それは3/8のJリーグ、京都-大分戦で起こった。
大分の選手が負傷したため京都側はボールを外に蹴り出した。
唯一許される故意のゲーム中断である。
慣例に従えば大分側はスローインを京都の選手に渡し、
京都側は最後方までボールを下げ、そこから再びゲームを開始するべきところである。
この「ボールを下げる」段において、
大分FWのロドリゴがボールを奪い、
そのままゴールへ向かい、シュートまで決めてしまった。
ロドリゴのプレイはルール上は全く問題とならない。
従って当然ゴールは認められる。
ただし道徳的、慣習的に許されるべきものではない。
京都側は当然抗議するが、ルール上ロドリゴのゴールは否定できない。
ここで大分・小林監督は英断に出た。
大分の選手の動きを止め、京都・中払のシュートを見送らせたのだ。
一部マスコミが「やらせゴール」と非難する得点となった。
さて、この展開に(敢えて事件とは言わないがその意味はすぐお判りでしょうって長いよ)
何か問題があるのだろうか。
わしは「ある」と考える。
ただし先程「英断」と書いたように、
小林監督の指示ならびに故意に失点した大分の選手達には何ら問題はないと考える。
一部マスコミが騒ぐような非、
「得点操作」だの「totoGOALへの影響」だのといったものが
小林監督にあるとは到底思えない。
マスコミには笛吹けど踊らずという言葉の意味を調べてもらえばそれでいいのだが。
ま、調べる方法もなかろうが。
問題は、ロドリゴのプレイである。
Jリーグは、いわゆるプロリーグである。
プロフェッショナルの仕事場である筈である。
わしは「プロなんだから勝たなければならない」
「プロは勝ってなんぼ」という言い方を否定する。
「勝たなければならない」という言葉はむしろアマチュアにこそ適合する。
多少の皮肉も込めて、だが。
わしの定義で言えば、プロフェッショナルは勝敗という以上に、
プレイそのものの魅力を観衆に伝えなければならない。
これはスポーツ以外の仕事全てにも通じることであるが。
言い換えれば、美しくなければプロとは言えないのだ。
翻って、ロドリゴのプレイが美しいものか否か。
考えるまでも無かろう。
マリーシア(ずる賢さ)という言葉が飛び交うフットボールの世界ではあるが、
あのプレイはただの「ダーティ」なものに過ぎない。
マリーシアとは全くの別物である。
相手のフェアプレイ・好意を踏みにじるばかりか、
負傷した味方の選手をも踏みにじる行為である。
この得点を喜ぶ人など、最早良心を持った人間と呼ぶべくもない。
ほなキカイダー01か?
機構側は小林監督に対しては不問とし、
ロドリゴにのみ指導するという立場をとったが、これで正解である。
こんな視点が全く欠落したマスコミがプロとは呼べないのは、
もう言うまでも無いなあ・・・・・
2003.3.12
結構お気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、
このサイトではアクセス解析をやっております。
無料サービスなもんでリンク元とドメインと使用機種、ブラウザが判るぐらいで
アクセス者を特定などできるものではないので気にしないでいただきたいのですが。
で、一日一回ぐらいチェックするんですが、 結構これが笑えるんです。
先程「リンク元」と書きましたが、
検索エンジンを使った場合、
どういう言葉で検索をかけて ここに辿り着いたかが判るんです。
というわけでこれまで目についた検索をちょっとご披露。
(ネチケット違反かもしらんがその人達は 二度と来とらんという確信の下ででももしいらっしゃればご勘弁)
Egoist
検索ページから飛んできたほとんどがこれね。
ブランドもあるのでまあこれで探してる人も多いのかな、
等と思いつつ検索ページを見てみたら
エロサイトが結構あったりもして(爆)
淫靡&言葉
言霊で引っかかったんでしょうが・・・・
何もこんな言葉でエロサイト探さなくても・・・・(^^;
北朝鮮
え〜〜〜っっっとぉ・・・・・・・・・・・(滝汗)
これはちょっとヒキましたな。
御丁寧にこれに「拉致」とか「戦争」とかを合わせて
検索しておられる方もいらっしゃるようで・・・・(苦笑)
