アニャマと呼ばれた男      
「名は体をあらわす」という言葉がある。だけど、実際には「名は体をあらわしていない」人もいっぱいいる。細い体をしている太君とか、泣き虫の剛士君とか、雑草のように踏まれ強い百合子さんとか、嘘をつくことに妙な自信をもっている忠志君とか。「名は体をあらわす」という言葉が生き残っているのは、きっと名前と見た目が一致している方が、印象が強く残るからだと思う。名は体をあらわしている人も、いない人も、名前がその人を呼んだり、思い出したりするときの記号の役割を果たしていることにかわりはない。年金や税制ではすでに国民総背番号制が進められているらしい。そうなると、「番号は体をあらわす」ということになるのだろうか。たとえば、88946だと「はやくしろ」だから短気で。4949だと泣き虫で。931931だと不潔で。1192だと、受験のときに覚えた「いい国つくろう鎌倉幕府」だから、源頼朝なんて呼ばれたりして。こう考えると、番号制もなかなか面白い。ただし番号は管理する側にとって都合がいいものだ。囚人は番号で呼ばれるし、アウシュビッツのユダヤ人も番号をつけられていた。管理する側が、人格を剥奪し、人間の尊厳を傷つける手段として番号を使っていることを忘れてはならない。番号が悪いわけではなく、番号を使う側の人間の意識が醜いわけだけど。宇宙のどこか別の世界では、両親が生まれたばかりの赤ん坊に必死で考えた番号を名づけているかもしれない。その世界では数字のアルゴリズムが言葉の代わりをしていて、数学的思考で人を愛したりしているかもしれない。

名前以外にも、その人をあらわす記号がある。変種の記号だけど。名付け親は赤の他人で、小学校や中学校の頃、理不尽につけられるケースが多い。あだ名は身体的な特長や行動、失敗からつけられることが一般的だから。あだ名こそ体をあらわしている。中学校のときに、頭のとても大きな友だちがいた。彼はある日、突然、何の前触れもなく「あたま」と呼ばれ始めた。そう呼びはじめたのは、クラスにいたあだ名つけ名人だ。といってもほとんど見た目でつけているだけなんだけど。「あたま」は彼の頭が大きかったからだ。大ぶりのスイカを思い浮かべてくれるといい。彼の頭は本当にまん丸だった。学生帽が入らなくていつも頭にちょこんとのせていた。スイカに目鼻口耳をつけて学生帽をのせたらもうそっくりだ。スイカという比喩を使わず、即物的なものに注目した点にセンスを感じる。「スイカ」というあだ名では、なんだか可愛らしすぎる。グロテスクなネーミングは、インパクトもスピード感もちがう。あだ名つけ名人は別に「あたま」君の友だちではなかったから、そんな本人がいちばん嫌がる部分を160キロの直球で投げ込むような荒業を使ったのだろう。大半のクラスメイトの顔はもう思い出せないけど、僕はそのあだ名のおかげでいまでも彼の顔をはっきりと思い出すことができる。彼はもちろんあだ名を気に入らなかった。でも他人の口をいちいち手でふさいでまわるわけにもいかない。しかし彼の悲劇にはまだ続きがある。それから数週間後に彼は「アニャマ」になった。あだ名つけ名人があだ名を進化させたわけだが。その理由は当の名人にもわからなかった。ただ「この方が呼びやすい」と言っていた。凡人にはわからない。でも「アニャマ」と呼ばれ始めるともうこれ以外ないという感じがしてくる。そこが名人の名人たるゆえんだ。身体的な特長をあだ名にされるだけでなく、なおかつ語尾変化されるなんて。なんとも当人には気の毒な話だ。しかし他人の心配をしている場合ではなかった。
僕は転校生としてこのあだ名つけ名人のいるクラスの一員になった。「あたま」君がクラスデビューする数週間前くらいのことだ。しばらくは苗字で呼ばれていたんだけど、一ヶ月ほど立ったある日突然、何の前触れもなく「ヒナンミン」と呼ばれはじめた。頭が天然パーマで、見た目が、教科書にのっていた避難民に似ているということだった。しかも、「ヒナンミン」は「ヒナン」に短縮され、「ヘニャン」に進化していった。転校してまだクラスになじめない時期だったから、少しうれしくはあったけど。踏んづけられた猫みたいな新しい名前には当然納得できないし、気に入るはずもない。この新しい名前はわずか一年半の短命だった。高校に入ると、僕をあだ名で呼ぶ人間はいなくなった。僕があだ名で呼ばれたのは、生まれてから現在まで、この中学の一時期だけのことだ。
ところで大人になっても、まだあだ名で呼ばれている人もいる。ある居酒屋では、「豚殺し」とか、「鼻毛」とか、なんとも凄まじいあだ名が飛び交っていた。「鼻毛」はその場にいたので、なるほど、あだ名は体をあらわしている。ということは、「豚殺し」って…。気をつけないと、どこでどんなあだ名で呼ばれているか、わかったもんじゃない。
     
       
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