旧東海道餐歩記−8
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2005.03.26(土) 元箱根〜箱根宿〜三島宿
旧東海道 きょうも歩き行く四人連れ 箱根の山から富士仰ぎ三島大社で祈りを捧げ 第一ステージひとまず完了

 小田急多摩センターから「多摩急行」に乗るつもりが、久しぶりの寒さで待ちかね、つい一便早い普通電車に乗り込む。当然、新百合ヶ丘駅に早く着いたので、これまた予定の箱根湯本行き急行便を待つか、先発の小田原行き急行かの選択を迫られ、小田原乗換を覚悟して空席の確かな先発便に乗り込む。あと一週間で4月だというのに今朝は殊の外冷たく、多摩センターでトイレを済ませたのに小田原での乗換時にはまた駆け込む始末で、昨今稀な体験だ。

 箱根登山鉄道に乗り換えると、こちらも小田急線以上に空いている。箱根湯本駅の改札を出ると、既に常連の村谷・滝澤・清水の三氏が先着済み。もうひとりの常連田幸氏は腰痛発作で不参加と判明。

 仲間たちにちょっと待って貰い、駅の土産物店に駆け込む。先日16日に買い、お気に入りになった「まるう」の練り製品セットを2箱(自家用と進物用)買い、持参の保冷剤入り保冷バッグに収納。集合予定時刻になったので、きょうの参加者は4名ということでバス停へと向かう。きょうの歩行起点である元箱根へのバス便は、畑宿経由と国道一号経由の両便があるが、一年前みんなで歩いた畑宿経由が部分的ではあっても懐かしかろうとそちらを勧め、@番乗り場へ行く。9:45発の便はもう先客がかなり乗車済みで発車待機中。何とか車両後部座席に全員着席でき、定刻発車。

 お馴染みの三枚橋から歩道のない旧道に入ると、大勢の中高年グループがザックを背負って旧東海道歩きをしており、先日(16日)の一人歩きを想い出す。仲間たちとこの東坂を登ったのはちょうど一年前だのに、皆実に良く覚えていて、ここから遊歩道に入ったとか、ここで車道に合流したんだった等と話しており、記憶の正確さに感心する。

 途中から妙齢の女性が両親と乗り込んで来る。その美女、わが横に座り、その父親が通路の反対側の清水氏横に座る。実はどちらがどちらに座るか仲間一同注目していたようだが、後刻の話では、わがうぬぼれに反しての「安全」選択説も飛び出し大笑い。 “こいつぁ春から縁起がいいわい”と喜びつつ進んだバスは、定刻よりちょっと早く元箱根バス停に到着。件の親子3人ずれも同じく下車。

 手許の高度計が735mを表示している。時に10:15だ。芦ノ湖側からの寒風が全身を覆う。花粉対策用マスクをつけ、先ずは「賽の河原」に行って、シャッターを切る。ここは江戸時代、多くの旅人の信仰対象となった石仏・石塔群のうち、その後の開発の波に生き残った一部分が集められた由である。芦ノ湖湖畔を歩くと釣り人が大勢休日を楽しんでいる。寒さ対策でか、ガスストーブや清酒の紙パック入りを持参するなど、用意周到なのに感心させられる。

 「本来の旧東海道杉並木道をを通らねば」と、日本橋から数えて24番目の「一里塚」で「杉並木道」に入ったのが10:26。何組かの若者男女のハイカーなども歩いている杉並木道をまたパチリ。10:35、車道に合流すると「恩賜箱根公園」で、そこを右折すると有名な「箱根関所跡」だ。大がかりな工事が行われていて、数年後には見違えるようになるらしい。皆既に見学済みなので有料エリアには入らず通過し、その先の「箱根駅伝往路ゴール地点の碑」横で仲間たちの写真を撮ってあげる。

 その先右手にある「箱根ホテル」は、当時の箱根宿本陣「はふや」の跡地で、当時、門前に大きな楓の木があったそうだが、明治中期の道路拡幅工事の際切り払われたらしい。更にその先100mに「関白道」道標を見付ける。この関白道は、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めの際切り開いた道だそうだ。ここを右折し「駒形神社」前を通って「芦川石仏・石塔群」でまた撮影。ここから石畳道になる。歳月の経過を思わせる色あせ苔むした敷き石も混じる登り坂を軽快に登って行く。

