古代東海道餐歩
Top Page
Next
Back
 2009.02.22(日) 第四回目は聖蹟桜ヶ丘〜府中 & 国分寺
              武蔵國の国府・国衙跡から国分寺尼寺・僧寺跡、そして東山道武蔵路を訪ねる

 京王線聖蹟桜ヶ丘駅の西口改札口で、清水・村谷両氏と9:30に落ち合う約束だが、その前に一人で元・武蔵國一宮である「小野神社」に立ち寄るべく早めに家を出発する。

 一つには、「古代東海道歩き」というテーマからすれば、当然立ち寄って然るべしと考える一方、きょうの歩き仲閧フ一人村谷氏は別機会に立ち寄り済みと事前に聞いており、加えて、順路的にも数百メートル程街道筋の逆方向で、自身も以前立ち寄り済みではあるが、事の順序として一人で駅の西方500m程にある多摩市一ノ宮の「小野神社」を再度訪ねてみたいと思い、川崎街道を進んで行った。8:30過ぎという朝の冷気はまだ冷たく、息が白い。

元・武蔵國一宮「小野神社」

 川崎街道一ノ宮交差点の一つ手前の信号角で、右手に「武蔵一ノ宮小野神社参道口」と刻んだ大きな石柱の建つ「小野神社入口」を右折し、京王線を踏切で越えて行くと「小野神社通り」はゆるやかに右カーブし、300m程先右手で大鳥居、随神門の奥に建つ「小野神社」に達する。
 社殿・境内・規模など、何をとっても往時の武蔵国一ノ宮とは想像しがたいが、逆に往時の史跡が国衙跡や国分寺跡以外には直線的道路跡が部分的に残るほか皆無に近い「古代東海道」の周辺史跡としては、相応の佇まいと言えるかも知れないと思わなくもない。

 武蔵國の一ノ宮は、過般(2009.01.18)の中山道歩きの際に訪ねた「氷川神社」(さいたま市大宮区)だが、古代は間違いなく多摩市一ノ宮のここ「小野神社」がそれだった。いつからそうなったのか正確な記録がないようだが、武蔵の国守だった小野氏の氏神だったことと関係があると考えられている。祭神は小野氏の祖先「天下春命」で、小野氏が小野妹子・小野篁・小野道風・小野小町などを出した古代の名族であることからすると、納得性は高い。室町時代以前のある時期における政治力の差で変動したとも考えられる。

 この後訪ねる府中市の「大国魂神社(旧名:六所宮)」の祭神や、南北朝時代の「神道集」の記述によると、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、さいたま市大宮区の氷川神社を三宮としており、今のところ中世までは氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。しかし室町時代に成立した「大日本国一宮記」では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、氷川神社が小野神社に替わって武蔵一宮の地位を確立したと考えられるのである。