まさか工作員じゃないよなあ(爆)
紅萬子
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ま、ブックマーク(お気に入りとは言わない)に入れてらっしゃる方か、
友人達のサイト、BBSからって人が大半なんですけどね。
中にはこんな奇特な人もいらっしゃるという事で。
2003.3.14
遠い砂漠での戦争。
追従するしかない、戦争。
民族に染みついた思想から一歩も踏み出せないまま。
寄らば大樹の陰。
独立国とは名目上だけに過ぎず、 所詮は属国に過ぎない事実。
何もかも中途半端なまま、結局金と安全な地域での似非軍事活動だけに終わるのだろう。
かといって、中途半端以上のことをどうやれというのか。
戦争反対と唱えるのは簡単だ。
わし自身、戦争には反対だし茂み小僧を初めとした国と
そのかつての宗主国には憤りを憶える。
それ以上に、かつては被害者だったこの国が
素知らぬ顔で加害者に変わることに吐き気すら憶える。
同じように、否、それ以上に市街地や民衆を焼夷弾や原爆によって焼き尽くされたこの国が。
しかしそれでも、この国の安全を守るためには
米英に追従せざるを得ないのが現実である。
少なくとも現在の憲法、法律では日本の安全は保障されない。
更には情報機関もなく、タイトロープを平然と渡りうる外交もまた、ないのだから。
有事の際、どころか、予防するものすら零に等しいのだから。
わしは以前、9.11テロに関する文章で積極的に支援すべきとの文章を書いた。
日本の独立のために、である。
興味がある方は参照されたい。
こうなることを予見していたなどと言うつもりはないが、
最後の文章をここでまた繰り返さなければならないようだ。
わしは問いたい。
戦争に反対する人々に。
同盟関係を無視して、万が一の時にはどう対応するのか。
我が身、我が家族、我が郷里が焼かれようとも不戦を守るのか。
戦争に賛同する人々に。
昨日の我が身を忘れたのか。
それとも既に水に流した過去なのか。
被害者が加害者に転化している事実をすんなりと飲み込めるのか。
両者ともに。
無責任に過ぎないことを自覚しているのか。
わしは軍備と情報網を張り巡らせる以外に
この国の安全を護り、無責任から脱する方法はないと考えている。
汚濁に肩まで浸かって独立する以外には。
既にわしらの手は、イラクの民の血で汚れているのだ。
2003.3.26
今回は一応保存しますが、ほとんど散文雑文です。
前回の雑文で「いいアーティスト」云々零しましたが、
「いいドラマ」もそうなんですよね。
ま、本でも映画でも全部わしにとってはそうなんでしょうが。
またもやケーブルTVネタになってしまう事を前提にしますが、
「祭ばやしが聞こえる」っていうドラマ、今放送中なんで
毎日午前0時からチャンネルを合わせてます。
足の細いショーケンが競輪選手っていう説得力はともかくとして(笑)、
哀しみを背負った人々にシンパシィを覚える今日この頃、なんです。
端から見れば極小さな事に喜びを顕わにし、
それは重い哀しみを背負っているらこそ感じうる喜びであるというパラドックス。
時代、といってしまえばそれまでなのかもしれませんが、
そんな描写ができ、それを目の当たりにすることを
On timeでできた、ということに羨望すら覚えます。
それはともかくいしだあゆみっていい女じゃなあ・・・・
生きる、ということは平和という言葉と同様に
裏側に汚泥を抱え持ったこと、なのだと思います。
わしのような仕事をしていればそれを目の当たりにせざるを得ません。
わしやわしの家族が飯を喰らうためには
苦痛を抱えた人々の存在が不可欠なのです。
そして尚且つ、その人なりの苦痛を一つ一つ理解してゆくこともできないのが現実、なのです。
ちょっとひつこいかな、この考え方
含みはあれど人から敬称で呼ばれる事が普通の職業です。
自戒、という言葉を忘れがちになりますので、
一日に一度くらいはその念を感じつつやっていきたいものです。
少ないかなあ・・・・
詰まるところ、人間が生きることはいろんな哀しみを背負って行く事でしかない、
そんなペシミスティックな考え方も一面としてあるんですよね。
