旧東海道餐歩記-9-1 三島宿~吉原宿
Top Page
Back
Next
 2007.05.17(木)
 三島宿・沼津宿・原宿・吉原宿。23.4km・・・・・旧東海道餐歩旅・今次第一日目・・・40,859歩

 
山歩仲間であり、かつ旧街道餐歩仲間である村谷・清水両氏の定年も過ぎ、それぞれ多忙にはしている模様だが、2年2ヶ月ぶりに宿泊セットでの旧東海道餐歩旅を再開することとなった。2005年3月26日(土)に三島宿へ到達して以来だから、約2年2ヶ月ぶりである。

 再開第1日目の今日、三島駅南口改札口に集合したのは、滝澤・清水・村谷各氏と小生の東海道4人組である。
メンバー全員が予定より一便早い電車で到着したので、スタート予定時刻を繰り上げ、10時20分に初の2泊3日の餐歩旅へと出発した。

 小田原駅辺りでは車窓から小雨のぱらつきも見られたが、三島駅に着くころには、小雨もすっかり上がり、まずは幸先よしと一同勇躍出立する。持参した安っぽいビニール傘を杖代わりにしながら、前回の歩行終着点である「旧東海道」(県道145号線)本町交差点まで、約1km道を何なく歩き、前回見た三島宿「樋口本陣跡」とは別の、「世古本陣跡」の碑を確認してから本格スタートとなる。

 街道右手のヤオハン前を過ぎると、左に静岡県には殊の外多い「秋葉大権現」の鳥居が見える。「三石神社」を過ぎ、伊豆箱根鉄道の三島広小路駅近くの踏切を横断。駅の右手には、国指定になっている「伊豆国分寺」の本堂の塔跡があるそうだ。

 ユニー前の地点が、日本橋から109km、本日の宿泊先である吉原宿の「鯛屋旅館」が133kmなので、通算した正味25kmの長丁場となるが、暑くはなく、適度な風があるというハイキング日和を味方に、車の往来が激しい直線道路を淡々と歩む。

 10:53、境川橋の右脇には、天文24年に今川・武田・北条三家の和睦が成立した記念に、北条氏康が今川氏真に婿になった引き出物として送ったという、疎水の跡である「千貫樋」が残っているが、民家の陰で、あまり目立たない。

 三島清水郵便局前で110kmを通過すると、その先に「伏見一里塚」の表示が道の両側にある。日本橋から29番目の一里塚である。特に左手の「宝池寺」前には、盛り土された立派な塚が残っている。すぐ先の八幡交差点で、これからたびたび遭遇する国道一号線を横断する。やはり交通量が多い。ここを左折してちょっと行けば「柿田川公園」があり、霊峰富士に源を発する「湧水群」があるらしいが、寄り道になるので直進する。

 111km地点の「八幡神社」には、治承4年の源平による富士川の戦いの際に、奥州平泉から駆けつけた源義経が兄・頼朝と対面したという「対面石」が境内に残されていたので、滝澤・清水両氏が向き合って往時の兄弟対面を再現する。ここを11:20出発。

 11:25,黄瀬川を越えたあたりから、青空が出てきて、各人とも水分補給が忙しくなる。早くも夏の気配が辺りに漂ってきている。絶世の美女だったという「亀鶴姫の古跡(亀鶴観世音菩薩像)」を11:34に通過(112km地点)し、ゆっくりスタートの割には快調に進んでいる感じがする。

 さらに1キロ弱進むと、右手にファミリーレストラン「ココス」があったので、地下道を潜って道を横断し、入店する。11:43だが、店内は若いOLや隣のSEIYUで買い物した主婦らで混み合っていて、リュックを担いだおじさんは浮いている感じだが、他に食堂が見当たらないので仕方が無い。ピラフやマカロニグラタンなどをセットになっているスープで平らげる。

 30分ほど休憩し、12:14に店を出て県道と一旦別れ、左の旧道に入って行くと、左手に、30番目に当たる「三枚橋一里塚跡」近くに、日本三大仇討ちの一つ、荒木又右衛門の伊賀越えに縁がある「沼津の平作」に纏わる地蔵尊があった。