 諸情報を整理してみると、若干重複部分はあるが次のような内容である。

* 式内社である小野神社は「一宮大明神」とも呼ばれていたが、旧社格は郷社である。
 御祭神は天下春命・瀬織津比当ス・伊弉諾尊・素盞嗚尊・大己貴大神・瓊々杵尊・彦火火出見尊・倉稲魂命である。(境内掲示)
* 主祭神は、現在「天下春命」であり、知々夫国造(当地方)の祖神である。また一説には、孝昭天皇の皇子・天押帯日子命とされているが、これは、小野臣の祖神。つまり、小野神社の社名が、地名由来であるか、氏名由来であるかによって、その祀る神も違うことになる。また、上古は、瀬織津姫命一座であったとするものもある。
* 多摩川の左岸、府中市にも小野神社があり、同じく、式内・小野神社の論社である。両社とも多摩川に近く、古代において多摩川の氾濫によって、遷座・分祀された結果、どちらがオリジナルであったか判らない状態になったとも考えられる。
* 両社とも、天下春命と瀬織津比賣命を祭神としている。天下春命は知々夫(秩父)国造の祖神である。ただし、延喜式神名帳では座数は一座となっている。『江戸名所図会』では「瀬織津比賣一座」とある。『神名帳考證』では小野氏の祖の天押帯日子命としている。
* 両社とも、安寧天皇18年2月創建と社伝に伝える。多摩川対岸の府中市の小野神社は、近くの六所宮(大國魂神社)に対する崇敬が高まるにつれ衰微した。ここ多摩市の小野神社は、後北条氏、太田道灌らの崇敬を受けて栄えた。明治6年に両社とも郷社に列格した。
* 元一ノ宮なのに無人の神社である。神社には必ずあるという神紋は、『神社名鑑』では三つ巴だが、社殿や賽銭箱には、菊紋しか見当らない。
* 境内はそれなりに広いが、閑散とした印象で、古社独特の趣は殆ど感じられない。現・一ノ宮でないこと、時節柄境内の木々の葉が少ないためだろうか。
* 西に正面鳥居と隋神門があり、南に赤い鳥居と南門があるが、その先には独立の稲荷神社がある。
* 北側に境内社がまとめて祀られている。伊勢神宮内宮(天照皇大神)・伊勢神宮外宮(豊受大神)・三嶋神宮(事代主命)・八坂神社(須佐之男命)・愛宕神社(軻遇突智命)・安津神社(日本足彦國押人命)・日代神社(大足彦忍代別命)・鹿島神社(武甕槌命)・子安神社(木花開耶姫命)・厳島神社(市杵嶋姫命)・方便神社(鹽土老翁命)・秋葉神社(火之迦具土大神)・稲荷神社(保食神)・堰宮神社(水分神)、といった具合だ。
* 「木造随身倚像」があるというが、格納されていて見えず、解説板にはこうある。
   
東京都指定有形文化財(彫刻) 木像随身倚像
                    所在地 多摩市一ノ宮一丁目18番地8
                    指 定 昭和五十年二月六日
 小野神社の起こりは古く八世紀中頃と言われ、中世には武蔵国衙に近在する筆頭の神社、武蔵一宮であった。
 武蔵一宮小野神社については現存する資料が極めて乏しい中で、昭和四十九年にこの随身倚像に墨書銘があることが発見された。
 墨書名によれば、この二躯のうち古い方の随身像は、元応元年(一三一九)因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永五年(一六一八)に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えている。
 どちらも檜材、寄木造。胡粉地に彩色が施され、頭部は挿首、玉眼。
 都内では、室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財である。
     平成十三年三月三十一日 設置
                                 東京都教育委員会


 また、境内左手には崩し文字で刻した歌碑があり、残念ながら全部を解読出来ないが、永承六年(1051)源頼義が陸奥守に任ぜられて下向の途次、その子義家と共に武蔵國一之宮たる当小野神社に参籠され、太刀一振と詠歌一首を残したと記され、横にその歌が刻まれているが、全文字は判読できない。
 なお、小野神社の大太鼓は、祭日に神社近くの目抜き通りである川崎街道を練り歩く風景を観たことがあるが、「くり抜き」の太鼓としては日本最大級のものとのことである。

一ノ宮の渡し跡

 聖蹟桜ヶ丘駅方向への戻りは、小川沿いの遊歩道的石畳みの感じの良い道を東に進み、「宮下通り」に合流した先左手にユーモラスなオブジェがあり、その横に「一ノ宮渡し」碑や解説プレート(内容下記や往時の多摩市古地図ほか)がある。言うまでもなく往時の多摩川の渡し場跡である。
 村谷氏とは以前立ち寄り済みだが、この先で多摩川の渡しに代わる関戸橋先の「中河原の渡し」との関係からも押さえておきたいポイントなので、あらためて立ち寄った次第である。
               
一ノ宮(いちのみや)
 「一ノ宮」の町名は、地内にある「小野神社」が武蔵国六所宮(府中市内大國魂神社)の東殿第一位の座にまつられ、一之宮大明神と呼ばれたことに由来しています。
 小野神社については、安寧天皇(紀元前六世紀)の勅命により創設されたと言い伝えられています。また、「延喜式神明帳」には多摩郡八座の一つに小野神社が記されており、市内で最も古く由緒ある神社です。「日本三大実録」によると、元慶八年(884)正五位の神位が授けられました。「吾妻鏡」には一宮と地名の記載があります。
一ノ宮の神輿は、中世以来大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に参加しており、道路事情が悪化する昭和三十年代前半まで続いていました。
 このモニュメントは、こんな由来にちなみ「祭り」をテーマとしています。
                                平成一一年三月    多摩市