 実は、きょうは「箱根西坂」歩きというタイトルだが、正確には現在位置はまだ「箱根東坂」の終盤地点であり、この先の「箱根峠」が東西分岐点なのだ。登りはじめの「向坂」・「赤坂」・苔むした石畳が風情ある「釜石坂」・両側が格好の防風の役目を果たしてくれる笹林の「風越坂」、そして最後の急階段を登り切ると先ほどの関白道の碑で別れた国道一号線に合流。ここで観光タクシーを止め、登ってくる我らを上から見ていた母娘らしき2人ずれから「大変ですね」と声を掛けられるが、この程度の登りはこのメンバーには当たり前のことだ。

 その先の鞍掛ゴルフ場入口から傾斜のきつい車道を登って行った先が、本日の最高地点846mの「箱根峠」で、11:21に到着。何と道路上の温度表示が「4度」を示している上に、強風で体感温度は当然もっと低かろうが、冷たい筈だ。お陰でトイレの回数も多い。ここから先が三島市になるようだ。市の力の入れ方が箱根町側と大分違うようで、旧東海道の道の整備保全への意気込みが窺える。国道の右側に旧東海道の標識と共にちょうど2年前の平成15年3月27日竣工の遊歩道や「箱根8里記念碑」があり、シャッターを切る。 下記した8つの「石の彫刻像」がそれだ。

   
杉本苑子・・・・・・「箱根路を我が越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ(源実朝 詠)」
   橋本聖子・・・・・・「細心大胆」
   宮城まり子・・・・・「私は彼らと共に泣きまた彼らと共に笑った 彼らは、ただ私と共にあり、私はただ彼らと共にあった。」
   橋田壽賀子・・・・「おしん 辛抱」
   黒柳徹子・・・・・・「花見る人は皆きれい」
   穐吉俊子・・・・・・「道は段々 険しく」
   向井千秋・・・・・・「夢に向かってもう一歩」
   桜井よしこ・・・・・・「花は色なり 人は心なり 勇気なり」

 時に11:25。そろそろ空腹感を覚え始めるが、まだ先は長い。峠茶屋の手前で8名の引率者のもと、5泊6日で豊橋まで歩いているという30人の小学生集団が休憩しているのに逢い驚く。いつかNHKテレビで、全国の小学生からの選抜で夏休みに旧東海道を歩き通した、汗と涙の感動的な番組を見たことを想い出す。

(注)この話、後日検証してみた。ここで一緒になったということは小学生達も今朝若干我らよりも早めに元箱根をスタートとしていたと仮定しても、豊橋(吉田宿本陣跡)までは約190kmあり、6日で割れば1日平均歩行距離は33km強となる。これは、小学生の足だけにちょっと信じかねる。我々4人組は、後日、きょうを含めて9日間かけて吉田宿に辿り着いており、その1日当たり平均歩行距離は21km強だった。わが四国遍路の時ですら40.5日で1193.5kmだったので、88ヵ所の参拝時間は入っているものの1日平均歩行距離は29.5kmだったことから考え、小学生の足だけに選抜された子達とは言え、疑問無しとしないが、それにしても「大したものだ」とは、心から思う。

 ザックから出した手袋をつけ、彼らに別れを告げ、緩やかな上り坂を行った「茨ヶ平」からまた旧道に入る。「三島まで11k」の道標。その先左手に入った所に、先ほどとは別の「井上靖箱根八里記念碑」がある。“北斗闌干”と彫ってある。、解説によれば、“北斗闌干”とは「北極星が夜空に燦々と輝くさま」をいうらしい。著名な文人が多くここを通ったらしく、彼らの名前を書いた掲示板が風雨にさらされ風化していた。

 11:44、兜石坂の「兜石跡」(標高はまだ810m)を通過。「跡」とは一体どういうことかと一同不審に思ったが、その先の「山中一里塚」先で疑問が解明した。昭和初期の国道一号線拡幅工事に際して移転された由である。「兜石」の由来も、その「形」説や、秀吉の小田原攻めの時の休息時に「秀吉が兜をその上においた」という説などいろいろあるようだ。「兜石」で標高710m。その先「念仏岩」で時刻はもう12:07。一体昼食場所として予定している「茶店竹屋」を地図で確認するが正確な所要時間が判断できない。あとせいぜい1kmぐらいかと思ったが実はまだまだあったと判ったのは後刻のことである。「念仏岩」の前に“南無阿弥陀仏・宗閑寺”と刻んだ碑があったが、旅の行き倒れを「宗閑寺」で供養した碑らしい。

 12:12、「三島ハイキングコース」として整備されている「大枯木坂」にさしかかる。その先に石畳道の左横に景色良く暖かそうな芝生の丘があったので、昼食持参者は2名だったが缶ビールとウイスキーがあるというのでレジャーシートを拡げ、バナナ・棒チョコ・濡れおかきなどを分け合いながら小休止30分(12:15〜1245)。途中、先ほど出逢った小学生集団が通りかかったので、大声でエールを送る。見渡せば十国峠や伊豆の山々、鞍掛山・富士箱根ランドなどが遠望でき、陽だまりの中で最高の休憩となった。