 114km付近で先ほどの県道と合流し、三枚橋を越えて沼津の市街地に入ったあたりから、俄かに空がかき曇ってきて大粒の雨が降り出した。一同、傘を開き、橋の袂の工事現場の横の覆いがある場所で暫しの雨宿りとなるが、幸いにも10分足らずで雨が上ったので、再び歩き出す。

 狩野川沿いに斜めになった道筋が、「沼津城跡」の一部が残されている旧川廓町で、洒落た散歩道になっている。ただ、残された史跡は、東急ホテル玄関前の、三枚橋城石垣の一部だけのようだ。広い沼津駅前通に出ると、市の中心部である。

 信号が115km地点で、ここからはどこまでも直線の県道163号線になる。116km地点を過ぎ、旧国一通りを斜めに横断すると程なく、13:14で、「従是東沼津藩領傍示石」という「沼津藩領境を表す傍示石」があり、ここで11分間休憩。一同調子が出てきたようだ。

 まだまだ一直線の163号線を、118km、119kmと進む。地酒「田子の富士」を造っている渡辺酒造の看板は左手、JR東海道線・片浜駅が右手だ。

 14:05、沼津大塚郵便局が丁度120km地点だ。そういえばきりがよい場所は、大抵郵便局か社寺・学校になっている。線路の右手には「愛鷹山」が大きく見える。14:15から15分間、右手にあったコンビニでトイレ借用がてら休憩し、冷たいドリンクで喉を潤す。

 14:34、121km地点の先には、五百年に一度の名僧という「白隠禅師誕生地」で、産湯を使ったという井戸が興国城通りとの交差点手前左にある。

 原宿に入る。富士山の伏流水が豊富なため、名水が売りものの酒屋と豆腐屋が続く。左手にはJR原駅。

 新田大橋で沼川第二放水路を越え、「一本松一里塚跡」が123km地点、いよいよ残りは10kmである。さらに一直線の道を淡々と進み、125km地点の先の左手、「八幡社」で7分間休憩。その先からいよいよ富士市へと入る。

 煙を吐き出す大きな煙突が見えてきた。東田子の浦駅(126km)を 15:35に過ぎ、127km地点で、天保の大飢饉や水害対策で作られた名残の「昭和放水路」を15:56に越える。水害と飢饉に悩まされた歴史の産物があちこちに残されていて、当時の農民たちの苦労が偲ばれる。

 県道380号線とは128キロ地点で別れて、更に進む。毘沙門天を祀る「妙法寺」で16:25から5分休憩し、旧大昭和製紙の工場を横目に見て吉原駅前が130km地点、残り7kmだ。地元の人は気にならないだろうが、旅行者には工場からの匂いが鼻につく。

 「依田橋村一里塚」(131km)の先が、東海道の上りで2箇所しかない“左富士”の名勝だ。「左富士神社」がある。残念ながら曇り空のため富士山の姿が無いので、代わりにそばの酒屋でカップ酒「左富士」を晩酌用にめいめい購入した。以前は、“左富士”がよく見えた街道筋には、安藤広重の浮世絵が銅板で掲示されていた。

 「平家越橋」(132km)は、治承4年(1180年)、富士川の戦いで平家の大軍が水鳥の羽音に驚き敗走した場所で碑が残っているが、今は何の変哲も無い河原だ。

 家並みが立て込んできて吉原の市街地に入ってきた。岳南鉄道・吉原本町駅横の踏み切りを越え、程なく本日の宿舎 「旅籠鯛屋 與三郎」にゴールイン。時刻は午後5時07分、三島宿本陣跡からの旅程は概ね6時間半の旅だった。

 東海道の中では、近江八幡の「薬屋」とならび、江戸時代から当時の場所で旅館として営業を続けており、創業は天和2年(1682)である。山岡鉄舟や清水次郎長の定宿で、鉄舟自筆の札が残っていた。一泊二食付で5,500円と割安で、四国遍路当時に泊まった民宿を思い出した次第。一風呂浴びて食堂で飲んだビールはまさに甘露そのもの。ボリュームたっぷりの夕食をつまみに、地酒を追加し、部屋でカップ酒・「左富士」を味わい、明日の健闘を誓い合って就寝した。