街道跡へ復帰

 その先は、京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」北側の「聖蹟Uロード」を回って京王線聖蹟桜ヶ丘駅東口で約束の9:30に清水・村谷両氏と落ち合い、川崎街道に出て東進、前回の街道最終地点へと戻って左折し、きょうの古代東海道歩きを始める。表通りから一本入るともう静かな住宅街が広がっている。真っ直ぐ北進して多摩川右岸堤防沿いの道に出、右折して間もなく鎌倉街道の関戸橋袂に出ると左折し、鎌倉街道西側のみにある歩道を北進して左岸(府中市側)へと渡る。

多摩川と「中河原渡し」記念碑

 多摩川を渡り終えると「関戸橋北」信号で鎌倉街道の東側(右側)に渡る。昭和12年の関戸橋開通までは、「関戸渡し(対岸からは中河原渡し)」だった。「関戸橋北」で信号を渡った橋右袂には、府中市が平成6年に建てた「中河原渡し」の舟形オブジェがあり、礎石に次のように記されている。
 
中河原渡しは、中河原と対岸の関戸(現多摩市)との間を結んでいた鎌倉街道筋の渡しで、中河原村が経営していたことからその名があります。多摩川の中に中河原村と関戸村の境界があるため、関戸側には関戸村が経営する関戸渡しが設置されていました。これらの渡しは、昭和十二年に関戸橋が竣功し、その歴史に幕を閉じました。渡し賃は、明治二十五年で平水時(二尺五寸)徒歩(一人)三厘、馬(一頭)六厘、人力車(一輛)六厘、大七以上荷車(一輛)一銭などでした。水深が五尺以上になると「川止め」(通行禁止)になりました。

「中河原渡し」記念碑

 「関戸橋北」信号から鎌倉街道を200mばかり北進した右手の「中河原公園」入口に「中河原渡し」の写真付き解説プレート(英訳付き)がある。これによれば、江戸期における多摩川の位置、中河原の地名由来、渇水期における架橋、渡船の実態などが次のように記されている。
               
中河原渡し
江戸時代に多摩川は現在より北側の立川段丘崖線の下、現在の市川用水のある付近を流れていました。また、現在の多摩川流域は浅川でしたので、この二つの川の間にあるところから中河原の名が起こったといわれています。
鎌倉街道の関戸橋が昭和12年(1937)に出来るまでは、中河原の渡場(渡船場)があり、冬の渇水期には仮橋が設けられていました。
明治24年当時の記録では、本流の渡船の川幅は50間(約90M)、支流は2本あり、何れも架橋渡しで、その川幅はそれぞれ15間(約27M)、11間(約20M)でした。本流の渡船渡しでは、平水ならば舟夫1人で足りましたが、平水より1尺(約0.3M)増すごとに1人の増員が必要だったようです。渡場では、通行人から渡船と架橋と別々の渡賃をとっていました。現在関戸橋袂(府中側)には、中河原渡しの碑がたっています。


 転居前が浅川河畔で転居後が多摩川河畔の身としては、驚きの新知識ゲットであり嬉しい限りである。帰宅後に地図で崖線を辿ると、一段と納得できる。

八幡神社

 中河原公園の北側から東へ延びる「第三都市遊歩道」から北側の「中島公園」を抜けた辺りから、街道は古代東海道独特の形状である「直線的道路」となり、この先かなり続いて行く。
 「南町交番」交差点に出ると、交番の先左手に「八幡神社」がある。小さい社殿ながら、やや凝った彫刻が施されている。社殿左には「稲荷社」もある。

