駅集合で、地元清水氏と、初回から連続参加の村谷氏との3人旅をスタートする。
 先ずは、清水氏の案内で近道を経由し、海老名駅の東方約500mの台地上にある、史跡「相模国分寺跡」を目指す。大山街道餐歩時にこの3人で既に立ち寄り済みであるが、「古代東海道」という視点から、あらためて立ち寄ったのだが、前回気づかなかった奥の方も見ることができたのは幸いだった。

■史跡相模国分寺跡
               史跡相模国分寺跡環境整備事業
 相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔(みことのり)」によって全国に建立された寺院の一つです。
 819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中期までは修理や再建が行われていたようです。
 しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。
 相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。
 明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校(現在市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究所をまとめました。
 こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。
 海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけでなく、復元・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。
 1966〜67年(昭和41〜42)の発掘調査結果をもとに、1990〜1996年(平成2〜8)にかけて塔置跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。
 基本的な整備計画は、佐賀未婚文治の創建時の遺構を整備することにしました。具体的には、塔・金堂・講堂の基壇復元、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する礎石は現位置で保存する計画です。
                         2000年(平成12)3月  海老名市


 このほか、大型建物跡・区画溝も発見されており、解説板が立てられている。
 現地は広大な跡地が一望でき、一部ではあるが、伽藍の基壇や平面形が復元され、当時の様子窺い知ることができる。また、ここにあった七重の塔は、ミニチュアが海老名中央公園に市のシンボルとして建てられている。周囲は市街地として開発・宅地化されているが、国分寺跡地は歴史公園として整備・公開され、市民をはじめ我ら来訪者の憩いの場にもなっている。

 通常、国分寺は国府近くに建てられるのに、相模国では当初から国府(平塚市)と離れた所に建てられている。それが、なぜ「海老名」の地なのか?については、国分寺創建当時、相模国の国府は平塚市四之宮にあったと考えるのが今や常識になっており、これは、関東地方の寺院建築に深く関わった「壬生氏」(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/424_2.html参照)が高座郡周辺を拠点にしていたためという見方があるとの説以外には全く不明らしい。
 この国分寺跡は、大正15年の国史跡指定後、昭和40年代の発掘調査で以下が判明している。

<伽藍配置>
 国分寺の主要伽藍(建物)配置は、奈良の法隆寺と同じく東側に金堂・西側に塔、北側中心部に講堂を配し、周囲を中門・回廊で囲む「法隆寺式」の配置をとっている。全国の国分寺では大 変珍しい配置で、数例しか確認されていない。

<塔跡>
 国分寺のシンボルともいえるのが塔跡で、1966(昭和41)年と1992(平成4)年の発掘調査で、一辺が20.4m、高さ1.3mほどの基壇上に建てられている。塔跡は現在整備され、当時の基壇の様子が復元されている。また、塔は古代建築学から復元すると、七重で高さが65mもあったとされている。

<金堂跡>
 高さ1m程の基壇上に、16個の礎石が現存している。跡地の北寄りには土壇があり、須弥壇の遺構と考えられている。

<講堂跡>
 高さ1mほどの基壇上に、12個の礎石が現存している。

<中門・回廊跡>
 中門・回廊とも簡単な盛土の基壇と考えられるが、削平されてしまっており詳細は不明である。
 現在は、規模のみ平面表示している。

<僧坊跡>
 東西に長く広がりをもつもので、発掘調査では8部屋確認されており、現在、平面形が復元されている。国分寺建立の詔では、僧の定員は20名だったらしい。

 跡地(公園)の北西隅には、「道祖神」一基と「内務省」(他の文字読めず)と刻んだ石柱がある。

■史跡相模国分寺尼跡

 相模国分寺の北方600mの、相模鉄道線と小田急線と県道407号線(杉久保座間線)に囲まれた三角地帯の一角にあり、現在、敷地内には「庚申堂」が建っている。

 天平13年(741)、聖武天皇が人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺の建設を命じ、相模国では、ここ海老名にここに建てられた。往時の建物などは全く残っておらず、みた民有地となった部分と入り組んだ形になっているが、ちょっとした広場というか、こぢんまりした公園広場になっている。
 近年の数次に亘る発掘調査により、金堂跡や講堂跡・鐘楼跡の基壇の一部が確認されている。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置になっていたそうである。