ただ、哀しみ=冷たさでもないと思うんですよ。
むしろ、哀しみこそ温かいものではないか、と。
言い方を換えれば、哀しみを感じる事こそ自分に体温がある証明なのではないか、と。
例えば、「死」という哀しみ。
わしの場合、祖父の死に最も哀しみを覚えました。
祖父自身に一番近いのはわしだ、と公言してくれており、
わし自身も当然甘えきっていた、祖父の死に。
でも、死に顔を最初に見た時以外、わしの目から涙は出てきませんでした。
火葬にする直前ですら。
「また、ね」
そんな言葉を送りました。
ララァでもあるまいに
事実としては必然会えないんですが、
あまりそんな気もしなかったんです。
墓に参ることも会うことであろうし、
某所で言ったように、後ろにいるような気もしてますし。
まあ清廉潔白だとは言えない人格のわしが言うのも、ですけどね(^^;
臨在感、と言うものなんでしょうか。
これに囚われすぎるのが日本人の悪い癖でもあるんですが、
わしは一面、良い処も多大にあると思います。
わしをかろうじて「人」という範疇に入れてくれるものがあるとすれば
自分自身で背負い込んだものの他には
「じいちゃんらぁが見とってじゃわい」という感覚、
すなわち臨在感以外には無いと言ってもいいでしょう。
おそらくこんな感覚は
「じいちゃんは死んでしもうてもう会えんけえ哀しい」
↓
哀しさを埋め合わせたい
↓
じいちゃんが在ることにすればいい
↓
臨在感を認めじいちゃんが傍に在ると想う
↓
死んでないことになるから哀しくない
こんな思考回路で成り立つものなんでしょうが。
しかしながら自分というダムが哀しさという穴から
崩壊してしまわないようにするためには必要不可欠な考え方でもあります。
それほどに人間とは図々しくもあり、
またそれによって強くもなれるという適応能力を有する存在でもあるのです。
わしは一応科学者の端くれですので(笑)、
物質や物体としての霊魂を認めることはできません。
しかし、「在るか?」と問われれば「在る」以外に答えはありません。
「どこに?」と問われれば、答えはもうお解りいただけますよね。
そう、「わし自身の中に」です。
2003.4.19
三十三の誕生日を実家、そして母の実家で迎えながら。
実家の台所。
まだ新しくなったばかりだった。
妹を身籠もった母への問いかけ。
そのお腹の中にはなにがあるん、と。
赤ちゃんがいるという母に、じゃあ出して見せてくれと言った。
そこは昔、土間だった。
その頃台所だった部屋。
微かな記憶。
今では、床に無数の傷。
そこから記憶は、母の実家での生活になる。
椿、柊、蜜柑、無花果、サボテン、柿。
熱い五右衛門風呂。
その横にいた牛。
風呂の度に、怯えた。
伯父に採ってもらった蝉。
一週間しか生きられない事を教えられ、 夕方には全部、放した。
縁側から四方に飛び散っていった蝉。
アブラゼミだったか、ミンミンゼミだったか。
ニイニイゼミもいたかもしれない。
妹を連れた両親。
駆け寄った石垣の下の坂道。
初めて見た、妹。
その顔は記憶にない。
そこにいた筈の妹より既に大きくなった我が子。
石垣にはサボテンの花。
当時そこにサボテンがあったかどうかは記憶にない。
サボテンの花に全く興味を示さない我が子。
独り笑い、坂道を上る。
わしは三歳前後、母の実家で過ごした。
その母の実家には、祖母、伯父、伯母が暮らす。
祖父はもういない。
祖父の写真をおおじいちゃん、といいながら我が子に見せる。
じ、と見つめる。
何かをそこに感じたのだろうか。
それとも、見覚えがあったのか。
大きくなって、バック転を練習した、仏間。
牛がいたところは倉庫になり、車庫になり、畳表の機械が置かれ。
裏庭の溜め池は風呂に変わり、 汲み取りは水洗になり、
いくつもあった牛糞の斜面は
葡萄畑になり、濃い赤の薔薇が咲き、野草が我が物顔でのさばる。
柿の木しかなかった斜面にはブルーベリーが、杏が植わる。
何時枯れるか等と言われる庭の柿の木は、緑の葉を大きく揺らす。
雉が蜜柑の木の下で餌を探す。
昔はなかった木、花。
昔よりも大きくなった木、人々。
昔より小さくなった人々。
昔のままの、人々。
そして新たに風景に入り込んだ、我が子。