下河原の解説碑

 八幡神社の右横奥に「下河原」の解説碑がある。下河原は、昭和30年4月に府中市に編入されるまでは、わが多摩市の「蓮光寺」(ここでは「蓮」。現在の住居表示は「連」)に属する飛び地だったそうで、兄弟に逢った気分になる。「下河原」の地名の由来は、低い地形からとか、中河原の下手(多摩川下流)とかの説がある。甲州道中を歩いたときも感じたが、府中市は、このように案内標識が充実してばかりでなく、見どころ入りの市内「ウォーキングマップ」や「ふちゅう文化財マップ」等も作成されているが、競馬場を有しての潤沢財政の故かなどと話し合い乍ら歩を進める。そう言えば、今日は競馬開催日で南武線の電車が混んでいたとの話も出る。

百番観世音菩薩 四國八拾八ヶ所 供養塔

 「南町四丁目」信号を渡って、北東方向に伸びる「下河原通」に入ると、右手に文政10年(1827)の銘が入った「百番観世音菩薩 四國八拾八ヶ所 供養塔」がある。先人ハイカーの記録では「西国八拾八ヶ所」とか、「文政7年」と記されていたが、四国遍路経験者が二人もいる我らグループは当然???と思うし、紀年も干支から判断するまでもなく、明らかに間違いであることが一見して判った。

東山道武蔵路跡(詳細後述)

 東山道は京の都と地方の国府を結ぶ七道の一つで、その支路である武蔵路は、上野國(群馬県)新田付近で本道から分かれ、武蔵国府(府中)へ至る官道である。平成5〜9年の発掘調査で、その道路跡が西国分寺駅南側で発見され、遺構が舗装の色分けによって、幅員及び側溝の位置が判るようになっているらしいので、この後見に行く予定である。
 地図で見ると、JR分倍河原駅の南方にある「南町小学校」辺りから真北へ一直線に「東山道武蔵路」が通じていたようだが、これについて書き始めると長くなるので、そのあたりに詳しいサイトを紹介するにとどめたい。
       http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/touzando-m/tm-flm41.html

雑田掘(ぞうだぼり)

 新田川緑道、中央自動車道の高架下を潜ると、「本町西」交差点に出る。右手の鳥居付き「大六天」の祠の横に「雑田掘(ぞうだぼり)」がある。
府中市矢崎町4丁目の市立矢崎小学校の生徒達が、毎月第2土曜日を「雑田掘用水清掃日」としてクリーンにしているというブログを予め見て感動したが、第4日曜日のきょうは、落ち葉が大分見掛けられた。

「下河原道」解説碑

 その先左手にある広い敷地(東京農工大学附属農場)の前に「下河原道」の解説碑が建っているが、この辺りは緑道が多い。
 
{「下河原道(しもがわらみち)の名は、この道が本町から下河原村へ通じる道だったことに由来しています。道は途中、芝間への道を分岐しますが、この道筋は芝間道の下の道に対して上の道と呼ばれます。」

「清月橋」碑

 その先の十字路左手前角に「清月橋」碑がある。但し今はない。
               
せいげつばし
 市川(府中用水)に架かる清月橋がありました。橋の名は、昔、この地にあった「清月庵」という小寺院の寺名に由来します。この辺りは、流れが清く月の眺めが美しい所だったそうです。