 尼寺の周囲は宅地が迫っているが、金堂跡周辺は地域の広場として地元や市民に利用されているようだ。この尼寺跡については、平成9年に国の史跡に指定され、数回行った確認調査で以下のようなことが判明している。

<伽藍配置> 中央に金堂を配し、講堂・中門・回路で囲む一般的な「国分寺式」と呼ばれるもの。
<金堂跡>  高さ1m程の基壇上に礎石が16個残っていた。全国的にみても残りがよく、その規模や築造過程が判る。

<講堂跡>  基壇や礎石はなく、詳細は不明。

<庚申堂>
                    庚申様の縁起
 この庚申様のご本体は猿田彦命を祭ったもので今を去る三百十三年前の寛文六年人皇百十二代霊元天皇の御代徳川四代将軍家綱の世に数人の篤志家によって建立されたものである。その方々の姓名が牌に刻まれてあるが長い間雨雪に晒され判然しないのは甚だ残念である。
 当時は不作が続き悪病(肺病・チブス・赤痢と推定)が流行し江戸の振り袖の大火を初め各所に火災頻発し加うるに徳川幕府の施政も将軍の幼少と大政治家たる器量をもつ大老でなかったヽめ人民の生活は困窮が続き殉死の風習や外国船の渡来盗難等と相ついでの事毎で内に外に不安な月日を送っていた。
 斯様な世相であったので神佛に厄除を祈願してその加護によって各自の生活を不安困窮から逃れんとする風習は一般に強かったようである。この庚申様も以上のようなことで建立されたものと推定する。前に建てられた供養塔はその後のもので庚申本地尊のご利益の多かったことから年を追って供養されたものであろう。
 当地区は昭和三年親交会なるものを組織して地区の発展につとめたが当時は僅か十二・三軒の寒村であった。昭和三十三年に庚申堂が建立され現在に至ったが破損老朽化が激しく今日親交会創立五十周年を記念し、更には当地区の発展と会員各戸の家内安全を祈願して庚申堂を再建したものである。
                    昭和五十四年三月吉日      観音下通り親交会


 因みに寛文六年は1666年である。庚申堂の前には、石造物が三基あり、右二つが笠付庚申塔でうち一基は「宝暦十(1760)寅辰」の字が読み取れる。もう一基(左端)は地蔵らしいが詳細は不明である。

■弥生神社

 その先の右手にある。古木と鳥居の奥に参道が伸び奥深そうなので立ち寄らなかったが、明治42年3月海老名市国分北に鎮座した八幡社で、上今泉の比良神社、柏ケ谷の第六天社、望地の大綱神社を合祀して創建れている。「御即位大禮合祀八十周年記念」の石柱も鳥居前に見える。神社の名前は、御遷座が弥生の季節であり、弥栄え行くようにとの祈りを込めて、弥生神社と定めた由である。
 御祭神は 誉田別命 猿田彦命 高産霊命 日本武男命 である。

■岩船地蔵尊

 小田急線や国道246号を越え、北へ進んでいくと、左手「中心学園入口」バス停手前に地蔵堂が見えてくる。この岩船地蔵の造立年代は読み取れず、由来書きも不鮮明極まりないが、地元の人たちに大事に敬われているように見受けられる。
 お堂の右外にも「上今泉涯講中」と刻んだ石塔一基と自然石の石塔一基(文字読み取れず)がある。堂内に掲げられた解説板の内容は以下の通りだが、縦長板の方は墨字文字が風化で大変読み取り難く、一部読み取りに誤りのある恐れあり。全て原文どおり)