この風景を、人々を、我が子は、どう記憶に留めるのか。
2003.6.21
ちら、と観たニュース番組でやってたけど。
まあはっきりいってどうでもいい。
国粋的な言い方をすれば、歴史がコカコーラな浅い国にしかなかろぉが、
であるがまあそこまで言うこともあるまい。←言うとるがな
しかしまあ考えてみれば、
独立した(=国を造った)という意識のある国と、
気がつけば独立していたという無意識な国との間には
絶望的な差異が存在することは間違いない。
無意識に加えて無自覚でもあるのだから始末に負えないのでもあるが。
あっちはあっちで意識しすぎて始末に負えないって話もありますが。
いずれにしろ、あっちはともかくこっちの国の人は
もう少し歴史とか民族的思想とか、そんなものに興味を持つべきでしょうね。
で、興味を持ったところで面白いと思わせる書き手が
小説家や漫画家じゃあねえ・・・・・
誰か日本書紀や古事記、面白く解りやすい文章で書いてくれんもんかいな。
最近売れてる、とか言わないように(怒)
2003.7.4
ちと人権とやらについて一考。
元来キリスト教から出た考え方、
〜絶対神たる造物主が土塊から創り賜うたのが人間であるのだから、
あんたも土塊わしも土塊、同じ土塊なら平等じゃわいな〜
が、その基盤となっている。
対してこの日本には造物主らしきものはあるが絶対神はない。
神話に登場する神々は全て不完全な神である。
だからこそ米粒一つにも神が宿るという考え方も生まれてくるのだが。
そして神話の世界と現在は連続的である。
神々の直系の子孫として蘇我氏や大伴氏が明記されているくらいなのだ。
それ以外の人々もやはり神の系譜に連なるという考え方が基盤としてある。
日本に民主主義を採り入れる際、キリスト教にあるような基盤の欠如を
埋め合わせるために、キリスト教でいう造物主の代わりに天皇を絶対化したことは
有効ではあったが恣意的であるが故歪みを生み、
歪みから生まれた戦争においての結果は言うまでもあるまい。
そして戦後、歴史という財産の無い国が
歴史という財産を水に流す国に民主主義を与え賜うた。
人間は土塊のなれの果てでしかもその流民化したものが
人間は神の子孫というものに、平等、権利、を。
絶対という考え方があるものが相対という考え方を持つものに。
歪み、どころではない。
出自が土塊なら、権利の表にある契約、義務を果たす事は自覚できよう。
しかしこちらは出自が神、なのである。
土塊が持たせていただいたものである筈の権利が、
こちらでは神が元来有するものにすり替わっているのだ。
蛇足だが、ここにおいて、
面白いというか皮肉というか歴史に学ばないというか、
明治と同じように恣意的に人権を論う人々により、
人権そのものが絶対化されつつある。
これは明治より劣るやり方、考え方なのではなかろうか。
閑話休題。
言っておくがわしは神の子孫などだとこれっぽっちも考えてないし、
おそらく人権を声高に訴える希人も同じであろう。
しかし、民族的思想というものは明文化、顕在化されることなく
脈々と息づくことに疑いはない。
それを顕在化させる事無く、この国に「人権」という考え方が
根付くことなどあるまい。
民族的思想の上に成り立つ日本人独自の人権観を創造する以外に。
そうでなければ、昨今の事件に類するもの、
人権を盾にする卑劣な犯罪は更に増悪、増加するだろう。
2003.7.13
夏休みも近いしBBSでも話題になったのでちと。
ご存じの通り田舎育ちなもので、
夏休みと来ればカブトムシクワガタを採りまくったもんです。
で、よく本とかに「前の日に砂糖水を木に塗って翌日云々」だのと書いてありますが、
そんなしちめんどくさいことをせんでも採れるんです。
極簡単に。
もちろんブナやクヌギの木がある山、
ぶっちゃけて言えば秋にはドングリが転がる山、
というのが前提になりますが。
そういう山で、人里の近いところであれば
電灯の類はそこかしこにあるでしょう。
ここが最高のポイントです。
こういうポイントに夜も覚めやらぬ時間帯に行けば、
その灯りに様々な虫が集っていることでしょう。
電灯の周りに網がついているタイプなら尚よろしい。
網にしがみつく虫たちを容易に確認できます。