 先刻の「中河原公園」の解説板によれぱ、この辺りが江戸時代の多摩川だったことになる。

高安寺

 下河原緑道に入って北進し、南武線の跨線橋「みょうらいばし」を渡って右折するのが順路だが、その前に、ここを左折して、名刹「高安寺」に仲間たちを案内する。甲州道中を歩いた時(2008.01.14)に立ち寄って、規模の大きさや威風堂々たる佇まいに感動したのだが、弁慶伝説が残る古刹である。
 南北朝の動乱で北朝方につき、室町幕府を開いた足利尊氏ゆかりの寺で、戦いに倒れた武士達の冥福を祈って全国に建てさせた「安国利生」の寺と言われ、武蔵国の安国寺が、この高安寺である。元々この地にあった市川山見性寺を再興したのが、ここ高安寺であるが、ムカデ退治や平将門討伐で知られる藤原秀郷が武蔵守を務めていた頃の館跡だとも伝えられている。
 鎌倉末期〜南北朝の動乱期には、要害の地に建っていたこの寺は、合戦の本陣としても使われたようである。
 また、源義経と武蔵坊弁慶らがこの地に立ち寄った際、大般若経を書き写すために境内にある井戸の水で墨をすったという伝説があり、「弁慶硯の井」と呼ばれる古井戸が残っている。高安寺周辺には、「弁慶坂」「弁慶橋跡」などの地名も残されていて、府中と弁慶の関わりを今に伝えている。
墓地には木曾源太郎墓(都指定旧跡)、野村瓜州墓、高林吉利墓(都指定旧跡)等がある。
また、この辺りを「片町」というが、旧甲州街道沿いの南北両側に建ち並んだ町屋が、この付近だけは片側(北)にしか無く、南側は全て高安寺の寺域だったことが町名の由来と言われている。

善明寺

 元に戻って「みょうらいばし」の先を眼下の南武線線路沿いに東に入って、細い道を登り詰める。左手の善明寺は、松や枝垂桜、苔などのある庭もよく手入れされた立派なお寺だ。古い見事な庚申塔もある。天台宗の寺院で、鉄造阿弥陀如来像とその胎内仏といわれてきた鉄造阿弥陀如来立像(共に国指定重要文化財)が安置されているそうである。境内には、江戸時代中期の神道家・依田伊織墓(都指定旧跡)や勤王の志士・西園寺実満墓(都指定旧跡)があるほか、日蓮宗で言えば髭題目に相当する、変わった字体の「南無阿弥陀仏」の石塔があったのも印象的だ。

大國魂神社

 善明寺から風情ある道を東に進むと、不調街道と交差する信号から先は西参道になっており、大國魂神社の西側の鳥居が見え、その先に広大な社地が広がる。
 大國魂神社は、景行天皇41年(0111年)武蔵國の守護神として大國魂の大神を祀ったのが始まりで、律令時代は武蔵国の国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により、傍に国内の諸神を配祀したので武蔵総社と称した。
 また、大國魂神社の名前は明治4年からで、それまでは両側に国内著名な六社を奉祀したので、六所宮・六社明神・六社明神と称されていた。鎌倉幕府以降江戸幕府に至るまで幕府の崇敬も厚かったという。毎年5月5日にクライマックスを迎える例大祭は「くらやみ祭り」と呼ばれ、8基の神輿と御先払太鼓をはじめ日本一の大太鼓が繰り出し、昔から大変有名である。
 本殿は、4代将軍家綱の命により、寛文7年(1667)に完成したもので、部分的に室町末期の様式をとどめ、江戸時代初期の神社建築として価値が高く、都指定有形文化財になっている。本殿裏に銀杏やムクノキの巨木がある。

武蔵国国衙跡

 神社東側に観光案内所があり、諸資料をゲットした跡、平成20年4月6日から一般公開されるようになった「武蔵国国衙跡」の場所を確認して向かう。場所はその隣の交番の先を右(南)に100mほど入った左側で、その通りにはいると左右に「史跡武蔵国衙跡」の旗が林立している。
 武蔵国国衙跡については、朝日新聞の紙面で「保存整備が終了し、一般公開される」旨の記事を以前見た記憶があり、予てより是非見たかった所である。
 大化の改新によって、武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)が置かれ、その政治の中心地「国府」は現在の府中市に置かれた。国府の政務機関である、“国衙”跡が30年余に亘る発掘調査で、大国魂神社の境内から東側一帯にかけて所在していたことが確定し、更にその中枢施設「国庁」とみられる大型建物跡が発見され、その建物跡が最重要施設として、史跡に指定されている。
 そこには、「丹土(につち)」と呼ばれる赤色を再現して塗った柱が20本ほど復元されている。国衙というのは、古代律令国家に全国60余の国に設けられた国府の中心施設たる国庁の周囲に設けられた国の行政事務を行っていた役所群をいう。国庁、国衙、国府の順に広い概念になる。