□横長解説板
               岩船地蔵由来
今から約二百六十余年前享保年間この地方は天災打続き作物は実らず大飢饉となりその上悪病流行し死者続出した それ等不幸な人々の冥福を祈るため涯溝中の方々の手により村境のこの地に慈悲深い地蔵尊が建立されたのである 以後毎月廿四日に相寄り念仏供養が行われた
この霊験あらたかな御利益は現実界にも及び村は忽ち豊作となり疫病の流行と絶え平和となった
                          昭和五拾参年□□  涯講中

□縦長解説板
               岩船地蔵尊
このお地蔵様は昔よりこの地の人たちがいろいろとお願い事をする事により御利益を頂けると言われるお地蔵様です 毎月四の日が縁日です 皆さんお地蔵様にお願いをして楽しく幸せな日を送りましょう
                          岩船地蔵尊  涯溝中


−−−10:50その先で海老名市から座間市に入る。右手に「飯野山」といううどん屋があるが、11:30からなので先に進む−−−

■夷参駅(いさまえき)

 更に進んで、座間駅前を過ぎると、県道42号線と交わる手前右手(小田急線の線路東側と推定)、即ち座間市入谷付近が「中期古代東海道」の駅家の一つ「夷参駅」と推定されているが、実地に行って探してみたものの何の表示もなく、学術的に確かな地点が確定していないということだと理解した。
 6世紀から8世紀初頭の東海道は「夷参(いさま)」、つまり「座間」を通っていたことが、『続日本紀』の宝亀2年(771)の記事で、「今東海道は、相模国夷参駅より下総国に達す」と明記されている。「夷参」はのち「伊参」となり、それが訛って(接頭のイが脱落して)「座間」になったと『新編相模風土記稿』にある。
 その「座間村」の項には、「土人の伝に往昔伊勢の駅ありし頃は、往還西の方相模川の対岸愛甲郡依知村の辺より当所に係れりと云ふ」という一部意味不明箇所があり、この「伊勢」が「伊参」の誤りと考えられるようだ。
 しかも、この街道には「足柄道」の別称があるとおり、この街道が足柄からの道で、古代の東海道であった証左と考えられる。8世紀頃の東海道は足柄峠を越えて夷参へ通じ、一つはそれまでの道で下総国府へ、そして宝亀2年(771)からは府中の国府にも通じるようになっており、夷参は、下総と武蔵を控えた相模国北部に位置する要路の駅家だったと考えられるのである。

■古代官道の直線性

 「相模国分寺跡」から次項の座間市入谷の「星谷寺」までは、古代官道の特徴である「直線性」が明瞭である。その先では、相模原市双葉までの間、区画整理などにより古道が鍵型(ギザギザ型)になっているが、大筋としては「一直線」であり、その先は再びきょうのゴール予定地点(JR横浜線古淵駅近辺)を経て、町田市の小野神社へと続くことになり、見事と言うほかない。

■星谷寺(しょうこくじ)

 街道は、やがて県道42号線にぶつかると、そこは「星谷寺」の入口である。真言宗大覚寺派の寺院で、山号は妙法山。通称、星の谷観音と呼ばれ、坂東33観音霊場第8番札所でもある。
 因みに、33観音霊場は、鎌倉の「杉本寺」を振り出しに、神奈川(9ヶ寺)、東京(1)、埼玉(4)、群馬(2)、栃木(4)、茨城(6)、千葉(7)の関東各地域に跨っている。

 天平年間(729〜749)奈良時代、行基菩薩が諸国教化の際絢爛たる金光星の如く山谷に輝くのを見、自ら聖観音の像を刻し、堂宇を建立したのが始まりと言われており、花山法皇が関東巡行の際この霊場に立ち寄られ、以後世を挙げる名所旧跡と唄導し、坂東33ヶ所の第8番霊場として巡拝者が日ごとに増えたという。