ここで電灯を揺らしてやればボトボトと虫たちが落っこちてきます。
カブトムシクワガタカミキリコガネムシ・・・・
ま、コガネムシの類は素早いんで落ちる前に飛んで行ってしまいますが
はっきりいってこいつらはどうでもいいので放っておく(笑)
電灯を揺らし過ぎると壊れたりもしますが(実話爆)、
これが一番簡単な採り方と言えるでしょう。
もちろんこういう場所では足下にも気を配りましょう。
のこたら這いずるカブトムシやクワガタにお目にかかるのも
そう珍しくはありません。
明け方に採りに行けないなどという軟弱者にも打ってつけの場所があります。
ゴルフの打ちっ放しです。
こういう場所の照明はとんでもなく明るく、
また大きさも巨大なため虫たちは群がるように飛んできます。
意外と虫たちの活動時間は早いので、
打ちっ放しの営業時間でも結構集まってきます。
照明の足下半径50メートルの地面を眺めてみれば、
いる場所であればそこここに黒い影を見つけることでしょう。
もちろん黒い影と言っても、平面的なヤツではなく、
立体的なものか、平面的でも立派な鍬形を構えたものが。
どうしても昼間しか動けない等という不埒な輩にもこういうポイントは大事です。
カブトムシたちは昼間は寝ます。
薄暗い土の中で。
木々に埋もれた森の中で眠るポイントを探すのは至難の業ですが、
灯りの周りは簡単です。
ちょっと日陰になりそうな所を探し、
その土をほんの数センチ、場合によっては数ミリほじくり返してみれば
固い背中が現れることでしょう。
ものぐさなヤツは陰によりそうだけで土の中に潜ってもいないこともあります。
以上をまとめてみると、
探す場所は照明とその付近で、時間帯は未明がベスト。次いで夜。
昼までも照明付近の薄暗い場所を探せば結構いる。
ということになりましょうか。
子供の頃は山が近くにあり、その山の中腹でラジオ体操なんぞをやってたもので、
毎朝五時半起きでその山の電灯という電灯を揺らして歩いたもんです。
本気で採りに行くときは三時半起きとかもしてましたね。
余談ついでに、自分自身の経験と、
それを踏まえて未明を勧める理由について。
確か四年生ぐらいの時だったんですけど。
いつものようにわしはポイントポイントで探してたんです。
自らのステイタスを上げてくれる虫たちを。
いつものコースで行くと、最後から二番目のポイントでの話です。
そこには赤黒く光る堂々とした体躯のノコギリクワガタが鎮座ましましていました。
歓びの雄叫びとともにわしはクワガタに手を伸ばし、拾い上げました。
その時の感触、というか重みはいまだに忘れられません。
その体躯からは想像できないほどの軽さを。
思わず偽物かとさえ思った瞬間の狼狽を。
そして確かに足をうごめかし、生きている筈のそのクワガタをわしはひっくり返しました。
その腹部は、無惨にも食いちぎられていました。
哀れにも残り少ない命となったノコギリクワガタを、わしはそっと草陰に置きました。
カラスの仕業、でした。
奴らは明るくならなければ行動できません。
そして眠りにつくのが遅れた虫たちを餌食にするのです。
それからわしは、カラスが活動を始める前に行動を起こすようになりました。
もちろん毎朝とは行かないので天気のいい日を狙って。
こういう事で、命とかなんとか、そんなものを体感し始めたのかな、このわしは。
2003.7.24
ちょうど10年前、わしは大学(学部)のサッカー部のキャプテンであり、
大学に入って以来公式戦勝ち星無しという状態から脱却すべく、
寝ても覚めてもサッカーのことしか考えていなかった。
そんな時に購入したゴールキーパーシャツ。
蛍光の黄色地に胸から肩にかけて牛みたいな模様のついた。
なぜこんな柄にしたのか自分でも不思議だが(笑)
色は従来黄色だったからそうしただけのことだったと思う。
まあ目立つだろうとでも考えたのだろう。
このシャツを着て出た公式戦。
生涯でもっとも記憶に残る試合だった。
入学当初から何かと面倒を見てくれ、
だからこそ共に勝利を味わいたいと曰い
無理矢理に近い形で出場してもらった先輩のゴールやアシストがあり、
生意気ながらチームを盛り立ててくれた後輩達のゴールがあり、