 古代の国は、大国、上国、中国、下国の4等級に格付けされていた。武蔵国は、現在の東京都、埼玉県のほぼ全域と神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含む広大な「大国」だったが、意外なことに、国府の中心施設である国庁の場所については、約30年前までは位置が特定できてなかったのである。昭和51年大國魂神社境内での調査で、大規模な建物跡が見つかった。さらに平成16年度の本格的調査で、宮町二丁目を中心とした周辺が国衙跡として特定された。

まちかど博物館

 大国魂神社前のけやき通りへの信号を渡った右角の建物の一角に「まちかど博物館」なる展示コーナーがあり、国衙跡発掘調査で見つかった発掘品が飾ってある。例えば国衙で使われた瓦とか、各郡の名前の入ったものなどである。

万葉歌碑

 大國魂神社の正面向かい左側には、「万葉の歌碑」がある。万葉集槇十四東歌の武蔵国の一首で、ワープロ内蔵の現代漢字では表記困難だが、訓読では以下のようになる。
 
“武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを”
「草が風に靡くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌だとか。

国天然記念物:馬場大門欅並木と八幡太郎義家銅像

 大国魂神社から北に向かって伸びているケヤキ並木通りに入った左手に、源義家の銅像があるということだったが、残念ながら見過ごしたのか発見できなかった。帰宅後調べてみたら北に向かって右側の植え込みの中だったようで、次の機会に確認することにした。なお、そこには次のような解説板が建てられている。
               
源義家公とけやき並木
国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大国魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平五年(1062)勝利の報賽として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。その後、徳川家康公により補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲九メートルに及んだ大けやきは頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。その大けやきも度々の暴風雨と、近くは昭和二十四年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、七歳の時、石清水八幡宮で元服、よって八幡太郎義家と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に、源氏の武威の最盛期を迎えた。このような大国・武蔵の国の国府であった府中・大國魂神社・けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。この「八幡太郎義家公之像」が府中の歴史を伝え、永く市民各位の心に生き続けることを願いたい。
 製作は、喜田敏勝先生 題字は、財団法人日本書道美術院審査員・鹿島敬帆先生の揮毫による。
                平成四年三月二十八日
                                創立三十周年記念事業
                                東京府中ロータクラブ


 この市のシンボル的存在の並木の歴史は古く、源氏の頭領八幡太郎義家にまで遡る。平安時代の後期、永承6年(1051)から康平5年(1062)に及ぶ蝦夷との「前九年の役」の戦勝を大国魂神社に祈願し、蝦夷平定の帰路、その戦勝記念として千本のケヤキを寄進したのが始まりとされている。
 江戸初期に徳川家康が馬場を寄附し、その後ケヤキが捕植されたと考えられている。ケヤキ並木としては唯一の国指定天然記念物で、2007年10月時点で約210本の樹木があり、うちケヤキが約150本の由である。

昼食&移動

 この後、駅近くで早めの昼食を摂り、古代東海道とはやや離れた寄り道になるが、国衙跡と国分寺跡は古代東海道ウォークのセットで考えている関係上、西国分寺方面駅までタクシーで移動することにし、府中駅前から府中街道泉町交差点まで割り勘乗車する。
 順序としては「(原風景的な)伝鎌倉古道」「武蔵国分尼寺跡」「国分寺市文化財展示室」「武蔵国分僧寺跡」「古代東山道武蔵路跡」というコースどりにした。

原風景的な伝鎌倉古道

 「泉町」を左折し、武蔵野線の陸橋を越えた先でUターンして南北の「史跡の道」に入る。
「4000年前も住宅地だった!」と題する発掘現場写真入りの解説板が武蔵台2丁目29番地(縄文時代のムラ)にあり、その横には石やコンクリートで再現された縄文時代の住居跡が再現されている。そして、古道入口には、「この道路は、国指定の史跡地内にあり旧鎌倉街道として保存しますので車両の通行はご遠慮ください。」の立て看板も見られる。

