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本のある風景
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その日は夏の入口で、室内にいて蒸し焼きになるにはもってこいの日だった。部屋の隅にある扇風機は不気味な音をたて飛び立つ準備をはじめ、喘息気味のクーラーは嫌な匂いを吐き出しながら喘いでいる。やれやれ、今年の夏は暑くなりそうだ。そんなことをボンヤリ考えながら、デスクの隅に置いてある本に手を伸ばした。ポール・オースターの「リヴァイアサン」。仕事が忙しくてずっと読むのを我慢してきた。買ったばかりの本にはじめて触れるときはいつでも胸の高鳴りを覚える。性的な興奮といってもいい。本のカバーは紙の肉体を包む衣服だ。その手触りは女性の衣服に触れた記憶を思い起こさせる。ページをめくると、印刷の匂いが立ちのぼり、鼻腔をくすぐる。仕事が集中したせいで、活字禁欲期間が長く続いていた。もう息が詰まりそうだ。あせる気持ちをおしとどめ一度本を閉じる。ぎりぎりまで我慢するのが僕の流儀だ。我慢するほど読む瞬間の喜びは大きくなる。買って初めて本を開くときはなおさらだ。本はいつも上から3冊目を選ぶことにしている。2冊目では誰かが触っているかもしれないし、4冊目ではどうあっても人の手に触れていないものが欲しいという、その心根が卑しくて嫌だからだ。本の横腹を軽くなぜると、心なしか本が熱く感じられる。さあ読むぞ。一気に、ぐいと本を開いたそのとき、背中に刺すような視線を感じた。
ブック・レストラン 本日のコースをご案内申し上げます。 <前菜> 本日の前菜は二品あります。 まず一皿目はレイモンド・カーバーの「夜になると鮭は」です。 コースのイントロダクションにふさわしく、余計な味をつけず、素材そのものを生かしたシンプルなお料理です。 二品目はアバンギャルドな風味が古くて新しい、 ロートレアモンの「マルドロールの歌」です。味の協奏曲は叙情的な序章で幕を開けます。 <スープ> スープは、ヨーロッパの味覚にアジアンテイストを混在一体化した極上の一品、アントニオ・タブッキの「インド夜想曲」をご用意いたしました。舌の上で奏でられる抑制のきいた詩情が幻想のシネマに誘います。 <メイン> メインは三品からお好きな一品をお選びいただけます。 まず、その深みと複雑さは味わうたびに新しい発見のある、 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。 そして、不条理な苦味が忘れられず、虜になってしまう人も多いカフカの「審判」。 また、本日は特別メニューとしてノーベル文学賞受賞シェフの エリアス・カネッティ氏唯一の小説「眩暈」もご用意いたしました。 <サブメイン> メイン以外にもサブメインをお楽しみいただけます。 ハイホーの酸味をきかしたカート・ボネガットの「猫のゆりかご」、 冷たいソースと熱い肉汁が溶け合うセリーヌの「夜の果ての旅」、 時間をおかず、すぐにお召し上がりいただきたいボルヘスの「砂の本」、 いずれもグルメならずとも一度は味わっておきたいメニューです。 <ワイン> 本日、お薦めしたいワインといたしましては、南アメリカ、コロンビア産、マルケスの「百年の孤独」、 オーストリア産、パリ熟成、リルケ「マルテの手記」、 そして、中原中也「山羊の歌」の1934年初版本を つい最近、偶然にも入手することができました。 他にも豊富なワインを取り揃えております。 ご希望があれば、なんなりとお申し付けください。 <デザート> ノスタジックで爽やかな口当たりのアーウィン・ショー「夏の日の声」、 豊かな苦味とパンチ力のあるトム・ジョーンズ「拳闘士の休息」、 日本伝統の味覚に独特のスパイスが香る坂口安吾「夜長姫と耳長男」、 いろいろな味をお楽しみいただけるように短編を美しく盛り付けた、 一夜の夢のような一皿をご用意いたしました。 最後に当店自慢のハーブティ、フィッツジェラルドの「ジャズエイジの物語」で、 失ってしまった時間の甘い痛みの余韻に浸りながら、今宵のディナーの幕が降ります。 では、どうぞごゆっくりとお楽しみください。 |
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●本のある風景 |
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