 創建から数百年過ぎた鎌倉時代、源頼朝公の信仰が篤く、やがて戦乱や野火により伽藍が全焼したが、この時、本尊の聖観音が火中から飛び出し、南西600mの地にあった枯れ杉の樹上に止まって光明を放ったちいう。住職の理源はこの出来事から、観音様が自ら選ばれたこの地が即ち浄土であるとし、ここに堂宇を再建して中興したのが現在の星谷寺の場所になっているそうである。

 星谷寺は、北条氏からも歴代篤い保護を受け、領主北条氏が境内の竹木伐採及び不法行為を禁止する永禄8年(1565年)、天正3年(1575)の制札。天正10年(1582)には北条氏が寺に寄宿した礼としての、屋根葺替えと建具飾りの寄進状が残っている。更には北条氏を攻める豊臣秀吉が、住民の安全を保障する天正18年(1590)の制札もあり、その後は、徳川家康公の帰依により、この座間郡に代々寺領のご朱印を賜り、大寺院になった。

 古道の突き当たりにある端正な境内には、昼間でも星が映って見えると言われる「星の井戸」をはじめ、「根下がり紅葉の老木」、嘉禄3年(1227年)の「撞座一つの梵鐘」、「不断開花の桜」、「咲き分けの散り椿」「楠の化石」「観音草」など、「星谷寺七不思議」として今に伝えられている。観音堂前にそれらの場所を示した案内板が建っているが、具体的には、以下の通りである。

1.「楠の化石」は「納経所」の中に置かれており、振ると水の音がする由。

2.納経所を出て更に先へと進み、庫裡の裏へ行くと、水を注ぐ事で音を奏でる水琴窟が右に見え、そのすぐ先にある井戸が「星の井戸」である。信仰が深ければ水面に星が見えるそうだが、残念ながら自分の眼には青空と自分の姿しか写らなかった。

3.境内から離れてその先の墓地には、以前は季節はずれにも咲いていた「不断開花の桜」があるというがここは立ち寄らなかった。

4.庫裡入口の門右側に趣きを残す四阿、この庭に中風の薬草「観音草」があるそうだ。この地を訪れた田村麻呂が病を治した事から、田村麻呂草との別名も持つ。これも確認は略した。

5.水屋と観音堂との間に、市指定の天然記念物「咲きわけの散り椿」の老樹。純白、紅に白斑点、淡紅、濃紅、白に紅斑点と5通りの花を咲かせ、花びらが1枚ずつ散るという。その先には七不思議に含まれないが、市指定の重要文化財で大きな「宝篋印塔」がある。

6.観音堂の外陣の右側に「根下り紅葉の老木」が置かれる。乳房に似た形で、触れると乳の出が良くなる由。

7.観音堂を出て鐘楼へ。右には式斎場の「清星殿」。すぐ近くに白いコンクリート基台の「鐘楼」がある。全国に現存するうちの50番目、関東以北では茨城県土浦市の等覚寺の建永年間(1206〜1207)に次ぐ2番目に古い梵鐘で、嘉禄3年(1227)源吉国の鋳造の由。沙弥西願の願で、源朝臣信綱の名も残す近江源氏の祖・佐々木信綱の寄進。平安時代の優雅な面影と鎌倉時代初期の特徴とを合わせ持つ。通常の梵鐘は鐘を撞くための丸い撞座(しょうざ)が、表裏に1つずつあるが、この鐘には1つしかなく「星谷寺七不思議の1つに数えられると共に、日本三奇鐘の1つとして江戸時代から有名になり、現在は国の重要文化財に指定されている。

■昼食から、右折・左折の連続する大団地を通過

 「星谷寺」からは道が狭まり、一旦小田急線の踏切で線路右に出ると、右手に広がる「谷戸山公園」入口前を通り、今度は小田急線を潜って県道51号に出る。左からの同バイパスを合わせた先で相武台駅前に向かって昼食場所を探し、そば屋で空腹を満たす。
 その先は、直線上の古道跡が開発でジグザグになったエリアを地図片手に何とか大団地地域を通り過ぎ、国立相模原病院の先から再び直線道路に入る。

