荒川遊園の地図
地図使用承認(C)昭文社第41G019号
 さて、いよいよ荒川区の煉瓦塀に焦点を絞ってゆきますが、私が知りたかったのは、

 1.この土地の煉瓦工場の煉瓦が銀座煉瓦街で使用されたというのは本当か
 2.この煉瓦塀は本当に明治のものがそのまま残っているのか

 この二点でした。
 とりあえず手に取ったのは昭和30年に荒川区役所が発行した『新修荒川区史』。戦前にも区史はありますが、江戸時代の記述が多く、明治・大正期の調べには適しませんでした。

 古老の言によれば、明治の中頃から末にかけて、尾久の川辺に四つの煉瓦工場があった。今の(昭和30年時点)旭電化附近にあった戸田煉瓦工場、山本煉瓦工場、花蔵院附近にあった鈴木煉瓦工場、荒川遊園地附近にあった広岡煉瓦工場がそれである。---中略---販売先は旧市内方面であり、舟で運ばれた。これらの工場は明治から大正初期まで営業されていたが、近代建築及び近代企業の進出によって自然に廃業する運命となり、鈴木煉瓦工場が明治末で最も早く廃業し、続いて大正初期に広岡・戸田煉瓦工場、最後に大正七・八年頃山本煉瓦工場が廃業した。
※( )内は引用者。一部「練瓦」とあった表記を「煉瓦」に訂正しています。
 販売先は「旧市内」とあるだけで、銀座という名前は出てきません。
 この区史と同じ頃、昭和30年に東京都公文書館が編纂した『銀座煉瓦街の建築』でも、煉瓦街の煉瓦の調達先については、
 銀座の煉瓦に関しては余り詳細なことは判明しない。ただ本所、深川辺に煉瓦街建設をあてこんで、新しい方面へ進出を目ざす人々が小規模の煉瓦製造場を盛んに設立したのが工業的には江東工場街の先駆をなすものであつたと言い伝えられているのみで、詳細な製造場名や使用人員、生産高など殆どわからない。ウオートルスが指導して焼いた小菅の煉瓦製造所の煉瓦はどれ程の生産高であつたかは不明でも、とにかくここの煉瓦が銀座煉瓦街の建設に殆ど使用されたことは疑いのない所である。
 とあるのみで、ここにも荒川の煉瓦工場は姿を見せません。
 どうも、煉瓦街で使用されたというのは風聞に過ぎないようで、もしも事実であったとしても、文献が存在しないため確認の取りようがないのが現状です。
荒川遊園の観覧車
▲現在の荒川遊園の観覧車(平成11年撮影)。
 それでは次に、本当にこの塀は明治のものがそのまま残っているのか、について。

 この土地のアウトラインを簡単につかむために、私が最初に目を通したのは『荒川区史跡散歩』という本でした。

----荒川遊園は、江戸時代は川の水を引いて池を中心とした廻遊式汐入の庭園をもった藤堂和泉守の屋敷であったが、明治五年、石神仲右衛門によって煉瓦製造工場となった。それで今でも園の周囲の塀や園内観月橋その他に数多くの煉瓦が使用されている。---中略---
 明治二八年、石神から鳥井そして広岡とその経営者がかわっているが、大正二年四月開業した王子電気軌道株式会社が、同社の発展のためにここに着目して、大正一一年五月一日荒川遊園を開園した。---中略---
 昭和七年、広岡勘兵衛の死後、王子電気軌道株式会社の経営となり、戦争中の企業整備で東京都に、さらに昭和二五年からは荒川区立荒川遊園と有為転変の歴史をへて今日に至っている。
 都電荒川線まで絡んできてしまった。

 王子電気軌道株式会社とは、現在東京に残された唯一の都電である荒川線の前身であった会社です。
 明治44年8月20日創業。このとき開通したのは大塚線と呼ばれた飛鳥山〜大塚間。そして大正2年4月1日には飛鳥山下〜三ノ輪間(三ノ輪線)が開通。
 しかしこの時点では、まだこのふたつの路線は連結されていません。現在のJR王子駅は高架になっており、そのガード下を荒川線が走っていますが、この頃の王子駅は地上にあり、その線路が邪魔をして連結ができなかったようです。

 大塚線と三ノ輪線の連結が実現したのは、大正14年11月。国鉄王子駅の高架化工事が完了してから後のこと。その後も王電は徐々に路線の拡張を続け、昭和5年3月には現在も残る早稲田〜三ノ輪間のすべてが開通。また、このころには現在は廃止されてしまった王子から赤羽に向かって延びる赤羽線という支線もありました。

 その後、王電は昭和17年に東京市電に吸収されます。そして昭和40年代における都電廃止の流れの中で、赤羽線(王子駅前〜赤羽)が撤去されますが、早稲田〜三ノ輪橋は都電荒川線と名前を変え、現在まで存続することになります。

 荒川遊園はこの王子電気軌道株式会社が、旅客誘致のため大正11年に創業したと、『荒川区史跡散歩』をはじめいくつかの書籍にはそう書かれています。
 ただ…

「王子電気軌道株式会社が、同社の発展のためにここに着目して、大正一一年五月一日荒川遊園を開園した → 昭和七年、広岡勘兵衛の死後、王子電気軌道株式会社の経営となり…」

 この文章の流れが、どうもしっくりこない。
 荒川遊園開園の後も、土地の権利は広岡勘兵衛にあったということだろうか?
 後になってみると、ここで感じた違和感は正しかったことになります。

史跡紹介プレート
▲荒川遊園の正門前にある史跡紹介のプレート。-----「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった-----とある。
 また、太平洋戦争の末期、この土地が高射砲陣地であったころの記録は『東京大空襲・戦災誌』(東京空襲を記録する会/1973)の第2巻にありました。
 この本の中には、高射砲隊中隊長だったという真田慶久氏の回想が掲載されています。
 我々の与えられた陣地は、荒川区尾久六丁目、川べりに在る荒川遊園地であった。遊園地を利用して、指揮所、七・五センチ高射砲六門の分隊砲座、待機所、弾薬庫、その他管理施設は公衆浴場を利用して、炊事兵員宿舎などにあてていた。隣組は正門付近に、やすり工場、キングレコード工場、南国特殊造船会社、関東配電の変電所、川向うには、各種の町工場などが数多くあった。
 昭和17年に王子電気軌道が東京市電に吸収されたとき、王子電気軌道の資産もまた東京府の所有となったと推測すると、この土地の所有者(および用途)は、

 石神仲右衛門(煉瓦工場)→広岡勘兵衛(煉瓦工場)→王子電気軌道(荒川遊園)→東京府→高射砲陣地→荒川区

 という順序で移り変わっていったことになります。

 それでは煉瓦塀が建造されたのはいつだったのか?
 そして現在のような形になった理由は?
 私はこの段階では、こう考えていました。

 煉瓦塀は煉瓦工場の跡地にすでにあった。
 大正11年、王子電気軌道が荒川遊園を開園した。
 しかし予算の関係等で工場の跡地をすべて接収することが出来ず、荒川遊園の外に煉瓦塀付きで空き地が残ってしまった。
 そしてその空き地に民家が建った… と。

 ここまでこの長い文章を読んでくださった皆さん。
 どうかもう少し辛抱して、この続きをご覧になってください。
 この後訪れた荒川ふるさと文化館で…
 私は、これまでの調べを根本から覆すような資料を、いくつも目にすることになったのです。
(99.12.5記)
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