 鎌倉時代(1192〜1333)に、幕府所在地である鎌倉と各地を結び、周辺諸国の武士団や物資を運ぶ幹線道路として整備された。北は上州から武蔵府中を通り、鎌倉へ向かう道が、現在の府中街道にほぼ沿った形で南北に延びていたと推定されている。ただ、現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたものであり、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されていた。
 鎌倉以前の幹線道路である東山道と道筋のほぼ重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたる。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の国分尼寺跡西側−泉町交差点付近−小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびており、市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側に残る約120メートルの切通しの道が威令伝達の道として多くの武士達が通い、やがては鎌倉攻めの道と化した「鎌倉上道」の名残として、人の世の哀感と歴史興亡のあとを原風景の中に残している。

 この道は、もう何十年前になるか記憶不明瞭だが、30〜40年前に妻と歩いた懐かしい道でもある。当時の印象よりは、当然のことながら鬱蒼とした両側の木々も減り、古道区間も短くなった感があり、足下も簡易舗装に変わっていたが、左右に木段で登る道が付けられ、登ってみると見晴らしの良い「尼寺北方の怐vや広々とした桜木豊富な「伝応寺跡」などもある。

武蔵国分尼寺跡

 古道を抜けると、前方左右に広々とした国分尼寺跡が眼に入ってくる。
東側の僧寺に対し、東山道武蔵路を挟んで西南側、JR武蔵野線の西側を主要部分として、丘の麓に位置したため、尼寺は西院と呼ばれていたという。僧寺に比べてその規模は小さく、調査により約1町半四方(約155m)と推定され、その内のほぼ中央に金堂跡、その北に尼坊跡があることが確認されている。
 尼寺の範囲には住宅が密集しており、調査が充分できたとは言えないようだが、現在は、JR武蔵野線沿いに伝鎌倉街道やと黒鐘公園と接しながら、「市立歴史公園」として保存されている。金堂の礎石が保存されているほか、塀の一部が復元され、地層の変遷を見ることのできるスペースもある。各種解説板も豊富に設置され、国分寺市の姿勢が高く評価される。順序として、まずこちらの尼寺側の案内表示が整備され、国分僧寺側はようやくこれからといった感じだ。

国分寺市文化財展示室

武蔵野線を東へ渡った右手にある筈だったが見過ごしたのか、見当たらない。数十年前に立ち寄った際に戴いた資料を保管してあったので持参したが、国分寺市内出土の土器・縄文時代の石器・土器、武蔵国分寺跡出土の古瓦・土師器・須恵器・仏像・緑紬花文皿(都指定有形文化財)のほか、板碑等が展示されているはずである。

武蔵国分僧寺跡

その先左一帯に広大な面積を持っている。尼寺からJR線路を潜って進むとこれも鎌倉街道旧道らしいが、金堂前に出る。
 奈良時代の中頃、天平13年(741年)の聖武天皇の詔により、全国に鎮護国家を目的とした仏教寺院が建立されることになった。武蔵国の場合、国府(現在の府中市)の北の広大な平地と東西に連なる丘、丘の麓に豊かな湧水をもつ現在の国分寺市西元町一帯が好適地として選ばれ 、僧寺と尼寺で構成される国分寺の建造された。国府と供に武蔵国の政治文化の中心として栄えたが、鎌倉末期の「分倍河原の戦い」で焼失してしまった。

 奈良の東大寺を別として、全国の国分寺の中でも最大級の規模といわれる武蔵国分寺の寺地は、創建時に東西8町(約900m)南北5町と推定され、相模国分寺跡と比してもり大規模である。僧寺の寺域内には、本尊を安置する金堂のほか、講堂、中門、七重塔、鐘楼、東僧坊などが建造され、現在は金堂の礎石を中心に公園になっているが、まだ発掘が全て完了した訳ではないようだ。

 武蔵国分寺は焼失したが、江戸時代の社寺保護政策により徐々に復興され、1733年に本堂が建立された。現在の本堂は昭和62年に改築されたものである。門前に楼門があり、境内には薬師堂、文化財保存館、万葉植物園などがある。