■大沼観音堂

 左手の集会所の裏に真新しい「大沼観音堂」が見えてくる。
 観音堂は、建物の老朽化により平成19年11月に新たに建て替えられ、従来のイメージとは一新されたようで、立派なお堂が地域の人たちの神仏崇拝の厚さを物語っているように思われる。
 堂内には、千手観世音菩薩像が祀られているそうで、昔は、治病・夫婦円満の観音様として大沼の人々の信仰を集め、嫁に出るときは必ず観音様に参拝してから嫁いで行ったと言い伝えられている由である。
 嘉永元年(1848)の宗門改め帳(戸籍)に観音堂の存在が記されているが、正確な創建年代は不明ながら、天保年間(1830〜)の凶作と疱瘡大流行による死者供養の目的で建てられたものと目されている。それ以来と思われる念仏、和さん、御詠歌が今でも堂内で、月1回女性が集まって行われているそうで、お堂に向かって右側にはその出入口と思われる扉も見える。また、それだけではなく、集落の集会やお十夜祭りの会場、また青年団の催事や出会いの場所など、広く利用されているらしい。

■大沼神社、別名大沼弁財天

 大沼観音の先の「大沼」信号で県道52号線を越え、700m程行くと「大沼神社」バス停があり、右手に「大沼神社」がある。境内はそれなりに広いが、どうやら無人のようで、ここへ来るまでの通りで見かけた初詣のPR看板とのギャップを感じる。

 大沼神社は、江戸時代の新田開発で開かれた集落の鎮守「弁財天社」として、享保21年(1736)に創建されている。祭神は市杵島姫命、すなわち弁天様である。村の鎮守として古淵の「鹿嶋神社」から勧請されたと伝えられ(諸説あり)、明治4年に「大沼神社」に改称している。別説では、昭和10年頃、大沼電鉄線の銚子口付近に函館市で機船会社を営んでいた松田吾一により、豊川神社より分霊されたのが始まりといわれる。昭和19年に社殿を現在地へ移し、その際に七飯三嶋神社の分霊を祀り大沼神社として現在に至ったとも言われているようだ。また、明治時代に大沼開拓に尽力した宇喜多秀夫が、讃岐の金刀比羅宮から分霊した宇喜多神社の祠も大沼神社の向かって右奥に鎮座している。

 この付近は「宙水地帯」と言い、火山灰層の所々にある粘土層部分に雨水などが溜まり地下水層が浅い地域で、以前は凹地に水が貯まった大沼が神社脇にあり、幽邃の趣があったが、その名残として、大沼神社の周囲には堀が残されている。かつては一帯を覆っていた沼地の名残が、本殿を囲む濠に辛うじて残されているという次第である。大沼地域には、「土窯つき唄」という炭焼きの窯を築く時に歌われていた仕事唄が継承されており、相模原市の登録無形民俗文化財に指定されている。大沼神社という名前もその辺に由来すると推察される。

 古社に相応しい格調ある境内には、何と4対(参道入口・本殿前2・右手宇喜多神社前)もの狛犬が鎮座しており、特徴的である。造立年代の差異によりそれぞれ微妙に違いがあるようだ。

■二日間で神奈川県下の官道歩きをほぼ終了

 大沼神社からは引き続き直線上の道を進み、国道16号(八王子街道)を過ぎると大野小学校で一旦分断されるが、学校の西側を迂回して再び直線道路に戻り、その先はJR横浜線の先の「境川」が文字通り神奈川県と東京都の都県境になるが、線路手前の「大野小学校前」信号で本日は終了とし、左折して古淵駅前の開店寿司屋で軽く打ち上げて散会した。二日間でほぼ神奈川県内を歩き終わり、次回からはいよいよ地元東京都内域に入り、自宅近くまで歩くことになる。
 帰路は、古淵駅で町田方面への清水氏と別れ、八王子経由の京王線で村谷氏と帰路についた。