 12:50再出発して、今や民家の庭先となった道などを通り抜け、失われた旧街道を補完する国道一号線に出る。その先から急階段を左に下って行くと、「山中新田・願合寺地区石畳」で、この箱根西坂は石畳がよく整備されている。因みにこのルートは「新田」の地名が多く、箱根側から「山中新田」「笹原新田」「三ツ谷新田」「市ノ山新田」「塚原新田」と続いていく。このあたりがお江戸日本橋から100km地点だ。

 13:06、徳利の形が刻まれている「雲助徳利の墓」通過。標高はまだ570mある。ここで漸く石畳道が終わり車道歩きになる。左手に「茶店竹屋」。あてにしていた店だ。時に13:10。懐かしい囲炉裏があり炭火が暖かい。早速ビール2本と名物の団子を注文し、更に酒2本頼んだらつまみがサービスで出てくる。女将の血液型を訊いたらO型だというので、気っぷを誉めあげ更に酒2本を追加注文すると、今度は「サービスです。値段はさっきのと一緒(同額の意)で良いです」と言って先ほどの徳利の3本分ぐらい入りそうな大徳利で出してくる。程よく出来上がったところで鴨煮込み蕎麦(¥800)を注文し、謙遜する女将の写真を記念にと撮らせて貰ったら、勘定書は何と締めて総額6,000円。飲んで食ってまた飲んでで、1人当1,500円の格安サービスになっていてまた驚き。頼りになる誠にいい女将だった。因みにこの店の電話は、0559−85−2306。商売の一層繁盛を祈って57分間の大休止から立ち上がる。(後日談だが、同じルートを翌2006/05/09に家内と歩いた時、この店に立ち寄り、この時に撮った写真を女将に渡してあげたら、大層喜んでくれた)

 14:07、すぐ目の前にある「山中城址」に立ち寄る。秀吉の小田原攻めで落城したのを当時そのままに復元した由だが、この手の城跡としては大規模だ。本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・天守台・岱崎出丸・弾薬庫・兵糧庫・ほか、地元設定の探訪コースでは所要約2時間という大規模な山城跡だった。芝を敷いた跡地から南方眼下に太平洋が見える。元々は北条氏康が国境警備のために築いた城だったそうだが、秀吉軍7万の大軍を4千の守備兵では到底守りきれなかった訳だ。石を使わず堀や土塁など自然の地形を利用した城で、当時の遺構が今面って良く残っていた。

 14:26、「念仏岩」ゆかりの「宗閑寺」前通過。整備された新しい石畳を進み国道一号線を横切ると、右手に雪を戴いた「富士山」が見える。殆どを東側や北側から見ているが、きょうはあまり手前の山に邪魔されない角度からのビューティフルビューで大満足し、思わずシャッターを押す。再び一号線を横切り旧階段を下って「かみなり坂」や「こわめし坂」、紀伊・尾張両大納言はじめ大小名の休息所となり、幕末には家茂・慶喜両将軍の寺本陣にもなったという「松雲寺」に立ち寄り、ここからまた富士の絶景を楽しむ。明治天皇の御休息所でもあったようだ。時に15:06。当初のヤマ勘想定時刻より大分遅い。この分なら帰宅時刻も大分遅くなりそうだ。

 その後は、単調な車道歩きが殆どだったが、どんどん高度を下げ、16:05、第28番目の「錦田一里塚」を通過。16:11〜16:15小休止の後、16:40「三島大社」に到着。当然参拝する。妻と来たのは何年前だったか?などと思いをはせながら最後の目的地「三島宿本陣跡」に到着。「樋口本陣跡」という石塔だけだったが、これで漸く箱根宿・三島宿両本陣を経たことになる。後は三島駅へと急ぎ、ワンカップ酒を買い込んで熱海乗換え小田原へ。小田急で新百合ヶ丘・多摩センター、モノレール乗換えで自宅には20:10頃到着という、稀に遅い帰着になったが、土産ありということで妻にはお許し願うことにした。

 これで、旧東海道歩きは日帰り可能圏としての第一ステージを「ひとまず終了」ということにした。以後の区間は暫く時日を置き、未だ現職組の村谷・清水両氏の定年後に、1〜2泊コースで継続していくことにし、シリーズものとしては、新たに若干の山歩も伴う「秩父34観音霊場めぐり」を4月から月1回ペースでやっていくことにした。