文化財保存館

 文化財保存館には、武蔵国分寺跡をはじめ、国分寺市内の各遺跡から発掘された石器や縄文土器など約600点の展示・保存と、平安時代前期の武蔵国分寺の復元模型が展示されており、昭和27年に建てられている。
 館内には、家光の朱印状等の古文書や、武蔵国分寺に特に多い文字瓦をはじめとする各種の古瓦ほか、先土器時代や縄文時代の土器・石器類などが多数陳列されている。

七重塔跡

 七重塔跡は、武蔵国分寺金堂、講堂跡の中軸線から東方200m余の所に位置する。国分寺造営の詔に「造塔の寺は国の華たり」と記されている塔は、「金字金光明最勝王経」を安置する国分寺の重要な施設であった。承和2年(835)に七重塔が雷火で焼失し、10年後に男衾郡(埼玉県比企郡付近)の前郡司壬生吉志福正が再建を願い出て許可されたことが「続日本後紀」に記されており、発掘調査によって、塔の焼失と再建が確認されている。

国分寺薬師堂

 国分寺境内の薬師堂は、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、武蔵国分寺の金堂付近に建立されたと伝えられ、現在の薬師堂は宝暦年間(1751〜1763)の再建である。
 間口約13.5m、奥行約12.6m、単層寄棟造の建物で、昔は萱葺屋根だったが、昭和60年に銅板葺の屋根になった。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置され、毎年10月に年一度の開帳日がある。また堂内正面には、明和元年(1746)に造献された、深見玄岱(薩摩藩及び江戸幕府登用の儒書家)の筆による「金光明四天王護国之寺」の額がある。

楼門

 国分寺の門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(五千石の旗本で後一万五千石の大名になり、大坂定番等を務めた米津出羽守田盛、通称内蔵助によって菩提寺として創建された寺)の楼門を、明治28年に移築したもの。楼門造り・板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめた風格ある建物である。

仁王門

 国分寺の薬師堂境内にあるこの門は、宝暦年間(1751〜1764)に薬師堂とほぼ同時期に建てられた八脚門で、元茅葺きだったのを瓦葺きになおした入母屋造りである。使用された杉材の一部は建武2年(1335)新田義貞が再興した旧薬師堂の古材を使用したと伝えられている。
 このことは、「新編武蔵國風土記稿」や「江戸名所図会」にも記されており、柱などに当時の組立用の穴が残っていることなどからもうかがい知ることができる。門の左右には、作者不明だが、享保3年(1718)に作られた阿(口を開けている)吽(口を閉じている)の仁王像(高さ約2.5m)が安置されている。

四国八十八ヵ所巡り石仏群

 国分寺薬師堂北側にある四国八十八ヵ所巡り石仏群は、四国八十八ヵ所を模した石仏で、札所の番号やご詠歌などが刻まれている。

東山道武蔵路跡

 国分寺跡の見学が終わり、武蔵国分寺公園の円形広場などを散策した後、「国分寺四小入口」交差点に出て北上し、西国分寺駅南口東側方面への旧道に向かう。
 東山道は京の都と各国府を結んだ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)である。支路とは言っても、歴史的には東海道に所属替えになる以前の武蔵国は東山道に属していたので、元々の街道だったと言える。
 平成5年度から9年度まで行われた西国分寺駅南口における発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認された。現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存しており、その広大さから当時の武蔵国の繁栄ぶりを窺い知ることができる。場所は、府中街道の一本東側の通りで、南北方向の街道である。
 また、「日本の古代道路」「東山道の概要」「東山道武蔵路の検出状況」「東山道武蔵路の保存と整備」などと題した説明書きや、地図・写真の載った大型解説板も歩道上に設けられており、見学者として嬉しい限りである。
 また、その歩道上に広々とした幅で両端に黄色の波線が表示され、「東山道武蔵路」の石標もたち、左手の暖地傍には「西国分寺団地東山道口」などという掲示板も見られる。

 本日の歩きはここまでとし、古代東海道歩きの続きは、次回「府中駅」からこの街道歩きには正反対に相応しいF1戦闘機を見学案内しながら「人見街道入口」を経由し、西荻窪駅方面を目指して再開することにし、西国分寺駅前で軽く打ち上げて散会した。