今も指に感触の残るわしのセービングがあり、
めでたくも公式戦初勝利となった試合。
その翌年の大会でチームはベスト4に進む躍進であり、
ベスト4を決めた試合でのPKストップは
これまたわしの左手に今でも感触を残している。
そんな記憶に残る試合で、わしはこのシャツを着ていた。
こう想えばゲンのいいシャツである。
それに加え大学の卒業に伴い使用頻度が激減したこともあり、
今まで使い続けてきた。
もちろんこの間、他の色のシャツを購入したりもし、
これだけを着続けてきたわけではないが。
そして、数ヶ月前。
久しぶりに着る機会があった。
今更ながらに気づいた。
番号ははがれかけ、所々に穴も開き、
肘のクッションも既に機能を果たしていない状態に。
新しいシャツを買うことにした。
色は黄色にした。
このシャツを引退させるために。
おそらく、捨てることなどないだろう。
わしの血も汗も、涙をも吸ってきたシャツである。
運のいいシャツである。
最期の時もまた、勝利のホイッスルを聞いているのだ。
長い間、ありがとう。
そして、ごくろうさま。
2003.8.31
う〜〜む、久しぶりに真面目に考えながら書くEssayである(^^;
最近の流行の様に使われる言葉で、わしが嫌う言葉がある。
人権「カリスマ」、である。
大学の一般教養で得た数少ない知識の中で、
〜もっともまともに聞いていた講義自体がないのだから、
これはわし自身に帰する言い方である〜
「カリスマ」に関する説明は「ほぉ」と思わざるを得なかった。
昨今のマスゴミに於いて「カリスマ」の四文字を目にしない日は無いと言ってもよかろう。
しかしそういった記事記述発言において、
「カリスマ」本来が持つ言葉の意味をちゃんと考えたことがあるのか否か。
これは皆無であると断言できる。
わしが聴いたところを掻い摘んで端的に表現すれば、
カリスマとは ”第三者には理解できず、また一種異様な信奉を集める(被信奉者の)力”である。
確認のため、カリスマという言葉の源を辿ってみる。
この言葉はマックス・ウェーバーが「宗教社会学」にて述べたものであり、
これに依るところを纏めてみれば以下のようになる。
”カリスマとはある人物に宿ったと見為される
非日常的な資質、 超人間的、超自然的な能力のことである。
またこれら能力は自然科学的な意味での実在は問題ではなく、
これら能力を認める帰依者が存在すればよい”
元は宗教を社会学的に捉えた際の聖人なり指導者なりの能力をこう表したものであるが、
要するに論理も理屈もへったくれもなく「すげえ」って誰かが言うだけで
「凄い奴」になるのがカリスマ、なのである。
これはある意味侮蔑語、ではあるまいか。
裏を返せば「実力が在るか無いのか判らないが凄いと言う人がいる」のが、
カリスマなのである以上、カリスマと呼ぶことそれ自体が
「お前の実力など知ったこっちゃない」と言うことに他ならないのだから。
これは真に実力、能力を身につけた人に対する侮蔑以外の何ものでもあるまい。
このような侮蔑語が乱舞するのが現代の言語文化、なのである。
侮蔑語の乱舞をわしが嫌悪するのは当然である。
余談をちょいと。
以前、「カリスマ美容師」とやらでマスゴミが騒いでいた。
皮肉にも、彼は正に「カリスマ」だった。
美容師免許がないのに美容師として働いていたというのだから。
「知識や実力がどれほどあるのか認定されていないけれどもとにかく凄いらしい」美容師だったのだから。
初期の「ゴーマニズム宣言」に於いて小林よしのり氏が
「カリスマを目指す」発言をしたことがある。
この発言に振りを入れた浅羽氏、また小林氏の双方に
「カリスマ」に対する上記のような認識があったかどうかはわしの知るところではないが、
(少なくとも浅羽氏にはあったと思われるが・・・・)
この発言がどれほど的を得た追認であったことか。
小林氏は「漫画家の立場で思想を立ち上げる」ために
「ゴーマニズム宣言」を世に出したのであり、
それは知識や論法に頼らず、即ち知識人としての実力も無しに
思想なるものを創成しようという事に他ならない。
ただし、現在に至るまでに、カリスマを脱却してしまったように感じてしまうのだが・・・
2003.9.27