荒川区の煉瓦塀 荒川区西尾久6−20〜21〜34
荒川遊園の煉瓦塀〜その1
▲荒川区の煉瓦塀(平成11年撮影)。
 今回のターゲットはこちら。区立荒川遊園周辺の煉瓦塀
 これは一軒の家の塀ではありません。荒川区西尾久6-34からスタートし、区立あらかわ遊園とその周辺の民家を延々と取り囲こみ、西尾久6-20、小台橋小学校の手前まで続いている長い塀です。

 私たちが初めてこの場所を知ったのは平成元年のこと。
 どう見ても、昔ここに何か大きな建物があり、その建物の塀だけが残っているとしか見えない場所なのですが… では一体何があったのか? というと見当がつかず、写真だけを撮影してその場を去りました。

 それから10年…
 最近になってある建築関係の用語集を立ち読みしていると、その中の一ページに、この煉瓦塀の写真が掲載されていました。
 以下はその引用です。

 文献によれば、当時の小菅集治監の中に、ウォートルスをしてホフマン輪層窯を築き、囚人に(銀座煉瓦街の)煉瓦を焼かしめたとされるが、とてもここだけでは銀座復興の大量の煉瓦をまかないきれたものではない。---中略---携げた写真は荒川沿いに、いくつかあった煉瓦工場の一つ、明治5年に石神仲衛門設立による後の広岡煉瓦工場の跡地、現在の荒川遊園地の外周の南と東の住宅地に途切れながらも延々と続く煉瓦の擁壁である。
※( )内は引用者
 つまりこれは… 銀座煉瓦街の煉瓦を製造していた工場ということ?
 そして明治5年創業の工場の塀がそのまま残っている!?

 一体、これは本当のことなんだろうか…
 というわけで、今回はこの煉瓦塀を追っかけてみることにしました。

荒川遊園の煉瓦塀〜その2
▲付近の家の共同の塀として使用されながら延々と続く(平成11年撮影)。
 まず本題に入る前に、銀座煉瓦街とは何なのかについて。
 明治5年2月26日、和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、28日には道路改正が内定。30日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。

 設計を担当したのは大蔵省お雇い建築家であった英国人のウォートルス。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道(明治5年9月開通)の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。

 問題は、一市街を建設するほどの大量の煉瓦を、どこで調達するのかということ。
 東京府からの布達に応じて、本所、深川の瓦製造業者がにわかに煉瓦業者に転向しますが、これらはいずれも小規模な工場ばかりで、煉瓦街建設にはとても足りそうにありませんでした。

 明治5年4月になって、木村彦兵衛、鹿嶋万兵衛、西川勝八の三人が、小菅(現葛飾区小菅)の旧町会跡地に竈を築き、煉瓦を製造することを申し入れますが、ところがこの三人「洋風竈の技術に慣れるまで、しばらくは瓦を焼かせて欲しい」などと言い出して、結局は大蔵省より切り捨てられることになります。

 代わってこの小菅の竈を任されたのが金子清吉という人物。しかし金子にとってもこれは慣れない仕事で、作業は遅々として進まない。銀座ではすでに大通りの拡張工事が始まっているというのに、煉瓦のめどはいっこうに立たない…

京橋の碑
▲京橋(銀座1-11)にある煉瓦街の碑。ここには復元されたガス燈もある。
 明治5年12月、東京府はかねてより煉瓦の引き受けを申し入れていた新興商人・川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定。許可を受けた川崎八右衛門はウォートルスに協力を依頼し、これを受けたウォートルスが、小菅に自らの設計によるホフマン窯を設置し、煉瓦製造業者の問題は、ここに至ってようやく決着をみることになります。

 この工場はのち、明治12年に政府に買い上げられ、集治監(現在の東京拘置所)となり、囚人によるレンガ製造の草分けとなります。(つまり、先の文章の集治監で銀座復興の煉瓦を焼いたというのは誤りです)。

 銀座煉瓦街計画は、明治6年5月の第1号家屋の完成から明治10年かけて竣工しますが、完成した家屋の評判は、当初は決してよくはありませんでした。曰く「雨漏りがする」「湿気が多い」… そして空き家がいっこうに埋まらない。

 しかし銀座でしか取り扱われない舶来品の販売などにより、人気は少しずつアップしてゆき、明治20年頃には江戸期からの商店街である日本橋に迫る勢いをみせることになります。

 大正12年9月1日。銀座煉瓦街は関東大震災により倒壊。煉瓦建築は「地震に弱い」という日本では致命的な弱点をさらけ出すこととなり、以降の建築の主流は鉄筋コンクリートへ取って代わられることとなります。

煉瓦遺構の碑
▲金春通り(銀座8-7)にある煉瓦遺構の碑。昭和63年にビル工事現場より煉瓦街の遺構が発掘され、その大部分は江戸東京博物館へ、一部はここに記念碑として残った。
 銀座煉瓦街についてはこの辺で… 問題はこちら、荒川区の煉瓦塀です。
 荒川遊園という区立の施設もあることだし、何らかの資料はあるだろうと高をくくっていたのですが…

 はっきり言って私は、考えが甘かった。
 この土地の歴史があんなにも複雑だとは、当初は考えてもいなかったのです…

(99.11.9記)
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